山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

放ちやる蝗うごかない

2009-06-25 22:37:33 | 文化・芸術
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Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、9月28日の稿に

9月28日、曇后晴、生目社へ。-宿は宿は同前京屋か-
お昼すぎまで大淀-大淀川を東に渡ったところの市街地-を行乞してから、誰もが詣る生目様へ私も詣った、小つぽけな県社に過ぎないけれど、伝説の魅力が各地から多くの眼病患者を惹きつけてゐる、私には境内にある大楠大銀杏がうれしかつた、つくつくぼうしが忙しくないてゐたのが耳に残つてゐる。-略-

今日はしつかり労れだ、6里位しか歩かないのだが、脚気がまた昂じて、足が動かなくなつてしまつた、暮れて灯されてから宿に帰りついた、すぐ一風呂浴びて一杯やつて寝る。-略-

大淀の丘へ登つて宮崎平原を見おろす、ずゐぶん広い、日向の丘から丘へ、水音を踏みながら歩いてゆく気分は何ともいへないものがあつた。もつもとそれは5.6年前の記憶だが。-略-

「途上即事」として、表題の句と
 「笠の蝗-イナゴ-の病んでいる」
 「死ぬるばかりの蝗-イナゴ-を草へ放つ」の3句を記している。

―四方のたより―

You Tubeは昨日に続く「Reding –赤する-」のScene.5-2
デカルコ・マリィ十八番芸その2である-Time 5’13



―世間虚仮― 大阪市有地の不正転貸

昨夕刊と今朝の朝刊と一面を飾っている大阪市有地の転貸問題。
条例違反と挙げられていた2社が、ともに嘗て私の知るところの人や会社であっただけに驚かされつつ記事に見入ってしまった。なにしろ88年から00年までの丸12年の間、港区の奥野市議の事務所に在って、日々舞い込んでくる相談ごとから後援会などのことども一切、また4年に一度めぐりくる選挙関係の諸事全般を経験してきた身であれば、港区の人々や会社については、直接知るもの間接知るもの数多で、否応もなく今なお大脳辺縁系に刻まれているらしく、こんな記事に出会してはその当事者や関係者の人品骨柄が思い出されてくるのである。

もとは土地区画整理事業から派生してきたものと思われる「大阪海陸運輸協同組合」への市有地賃貸が、組合加盟会社の特権的事項ともなって、いつのまにか私有財産として利得の温床となったまま長年にわたって見逃されてきたことだ。

調べてみると「公正職務審査委員会」なるものによってすでに平成19年度、「臨港地区市有地において転貸等の不適正事例が多数ある」ことが勧告されている事案である。自治体の癒着や不正に喧しいご時世のことだから、以後、管轄の港湾局においても是正指導しようと努めてきたには違いないが、にもかかわらず頑なにこれに抵抗、転貸解消に応じようとしてこなかったのが、どうやらN産業とK運輸の2社ということらしい。


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風細う夜明がらすの啼わたり

2009-06-24 23:25:50 | 文化・芸術
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Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」

―表象の森― 期待はずれ「海神別荘」

15日に観たのだからもう旧聞に属するし、印象も希薄になってきているが、遊劇体の「海神別荘」について二、三書き留めておきたい。

昨年の精華小での「山吹」において鮮烈な印象を残しただけに、観る前から今度はどんな造形的演出が見られるか、期待も膨らんでいたのだが、やはりウィングという狭小な空間が演出の想像力の翅を充分に羽ばたかせなかったか、海神別荘なる海の底の世界とて、舞台前面に水槽を配すなど、成る程と思わせる演出もあるにはあったけれど、総じていえば期待に違えぬというにはほど遠い結果であったというしかない。

私にとって見過ごしならぬ耐え難い演出と映ったのは、地上とは隔たった海の底の、いわば異界の表象として演者たちにWireless Mikeを使用したか、なべて拡声器を通した<声=台詞>としたことである。その演出の意図は見え見えだが、この劇場がもっと広い空間ならばそれも効あったやに思われるが、此処ではその狭小な器と拡声器を通した<声>に見過ごしできない違和が生じていた。とても聞き苦しい、苦行にも似た観劇を強いられ続けたといわざるをえない。これが演出上の瑕疵として真っ先に挙げねばならない問題点だ。

