あまねのにっきずぶろぐ

1981年生
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

ѦとСноw Wхите 第7話 〈記憶〉

2016-12-31 18:49:25 | 物語(小説)
夕方まで眠ってしまった。
Ѧ(ユス、ぼく)はСноw Wхите(スノーホワイト)を見つめながら昨日書いたことを想いだし、とつぜんなみだをながしてСноw Wхитеに言った。

Ѧ「Ѧのお父さんは、Ѧを忘れてしまったのだろうか。死んでしまうこととは、すべてを忘れてしまうことなんだろうか。さっき、とても恐ろしい夢をずっと見ていた。誰かが、Ѧをとても残忍な方法で殺そうと考えていて、Ѧは殺され、Ѧの死体で奇妙なオブジェが冷たく狭いトイレのような場所にひっそりと立たされているんだ。そのオブジェはѦの死体なんだけど、お腹から下の部分しかないんだ。そしてその足の下には細く短い竹馬のような脚が取りつけられていて、蹄があり、まるで長い鹿のような足をしているんだ。
Ѧは殺されてしまったのに、その光景をѦは見ている。そしてまた同じ存在に殺されるためにѦはつけ狙われるんだ。Ѧはとても恐怖して逃げるんだけど相手は必ずѦを殺そうとしているんだ。Ѧは逃げられないことを感じる」



Сноw Wхите「Ѧはいま、新しい自分をとても強く望んでいるのです。そして新しいѦになるには、簡単な破壊方法ではきっと無理だと強く感じています。かつてのѦが、その姿を何かわからないほどに作り変えようとѦはしているのです。Ѧを破壊しようと何度としつこく追いかける存在はѦ自身です。Ѧはどんなに変化した自分を見てもまだ納得がいかないからです。Ѧはけっして自分を殺そうとはしていません。その証拠にѦは何度とѦ自身に殺されてもよみがえり、生きてまた挑戦しようとしています。
Ѧ、Ѧはほんとうに叶えたいことをこころのそこからいつでもつよく信じつづけてください。すればそのねがいは、かならず叶います。そしてѦが、そのねがいは、叶わないかもしれないと不安をつよく持ちつづけるなら、それもそのとおりとなって叶わないことが叶えられます。Ѧに叶えられないものは、ひとつとしてないのです。すべてがそうです。だれもがほんとうに叶えたいことを叶えられる力を持っています。人間とは、霊とは、それほどすごい存在なのです。Ѧがお父さんにѦの記憶を保ったまま再会を果たしたいとほんとうに願いつづけるなら、それはほんとうに実現します。Ѧがお父さんに、すべての記憶を記憶しつづけることをつよくつよく望みつづけるなら、それはかならずѦの望みどおりになります。Ѧ、強くしんじつづけてください。Ѧがそのとおりになってほしいと願うことを心からしんじつづけてください。すべてが叶えられます。それが神の御心というものだからです。Ѧがしんじつづけること、それがѦのしんじつです。真に実るもの、すべての真実です。自信を持ちつづけてください。自分にすべての望みを叶えられる力が存在していることをѦはしんじつづけてください。Ѧはすべてのすべてを成就させ、その実を実らせることができます。ѦはѦをせつにしんじつづけてください。すればお父さんは記憶をすべて記憶しつづけてѦといつのひかに再会できます。Ѧのお父さんも、Ѧと同じ気持ちでいるはずです。愛する娘にずっとずっと憶えられていることを願いつづけているはずです。お父さんもѦとかならず再会できる日をしんじつづけているはずです。だからѦもそうしんじつづけてください。わたしにほんとうの気持ちを聞かせてください。Ѧは死んだあとも、お父さんのことを憶えていたいですか?」

Ѧ「うん。Ѧはお父さんを憶えていたいよ。ずっとお父さんを憶えていたいよ」

Сноw Wхите「Ѧ、それがこの宇宙のこたえです。宇宙も同じこたえを応えるということです。ѦがYesとしたこたえは宇宙もYesとするからです。宇宙は、Ѧの神は、それに真に応えます。Ѧ、安心して神の御心にゆだねてください。YesということをYesと言いつづけてください。

わたしの最愛であるѦ、良いですか。良いならば、Ѧ、Yesとそうこたえてください」

Ѧ「Yes]

















祝福

2016-12-30 17:16:56 | 想いで
今日であなたが死んで十三年が過ぎました。



お父さん。
わたしは死ぬまで苦しみたいのです。
わたしがあなたを死なせてしまったことを死ぬまで苦しんで悲しんでいたいのです。
だからどうか、わたしの苦しみを悲しまないでください。
わたしは自分でそう選んだのです。
わたしの悲しみと苦しみを、どうか悲観的に思わないでください。
むしろ、わたしが願ったものをわたしが受けつづけていることに共に喜んでください。
わたしは、毎日生きているという実感がありません。
毎日、亡霊のように夢の中を生きているような感覚でずっと生きています。
わたしはもう、此処に生きていないのかも知れません。
ではどこに、生きているのでしょう。
わからないのです。
でもわたしは日々、喜びや悲しみや苦痛を感じて生きていることは確かです。
もうどこにも存在しないのに、存在しない存在として生きているようです。
「わたしを抱きしめてください。天の父よ。」そうどのような顔でわたしは言えますか?
わたしは今でもあなたを変わらず愛しています。
だから苦しみつづけたいのです。
悲しみつづけたいのです。
自分しか愛せない者のように。
わたしを失う人はもうだれもいません。
わたしはすでに失われた者だからです。
わたしはきっと、あなたとは前世で恋人だったときがあったはずです。
あなたは今でもわたしの父であり、わたしの過去の恋人でした。
わたしは常に渇きます。
あなたの愛に。
今でもあなたがわたしを呼ぶ声が聞こえてきます。
「こず恵」
もうすぐあなたが息をしなくなった時間だ。
お父さんが苦しまないようにこず恵は静かにしています。
わたしはきっとあなたの傍へゆくにはあんまりまだ遠い。
時間が過ぎるのが恐ろしいのは時間だけが過ぎてもあなたに会えないことがわかっているからです。
まだまだわたしの苦しみが足りません。
あなたに再会するためのわたしの悲しみがまだぜんぜんたりません。
わたしは今でもあなたに愛されています。
確信できます。
もしあなたが、家畜に生まれていたなら、あなたをわたしは食べてしまったかもしれません。
罪悪のうちにあなたを味わい、あなたを消化し、あなたを排泄したかもしれません。
あなたを知らず知らずに拷問にかけ、あなたをわたしは殺したかもしれません。
わたしの罪は、きりがみえません。
きれめなく、わたしの罪がわたしをくるしめつづけることを望みつづけているからです。
どうかあなたの娘であるわたしと共にそれを喜んでください。
わたしの中にあなたは住んでいてあなたの中にわたしは住んでいます。
わたしは生きるほどに、あなたの記憶が霧の中へ消えていくようです。
わたしはあなたを、追いかけることもできません。
わたしはまだあなたに触れられないからです。
でもあなたはいつでもわたしに触れてください。
わたしを慰めてください。
あなたのおおきなあたたかい手をわたしは憶えています。
わたしが熱をだして寝ているとあなたが仕事から帰ってきて、わたしのおでこに手をあてたのです。
わたしはそれまでとても苦しかったのが嘘のように楽になったことを憶えています。
あなたは子を癒す力がありました。
今でもわたしを癒してください。
わたしはあなたがわたしを癒すことを知っているので好きなだけ苦しみつづけることができます。
もうあなたが静かに息を引きとった時間は過ぎた。
たった13年間でわたしはこんなに変化しました。
わたしの悲しみはますます深まってきています。
共に祝福してください。わたしの最愛であるお父さん。
この悲しみと苦しみはあなたのわたしへの愛の証です。
これからもどうかわたしを愛してください。
わたしがあなたをすっかり忘れてしまったあとも。
お父さん、わたしを愛してください。















価値なき生命

2016-12-29 20:32:24 | コラム
今日は前回の記事映画「イディオッツ」感想 愚かでいることは素晴らしいに引き続きまして障害、差別のテーマでまた記事を書いてみたいと思います。


今日の朝に読んだ下記の記事を読んで障害、差別、そして優生思想についてまとめました。いくつかの箇所をまずは転載します。


障害者殺傷事件の背景に―― 「優生思想」と「隔離」の怖さ


優生思想に後押しされた虐行
事件後の8月5日、藤井さんは日本障害者協議会代表として声明を発表した。
そこで触れたのが、第二次世界大戦時のナチス・ドイツの「T4作戦」だった。

〈容疑者の衆院議長にあてた手紙文の「障害者は生きていても仕方がない」「安楽死させた方がいい」は、ナチス政権下でくり広げられた「価値なき生命の抹殺作戦」(T4作戦)と重なります〉

