山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

行き帰る果てはわが身の‥‥

2005-11-26 12:06:28 | 文化・芸術
N-040828-026-1
Information<四方館Dance Cafe>

-今日の独言-
引きつづき「逢ふ」談義

 白川静の字解によれば、「逢」や「峰」は形声文字だが、音符をなすのは「夆(ホウ)」である。「夆」は「夂(チ)」と「丰(ホウ)」を組み合わせた形で、夂は下向きの足あとの形で、くだるの意味がある。丰は上に伸びた木の枝の形で、その枝は神が憑(よ)りつくところであるから、神が降り、憑りつく木が夆である、という。したがって「峰」は、夆すなわち神が降臨し憑りつく木のある山、ということになるが、では「逢」はといえば、「辶」は元は「辵(チャク)」で、行くの意味があり、また中国の「説文」に、逢は「遇うなり」とあることから、「神異なもの、不思議なものにあうこと」をいう、と解している。
一方、明鏡国語辞典によると、「逢う」は会うの美的な表現で、親しい人との対面や貴重なものとの出会いの意で用いられる、とある。ところで、現在慣用的に人とあうことには「会」の字が用いられているが、またまた白川の字解によれば、「会」の旧字体「會」はごった煮を作る方法を示す字であり、むしろ元は象形文字の口の上に蓋をしている形である「合」のほうが、向き合うことであり、対座することであるから、人が会うことの意味に相応しいといえる。
これらのことを勘案するに、王朝人たちが「逢ふ」に込めた意味、しきりと歌に詠んだ意味は、今に残る「逢引」や「逢瀬」のように、特定の男女がかわす情交の意が込められた「逢ひ合ふ」ことなのだと得心がゆく。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-42>
 貴船川玉散る瀬々の岩波に冰(こほり)をくだく秋の夜の月
                                  藤原俊成


千載集、神祇、詞書に、賀茂の社の後番の歌合せの時、月の歌とて詠める。
邦雄曰く、第四句「冰をくだく」の表現も鮮やかに、二句「玉散る」と結句「月」がきららかに響きあい、神祇・釈教歌中では稀有の秀麗な歌になっている。歌の核心は「月」、月光の、氷を思わせる硬質の、冷え冷えとした感じが、殆ど極限に近いまで見事に表現されつくした、と。


 行き帰る果てはわが身の年月を涙も秋も今日はとまらず
                                  藤原定家


拾遺愚草、員外、三十一字冠歌。定家三十四歳の秋の夜、藤原良経の命によって「あきはなほゆふまぐれこそただならぬはぎのうわかぜはぎのしもかぜ」の三十一文字による頭韻歌を制作したうちの、これは最後の歌と伝える。
邦雄曰く、三十一首、一連の末尾の作としての、涙を振り払うような潔さと、切羽つまった悲愴感が漲り人を魅してやまぬ。第四句「涙も秋も」の異質並列の離れ業は、この時期の定家の技法を象徴する、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

荒れわたる庭は千草に‥‥

2005-11-25 16:17:51 | 文化・芸術
051023-122-1
Information<四方館Dance Cafe>

-今日の独言-
王朝の頃の「逢ふ」・「見る」

 これもまた丸谷才一「新々百人一首」からの伝だが、
王朝和歌の時代、「逢ふ」ことは単なる対面、出会うという意味にとどまるものではなく、契りを結ぶ、性交するという意味になることが多かった、とされる。
「竹取物語」にある、
「この世の人は、男は女にあふことをす。女は男にあふことをす」
というのもそう受け取らないとまるで意味不明。
もっと古くは万葉集の大伴家持の歌で、
「夢の逢ひは苦しくありけり驚きてかきさぐれども手にも触れなば」
とあるのも、夢で契るのは苦しく辛い、との意味で、ともに男女の情交のことであろう。
さらには、「見る」においても同じ用法が含まれてくる。成人の女がじかに男に見られることは特殊な意味をもって、御簾とか几帳を仲立ちとしなければ対さなくなる。
小倉百人一首の
「逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」
では、この「逢ふ」と「見る」が合成され、「逢ひ見る」と複合動詞になるが、無論これも、契りを結んだあとの複雑な悩ましさを詠んだもの。
そういえば、年配の人なら大概ご存知の、大正の頃の俗謡「籠の鳥」の
「逢いたさ見たさに怖さも忘れ 暗い夜道をただひとり」
も、恋人と寝たいがために暗い夜道をゆく、ととるのが歌の真意なのだろう。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-41>
 荒れわたる庭は千草に虫のこゑ垣穂は蔦のふるさとの秋
                                  藤原為子