次に衣装、とりわけ6人の侍女たちのそれは、これまた目と鼻の先で演じられるがため、趣味の悪さ、作りの粗さが眼につくばかりで見るに忍びないものがあった。

最後に、ヒロインの美女役こやまあいの演技、彼女の演技については前作の「山吹」においても苦言を呈しておいたが、漁師の父親に人間界から海の底へと売り渡され、海底を支配する龍宮城の乙姫様の弟君たる貴公子の許へと輿入れする薄幸の花嫁といった設定のヒロインに、その細身の大柄な姿形は一応見映えはしようが、それだけのこと。柄の大きさが可能性を秘めるというのは、まあいえなくもなかろうが、台詞の口跡も、所作の振も、大柄ゆえに咀嚼することの困難さは他人以上につきまとうもので、まだまだ無理がある未熟さだ。そしてまたウィングの狭小さがここでも大柄な彼女の演技を空間に馴染みつつ棲まうことを阻害しているのだ。

ところが、その彼女が第11回関西現代演劇俳優賞-09年2月-において女優賞を獲ているという。選考の評家諸氏が彼女の何を買ってのことか解らぬが、受賞の根拠となったのがなんと「山吹」の演技であったとされているから、此方としては二度ビックリである。おそらくこの受賞は、女優としての彼女の演技にというよりも、昨年の関西新劇において到底無視しえない「山吹」の舞台成果そのもの、それを根底から支えた演出の功に与えられたものなのだろう。


―四方のたより―
デカルコ・マリィの十八番芸

今日のYou Tubeは「Reding –赤する-」のScene.5-1
特別出演のデカルコ・マリィには、この時とくに彼の十八番芸を披露して貰ったのだが、そのsolo Sceneは12分ほどあるため、<5-1>.<5-2>と分割編集した。-Time 6’26



<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「空豆の巻」-11

   僧都のもとへまづ文をやる  

  風細う夜明がらすの啼わたり  岱水

次男曰く、「いつしか待ちおはするに、-使ひの君が-かくたどたどしくて帰りきたれば、すさまじく中々なり、と-薫は-思すことさまざまにて、-浮舟を-人の隠し据ゑたるにやあらむ、とわが御心の、思ひ寄らぬ隈なく、落し置き給へりならひにとぞ」。
「源氏」54帖の結の描写である。あまりの呆気なさに肩すかしをくわされた感がつよくのこるが、夢から醒める醒め方の工夫としては、これでよいのだろう。後日譚は、読者がそれぞれに楽しんで設ければよい。

「風細う夜明がらすの啼わたり」はどんな人情句にでも付く。遣句もここまであっけらかんと、融通無碍に作られると、前後の句を取持つための殆ど合の手にすぎないが、気分を一新させるすがすがしさの効果はある。
「風細う夜明がらすの」は、物語の上の結によく似合うだろう。因みに細風-微風-を和様に遣った例は、「舟出し侍りつるにあやしき風ほそく吹きて、この浦につき侍りつること、まことに神のしるべたがはずなむ」-源氏物語・明石-のほかには見た記憶がない。岱水は意識的に裁入れて冠としたのではないか、と。


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草を草鞋をしみじみさせるほどの雨

2009-06-23 15:43:31 | 文化・芸術
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Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、9月26日の項に

9月27日、晴、宿は同前-宮崎市.京屋-、宮崎神宮へ。
今日は根気よく市街を行乞した、おかげで一日や二日、雨が降つても困らないだけの余裕が出来た。
帰宿したのが4時、すぐ湯屋へ、それから酒屋へ、そしてぶらぶらと歩いて宮崎神宮へ参拝した、樹木が若くて社殿は大きくないけれど、簡素な日本趣味がありがたかつた。

この町の名物、大盛うどんを食べる、普通の蕎麦茶碗に一杯盛つてたつた5銭、とにかく安い、質と量とそして値段と共に断然他を圧してゐる、いつも大入だ。

夜はまた作郎居で句会、したたか飲んだ、しやべりすぎた、作郎氏とはこんどはとても面接の機があるまいと思つてゐたのに、ひよつこり旅から帰られたのである、予想したやうな老紳士だつた、2時近くまで4人で過ごした。

―四方のたより― 踊ることと演じることと

7月7日のDance Cafeもずいぶん近づいてきている。案内ハガキの発送は、遅まきながら今日やっと済ませた。
ArisaやAyaに発声の手ほどきをはじめたのが5月。ことのついでにこのたびは冒頭に言葉のSceneを置くことにした。彼女らに演技経験もして貰おうという訳だが、この稽古はなかなか厄介なもので、それだけに愉しい一面もある。

