-今日の独言- 芭蕉と一茶
和歌には本歌取りがあるが、俳句の場合も本歌取りに似て、先達の句の俤に発想を得て、寄り添いつつも転じるというか、趣向を変えてその人なりの新味を出している。
一茶について加藤楸邨の「一茶秀句」を読んでいると、芭蕉の句を本歌取りしている場合によく出くわして、その換骨奪胎ともいうべきか、芭蕉と一茶の対照がおもしろい。
眼につくままにその書よりいくつか挙げてみる。
この道を人声帰る秋の暮 芭蕉
また一人かけぬかれけり秋の暮 一茶
夏衣いまだ虱をとりつくさず 芭蕉
蓮の花虱を捨つるばかりなり 一茶
まづたのむ椎の木もあり夏木立 芭蕉
門の木もまづつつがなし夕涼み 一茶
雲の峯いくつ崩れて月の山 芭蕉
雲の峯見越し見越して安蘇煙 一茶
藻にすだく白魚や取らば消えぬべき 芭蕉
白魚の白きが中に青藻かな 一茶
しほらしき名や小松吹く萩すすき 芭蕉
手のとどく松に入り日や花すすき 一茶
鞍壷に小坊主乗るや大根引き 芭蕉
鞍壷にくくしつけたる雛(ひひな)かな 一茶
<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>
<春-8>
薄き濃き野べのみどりの若草に跡まで見ゆる雪のむら消え 宮内卿
新古今集、春上、千五百番歌合に、春歌。
邦雄曰く、増鏡の「おどろの下」には、千五百番歌合にこの歌を引っ提げて登場する天才少女と、彼女の発見者後鳥羽院の感動的な挿話が見える。薄墨と雪白と白緑の、六曲二双一架の大屏風絵の如く。微妙で大胆な着目と修辞は「若草の宮内卿」の呼称さえ生む、と。
天の原あかねさし出づる光にはいづれの沼か冴え残るべき
菅原道真
新古今集、雑下、日。
邦雄曰く、春到り、凍て返っていた沼がやがて解け初め緑の浮草を漂わす。あまねき陽光の下、氷を張りつめたままである筈があろうかと強い反語で問いかけるのは、太宰府へ左遷されて、なお宇多法皇の寵を頼む道真。氷はついに解けず、配所で失意のまま病死する。時に延喜3年(903)春2月。新古今集の雑歌下は、巻頭から続いて12首、道真の哀訴の歌で占められる、と。
⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます