山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

山茶花匂ふ笠のこがらし

2009-01-08 20:46:21 | 文化・芸術
Santouka081130086

―四方のたより― 五十歩百歩、されど‥

歳を重ねるごとに涙腺が弛む、なにかにつけて涙もろくなるというのは、どうやら当を得たことのようだ。

新しい年が明けたというに、新聞を見てもTVのNewsを見ても、どうにも暗い話題ばかりが眼につく昨今のご時世だが、それらの記事や報道ひとつに、はからずもつい涙してしまうことが、この頃ずいぶんと多くなった自分に、いまさら気づいては少なからず驚いたりしている。

はて、どうしてこんなにも涙もろくなってしまったのか、自分はこんなんじゃなかった筈なのに、伝えられる事件などの背後に潜む、その人の定めというか軛というか、そんなものが記事や報道から垣間見られたりすると、もう堪え性もなく涙してしまうのだ。

どう考えても若い頃はこんなじゃなかった。自分というものを、兄弟であれ友人であれ先輩であれ後輩であれ、あるいは本のなかの虚構の人物であれ実在の人物であれ、他者とのあいだに共通項を見出すことなどそう容易にはありえなかったし、むしろ他者と区別すること、他者との異なりにおいて自分を見出そうとしてきたし、そうやって自分の像を作ってきたのではなかったか。

それなのに、もういつ頃からだろう、60歳を境にした頃からはとくに目立ってそうなってきたような気がするのだ。

考えてみれば、これはやはり、自分自身の人生観、その転変と大きく関わりがあるのだろう、と思える。そんな気がする。

自身の向後の人生が、これ以上のことはなにほどのこともなくほぼ定まっているかに見えてしまうようになった時、人は我知らずある諦観に達してしまうのだろう。その諦観から、それまで自分とは大いに異なっていた筈の他者の人生が、そんなに違いを言いつのるほどのことじゃない、まあ五十歩百歩なんじゃないか、とそう受け止められるようになってくるのだろう。そうなれば、無縁の他者に対してすらも同化しやすくなる、縁もゆかりもない他者の出来事にもかかわらず、その定めや軛に思わず感情移入してしまい、ついつい涙することも多くなる、ということか。

ある種の諦観や達観を境にして、
たいした違いじゃない、五十歩百歩なのさ、というのも一方の真理なのだろう。
さりとはいえ、小さくとも違いは違い、その小異が大きな意味を持つ、というのもまた真理なのだろう。

願わくば、その両方に跨って大きく振れながら、残された命を生きたい、と思う。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-36

  水干を秀句の聖わかやかに  

   山茶花匂ふ笠のこがらし  羽笠

次男曰く、挙句。冬季。前と一味に作って、客を送り出す趣向である。初巻の「たそやとばしるかさの山茶花」を踏えていることは云うまでもない。

このあと芭蕉は、12月19日には熱田に立戻り、例の「海くれて鴨の声ほのかに白し」-以下、桐葉・東藤・工山の熱田衆と四吟歌仙あり-を得たあと、美濃路を経て再び伊賀に帰った。貞享元年12月25日のことである。帰江は翌2年4月も末になってからだが、「野ざらし」の旅は、「冬の日」興業で事実上終ったと考えてよい、と。

「霜月の巻」全句

霜月や鸛の彳々ならびゐて     荷兮 -冬    初折-一ノ折-表
 冬の朝日のあはれなりけり    芭蕉 -冬
樫檜山家の体を木の葉降      重五 -冬
 ひきずるうしの塩こぼれつゝ   杜国 -雑
音もなき具足に月のうすうすと   羽笠 -秋・月
 酌とる童蘭切にいで       野水 -秋    初折-一ノ折-裏
秋のころ旅の御連歌いとかりに   芭蕉 -秋
 漸くはれて富士みゆる寺     荷兮 -雑
寂として椿の花の落る音      杜国 -春
 茶に糸遊をそむる風の香     重五 -春
雉追ひに烏帽子の女五三十     野水 -春
 庭に木曾作るこひの薄衣     羽笠 -雑
なつふかき山橘にさくら見ん    荷兮 -夏
 麻かりといふ哥の集あむ     芭蕉 -雑
江を近く独楽庵と世を捨て     重五 -雑
 我月出よ身はおぼろなる     杜国 -雑・春・月
たび衣笛に落花を打払ひ      羽笠 -春・花
 籠輿ゆるす木瓜の山あい     野水 -春    名残折-二ノ折-表
骨を見て坐に泪ぐみうちかへり   芭蕉 -雑
 乞食の蓑をもらふしのゝめ    荷兮 -雑
泥のうへに尾を引鯉を拾ひ得て   杜国 -雑
 御幸に進む水のみくすり     重五 -雑
ことにてる年の小角豆の花もろし  野水 -夏
 萱屋まばらに炭団つく臼     羽笠 -夏・雑
芥子あまの小坊交りに打むれて   荷兮 -雑
 をるゝはすのみたてる蓮の実   芭蕉 -秋
しづかさに飯台のぞく月の前    重五 -秋・月
 露おくきつね風やかなしき    杜国 -秋
釣柿に屋根ふかれたる片庇     羽笠 -秋
 豆腐つくりて母の喪に入     野水 -雑    名残折-二ノ折-裏
元政の草の袂も破ぬべし      芭蕉 -雑
 伏見木幡の鐘はなをうつ     荷兮 -春・花
いろふかき男猫ひとつを捨かねて  杜国 -春
 春のしらすの雪はきをよぶ    重五 -春
水干を秀句の聖わかやかに     野水 -雑
 山茶花匂ふ笠のこがらし     羽笠 -冬


