山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

まひまひひそかな湧いてあふるる水なれば

2004-11-30 17:08:52 | 文化・芸術
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これはtoshikiさんの「まつりがしたい」
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あそびをせむとや生まれけむ
-遊び、祭り、蕩尽-

幼い子どもたちは、いつでも、遊びに夢中になれます。
それすらも近頃は、事故防止のため公園の一部の遊具が使用禁止になったりして、
制約がかかり、遊びに夢中になりきれぬまま、エネルギーをもてあましている子どももいるだろう。

人は、自身のありあまるような生命のエネルギーを、
ある一定の周期で、<蕩尽>-燃やし尽くすこと、使い果たすことが必要なものです。
そして新しく生まれ変わる。生命とはそういうものです。
本来、<祭り>と云うものは、生命-エネルギーの<死と再生>の仕掛装置だった訳です。
ケとハレの、ハレの儀式だった。
<死と再生>のハレの儀式だったからこそ、<神に捧ぐ>という装置も必要だった。


現在、全国各地で展開される、観光イベント化された有名な祭りや盆踊りが、おそらく二十指に余ってあるでしょうが、おしなべて<蕩尽>-<死と再生>の<ハレ>の一大行事だった、という訳です。
ところが、現代社会では、まず<ケとハレ>の区別、境界がほぼ消失してしまっている。
個人の人生では、成人式、結婚式、葬式、ぐらいのものでしょうか。
一年の歳時記では、正月、ぐらいのものでしょう。
そこで、人はみな、日々、日常性のなかで、ほんのささやかな<蕩尽>、
-気の合った者同士で酒を飲むだろうし、休日ともなれば郊外へ出かけもするだろうし、時には小旅行もするだろうし、また人によっては欲望の捌け口を求めて夜の巷へと彷徨いもする-を繰り返すなかで、各々自身の<死と再生>を生きている、と云えるでしょう。


したがって、toshikiさんに限らず、<まつりがしたい>という欲求、
それも、一年に一度くらいでいい、みずからの全エネルギーを消耗しつくして、即ち<蕩尽>して、<死と再生>を生きたい、という潜在的な欲求は、人みな、心の奥底に秘めている、無意識の下部へと抑圧している、と断言できるのじゃないかと、私は思います。


子どもたちは、もっと悲惨です。就学前の幼な児たちは、まだいい。
児童期、少年期、若年期の彼らは、もう悲惨のきわみだと思う。
現在の我々、大人たちのように、いわば日々、ミニ蕩尽を繰り返し、ほんのささやかな死と再生を繰り返している若者たちは、お寒い限りだが、まだいいとして、
引き篭もりに至ったり、心を病んでしまったり、と自身をきわめて限られた世界へと押しやってしまわざるを得なかった、そのようにしか生きざるを得なかった、多くの人々の存在は、
我々が生きているこの社会に、<祭り>-<蕩尽>-<死と再生>の現代に生きる装置を、いまだ備えきれていないことが原因なのだ、と云ってもいいくらいだと思います。


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