あまねのにっきずぶろぐ

1981年生
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

映画「サクリファイス」 愛と悪なる神へ犠牲を捧げる一人の人間の果のない悲しみを描く

2020-01-04 23:25:23 | 映画
昨夜、アンドレイ・タルコフスキー監督の1986年5月9日公開の遺作、「サクリファイス(犠牲)」を観た。









1986年5月9日と言えば、その年の8月で5歳を迎えるわたしの、3ヶ月ほど前の時、ちょうどわたしの母が末期癌によって死んだ年の月の、たった2日前の日である。
最初に、この「サクリファイス」というタルコフスキー監督の遺作に対する心からの賛美を送りたい。
真に素晴らしく、何ものも飾ることも媚びることもない素朴で静かな完璧な美しい作品であった。
上の写真のシーンは、タルコフスキー監督のこの映画の一つ前の映画である「ノスタルジア」の(古いDVDの)ジャケット写真のシーンと深く重なる光景である。
「ノスタルジア」のレビューについては昨年にAmazonに載せたものが在るので、良かったら(映画を観た後に)御覧ください。
この映画も「ノスタルジア」と同じく、感動に終わるだけの映画ではなく、死ぬまで考察し続けることのできる大変深く、人類全てにとって、深刻なテーマである。
人々は、映画に感動して、その作品が何を暗喩しているのか?自分なりの様々な考察を述べたくなる。
でもその殆どは、間違っているかもしれない。
何故なら本当に優れた作品とは、人間を超越しているものであり、神に近い存在であるからである。
神の御心というものを、人間が本当の意味で知ることはできないであろうし、神に近い作品を人間の浅い考察で結論づけてはならないことを、わたしはわかっているつもりである。
でも人間は不完全であり、愚かだから、例え自分の考えが多くの人を深く傷つけるものだとしても、その想いを、あえて表明したくなる。
一千万分の一の確率としても、もしかすると、正解かもしれないと、想うのである。

わたしが今、この「サクリファイス」という映画を観たのは、真に絶妙なタイミングであった。
もしかすると、晩年のタルコフスキー監督は今のわたしと、同じ苦しみや葛藤を抱えていたかもしれないと感じられるほどだった。
今わたしは、神(聖書の神、エホバ)に、自分を捧げ、すべての存在を滅ぼさないで欲しいという切実な祈りを聴き容れて貰うがために、自分をイエスのように聖書の神に犠牲にする必要があるのだというみずからの考えによって、日々苦しみつづけているところに、この映画を観た。
亡き母が敬虔なクリスチャンであったわたしは最近、クリスチャン達と共に聖書を真剣に学び始めた。
それで今、神への葛藤の為なのか、日々動悸がなくならないほど苦しんでいる。
一番大きな葛藤とは、神は何故、真の愛であられ、何よりも慈悲深い存在であるはずなのに、何故、自分に逆らう存在を永久に滅ぼしてしまおうと考えているのか。というものである。
そして何故、エホバは、生命にとって地獄のように苦しく、耐え難い犠牲を求めるのか。
この「サクリファイス」という映画では自分の住んできた家を、主人公みずからの手によって全焼するシーンがラストにある。
"家"とは、自分が生きる上で必要であり大切なものの象徴、自分の帰る場所の象徴、自分の愛する者たちと、共に生きる場所、そして何より、自分の命(魂)を、入れる器の象徴である。
それをラストで、主人公のアレクサンドルは、そのすべてをみずから焼き払ってしまう。
"全焼"を必要とするのが、聖書の神だからである。
神は人間の罪の贖いの為に、いつも人間にとって身近であり、大事な存在である動物の命の犠牲を要求し、全焼して自分に捧げることを喜ばれた。
聖書では幾度と、命とは、血のうちに存在していると書かれている。
「血を食べてはならない。」とされているのは、血が命であるからである。
生き物は、全焼しなくては、血が残されてしまうだろう。
即ち神は命のすべてを、自分に犠牲にすることを求めておられるのである。
それは犠牲に捧げる対象(動物)の命をあなたのために犠牲にせよと言っているのではなく、そのものを犠牲に捧げる存在(あなた自身、自分自身)のその命を、神(わたし)に捧げなさいと言っていることに他ならないだろう。
そしてその犠牲を捧げる行為は、神との切ることは永遠にでき得ない契約なのである。
契約とは、神との契りであり、交わりを意味している。
それは自分のすべてを捧げ、永遠に神の奴隷として生きることを神に誓う行為である。
主人公のアレクサンドルは、心の何処かで待ち望んでいた、世界戦争(終末)がいよいよ始まり、すべて(全生命、全世界)を救うが為に、聖書や神への信仰をこれまで持たなかったのに、此処に来て、神に祈る以外に、救い出す方法は最早ないのだと覚り、神に自分のすべてを犠牲にするから、どうか救い給えと切実に祈る。
(此処で勘違いしてはならないのは、彼は自分の愛する家族だけを救う為にみずからを神に捧げると祈ったのではなく、すべての存在を救うが為に自分のすべてを犠牲にすると祈ったのである。もし前者であるならば、それはただの神に背く愚かで利己的な祈りである為、決して神は聴き入れることはないと知っていたはずである。)
そしてみずから、友人から"善き魔女"であると教えられたマリアという名の魔女と交わるのだが、魔女とは、如何なる理由があろうと、聖書ではサタン"悪魔"に属する存在である。
何故なら魔女とは、魔術を使う存在であるからだ。
どれほど善なる想いで魔術を使っていたとしても、魔術とは、神にとっては別の支配者である悪魔との関わりなのである。
これを、アレクサンドルが知らなかったはずはない。
魔女と寝るとは、即ち悪魔との契約を意味していること、悪魔に自分を捧げるという意味であることを。
では、アレクサンドルは結句、神に祈っておきながら、神に背いたのだろうか?
わたしは違うと想っている。
アレクサンドルが、何故、聖書の教えを、聖書の知識を知りながらも、神を信仰することをずっと拒んできたのか?
それは、わたしが聖書の学びのなかで育ちながらも聖書の神を信仰することがどうしてもできなかった理由と、もしかしたら似ているのかも知れない。
聖書の神が、真の愛の神であるのか、それとも、人々を善を装って唆す悪魔であるのか、未だに答えは出ず、わからないからである。
子供の時から、エホバを恐ろしく厳しい存在だと感じており、エホバはなんと乱暴で感情的に人々を大量殺戮しておきながら、自分は憐れみ深いのだと教える納得し難い存在であることを感じていたが、30年以上経っても、その感覚はなかなか払拭し難い。
愚かな人間の基準で、神の意図を知ることなどできる筈などないと言われれば確かにそうだと感じる。
でもそう、簡単に納得の行く存在では決してないことは確かなのである。
アレクサンドルが、何十年と聖書の知識を持ちながらも神への信仰に生きることができなかったことは、極自然なことであると感じる。
人は知識だけによって、神を信仰することはできないのである。
でもアレクサンドルは、同時にずっとずっと、聖書の神を畏れて生きてきた。
つまり、聖書の神は、真の神であるのだと、心の底で、彼は信じていた(信じたかったのである。)
だからこそアレクサンドルは、終末が本当に訪れて、何も疑わずに、神へ自分のすべてを犠牲にすると約束する祈りを捧げることができた。
この祈りの行為こそ、神との最初の契約なのである。
アレクサンドルがすべてを救う為にみずからを犠牲に捧げると契約したのは、悪魔ではなく、聖書の神である。
でもアレクサンドルは、聖書の神に背く魔女と交わることで、まず始めに自分の肉(肉体)を捧げる。
妻以外の女と寝ることは神に背く姦淫の罪であり、処刑されるに相応しいほどの大罪であることも知りながら。
わたしが言いたいこととは、アレクサンドルは、今のわたしの考えと同じように、ある独自の神のイメージを、創り上げたのかもしれない。
聖書の神は、確かに愛であるが、同時に、悪魔であるということを。
アレクサンドルは、ラストで陰陽太極図のマークが後ろについた祭祀を行なうような者が着るみたいな黒い着物を着ていたが、あの闇と光が一体となっているマークが、アレクサンドルの信仰を的確に表していると言える。
愛と悪が、共存している存在、"善き魔女"、"善なる悪魔"である存在こそ、この世(地上)を支配する神であると、アレクサンドルは覚ったのかも知れない。
だから、アレクサンドルは、決して神に背いてはおらず、自分の信仰のもとに、確かに映画のあとに、みずからの命を、神に捧げ、その犠牲によってすべてを救うことを(潜在意識で)信じて死んでゆくことだろう。

「ノスタルジア」は、まだ神の全き善良さを信じられる余白があったかもしれない。
でもこの映画は、善だけではない神への犠牲に自分を投げ打って死ぬことをはっきりと暗示している映画であり、まるでわたしの行く末を、観せられたような心地がしている。
そこには、わたしという生命の堪え難い苦しみがあるだろう。
わたしはすべての生命の堪え難い苦しみをなくしてほしいとずっとずっと、漠然と神に祈りつづけてきた人間でありながら、そのわたしが、みずからを拷問にかけて殺さねばならない。
この考えこそが、愛と悪である神への信仰そのものなのかも知れない。


















永い夢ーレヴェナントの追想ー

2019-10-03 23:58:18 | 映画
誰かは言った。"すべては今起きている"と。
今殺し、今殺され、今死に、今、生まれる。
今愛し、今裏切り、今怯え、今、信じぬく。


ひとつのその答えが在る。
人間の受け入れ難い答えが隠されている。
誰かは言った。
"自然は一番残酷なものだ"と。
この世界で一番過酷なもの、それは自然だと。
人間も動物も、それらを囲むすべての存在、僕らが行い、僕らを待ち受けるもの。
"自然"、僕らは自然に生かされ、自然に殺されゆく。
答えはシンプルだ。
"神は与え、神は奪う。"
Hunterの父親は何を与え、何を奪ったか。
そして何を与えられ、何を奪われたか。
グラスは愛する家族に、愛を与え、与えられた。
そしてその愛に支えられ、彼はHunterとなって家族を養っていた。
彼は殺し続けた。
日々殺し、殺された者達の無念を、痛みを、苦しみを、怒りを、考えて苦しむことはなかった。
そうまるでそれは釣りを娯楽とする釣り師のように。
彼はハンティングを愉しんでさえいた。
獲物に狙いを定め、命中した瞬間、歓喜を挙げた。
獲物が地獄に堕ちる瞬間、そのスローモーションの時間のなかで彼は、自分の家族が満たされて幸福な人生のなかにいる夢を見た。
獲物は地面に力なく倒れ、傷口からは血が溢れ出て、これを止めようとする者はいない。
グラスのように、彼の傷口を縫おうと必死になる人間もいない。
フィッツジェラルドは頭の皮を生きたまま剥がされたが、彼が獲物の皮をまだ心臓が止まってもいない間に剥がしたことは数え切れない。
"なんて酷いことを"フィッツジェラルドにそう言う人間はいなかったか?
彼はグラスの息子ホークを殺した。
彼は妬んでいた。
グラスと、ホークの間にある深い愛を。
アベルと神の間に在って、自分の間にはないことを嫉妬してアベルを殺したカインのように。
フィッツジェラルドはホークを殺し、グラスも殺そうとする。
彼は何処かで願望していた。
"それでも"赦されると。
自分は神に赦されると。
赦されるべきだと。
フィッツジェラルドは、自分は赦されるというただ一つの希望を抱いてカイオワ砦まで辿り着いた。
だが心は、虚しかった。
テキサスでのんびり死ぬまで暮らせるだけの金を手に入れた。
だが心に、神はいない。
俺の心に、愛はない。
フィッツジェラルドは自分の運命をこれほど酷く虚しく感じたことはなかった。
俺は金を手に入れた、だが神を殺した。
俺は愛を殺し、そして金を手に入れた。
ははは、神は奪い、そして与える。フィッツジェラルドは酔い潰れながらそう呟いて小屋の外でぶっ倒れた。
その頃、グラスは美しく青い眼でバッファローの仔に襲い掛かる狼の群れを眺めていた。
次の瞬間、グラスの頭にこう浮かんだ。
いいぞ、いいぞ…そうだ…!よしっ、倒した!これでお零れの腐肉を頂けるかも知れん…。
グラスの頭の中はバッファローの仔の肉のことでいっぱいだった。
唾がぐんぐん溜まってきて生唾を何度と飲み込んだ為、喉の穴が傷んで何度と噎せる。
この時、腹が減って死にそうだったが、グラスの心のなかは燃えていた。
言い換えるならば、グラスの心の底はあたたかった。
何故か、何故ならグラスのなかには、愛が生きていたから。
それは神の愛だった。
グラスはこうして何度死んでもおかしくない状況で自分が生きていること、生かされていることに何度も神に愛されていることを信じて喜びに打ち震えた。
グラスはもともとクリスチャンだった。
クリスチャンでHunterだった。
動物を殺し続け、なんとも想わない愚かなクリスチャンだった。
夢で廃墟となって壁や天井の崩れ落ちた教会の鐘の下の壁に、イエス・キリストが磔にされていた。
なんと美しい光景だろう。グラスはその時、こう確信した。
嗚呼、わたしたちは…選ばれたのか。
イエス・キリストの受難の道を…共に歩む為に。
共に地獄へ…
わたしたちは生まれたときから、そう決まっていたのか。
グラスは恍惚な天からの光に抱かれる。
そのなかで、ホークの亡霊を力づよく抱き締める。
目が醒めてグラスは想う。
今頃あいつ、何してるんやろう。
フィッツジェラルドのことをグラスは凍える雪原のなかで想った。
あれ?グラスは辺りを見回す。
俺また独りに…
おらんなってもうた…グラスは探すが、もうわかっていた。
受難の道。
何処まで歩いても、荊の棘が全身に突き刺さってグリズリーの爪の如くに肉を切り裂く。
俺が選んだ道なのか…神よ。
そう想いながら一つの樹を見上げる。
イエスが囁く。
"この者のなかから、我は野蛮ではないと言う者だけが、あの者達に石を投げよ"
この時グラスは自分の行いのすべてを振り返る。
"野蛮な者"、野蛮な者が、野蛮な者を殺すのか。
いや違う。野蛮な者は、清き者を殺すのだ。
嗚呼、俺が殺してきたもの達、彼らは野蛮ではなかった。
ヘラジカ、狐、うさぎ、猪、熊の仔、ビーバー、野鳩、狼…彼らは野蛮ではない。
野蛮なのは生きようと必死に頑張って、助けを請うているその生命を自分の欲と、幸せの為に殺し続けてきた俺のほうだった。
そうだアイツらのように。
俺の友を殺した後にああやって楽しく喰ったり飲んだり唄ったりfuckしたりしているアイツらと俺は同じだったではないか。
グラスはただ、奪われた馬を奪い返して逃げようと想った。
アイツらは、殺される価値もない。
俺のように…?
いや…殺されるより、苦しみ抜いて生きて死なねばならない。
グラスは自分が何処へ向かおうとしているかわからなくなった。
フィッツジェラルドをこの手で殺し、息子の敵を討ちたい。
だがそれはこれ以上、自分が野蛮な者に成り下がるということである。
どこまでも、神から遠ざかり、その先、どうやって生きてゆけばいいのか。
俺は全てを喪くした。
もう喪うものはない。
グラスは隊長にそう告げ、こう続けた。
でも奴は、喪えるものがある。
隊長は心のなかでグラスに訊ねた。
それはなんだ?
グラスは心のなかでこう答えた。
自己愛、己れへの愛、つまり、神への愛だ。
グラスは寂しそうに言った。
「アイツと共に、俺は地獄へ向かう。」
フィッツジェラルドがグラスの耳に何度も囁く。
"俺を殺しても、ホークは戻らねえぞ"
だが彼は、本当はこう言っている。
「赦してくれ。俺を赦してくれ。俺は哀れな人間だ。俺はオメェのように、人間の愛を知らねえで今まで生きてきたんだ。俺には何も残っちゃいねえ。こんな哀れな人間を殺して何になる?オメェも俺と一緒に地獄へ堕ちるだけだ。堕ちるのは俺一人で良い。そうだろう?改心する…神に懺悔しながら死ぬまで孤独に生きて、最期は野垂れ死するさ、俺みてえな人間は。でもオメェは何度でも遣り直せる。そう想わねえか。オメェは作用反作用の法則というものを知っているか?物理学で、なんでもこの法則がこの宇宙の真理だと聴くじゃねえか。いやそう聴いたんだ。だれか忘れたけどな、へへっ…俺ァ、この法則はほんもんだと睨んだよ。これは言わば重さの法則だ。この世の全ては、テメェの相手に遣ったまったく同じ重さの作用で、テメェに返ってくるんだよ。つまりこういうことだ。俺たちが感じる苦しみには重さがある。小指を椅子の脚にぶつけた痛みの重さと、グリズリーに首を引き裂かれた痛みの重さは違う。他人が目の前で殺される痛みの重さと、愛する者が目の前で殺される痛みの重さは違う。重さは、深さだ。そこにある苦しみの深さは違う。テメェはなんでこんなことになってるんだ?答えを言ってやろう。それはテメェのしたことが、まったく同じ重さでテメェの人生に返って来ただけだろう。言ってやるよ。俺ァ、実は前世の記憶がはっきりとあるんだ。俺は前世、今の俺に生まれ変わる前、俺はちいさなちいさな、白いふわふわのころんころんのうさぎだった。あの日のことを、よく憶えてるよ。なぜなら、俺の一番に愛する母うさぎを、オメェは空から巨大な悪魔のような黒い羽根を広げて、その尖がった鋭い爪先で俺の母うさぎの首元を思い切り引き裂き、右腕を硬い嘴で喰いちぎって、背中を脚で押し潰し、それでどうしたと想う?
オメェは何かを想いだしたような顔をして何処かへ飛んで行っちまった。
幼い子うさぎの俺は一体母親が何をされたのか、まったくわからなかった。オメェは俺たちの天敵、雄の立派な白頭鷲だった。残された瀕死の母うさぎの前で、俺はずっと泣いていた。そのとき、雪が降って来て、痙攣して鳴くことすらできない息も絶え絶えの真っ赤な血で濡れた母うさぎの上に、真っ白な雪が積もって行くのを俺は朝が来るまで凍えながら眺めていた。でもいつの間にか眠っていて、俺はとても永い夢を見ていたんだ。
現実世界ではたったの一時間ほどだったかもしれないが、俺は夢のなかで、オメェと再会したんだ。オメェは人間になって、結婚し、ハンターになっていた。俺は喰いつなぐのがやっとのしがない独り身の毛皮商人、うさぎの皮も嫌という程、殺してすぐに剥いでやった。俺はオメェに出会った瞬間、嫌ァな気持ちになったよ。すぐにわかった。臭いがしたんだ。血腥い実に嫌な臭いだ。まあすべてを想い出したのはそのあとだがな。そういや今日は何年の何月何日だ?確か俺の母うさぎの命日じゃなかったか。ははは、どうだ、オメェもちょっとは想い出したか?馬鹿なことはよせ。先に仇を討つべきは、俺だったんだ。俺はでも、オメェを殺せなかったオメェから殺される前に。殺すべきところが、しくじっちまった。ホークをオメェの代わりに殺しちまったことは完全なerrorだった。赦してくれ。オメェの代わりにアイツは死んだんだ。だれが悪いって言いたいんだ?最初の最初に。悪の根源はどこだ?俺か?オメェか。神か。自然か。野蛮で愚かで残虐なすべての存在の根源は何だ?もしそれが見つからないなら、俺を殺さないでくれ。頼む。俺はテキサスの田舎で居心地の良いバンガローでも建てて、うさぎを趣味で撃ち殺して、その肉で安い赤ワインを毎日飲んで死んでいるように暮らしたいんだ。爺さんになったら、ライフルで一発心臓を撃ち抜いて自殺でもするさ。俺には何もない。俺は神を殺したんだ。……俺を殺したところで、神は喜ばない。俺の記憶の中では、俺はもう生きていない。……ひとつ、訊いてもいいか?何故、俺たちは何にも残されちゃいねえのに、何故、まだ殺し続けるんだ?弱く、愛を求める者たちを…。俺たちが、本物の息を、吹き返すまでか。」