玉葉集、秋、秋里といふことを。生没年未詳、二条(藤原)為世の子、後醍醐天皇の側室となり、尊良親王・宗良親王を生むも、まもなく早世した。
邦雄曰く、余情妖艶、これを写して屏風絵を描かせたいと思うほど、凝った趣向の豊かな晩秋の眺め。殊に「蔦」が生きており、上・下句共にきっぱりした体言止めであることも意表をついた文体。初句は荒廃よりも、むしろ枯れすすむことへの嘆きであろう、と。


 聞き侘びぬ葉月長月ながき夜の月の夜寒に衣うつ声
                                  後醍醐天皇


新葉和歌集、秋、月前涛衣といふことを。新葉集は後醍醐帝の皇子宗良親王の選。結句「衣うつ声」は、砧の上で槌などによって衣を叩く音。晩秋の張りつめた大気を震わせて届く響きは、冬籠りの季節が間近いことを告げる声でもあろう。
邦雄曰く、初句切れ、秋の後二月の名の連呼と「ながき」の押韻、下句の声を呑んだような体言止めが効果的で、太々とした潔い調べを伝える、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

おぼつかな何に来つらむ‥‥

2005-11-24 15:50:50 | 文化・芸術
051023-110-1
Information<四方館Dance Cafe>

-今日の独言-
米国による「年次改革要望書」

 文芸春秋の12月号に「奪われる日本」と題された関岡英之氏の小論が掲載されている。筆者は昨年文春新書「拒否できない日本」で、日米で毎年交わされてきた「年次改革要望書」に透けてみえる米国側の日本蹂躙ともいえる改造計画にスポットをあて警鐘を鳴らした人。先の郵政解散で圧勝した小泉政権は直ちにそのシナリオどおり郵政民営化法案を成立させ、今後米国の提唱するグローバルスタンダードに簡保120兆円市場を解き放っていくわけだが、次なる標的は医療保険制度であり、国民皆保険として世界に冠たる日本の健康保険制度だと警告している。小論末尾、過去11回を重ねてきた「年次改革要望書」と、その受け皿である経済財政諮問会議や規制改革・民間開放推進会議が命脈を保つ限り、米国による日本改造は未来永劫進行する、と筆者は結ぶ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-40>
 おぼつかな何に来つらむ紅葉見に霧の隠さる山のふもとに  小大君

小大君集、詞書に、十月に女院の御八講ありて、菊合せさは来ければ。生没年未詳、別称を三条院女蔵人左近とされ、三条天皇(在位1011-1016)の皇太子のとき仕えた。
邦雄曰く、われながら不審なことだと、口を尖らせて自嘲するような口吻が、いかにも作者らしい。しかもなお、霧に隠されて見えない紅葉を、わざわざ見に来たのだ意地を張って、逆ねじを喰らわすような示威ぶりが小気味よい。小大君集に目白押しに並ぶ辛辣な歌のなかでも、この紅葉狩りは屈指の一首、と。


 秋の月光さやけみもみぢ葉の落つる影さへ見えわたるかな  紀貫之

後撰集、秋、詞書に、延喜の御時、秋の歌召しありければ奉りける。「光さやけみ」は、光が鮮明なので、ほどの意味。
邦雄曰く、冷え冷えと降り注ぐ晩秋の月光のなかに、漆黒の影をくっきりと見せて、一葉々々が地に消えてゆく。葉脈まで透いて見えるような、この微視的な描写に古今時代の第一人者の才が証明されよう。結句「見えわたる」の叙法も、説明に似つつ、一つの調べを創るための重要な技巧だった。冴えわたった理智の眸で秋夜絢爛の景を、くっきりと見据えたような一首、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