「価値なき生命」とは働けない者、兵隊になれない者という意味で、対象は知的障害者と精神障害者が中心だった。
藤井さんは2015年、NHKとともにドイツに向かい、20万人以上の障害者が殺されたこのT4作戦を取材した。
虐殺の背景には、社会の役に立たないものは殺してかまわないという考え方があった。
この考え方に近いものを植松容疑者がもっていたのではと藤井さんは懸念する。








「遺伝性障害は生涯にわたってお金がかかります。それはあなたのお金です」と訴え、障害者を安楽死させることを促したナチスの月刊誌の表紙。
「T4作戦」は1939年から始められ、約20万人の障害者がガス室などで虐殺された。この手法はその後ユダヤ人の虐殺(ホロコースト)へと受け継がれた





この事件には、彼個人の「異常さ」だけで片づけられない問題があります。
彼が抱いていた「優生思想」です。
彼は「障害者は不幸を作ることしかできません」と考えていた。
残念ながら、こうした考えはいま社会全体を覆っているようにも思います。
つまり、社会に根を下ろしている優生思想に後押しされた虐行とも言えるのです。





藤井さんは、WHOの統計資料をもとに「世界のすべての精神科病床の2割が日本に集中している」という。
建前としての理念は掲げるも、事実上、障害者は隔離された施設や病院にいつまででも入れておけ、というのが日本の障害者政策の実相だ。




転載終わり






私は当時のナチス政権下で生きていたなら、ナチスの強制収容所へ運ばれていたなら、間違いなくガス室で処刑されていた存在です。


自分はかなりの重度の引きこもりでもうここ一年以上くらいほぼ外に出ない状態で暮らしています。
引きこもりだしたのは2008年からで、親は二人とも既に他界しているので2010年から生活保護を受けて一人で暮らしています。
鬱症状と対人恐怖、社会不安性障害といったもので外に出ることが極度に億劫で、生活保護を受ける人間の規則である定期的な通院さえまともにできず、病院には一年以上くらい行けていない状態です。

けっこう重い状態なのですが、どんなに苦しいと人にネット上で話しても、大体の人が自分のことを見下したり、苦しさが伝わってこないと言われたり、本当は軽い病気なのに不正で生活保護を受けてるんだろうという目でよく見られます。

そういったことが続いて、人とまともに関わることがどんどん苦しくなってきているようで、自分は今年から自分の話し相手はこの自分が自由に書くことができるブログだけになっています。

たまに話しかけてくる人間が一人いますが、相手は働いている人間なので働いてないわたしを見下しているというか、まあ心配で言ってくるのかもしれませんが、働く気が起きないから働けないと言ってるのに、何で働かないんだと言われることはすごく苦しいことです。


しかしあからさまに差別してくる人間というのはわかりやすいもんで、傷つきはしますが、そういう人間は自分の汚さとか、自分に対する憎悪の激しい人間ばかりなのでわたしからしたら大事な大事な仲間です。
だから傷つけられても納得しやすいものがあります。

でも精神障害を持ちつづけること、働かない人間で生きつづけることでずっと続く苦しみの一つに、ほとんどの人間から、差別されつづけている状態であるという事実、これを感じながら生きつづけることは、簡単に納得できるものではなく、この苦しみは生きていく中で絶望感へと繋がりやすい深い苦しみであると感じています。






「働かざる者、食うべからず」という言葉はもともとは新約聖書のテサロニケ人への第二の手紙 3章10節の


わたしたちがあなたがたと共にいた時にも、「働きたくない者は、だれも食べてはならない」と、あなたがたに命じておいたはずです。


という聖句が元であるのですが、この聖書というもの自体が当時の権力者によって宗教で人を操りやすくするために、勝手に改訂された箇所が多いものであると言われています。
これを書いたイエスの弟子であるパウロが記した言葉とされていますが、本田哲郎神父はこの部分を著作からはずしており、これは偽書である可能性は高いと私も思います。
参考リンクそもそもこの書簡は偽書だと思います。パウロ直筆ではない。なぜならパウロの手紙の書き方は起承転結がしっかりしているのに、この手紙の結びはあっさりしすぎているからです。パウロだったらもっとしつこく書いたでしょう。


何故なら、イエス自身はこんな言葉を言う人だったからです。


それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。


空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
マタイによる福音書 6章25,26節


また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
28節

きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。
30節

この聖句から、イエスは着る物や食べるもので思い煩い、食べるため、衣服を着るために心を悩ませて働くことをよしとする人ではなかったことがわかります。

神は種を撒いて刈り取ったり倉に取りいれたりと働くこともしない空の鳥を養っておられ、働きもつむぎもしない野の花を養い、装ってくださるのに、なにゆえに、そのあとには「働きたくない者は、だれも食べてはならない」などということを言うことがあるでしょうか?









相模原障害者施設殺傷事件の容疑者である青年Aの持っていた優生思想は、強者が持つ思想では決してなく、これは弱者が持つ思想です。
強者と弱者の定義は、
自分が苦しいときに他者に手を差し伸べられる人が強者であり、
自分が苦しいときに他者を巻き添えにして苦しめてしまう人は弱者だと自分は感じています。

たぶんこの世界で三分の二以上は弱者である。

この国のありかたを見れば解ります。
先進国で珍しい死刑存置国であり、同時に世界一の中絶大国であり、ブラック企業ばかりがはびこる過労死と自殺大国です。

自分の愛するものが殺されたとき、相手に死刑を望む人は弱者です。
畸形児が生まれると解れば中絶する人は弱者です。

ほとんどの人が、自分が苦しいときに、他者を助けることができません。
他者の生命を生かそうとするのではなく、殺そうとします。

「優生思想」とは「価値なき生命」と判断した他者の生命を、奪う思想です。
「生きる価値のない生命」と独断的に判断し、生かそうとせず、殺すほうを選びます。

「生きる価値」があると思うのならば、どのような理由があっても堕胎しないはずです。
死刑を望まないはずです。

「働かざるもの、食うべからず」とだけ言い捨てはしないはずです。

「生きる価値」が、人間に平等にあると思うのならば。

しかし多くの人は、平等よりも、不平等の思想で「生きる価値」を認めないとして、生かさないことを望みます。



「障害者は生きていても仕方がない」「安楽死させた方がいい」
と手紙に書いた青年Aの優生思想と、中絶や死刑を肯定する人、そして自ら働こうとしない者は生きる価値がないといった思想はさほど変わりのない思想のように私は感じます。

独断によって、人間の生命の価値に優劣を置き、生かすより死なせるほうを選んでいるからです。
死刑になった人は生きたかったかもしれない、堕胎された胎児はそれでも生きたかったかもしれない、障害者は、生きたいのに殺されたかもしれません。
働いて生きることをやめた私は、それでも生きて行きたいのです。


日本では死刑も中絶も、安楽死というものがありません。
死刑囚も胎児も苦しみぬきながら死にます。
それは明らかに、拷問です。


彼は「障害者は不幸を作ることしかできません」と考えていた。

この青年Aの言った言葉の、「障害者」のところを書き換えてみましょう。

「死刑囚は不幸を作ることしかできません」
「奇形児は不幸を作ることしかできません」
「働かない者は不幸を作ることしかできません」

だから殺すのです。処刑するのです。堕おろすのです。「食べる価値もない、生きる価値もない」と言うのです。


不幸だけを作る存在など、わたしは存在しないと宣誓します。


最後にこの記事を書かれた全盲という障害を持ちながら障害者の問題に向き合い続けている藤井克徳さんの言葉をもう一度載せてこの記事を終えたいと思います。




残念ながら、こうした考えはいま社会全体を覆っているようにも思います。
つまり、社会に根を下ろしている優生思想に後押しされた虐行とも言えるのです。






映画「イディオッツ」感想 愚かでいることは素晴らしい

2016-12-29 15:15:56 | 映画
今日の朝方にかけて、たぶん前に観たのは2001年から2003年くらいのころにビデオで観てすごく感動したラース・フォン・トリアー監督の98年の作品「イディオッツ」という映画をもう一度観た。












「Idiots(イディオッツ)」とは、「白痴たち」という意味です。

内容は、知的障害者を装って人々を騙したり、お金を稼いだりと社会そのものを挑発する行為を繰り返すサークルに集う人間たちを手持ちカメラで追っていくという、役者たちにはほとんど即興で演じさせ、演出も即興を重視しているドキュメンタリータッチな映画なのですが、これが二度目に観ても大変素晴らしい作品でした。

映画の中には知的障害者を装うイェンス・アルビヌスが演じる青年ストファーの知的障害者への差別的発言もありました。

たしか本物の知的障害者が突然現れたとき(監督の即興演出か偶然かで)に、「ガス室で殺しちまえ」か「ガス室で殺せばいい」という台詞があったはずだ。(この台詞がイェンスのアドリブか監督の脚本かはわからない…)

そしてもっとも心に深く残るひとつの台詞がありました。
最初はそんなサークルに集う彼らの仲間に入り、彼らを冷静に観察し続ける過去の何かの出来事で深い悲しみの中を生きているカレン(ボディル・ヨルゲンセン)が救われたような顔をして後半に言う台詞。