Hell Ensemble  by Ryuichi Sakamoto













荒野の男とユリアン

2019-01-10 21:03:12 | 映画

『社会が貪り、動物を貪らせ、それ自体が不従順な子供たちを貪る(喰い尽す)のです。』

                           Pier Paolo Pasolini



荒野の男を演じたピエール・クレメンティとパゾリーニ監督


前回の記事の続きを書く。
パゾリーニ監督が『豚小屋』でぼくたちに伝えたかったこと。

ぼくたちは"貪り尽くす動物(不従順な子供たち)"だということ。
そして"貪り尽くされる動物(不従順な子供たち)"だということ。
そして"動物を貪り尽くす動物(不従順な子供たち)"だということ。
そしてそのすべては"隠されている"。
権力者たち、実業家、巨大産業で利益を上げる人たち、弱者を支配し、快楽に耽る人間たちによって。
資本主義(弱者を支配することを善とする主義)の悪と、それによって地獄に落ちて殺される犠牲者たちを監督は描きたかったのかも知れない。

犠牲者たちの清らかさ、みずからの罪を認める者の強さ、この美しさはみずからの罪を認めず、犠牲を拒む者の中にはない。

ぼくたちはほとんど大罪を犯し続けて生きてきたと言っていい。
でも同じ罪を犯していても、その罪に苦しみ続け、神の食べ物(生贄、犠牲)としてみずからを捧げようとする者は美しい。

 

 

 ユリアンを演じたジャン=ピエール・レオ

 

パゾリーニ監督はそんな人間を描きたかったのかも知れない。
イエス・キリストに対する罪というものを、彼は考えてきた人なのかも知れない。
もしそうなら、それはぼくと同じだ。

ぼくはすべての人は同罪(同じ重さの罪)であるべきだと考えている。
いじめをする人間とそれを傍観して何もしない人間が同罪であるのと同じに。
すべての人が、必ず誰かの罪を傍観している。
すべての人が、必ず誰かの堪え難い苦しみを傍観している。

畜産業の大量生産は需要がある限り廃止されない。
売上が続くからこそ続いている最も酷い生産だ。
ぼくたちがそれを支えてきた。
家畜がどうやって日々殺され続けているのか、それを知る人は少ない。
それに関心を持つ人も少ない。
できれば見たくないとほとんどの人は想っている。
そして赤肉(牛や豚などの四肢動物)や加工肉には発ガン性物質があると国連が発表しようが、それに真剣に耳を傾ける人も驚くほど少ない。
ガンになってでも食べ続ける。
そしてガンになって苦しんで後悔して死んでゆく。
なかにはそれでもみずからの罪を認めようとしない人たちもたくさんいる。
消費者たちは、食肉や畜産物がどのように作られているかを知りたくない。
生産者たちは、食肉や畜産物がどのように作られているかを知らせたくない。

パゾリーニ監督の『豚小屋』という映画の最後の人物の姿が何故、豚の顔になっているのか?

彼は実業家であり、搾取し続ける立場にある人間だと言える。

搾取し続ける者、つまりぼくたちだ。
ぼくたちは動物(家畜)たちから肉も骨も内臓も乳も卵も毛も皮も搾取し続けてきた者たちだ。

 

 

人間の肉を貪り尽くす豚たちを見たなら、ぼくたちは何を想うのだろう?
おぞましい、不快なもの、気持ち悪い、吐き気を催す、"見たくないもの"。

豚のすべてを搾取し続けてきたぼくたちが、豚を貪り尽くしてきたぼくたちが、そう感じるのは、それは自分自身に対して感じていることじゃないのか。

リアルに想像するなら、本当におぞましいものだ。
ぼくだってそれを見たくはない。
でもまったく同じことをぼくはぼくが搾取してきた動物たちにしてきたんだ。

大量生産はスピードを上げるほど儲かる。
言うことを聞かない逃げ惑う動物たちを殴る、蹴る、電気ショックを与える、しっかりと気絶していない内から解体してゆく、気絶から目を覚ましても解体作業を続けることなんて日常茶飯事だ。

『それは秘密にしておくように』
誰もがそう自分自身に向かって言い続けて来た。

あまりにおぞましいことだから。
『隠され続ける』べきだと。

口に人差し指を当てて、『しーっ』と言った瞬間、自分の顔は豚になっているんだ。

豚とは何を表しているか?
そうだ、『喰われる(貪られる)者』、同時に『喰い尽す(貪り尽す)者』だ。
いつの日か不従順な子供たち(豚、家畜、動物)に喰われる者、そしていつの日か人間(不従順な子供たち)を喰い尽してしまう者、それが搾取し続ける者たちの運命、ぼくたちの辿る道。

豚が豚を喰ってきただって?
それじゃ共喰いじゃないか!
人が人を食べる行為に等しい。

その通り、人肉食をぼくらは何年と、何十年と、続けて来たんだ。

御覧、豚が殺されて首を落とされ、逆さに吊り上げられている姿を。
人間の姿とそっくりだ。

家畜たちは、危機を感じるととにかく逃げようとする。
生き延びようと彼らも必死なんだ。
苦しみたい、拷問を受けて殺されたいなんて想っている家畜はひとりもいないはずだ。

ではホロコーストで強制収容所へ送られた人たちはどうだっただろう?
苦しみたい、みずから拷問を受けて殺されたいなんて想って殺された人はいただろうか?

ぼくはみずから拷問を受けてその後に首を切られ、生きたまま解体されてゆく中に死んでゆく地獄を味わいたい人間だけが肉や畜産物を食べるべきだと想っている。

そこにある人間の狂気、それがパゾリーニ監督の撮った『豚小屋』という映画なんだ。
そこにある本物の狂気をパゾリーニ監督は悲しくも美しく撮った。

そしてこの狂気に及ばない者たちは、豚(家畜)たちだと言っているように想えてならない。

パゾリーニ監督は豚たちに埋め尽くされたこの悲しい世界をずっと見詰めてきたんだ。
そして自分はそうはなりたくないと想っていたはずだ。
だからあんな地獄の末に殺されて死んで行ったんじゃないか。

 

 

パゾリーニ監督は人間だったんだ。
自分の罪を認め、そのすべてに責任を持つ者、それが人間の本当の姿だ。

人間の在るべき姿。
その姿は、例え罪に穢れていても清らかで美しい。

でもほとんどの人間たちは、自分は豚(家畜)に拷問を与え殺し続けながら、自分はそんな目には合いたくはないなんて言ってる豚たちなんだ。

そして豚は豚に生まれ変わるはずだ。

豚(家畜)に生まれ変わりたくないのなら、自分の罪に向き合って欲しい。
毎日、彼らは、本当に堪え難い地獄の拷問の末に殺されている。
これは拷問処刑に等しい。

何の罪もないのに?
いや、それはわからないんだ。
身勝手な人間が家畜に生まれ変わる世界なのだとしたら、そこには罪があるからだ。

そして人間が人間を食べ続ける世界が出来上がっている。
人間が豚を食べる世界も、豚が人間を食べる世界も、豚が豚を食べる世界も、人が人を食べる世界も、実は同じなんだ。
同じことをしている。

家畜はとにかく肥らされる。
肉を多く取れるし脂肪の多い肉ほど人間に好まれるからだ。
その為、不自然な脂質の高い餌を大量に食べさせられている。
つまり全員、家畜はメタボで病気なんだ。
そして病気で死んだ豚や鶏は豚や鶏の餌になる。
病気で死ぬ前の病気の家畜は人間の餌になる。
病気の家畜の死体を必要以上に食べて、人間は病気の豚になる。
豚の完成だ。
豚は人間ではないので豚小屋に監禁され、地獄の末に死んでゆく。

そしてそれを嫌ほど繰り返し、漸く目が覚めるんだ。

豚はやめて、人間として生きようと。

豚は豚を食べなくちゃダメだし、食べさせられる。
人は人を食べなくても生きて行ける。

ぼくは人(家畜)を食べるのはやめた。

ぼくは散々人を食べてきた。

 

 

 

わたしは父を殺した。
わたしは人を喰らった。
そして、絶望の内に、わたしは死ぬだろう。

わたしを食べる者は、わたしが食べて来た者。

 

荒野の男の生まれ変わりが、ユリアンなんだ。

彼はどこまでも自分を赦すことができない。

それほど、最初に殺した父親のことを、愛していたからかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 



此の世の真理を描く映画『豚小屋』

2019-01-06 00:40:40 | 映画

2019年

VEGAN (ヴィーガン)です!!

今年は昨年よりも世界中で完全菜食者たちが増加するとぼくは見た。
今年は昨年よりもVeganの反逆が増えるかも知れないが、それも仕方がない。
身勝手な人類は、想い知る必要があるんだ。

自分がどれほど他者に対して酷いことを遣って来たのかを。
第三次世界大戦が起きる前に。

ぼくは人類に知らしめたい事がある。

人間の愚かさ。
人間の頭の悪さ。
人間の幼稚さ。

剣を持つ者は剣によって滅びる。

つまり他者に暴力を振るい、殺す者は、他者から暴力を振るわれ、そして殺される。

それが嫌なら、他者に暴力を与え殺すなということだ。

ぼくは暴力を心の底から悲しんでいる。

ぼくは暴力を、この世界から無くしたいと本気で想っているんだ。

ぼくにとっての暴力とは、『他者に堪え難い苦痛を与え、死に至らしめる(殺す)もの』
これこそが、この世の最も忌むべきもの、不快なもの、幸福のない世界。

これすら無くなるのなら、この世は弥勒の世と呼んで良い世界になるのではないかと想っている。

それ以外なら、人間の成長(愛を深めること)の為の必要な試練の苦しみと呼ぶだろう。

誰も他者に堪え難い苦しみを与え、殺さない世界。
此処で言う『他者』とは、実は自分自身である。
ぼくの言う他者とは、すべての存在のことなんだ。
ぼくの言う他者とは、すべて自分自身の分身なんだ。

他者に堪え難い苦しみを与え、殺す世界とは、自分に堪え難い苦しみを与え、殺す世界なんだ。

何故、自殺者がいなくならないのか、考えたことはあるだろうか。
何故、戦争が終わらないのか、考えたことはあるだろうか。
何故、殺人者がいなくならないのか、考えたことはあるだろうか。
何故、堕胎と死刑を肯定する人がこれほど多いのか、考えたことはあるだろうか。

ぼくは一つ、答えが出ている。

みんな自分を殺したいんだ。

自分(他者)を殺し続けてきた自分が殺したいほど憎くてたまらないんだ。

そして殺す者は他者(自分)に殺され、殺戮の連鎖が延々と続く世界なんだ。

ぼくはそんな世界に生きてゆくことがいい加減耐え難くなった。

みんな自分を殺し続け、自分から殺され続ける世界。

ぼくはそのすべてを助けたいと本気で想っている。

だから人々をどんなに傷付けてでも、大晦日に『DOMINION』をブログで紹介したんだ。

何人の人が、最後まで観てくれたのかもわからない。
なんの反応も此処に帰って来ないから。

ぼくは断言できる。
『自分(他者)を殺し続け、自分(他者)から殺され続ける世界』から自分(他者)を救い出す方法は、一つしかない。

"Vegan"になることだ。

健康になるためにじゃない。
環境破壊をなくすためにじゃない。

自分(他者)を殺し続け、自分(他者)から殺され続けない為に。

それが人間が自分(他者)を救う唯一の方法だとわかったんだ。

今やこう叫ぶ人はすごく増えてきた。

『GO VEGAN!!(ヴィーガンになろう!!)』

ぼくたちがぼくたちを救う方法はたった一つ、これだって目覚めた人が増えて来ているんだ。

でもまだ多くの人は、自分(他者)を殺し続け、自分(他者)から殺され続ける世界を肯定(賛美)している。

”それ”がどれほど恐ろしい地獄であるかを"忘却"してしまったからだろうか?

人や動物が殺されることを不快に想い、悲しむのは自分が殺されたことがあるからだ。

でもほとんどの人はそれを記憶の底に封印してしまっているんじゃないか?

でもアーティストたちは、それを表現によってぼくたちに示してくれているのかも知れない。

 

先日に観たパゾリーニ監督の1969年の作品『豚小屋』がその一つだとぼくは感じている。

 

 

この映画に興味がある人は是非、先に観てほしい。

 

 

冒頭の台詞はこうである。

 

『我々は良心に従い、

 お前の不順ゆえに

 お前を食べることにした』

 

『豚小屋(原題:Porcile)』という映画には、三大テーマがあるとぼくは見た。

『人肉食』『獣姦』『獣から喰い殺される人間の運命』

これが監督が人間の最大の罪をメタファーにして表現していると感じた。

 

ピエール・クレメンティ(Pierre Clementi)

 

まずこの映画には人間が人間を殺し、人間の肉を貪るシーンが描かれている。
といっても、ぼくが笑ってしまったのは、普通の食事のように人肉を食べる姿があったからだ。
まるで疲弊したサラリーマンが帰りに一人で焼肉屋へ赴き、一人で焼肉を焼いて食べているかのように、その者は人間を殺したあとに人間を食べていた。

これは一体なにを表しているのか?
何故、こんな飄々と人間が人間を殺したあとに人間の肉を食べているのだろう?

おぞましくグロテスクなはずのシーンを、パゾリーニ監督はまるで日常風景のひとコマであるかのように撮った。

これに対してぼくは最初可笑しくて笑ってしまったけれど、最後まで見終わってこの人間の複雑なものを考えて、とても素晴らしいと感じた。

最初は飢えによって仕方なく人間の肉を食べているかのように見せるが、次第にそうではなく、人間が人間を殺してその肉を喰らうことに快楽を見出だしているかのように描く。

その光景をとても俯瞰的であり普遍的に描いている。

 

ジャン=ピエール・レオ(Jean-Pierre Léaud)

 

この映画は過去と現代が交差するように描かれている。

一方、此処でも一つの背徳行為に快楽を見出だしてしまった者が描かれる。

『獣姦(家畜に対するレイプ)』だ。

(しかし直接的な獣姦なのか豚を見ながらのマスターベーションであるのかははっきりとは描かれてはいない。どちらにしろ著しい冒涜(神への反逆)である。)

16歳の頃に、彼は豚(家畜)小屋に入り、そこで何を見て、感じたのだろう。

 

 

豚に対し、性的欲情を抑えることができないなんて。
でも豚は見れば見るほど人間によく似ている。
何故、あんなに人間の肌とよく似た肌色なのだろう?

