山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

袖の香は花橘にかへりきぬ‥‥

2006-05-26 08:26:59 | 文化・芸術
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-表象の森- 明治ミリタリィ・マーチ-01

<洋楽>の土着形式
 「われかにかくに手を拍く‥‥」と中原中也は詩「悲しき朝」から身をふりほどくように、その最後の一行をしるしている。――中也の詩の根源には、<三拍子とはなにか>の問いときりはなせないような、ひとつの促迫が秘められている。
文明開化によってもたらされた<洋楽>の土着様式は、第一に――等時拍三音の土謡的発想を、強弱拍による二拍子へと変換すること。そのように変換され強化された<時間>が支配の理念とした<近代>であった。
本来、強弱をもたぬ日本語の拍を、西洋的な<拍子-Tact>にのせようとすれば、強迫は音をながく弱拍は音をみじかくとるという対応以外にまずありえなかった。
  2/4拍子 △▲△▲/△▲△▲/△▲△▲/○●/
        △=付点8分音符、▲=16分音符、○=4分音符 ●4分休符
日清戦争期から日露戦争にかけて定着したこのリズムは――明治24年の「敵は幾万」から明治38年「戦友」にいたるまで――明治大衆ナショナリズムの上限から下限にいたる定型化のほぼ全域を覆いつくしている。
旧制高等学校の寮歌のほとんどが、この長短長短のリズム形式でできている。――この貧しさを陶酔に逆立ちせしめ<青春>に居直っているところに、帝国大学出身の上級官僚あるいは大会社の幹部‥‥といった彼らの階級=特権はむきだしにされている。


   ――― 菅谷規矩雄「詩的リズム-音数律に関するノート」より抜粋

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-17>
 袖の香は花橘にかへりきぬ面影見せようたたねの夢  藤原為子

新千載集、夏、嘉元の百首の歌奉りける時、廬橘。
邦雄曰く、本歌取りの作だけで詞華集が編めるほどの「花橘の香」であるが、名だたる為子は、さらに新味と趣向を添えようとしている。五句各々の用語は殆ど変えずに、「面影見せよ」と命令形四句切れにして、響きを強めたあたり面目躍如というべきか。たとえば式子内親王に、「かへりこぬ昔を今と思ひ寝の夢の枕に匂ふ橘」あり、と。


 五月来てながめ増さればあやめぐさ思ひ絶えにしねこそなかるれ
                                   女蔵人兵庫


拾遺集、哀傷。
生没年、出自ともに不詳。10世紀の女官歌人、女蔵人は内侍の下位。勅撰集にこの一首のみ。
邦雄曰く、康保4(967)年の5月、村上帝崩御、翌年の5月5日に英帝を偲んで、人に贈った悼歌という。長雨と眺め、菖蒲と文目(あやめ)、根こそと音こそ、縁語・懸詞の綴れ織りの感。詞書にはないが、忌日の季節にちなみ、菖蒲の根を添えての贈歌と思われる。歌を贈られたのは宮内卿兼通とある。と。


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夕暮はいづれの雲のなごりとて‥‥

2006-05-25 16:26:06 | 文化・芸術
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-表象の森- 八幡と稲荷

 東大寺境内の東の端には手向山八幡宮があるが、これは東大寺建造事業にあたり九州の宇佐八幡神が八百万の神を代表して祝福した故事に由来するという。この故事は仏教をもって鎮護国家をなそうとする聖武帝の強い意志の反映であろうが、この国ならではの宗教のカタチである神仏習合-神と仏がなかよく祀られるようになること-へと先鞭をつけたことにもなろうか。