「愚かでいることは素晴らしい」


知的障害者を装うこのサークルの人間たちは精神の正常さを保ち続けることが困難な人たちばかりなわけです。
それほどの苦しい過去を皆持っている。
言い方を変えると、なんらかの精神障害や、精神疾患性を持ち合わせている人間たちです。
普段はごく知的に話すことはできますが、何かが壊れやすくなっていて、壊れそうなところで生きている人たちばかり。

それは理性だったり社会のルールだったりモラルだったり、または生きることそのもの、ほんとうに崖っぷちのようなところに生きている人たちばかりではないかと私は思いました。

だから彼らは人の悲しみや苦しみにものすごく共感します。
一方で、共感しない人間たちを軽蔑し、嘲笑したりもします。

彼らは皆、愚かでいなくては生きていけなくなった人たちなわけです。
今以上に。
普段から十分愚かだと、自分を憎悪し、嫌悪し続けているのが伝わってくるのですが、今以上に愚かにならなければ、救われない人たちなんですね。

自責や自罰といった心理は、これはキリがない心理で、どこまでもどこまでも自分を責めつづけ、自分を罰しつづけようとするものなのです。

それがひとつ、たどり着いたところが、わたしはこの映画のように思いました。
最も自分を苦しめるものはなにかと探しつづけ、見つけたもの。
それが知的障害者を装って生きる。という生き方だったわけです。

まったく監督から知らされずに、即興で本物の知的障害者たちが現れたとき、彼らは演技さえ忘れ、その罪悪感に苦しみます。

「知的障害者を装う」という演技自体、この映画の演技であるのに、いったい自分はなんて酷いことをしているのだろう。と

ここに「差別」という問題に対して、人間の果てしない罪悪の心というものがものすごく深いことを表していると思いました。

演技かどうかなど関係ないというように彼らは知的障害者たちを傷つけている自分に対してなんて酷い人間なんだと感じるのです。

「演技」だからと割り切れるような精神を持つことさえできないのは、みんなが現実でも無意識のうちに彼らを差別し続けていると感じているからです。

普段は無意識で差別し続けていることを意識的に感じるわけです。
そんな人間という生き物が救われる唯一の方法、それがものすごく逆説的な「自ら愚かな者を演じる」という方法だった。
差別している対象者を、自ら演じて生きることの苦しみと解放。
彼らが望んで求めたのは自罰的な「苦しみ」だけではなかったし、救済なる「解放」だけでもなくて、その両方が彼らには必要であり、それを求め続けて、その深い悲しみ、苦しみを通して、彼らは苦しみから解放されることができたんだと思うのです。

彼らは間違いなく、「苦しみながらの解放」を得ていたはずです。
「苦しむことでの解放」、彼らは自分を苦しめながら解放されていました。

ラース・フォン・トリアー監督の作品はどれも、このテーマなんですよね。
彼自身が、それを求めていることがよくわかります。

だからわたしはもう言えるかなと思いました。
いちばん好きな監督は、やっぱりラース・フォン・トリアー監督だな。

自分の求めていることも、彼とまったく同じものだからです。

そういえば、レディオヘッドのボーカルのトム・ヨークも以前こんなことを言っていました。
「誰もが幸福を求めるわけじゃない」と。
トムも、同じところに生きている人であるのがこの一言でもうわかっちゃう感じです。
トムもとてつもない自責感や罪悪感や自罰感を常に持って生きている人だというのは、彼の音楽を聴いていると苦しいくらいに伝わってきます。

そしてこれをよく言うなら、真面目で繊細で感性の鋭い人間といえますが、同時にトリアー監督もトムも私自身も重い鬱症状に苦しみつづけてきた人間です。

鬱が酷いときは、もう身体さえコントロールできないし、死んでいるような感覚なので、死体のように生きているのに「いっやぁ、俺は真面目で繊細で感性鋭いのだろうからみんな認めてくれよ」とも言いがたいものがあるわけです。

死体を死体でないものとして認めろといってるようなもんだからです。

そして欝のときは変にイライラとするときもあるのでだれかれ構わずに暴力的な行動や言動に出てしまうこともままあります。
だからそんな人間たちは、果てはこう言われます。

「精神障害者」「人格障害者」「精神疾患」「鬱病」「社会不適応者」「役立たず」「人を不幸にさせる者」「働かざるもの、食うべからず」

非常に、痛い言葉だと思います。
私がいつも、受けている差別の言葉であり、人の目です。
だから余計人が怖くなり、そんな人間たちは引きこもりがちになります。
でもその「人の目」とは、他者の目ではないのです。
「鏡」なのです。
この世にあるすべてが、私自身の「鏡」なのです。
自分が、自分自身に向かって、言い続けているのです。
「精神障害者」「人格障害者」「精神疾患」「鬱病」「社会不適応者」「役立たず」「人を不幸にさせる者」「働かざるもの、食うべからず」と。

ほんとうにひどい症状のときは、空や風や木や草や花など、本来癒されるはずである自然物たちでさえ、わたしに向かって同じ言葉を吐き続けます。
そして最後に決まって言われます。そのすべてから「死ね」と。

つまり、最も自分を「差別」しているのは、他者ではなく、自分自身というわけです。
自分が誰よりも自分を差別し続け、苦しめ続けている存在ということです。

そんな人間たちが救われる道とは何か。
救われる生き方とは何か。

それがこの映画「イディオッツ」で監督自身がたどり着いたひとつの自己救済。

自ら今よりも、もっとひどい障害者〈愚かな者)を自分自身を差別するために演じて、人々から蔑まれ、憎まれ、差別され、その苦しみによって、解放されること。

自分自身も、けっこう覚えがあります。
ほとんど無意識でやっているようなことも多くあると思いますが、たとえば私が統合失調症などの精神疾患の中で最も酷いといわれている精神病があるように見せかけ(幻聴、幻覚の症状があるように装ったりなど)、心配されたり忌避されたりすることで自分自身を嘲笑い、軽蔑し、みずから苦しもうとする方法です。

そして同時に、そんな自分を恐れたり、差別する人間に対して嘲笑している自分がいて、またその嘲笑している自分を自分が嘲笑するわけです。

そんな人間というのは、もう起きている間はずっと、自分をどこかで嘲笑しつづけて生きているので、ほんとうに心底から心が休まる瞬間というものは、一瞬さえありません。

これが本物の「精神障害者」なわけですが、彼らは救いを求めるほど、自分を苦しめることを選ぶのです。

こういった人間の心理を知ってからこの映画を観ると、カレンが言った「愚かでいることは素晴らしい」の意味がどれほどの苦しみと悲しみの中から発せられた言葉だったかを想像することができると思います。



でも私は思うのです。
これはなにも、きれぎれのところで生きている人間たちだけに当てはまるものではないはずだと。
何故なら、誰かを無意識にも差別しつづけて生きる人はほぼ全員だと思うからです。

差別する心がほんの少しでもある以上、その救いは、この映画の中にあるのです。


人間が愚かでいることは、本当に素晴らしい。

何よりもの、人間の救いだ。

わたしは断言できます。

いいえ、誓います。

神に。




ѦとСноw Wхите 第6話 〈イエス〉

2016-12-25 16:10:21 | 物語(小説)
イェスワは言った。

「求めつづけなさい。そうすれば、あたえられる」

「探しつづけなさい。そうすれば、見いだせる」

「叩きつづけなさい。そうすれば、ひらかれる」



「だれでも求めつづける者は受け,探しつづける者は見いだし,まただれでもたたきつづける者には開かれるのです」



「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか」

「魚を求めるのに、へびを与える者があろうか」

「このように、あなたがたは悪しき者であっても、自分の子供には良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、願い求めつづける者に良いものを下さらないことがあろうか」

「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。

 これが律法であり預言者である」





マタイによる福音書7章7節~12節





Ѧ「イェスワとはナザレのイエス(イエス・キリスト)のことだよ。イエスの当時住んでいたユダヤのガリラヤ地方(今はパレスティナのガリラヤ)で使われていたアラム語の呼び方なんだ。昨夜、前に観てすごく感動したイエスが処刑されるまでの12時間を描いた映画「パッション」をもう一度観たんだ。そこでイエスの母マリヤがイエスのことをそう呼んでいた。当時のガリラヤ地方はひどく貧しくて飢えと病気が蔓延し、見捨てられ疎外された人々が住んでいたところだったんだって。そこでイエスは30歳の頃になって初めての宣教を行なったんだ。自分は神の子であり、またあなた方もすべて神の子であり、求めつづけるなら得られないものはなにひとつないと教えまわったんだ」











心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
(「マタイ福音書」五章3―12節)