 

 


豚の目を見つめれば見つめるほど、人間の目を見つめているかのようだ。

 

 


豚と人間の共通性は驚くほど多い。

  • 豚の心臓は人のものと作りが同じで、2心房2心室で大きさも人とほぼ同じ
  • 臓器の大きさが人間と似ている
  • 皮膚を作っているたんぱく質の組成および量が似ている
  • 冠状動脈(心臓に栄養や酸素を運ぶ動脈)の分布が似ている
  • 最低血圧が50~90mmHg、最高血圧が100~140mmHgである
  • 雑食性のため、消化吸収の生理が似ている
  • 目の構造が似ている
  • ミニブタの場合、成熟体重が人間に近い

だからと言って、彼に人間よりも豚の方が性的快楽を与えてくれたのは何故だろう。

 

 豚はいずれ、人間の食べ物となる。

そして人間の血と肉となるんだ。
つまり人間は豚の血と肉でできている。
それなら、人間が豚に見えない方が可笑しいんじゃないか?
無論、ぼくは人間が豚(家畜)に見えるけれども。
そうか、彼はきっとぼくと同じに、人間が豚に見えて、豚が人間に見えてしまったんだ。

おそらく、実際にそうなのかもしれない。
豚は本当に人間の生まれ変わりなのかもしれない。
"輪廻転生"という宇宙の摂理によって。
だから豚は人間だし、人間は豚なんだ。
過去のすべても未来のすべても今存在しているのだから。

だったら豚を犯すこと。
これは人間を犯すことと同じだと言える。
君が何度と食べてその血肉にしてきた豚は人間によってレイプされて子供を産んだ豚とその仔豚たちだって知ってた?
嫌がる豚を苦しめ無理矢理、生殖器のなかに手や器具を突っ込んで人工受精すること、これも人間による豚へのレイプだ。
レイプ被害者たちを殺したその肉(死体)をぼくたちは美味しいと感じて食べて来たんだ。

彼をもし責めるなら、彼は笑ってぼくたちにこう言い返すのかもしれない。

「本当の豚は君(僕)たちの方だけどね。」

彼が執拗に人間より豚を愛して豚とセックス(例え妄想でも)してきたのは彼の目には人間よりも豚のほうがずっと美しい存在として映ったからじゃないか。

 

 

豚は例え身体が汚くて臭くても、心は人間より清らかに見える。
そして彼らは人間より弱者だ。
だから殺され続け、食べ物としてしか見てもらえない。
ほとんどの人にとって彼らは皿の上に載っかった料理としてしか、存在を喜んでも貰えないし、存在意義(存在価値)を認めても貰えないんだ。

彼らが人間と同じに子供と引き離されたら大声で泣き叫んで必死に子供を奪い返そうとすることに人が心から感動するなら、もう彼らを殺して食べることなんてしないだろう。

つまり多くの人間は、自分達の持つ愛情にさえ心から感動もできないほど虚しい生き物なんだ。

だから同じような愛情を持つ豚を”食べ物”として見ることができたんだよ。

『愛情』というものに関して、人間は豚以下だ。

彼にはそれがわかったんじゃないか?

だから人間より豚のほうが魅力的に感じて、豚とのセックスをやめられなかったのなら、自然なことだ。

彼には本当のことが見えていたんじゃないか?

本当の家畜は、豚よりもぼくたちのほうだってことを。

 

 

君なら、人間の餌となるのと、豚の餌となるの、どっちを選ぶ?

ぼくには人間のほうがずっと愚かに見える。
人間の餌となる前に、ぼくは豚の餌になりたい。

『僕の愛ほど卑しくつまらぬものはない』

『堕落とは違う』

 

ではこの映画の三つ目のテーマに入る。
『人間が獣(動物)に喰い殺されて終る』結末を、何故、両者に監督は描いたのだろうか?

過去と現代、両方とも、この映画は無惨でおぞましい結末を迎える。

両者とも共通していることがある。
弱者を我が物とした結果、動物に喰い殺されるという最期だ。

イエス・キリストによれば女を情欲の心で見る行為も姦淫という大罪であることが示されている。
何故、そこにある美しい神聖さを簡単に冒そうとするのか?
それは相手が自分よりも弱い存在として見下しているからではないか?
女を情欲の心(妄想)で犯す者も豚を情欲の心で犯す者も結末は同じかもしれない。
”神聖を穢した罪による報い”というものがパゾリーニ監督の彼自身のテーマであるのかもしれない。

一方は弱い人間を殺し、食的快楽に耽った。
一方は弱い動物を犯し、性的快楽に耽った。

一方は『この現象は崇高で美しい』と延べ、一方は『喜びに打ち震えた』と延べ、

両者とも神に背いた結果、弱者によって喰い殺される。

鬼才と呼ばれ続けるパゾリーニ監督はこの映画を撮ったが、『豚小屋』はパゾリーニ監督のなかで唯一(?)興行に失敗した(客が一番映画館に足を運ばなかった)作品らしい。

それはこの映画が人間が必死に目を背けてきたこの世の真理を描き切ってしまっているからではないだろうか?
人々はこの映画のなかに真実が隠されていることを何となく勘付いているのかもしれない。

ぼくはこの映画のレビューで肉食に対する危惧(今も行なわれ続けている弱者に対する支配)について考えを廻らした人間がほぼいなかったことを不思議に想っている。

それは人間にとって最も目を背けたい事柄だからではないか?

でも言っておく。最も目を背けたい事柄とは、人間にとって最もおぞましく深刻な事柄であるということを。

 

人間が"弱者を支配する"という神に反する行いを続けるなら、必ず"喰い殺される"という真実をパゾリーニ監督は意識下か潜在意識下で見抜いていたのだと想う。

そしてこの世で最も喰い殺され続ける存在とは、"家畜(人間の未来)"であるということを、監督はこの映画で表したかったのではないか。

もっとも、作者本人であれ、作品のすべての意図を正しく知ることはできない。
監督自身、気付いていない作品の意図があるはずだ。
優れた作品とは必ず神が関与している。
だからぼくたちが最も知りたいのは作者の意図ではなく、この作品に携わっている神の意図ということになる。

監督自身は1969年9月のインタビューでこう答えている。(自動翻訳なので少しわかりにくいが言わんとしていることは何となく解る。)

 


 

「このPierre Clementiは、最も絶対的で、総合的で、最も不名誉な息子のうち、不従順な息子です。要するに、よりスキャンダルです。

彼はまたこれを知っているので、ある種の報復のために捕虜になって動物に貪欲にされたと非難されたとき、彼は悔い改めず、彼の虐待的な服従にはほとんど誇りを持っています。

結論として、社会は動物を貪ること、すなわち”それ自体が不従順な子供たちを貪る”ことを貪る(結論としては、社会はむさぼり食う動物、すなわち”聞き分けのない子供を食い尽くすこと”それ自身をむさぼり食います。」

 

「結論を出すのを忘れました。

つまり、最初のエピソードと同じように、社会がいかにして不従順な子供、完全に不従順な子供を貪っているのかを見ることができるので、不従順でも従順でもない子供も貪欲です。」

 

「私は犠牲者の側にいます。

著者としては、当然ながら客観的に偏見はありませんが、私は同情をもって見ている不従順な息子の側にいます。

従順または不服従をしている息子の側にいます。」

 

質問者:「クレメンティは、必要によって、飢餓によって共食いを強いられる人を表しています。これは、あなたが生存の必要性の結果としてあなたがこの共食い主義を考えるということを意味しますか?」


Pasolini:「S-si、しかしこの生存の必要性は、実は口実です

それはこのようなたとえ話の始まりです。

次に重要なのは行為です。それはこの行為が持っている反乱の虐待的な意味のひどい良心です。」

 

質問者:「あなたの宗教について教えてください。」


Pasolini:「AccattoneとOedipusに見られるように、私の信仰は物との、そして現実の生き物との神聖な関係です。

つまり、自然は自然に見えません。

それで、すべては私には従来の意味で奇跡的ではなく、ほぼ要するに神聖な形で現れます。」

 


このインタビューを読んでも、監督自身は肉食、畜産の大量生産(飽食、大量消費)について言及しているとわたしは想います。

この『豚小屋』というタイトルの映画が実際の豚(家畜)をそっちのけにしている(テーマである)はずはないし、優しい冒頭の音楽が流れる中、豚たちの様子を監督が映したことは、監督の暖かい動物への眼差しを感じてならない。

畜産業の大量生産は資本主義の最も大きな最悪な罪の一つである。(それは先ほど載せたドキュメンタリー映画『DOMINION』を観てくださればわかるだろう。)

肉食の必要性(生存の為の必要性)は、実は口実である。肉や畜産物や魚介でしか摂取できない栄養素はないからだ。

資本主義社会は、人間を最も家畜とする社会なのは、これはメタファーではなく、実際に人間が家畜となって生まれ変わるための社会構造なのではないのか?

『DOMINION』のあとに、君がこの『豚小屋』という映画を観るなら、何を感じ取れるだろう?

最後に二人は意味深な言葉を言い放つ。


 

ユリアン『この前も夢を 水たまりがあった 僕は光輝く黒い水たまりを捜した オーロラのようにキラキラのだ 忘れたけど たぶんおもちゃを捜した 水たまりの向こうに仔豚がいた 触ろうとしたら 咬まれた 右手の指を4本だ だが 血は出ない ゴム管のようだ その指の事で僕は困り始めた 殉教者みたいに この愛の意味は? 真実を知りたい衝動か』

 


 

荒野の男『私は父を殺した。人の肉を喰らった。そして、喜びに打ち震えた。』

 


 

 

 

 

優れた作品に神の意図を見付けられないなら、真に不幸なことだ。

パゾリーニ監督が最期は多分に地獄の拷問を受けたあとに殺されたであろうことも、パゾリーニ監督の自らの罪の意識の深さによるものだと考えている。

"自らの罪を裁く者"、それが人間であるのだと監督は言いたかったのだとわたしは感じる。

人間はどう足掻いても、神によって創られている以上、罪の意識を完全に喪わせることができない。

どれほど神に背いて生きようが、神によってできている限り、必ず神へ戻って来なくてはならない。

 

 

罪の意識を持って弱者を支配し続け、そして喰い殺される顛末を延々と繰り返し続ける世界で、人は何を願うのだろう。

それは豚の目が君に向かって訴えていることじゃないか?

そうでなければ、豚の目があんなに人間と似ているはずないじゃないか。

権力者たち、大企業によって利益を上げ続ける者たちは、この真理が世に広がり、人類を救う日を恐れている。
資本主義社会の終りを意味しているからだ。

『豚小屋』は1969年の作品で今年は50周年に当たる。
50年後の今、ぼくたちはまだ豚小屋で生きている。

1975年にパゾリーニ監督が暗殺されてから今年で44年目に入る。

資本主義社会はまったく持続可能なものではないし、持ってあと半世紀。

でも無理に続けようとするなら、ホロコースト(人類削減)を世界中で起こさない限り食糧難(飢餓)と水不足、環境破壊と気候変動と自然災害の末に第三次世界大戦は必ず起きるだろう。

早くて10年以内にそれらが遣って来ても全くおかしくない時代にぼくたちは生きている。

ぼくたちはそれらを経験するかもしれない。

そうすると今までで最も酷い惨劇の世になるかもしれない。

今の世の中を象徴するのはまさしく”豚小屋”ではないだろうか。

無数の豚(人間)たちが、人間(家畜)を食べている姿が君にも見えるはずだ。

この豚小屋のなかで君がどんな幸福を望もうとも、所詮豚小屋のなかの幸福だ。
この豚小屋のなかで君がどんな幸福に満たされようとも、所詮豚小屋のなかの幸福だ。

喰われる為に殺される未来が刻一刻、近付いている。

 

『人肉食、獣姦、そんな行為よりも、もっと恐ろしいのは、肉食(動物という人間を食べ続ける為に大量生産を肯定する行為)なんだ。』

ぼくは人類をこの豚小屋から救い出そうと本気で想っている。

唯一の方法。

人類をすべて、『VEGAN』にするという方法だ。

でも動機が不純であれば、救われない。
人類が救われる動機とはただ一つ。

『すべての生命を命懸けで救いたい』

という動機だ。

不健康だからとか、美味しいものが食べられないのは不幸だ(生きる喜びが減る)からと言って人間(家畜)の肉を喰らう者は自ら苦しい地獄へ向かって歩んでいることに気付いて欲しい。

それが無理なら、ぼくたちは豚小屋で死に、目が覚めたら、豚小屋にいることだろう。

人間の食べ物(血肉、人間)となる為に生まれてきて、そして殺されるだろう。

何十億回と。

 

 

 

 

 「荒野の男とユリアン」に続く。

 

 

 

 

 


映画『ソレダケ/that’s it』 俺様の狂器はこの眼だ。

2018-09-13 01:36:32 | 映画

『爆裂都市 BURST CITY』の石井岳龍監督(ex石井聰亙)の2015年公開の映画『ソレダケ/that’s it』をAmazon Primeで観た。

 

 

 

 

 

 

アマゾンプライムビデオはどうやら月額400円払ってアマゾンプライム会員になるとプライムの印が付いたプライム映画を無料で鑑賞できるということを今更知ったのだった…(何年も前から会員やったのに…あほか…)

ま、そういうことでゲオオンラインで借り損ねてしまっていたこの映画を観ました。

綾野剛祭りなんでね、今月は…

脳内、綾野剛祭り。彼の出演作ばかり観ていますぜ(途中、突然恐竜熱が熱くなりジュラシック・ワールドに浮気しちまいやしたがね…へっへっへ)

いやぁこの映画、俺の大好きな映画の『爆裂都市 BURST CITY』の監督、石井岳龍(がくりゅう)監督の映画で、期待して観ました。

1982年(俺の一歳時)公開の『爆裂都市 BURST CITY』はね、我が師匠である町田康が町田町蔵時代に出演している映画で、最高にかっこいい泉谷しげるも観れた印象に残る映画です。

でね、町田康原作の『パンク侍、斬られて候』の映画をまたこの石井岳龍監督が、なんと、綾野剛主演で撮って下すって、今月に尼崎の劇場に独りで観に行く予定でござる。

いやぁ、初めての独りでの映画館での映画鑑賞、ドキドキ、そわそわ、まごまごしています。

誰かと一緒に行こうかと想って募集かけても、誰もいないんだす…

ま、つうわけで、『ソレダケ/that’s it』のレビューに行くと、これはね、綾野剛を観る為の映画だった…(笑)

かっけえ綾野剛をね。今月、彼の出演作を何本と観ましたが、今までで一番に切れてる(人間の或る一線を越えちゃってるという意味の)役で、一番、最高にかっけっかったっすよ。

日本で今一番美しい俳優と言えるんじゃないでしょうかね。マジで。

ではね、その証拠と言えるこの映画の写真を、貼り付けようと想います…

 

全国の綾野剛を愛する皆しゃ~ん!(笑)

この顔、脱糞必至!!!!(笑)ちょっと盛り上げたくなるくらい好い顔してるんですよ。

 

あのね、彼の目を剥く白目がちの眼がね、うちのわたしに暴力を振るう寸前のいつもの兄の眼にそっくりなんですよ。(ほんとにこういう眼だった、怖いのなんの…)

恐ろしくもあり、同時に美しい、そんな震えるような眼です。

彼が竜型人間(爬虫類系)であることを確信した眼です(笑)

 

 

 

 

 

 

連続で行きますよ。

 

てめえら、このかっこよさに脱糞しろやあ!!!!!By千手完(せんじゅかん)(苦笑)

(なお、写真の下の台詞は映画の台詞ではありません)

 

 

 

 

 

 

 てめぇ、なに言っとんじゃこらぁ。

 

 

 お?なんどよその顔は。

 

 

(ケケケ)おめぇの喉にたこ焼き返し突き刺して目玉焼き作ってやろうか。(意味不明)

 

 

 

 

 あん?氷の上にション便かけた後の温度を知ってんのか?おいこら(イミフ)

 

 

 

 

 お、おお…そうか。し、知ってんのか…(やるなてめえ)

 

 

 

 

 

 くっそー俺だって、知らなかったのにぃ…(悔しーぜまったく)

 

 

 

 へっへえっへっへっへっへっへえっへっへへっへへへへ…っくぅぅぅぅぅぅぅっ。この髭、ど、どう…?

 

 

 

 てめえがいくら喚いても、俺の魚顔(ぎょがん)には勝てねえぜ。(自虐的)

 

 

 

 

 

 じらふ!!!!!ジラフ踏んでんじゃねえよ!!!!!(イミフ)

 

 

 

 

 

 う~ん、弁天祭りって行ったことあったっけかなぁ…

 

 

 

 

 

 あるんだろ?てめえ!!しらばっくれてんじゃねえぞこらぁ!!

 

 

 

烏賊焼き喰ってたら殺すぞこらぁ!骨を、骨を喰え!(危ない)

 

 

 

いやあの時さぁ、俺はてめえを観掛けたはずなんだよ。

 

 

 

その時、てめえは俺を振り返って確かこう言ったんだよ。

 

 

 

「黄な粉臭え」ふっふっふっふっふっふっふっふっふっふっふっふっふ…ん、んふ…

 

 

 

え、それ言うなら「きなくせえ」だろ。俺は確かそう返した。あん時。暗時。

 

 

 

 

って俺、焦げてねえし、漕げても、扱げてもねえよ。扱(しご)いてんじゃねえぞこらぁ…(力弱)

 

 

 

 

し・語・居・手・ン・じゃ・ね・ェ・ぞ・子・ら・ァ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ビブラートに世界を包むぞ。

 

 

 

 

木擦れ(きずれ)の音がするぜ。気、っきっきっきっきっきっ紀、ず、ず、ず、ず、、れ、れ、れ、…

 

 

 

 

のお、この感じぃ、知ってる知ってる知ってるよ、なあ、ペシンが俺に来てる。ペシンが。

 

 

 

お、尻を、ペッシーン。ズッキーン。コッジャーン。自由の斧。自由の斧を、掲げろよ、おい。

 

 

 

わかってんだろ?これからこの先に、てめえに起こることを…知ってるよ、俺はなあ。

 

 

 

 

 

 


映画「たとえば檸檬」 わたしたちの終らぬ叫び

2018-09-12 19:56:58 | 映画

片嶋一貴監督の2012年公開の映画「たとえば檸檬」を観た。

 

 

 

 

 

非常に重たい映画で(すごく良かったですよ)、パン喰いながら観れなかったので、止めて深い溜め息を付きながら観ていました。

観終わった後も色々と考えています。

母と娘の愛憎と共依存(相互依存)のテーマであって、劇中に出てくる精神疾患とわたしが同じ障害を抱えているからです。

 

 

 

 

 

 

 

若い女性に特に増えてきていると言われているパーソナリティ(人格)障害です。

自傷行為(放埓な性的な行動も含む)の果てに、実際に自殺を遂げる人の多いのは鬱病や統合失調症に比べて約二倍と言われている。

自殺を遂げる若い人のほとんどが、この障害である可能性は高いということです。

現実の深刻な社会問題のテーマなので、とても重いテーマです。

それなのにこの障害はネットでは特に差別されやすく、「メンヘラ」や「キチガイ」などと言った言葉で終らせてしまう人が多い。

 

 

 

 

わたしも最近でもこのブログに嫌がらせを続けてくる人間から「狂人」だと言われてしまいましたが、まさに狂人的な行為に走ってしまい、人々から”怖れられ”てしまうのがこの障害の苦しみです。

人を信じるあまり、人を愛する(依存する)あまりに壊れてしまう精神障害です。

何故このような人が増えてきているのか?