踊ることと演技することと、おのれ自身がその心と身体をもってすなるものならば、似て非なるものとはいえ、その懸隔はさほどのことはあるまいと思われるものだが、なかなか、演技における声と身振りの、心身をまるごと伴った変わり身というものは、そう容易くは体得できるものではない。その突破口を少しでも開かれればと、稽古場の壁をどんどん叩くようにして演ってみせれば、ちょっぴり功を奏したか、吹っ切れたようなイイ感じをひととき見せてくれた。見せてはくれたが、も一度といえば、これが再現できないのである。偶然の初発を自身の技や術へと結びつけるのはたしかに難しいことだが、その初発さえ起こすこと-経験-が出来ないようではなにも生み出し得ない。

今日のYou Tubeは「Reding –赤する-」のScene.4
Arisaのsolo part-Time 4’54



―表象の森― 「群島-世界論」-15-

海面下における群島的統一と、それを見えなくさせている大陸と海の抗争をめぐる主題が重層的に渦を巻く意識の大海を縦横に遊泳するのが、鯨という存在である。人類の想像力のなかで、鯨はつねに具体と観念とが交錯・反転する認識の海原をゆったりと横断・回遊しながら生き続け、歴史に介入し、権力を準備し、産業に革命的影響を与え、文学的イマジネーションを鼓舞し、一方でDialectによって生きる小さな民に向けて聖俗ないまぜになった日々の恩寵を与えつづけてきた。

メルヴィル「白鯨」の、死者が落ちてゆく冥府のようなあるいは始原の母胎のような鯨の腹のなかで三日三晩呑み込まれた予言者ヨナの物語。
また、その物語が過去の追憶として語られながらも、鯨という存在をあくまで人間の肉体が対峙する<具体>の生命として無時間のなかに描ききろうとした希有な小説、L.クレジオの掌編「パワナ」-Pawana--。
 -今福龍太「群島-世界論」/16.イデアとしての鯨/より


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僧都のもとへまづ文をやる

2009-06-22 13:03:32 | 文化・芸術
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Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」

―四方のたより― 岡本寺の彫刻たちと滝谷のほたる

奈良明日香の岡本寺で、国内外の彫刻家17人の作品30点を集めた「飛鳥から奈良へ-国際彫刻展序章」が開かれている。平城遷都1300年の来年、奈良市で開催予定の「奈良国際彫刻展」に向けたプレイベントというべきものとかで、栄利秋さんからご案内いただいていた所為もあって、一昨日-6/20-の土曜日も午後になってから観に出かけた。

寺の本堂へ上がって鑑賞していたら、折良く栄さんが姿をあらわした。彼の案内で別会場にも足を伸ばしたうえで、ゆっくりとお茶しながら久しぶりに近況など話し込む機会を得た。
奈良市とオーストラリアの首都キャンベラは姉妹都市だそうで、キャンベラ奈良公園彫刻コンクールの話題や栄さん所有する月ヶ瀬の工房の変貌ぶりなど供され、元気人栄利秋の近況に触れた愉しいひとときであった。

その彼と別れ、宇陀の室生寺方面にある滝谷花しょうぶ園を目指して車を走らせたのは、どんよりと曇った暮れ方の6時半頃であったか、長谷寺の山門前を通り抜け初瀬街道-国道165号-を、榛原、磨崖仏の大野寺付近とうちやり、目的の地に着いたのはすでに7時を少し過ぎていた。
大人800円・小人400円、親子3人〆て2000円也の入園料は、ちと高いと思われるが、蛍を見るなぞむろん初体験の子どもに加え、あとで知るところとなったのだが、連合い殿までこの歳にして初体験とあっては、充分対価に見合うひとときの興ではあった。

まだ明るさののこる広い園内に、咲きほこる数々の菖蒲や紫陽花を歩き見て、高台にある休み処で夜のとばりの降りいくをしばし待つ。と小さな光がふわりと浮かんでは消える、一つ二つ、また一つ‥。
この自然に生息する蛍はヒメボタルか、態も小さくその光もあえかでよわいようで、とてもカメラになど収まりそうもないだろう。数はそう多くもないが、といってまあ少なくもないようで、あちらにほう、こちらにほうと、浮かんでは消えゆくたまゆらの光を追うこと暫時、初体験の彼女らにはかなり堪能できたかと思われる。