夕さればいや遠ざかり飛ぶ雁の‥‥

2005-11-23 19:11:25 | 文化・芸術
IMG_0238-1

-今日の独言-
蜻蛉池公園に遊ぶ

 大阪府下には府営の公園が18ヶ所ある。著名なところでは箕面公園や浜寺公園などだろうが、子どもたちの遊具も充実し、休日ともなると家族連れでにぎわっているのが、岸和田市の丘陵地帯にある蜻蛉池公園だ。その名称はトンボを象った大きな池があるせいで名づけられたそうな。今日は幼な児のために一家で春先以来の訪問。池には冬越えに飛来しているらしい鴨の大群が水面に泳いでいた。肌寒いかと心配されたが、予想に反してポカポカするほどの小春日和の陽気。滞在二時間半ほど、4歳になったばかりの幼な児にはたっぷりというほどではないにしても適度な遊び時間だったろう。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-39>
 夕さればいや遠ざかり飛ぶ雁の雲より雲に跡ぞ消えゆく
                                 藤原道家


玉葉集、秋。詞書に、建保5年9月、家に秋三首歌詠み侍りけるに、雲間雁を。鎌倉前期の人、祖父は九条兼実、摂政藤原良経の長子、後堀河天皇の関白となる。歌意は「夕暮、ねぐらへ戻るのか、雁の列が遠ざかって行く。たなびく雲から雲へ移るごとに、その姿はいっそう霞み、やがて跡を消してしまう。」邦雄曰く、縹渺(ひょうびょう)たる視野の限りに、霞み潤んで雁の姿は見えなくなる。第四句「雲より雲に」は、その遥けさを見事に言いおせた、と。

 たれか聞く飛ぶ火がくれに妻こめて草踏みちらすさ牡鹿の声
                                 葉室光俊


閑放集、秋。鎌倉前期の人、法名は真観。父は藤原(葉室)光親、定家の弟子となり直接指導を受ける。邦雄曰く、およそ絵に描いた景色を出ない、息を殺して死んだような歌が多い中世和歌のなかに、この作の律動的な調べ、鹿の生態を活写した修辞は珍重に値する。第二句「飛ぶ火がくれに」、第四句「草踏みちらす」の新味は抜群、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

玉章(たまづさ)の裏ひきかへす‥‥

2005-11-22 13:23:48 | 文化・芸術
051023-013-1
Information<四方館Dance Cafe>

-今日の独言-
著者からの思わぬ書き込み

 エコログに珍しい書き込みがあった。このところ私はその月に購入した書物をひと月ごとにまとめて「今月の購入本」として紹介しているのだが、11月分の掲載した記事(13日付)に著者自身からわざわざ購入御礼のコメントを頂戴したのである。朝日選書版「われら以外の人類」の内村直之氏だ。19日の発言でも書いたが、著者は朝日新聞社の記者である。彼のコメントには「この本は、質問なんでも受付アフターサービス付きでございます。なにとぞよろしくお願い致します。」と付記されている。科学医療部という学究肌の部署を担う人ゆえか、或はご本人の人柄ゆえか、謙虚さと真摯な姿勢でコミュニケーションを大事にしようとする心が爽やかに伝わってくる。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-38>
 照る月にあはれをそへて鳴く雁の落つる涙はよその袖まで
                                 藤原良経


秋篠月清集、百首愚草、花月百首、月五十首。邦雄曰く、凄愴の気溢れる「月」七首目。萩や鹿、或は葛や雁に配した月も情趣は深いが、良経の持味は雁がひとしお。第四句「落つる涙は」の表現は後々流行するが、この歌は結句の「よその袖まで」が要、と。

 玉章(たまづさ)の裏ひきかへす心地して雲のあなたに名のる雁がね
                                 鴨長明


鴨長明集、秋、雁声遠聞。「玉章」は手紙・便りの美称で、玉梓とも表記。「裏ひきかえす」は同じことを繰り返すこと。邦雄曰く、確信を写した上句が技巧の冴えを誇る。第二句「裏ひきかえす」の効大きく、薄墨色にかすれて中空に消え、声のみ響く雁の形容としては絶妙といえようか、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。