未成年者の自殺者増 全体では8年連続減

個人(家庭環境)の問題なのでしょうか。

わたしが今生きていることは奇跡です。

本当に自虐と自罰と自責ばかりのある世界に自暴自棄に、自堕落に生きてきて、未だにそれは続いています。

この障害を少しでも理解する為に鍵となるのは「愛憎」という心理です。

この感情が異常に激しく起こり、最悪すべての人を巻き込んで破滅してゆく。

すべてを破壊せしめんとするほどの「愛」と「憎しみ」によって自分自身と自分以外のすべて(自分を映すすべて)に、本当に全力で特攻隊や自爆テロの如くに突っ込んでゆく。

愛する人間に愛されないのなら、すべてが0(ゼロ)となる世界。

0(ゼロ)か100しかないグレーゾーンの存在しない世界。

異常に極端で、感情を押し殺し続けることが困難で破壊的行動に出る。

散々、相手を褒め称えてきたかと想えば、今度は相手の非を責め苛み、扱き下ろし続ける。

自分の理想の愛によって愛されていない自分が憎い、酷い目に合わされている自分が憎い、その自己憎悪で、全力で世界を憎み、何年経っても、本当の意味で自分自身を受け容れる(赦す)ことができない。

あまりに苦しい為、その精神的ストレスから現実を現実として実感することの出来ない感覚で生きてゆくことになります。

そうすると犯罪を犯しても、罪悪感が薄く、罪悪感以上に、「何故わたしは愛されなかったのか」という苦しみによって、すべてを自分と同じ苦しみの底へ突き落とそうとする。

いつから、時間は止まったままなのか。

母はわたしを愛していたはずだ。(何故わたしは愛されなかったのか)

父はわたしを愛していたはずだ。(何故わたしは愛されなかったのか)

いつからわたしは、死んでいるのか。

自分の求めるものがあまりに大きすぎて、その求めるものに、自分が飲み込まれ、殺されそうになりながら生きている。

生きてゆく。

これからも。

ずっと、ずっと、ずっと、死ぬ迄。

これがわたし(たち)の、叫びです。

愛を求めることの、愛です。

 

理解してくださいとは言いません。

ばってん、「殺さないでください」。

生きてゆく居場所(わたしにとっては表現の場)を、どうか奪わないでください。

 

 

 

現ボーダーのあまねより

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


映画「リップヴァンウィンクルの花嫁」この世界に満ちているもの。

2018-08-26 08:21:30 | 映画

昨日と今日、岩井俊二監督の2016年公開の作品「リップヴァンウィンクルの花嫁」を観た。

 

 

 

 

 

実はNetflixで偶然見掛けたトップ画像にウェディングドレス姿のCoccoが映ってて、(なんかこの映画前から気になってたかという記憶と共に)ただそれだけで気になってなんとなく軽い気持ちで『リップヴァンウィンクルの花嫁 serial edition <全6話>』というのを観始めて、

映画なのかドラマなのかもわからず、監督も何も知らずに観ていた。

 

 

 

 

それで観てるうちにのめり込んで行って、途中から、あれ、これ誰が作ってんだと気になって調べたら岩井俊二監督の作品だった。

で、一話40分のものを全6話いっぺんに観た後に、劇場版が実は最初に公開されたものであることを知ってショックを受け、同時にその内容が少し違うという話に胸がときめいて、そのあとにAmazonのPrime Videoで劇場版を同じ部分を飛ばし飛ばしで最後まで観た。(いつのまにか夜が明けていて逆光の朝日のなかで)

それで観た後、今日(今日って、あれ?うわっ、もう朝の7時半やん…俺一体何時からこれ書いてるんだって、午前4時過ぎからか…ってことは昨日やん。昼から寝ると時差ボケするな。)の昼過ぎまで眠れなかった。

そこから起きて、今度もう一度、劇場版を最初から最後まで観た。

飛ばして見逃していた重要な部分もあって、三度楽しめたのだった。

劇場版はかなりカットされているので、できれば両方を観ることをお薦め致します。

岩井俊二監督の作品はこれまで95年の「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」、96年の「PiCNiC」同じく96年公開の「スワロウテイル」、そしてわたしの好きな映画のベスト10に入る大切な映画である2001年の「リリイ・シュシュのすべて」を最後に何故か、観れておりませんでした。

好きな監督でありながらここまで観れてないことが残念ですが、映像を観る気力のないほど疲弊している日がほとんどなので、わたしはわたしを責めることはやめようと想います。

映画の内容はあえて言わないでおこうと想います。何も知らないで観たほうがきっと面白いと想ったからです。

とにかく時を忘れて観ていました。もっともっと長い作品であってほしいと感じるほど終わるのが切ない映画でした。

 

ほとんど映画の感想でないのですが、ちょっとわたしとCoccoとの縁の話をしたいと想います。

Coccoはわたしが19歳のとき、2000年の確か3rdアルバム「ラプンツェル」を発売した辺りのときに突然好きになったアーティストです。

よく彼女の音楽がFM802で流れていて、当時からMステに出ていたと想います。

1stの「ブーゲンビリア」と、2ndの「クムイウタ」も買って、よく一緒に歌っていました。

残酷なのに対比する光の強い彼女の歌に激しく魅せられて行きました。

それでどんどんCoccoの音楽が好きになって、彼女の存在感の凄さやインタビュー記事などを読んではそのつど感動したり衝撃を喰らって崇拝に近い想いも湧き出してきた頃、2001年の4月20日の夜に、Mステの出演を最後に活動休止することを知り、その夜のMステが生放送されるテレビの前に齧りついて観たのですが(あの夜、父が居間のほうのテレビで違うものを観ていたので、自分一人だけで寝室にあった古いテレビで観ました。)、彼女の最後の生出演の白いドレスを着て「焼け野が原」を泣きながら歌って、歌い終わったあと泣きながら微笑んで走り去ってゆく姿に、わたしは号泣しながら崩れ落ちたことを今でも憶えています。(またね、その最後の歌詞の部分が「もう歩けないよ」だったんですよ…)

 

 

焼け野が原

 

(ありました…その時の映像です。

最後の「もう歩けないよ」と歌ったところで涙が溢れました。その時の感覚が甦って、すごくドキドキしています。)

 

 

当時、わたしはまだ二十歳の誕生日を迎えていない19歳の初夏でした。最愛の父を亡くす二年半ほど前です。

「焼け野が原」すごく好きな曲でした。

Coccoが去って行ったその夜、ずっとずっと泣いていたと想います。

もう彼女は戻ってこないって気がしたんですよね。

彼女がずっと精神的にすごく不安定で痩せた細い両腕には痛々しい自傷の(切り傷より火傷のような)痕があったことを知っていました。

わたしもちょうどその時期、父に対する依存から毎日が本当に苦しくて、でも自傷することもできなくて、慰みに寝る前に自分の手の甲にペンで「死ね」って書いて寝たりしていました。

でも、ひとつの線が切れたんですよね。Coccoのあの夜の最後の姿を観て。

Coccoを知りたい…!!と激しく願ったのです。同じ行為をすれば、知ることが出来るんじゃないかと想いました。

それで気付くと泣きながらわたしはカッターを手に、初めて左腕の内側の柔らかい皮膚の部分に傷をつけていました。

最初はほんの小さな血玉がぽつぽつと傷の間に浮かぶほどしか切れませんでしたが、貧血を起こして倒れそうになるほどショックを受けた感覚もよく想いだせます。

自分の手で自分の身体をカッターで切ってしまったということが、本当に神に背く神に絶対に赦されないようなものすごい重い罪のように感じました。

でも段々と、日に日に傷は深くなって行きました。(それでも深い人に比べたら全然浅いほうだと想いますが)

父に隠れて、父のいる居間の隣の寝室で剃刀で切ったときは思いのほか深く切れてまたショックを受けたりしていました。

当時はいつも、Coccoのように髪を伸ばしたドレス姿の自分が、ビルの屋上から青空を仰ぐように後ろ向けに飛び降りて死ぬというイメージばかりしていて、父の運転する車の助手席から高いビルを見つけては、その屋上ばかりぼんやりうっとりと眺めているほど精神状態が危ない時期でした。

(そういえば2002年か2003年頃、Coccoの「遺書」という好きな曲を姉と初めて行ったカラオケで歌ったときに100点を初めて取ったんですよ。半分泣きそうになりながら歌ってて、姉にすごい感動したと褒められてとても嬉しかったです。まだ父が元気だった時だったのですが、わたしの欝症状は悪化するばかりでそれを心配した姉がわたしを預かっていたときだったと想います。それでまた実家に帰ったときにその時に100点を取ったことを父にも話すと父もすごいと言ってくれて、父にも聴かせたかったです…でもまさか彼女の影響でわたしが腕に傷をつけ始めたなんて二人とも知らなかったんですよね…)

当時の自傷行為がどれくらい続いたかはっきりと憶えていませんが、一端は父にその傷を見られるのが絶対に嫌で、一度見られてしまったと感じてから怖くなって、やめることができました。(中毒だと感じるほどの期間は続いていたので2003年の夏頃だったかもしれません)

でも父の死んだ後に男性と付き合っていた頃にまた始まって(主に相手に見せ付ける為に切っていました)、最後に切ったのは確か30歳になるちょっと前くらいだったと想います。(切るときはお酒を飲んでるときも多くて記憶にないだけかもしれませんが…)

Coccoのせいで自傷行為が始まったと言っているのではないのですが、実際Coccoの存在がいなければ自傷癖がついたかどうかは自分でも分からないです。

ただそれだけわたしとCoccoとの縁は深いものであることは確かです。

まあ、そういうわけで、かなり前置きが長くなりましたが…そういう過去があって、この映画を観たのでね、なんかね…本当に感動したんですよ。

Coccoはその後活動を再開したのですが、その後以前のように追い駆けられなかったのは、やはり以前とは作品も雰囲気も変化したCoccoに、なんだか置いて行かれてしまったような気持ちをずっと抱えてきたからだと想います。

でもそれでも気になってたまにインタビューの載った雑誌を買ったりしていましたね。

Coccoはママになって息子をがんばって育ててるけど、自分は未だ独り身だし、悲しいかな妬みや嫉妬の感情が湧いて来てしまうことが苦しかったです。

それでも彼女が元気で活動しているだけで嬉しかった。

複雑な感情のなかにも、彼女のことを知りたいという気持ちが今でもあったのでこの映画も観たのだと想います。

当時のわたしが、もしこんな映画観せられていたら、どれほど違う意味で相手役の黒木華に嫉妬したか(笑)

(はっきり言えるのはわたしの感情は恋愛的な感情ではまったくなかったということです。この映画の二人も、きっとそうであると感じています。)

今はわたしは37歳になって、この映画を38歳か39歳の頃に演じた彼女の姿を、すごく良い距離で観ることができたと想います。

あの頃から17年近く経っていますが、やっぱりCoccoは変わってない。と、そうこの映画を観て感じました。

一番に素晴らしい彼女の部分は、何にも変わってないんだと。

自分はそういえば、常に目が覚めている間は自分と自分以外のすべての人間から死ねって言われ続けているような感覚でずっとずっと生きてきたのですが、いつの頃からだろう?気付けばそういう感覚になる日が、段々と減って来ているように感じます。

でも人から少しでも責められたとき、すぐにその感覚は戻ってくるんですけどね。

彼女は、実は子供のとき親から虐待を受けてたんです。わたしの記憶が間違っていなければ、確か彼女自身がインタビューで答えていたことです。子供のころよく親に庭にあったがじゅまるの樹に縛り付けられたりしていたと。

あとはこんな彼女の台詞もありました。

「インターネットがこの世にあると想うだけで死にたくなる」

それはインターネットの世界が、人の外では隠している汚い部分、卑しい部分、悪意が露わとなっている世界だからです。

例えばわたしがずっとずっと苦しんで生きて来た原因は、一つにこの世界に性の乱れがあるからです。

誰の悪意もないところにも、誰かの苦しみがあるというのはそうです。

でもみんながみんな、「もっと自分の身体を大切にしろ。」「性的なものとは、夫婦間だけに与えられる神聖な喜びなのだよ。絶対に後悔するから、やめておきなさい。」などと言える社会なら、性風俗業界で身体を売って生きる女性もいないのです。(性風俗界で働いた女性は後に後悔して自殺する人が結構います。)

現に本人は良くとも、我が子がそんなところで働いたら、それは親の苦しみになります。

わたしなら、死にたくなると想います。

わたし自身が、本当に後悔しています。働いていたわけじゃありませんが、わたしも散々、最愛の父を喪ったあと自棄になってしてきましたから。

ずっと幼い頃から聖書を学び(母は忠実なクリスチャンでした。聖書では夫婦以外の間で性的な関わりを持つことを不義の交わりである姦淫という重い罪として定めています)、処女のままで絶対に結婚するんだと誓ってきたわたしにとって、婚前交渉(結婚前のすべての性的な行為)は、全部が全部、最悪な、最も苦しい自傷行為だったのです。

それでついこないだ、いつまでもこんなことを続けていたくないと強く感じて、自分に誓いました。もう絶対に、結婚前に、誰とも性的な関わりは持たないと。

話を戻しますが…例え悪意じゃなかったとしても、男性が女性を性の捌け口としなかったなら、女性が深く傷つき続けて生きていくことも減ると想います。

「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」と言ったのはイエスですが、実際にそうして性行為をし続けると人間が生きる上で大切な精力というものがどんどん奪われてゆきますし、夫婦間以外の交渉は性病や堕胎という人がものすごく苦しんで死んだり、殺されていかねばならないこの世の最も苦しいことに繋がります。

この世界は、どちらかというと悪意(利己的な欲望)に満ちています。

わたしはわかっているのです。

彼女は人の何倍も、この世界に、傷つき続けて生きてきた人だということを。

この映画の彼女の演じる真白の大事な台詞は、彼女がライヴのMCで観客の前で言った台詞を使っているそうです。

岩井俊二監督が表現したかったのは、Coccoなのではないかと。

だからそれを知ってからもう一度観て、余計にわたしは感動しました。

あんな台詞(最後の台詞)を、本当に幸せに生きてきた人は言えません。

何故なら、本当に幸せに生きてきた人は、そこにあるとんでもない喜びに、気付けないからです。

自傷行為を続けてきたわたしならわかります。

自分を痛めつけてほっとするのは、愛する人に愛されない自分のことが、憎くて溜まらないからです。

苦しんで苦しんで、どこにも出口がなくて、そうやって苦しみつづける先にだけ、本当の愛に気づくことができるのだと、わたしは確信しています。

 

 

 

 

 

 

 

 追伸:出演者、みな役にはまっていてとても良かった。

Coccoの相手役、七海役が、黒木華で本当に良かった。大分前に観た「グーグーだって猫である」に出てたみたいやけど、全く憶えてない。彼女はあまりに透明で、そんな彼女でないと、この役は駄目やったと想う。

そういえばわたしは子供のころよく友達の後を着いてばかりいて、一人では何も行動できないような子だったので「金魚の糞」と男子共に馬鹿にされるほど主体性のない人間でした。今でもその部分はあまり変わってないと想います。そういう部分が七海とよく似てる気がしました。

 

 

そして安室役を演じた綾野剛、わたしはこれまで何故か彼がどうしても気に入らなかった。(わたしの好きなトダエリを振りやがった憎き男という理由もあるか)っつっても彼の演技を観たのがこれまで「ヘルタースケルター」だけやった。ようやく、わたしは彼の演技と、雰囲気、存在感の素晴らしさを感じることが出来た。

彼はわたしの師匠、町田康原作の「パンク侍、斬られて候」の主演である。観ないうちから絶対キャラ合って無いんじゃないかと想って大いに不満だったけれど、これ観る前に彼を好きになれて真に嬉しい。

映画館なんて一人で行ったことないのだが、来月がんばって独りで観に行こうかな。まだ遣ってるやろか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


映画「フォークス・オーバー・ナイブズ – いのちを救う食卓革命」誰が為に改革す?

2018-08-25 01:13:24 | 映画

「フォークス・オーバー・ナイブズ – いのちを救う食卓革命(原題:Forks Over Knives)」という2011年公開のドキュメンタリー映画をNetflixに初めて登録して観ました。(Netfilixも登録から一ヶ月は無料で観れます。)







前から気になっていた映画ですがゲオオンラインにはなかったので観るのが遅くなってしまいました。

 

監督 リー・フルカーソン
キャスト

コリン・キャンベル博士(著書『葬られた「第二のマクガバン報告」』グスコー出版

コールドウェル・エセルスティン博士(著書『心臓病は食生活で治す』角川学芸出版)

ニール・バーナード医師/パム・ホッパー博士/他


 

あらすじ

約半数の国民が何らかの薬を常用し、3人に1人が糖尿病を発症、毎年100万人が心臓疾患とガンで命を落とすと言われているアメリカ。

医療費の増大が社会問題となり、ダイエットが注目を浴びる一方で、真の問題は見過ごされたままになっていた。

しかし、動物性食品こそが不健康の原因だと唱えるこの映画は、問題の本質を明らかにし、多くの人々の支持を得て全米で大ヒットを記録することになった。

卵や乳製品を含む、一切の動物性食品を食べない菜食主義はビーガンと呼ばれ、最近ではクリントン元大統領が実践していたことで話題となっている。

クリントン元大統領はエセルスティン博士の著作に影響を受け、助言をもらってビーガンを始めたと言われる。

また、マドンナやナタリー・ポートマンなど、多くのセレブもビーガンを実践しており、幅広い人々に支持を広げている。

そのきっかけとなったのが、本作で紹介されているキャンベル、エセルスティン両博士の研究だ。

本作には実際に菜食主義を実践して、病から立ち直った多くの実例が紹介されている。

それと同時に、菜食を阻む見えない力についても言及している。

菜食主義は極端だという偏見、加工食品に偏った手軽な食生活。

食品業界の意向が優先される学校での食事プラン。

肉を食べないと力が出ないという思い込みなど、日常に潜む問題点に警鐘を鳴らす。

見れば自分の食生活を見直すきっかけになるはずだ。

 


 

Story


1940年代から、完全食品として推奨されてきた牛乳。

酪農業を営む家で少年時代を送っていたキャンベル博士も、これを当然として疑わなかった。

しかしあるとき、動物性タンパク質とガンの関係に気付いた博士は、どの食物が何の病気の原因となるかを調べる大規模な調査に乗り出す。

一方、外科医としての実績を積んでいたエセルスティン博士は、いくら手術で患者を治しても、これから病気になる患者はけっして減らないという現実にジレンマを抱いていた。

栄養学と外科の世界的権威である、二人の博士が達した結論は、動物と加工食品を食べず、菜食の実践で病は防げるということ。

そして多くの生活習慣病を治療することも可能だということ。

両博士の考えにインスパイアされたリー・フルカーソン監督は、膨大なインタビューと科学的検証を通じて、”食”の常識に鋭く切り込む。

薬漬けの日々を送る男女や、回復が見込めない心疾患だと診断された患者たち。

彼らに現れた変化を知った監督は自らも菜食に挑み、驚くべき効果を目の当たりにする!