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水干を秀句の聖わかやかに

2009-01-07 23:31:55 | 文化・芸術
Alti200601027

―表彰の森― 書の森に紛れ込んで

特別陳列に版画家の「棟方志功の書」を掲げた毎日現代書・関西代表作家展を観るべく近鉄阿倍野店に出かけた。会場は9階のアート館だが、此処に足を運ぶのはいったい何年ぶりだろうか、何だったか芝居を観に来たのではなかったかと、遠い記憶をたどるがどうにもはっきりしない。

そのアート館の空間を回廊のように仕切って、出品者ざっと200人の一作々々がところ狭しと並んでいるのだから、壮観といえばそうもいえようが、全体の印象とすれば些か煩い感じがつきまとう。おまけにひとかどの書家200人の作が一堂に会したとあれば、彼らに連なる人々が押しかけるは必定、会場は引きも切らずの賑わいで、じっくりと鑑賞どころではないのだが、それでも十数点の作品には眼を惹かれ、束の間足を止めては鑑賞させていただいた。

もちろん棟方志功の書もそれなりにおもしろく見応えもあるが、それらの作品世界と関西を代表するという書家諸氏の現代書群が、なにか特別な響き合いを奏でているかといえば、とりたててそんなことは感じられない。なにゆえの特別陳列か、冥途の棟方志功画伯、どうしても客寄せパンダに使われたような気がしてならないのだ。

それにしても、この国において書の裾野はまことに広いものと、あらためて痛感させられる展覧会ではある。

話は変わるが、思い出しついでに書き留めておく。
現在、書道芸術院の理事長を務める恩地春洋氏の門下に、嘗て高嶋春蘭という女性の書家が居た。その彼女に教えを請うていたのが私の妹で、そんな縁もあって私が泉北晴美台に居た頃は、30坪のその稽古場に、展覧会などの出品前にはきまって春蘭門下の面々が集っては、条幅や大きな作品をものするのに汗を流していたものだった。今は懐かし、もう20数年昔のことだ。

その後、春蘭女史は、やむを得ぬ事情もあってだろう、春洋門下を離れ、彼女の弟子たちも雲散した。それからの彼女は、昨今流行りの、絵手紙の表象世界へと転身したようである。妹はといえば、趣味の域を出ないレベルでだろうが、数人ばかりのささやかな私塾も今なおつづけている。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-35

   春のしらすの雪はきをよぶ  

  水干を秀句の聖わかやかに  野水

水干-狩衣の一種、平安時代には庶民の服装だったが、後に公家の私服や元服前の少年の晴着に用いられ、鎌倉時代以降は武士の正装となった。

次男曰く、名残の花の上座だが、三句引上げて荷兮に譲ったことは先に説いた。雑の句。春四句としてはこべば挙句も同季、五句続の春となるから避けている。

其人の風情を男に執成したのは、以て芭蕉に対する謝辞、賞賛としたかったからだ。因みに、芭蕉逗留の店請は野水である。「狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉」に呼応して、客人に衣服を改めてもらうという含みもあるだろう、と。


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春のしらすの雪はきをよぶ

2009-01-04 23:22:07 | 文化・芸術
Santouka08113009601

―四方のたより― 年詞献上
 遅まきながら、年頭所感として

予期されたこととはいえ
 世界同時不況で景気は視界ゼロにもひとしき様相
海の向こうでは
 Changeとばかり、New Leaderのかけ声
 いささかなりと雄々しく響けど
此の国の政に君臨する者たちには
 先見もなければ、不退転の覚悟もなく、ただ政争に明け暮れるばかり
平成の代もすでに二十歳あまり
 平らかに成らむ、と願われた名の由来も、色褪せに褪せはて
 どうにも耳障りなこと夥しい
いまだ幼き吾子は、2001年生れなれど
 平成の何年生れか知らず、また数えず。

「また一枚ぬぎすてる旅から旅へ」 -山頭火、昭和11年初頭の句

昨年は、「山頭火」の語り芝居に、初演から15年を経て
やっと自身些かなりとも納得のいく境を獲た。
この舞台に参じていただいた方々には、あらためて心より謝辞を言上したい。
  2009.己牛元旦   四方館亭主 林田鉄拝

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-34

  いろふかき男猫ひとつを捨かねて  

   春のしらすの雪はきをよぶ  重五

次男曰く、前句を深窓それとも局ずまいの佳人春愁とでも見立てたか。

挙句二句前・春三句目というはこびを考えれば、白州と云い雪掃きと云い呼ぶと云い、うまいことば択びだろう。

恋猫の執念も一区切、捨不捨の迷も一区切、気分の転換がよく捉えられている、と。


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