今日のYou Tubeは「Reding –赤する-」のScene.3
Ayaのsoloから、Junko& AyaのDuoへ-Time 10’06




<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>


「空豆の巻」-10

  娣をよい処からもらはるゝ  

   僧都のもとへまづ文をやる  芭蕉

次男曰く、僧都は僧正に次ぐ僧官の第2位、娣と見合にした思付である。
「文をやる」も前句恋のうつりだろう。恋の相手ならぬ僧都の許へ文をやる、というくすぐりは、其人の付と読んでそれだけでも連句の趣向になるが、如何せん、良縁をお坊さんに報告した-もしくは相談した-これなら後付になる-という話作りは芸が無さすぎる。芭蕉の付句とも思えぬ。

第一「娣」は「妹」でよい筈だ。そう思って句姿を眺めていると、ある俤が立ってくる。
「源氏」宇治十帖の終章-夢の浮橋-には、入水して救助された女のその後の消息をもとめて、薫が横川の僧都を訪うくだりがある。出家し小野に隠れ住む女の心を測って、僧都は手引を拒む。薫は歌を添えて-「法の師と尋ぬる道をしるべにて思はぬ山に踏み惑ふかな」-小野へじかに文をやるが、彼女は「昔のこと、思ひ出づれど更におぼゆることなく、怪しういかなりける夢にかとのみ、心も得ずなん」と、使としてたずねて来た吾が弟にも会おうとしない。女は浮舟、宇治八宮の姫君である。大君と中君との異母妹にあたり、亡き大君に生写し。

孤屋・芭蕉の付合は、薫をめぐって大君から中君へ、中君から浮舟へ、という姉妹の情に浮舟入水から蘇生までの顛末を絡ませれば、話が宇治十帖のクライマックスであるだけに充分に俤仕立と読める。
「よい処からもらはるゝ」の真骨頂は、この世の男などではなく、御仏の許に貰われた女の至福と考えざるをえない。「僧都のもとへまづ文をやる」は、人物を取替えて、釈教含みの思い切った恋離れとした手立てだ、と私には読める。僧都をなかにして、男の未練ゆえに女の道心が愈々堅固になる、とはまったくうまい。恋を離れるにはかくありたい、と妬かせる工夫の妙である、と。


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秋暑い窓の女はきちがひか

2009-06-20 12:08:09 | 文化・芸術
Dc090315064

Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、9月26日の項に

9月26日、晴、宿は同前-宮崎市.京屋-
9時から3時まで、本通りの橘通を片側づつ行乞する、1里に近い長さの街である、途中闘牛児さんを訪ねてうまい水を飲ませて貰ふ。
宮崎は不景気で詰らないと誰もがいつてゐたが、私自身の場合は悪くなかつた、むしろよい方だつた。
夜はまた招かれて、闘牛児さんのお宅で句会、飲み食ふ会であつた、紅足馬、闘牛児、蜀羊星、みんな家畜に縁のある雅号である、牛飲馬食ですなどといつて笑ひ合つた。-略-

―四方のたより―
今日のYou Tubeは「Reding –赤する-」のScene.2、Junkoのsolo



―表象の森―「群島-世界論」-15-

島尾敏雄はポーランドを再訪、三訪することで、民族と国家と歴史的主体をめぐる彼の固有かつ地域的な問いを、より広がりのある知的射程へと導くことができることを知った。琉球弧、フィリピン、ハワイ、プエルトリコと並んで、ポーランドは、彼にとってのそうした世界を浮上させる特別の一地点として、自身の群島地図にある時浮上したかけがえなき島だったのである。

「群島=多島海」-Archipelago-という語彙が、ヨーロッパ=地中海世界における始原の海エーゲを指す西欧的用法を超えて、近代世界における島嶼の連なりを指す一般名詞として広く流通するために寄与した最重要の書物のひとつが、博物学者A.R.ウォレスによる「マレー群島」である。この書の愛読者であり、まさに言語的変異の坩堝のようなこの海域を船員として往還したJ.コンラッドが、ボルネオ島東部域の海と川を舞台に一人の孤独な夢想家商人の野心と没落を描いた処女作が、「オルメイヤーの阿呆宮」であった。

群島の言語-。「大陸」の原理が抑圧する言語のひとつは国家的枠組みを欠いたDialectという消えかける地方言語であり、もうひとつがPidgin=Creoleというどこにもnativeな帰属を持たない浮遊する混淆言語である。そうした大陸言語の抑圧のもとに上書きされて見えなくなっていたくぐもった異語の肌理が、いま群島のVisionのなかで浮上しつつあるとはいえないだろうか? この、完全に文字言語によっては征服され得ない群島の言語を、彼らを先達として聴き取ることの可能性こそが、いま私たちのまえに拓かれてあるといわねばならない。
 -今福龍太「群島-世界論」/15.言語の多島海/より


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