 

DVD「フォークス・オーバー・ナイブズ~いのちを救う食卓革命~」予告編

 

 

 

ちょうど今日ポール・ロバーツ著「食の終焉」という本を読んでいて同じことを映像で観ているような感じでした。

自分は2012年の2月にVegan(完全菜食者)になって5ヵ月後に魚介類を食べるペスクタリアンになり、2015年9月頃から完全菜食を続けています。

自分が菜食、ベジタリアンになったことで劇的な変化を感じた事と言えば

  • 頻繁に起きていた一日中続くようなしつこい頭痛がなくなったこと。
  • 一日目は寝込むほどの激しい生理痛から解放され、ほとんど生理痛がなくなったこと。
  • 胸にいくつもあった良性のしこりの痛みがなくなったこと。
  • ニキビが大分減ったこと。

などです。

でも相変わらず、加工食品に頼ってしまっているのもあり、便秘がなかなか良くならない(便秘は小学生時代からで、多分精神的なものが関係しているような気がします。断食後にはものすごい快調だったので、精神的ストレスによる腸内細菌バランスの乱れが原因なのかもしれません。)し、お酒もほぼ毎晩飲むので胃腸の具合も悪いという感じです。

 

そうであってもわたしはこの映画を観ても改めて、「菜食」が「肉食」よりも健康な食事であることは、もう明らかであると感じました。

菜食をたくさんの人にこれまで薦めて来ましたが、よく菜食のほうが健康的であることの「科学的な根拠はない」と言われて来ました。

そんな人たちにこの映画は薦めるといいかもしれないなと想いました。

 

でもわたしは、ゲイリー・ヨーロフスキーという活動家も主張していることである「健康の為にヴィーガンになることは利己的だけれど、動物の為にヴィーガンになることは愛からによる。」という考えがわたしにもあります。

 

 

世界で一番重要なスピーチ(ゲイリー・ヨーロフスキー)

 

 

なので、科学的根拠がないと菜食になれない人にはこの映画は良いものだと想いますが、そうではないなら人が他者を救う為に菜食になる”きっかけ”の一つとして、観ると良いかもしれないなと想いました。

 

この映画の中でED(勃起不全)が肉食による原因で起きていて、菜食になったことでEDが治り、若い頃の性欲が戻ったという人が沢山いるという話が出て来ました。

またEDが心臓病に関係しているという話を初めて知りました。

劇中で医師がEDは「実は冠状動脈疾患の初期兆候なのです。心臓発作を起こすずっと前に、血管内皮機能不全を知らせるのです。人間の体はリンクしています。血液は体中を巡るため、血管障害を起こすと障害が多発します。」と述べていました。

でも映画のあの言い方だと「若い時分の性欲が戻った」という台詞を、菜食になれば性欲が溢れんばかりに出てくるのではないかと勘違いをする人がいるのではないかと懸念しました。

でもそうであるなら、何の為に仏教徒の修行僧が性欲(煩悩)を断つ為にも菜食を実践しているのかわかりません。

実はこういう理由があるそうです。

肉を食べると性欲が強くなるのか?という質問をヨガの先生にしてみた結果

すごく絵が面白くて、ほんとにこんなヨガの先生なのか気になりますが(笑)、このインド人のヨガのヨギー先生によりますと


 

  • 肉を食べると、下半身のチャクラのエネルギーが強くなり、創造的活動や性的活動に関る第二チャクラが不安定になる。
  • 性的活動を司るチャクラがアクティブになると動物的な本能で攻撃的になったり、イライラしたりする。
  • 第二チャクラがアクティブすぎると情緒不安定・夢想家・人を操る・性におぼれたりする。
  • 第二チャクラが非アクティブだと、過敏・自分に厳しい・不必要な罪悪感・不感症または性的不能になります。
  • 肉を食べるということは、動物の死を体に取り込むので、自分の体内のエネルギーも変わってしまう。

 


のであるそうです。なので、菜食になることはこの第二チャクラを安定させて、性欲を制御できたり、結婚している方はここぞというときだけ性欲がみなぎると言う話をよく聴きます。不必要な性欲に悩ませられることがなくなるということです。

だから性欲に苦しんでいる方も、性欲が出ないで苦しんでいる方も菜食になることで解決できる可能性は高いです。

 

でも、誰の為に菜食になるのかは、やっぱり他者の為に、そしてそれが自分自身の為にもなることを信じて移行してもらいたいなとわたしは願っております。

 

で、最後にもし御興味ありましたらこの映画と共に「Cowspiracy: サステイナビリティ(持続可能性)の秘密」というNetflixで観れるドキュメンタリー映画も是非!観て頂きたい。

園子温(その しおん)監督も推薦している!園子温が語る「日本の女性たちが自由を使いこなすために必要なこと」

「僕は最近Netflixのドキュメンタリーにとくにハマっているんだけど、すごい作品が目白押しで素晴らしいですよ。

たとえば『Cowspiracy:サステイナビリティ(持続可能性)の秘密』。

『不都合な真実』に感動した監督が、牛肉産業がどれだけ環境にダメージを与えているか環境問題のタブーに挑んでいて、脅されながら命懸けで撮っていてめちゃくちゃ面白い。

プロデューサーも途中で逃げ出しているんだけど、「最後まで撮れ」ってディカプリオが制作資金を出して完成させたいわく付きの作品。」


命を懸けて活動し続ける環境保護活動家であるディカプリオが実は巨費をNetflixに投じ続けているという話です。そうでもしなければ、莫大な利益を上げ続ける畜産企業のほうに肩を持ちたい会社はこういった問題作をできれば世に広めたくないからです。

次は、このレオ様!!が、製作総指揮で参加した「ヴィルンガ」を観てみたいと想います!

参考サイト:【映画】絶対に見るべき一本。映画「ヴィルンガ」をNetflixで見た

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ライアン・ゴズリングは動物愛護家だった!

2018-04-08 21:51:26 | 映画

 

 

ニコラス・ウィンディング・レフン監督の映画「ドライヴ」で超絶クールかつ凶悪かつセクシーな主人公を演じ、一躍有名になったライアン・ゴズリング(Ryan Thomas Gosling)

わたしもゴズリング、最近とても気になっている俳優です。(ただのイケメン俳優には全く興味がないわたしです!)

どこか「くぅううぅぅぅん…」っていう捨て犬のようなジェームス・ディーン似の悲しく寂しい顔をしているからです💙

 

 

この写真なんかよく似てますよね!

 

今、すっごく世界中で人気が急上昇中の要チェック俳優です!

わたしはまだ彼の作品は「ドライヴ」と「ブルーバレンタイン」と「オンリー・ゴッド」しか観ていなくて、一番ぐっと来たのは「オンリー・ゴッド」ですね。

ゴズリングが醸し出している物悲しさ、寂しさがすごく気になる感じで、これからも彼の作品を観るのを楽しみにしています。

その彼がですね、なんと、かなりの活動的な動物愛護家だったと今日知って、すっげえ嬉しい想いです

やっぱり男の中の男は、か弱き動物にも優しいんだなあ!て想いますよね!

動物に優しくない男と結婚は、やっぱり絶対したくないですよね!

まあ、ゴズリング、VEGAN(完全菜食者)宣言はまだどこにもしてないみたいですが!

かなり、海外のビーガンコミュニティの間でも、彼がVeganなんか、ちゃうのんか、どっちやねん!はっきりしろや!って論争が巻き起こっているようです!

 

 

素朴眼鏡髭白人フェチにはたまらないぃ!

 

ゴズリング、すっげえー優しい表情していますよね!

やっぱり動物に優しい男は、女性にも優しそうだなあ!(理想)

 


 

 

Ryan Gosling/ライアン・ゴスリング

 

ゴズリングが行なった主な動物愛護活動!

  • National Milk Producers Federation(アメリカの牛乳生産者団体)のCEO宛てに「乳牛の角を取り去る行為をやめるようにPETAを通して手紙を送った」。
  • マクドナルドに対してケージフリーの卵を使用するように手紙を書いた。
  • KFCに鶏の飼育環境を改善するように求める手紙を書いた。
  • USDAに対して病気の鶏や七面鳥を炭酸ガスで気絶させてから殺処分するように求める。
 
 

角の除去作業方法はいくつかあるそうですが、

  • 熱した鉄を当てる。
  • 腐食性の薬品を使う。
  • 鋭利な金属スプーンでえぐりだす。
  • 生えかけの角をノコギリで切り落とす。
 
など、鬼畜としか思えないような手段が使われます。

その証拠に、作業を録画した映像には子牛が大声でうなりをあげで、恐怖と苦痛から地面に倒れこむシーンが映っているそうです。

 

 


 

ブラッド・ピット、ニワトリの権利を訴える コストコ卵論争に参戦

 

俳優のブラッド・ピットがコストコの卵論争に参戦し、ニワトリの権利を訴えている。

ブラッドが同社のCEOクレイグ・イェリネク氏に対し、ケージの中で飼われたニワトリの卵を売るのをやめるよう文章を送ったと CBS News などが報じた。

 

 論争のきっかけとなったのは、動物保護団体「The Humane Society of the United States」が、コストコで売られている卵はパッケージには広々とした草原と農場の絵を描いておきながら、実際にはケージにぎゅうぎゅうに詰め込まれたニワトリが劣悪な環境の下で産んだものだと告発する動画を公開したこと。

それを受けて俳優のライアン・ゴズリングがコストコへ怒りの手紙を送り、先週にはコメディアンで司会者のビル・マーが The New York Times にニワトリたちを放し飼いにするよう意見文を寄せていた。

ブラッドは「コストコの卵を産んでいるニワトリたちは、たとえ1羽であっても羽を広げるスペースもないほど狭いケージに5羽以上詰め込まれています。

こうした環境にいる動物は筋肉や骨が委縮して動かなくなっていきます」とつづり、だからこそヨーロッパではケージでの飼育が違法になっていると指摘。

「コストコの多くの社会貢献には敬服しています。

その勇気と誠実さをニワトリたちにも示してもらえないでしょうか? 

ケージで飼われたニワトリの卵を売るのはいつまでにやめると、明示してもらえないでしょうか?」と訴えている。

 


ブラピもかなりの動物愛護家ですね!!

ブラッド・ピットは数10年ベジタリアンで現在はどうやらビーガンであるようです!

25ビーガンの有名人:地球上で最も有名なビーガンのセレブリティ

 

 

 

 

ライアンゴスリングはブレードランナーのカスタムビーガンコートを揺する

どうやらゴズリングは映画「ブレードランナー」で本皮のコートを着るのを拒否し、ビーガン・レザーコート(動物の皮や繊維のフェイクの塗装された綿で作られたシアリングスタイルのコート)を着て演じたようです!

かっけえ!これぞ、男の中の、男!ライアン!ゴズ!リング!動物たちを、不必要に搾取しない男!

 

 

 

Ryan Gosling、Our Hero

 

 

彼はどうやら、工場の農場で鶏と七面鳥の防衛に飛びつき、鳥類を泡沫に浸してゆっくり窒息させて鳥類を殺す発泡体ベースの駆除法の承認を取り消すよう、PETAの代理人に米国農務省(USDA)宛てに書簡を送ったそうです。

このプロセスは15分ほどかかることがあり、鳥を窒息させたり、絞殺したり、窒息させたり、生き埋めしたりすることで、鳥を殺すような外傷的なパニックを誘発するという。

 

あとはちょっと、Google直訳ではよくわかりません…英語の得意な方は是非翻訳してください!

 

Here’s Why Ryan Gosling Will Be the Next Celeb to Go Vegan

世のビーガンたちは、ゴズリングが次の偉大なるビーガンセレブになるだろうと確信しているようです。

彼はまだビーガンであることを公言していないため、いまいちフルタイムのビーガンであるのか謎ですが、数多くのビーガンレストランに足を運ばせているので、ビーガンの食べものが大好きであるらしい!!

 

 

何はともあれ、わたしはとっても嬉しいですし、ゴズリングを心から尊敬します!!

何故なら、畜産業や毛皮業者など、この世界で莫大なる利益を上げ続けている産業に対して抗議をするという行為は、マジで、命懸けであるからです…(参考ドキュメンタリー映画「カウスピラシー」)

Cowspiracy: サステイナビリティ(持続可能性)の秘密

このディカプリオが製作総指揮として応援したドキュメンタリー映画を観ていただければ、それがよくわかります!

彼らは全員、本当に命を懸けて、動物愛護活動や環境破壊の警告(畜産業は環境破壊の最大要因)をし続けているのです。

わたしも、2015年の9月から、ビーガンをがんばっています!一緒に、がんばりませんか!

 

(映画『プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命』より)


男のなかの男!ライアン!ゴズ!リング!!!!!







映画「オンリー・ゴッド」我々全てに与えられるものとは

2018-03-20 09:57:56 | 映画

ニコラス・ウィンディング・レフン監督の2013年の映画オンリー・ゴッド(原題Only God Forgives)を観た。

 

 

 

 

この映画も可なり、独特な世界で面白かったです。

この映画を考察してみたのですが、かなりレフン監督の「フィアー・エックス」の解析とかぶるんですよね。

共通点は、「胎内と産道」「胎内回帰願望」「胎内と産道のような赤い空間と赤い通路」。





「母と子」というテーマは「フィアー・エックス」では主人公の殺された妻と胎内にいた子供という形で間接的ですが、この映画はもろ、ライアン・ゴズリング演じるジュリアンと母親(毒親)という母と息子のテーマであると感じました。

原題の「Only God Forgives」は、「神のみぞ赦す」という直訳になりますが、この訳は本当に合っているのでしょうか?

調べたら「Forgive」っていう単語は”古期英語「与える,認める」の意”って出てきました。

Forgive」って言葉には、「与える、認める」って意味が隠されていることになるんだと想います。

「神のみぞ与える(神だけが与える)」っていうのはとても良い言葉です。

Forgive」が「赦す」という意味があるのも、人間に”罪”あってこそ意味のある言葉ですよね。

そう考えると神という存在自体が、人間の「罪」在りきの存在として存在していることがわかります。

人間に罪もなければ、神も必要ないのでしょう。

聖書にも「神のみが人を裁く」という意味が出てきますが、それも言い換えれば、「神のみが人に与える(その行いのすべてを認める)」という意味になるのだと想いました。

(あとで、filmarksという映画レビューサイトを観ていて、「Only God Forgives」を、「神のみぞ赦し給ふ」と訳されている方が居ました。「給ふ(たまう)」は、「お与えになる、与えてくださる、授けてくださる」といった意味なので、「神のみが赦しを与えてくださる」といった「赦し」と「与える」が一つになったとても良い訳だと想いました。)

とても深い題名で、この映画も意味深な映画です。

「母」の存在とは、人にとって「神」である。というのも、その通りなんじゃないかと想います。

子を産み落とす母親という存在が居なければ、だれ一人、この世には誕生できない世界です。

毒親の母親の言い成りになりながら愛憎と兄や父への深い嫉妬を抱えて生きてきた主人公のジュリアン。

この映画は最初は主人公をルーク・エヴァンズに予定されていたのですが、スケジュールが合わずに降板し、ライアン・ゴズリングが受けたそうです。

ジュリアンの役を、ゴズリングが演じたことは本当に正解だったと歓喜します。

何故なら、彼は、あまりにもマザコンで母親に愛憎を抱く男の役がハマリ役だと感激したからです。

ゴズリングの捨てられた仔犬的な悲しく寂しい目を見詰め、「クウウウゥン」って共鳴したくなるほど、彼はそんな孤独で母親から愛されない悲しい男の役が似合うんだなと改めて感じました。

それで、この映画のテーマの話に戻りますが、レフン監督自身が、どうやら義理の育ての母親にとてつもない辛い育てられ方をしてきたそうで、この映画が、「母親への復讐」めいたテーマなのではないか?と解析する人が多く、わたしはそこが、どうにも疑問というか、気に入りませんでした。

それじゃあ、あんまりにも、薄く面白みのない映画となってしまいます。

やられたことを仕返しして、すっきりするというテーマでは、全く深みがありません。

作品と言うのは、作者の意向、意図を超えゆくものでなければ、優れた昇華として、成し遂げることができないのです。

もし、レフン監督自身が、「復讐」めいた意図でこの映画を撮ったとしても、そこにはレフン監督の意図しない潜在意識、潜在願望が必ず入り込んでいるはずなのです。

そこを読み取る、感じ取ることこそ、作品と接することの醍醐味です。

作者の意図だけを考察して終わりでは、作品を上辺しか鑑賞していないことになるので、真にもったいないことです。

なので、この映画も是非、監督の潜在心理、潜在願望がどのようなものであるかを知り得る為に必要でもあり、最適なものなのでできる限り奥深くまで考察するほど面白いです。

わたしの出した考察の、監督の「胎内回帰願望」という監督の願望と、監督自身への罪を制裁する神の赦し(裁き)というテーマも、浅はかであるのかもしれませんが、しかし「復讐劇」というテーマよりはずっと愛の深いテーマであるように想います。

