―世間虚仮― Soulful Days-21- 壁は穿てるか‥
事故相手方Tに対する告訴状を大阪地検の担当検事に提出したのは2月10日だったから、かれこれ2ヶ月を経ようとしている昨日、これで三度目となる大阪地検へ。
十日ほど前か、わざわざM運転手がDrive Recorderのcopyを届けてくれ、あらためて事故時の記録画像を詳細に素人の眼なりに検証をしてきたわけだが、この間、Mとも直に会ってやらMailのやりとりやらを繰り返してきた結果、被害者側としてすでにTへの告訴状を出している私方から証拠資料として提出するのが検察への効力としてより有効であろう、との判断から前夜是に付すべき以下の如き書面を書き上げたうえで持参することになったのだった。
「告訴状に付し証拠資料提出の事」
大阪地方検察庁交通部 N検察官殿
平成21年4月8日 告訴人連署
先の平成21年2月10日付にて、大阪市西区境川1丁目6番29号先路上(中央通り辰巳橋南交差点)における平成20年9月9日午後8時15分頃発生した交通事故により死に至ったH.Rの遺族として、一方の事故当事者たるT.Kに対し、すでに告訴状を提出しておりますが、この度、事故当時の記録画像を入手しましたので、証拠資料として添付致したく、本書とともに之を提出申し上げます。
<提出するもの>
・M運転のタクシー車載のドライブレコーダーに残る事故当時の記録画像一式
(但し、記録媒体USBフラッシュメモリ 1個)
・別紙添付資料-1 「ファィルの見方」
・ 々 -2 「ドライブレコーダー分析表」
<提出者付記>
上記の記録画像を具に見るところ、T.K運転の車は前照灯を点けていた形跡が見られない、すなわち無灯火走行であること、明白ではないか。
さらに、T.Kは「M運転の右折車が前方にて突然停止し、咄嗟のブレーキも間に合わなかった」旨、主張していると聞き及ぶ。確かに記録画像においても衝突の直前、詳しくいえばM車は0.4~0.5秒前に急停止しているが、この制動動作に入ったのは常識的に見てその0.5秒前、すなわち衝突時点からいえば0.9~1.0秒前と考えられる。この時の状況についてMは、「何か気配としか言いようがない、そんなものを感じて咄嗟にブレーキを踏んだ」と後述しているが、然もあろうかと思われる談である。なぜなら、事故時、T.K運転の車は70km/hで走行していたと聞いており、これを事実と踏まえれば、Mが何かの気配を感じ咄嗟に制動動作に入った時、すでに無灯火走行のT車はわずか19m以内手前にまで肉薄しているのである。これでは重大な事故を避けられる筈もない。もしかりにT.Kが前方を直視しながら運転していたとあくまで主張するなら、こんな危険運転、無謀運転はないということになろうし、つまるところ彼の主張とは裏腹に、事故直前のわずかな数秒、脇見をしていたという蓋然性は非常に高いと言わざるを得ないのではないか。
ところが件のN副検事殿、書面は受領するが肝心の証拠資料たる記録画像は受け取れない、と仰る。
何故かと問えば、外付け記録媒体であるUSBなどは、ウィルス感染など危惧されるため、検察庁内規として受領できないのだ、と。それに加えて、捜査の資料としてはそのVideoに基づく静止画像が何葉かすでにあり、あえて動画を必要とするとも思われない、と曰う厚顔ぶりには暗澹とさせられるばかり。
司法であれ行政であれこの国の権力機構、慣例という名の壁にわずかな穴を穿つのも困難極まりないことはよくよく承知だから、これを受け取らせるのは難しいだろうとは、実は予測もしていた。いたが、いかにも冷静沈着、平静を装った語り口の、その粘着質たっぷりな声音が、こちらの神経をいやがうえにも刺激した。だが、声を詰まらせ泣きながら激しく抗議したのは、一緒に連れ立ってきた元細君のほうだった。女性の嗚咽にはさすがに検事殿も一瞬怯んだと見え、困惑顔で弁解じみた理屈を並べる。
これ以上堪えられぬと元細君は先に席を立ってしまったが、私はその場に居座った。もう言葉を尽くそうとは思わない、こうなったら肚の勝負、無言であろうともこちらの覚悟のほどを見せつけてやろうと対座し続けること小一時間か。この間言葉を交わしたのは二言、三言、たいした話じゃない。とにかく、今日のところは受け取れぬが、なお検討した上あらためて連絡すると仰るから、とても甘い期待はできないが、何日待てば回答を貰えるかと問う。一週間乃至十日ほど、と確かめやっと重い腰をあげ不快きわまる空間から退散した。
<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>
「灰汁桶の巻」-09
摩耶が高根に雲のかゝれる
ゆふめしにかますご喰へば風薫る 凡兆
次男曰く、赤松則村・千種忠顕・足利高氏の三方攻めにあって京の六波羅府が南・北共に滅んだのは元弘3年5月だった。そのことが凡兆の念頭にはあるらしい、と覚らせる季の取出し様だ。只漫然と雑の句を夏に移したわけではない。
夏の季節風-南風-には、五官に訴える印象によってつけられた呼称がある。青葉を吹き渡るやや強い風を青嵐、耳目に訴えるよりもまず青葉の匂いをもたらす、涼やかな微風を薫風-風の香-と云う。現代人には仲夏の風と考えられやすい名だが、連・俳ではどちらも大旨晩夏として扱っている。
「かますご」は「和漢三才図会」に「玉筋魚-いかなご・かますご-」として挙げられるが、そのカマスゴは播磨・摂津あたりでの呼名だ、ということがどうやら凡兆の目付らしい。江戸でコウナゴ、九州でカナギ、京都ではイカナゴと呼んだ。なぜ「いかなご喰へば」と凡兆は作らなかったのだろう、と気にかかる。前句からの移りで兵庫の浜風を思ったというような単純なことではあるまい。播磨から京へ攻め入った男の話がたねなら「かますご」だ、と読めば気転の俳が生れる。句は、景に鄙びた人情を添え、「-たかねにくものかかれる」「-かますごくへばかぜかおる」とカ行音を均して利かせ、読者のそぞろごころをそそる浜風の仕立だが、この包丁捌きはそうあくまない。
イカナゴをカマスゴに言替えてよろず無事-風薫る-に納まればお安い御用、と読めば京都人らしい暮しの知恵もそこに覗くだろう。世々兵乱の巻添えを食った町の歴史が教える。凡兆自身の生活実感らしいところが、作の見どころだ、と。
-読まれたあとは、1click-