Ѧ「”心の貧しい”とは難しい表現だけれども、”心”の原語のギリシャ語は”霊”であるんだって。霊とは、自分という自己を超えたところにある存在、だから霊の貧しい、というよりこれは、霊に貧しい、だと思うんだ。霊に貧しいとはどういうことかをѦは考えてみると、それは神の声を聴くことができない人たちのことでもあると思う。自分の中に、神は存在しないと言う人、神を信じない人、神を見ない人、見ようとしない人、求めることで与えられることを信じようとしない人、その人の心は霊にとても貧しく、困窮した状態がひっきりなしに続いている状態にあるんだと思う。何故人が神を見るのかは、ひとつに求めれば与えられることを知るからだと思うんだ。それは自分の力ではなく、自分を超えた何者かである神の力だと人は感じるはずだよ。だから心の清い人は、神を見るが、その心が濁れば濁るほど、神が見えなくなる。でも神を見る者だけが”幸いである”とイエスはけっして言わなかった。イエスは神を知る人も知らない人もすべて、あなたがたは幸いである。と言ったんだ。Ѧは思うんだ、神を見ることのできない苦しみほど、苦しいものはあるだろうか。すべて起きる物事は偶然であり、自分だけのために生きて、死ねば無になると信じて虚無のうちに生きることほど苦しいものはないよ。罪を知ることは苦しみでありながら、それは喜びなんだ。罪を知れないことこそ、苦しみなんだ。”霊に貧しい”とは、罪を知らない人たちのことだとѦは思う。人はそれを無知と呼ぶ。でもイエスは無知の人々をも救おうとした。”あなたがたは幸いである”と教え、そんなひとたちも必ず天の国に入ることができるということを約束したんだ。つまりイエスは、一人残らず、すべての人が救われることを約束した人なんだ。イエスはその約束が本物であると人々に見せるために、自ら拷問による死を受けたのだと思う。どのような肉なる苦しみも、霊の喜びに打ち勝つことはできないことをみんなの前で証明したんだ。肉体の苦しみはいっときであるが、霊の喜びは永遠であるということをイエスはみんなに教えたかった。それがあなたがたすべての、ほんとうの喜びであるということを」













Ѧ(ユス、ぼく)はそういって熱を静めると西日の中にСноw Wхите(スノーホワイト)に向かって走っていき、その腕に抱かれ、アッパ!(Abba、アッバ、アラム語で父)と呼んで微笑んだ。


























ѦとСноw Wхите 第5話 〈願いと恐れ〉

2016-12-24 11:51:27 | 物語(小説)
Ѧ「”引き寄せの法則”というお話はѦ(ユス、ぼく)とっても好きだけれど、その中にもやっぱり引っかかるものがあるんだ。それは無意識で引き寄せることが惰性によって引き寄せているというところ。Ѧはとってもポジティブな考え方の中に、どうしてそのようなネガティブな考えを入れるのかがよくわからないんだ。Ѧは惰性で引き寄せている、という考えより、すべてがすべてをほんとうの願いによって叶えている。と考えるほうが好きだな。無意識と、意識の境地を分ける必要はないように思うんだ。Сноw Wхите(スノーホワイト)はどう思う?」



Сноw Wхите「わたしもѦの考え方がとっても好きです。この宇宙には、何かだけが正しくて、あとは間違っているということはけっしてありません。ѦがѦをいちばんに幸福にし、そしてѦの想うすべての幸福になると想う考えかたをѦは選べばよいのです。すべてが、自由に選びとることができます。無意識によって引き寄せるものとは、それほど関心を持たないのに引き寄せると思われがちですが、無意識によって引き寄せるもののほうが実はほんとうの自分が強い関心を持っている場合がたくさんあります。人間はそして深く考えれば考えるほど、それが無意識だったのか、意識的だったのかを分けることが困難になってくるはずです。そこを分ける必要はѦの言うとおりに、ありません」



Ѧ「Сноw Wхите、Ѧは選びたいものを自由に選びとれることがほんとうに嬉しい。Ѧはだから、好きで引きこもりをやっているんだね。好きで外を恐れている。好きで人を恐れ、鏡を恐れているんだ。Ѧはとても苦しいのに、とても嬉しいから毎日はとても充実している。知りたいことが無限にあるということが、Ѧを幸福にするんだ」



Сноw Wхите「その調子ですぞ、Ѧ」



Ѧ「なんだか、きゅうに出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)みたいな話し方になったねСноw Wхите(笑顔)」



Сноw Wхите「そんなことはありませぬぞ?」



Ѧ「Сноw Wхите(笑顔)」







「四つ足を食ってはならん。

共食いとなるぞ。

草木から動物生まれると申してあろう。

臣民の食べ物は、五穀野菜の類であるぞ」

「日本は、五穀、海のもの、野のもの、山のもの、みな人民の食いて生くべきもの、作らしてあるのぢゃぞ。

日本人には、肉類禁物じゃぞ。

今に食い物の騒動激しくなると申してあること忘れるなよ。

こんどは共食いとなるから、共食いならんから、今から心鍛えて食い物大切にせよ」

「霊人の食物は、その質において、その霊体のもつ質より遠く離れたものを好む。

現実社会における、山菜、果物、海藻などに相当する植物性の物を好み、同類である動物性のものは好まない。

なぜならば、性の遠く離れた食物ほど歓喜の度が強くなってくるからである。

霊人自身に近い動物的なものを食べると歓喜しないのみならず、かえって不快となる」








Ѧ「おにさぶろうさんは肉食の害についてはっきりと言及しているね。おにさぶろうさんはこれからやってくる世界的な食料危機や天変地異の災害や世界大戦による終末の預言をしている人でもあるんだ」







「地震、雷、火の雨降らして大洗濯するぞ。

よほどシッカリせねば生きて行けんぞ。

月は赤くなるぞ。

日は黒くなるぞ。

空は血の色となるぞ。

流れも血ぢゃ。

人民四ツん這いやら、逆立ちやら、ノタウチに、一時はなるのであるぞ。

大地震、火の雨降らしての大洗濯であるから、一人逃れようとて、神でも逃れることは出来んぞ。

天地まぜまぜとなるのぞ。

ひっくり返るのぞ。」






Ѧ「とても、恐ろしい預言をおにさぶろうのおっちゃんは言ってるね。広島長崎の原爆を”あんなちょろいもんやない”って言ったらしいよ。地球もいま新しい世を迎えるためのこの世の歳晩をひかえていて、そのために大洗濯や大掃除をしなくてはならないんだね。でもどうか、生物すべてに耐え切れない苦しみが訪れないことをѦは願うよ。でもなんて恐ろしい預言だろう。天地がまざってひっくり返るって、天を驚かし、地を驚かして交ざりあってもうなにがなんなのかわけわかんなくなるほどの驚天動地のことが起きるって意味なのかな」



Сноw Wхите「Ѧ、Ѧの願いが強くなればなるほど、その願いは必ず叶います。Ѧは余所見をする必要はありません。Ѧは恐ろしい預言を、恐れる必要はありません。Ѧは恐れを恐れつづけることより、願いを願いつづけることを選択したからです。Ѧの恐れは、すぐに消え去ってゆくものです。Ѧはあまり関心をいま持ってないのです。恐ろしい終末を迎えなければ、新しい世が誕生しないという固定観念をѦのこころの絵の具で塗り替えてください。母が子を産みだすときに、産みの苦しみを味わわなくてはいけないという観念を持ちつづければ、それはそのとおりになります。でも何の痛みも苦しみもなく子を産み落とすことは実際できるのです。Ѧ、苦しみを求めつづければ、苦しみはもたらされます。そして喜びを求めつづければ、喜びはかならずもたらされます。Ѧは、母なるEarth(アース、地球)にむかい、こう預言してください」



”あなたはこれからひとりのメシアなる子を生み落とす。

その喜びはいままでに感じたこともない天と地が驚くほどの歓喜にみちみちたものであるだろう”
























ѦとСноw Wхите 第4話 〈魂〉

2016-12-23 17:33:47 | 物語(小説)
Ѧ(ユス、ぼく)が何日か振りにベランダのプランターにお水をやると、レモングラスの草の下に小さなアオムシが寝っころがっていた。きっとさっき枯れかけた草を引っこ抜こうとして引っ張ったときに下に落っこちたのかもしれない。引っこ抜くのはやめておいた。

でも、あの子、無事に蛹になれるんだろうか。食べられる草はあんまりなさそうに見えた。

Ѧがお水をやらなかったせいで、あの子の食べ物もなくなってお腹をすかせていたならかわいそうだ。

草に水をやらないことは、草だけじゃなくてそこにやってくる虫たちの命にも関わることなのだとѦは感じた。

あの可愛いアオムシは、モンシロチョウになるのだろうか。いつ一匹の蝶がѦのベランダへやってきて、卵を産みつけたのだろう。ここは5階だから、ずいぶんたかくまで飛んであがって来たのだなとѦは思った。