復讐してすっきりして終わる、というのでは、ただ殺人者を死刑にして終る。というようなとても安易で何一つ深みのない空虚な劇です。

この映画に出てくる主人公ジュリアンの母親は、確かにとんでもない母親です。

息子と息子の彼女の前で、自分の息子の、長男のほうが男根がでっかかったとか、平気で話すような母親で、まったく、面白くて仕方ありませんでした。

「この子のも小さくないわ。でも…」と母親が鼻で笑いながら言うのです。母親に想い出して吐息を吐かれながら(クリスティン・スコット・トーマス演じた母親クリスタルがまた素晴らしいです)「長男の”モノ”はすごくて誰も敵わない」と言われ、ジュリアンは母親を見詰めながら黙って頷きます。

ジュリアンは、じいっと少し咎めるような目で母親を見続けながらも、何も言わず、果てには母親の煙草に弟子のように(母親はマフィアのボスで、ジュリアンは言い成りです)火を付けたりする息子で、めちゃくちゃ良いシーンです。



母親に気のある女の前で陰茎が小さいとか、何を言われても黙っているクールなジュリアン



ここまでこのような母親に渾身的な息子も珍しい気がしますが、どうなのでしょうね。

でも何度も観ると、想ったんですよね。あ、このときのジュリアン、ちょっと嬉しいのかな?と。

母親もジュリアンが恋人を連れてきたんで、「なんだよ」みたいな面白くねえなって感覚もあって、あのような辛辣な台詞を息子の前で話したのかもしれません。

母親に女を見せに連れて行ったのも、母親に嫉妬してもらいたい潜在意識があるからだと想います。

母親が嫉妬する様子を少しでも垣間見たなら、母親が自分に依存していることを確認できます。

とにかく、母親とジュリアンは、長男と同じく、性的虐待か、近親相姦的な関係があったのだろうと想います。

そして終盤には、父親をジュリアンは、素手で殴り殺したのだと母親は言います。

どのような父親であったかは明らかにされませんが、麻薬密売のマフィアのボスなので、暴力的だったのかもしれませんし、暴力がなくとも、言葉でジュリアンの繊細なハートをけちょんけちょんにするほどの、言葉の暴力があった父親かもしれませんし、色々、想像がつきます。

でも、もしかしたら、父親を殺した理由も、一番は「母親を自分のものにしたい」願望が頂点に達したからなのかもしれまい。

ジュリアン、すっげえ、かっこいい!って想います。父親を殺してでも母親を我が物とする息子、マザコン息子ジュリアンです。

これは、「ドライヴ」以上に、ゴズリングのハマリ役とわたしは観ました。

母親を憎んでいるのも、それは母親を我が物としたいのにできないことの自己憎悪の母に対する投影のほかないでしょう。

つまり、ジュリアンは本当に母親を愛して、求め続けているからこそ自分だけを愛してくれない母親への愛憎の想いが強くあり、どこかで破滅願望(母親と共に)を抱いているような男であるはずです。

わたし自身が、そのような人間なので、レフン監督の潜在願望を見抜けているのやもしれません。

わたしの場合は母親代わりに育ててくれた父への依存的な愛で、相互依存関係にありましたが、ジュリアンと母も相互依存関係に少なくともあったと想います。

わたしは父との性的な関係はありませんでしたが、父の普通の男性としての性的な欲求を赦せませんでしたし、他の女性に興味を持つことも可愛がることも赦せないほどでした。

ジュリアンの場合は、母親からの欲求なのか、ジュリアンからの欲求なのか、性的な関係にあるように匂わせていますし、ジュリアンは性的に不能であったとレビューにあり、わたしの場合も、或る意味、性的に不能(性的交渉では快楽を感じられない)な人間であるのでジュリアンと共通する点は多そうです。

わたしの場合は、多分、父とでないと、精神的な一つとなるという欲求を持つことさえできないのかもしれません。

だから精神的なブレーキがかかって、快楽を感じられないのです。これが本当の、親と子の相互依存関係と言えるのやもしれません。

そしてわたしの場合は父は他界しているのですが、父が死んでからというもの、特にここ何年と、”父(あるいは母)と本当の意味で一つとなる願望”というようなテーマの小説ばかり書いています。

母の記憶のないわたしにとって、父は母でもありますが、ジュリアンももしかすると母親の存在があまりにも大きすぎて、母親が父のような存在として、彼にとって”すべて”の存在であったのかもしれません。

ジュリアンも、母が自分に依存していることを信じていたはずです。

終盤近くに、今までずっと息子に弱音を吐かずに命令だけをしてきたような強い母親が、ジュリアンに向けて「わたしを護って」ほしいと頼みます。

その時、どこか目が輝いて嬉しそうな表情をジュリアンがしている気がするのです。



まさに、捨てられた仔犬をやっぱり家に連れて帰ろうと引き返してきた飼い主に見せるかのような仔犬の眼差しなのです。「クゥゥゥゥン?」と、悲しいけど嬉しい…と言っているのです。

こういう表情が出来る(得意な)のは、ゴズリングだな。と想いました。

かっこいいな、この役のゴズリングは、「ドライヴ」以上に男前ですよ。

やっぱり男は、マザコンでなきゃ、魅力に欠けるのでしょうか。

わたしが昔に、「父親から顔を裏拳で殴られる」などの行為は普通にいつも受けていると友人に話したときに、友人から「それはひどい父親だ」という風に返され、イラっと来たことがあります。

これはまるで、ジュリアンが母親に見せに行った女性にあとで母親のことを悪く言われ、瞬間、ジュリアンが女性にブチギレたことと同じだと想います。

母親がどんな親であろうとも、母親をかばって、好きな女性にキレるジュリアン(この時だけヤケに感情的なジュリアン)。これぞ、真の男の愛だな。なんて感じました。

それでネタバレになりますが、女性のあの部分へ手を入れたい妄想、さらには母親の、あの部分を、○○、そこへ…(”刀”、”創〔きず〕”って字と、”切る”、という行為は実は、神による創造(生殖)の意が隠されているのです)

というシーン、本当に良いシーンです。これはエロティックさで良いというより、母親と一つとなりたい息子の愛情を表現する一番のシーンです(特に母親とのシーンは)

胎内回帰願望というものは、ただ安心する胎内に戻りたい、一から遣りなおしたいという意味から来る願望ではなく、あくまで「最愛の母親とひとつに戻りたい」願望から来ているのだなとこの映画を観て、改めて確信した次第であります。



血のように赤い部屋でジュリアンを待ち受ける母親。壁紙もグロテスクな模様である。



ジュリアンを愛するような顔を向ける美しいクリスティン・スコット・トーマス演じる母親クリスタル

 

 

母と息子の近親相姦を匂わすシーン。真っ赤な部屋で抱き合う母と息子、あまりに官能的である。

 

 

向こうでは家族ならキスは当たり前ですが、日本でこれを普通にやる習慣がないことが悲しいですね。

 

 

ヴィタヤ・パンスリンガム演じる謎の元警官チャンが、なんだかどうしても平沢進を想わせる異星人的な奇妙な存在感で、この俳優をあえて選んだレフン監督、好きです。

 

腕を切断されるシーンが幾度と出てきますが、腕を切断される願望があるっていうのは、もしかしたら聖書のイエスの言葉に基づいているのかもしれません。

イエスはマタイによる福音書5章でこう言っています。

 

29 もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身がゲヘナ(永遠の処罰の世界、魂の消滅、死の世界と考えられる)に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。

30 もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。

 

この聖句は衝撃的であり、これはまるで、人が罪を犯した場合、死ぬことはできずに、身体の一部を切断されたり、目玉を抉り出したりする処罰が必ず待ち受けている。と言っているように聞えるからです。

イエスは人々に「すべてを赦すこと」を教え諭しましたが、「赦し」とは、言い換えれば「裁くな」ということです。

何故なら、人を真に裁けるのは神、その存在のみであるとイエスは知っていたからです。

この映画では母親としての神と、制裁人である謎の元警官の存在が出てきますが、二人とも十分な裁き(赦しとしての報い)を行なえているようにはとても見えません。

残虐な罪には残虐を、では、イエスが最早時代遅れだと言った「目には目を、歯には歯を」の裁きとなってしまいます。これでは陳腐な裁きです。

最後は結局、ジュリアンは自ら裁きを求めますが、そのシーンも現実であるかどうかはわかりません。

ジュリアンは母親と一つとなりたい願望を持ってしまった自分の罪、それ以外にも父親を殺した罪、ありとあらゆるすべての罪に対して、その報いを強く望んだのだと想います。

この映画は人間が考える(求む)裁きは、いかに不完全で、安易であるかということを証明しているように見えます。

わたしとしては、「神のみぞ赦せる」という意味は、このような一瞬の苦痛(神からすれば拷問も一瞬かもしれない…)で済むような報いは神は決して”与える”ことはせず、もっともっと、想像以上の苦しみの日々としての、長い長い時間を要する「神の赦しの時間」が、我々すべてに待ち受けているであろう。という人間(自分自身)に対する監督の厳しさが表現されているように感じたのです。

それは孤独な主人公の最後を想像してもわかると想います。

そういう或る意味残酷で厳しく、或る意味とてもポジティブなレフン監督の世界観は、「フィアー・エックス」でも感じたことです。

是非、評価を気にせずに本当に作りたい映画を作ってもらいたいと願います。









 


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(もうすぐ昨夜に起きてから24時間が過ぎます。何故か、父親が死んでしまう夢を見たからでしょうか。浅野忠信も死ぬ夢を見たからでしょうか。浅野はうちの兄と雰囲気がとても似ています。眠れません。眠れないので紅茶を何倍も飲んで、それも原因でか、余計眠れません。なのでFilmarksで、気になる方のページを観て、観たい映画をすべて登録していました。)


此処は現実か、悪夢か。映画「FEAR X フィアー・エックス」の謎を解く

2018-03-17 09:51:31 | 映画

ニコラス・ウィンディング・レフン監督の2003年の映画「FEAR X フィアー・エックス」を観た。

 

 

 

 

レフン監督は「ドライヴ」で有名な監督ですが、この映画はわたしは「ドライヴ」以上に、とてもエキサイティングな感動を深く覚えました。

主演はジョン・タトゥーロという俳優で、わたしは初めて観たのですが、作品自体は淡々としているのですが彼の演技は観ているこっちが目に異様な力が入って抜けないほどのリアルな緊張感を最初から最後まで持続させる演技力ですごく良かったです。

以下は、この謎多き映画を独自に考察して、解釈したレビューで、かなりスピリチュアルな世界観ですが、御興味ありましたら御読みください。

でもネタバレになるので、是非映画を先に御覧になっていただきたいです。

わたしのなかでは本物の傑作ですね。

 

 

 

 

まずですね。この映画のワンシーンの写真を観てみてください。

 

 

 

 

これ、何度と出てくる謎の映像なのですが、これが何を表しているか。

謎を解きました。

まるでこのシーンは薄い膜の中に閉じ込められた人間が、外へ出ようと叫び、苦しみもがいているかのような映像なのです。

そして、その色彩は黒々とした赤と、黒、です。

何か想いだしませんか?

そうです。これって、まるで卵の中を外からライトで照らした卵の中の様子のようにも見えますよね。

人間で言えば、卵の中と言えば、胎内(子宮内)になると想います。

さらにこの映画には、子宮の中のように赤い空間や、胎児が子宮から胎内の外へ出てゆくための通路であるかのような赤くて細い通路が何度と出てきます。

また、床に溢れた水の描写も出てきます。これはまるで羊水のようではないか。

そうなんです。この映画の主人公ハリー・ケインは、まるで胎児が胎内から見ているかのような妄想世界に入り込んでしまったような不思議で奇妙な世界を観ているのです。

それは主人公のこの男が、実は”胎児”のままであるからです。

この映画では、主人公の愛する妻が身篭って、子を宿したまま何者かに殺されてしまい、その犯人と会って、何故、自分の妻が殺されたのかを知りたいという執念から主人公は犯人を捜します。

でも主人公が観る妄想(幻覚)世界では、何故か自分の妻がまるで産まれて来れずに悲鳴を上げている胎児のような薄く赤い膜の中で苦しんでいる様子が見えるのです。

これは自分の妻が、自分の胎内の子供と共に殺されてしまったその無念さから、自分の夫に幻覚を見せていると考えるよりは、主人公自体が、実は殺された女性のお腹の中にいた胎児であり、その胎児が愛する自分の母親の無念さと自分の無念さを合わせてこの世に深い未練を残して彷徨い続ける魂であるのだと考えるほうが面白いなと想ったのです。

または胎児だけ(主人公だけ)が実は死んでいるという考察で進めます。

原作者のヒューバート・セルビー・ジュニアもレフン監督も、「そこまで考えてへんけどな」と何故か関西弁で突っ込んでくるかもしれませんが(実際はもっと深いかもしれませんが…)、わたし独自の映画と人間深層心理の解析を繰り広げたいと想います。

この主人公が警備するデパートと、エスカレーターっていうこの構造と空間も、どことなく体内の内部構造って感じがしますよね。

なんか上がったり下がったり、絶えず循環しているのが体内と言えますし、胎内でもあると想います。

だが主人公のこの男は、自分が胎内にいる妄想をしているとは気付いていません。

自分はちゃんとこの地上に産まれて、自分の愛する妻(クレア)と結婚したんだという妄想世界を今まで生きてきたから、その妄想を現実世界だと想い込んでいるからです。

そして主人公は窓辺から外の世界を覗いてはそこに妻の幻影を見たり、または画面内を見詰めてその画面の中に自分の妻が殺される映像を観ますが、この”外部”から”内部”、または”内部”から”外部”を監視、覗き見るような行為は、妊娠した女性のお腹の中を映す超音波の映像を眺めているようにも見えますし、胎児が逆に胎内から外の世界を覗いているようにも見えますし、また”外界”というあの世から、この世という”内界”を覗いているかのようにも見えてきます。

 

 

 

 

愛する妻の幻影に会って、妻と抱き合う前に、妻のお腹を抱きしめるってのは、ちょっとおかしいように感じたのです。(これは幻影でなくただの記憶を追憶しているとも取れますが)

このシーンも主人公が、自分はクレアの胎内に居る(居た)胎児であるという暗喩であるように想える。

 

主人公の向かいの”家”が比喩しているのは、一つの”死体”じゃないかと考えました。

近くにいた或る一つの”死体”の中に主人公の魂が入り込んで、その死体の内部に記憶されていた記憶の断片が、クレアを殺した人間の記憶であると主人公は想い込んだ。

しかしその”死体”とは、実は警察に殺された汚職警官の死体であり、重要人物の死体である為に、何年後までも”団体契約”されている。つまり国家権力によって、死体のままで保存されているってことじゃないか。

かつてクレアと泊まったことのあるホテルに、主人公は一週間の宿泊をしたいとホテルのベルマンに言いますが、このホテルも、実は”誰かの体内”であり、そこに主人公の魂が入り込んでいるのではないか?

その肉体とは、きっと女性であるだろう。

かつて、クレアと双子の魂として共に入り込んだことのある肉体(子宮内)、前前世の自分の母親の胎内であるのかもしれない。

最も、その体内(肉体)自体、この世には無いものであって、現実世界には存在しない空間となる為、このホテル空間も、完全に主人公の観ている妄想(夢の)世界になる。

その”母親”とは、主人公とクレアのかつての”母親”であって、その女性がこの映画ではクレアを殺した警官の妻であるのではないか。

そうすると、主人公とクレアの母親であった女性の夫である警官とは、主人公とクレアの父親ということになる。

その父親は、前世か前前世かで、自分の妻の胎内に宿った自分の子どもたち、双子の胎児を堕ろすようにと妻に言った。

妻は泣く泣く、双子の胎児を堕胎した。

その為に、主人公がホテル内のエレベーターの中で見る妄想は、自分とクレア(クレアと想える人物)がまるで子宮内から外へ出ようと苦しそうにもがくかのような妄想を何度と見ている。

つまり、主人公とクレアが殺された瞬間とは、”堕胎”であるのかもしれない。

国家権力によって、その殺害が犯罪にはされていない。これは法律によって堕胎という殺人行為が赦されていることを比喩しているように想える。

主人公の宿泊するホテルの部屋に遣って来て、「寂しくない?」と誘う赤い服の女は、これは主人公の彷徨っている魂を我が子として自分の胎内に宿そうと考える女性の魂であって、その魂は主人公の魂を誘うが、主人公はその誘いを断る。

女は白い電話線を意味ありげに跨ぐ。この白い電話線は主人公とクレアの魂を未だに繋いでいると想っている主人公の願望が見せる臍の緒を表しているのかも知れまい。

国家権力にとっての”汚職警官”を比喩しているものとは、社会不適応者と見做される胎児たちとも言える。

今では産む前に、その胎児が健康であるかどうか、障害を持っていないかどうかを知って、堕胎する自由があるからだ。

国家にとって、まともに成果を上げないどころか国の悪いイメージを作る”汚職警官(社会不適応者)”たちは、問題が起こる前に消す(中絶させる)ほうが国家にとっては望ましいのである。

ホテルのラウンジ内も、壁や床や椅子や柱や電話や従業員の服、ほぼ赤で統一されている。それもどこか生肉のような質感の黒味がかった赤である。

ここも主人公が入り込んだ胎内であるか、主人公が見ている胎内記憶の空間が作り出している夢(妄想)であるからだ。

ホテルの赤い壁の通路を主人公は歩く。これが胎児の通る道、”産道”を表しています。

 

 

 

 

 