 京都の伏見稲荷大社は弘法大師空海と所縁が深い。明治の神仏分離・廃仏毀釈以前は、真言密教の愛染寺が稲荷社の本願所として祀られていたという。
9世紀前葉、時の権力者嵯峨上皇の信任厚い空海は東寺を下賜され、密教の根本道場へと造営にのりだす。その建設資材にと伏見稲荷山付近の巨木を伐り出させたため、その祟りが淳和帝に降りかかり病に臥した。稲荷社の怒りを鎮めるため神格を上げ、平癒祈願をするも、淳和帝はあえなく死んでしまう。
この事件の奇妙なところは、稲荷神の祟りが嵯峨上皇-空海ラインにではなく、直接は関係のない淳和帝に降りかかったことだが、淳和帝死後の承和の変(842年)において恒貞親王(淳和の子)が皇太子を廃嫡されているところをみると、嵯峨上皇直系の皇統に執着する側の謀略かとみえてくる。
いずれにせよ、以後、稲荷社は正一位稲荷大明神と神格を上げられ、その境内には真言密教の茶枳尼天を本尊とする愛染寺が祀られるようになったという。


神社本庁によれば、八百万はともかく、この国には大小8万の神社があるとされる。そのうち4万余りが八幡社、約3万が稲荷社という、両系の圧倒的に占める数字には驚かされもするが、その背景にはこれらの故事が深く関わっているとすれば、少なからず得心もいきそうだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-16>
 さだかなる夢も昔とむばたまの闇のうつつに匂ふたちばな
                                   飛鳥井雅経


明日香井集、上、仁和寺宮五十首、夏七首、夜廬橘。
邦雄曰く、五月闇に香を放つ花橘、読み慣れ聞き飽いた主題だが、新古今時代の技巧派雅経の作は、情趣連連綿、五句一箇所として句切れなく、言葉は模糊と絡み合い、いわゆる余情妖艶の世界を創り出す。決して独創的ではないが、「夢も昔と」、「闇のうつつに」など、巧妙な修辞は、読者をたまゆら陶酔に誘う。


 夕暮はいづれの雲のなごりとて花橘に風の吹くらむ  藤原定家

新古今集、夏、守覚法親王、五十首詠ませ侍りける時。
邦雄曰く、「五月待つ花橘」の本歌取りながら、亡き人を荼毘にふした煙、そのなごりの雲から吹く夕べの風が、花橘に及ぶとしたところ、まことに独創的であり、陰々滅々の趣をも含みつつ、初夏の清かな味わいも横溢している。秀歌名作の多い御室五十首中のもので、新古今夏の部でも屈指の作の一つ、と。


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橘のにほふ梢にさみだれて‥‥

2006-05-24 10:32:28 | 文化・芸術
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-表象の森- 満年齢と新制

 5月24日、今日は何の日かとググってみれば、「年齢を満で数える法律」が公布されたとあった。昭和24(1949)年のことだ。法の施行は翌25(1950)年1月1日からだったという。
満年齢の適用は終戦後すぐのことだろうと、あまり深く考えもせず、てっきりそう思い込んでいたので、少々意外な気にさせられた。明治の帝国憲法から昭和の新憲法へと、公布が昭和21(1946)年の11月3日で、施行が翌22(1947)年5月3日なのだから、その日程に準じたあたりが順当だろうと思っていた訳だ。なんで戦後4年も5年も経ってから変わるんだよ、と首をかしげつつ、ほんの数秒ばかり頭をめぐらせてみて、これは旧制から新制へと学制の移行と歩調を合わしたに違いないと思いあたった。


戦後の学制改革、旧制から新制への移行には、昭和21(1946)年から旧制大学の最後の入試となる25(1950)年まで移行措置が取られているが、これに合わせて、学校教育法において学齢期の定めを設けている。曰く「満6歳に達した日の翌日(満6歳を迎えた誕生日)以後における最初の学年の初め(4月1日)から満15歳に達した日の属する学年の終わり(3月31日)までが学齢期」である。詳しくは「年齢計算ニ関スル法律」、満年齢を参照せよということになる。