Ѧは虫の中でもイモムシがいちばん好きだった。何度も蛾や蝶のイモムシを育て、羽化させたことがある。でも何度も、失敗して死なせたことがある。

想いだすとѦは泣きたくなるのだった。

Сноw Wхите(スノーホワイト)、羽化できなかった虫たちは次はいったい何に生まれ変わるのだろう。

ѦはСноw Wхитеを呼んだ。

Сноw Wхите「それはѦの彼らに対する気持ちしだいです。Ѧがほんとうに可愛がった生き物たちは、次の生も、Ѧのそばへくることがあります。またѦに育ててもらおうとするのです。生物の種類は変わっているかもしれません。Ѧが可愛がった虫は、動物の姿で現れるかもしれませんし、人間の姿かもしれません」



Ѧ「Ѧも虫だったり、動物だったりしたときがあるの?」



Сноw Wхите「厳密に言うなら、そうであったとも言えるし、そうではなかったとも言えます。何故なら、人間以外の生命は、個の魂というものが存在しないからです。彼らはすべてで一つの魂なのです。その一つの魂が、あらゆる生物の形をとって生まれてくるのです。そしてその中から、人間の魂が生まれて、個の魂としてできてくるのです。もともとは人間以外の魂からѦは生まれてきたので、Ѧも昔に虫や鳥や動物として生きていたとも言えます。でもそのときに生きていた記憶は、Ѧだけの記憶としては在りません。人間以外の生命の記憶はすべて一つの大いなる魂の記憶として記憶されています。すべてが繋がっているのです。ですから自然にあるものに人間は癒されたり、または小さな虫の痛みにすら同調したりするのです」



Ѧ「Ѧはまるで、Ѧの生まれるまえのѦの魂を苦しめつづけていたんだね。悲しくてたまらないよ」



Сноw Wхите「Ѧは、そうじぶんで決めて生まれてきたのです。じぶんじしんを苦しめつづけなければ知ることのできないことがたくさんあるからです。それはほんとうに深い悲しみです。Ѧが新しいことを知りたいのは、すべての大きな喜びのためにです。すでにѦが体験して知っていることばかり知りつづけても、喜びはちいさいのです。この世界は無限であり、知らないことは無限大にあります。犠牲というものが、どちらか片方だけのものではないことを知ってください。どのような犠牲も、双方にしあうものなのです。Ѧがだれかを苦しめつづけることは、Ѧ自身が、苦しみつづけることです。それはѦが彼らに払いつづける犠牲でもあるのです。Ѧの”苦しめてごめんなさい”という気持ちは愛でできています。でもѦはもう彼らを苦しめない生き方を選んだのです。これからはどうか彼らに謝罪ではなく、感謝しつづけてください。彼らは人間に生まれて、Ѧといつの日か、喜びのうちに笑いあえる日が必ず来ます。彼らの愛はとても深いのです。人間を赦さない気持ちを彼らは持つことがないのです。彼らと喜びあえる日を、待ち望んでください」



Ѧ「Сноw Wхите、ありがとう。Ѧは待ち望むよ。すべてとあたたかい愛のうちに、笑いあえる日が来ることを」






















ѦとСноw Wхите 第3話 〈夢〉

2016-12-22 15:43:24 | 物語(小説)
そういえば、ぼくの憶えていない夢はどこに存在しているのだろうか。

Ѧ(ユス、ぼく)はそんなことを目がさめてComforter(カンファダー、掛けぶとん)に包まれながらふと思った。







Сноw Wхите「Ѧが夢を見た瞬間、それは存在するのです」

Ѧ「Сноw Wхите(スノーホワイト)、Ѧの心の声を聴いてそばに来てくれたんだね。Ѧが知らない夢なのに、どこかに存在しているの?」

Сноw Wхите「その夢は、ほんとうはѦは憶えているからです。でも憶えていないようにѦはみずからѦの記憶を書き換えているからです。Ѧの見る夢も、Ѧが心にえがく夢も、すべてが存在するのです。ただ、いまѦの前にѦの認識できる形をとって現れてはいないだけなのです」

Ѧ「それじゃぁѦがСноw Wхитеの夢を見なくても、ѦがСноw Wхитеの夢を見たいと思ったらもうその夢は存在するってこと?」

Сноw Wхите「そのとおりです」

Ѧ「どこに、存在しているの?」

Сноw Wхите「Ѧの内側に在ります」

Ѧ「Ѧの中にСноw Wхитеはいるの?」

Сноw Wхите「そうです。わたしはѦの外にはいません。でもそれは、すべてがそうなのです。Ѧの見るすべて、感じるすべてはѦの外にあるのではなく、Ѧの中にあるのです」

Ѧ「Ѧの外にはなにもないの?」

Сноw Wхите「なにもありません。Ѧはほんとうはすべてを知っている存在だからです。Ѧが知らないものは、存在しないのです。言い方を変えれば、Ѧが知らないなら、それは存在できないのです」

Ѧ「ほんとうのѦはすごいな。いまのѦはほんとうのѦが生み出した赤ちゃんみたいだ。知らないことばかり、わからないことばかりだ」

Сноw Wхите「赤ん坊は夢の中ですべてを見ているのです。赤ん坊はほんとうはすべてを知っています。そして深い眠りの中にいるすべての生命が夢の中ですべてを見ているのです」

Ѧ「Ѧ、今日こんな夢を見た。狭く不安な暗い部屋のドアを開けたら、左側のよどんだ薄い青緑色の水やがらくたが入った水槽の中から、白くて長い身体の毛の生えた龍のような美しくて可愛らしい獣がCлоw мотион(スロォモォション)で飛び出してくるんだ。なぜあんな夢を見たんだろう」

Сноw Wхите「Ѧの見たいものすべてがそこに在ります。

ѦはそのАнxиеты(アンザイェティ、不安)で暗く、冷たく汚れた空間とその中から白く美しい生き物が現れるという美しき対比の世界を見たいと思っているのです。Ѧのいまそれを見た心は不安の要素が強かったかも知れませんが、その世界をѦは未来に必ず描きあげるはずです。それに夢はとても抽象的なのです。Ѧが恐ろしさを感じる夢を見たからといって、Ѧがそのままの恐ろしいものを描きたいと思っているわけではないということです。Ѧの見るすべての夢が、Ѧの心を激しく震わせるほどの喜びを内包しているのです。だからどんなに恐ろしい夢を見ても、恐ろしさだけに焦点をあわしつづけないでください。Ѧを苦しめるために、Ѧは恐ろしい夢を見るわけではないのです。ほんとうのѦはいつもѦを喜ばせたいと思っています。だからほとんどの夢はすぐに忘れるようにできています。Ѧが恐ろしさを感じ続けることのないためにです。Ѧはどんなに恐ろしい夢を見たとしても、安心して眠ってください。安心してわたしに会いに来てください」

Ѧ「Ѧは、すべてのものに同じだけの美しさが内包されているということを知りたい。ところでСноw Wхите」

Сноw Wхите「なんですか?」

Ѧ「Ѧを、Сноw Wхитеの花嫁にしてくれる?」

Сноw Wхите「勿論です」

Ѧ「Ѧ、死神の花嫁になるのが夢だったんだ。Ѧは昔から死神を信仰していたんだよ」

Сноw Wхите「わたしはそれを知っています。Ѧはそのときからわたしの花嫁です。そして、わたしのマザーでもあります」

Ѧ「なんだって?Сноw WхитеがѦのМум(マム)だよ」

Сноw Wхите「でもわたしのМумもѦなのです」

Ѧ「なんだって?それじゃ、甘えられないじゃないか」

Сноw Wхите「そんなことはありません。母も子に甘えて良いものなのです」

Ѧ「なんだ、Алл ригхт(オールライト、それでは)、Сноw Wхитеよ、ѦのМумでѦの子でѦの花婿よ、さあここへ」



Ѧがそういうと、Сноw Wхитеは真っ白な猫のようにまるくなり、Ѧの膝上でねむり始めた。

わたしがあいするのはѦだけです。とSleep talking(夢言、むげん)を言いながら。
















映画「ベティ・ブルー」 二人が求めた存在しない何か

2016-12-20 17:57:19 | 映画
『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』(原題:37°2 le matin、英題:Betty Blue)
1986年フランス製作 監督ジャン=ジャック・ベネックス

この映画は是非「ベティ・ブルー インテグラル 完全版 (ノーカット完全版) 」178分のものをご覧頂きたい。
その日常を映す長さが重要な意味を持っている作品です。




ストーリー



ペンキ塗りや配管工をしながら生計を立てる35歳の男ゾルグ(ジャン=ユーグ・アングラード)はある日19歳の少女ベティ(ベアトリス・ダル)と出会い、徐々に互いに激しく惹かれあってゆく。

ある日ベティは、ゾルグが過去に書きためていた小説を偶然発見し心酔するようになる。
ゾルグの才能を信じるベティは作品の書籍化のために一人で奔走するも各出版社の反応は冷たく、ベティの迸るような情熱は空回りし続ける。