赤い通路からエレベーターのドアが開いて、そこにクレアの幻影を見ます。

左へ行けば「EXIT(出口)」。このエレベーターの中は子宮を表していて、主人公はクレアの乗るエレベーターに迷い無く乗り込みます。

これは前前世で、クレアの魂が先に母親の子宮内に宿ったことを暗喩しているように想えます。

そして愛するクレアの魂を追って、主人公の魂も母親の子宮内に宿ります。

そしてエレベーターは下の階へ下りますが、クレアが先に真っ暗な通路へ向ってエレベーターを降ります。

そしてクレアを追うようにして主人公もエレベーターを降ります。

これは前前世で堕胎されてしまったときに、クレアが先に中絶手術によって外へ出されたことを暗喩しているように想えます。

主人公が泊まった部屋っていうのは、主人公が宿っていたときのクレアの胎内を現しているのかもしれない。

なのでここも子宮内ではあるんですが、先ほどの堕ろされる前の中絶手術をする病院の個室のように無機質で冷たい空間とは違い、とても心地の良さそうな空間を表現しているかのようです。

主人公とクレアは、前前世では双子だったし、前世では母と子でしたから、本当に愛し合っている魂同士なんですね。

それが前世でも離れ離れになってしまったのです。クレアが生きていて、主人公は死んでしまっているからこそ、会えなくなってしまったとも考えられます。

主人公は前前世で堕ろされてしまった記憶のほうが強く、妄想(幻覚世界)でこの産道を下りていって、その一つの赤い部屋で自分の前前世の父親(警官)と会います。

主人公はそこで、例の探している女(警官の妻)に会いたいと言います。

前前世の自分の母親であるので、ものすごく会いたいわけなんです。

そして主人公が探しているのは、父親(自分とクレアを殺した男)です。

主人公は、実はこの部屋でこの男に会って、気付いています。

この男が、自分と、クレアを殺した(堕胎させた)存在であるということを。

このホテルの部屋は、父親(警官)の見ている夢の世界であるのかもしれません。

そこに自分(主人公の魂)が入り込んで、話をつけようとしているのかもしれまい。

それなので、主人公はどことなく、目の前の男に対して、他人を見る冷ややかな目ではなく、親しみも感じているかのような深い想いの篭った愛憎の目で見詰めています。

同僚に、「会えば(犯人を)殺したくなるだろう」と言われても、主人公は物悲しい顔をして、「殺さないさ」と答えます。

相手は自分の前前世の父親であるとわかっているからです。

あまりにややこしい話ですが、男(警官)が主人公とクレアを中絶させたのは、前前世の世界であり、前世では、主人公はクレアと共になんらかの理由で死んでしまったか、自分だけがまた産まれてくる前にクレアの胎内で死んでしまった為に、主人公の魂の無念は、前前世の記憶の苦痛とごっちゃになってしまっているのかもしれないと考えます。

何故なら主人公にとっては、前前世の記憶も、つい最近の記憶であるかもしれないからです。

父親(警官の男)にとっては、何を今更…という話の記憶である為、もう頼むから成仏してくれよという気持ちが強く、主人公に対して、もう一度「殺してしまいたい」という想いがあるのだと、これは主人公が勝手に妄想しているのではないか。

なのでその妄想の中で、主人公は自分の父親にまたも、殺されかけます。

このときも、見知らぬ人間にするようなものとは想えない主人公は男の顔を愛しさも混じったような両手で顔を包み込むということをします。

そして父親は、主人公を狭いエレベーターの中に突き飛ばします。

このエレベーターの空間が比喩しているものとは、新たにこの世に誕生するための或る空間であると想いました。

この空間は、新たなる母親の胎内へ通じる空間を比喩しているのかもしれません。

なので地上(あの世からこの世)に降りていくんですが、主人公はここで自分の血を見て、自分が殺された(堕ろされた)瞬間の苦痛を、生々しく想いだしてしまうのです。

だからここで、血と水と肉みたいなものが入り混じったような子宮が収縮するのを子宮内部から見ているかのような主人公の見たであろう子宮内部世界映像が映し出され、主人公の味わった(今でも味わい続けている)拷問的な苦痛を表現しています。

 

クレアは実は現実世界では生きているのだが、主人公が現実世界では死んでしまったので、主人公の見ている世界では、クレアが死んで、自分が生きている世界として観ているのかもしれません。

クレアの生きている現実世界では、前前世の父親と母親も生きているのですが、その世界は、主人公には見えていません。

主人公が観ている父親(警官)は、あくまで主人公だけが見ている世界か、父親も同時に見ている繋がった夢の世界であると考えます。

例え夢の世界という別次元で経験していても、苦しみが無いわけではなく、その世界では父親も母親も現実的な生々しい苦痛として経験しているのだと想います。

 

そして目が覚めると、白い部屋で、国家権力者(あの世で魂を導く指導霊たちを比喩しているかもしれない)たちに囲まれ、諭されます。

あなたの観た全ては、実は夢なのです。だから受け容れましょう。と言わんばかりに、主人公を諭します。

映画では主人公ハリーの妻は、妊娠していたことくらい、周りも知っているはずであるだろうに、この映画で「あなたの奥さんとお子さんは残念でした」という台詞が何故か出てきません。

その理由も、この主人公自体が、その妻の胎内にいた胎児であることを示唆していると想いました。

主人公がここで泣き崩れるのは、主人公はそれでもまだ、現世の感覚が強く、見ている世界も現世的であって、前前世も地上世界に産まれて来れなかったし、前世でも産まれて来れずに、最愛の魂の存在クレアと人生を共に生きられなかった悲しみと苦しみがあんまりにも深いためです。

そしてラスト、だだっ広い道路に警官(指導霊)に連れられ一人車から主人公は降ります。

新たなる誕生へ向けての出発、無言の応援を受けて主人公は新たなる出発を決断し、過去の記憶(集めた写真たち)を棄て去るのです。

そしてたった独りで、車(子宮に辿り着く受精卵という乗り物)に乗って、新たなる(道)産道へ向い、走って行きます。

最後に不気味にも、主人公の観たクレアが殺される防犯ビデオの映像でこの映画が終るのは、その映像の全て(人類の罪の全て)を、神(絶対権力監視者)はいつでも観ているぜ?っていうレフン監督の秘かなる主張であるかもしれまい…?

あまりにスピリチュアルで強引で勝手な考察でしたが、推敲合わせて書くのに朝の4時半から朝の10時前まで掛かりました。

しかしこれでもまだ、まだ、謎が深いっていう映画です……(ギャフン、いや、レフン…)

 御読みくださった方、どうもありがとうございましたレフン。

 


 

 追記:寝て起きて、このレビューを何度も観ながら今朝書いたんですが、改めてもう一度最初からじっくりと観て、新たなるおかしいと感じる箇所について考察しました。

主人公の妻クレアは、何故か汚職警官と間違われて警官に射殺されてしまうわけですが、これはどう考えてもおかしいと想ったのです。

何故なら、警官は汚職警官が、男性であるか、女性であるかくらいは解っていたはずなのに、市民(せめて性別を確認した上)であるかどうかを確認することもなく射殺するっていうのは、明らかに短絡的過ぎて変じゃないですか。

だからこの汚職警官を警官が射殺し、クレアが巻き添えを食らって射殺されるという事件自体も、警官が見ている夢の脚本である可能性が高いと感じました。

警官が上司に向って、クレア(主人公の妻)は、巻き添えを食らったんだと嘆き悲しんでいるシーンがありますが、これは現実では、この警官(クレアと主人公の元の父親なる魂)が、実際にクレアであった胎児を、巻き添えの形によって殺してしまったことを暗示していると考えました。

中絶手術で巻き添えと考えれば、医者に胎児が双子の二人とも障害を負っているか病気があるとこの父親は言われ、仕方なく二人とも中絶するように妻に強制的な感じで中絶手術をさせたのですが、手術を終えた後に、その医師の診断が実は間違っていて、本当は障害か病気を負っていたのは主人公のハリーの魂の胎児だけだったのだと知った。

その為に父親は大変後悔し、自分の勘違いによってクレアである胎児(自分の娘)を殺してしまったのだと苦しみ続けます。

その後悔の念が、次の人生でもこの男の消し難き苦痛となって、夢に幾度と出てきては男を苦しめ続けているのだと考えました。

警察と同じく病院(医師)っていうのも、世界で莫大な利益を上げていて国家権力と繋がっていそうですし、すごくリアリティの或る話じゃないかなと想います。

日本でも中絶手術は一日に換算すると470回ほど行なわれていますし、ものすごい莫大な利益となっているのです。

そう考えますと、本当に現実的な闇の現実を映しだしている深刻な映画であるんだと感じて、観終わって心が一段と震える想いです。

 

 

 


 

追記:3月20日

今レフン監督の2013年の「オンリー・ゴッド」を観終わりました。

この映画にも同じような真っ赤な通路というものが幾度と出てきました。

そして何より女性のあの部分に手を入れるシーン(妄想的である)

母親のあの部分にも、手を入れるシーンが出てきて、ああこれは決定的だなと感じました。

何がと言うと、レフン監督は「胎内回帰」願望が(意識的にか潜在意識的にか)ものすごい強くある人なんだと想います。

ライアン・ゴズリング演じる主人公も、他の人物も、手や腕を切り落とされるというシーン(妄想であれども)が何度も出てきます。

これは、自分の母親とまた一つになり、胎内へと戻りたいというような願望を、自ら切り落としてしまいたいという願望が表現されているように感じました。

自分自身、父親に育てられ、父が母代わりであり、父親と父と娘以上の繋がりを感じ、一つとなりたい願望がずっと強く在る人間で、前に胎内へと通じる赤い生肉で出来た産道のような通路を歩いていき、胎内世界のような不思議な夢の世界を生きているレフン監督の映画世界のような奇妙な夢を見たことがあり、その夢を基に小説も書いていました。(残念ながら未完成のままです)

もしかしたらレフン監督も、そのような夢を観たことがあるのかもしれませんし、そうでなくとも胎内記憶が強く監督の奥深くに重要なものとして残されているように感じました。

だから胎内のようなグロテスクでもあり、どこか懐かしみを感じるようなシーンの出てくる映画を撮っているのではないか。

映画「オンリー・ゴッド」も妄想的で血みどろの残虐な映画であるのに、何か懐かしくもなるような映像でもあるように感じました。

 母親への胎内回帰願望と母への愛が基となっているならば、懐かしさを感じるのも頷けるものであります。

 あとは、映画「オンリー・ゴッド」の中には主人公に向けて母親がおまえを「堕ろせと言われたが、産んだ」という台詞が出てきますね。(監督を育てた義理の母親はかなりな毒親であったようです)

レフン監督の胎内に対する強い想いっていうのは、「中絶(堕胎)」という行為と深く関係しているのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 


映画「おわらない物語 アビバの場合」 YESとNOを待ち受ける罠のような人間の危機

2018-01-10 18:39:30 | 映画

トッド・ソロンズ監督の2004年の映画「おわらない物語 アビバの場合」を観た。

 

 

 

 

 

『ウェルカム・ドールハウス』『ハピネス』『ストーリーテリング』で知られ、ブラックなユーモアとスタイリッシュな切り口でファンを増やしているトッド・ソロンズ監督の最新作。
主人公の少女アビバを、ジェニファー・ジェイソン・リーをはじめとした8人の俳優が演じたことでも話題になった。
ガス・ヴァン・サント、ギャスパー・ノエの両監督が絶賛した作品。

 

🌟あらすじ🌟

レイプされ自殺した従姉を見て、「自分は絶対幸せになって子供を産んで母親になる」と誓ったアビバ。
しかし12歳で妊娠した彼女は中絶をして子供を産めない体になってしまう。
だが両親はこのことをアビバに話さず、アビバは母親になるために旅に出る。

 

 

 

この映画は数々の社会的な問題に対して、強くも浅くも賛成・反対し続ける人たちが深く考えさせ続けられるような映画。と言っても良いのではないか。

 

 

 

 

例えばここで扱われている一つの問題が「中絶(堕胎)問題」である。

12歳の少女主人公アビバが妊娠したとき、母親も父親も中絶を強く薦めて、挙句の果てには半強制的な形で中絶手術をさせる。

 

 そして母親も父親もその選択によって絶望に暮れることが待ち受けているのだが、それを娘アビバには黙っている。

 

 

 

 

娘アビバは、中絶をして赤ちゃんを喪ってしまったことの悲しみから放浪の旅へ出る。

そして出会った行きずりのおっさんに×××され、あっさりと×××れてしまう。

 

 

傷心で死に掛けていたところに助けてくれたのはキリスト教系の慈善団体であり、その一つの血の繋がらない人間たちで作られた家族のような人たちはキリスト教の教えから中絶に強く反対し続ける団体だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、

その団体は、実は裏で中絶手術を行う医師を×××計画をしているような法に触れることもいとわない過激な人間のいる団体(全員がそうではない)であった。

 

この映画はアビバという一人の主人公の少女を8人もの人物が演じている。
肌の色や体格や年齢も違えば性別まで違う。
誰が演じてもアビバはアビバ以外の何者でもないし、中身は何一つ変わらない。
ただアビバの願いは、自分の赤ちゃんが欲しいという切実な願いである。
またアビバの望むように愛されたいという純真な望みである。

アビバの母親も父親も、アビバのためを想って中絶を薦めたはずが、アビバの人生で一番の喜びを実は奪ってしまったのだという後悔に苛まれる。

何故なら、アビバは中絶手術によって、もう二度と子供を産めない身体となってしまったからだ。

 


 

『おわらない物語 アビバの場合』トッド・ソロンズ監督インタビュー

 

「(ことの是非が問われる問題について)意見を言うのは簡単ですが、実際に危機に面したときにどう対応するのか…この作品を観て自分の価値観を再評価し、見つめ直して欲しいと思います」と、作品への思いを語ってくれたソロンズ監督。

 


 


中絶を強く賛成する側も、強く反対する側も、確かに監督の言うとおりに、一つの大きな”危機”に接していて、その判断がどれだけ危うい判断であるかということを見る側に見詰めてもらいたいという意図が感じられる。

 

 

 

 

自分は中絶問題にも死刑制度問題にも肉食や毛皮や動物実験などの動物の権利を無視する問題にも強く反対し続けている一人だ。

わたしは自分でもかなり過激派ではないかと想える。団体などには一切入らずにたった一人でずっと反対し続けているんだが、時に、一線を越えるような感情を覚えるときも多い。

人間を救いたくて発言し続けているのに、時に、その人間の都合の良さっぷりにぶちギレて、わたしの言い分にまったく共感さえ示さない人間に対して殺意めいた感情が芽生えるときも在るのである。

 

 

 

 

自分はその危険さを自分で分っているから、自分が陥ってしまっているこの深い穴から這い上がろうと必死である。

しかしこれは誰しもが陥りやすい危機であるはずだ。誰もが何かを肯定(賛成)し続け、何かを否定(反対)し続けて生きているからだ。

深刻な社会問題は幾つもあるが中でも自分が最も深刻だと感じ続けている問題に、

①死刑制度問題

②人工妊娠中絶問題

③畜産業の大量生産問題

がある。

③番目の畜産業の大量生産問題は、これは環境破壊、気候変動、飢餓、水不足問題に関わる非常に緊急を要する人類にとって深刻な問題である。

そして、この三つの問題はどれも”倫理”という人類が決して無視してはならない是非を問う問題としても深刻な問題である。

死刑も畜産業の大量生産も、これは肯定し続けている人間が世界で多数派である。

中絶に関してはどちらとも言えないという人間も多いと感じる。

人工妊娠中絶は行なうことにも行なわないことにも、母親(手術を受ける女性)の命を喪う危険性があるからだろう。だから当事者たちで判断するべきとして、周りが口を挟むべきではないという考えが広がっているように感じられる。

自分が中絶の絶対反対派に付く理由の一つは、一つは胎児が感じている可能性のある肉体的苦痛の重さである。

そこには精神的苦痛も科せられているかもしれないと考える。

「科す(刑罰を負わせる)」という表現をしたのは、中絶手術はまるで胎児に対して行なわれる拷問の末の死刑囚に対する処刑のように想えてならないからだ。

一秒間に換算すると、世界中で1.3人の胎児が中絶され続けている。

全世界では、毎年約4500万人、一日で11万人以上もの胎児が中絶され続けている。

ちなみに家畜は1秒間に 牛3頭、豚5頭、 鶏1100羽分が食肉として屠畜(殺)されている。と言われている。

わたしとしては、この問題を深刻に捉えない多数の人間に、恐ろしさや薄ら寒さを覚えないではいられないのである。

毎日毎日、寝ても覚めてもこれらの問題について考えている。世界中の阿鼻叫喚地獄が、毎秒毎秒自分の脳内で繰り広げられているような状態なので緊張が抜けることもなければ生きた心地もしない。

自分はこのまま行くと、この「おわらない物語 アビバの場合」という映画のなかの狂信的な中絶反対者による××みたいな、最悪な行為すら肯定する狂人になるのではないかという自分に対する恐れも感じている。

まあゆうたら、人間の一つの発狂の地点が、そこなんじゃないかと感じるわけです。

でもこれは中絶とかの命に関する深刻な問題を肯定し続けている人たちにも、同じく言えることだとわたしは想うわけです。

このトッド・ソロンズ監督もそういう想いをずっと抱えて生きている人なのかもしれない。

「それって、大丈夫なのか?」っていう疑問を自分自身に対して全く持たない人たちに対するある種の危惧感です。

わたしみたいな過激な反対派の人間と、過激ではないが社会問題に対して賛成し続けている人間、ここにある”危うさ”っていうものが、同じ程度の危険性を孕んでいるのではないのか?ということをこの映画を通して、改めて感じさせられたのです。

どちらが”より”危険だ、ということを監督も感じてはいないんだろうなと想ったのです。

でも言えるのは、自分はその自分自身の陥っているこの破壊的な情熱みたいな心理状態の危険性を常に感じ取っている人間ですが、わたしの意見に反感を覚える人たちのなかにも、同じく自分自身を省みるような心理状態があるのかどうか?そこが「見えない」ことが、また恐ろしく感じるのです。

だから監督も、そこ(自分自身が反対・賛成している事柄)を見詰めて欲しい想い(同時に監督自身のなかにあるものを見詰める想い)で、この映画を撮ったのではないか、とも感じたのです。

すごく素晴らしい監督だと想います。あんまり、ここまで深いテーマで考えさせられる映画もなかなかありません。

まあ自分も実は、言葉の表現の場で、それをずっとこつこつと遣り続けて自分自身の感じ方や考えのすべてと常に奮闘し続けて生きている人間です。

どれだけそこにある自分自身の矛盾や、葛藤を小説(や詩)によって昇華できるかは、自分の腕(感性)次第なのです。

で、この映画の最大と感じるテーマ、「本質とは何か?」みたいなテーマは、わたしの崇拝し続ける作家、町田康の小説のテーマであると感じていますし、わたし自身の小説のテーマでもあります。

 このトッド・ソロンズ監督のほかの映画も全部観てみたいです。

 

 

 

 

 

 

 


映画「ブルックリン最終出口」へ俺たちは向かっているのか?