さしずめ昭和19年生まれの私など、24年の正月には、今日からおまえは6歳だといわれ、翌25年の正月には7歳になるはずのところ、満5歳へと減じられ、7月の誕生日を迎えて、ふたたび6歳となった訳だ。まだ子だくさんの家庭が多かった時代、親たちこそ紛らわしくてさぞ混乱したことだろう。
そういえば、就学期の「七ツ行き・八つ行き」という言い様があったが、これは一向になくならず、大人たちはよく使っていた。誰それは早生れだから七つ行き、誰それは遅生れだから八つ行きなどと、親たちが言うものだから、幼かった私などしたたかに刷り込まれてしまったとみえ、自身大人になり子を持つに至って、はてこの子は七つ行きだったか、八つ行きだったかと、まことにお笑いぐさだが、つい考えてみたりしたこともあった。思わぬところに刷り込みや習い性のあるもので、それらの呪縛から自身を解き放つのはなかなかに難しいものなのだ。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-15>
 五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする  詠み人知らず

古今集、夏、題知らず。
邦雄曰く、伊勢物語第六十段に見える歌。愛想を尽かして出て行った妻が、他家の主婦となっているのに邂逅、酒を酌ませ、肴の橘を取ってこの歌を口ずさむ。女は過去を恥じて出家する。元は男の不実ゆえであろうに、あはれ深い咄である。橘と袖の香のアンサンブルは、この歌をもって嚆矢とし、後生数多の本歌となった、と。


 橘のにほふ梢にさみだれて山ほととぎす声かをるなり  西行

聞書残集、雨中郭公。
邦雄曰く、西行に時鳥・郭公の秀歌数多あるも、残集の冒頭近くに見える数首もなかなかの趣。殊に「声かをるなり」は独特の味わいをもつ。「かをる」は「にほふ」を受けつつ「靄(かお)る」の意もある。この即妙の移り、結句のきっぱりした響きは、いかにも西行らしい一首、と。


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照る月の影を桂の枝ながら‥‥

2006-05-22 15:58:14 | 文化・芸術
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-表象の森- 月の桂

 月には高さ五百丈の桂の木が生えているという。
「月中に桂あり、高さ五百丈、常に人ありて、これを切る‥‥」と、中国の故事に由来する。
ある罪人に月中の桂を切り倒すことが課せられるのだが、それはいくら切ってもまたすぐに生え元にもどるから、その男は果てしなく切り続けなければならないという咄で、今なお切り続けるこの男は「月読男」とも「桂男」とも呼ばれる。


万葉集巻四は相聞歌を収集しているが、そのなかには、志貴皇子の子、湯原王の娘子に贈れる歌二首として、
  目には見て手には取らえぬ月の内のかつらのごとき妹をいかにせむ
が見える。ここでは一目瞭然、「月の桂」を決して手の届きえぬ面影の君と見立てている訳だが、ロマン掻き立てる「月の桂」の語イメージが「面影の君」へと喩えられるのは、月並み凡庸の筋というべきだろう。


したがって古今以後の「月の桂」への憧憬は、むしろ叙景を強めつつ、抒情味を内に潜ませてゆく。
  ひさかたの月の桂も秋はなほもみぢすればや照りまさるらむ
                              壬生忠岑-古今集
  ことわりの秋にはあへぬ涙かな月の桂もかはるひかりに
                              俊成女-新古今集


山口県の防府には、その名も「月の桂の庭」という枯山水の庭がいまに残る。毛利氏分家右田毛利家の家老職にあった桂運平忠晴が造らせた一庭二景の枯山水庭園で、正徳2(1712)年の作と伝えられるもの。さほどの面積もない庭だが、借景を利用しつつ、石と砂だけの簡素な作りの中に、仏教的世界観を凝縮させた枯山水だ。

余談ながら「月の桂」を冠してよく知られているのは伏見名代の銘酒だ。320年余を遡る伏見最古の蔵元になる濁り酒「月の桂」は、石清水八幡宮例祭に参拝の勅使姉小路有長卿なる公卿が立ち寄り、この酒を召した際に詠んだ歌「かげ清き月の嘉都良の川水を夜々汲みて世々に盛えむ」に由来するという。歌は凡庸な世辞の類そのものだが、真偽のほども定かならぬこの手の由来譚には似つかわしいものといえようか。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-14>
 ほととぎす声も高嶺の横雲に鳴きすててゆくあけぼのの空
                                    永福門院


