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-表象の森- フロイト=ラカン:「他者の語らい」⇔「無意識」
――Memo:新宮一成・立木康介編「フロイト=ラカン」講談社より
・「人の欲望は他者の欲望である」
人間の欲望は、内部から自然と湧き上がってくるようなものではなく、常に他者からやってきて、いわば外側から人間を捉える。
フロイトの発見した「無意識」とは、そうした主体的決定の過程において、すなわち、他者から受け取った欲望を自分のものに作り替える過程において、形成されるものにほかならない。
一つのシニフィアン-というのも、他者の欲望は常に一つのシニフィアンのもとに出会われるだろうから-をもう一つ他のシニフィアンに取り換えること、
ラカンは、フロイトの「抑圧」をこのようなシニフィアンの「置き換え」のメカニズムとして捉え直す。
・「無意識は他者の語らいである」
無意識は一つの言語として構造化されている。
それは、主体の内部に入り込んできた大文字の他者そのものである、と言ってよい。
ラカンは無意識を「超個人的なもの」と呼ぶことをためらわない。
クロス・キャップと呼ばれている構造体(メビウスの帯の縁に沿って、それと同じ長さの縁をもつ円盤を縫いつけたもの)においては、一つの面が自分自身を通過するために、閉ざされた空間の内部と外部のように見える部分とが完全に連続している。
<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>
<恋-50>
軽の池の内廻(ウチミ)行き廻(ミ)る鴨すらに玉藻のうへに独り宿(ネ)なくに
紀皇女
万葉集、巻三、譬喩歌。
邦雄曰く、巻三冒頭に見える作。紀皇女は穂積皇子と同じく、母を蘇我赤兄の女とする天武帝皇女である。独り寝の寂しさを訴えるにも鴨の雌雄の共に浮かぶさまを一方に置き、間接表現で暗示する。「軽の池」と「玉藻」の文学の上の閑麗な照応も、玉藻は人の上ならば玉の牀となることも、一首に皇女らしい趣をもたらした。縷々とした趣の、実に愛すべき作品、と。
夏の日の燃ゆるわが身のわびしさに水恋鳥の音をのみぞ鳴く 詠人知らず
伊勢集、夏、いと暑き日盛りに、男のよみたりける。
邦雄曰く、水恋鳥は赤翡翠(アカショウビン)の異名、翡翠(カワセミ)もさることながら、古歌にも滅多に現れない鳥である。この歌の作者、伊勢の数多の愛人のなかの一人で、誰々と想定も可能だが、「ある男」としておいた方が面白かろう。案外、伊勢自身の創作かも知れず、まことに鮮麗で情を盡した美しい恋歌である。「夏=燃ゆる」、「水恋=見ず恋ひ」の縁語・懸詞もうるさくない、と。
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