2018-01-01 14:55:41 | 映画

元旦の夜明け前に1989年のアメリカ・西ドイツ映画の『ブルックリン最終出口(原題:Last Exit to Brooklyn』を観た。

原作は「レクイエム・フォー・ドリーム」で有名なヒューバート・セルビー・ジュニア(Hubert Selby, Jr)の同名小説。1964年の出版以来、性と暴力の描写の苛烈さで話題を呼び、バージェスらに激賞された大ベストセラー。

監督は「クリスチーネ・F」のウルリッヒ・エーデル(Ulrich Edel)監督。


 

 

 

 

 

 この映画は想像以上のわたし好みの傑作な映画であった。

なんで観たのかというとわたしの好きな女優のジェニファー・ジェイソン・リー(Jennifer Jason Leigh)が輪姦に合う衝撃的作品と言われていたので、それだけでこれは是非観たいと前から想っていてゲオ・オンラインで貸し出して観ました。

 

 

 

 

1952年、ニューヨーク州ブルックリン85番街。

米国中が戦争の勝利に沸きあがるなか、ブルックリンの住民たちは不況に苦しみストライキを続け、町中は性と暴力、ドラッグとアルコール、人間の欲望の暴走に出口の見つからない崩壊寸前の掃き溜めの町と成り果てていた。

そんな町で人間が人間と生きてゆくことの恐怖や切実な日々を痛烈なユーモアを痛ましく漂わせながらも淡々と描いてゆく。

原作者のヒューバート・セルビー・ジュニアはブルックリン出身で当時結核で片肺を切除し、喘息に苦しみ、ホームレスをしながら「ブルックリン最終出口」を書いたという。



(この先、自分の映画の解釈にシーンの解説を交えています。読みづらい方は別々にお読みください・・・)



まず、役者がみんな素晴らしかった。この映画を観て不快な気分や人間の醜さや絶望的なものを感じたという評価が多かったが、わたしはむしろ爽快な感覚でずっと観ることができた。

それが良いのか、どうなのかと言われると、わたしはそう感じさせるこの作品は凄く優れた作品であると感じた。

悲しく痛ましいシーンが多いこの映画が何故そんなに最後まで清々しい映画であるのかというと、人間を素直に正直に描くことで、醜さや絶望を超えるものを表現できるのではないかと感じたのだが、それだけではなく、創り手の人間に対する愛情、人間を見る目が深いからなのかもしれない。





(ジョージェット役に実際にトランスジェンダーであるアレクシス・アークエットが演じています。身体は男性ですが心が女性であった彼女は惜しくも2016年の9月にこの世を去っていることを知りました。とてもセクシーで、これは演技でなく本物のセクシーさだなと魅了されました。苦しんでいる人ほど本当にセクシーなんです。)




絶望のどん底に「ほんのすこしの救い(希望)」が観える作品ではなく、この映画の始まりから最後までの人間たちの必死な有様こそが、すべて人間が生きることの本当の救いであるのだとわたしは感じたのであった。

しかし面白いのが、本当の救いがしっかりと描けているにも関わらず、この映画に出てくる人間たちの出口とは果たしてどこにあるのかと感じる映画なのである。




(レジーナ役(向かって左)のZETTEもすごくセクシーなゲイを演じていました。向かって右はそのレジーナに本気で惚れ込んでしまうハリー役のスティーヴン・ラングもすごく良かった。プライドの高そうな彼だからこそ演じられる哀れで惨めな人間の弱さというものが悲しくも美しく感じました。)




なんでかっていうと、この不況で性や暴力、ドラッグやアルコールの溢れかえるモラル崩壊寸前的な町って、今の時代にもどこにでもあるというか、日本もほとんどの人間たちが”職場”という出口の見えない場所に一体いつまで働き続けなくてはならないのかという絶望的な気持ちでいるように想えるし、ネットを開けば性や暴力で溢れ返っているし、ドラッグを求めて精神科はいつでも予約待ちの状態です。

むしろ、それらをみんなが想う存分発散できない日々を送り続けているほうが出口は遠いんじゃないかと感じたのです。遣りたいことを遣り尽せば、あとはもう底の底まで堕ちていくわけじゃないですか。その絶望感というものが、不十分である状態ほど、ある意味本当に持続し続けるこの映画以上の絶望的な状態なのではないかと。




(スプーク(キャメロン・ジョアン)少年と売春婦トララ。切ない純愛が織り込まれているのですが、なんでしょうねこの映画の純愛さって、あまりに渾身的というか、蓮っ葉な母親に求める息子の愛情みたいな。)




そうすると、この映画の荒廃したどこまでも自暴自棄に陥り自らを破壊せしめようとせずにはおれないような人間たちの姿っていうのは、わたしたちの未来の姿であるんじゃないのかと想うのです。

そこにある苦しみを、発散しないでは生きていけないほど限界に来ている人たちっていうのは、なんとか抑えこんで生きていけている人たちがこのまま行くと、こうなるのではないのかという一つの未来予想的な映画が、この映画であると感じるんです。

それは団体ではなく、個人を見れば、大体がそうなってしまうということがわかると想うんですが、発散も暴力(殺さない程度の)などのモラル崩壊もできなくなったところにあるものと言えば、それこそ最悪なひとつは”自殺”であるし、”殺人”でもあります。それもできなければ閉鎖病棟に送り込まれたりする。




(こうして戦場へ向かう兵士を騙して金を盗む売春婦のトララ役をジェニファー・ジェイソン・リーが演じています。彼女はほんとはとてもうぶな女性だと想うので、男を騙そうが厭味がない。しかも彼女は賢い売春婦であり、それを分る男性が現れるわけですが。賢い女が身体を売るのは相当の理由があるんだと想うから、誠実な男がそんな深いわけの在る売春婦にぐっと来るのはわかる。しかしここでそんなトララと寝るまえに飲んだ暮れてる兵士は、これから戦場へ向かうという恐怖と悲しみを、売春婦と寝ることで誤魔化すことすらできないと言わんばかりにダウンしています。(でも実はトララが薬を飲ませたのかも?)なんにしろ、人をこれから殺す為に戦地へ赴く兵士のストレスとは一体どれほどのストレスなのか。)



でもこのブルックリン85番街は人と人の粗暴さに、それほど違いが見えないんですよね。暴力を受けるほうもほとんどは粗暴で非があるような人たちばかりです。

ドラッグや酒に溺れ続けて生きることも社会のなかで生きる人間として危険なので”非”として忌み嫌われる存在であるのは致し方ないことです。

だからこの映画はむごい暴力や性に乱れた野蛮な人たちと、そうではない人たちに”差別(区別)”というものをほぼ感じられなかったし、純真に生きているはずであろう少年でさえもが、この粗野な部族の一員として上手く融け込んで同化しているように観えたのです。

だから善と悪の区別がまったくできない世界と言える。賢い猿と賢くない猿はおるにはおるが、でもぼくたちって全員猿だよね。そうだな、みたいな諦念が在る清らかな世界なのです。

この遣り切れない時代と場所に生きるみじめな俺たちというどこか強い仲間意識が伝わってきて、それが彼らを救っているとも感じられる。



(そしてわたしを一番感動させたスティーヴ少尉(Frank Military フランク・ミリタリー)です。彼の微妙な表情の演技が本当に素晴らしかった。引き攣らせながらはにかむ表情とか、なかなかこの精妙な表情はそうそうできるもんではないんじゃないかと。真面目で誠実でインテリ系の少尉とさばさばした、でも傷つきやすい繊細で強気な売女(ばいた)の純愛とか、たまりませんな。彼は脚本家らしいが、俳優の才能もある。彼はトララを売春婦としては見なかった。戦地へ出征するまえに彼がトララと出会ったことは、喜びより、むしろ未練を強くするたまらない悲しみであったと想います。)



つまり、この町に生きる人たちすべてが、赤ちゃんから老人まで、巨大な家族のような、相手の責任は自分の責任であると互いに暗黙の了解の上に成り立っているような社会として存在しているように想えたのです。

だからこそ、この映画が最初から最後までわたしに爽快感を与え続ける映画であったのかもしれない。

この映画が描いたものというのは、過去にあった状態でもディストピアでもなく、むしろ現代のどん詰まり的な状態から出口へ向かって進むには、まずは”ここに”行く必要が在るといった理想の未来の状態であるんじゃないのかと。

みんながみんな大して変わらないくらいに傷つき合っている、互いにいっぱいいっぱいである世界っていうのは、例え暴力や乱暴ごとなどがあっても理想の状態のように想えたわけだす。生きることの切実さに欠けるなら理想(平和的な)を強く追い求め続けることもできない。




(果たしてトララとスティーブ少尉の恋はどのような結末を迎えるのでしょうか。まるで母親に甘える幼児みたいだ。。。おばちゃんっぽい化粧だな。。。)




(この不安で寂しそうな表情。素晴らしい表現だ)


(化粧しないほうが絶対若々しくて美しい・・・・・・)





どん底(どの時代にも在る現実)の最終出口を見つけだすには、とにかく堕ちることのできるところまで堕ち続けなくてはならないということを描いてるんじゃないかなあと想った次第です。

で、この映画が未来の理想な状態で、本物の現代の現実っていうのは、「レクイエム・フォー・ドリーム」のほうで原作者は描いているのかどうか?近いうちに「レクイエム・フォー・ドリーム」を早く観たいと想っています。

この「ブルックリン最終出口」は淀川長治が1990年の年間ベストテンの第9位に選んでいる彼も推す傑作なので、映画好きの方は多分観て損はないと想います。

是非、観てみてください。




(追記:トララが輪姦されるシーンですが、彼女は見知った町の連中に姦されて輪姦(まわ)されるわけですが、妙に家族愛とは言いませんが、変な互いの同族愛みたいなものを感じて不快さの起きなかったのは、これは、どうなんだ、っていう・・・輪姦シーンに同族愛を感じるわたしって、大丈夫なのか笑 まあそんな珍しい感覚を感じさせられる稀有な作品であることは確かでした。ちなみに本物の輪姦シーンはブラウン・バニー」で既に鑑賞済みです・・・かなり、不快で苦しいものでした。)




どうでも良いが、この記事を書くのに6時間弱掛かった。





映画「マシニスト」あなたの生きるべき世界は、どこですか?

2017-09-21 22:11:04 | 映画
ずっと気になっておりました2004年ブラッド・アンダーソン監督の「マシニスト」を昨夜と今日、二度観ました。










ストーリー


極度の不眠症で1年も眠れず、病的に痩せ衰えた機械工のトレヴァー(クリスチャン・ベイル)。
自宅で不気味な貼り紙を見つけ、新しい同僚に出会って以来、彼の周囲で奇妙な出来事が頻発する。
誰かが自分を陥れようとしていると感じたトレヴァーは、疑心暗鬼になっていく。





この、「疑心暗鬼になっていく」っていうところが一昨日の晩に観た「メメント」のあらすじと同じですやんけ、となりますね。
実際、この映画は「メメント」とよく似たお話だなと感じました。

「メメント」のレナードは騙されている?と不安げになりながらもそれでも自信満々な様子で先へ先へと進もうとするのですが、この「マシニスト(機械工、機械技師の意)」のトレヴァーはとにかくどんどん精神が不安定になってゆくんですね。
そこが違いました、そしてこの映画にはわたしの好きな「サイレントヒル2」という日本のゲームのストーリー要素も入ってるんですよね。

また照明効果でしょうか、青緑に寄った暗い照明とどこか神経質なまでの整頓されたような世界、現実離れした3Dのような世界がとても綺麗で、それでいて重厚感があると言うんですかね、わたし好みの撮り方で、そして「メメント」には惜しくも撮りきれていなかった”切なさや悲しみ”がこの映画にはちゃんと入っていたので、わたしはこの映画はすごく良かったですね。

なんと言いましても主人公トレヴァー役を演じたクリスチャン・ベイルという俳優、わたしはたぶん初めて観たと想うんですが、痩せた彼の演技がすごく良かった。
太ってたら駄目なんかいと言われそうですが、まさしく、この人も太ったら魅力を失ってしまう人だと想いますね。
まあ太っている映画をちゃんと観ていないんでなんとも言えませんが、「ダラス・バイヤーズクラブ」のマシュー・マコノヒーと同様に、痩せた彼は本当に美しいと感じました。

でもクリスチャン・ベイルが病的に痩せた、とか、歩く骸骨、とか、アウシュビッツ収容所のユダヤ人並に痩せ細った、とか言われていますが、確かに凄く痩せてはいますよ、でも自分の亡き父は普通に体質でこれくらいは痩せていましたよ。
死ぬまでは病気なんて全くしない健康的な人でした。
ちょっと大袈裟なのではないかと想います。これぐらい痩せている人はざらにいますよ。

BMI(体格指数)数値だって彼の183cm54.9kgのBMIとわたしの162cm37kgのBMIを計ってみますと、彼が16.39でわたしが14.1とわたしのほうがずっと少ないんですよね。
まぁ骨格によって痩せている見た目は大きく変わるはずですが、彼が歩く骸骨とか言われたらわたしはなんでしょうか、歩く糸、とか言われるのでしょうか(笑)
歩く絹糸のあまねです。どこでも通り抜けられます。ってこれから紹介しないといけないのかな。

まぁ冗談はこれくらいにしてレビューのほうに行きます。

この映画は観終わって、想い返して、嗚呼ー・・・・・・って感慨に耽るような映画なんですよね。
「メメント」も「サイレントヒル2」もそういったストーリーで、最後まで謎が続くわけです。

この映画にも”記憶”というものが大きく関わっています。
この映画は、観ていていったい何が現実で、何がそうではないのかがわからなくなるのです。
トレヴァーは”歩く骸骨”ではなくって、”歩く夢遊病者”のごとくに生きているんですね。

例えば、眠っている間に見る夢の世界と、この現実の世界が地続きな感じに続いていたらどう感じると想われますか?
夢の世界ではどこかへ行って、そして家に帰って来てコーヒーなんて淹れているとしますよね、そしてそこで本当は夢は醒めているのですが、ふと気づくと自分の家のなかで夢の続きのようにしてコーヒーを淹れている自分がいたなら、さっきまでの世界は特に夢の世界だったとは気づかないんじゃないでしょうか?

このトレヴァーという男がまさにそういう世界を生きているんですよね。
普通ではない世界を彼は普通に生きています。

当然、周りは彼のことがわからなくなりますよね。
現実では気違い扱いされて終ってしまいます。
でもそういう人って、たくさんいると想うんですよ。
なんでそうなってしまうのか、っていうのはこの映画を観ればすこしはわかるんじゃないでしょうか。

彼はとてつもないストレスに日夜さいなまれ続けているわけですね。
それが耐えられない限界値に来て、こうなってしまったであろうことは容易に想像できます。

















これはトレヴァーが空港のカフェで知り合った女性の子供と一緒に遊園地のなかの恐怖の館みたいなアトラクションの中に入っている写真です。
トレヴァーは何故か、ことごとく”左側”に行ってしまうのです。
7枚目の写真、右側は”天国”で左側は”地獄”となっています。

聖書にはよく「神の右の御手」と出てきますが、どうやら右は”神の義”で、左はそうではないという方向として示されているようです。
わたしは単純に”右”は”光をつかさどり、”左”は”闇”をつかさどる象徴として示されているのではないかと想っています。
闇なくして光を感じることができないので、双方は同等の価値にあるということですね。

トレヴァーはことごとく”闇”の方向へ行ってしまう人間であったと。
それは言い換えれば”苦”の道、苦難の道と言えましょう。

なんでか?
なにゆえに、彼はどこまでも苦の道を行かねばならんかったのであるか。
人が自分の苦難に直面するとき、ほぼ誰もが感じることではないでしょうか。
なぜ、わたしが、これほどの苦痛を経験せねばならないのか、と。

人は耐えられないなら、逃げなくてはなりません。
脱出、そこから抜け出さないでは、最早生きてはゆけないからです。

トレヴァーはどんな風に?それはこの映画を観てのお楽しみです。
観終わってから、すこし経って、切なさが込み上げて来るような映画でした。









余談



娼婦スティーヴィー役のジェニファー・ジェイソン・リー、いやぁ、観ているときは気づけなかったんですが、自棄に可愛いらしい仕草の人だなぁ・・・と想っていたらば、わたしのベスト3に入れたいほどの映画「イグジステンズ」(イグジステンズについてはちょっとここのわたしのブログで書いてますので良かったら観てみてくださいね)に出てた女優ではあーりませんかっ。
いやぁ・・・すっごく可愛いですねこの人は何の役やっても、自分はヘテロですがかなり、タイプです(笑)
色気があるのにこの可愛さ、あどけなさはなんだっという感じですね。40歳のときか~。
ちなみにクリスチャン・ベイルは当時30歳とか・・・吃驚ですね。40歳は過ぎていると感じましたよ。
トレヴァーととってもお似合いのカップルだと感じました。

別次元では結婚していて欲しいな!という気持ちです。

そう、別次元では、きっと・・・みんな笑顔で会えるでしょう。