山頭火の一句-句集「鉢の子」所収だが、いつ詠まれたものか定かではない
ただその前書に「昭和二年三年、或は山陽道、或は山陰道、或は四国九州をあてもなくさまよふ」として、
踏みわける萩よすすきよ
この旅、果てもないつくつくぼうし
の2句が添えられている。
―表象の森―「群島-世界論」-03-
ウラ、という神秘的な音に、このところ私の耳はとり憑かれている。そして音を媒介にして音と意味の連鎖を文字テクストのなかに探り出す衝動、という意味においては、私の「耳の眼」もまた、ウラという音を持った文字にとり憑かれている、とつけ加えるべきだろうか。ウラという音は、おそらく日本語におけるもっとも深く豊かな意味の強度と地平の広がりを抱えた、始原的な音の一つであるにちがいない。
たとえば、心と書いてウラと読む。この万葉以来の用法からすぐに気づくことは多い。心悲しい、心淋しい、心思い、というときのウラは、意識の内奥、すなわち表に見えない心中の微妙な機微にかかわる音=ことばである。「心安」とは、心中安らかな、という意味で万葉集のそこここで見える用法であるが、地名ではこれを「浦安」と書いたりする。ウラという音をなかだちに、心が浦に通じていることはあきらかだ。
-今福龍太「群島-世界論」/3.浦巡りの奇蹟/より-
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初めまして。
わたしもちょっと山頭火について書きましたものでおじゃましています。
山頭火を一人語りされているのですね。
興味深いですね。
いつか見せていただきたいものと思います。
昼間は結構よかったのですが夕方になりかえって蒸し暑くなりました。
お越しくださり大変ありがとうございました。
トップの多彩なページちょっと見せていただきました。
いろんなことにご活躍のようですね。
がんばられてください。
村上氏の本も探して読んでみたいと思います。
ありがとうございました。
私なぞ金にならぬ道楽者のなれの果て、
山頭火と違って、酒に溺れこそしませんが、その分彼ほどに徹し得ない半端さが残るのでしょうか。
いつまで経っても道半ば、老いばかりが加速します。