精神が不安定で何度も衝動的な行動を繰り返すベティ、そんな彼女のすべてを受け入れようとするゾルグ。
二人の愛の行方はどこへ向かうのか。




ベティは脚を折った野生馬のよう
立ち上がろうと 必死で もがく
輝く草原を夢見て
暗い柵の中に迷いこむ
自由を奪われては
生きられないのに





















昨夜にこの映画を初めて観て、今朝起きると、映画の夢を観ていたようで、どんな夢かは忘れたが、目覚めた時に重い喪失感があった。

この映画は、わたしはまだ涙が一滴も流れることがない。
自分には映画として観れない何かがあるように思う。
わたしは女であり、性格はベティと、よく似ている。

真っ白な光か、真っ暗な闇か。
0か、100か。グレーゾーンを受け入れられないベティとわたしはよく似ている。

そしてゾルグとも。
わたしはゾルグと同じ純文学小説家志望である。

ゾルグがほんとうに望んでいるのは彼が描くような悲劇的に終わる世界であることをベティは無意識にも感じ取っていたかもしれない。
同時にベティはゾルグとの今の幸福の延長にあるさらに大きな平凡なる安らかな喜びである幸福を追求していたことも確かだと感じる。
ベティにとって愛するゾルグとの生活はとても大きな喜びの中にあったものの、何度と破壊的な不安に襲われ、それは満ち足りたものではなく、ゾルグの中にも、このまま幸福が続いていくことの不安のような何かがあるのだとベティは感じていたのではないか。

ベティはゾルグを幸福にすることが彼女の一番の幸福であったはずだ。
ゾルグはヒトラーを愛し、悲劇を愛する男である。
現実に破滅的な悲劇がなければ書くことは決してできないであろう重圧で人をほんとうに感動させる物語をゾルグが書くということを、ベティは潜在的な場所で望んでいたのではないか。
そしてそれを意識下には及ばないところでゾルグも望んでいるはずだとベティは見抜いていたのではないか。

二人が望んだもの、それは、同じものだった。
だからこそ、美しい悲劇をそこに人々は観るだろう。

ベティは自分を犠牲にしてでも、ゾルグをほんとうに幸福にしたかったはずだ。
そしてゾルグも、悲劇を望むのはベティとの幸福のためであったはずだ。
ベティはゾルグが描く悲劇的な結末を迎える物語を愛したのだから。

「存在しない何か」を深く望んでいたのは、ベティだけではなかったのではないか。
小説家とは、幻想の世界に生きる人間である。
ゾルグはベティとの幸福な生活を望み、それが叶えられていくほどに彼の幻想なる悲劇的な物語を渇望していたように思う。
ベティはゾルグを愛する深さゆえ、それを感じ取っていたに違いない。
ゾルグとベティは、まるで鏡を見つめあうように同じ「存在しないなにか」を深く深く渇望した。

ゾルグが悲劇を求めたのはベティへの愛ゆえである。
ベティが悲劇を求めたのはゾルグへの愛ゆえである。
だから愛し合うほど二人が悲劇的な結末へ向かわざるを得なかったというあまりに悲しく美しい悲劇がここにあるのだろう。

二人は、けっして間違った方向へ行ったわけではなかった。
ベティとゾルグは、「存在しない何か」をやっと手に入れたはずだ。


*原題の『朝、摂氏37度』とは女性が最も妊娠しやすい体温のことで、男と女の愛と交接の完全燃焼点を表した言葉とされている。


女がお腹に宿し、生む存在とは未知なるものである。
それはまだ、どこにも存在しないもの。
どこにも存在しない「物語」である。

そして小説を書く男が生みだそうとするものも、
それはまだ、どこにも存在しない。



それはまだ、深い深い深淵の中にある。

ゾルグは、それを、書き始めた。










「わたしは厳格な菜食主義を中断します」

2016-12-19 20:02:18 | 食と社会問題
ヴィーガン(菜食主義者)のミュージシャンなどは外国では特に珍しいこともないのだろうけれども、最近私の前から好きな二人のアーティストがヴィーガンであるという情報をネット上に見かけてとても嬉しく感じた。



一人はGrimes(グライムス)というカナダ出身の女性アーティストで彼女の音楽というのは実にこの新しい世が来ることを予感する時代、地球の転換期という今の時代を象徴しているようなパワフルなエネルギーに充ち満ちて非常に素直で心地の良いスピリチュアルの深さを感じるアルバム「Art Angels」を2015年に出してくれて、私は非常に喜んだのです。
さらに、彼女のその無駄な脂肪を一切つけないというスレンダーで少年のような体形を見ていても、もしかしたらベジタリアンっぽいなと思っていたが予感は当たっていた。












Grimes - Butterfly [Official Video]



何べん聴いても鳥肌が立つ。
これだけ深い音楽を創られるのは彼女がとてつもない悲しみや苦しみを知っている人だからに違いないと思っていたが、それも予感は当たったと言っていいだろう。
ヴィーガンは深い悲しみや苦しみを知る人がなりやすいと思うし、また生命の苦しみを知ってヴィーガンになった人は特にヴィーガンになってからは新たなる悲しみと苦しみの中に毎日を生きることになる人だからである。

自分はヴィーガンであることを選んで生きることが今できている。
畜肉を食べなくなってもうすぐ5年。
これまで何度と食欲に負けて魚介類を摂っていた時期や、乳製品や卵を少々摂ってしまったことが幾度とあったが、今年の6月からは植物以外を一切口にしていない。
これだけを取っても、自分のこれまでの苦しみの価値はとても大きなものであると感じている。

自分はたった一人ではヴィーガンになどなれなかっただろう。
自分が最初にヴィーガンを志したのはシルバーバーチという聖霊たちの愛なるメッセージの御蔭であったし、断念の後に二度目にまたヴィーガンを志したのは平沢進の御蔭なのです。

彼らに私は救われました。そして彼らはわたしの犠牲になる存在を同時に救ったのです。
彼らがいなければ私はヴィーガンにはなれなかったかもしれません。

私の夢は、宇宙のすべての世界で、みんなが他者に優しい生活を送る世界に生きることです。
それはただたんに全員が厳格な菜食主義に生きるということではありません。
私は強制的に行われる生命の耐え切れない苦しみを宇宙からなくしたい。








最初に戻って二人目の私の好きなヴィーガンのアーティストはドラッグ所持で逮捕されてしまったこともあってかなり心配していたニューヨーク出身のDIIV(ダイヴ)というバンドのヴォーカリストであるザカリー・コール・スミスです。











DIIV "How Long Have You Known?" (OFFICIAL VIDEO)




すごく可愛らしいvideoです。DIIVの音楽はずっと聴いてるうちにものすごく陶酔感に浸って心地がよくなってくるのが特徴的です。
繊細すぎて儚げな存在感を持つヴォーカルのザカリー・コール・スミス、かなり厳格なヴィーガンであるようです。

DIIV’s Zachary Cole Smith on Loving Nirvana, ‘My So-Called Life’


NYCで好きな食べ物:
"私はマンハッタンのアンジェリカキッチンが好きです。
私はそこで働いていたので、私は夢中になりました。
それはビーガンレストランです。
私はビーガンです。
しかし、私が食べる場所は食料雑貨店です!
いくつかのキャベツを手に入れて、ケールを手に入れて、それを蒸してください。
あなたは素敵な食事があります。


と、Google直訳ですが、意味は十分わかります。どうやらザカリーは「ぼくはレストランで食べるよりも食料雑貨店で食べるほうが好きです!そこに蒸し器を持ってってそこにあるキャベツやケールを買ってその場で蒸して食べるのが好きだからあなたもやってごらんよ、素敵な食事がそこにあるよ」と言ってるようです。

なかなかに大胆なザカリーくんですね。微笑ましい限りです。

そんな彼と同じくヴィーガンであるというグライムスが2013年にはちょっとしたヴィーガニズムにまつわる衝突があったようです。

DIIV's Zachary Cole Smith Criticizes Grimes' Views on Veganism


Google翻訳で他のサイトもいくつか訳してみますとおそらく、こういうことがあったようです。

おそらくヴィーガンだと言っていたグライムスが牛を倫理的に扱っているというBen & Jerry's会社のアイスクリームを食べて、その会社のアイスクリームをTumblr上で宣伝しているのを見て、DIIVのザカリーがツイッター上で批判めいたことを言ってしまった。



grimes' version of veganism is called "NOT vegan", even if a dairy cow is "treated ethically" doesn't mean u aren't consuming/exploiting her

たとえ乳牛が「倫理的に扱われている」とは言っても、あなたが彼女(乳牛)を消費/悪用していないわけではありません

非常に熱い人間ザカリーです。熱い人間は大好きです。


グライムスの考えと言うのは倫理のためとアイスクリームの背後にある会社を守るためであり、
「ベンとジェリーは私が今まで食べたアイスクリームの唯一のブランドで、彼らの牛は倫理的に扱われています。
現在の冷凍庫ガスと異なり、地球温暖化に寄与しない代替冷媒を使用する」と述べていると。