続千載集、夏、題知らず。
邦雄曰く、歌いに歌って類歌の藪、本歌取りの掃溜めいてくる時鳥詠、それも14世紀初頭ともなれば、よほどの新味を創り出さねば振り返る人もない。この時鳥など、懸詞を交えて、新古今集以上に複雑な技巧を凝らしている。殊に第四句「鳴きすててゆく」の、大胆で辛みのある工夫は、さすがと思わせる、と。


 照る月の影を桂の枝ながら折る心地する夜半の卯の花  鴨長明

鴨長明集、夏、夜見卯花。
邦雄曰く、月世界に生う桂は五百丈、古歌には憧憬を込めてさまざまに歌われているが、空木の花盛りをこれに譬えるのは、比較的珍しかろう。一首が、韻文調散文ともいうべき文体で、上・下は甚だしい句跨り。この変則的な調べも、歌より文で知られた長明の特徴と思われて面白い、と。


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時やいつ空に知られぬ月雪の‥‥

2006-05-21 19:37:05 | 文化・芸術
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-表象の森- 上京第27番組

 維新の明くる年、明治2年の今日、5月21日、早くも日本初の小学校が京都に登場している。その名が「上京第27番組」小学校である。上京第27番組とは奇妙な名と思われようが、いわゆる封建時代の遺制である町組制度に基づくものだ。
明治維新により東京遷都となって、千年の古都を誇った京都は一地方都市として衰退することを怖れ、近代都市をめざしていち早く取り組んだのが、町ぐるみでの小学校開設だった。京都市内では明治2年のこの年に早くも64の各町番組に小学校を開校させているという。その第一号が上京第27番組小学校だったという訳である。この各町番組の学校建設にはこぞって町衆(市民)たちが立ち上がり、惜しみない協力支援があったとされるが、さもありなん、この事業はむしろ市民たちこそが主体とならなければ成り立ち得なかったろうし、町衆たちの強い教育意識の発現でもあったろう。


明治政府が近代化への歩みとして学制(学校制度)を公布するのが明治5年(1872)で、これに先立つのはもちろんだが、この公布で直ちに全国津々浦々に小学校が開設されていったかといえば、なかなかそうはいかなかったようである。明治12(1879)年には学制を改め新たに教育令を発布、さらに明治19(1886)年には小学校令を発布することになるが、この小学校令はさらに明治23(1890)年の第二次、明治33(1900)年の第三次と後続することとなる。小学校開設が全国にくまなく波及していくのは、おそらくこの頃まで時間を要したのではなかったかと推測されるのだが、これに比べて古都の町衆たちの先取性はさすがと感心させられる。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-13>
 時やいつ空に知られぬ月雪の色をうつして咲ける卯の花
                                   覚助法親王


玉葉集、夏、題知らず。
建長2(1250)年-建武3(1336)年、後嵯峨院第十皇子、母は藤原孝時女。幼少にて出家、聖護院宮と称される。歌才にすぐれ二条為世・為藤・頓阿らを招き歌会をよく主催した。続拾遺集初出、勅撰集に89首と、歴代親王のなかでも出色。
邦雄曰く、雪月花の、花は桜を夏の空木の花に転位し、その花の色を雪・月に譬えた。堂々たる初句切れの後に、あたかも白扇をひろげて天を望むかの第二句以下、実に気品のある浮くしい調べをなす、と。


 おぼつかないつか晴るべき侘び人のおもふ心やさみだれの空
                                     源俊頼


千載集、夏、堀河院の御時百首の歌奉りける時、五月雨の歌とて。
邦雄曰く、長雨の晴れ間を鬱々と待ち侘びる人の心、空はすなわちそのまま胸中を映す。溜息に似た初句切れは、切れるとも見えず第二句に滲み入り、二句切れもまたおぼろに三句に繋がる。思いはそのまま調べとなり、まさに薄墨色にけぶって、ものの輪郭も心の姿も定かならぬ五月雨の情趣を写した、と。


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