山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

松風の音のみならず石走る‥‥

2006-08-12 20:08:36 | 文化・芸術
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-表象の森- 一茶の句鑑賞

  手に取れば歩きたくなる扇かな

文化15(1818)年、56歳の作。なにげなく手にした扇、その扇によって、思わず埋もれていた心の襞が掴みだされたというような感じがある。ふとなにかに向かって心が動いた、ふと歩きたくなったのである。そこには必然的なつながりなどなにもないが、この偶然と見える心の動きは、無意識の深いところでは、なにか確かなつながりになっているのだろうか、そんな気がしてくる句である。

  木曽山に流れ入りけり天の川

前出の句と同じ年の作。木曽の山脈、その鬱蒼としてかぐろい檜の森影に、夏の夜の天の川が流れ入っているという。その傾斜感が鮮やかだ。芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天の川」はおそらく虚構化された自然の景なのだろうが、一茶の句はそこのところがやや曖昧にあり、景の中から滲み出てくる迫力においては一歩譲らざるを得ないが、茂吉流の実相観入からいえば、一茶のほうがそれに近いのではないか。

  虫にまで尺とられけりこの柱

「おらが春」所収、文政2(1819)年の作、一茶57歳。
尺取虫は夏の季語だが、「尺をとる」には、寸法をはかられることから、言外に軽重を問われるという一面がある。虫にまで寸法を測られている柱は、自分の分身なのだろう。心秘かにおのれを省みてなにやら自嘲している風情が色濃くにじむ。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-47>
 身に近くならす扇も楢の葉の下吹く風に行方知らずも  藤原家隆

千五百番歌合、四百九十番、夏三。
邦雄曰く、秋がもうそこまできている。そよと吹く楢の下風に、扇も忘れがち。初句と結句が対立・逆転するところ、意外な技巧派家隆の本領あり。百人一首歌「風そよぐならの小川の夕暮は」などという晩年の凡作と比べると、まさに雲泥の差。この歌合では左が肖像画家藤原隆信、良経判は問題なく右の勝とした。「ならす」は「馴・鳴」の両意を兼ねる、と。


 松風の音のみならず石走る水にも秋はありけるものを  西行

山家集、夏。
邦雄曰く、山家集の夏の終りに近く、「松風如秋といふことを、北白河なる所にて、人々詠みし、また水声秋ありといふことを重ねけるに」の詞書を添えて、この歌が見える。「水にも秋は」が、まさに水際だった秀句表現に感じられて、ふと西行らしからぬ趣を呈するのは、この句題の影響による。それにしても、両句を含みつつ冴えた一首にする技巧は抜群、と。


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端ゐつつむすぶ雫のさざなみに‥‥

2006-08-12 13:56:26 | 文化・芸術
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-表象の森-  今月の本たち

 岩波文庫版の「金子光晴詩集」は清岡卓行によるアンソロジィだからたのしみ。
その清岡卓行は、去る6月3日鬼籍の人となった。1922年の生れだから83歳。
詩人だが小説もものした。中国大連に生れ、戦後までの20数年間を大陸に過ごした。
1970(S45)年に小説「アカシアの大連」で芥川賞を受賞している、やや遅咲きの作家。
清岡の晩年の代表作に「マロニエの花が言った」がある。「イマジネールな都市としての両大戦間のパリを舞台に、藤田嗣治、金子光晴、ロベール・デスノス、岡鹿之助、九鬼周造らの登場する、多中心的かつ壮大な織物と言うべきこの小説は、堀江敏幸をして「溜息が出るほど美しい」と言わしめた序章をはじめ、随所に鏤められたシュルレアリスムの詩の新訳もひとつの読みどころであり、詩と散文と批評の緊密な綜合が完成の域に達している」と。近いうちに読んでみたい。


 それぞれ分野は異なるが、「人体-失敗の進化史」、「地中海-人と町の肖像」、「貝と羊の中国人」の新書類は、新聞書評による選択。「三島由紀夫」については、吉本隆明の解釈で充分じゃないかと思っているが、別な切り口からのアプローチも知るに如かずといったところ。
「名僧たちの教え」は共著に先頃読んだ「日本仏教史」の末木文美士も名を連ね、ともに信頼できようし、44人もの名僧・高僧たちをかいつまんで語ってくれようから、総覧して頭の整理に有効だろう。
「フーコー・コレクション」は、しばらくは積ん読になるだろうが、いずれ読みたくなる時がきっとあろう。


今月の購入本
 金子光晴「金子光晴詩集」岩波文庫
 M.フーコー「フーコー・コレクション(1)」ちくま学芸文庫
 遠藤秀紀「人体-失敗の進化史」光文社新書
 樺山絋一「地中海-人と町の肖像」岩波新書
 加藤徹「貝と羊の中国人」新潮新書
 橋本治「三島由紀夫とはなにものだったのか」新潮文庫
 山折哲雄「名僧たちの教え-日本仏教の世界」朝日新聞社

図書館からの借本
 ヤーコブ・ブルクハルト「美のチチェローネ-イタリア美術案内」青土社
 中沢新一「芸術人類学」みすず書房
 葛飾北斎「初摺・北斎漫画(全)」小学館
 池上洵一「修験の道-三国伝記の世界」以文社
 高村薫「新リア王-上」新潮社
 高村薫「新リア王-下」新潮社


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-46>
 夕涼み閨へも入らぬうたた寝の夢を残して明くる東雲  藤原有家

六百番歌合、夏、夏夜。
邦雄曰く、短か夜の、その黄昏の納涼に、ふと手枕でまどろんだものの、気がつけば暁近かったという。歌合の右が家隆の「澄む月の光は霜と冴ゆれどもまだ宵ながら有明の空」で、俊成は有家の上句を難じて負にしているが、家隆の「霜と冴ゆれど」なども常識的、有家の下句の余情妖艶を称揚すべきだろう。初句が平俗に聞こえるのは痛いところだが、と。


 端ゐつつむすぶ雫のさざなみに映るともなき夕月夜かな  鴨長明

鴨長明集、夏、夏月映泉。
邦雄曰く、涙の珠に月が映る趣向は、俊成女にも先蹤があるが、掬ぶ泉の、雫によって生れる波紋に月が映り、かつ砕けるさまは、むしろ淡々として墨絵のような新しさがある。第四句が工夫を凝らしたところであろう。新古今歌人中では、反技巧派の作者の周到な修辞だ。「樹蔭納涼」題で、「水むすぶ楢の木蔭に風吹けばおぼめく秋ぞ深くなりゆく」もある、と。


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