ザカリーはその後にすぐツイートを削除し、グライムスはDiivを尊重しているし、「私は本当に彼の献身を称賛しています。」
とのことだが、グライムスが言いたかったのはヴィーガンという存在がただの偏った食品を食べる偏屈で独断的な人々であってはならず、彼女は牛が倫理的に扱われ環境問題も考えられている会社であるならば、牛乳などを摂っても良いというような柔らかい考え方を推薦していきたいということではないかな。

健康問題と飼料問題は別としても、グライムスのような考えはヴィーガンでない人たちにも受け入れられやすいだろうし、いきなりヴィーガンになるという人々のやりづらい方法よりも消費する会社を選択することで護ることのできる存在たちがいるということを教えているわけだから、とても良い主張であると思うし、グライムスが会社の人たちのことまでちゃんと考えていることはとても愛が深くて私は感激します。

ヴィーガニズムというものが動物を愛護する一方で人々に否定的で非難的で批判的、攻撃的であるものと思われてはならず、グライムスのような、人々が段階的に転換していけるような方法を推薦していくことはとても大事であると思います。


ザカリーはきっと素直に大きなショックを受けたんだと思います。
ヴィーガンだと思ってたのに何故乳製品を摂るのだろう…と。
ヴィーガン仲間ってとても貴重なものだし、ザカリーがつい感情的になって呟いてしまった気持ちも良くわかります。
少しきつい言葉で物事をはっきりと述べるのはグライムスも同じで二人は似たもの同士なのでしょう。
まあ直接的じゃなくてなんでツイッター上とかで言うのかは、やっぱり互いに直接には言いづらいからなのかな。



なにはともあれ、私はこの二人に酷く感動しました。
私も二人の堅い信念と献身に深く感心し、称賛します。

私の夢はみんなが菜食になるという世界ではないし、みんなが人間以上に動物を大事にする世界でもありません。
動物が苦しむことがないなら、お乳や卵をもらっていいと思うし、肉だって、彼らが自由に生きた後にその死を人間が頂くなら何の問題もないと思っています。
飼料問題、環境問題も食べ物が平等に行き渡り、必要以上の量を生産しないならば、何の問題にもならないはずです。

このままの調子で行くとこれからどんどん深刻な環境問題、食糧危機、水不足の時代へと地球は入っていきます。
ますます世界中でベジタリアン、ヴィーガン、菜食の人は増えていくでしょう。
特にアーティストのような影響力の強い人がなれば、着いて行く人は多いはずです。

人類の滅亡、生物の滅亡を私は回避したいと思います。
今の文明を私はとても、愛しているのです。
素晴らしい文明だと思います。
言いたいことを何でも自由に発表できるこのインターネットがある文明は魅力的な文明です。

生まれ変わっても、またこの文明に生まれてきたい。
幻想が終わらない文明に。

映画「小さな唇」感想 男と少女の姿は父親と娘のもう一つの話

2016-12-14 22:37:10 | 映画
今日も胸が苦しくてならない。
昨日に観た映画が原因である。
昨日、私は「小さな唇(原題Little Lips)」というカルト作と言える1974年イタリア・スペイン合作の映画を観て、
ほとんど期待せずに最初のうちは観ていたのが、観ているうちにものすごく感動して、映画が終わった瞬間から何分間と繰り返しやってくる咽び泣きがなかなか止まなかった。





ストーリー

戦争から五年、ポール(ピエール・クレマンティ)は生まれ育った故郷ブルック・アン・デア・ムーア (オーストリア)に帰還する。
足を負傷して杖を使うようになったポールは、戦争で心にも深い傷を負い、家族が一人も住んでいない屋敷で召使夫婦と暮らしている。
 自殺を何度と考える絶望的な日々を過ごすポールはある日、召使夫婦の姪である戦争で両親を失った少女エヴァ(カティア・バーガー)と出会う。


主演はピエール・クレマンティ(Pierre Clémenti 1942年9月28日 フランス・パリ生まれ 没年:1999年12月27日)というフランス出身の俳優で私は初めて彼を知ったのですが、調べてみるとパゾリーニ監督の「豚小屋」という非常に問題性の強そうな映画の主演をやってたり、他にもかなりのカルト的だったりアート的な映画に好んで出演していて個性の強い俳優のようで、72年には麻薬売買で17ヶ月の禁固刑を受けており、独り舞台をやったり映画監督をやったりと怪優として評価されているとても興味深い俳優です。










このクレマンティという俳優が麻薬売買で捕まって禁固刑(禁錮は強制労働が無いといっても独房の中で自由に動き回ることは許されておらず、就寝時以外は一日中看守の合図により正座と安座の繰り返しとなる。常に看守に監視され、不用意に動くと厳しく指導される)と言うむちゃくちゃ苦しい刑に服し、出てきてから一年ほどか一年と経たない頃に主演をやった映画が「小さな唇」です。
当時、彼は32歳ですが、この映画ではもっと上の年齢のように見えます。40歳から45歳くらいの設定でいいかもしれない。
そして少女エヴァ役をやったウィリアム・バーガーというこれまた癖の強そうな俳優の娘である西ドイツ生まれのカティア・バーガー(Katya Berger)は1964年生まれとなっているので、当時は10歳くらいのようです。設定は12歳の少女です。




とても10歳ほどには思えない大人びた表情と無垢なあどけなさを持ち合わせているすごく魅力的で可愛らしい少女です。



設定よりも若い少女を裸にさせている映画なので、かなり問題作で当時全世界で発売中止となった幻のエロスムービーが、公開時にカットされたシーンを可能な限り収録してDVD化となっていますが、映画の本編は10分もの最重要といえるシーンの入ったシーンいくつかが抜かれています。
そしてカットシーンが別に特典映像にされています。


最重要のカットされてしまったシーンがどのようなものであるのかはネタバレにもなりますが、これは知らないよりは知ってから観たほうがいいと思うので、あえて言います。
少女エヴァが入浴中に性的な快楽にひとりで耽っていて、それを目撃してしまうポールの場面です。

自分はこのシーンは絶対に本編に入れなくてはならないシーンだと思います。
私は本編を昨日観終わり、今日に特典映像を観て、二重の苦しみに襲われました。

ここからは映画のレビューというより、私自身のとても重い過去の話を入れねばなりません。

その前にちょっと映画のシーンを貼り付けましょう。










ここからは非常に重苦しい話になります。



私はこのポールという男とエヴァという少女の姿が父親と娘の姿に見えて仕方ありませんでした。
自分と父親の姿にだぶって見えて仕方なかったのです。
最後まで観終えた時、それが決定的なものに感じられ、悲しくてなりませんでした。

またこのポールを演じるピエール・クレマンティのその存在感や雰囲気は私の父親とよく似ています。
私は男性は、二つのタイプに大きく分けられると思っています。
一つは、性的なものに対する重く苦しい罪の意識、背徳感を意識的にも潜在的にも持っていないように感じられるタイプ。
一つは、性的なものに対する重く苦しい罪の意識、背徳感を意識的にも潜在的にも深く持っていると感じられるタイプ。

このポールという男は間違いなく後者でした。
そして私の父親も後者でした。
私自身が、子供の頃から後者でした。

私が性の快楽を知ったのがちょうどこの少女エヴァを演じたカティア・バーガーと同い年の頃、小学三年生のときでした。
私が4歳のときに他界した母はエホバの証人で、私は母の記憶がないのですが、母が死んだ後も父とエホバの証人の人と一緒にいつも家で聖書を学んでいました。
エホバの証人というのはものすごく性に対する禁忌が強く今でも在り、婚前交渉は勿論、自慰行為までをもはっきりと禁じます。
幼い頃、母の傍に常にいた私は毎日のように聖書の内容とエホバの証人の教えに触れ、たぶん物心のつく前から夫婦間以外の性の欲望がいかに神に背くものであり、重い罪であり背徳であるということを無意識にも感じて育ってきたと思います。

私は父に対して、性的な関心は持たなかったし、胸が小さく膨れる頃になれば父と一緒にお風呂に入ることを恥ずかしく思い、一人で入るようになりました。
でも同時に父に対する独占欲や所有欲といった依存心は強くあり、父が職場のおばちゃんと会うことにも酷く嫉妬していました。
それはまるで、性的な欲望を持たない恋愛のようであり、父親が大好きで父子家庭で育つ娘の父を自分だけのものにしたい、自分だけを愛してもらいたいというごく自然な感情ではないかと思います。

しかしそれが自分と父の場合には、破滅的な道のりをゆく原因になりました。
私が生まれたとき、父は40歳でした。
父は1941年の9月21日生まれで2003年12月30日に62歳で他界しました。
ポールを演じたクレマンティは1942年9月28日生まれで没年が1999年12月27日、享年57歳。
何でこんなに近いんだと驚きました。
まるでこの「小さな唇」という映画は性に目覚め始めた10歳のときの私と若かりし父が禁断の恋に陥ってしまうというような物語に見えて仕方なかったわけです。


私は父が死ぬ22歳の時まで男性を好きには何度もなりましたが、男性の手を握ったこともないほど無経験でした。
私が男性を好きになり結婚をし、家を出てしまえば父は一人になってしまうことがわかっていました。
父も私にひどく依存していたのをわかっていたのです。
私と父は強い共依存の状態にありました。
私が17,18歳の頃だったか、父が性的なシーンのあるドラマや性的な事柄を含んだテレビ番組を私が家にいるときに見ることが苦痛でたまらなく、鬱が酷くなって寝たきり状態になったことから姉の家に数週間か住むことになったときがありました。
すると父が今度は私がいなくなったことで寝たきりの状態となってしまったのです。

私の嫉妬はとても異常なものでもありました。
何故なら父が当時さんまの「恋のから騒ぎ」などを観ていただけでも自傷するほどに苦しんでいたのです。
ちょっとしたキスシーンのようなシーンに入ったドラマを父の見てる目の前でリモコンで電源を切り、父に怒られたこともあります。

自分の性の欲望をのた打ち回って苦しむほどに穢らわしく思うと同時に父の性の欲望も性的な関心ごともすべて私にとって穢らわしくてならないものでした。
どうしても赦せなかったのです。父が女性に性的な関心を持つことはおろか、私以外の女性を可愛がることも。

母は父親を早くに亡くしており、ものすごく父の過去の女性関係にまで嫉妬していたほどの嫉妬深い人だったようです。
きっとほとんどの女性が親の愛、父性の愛というものを、恋愛感情を持つ相手に求めているはずです。
それが親の愛に飢えた子供ならなおさら求めるはずです。

この映画のエヴァという少女も幼い時分に父親と母親を亡くした子であり、親の愛情に飢えきっていたはずです。
特に、父親の愛情を知らず、父性の愛に飢えた子供は少女の頃から性的なことに奔放的であり、周りからは尻軽女のように蔑まれながらも必死に性的な行為で男を喜ばせようとし、これによって男に父親の愛を求めていると私は感じています。
たぶん性風俗の世界で働く女性は父親の愛情に飢えた人が多いと思います。これは何人かの境遇や生い立ちを知ってそう感じたことです。
それは父親に愛されたい娘の愛情飢餓が、どうすれば父親の代わりである男性を自分が喜ばせられるのかを無意識にわかり、感じ取っているからだと思うのです。
性的に奔放になる女性は男性からは真剣に思ってもらえなかったり、世間から差別されやすいものですが、非常に涙ぐましい意味が隠されているわけです。

私自身、父を喪ってすぐに、自暴自棄に陥り父を苦しめたまま父を死なせてしまったことでも自分を憎み責めさいなむ心から、自罰的、自虐的にそれまで護り通していた結婚するまで処女でいたいという願いも壊し、突如性的に奔放になりました。
ここ数年はさすがに奔放さはなくなりましたが、私にとって性の行為に纏わる喜ばしい記憶は何一つとありません。
すべてが苦しく、罪の記憶としてあります。

でも一番の罪の記憶は、父が病気に罹って病院で最も苦しんでいたその同じ時間に、私が家でひとり、当時好きだった出会い系サイトで知り合った若者を想いながら性の快楽に浸り、自慰(手淫)行為に耽っていたことです。
行為の真っ最中に電話が鳴って、電話に出ると予感したとおり病院からで父の容態が急変して危ない状態だから今すぐに来てください。というものでした。
悪夢を見ているような感覚で汚れた手を洗い、急いでバスに乗って一人病院へ向かいました。
私が父のいる病室へ着くと、父は酸素マスクをはめられており、息もうまくできない状態ですごく苦しそうなのに私を見た途端、とてもホッとした表情を見せました。
父の傍に座った私の手を父は力なく握ろうとしました。
でも私は完全に絶望していたのです。
父はまだ生きているというのに、自分の人生を呪い、途方に暮れて完全な極度の鬱状態に陥っていました。
だから父の手を握り返すこともできずに、父の手は力なくベッドの上に落ちました。
その後、先ほど電話で連絡した仕事先に居た兄が病室に着いて、兄は自分から父の手を強く握り締めました。
私はそれを見てずっと項垂れ泣いていました。
父はその後麻酔を打たれて眠らされ、意識を失ったままの状態で一週間後にこの世を去りました。
麻酔を打つために冷たく無機質な集中治療室へ父が運ばれるときに、父の最後の目にした私の姿は、絶望しきって父を見て泣いている私の姿でした。

もし私があの時、性の快楽に耽ってさえいなければ、私は苦しんでいる父の手を力強く握り返し、ほんの少しでも父の苦しみを和らげることはできただろうか。
今でも続いているこの悪夢は、いつ終わりを迎えるだろうか。
私が死ぬときだろうか。
私は「小さな唇」という映画を観終えて時間が経つと、あの少女がこれからどのような人生を歩むのかを想像しました。
父親の代わりが、いったいどこにいるだろうかと。




「アンチクライスト」という映画を観終わったあとも、ものすごい引き摺ったのですが、この映画も当分引き摺るでしょう。
私はこの時期にこのような胸に深く突き刺さって痛む映画を観れたことをとても喜ばしく思います。






重苦しい私の話を読んでくださり、ありがとうございました。













ベルギー映画「息子のまなざし」もっとも憎む存在の哀しみと孤独

2016-12-11 23:31:08 | 映画
ひさびさにグッと熱くなる映画を観た。
原題「le fils(息子)」というベルギーの2002年の映画です。


監督・製作・脚本は「ロゼッタ」のジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ兄弟。
出演は「天使の肌」のオリヴィエ・グルメ、新鋭のモルガン・マリンヌほか。
2002年カンヌ国際映画祭主演男優賞、エキュメニック賞特別賞、同年ファジル国際映画祭グランプリ、主演男優賞、同年ベルギー・アカデミー最優秀作品賞、監督賞、主演男優賞受賞。



ストーリー
オリヴィエ(オリヴィエ・グルメ)は職業訓練所で大工仕事を教えている。
ある日、そこにフランシス(モルガン・マリンヌ)という少年が入所してくる。
彼は大工のクラスを希望したが、オリヴィエは手一杯だからと断り、フランシスは溶接のクラスに回される。
しかしオリヴィエは人に気づかれぬよう、フランシスを追う。




なんといっても私が感動したのはこの二人のこの演技です。
二人とも、この表情だけで2時間以上の無声映画さえ見せるくらいの才能があります。
フランシス少年の表情からこの少年がいったいどんな生い立ちでどれほどの孤独を背負い、どんな想いを抱えて生きているのかが観る者は気になってしょうがなくなるわけですが、その前にオリヴィエという主人公のおっさんが気になって、フランシス少年のことが一番気になって仕方がないのはこのオリヴィエというおっさんであることを知ります。





決して、このおっさんが可愛い少年に恋をしてしまう・・・という話ではありません。
先が気になりますが危ない早とちりをしてはいけません。









フランシス少年は距離を見ただけで測ることが得意なオリヴィエ先生に自分の足元から先生の足元までの距離を当ててみてと言います。
フランシスは父親を知らない子なのです。そして母親からも見捨てられ、天涯孤独な境遇にいます。
彼はいつも、オリヴィエ先生といるときとても緊張しています。
それはオリヴィエ先生も非常に緊張しているのですが、フランシスの場合は、何かオリヴィエ先生と父親像を重ね、父親に嫌われることを極度に恐れているというような緊張感を常に持っているように思えてきます。
ぼくと先生の距離は、どれくらいだろうか?それを当ててみて欲しいと先生に言うフランシスはまるで、自分と先生の距離がどんなものであるかを先生には知ってもらいたいという、自分の存在を知ってもらいたいという心理が隠れているように見えてきます。



一つ目のネタバレになりますが、この16歳のフランシス少年は過去に幼い子供を殺害してしまい、少年院に入っていました。
ここでもう、あっ、そういうことか?と気づかれると思いますが、そういうことなのです。
何故オリヴィエという男がまるでストーカー並みに彼を監視しようとしているのか。









ここはフランシス少年のアパートの部屋です。
このオリヴィエというおっさんは黙って彼のアパートの鍵を開けて勝手に入っては彼のベッドに横になったりなんかしてしまうのです。
すごく、いいシーンです。
憎いはずの相手の部屋に入り、カーテンの隙間から見える外の景色がどんなものかをオリヴィエは覗きます。
フランシスがいったいどんなことを想い、感じながら生きているのか。
いったいこの殺風景な部屋はなんなのか。
引っ越してきたばかりといったって、16歳の少年が住むアパートといえば、もっとくだらん物やエロ本などがごちゃごちゃとしているものじゃないのか?
なんだかここってちょっとシュールな感じじゃないか?まるでマグリットの絵画じゃないか、ベルギーだからって、ははは、は、はは、は、って何を俺は笑ってるんだ?と自分で言ってる風な感じにどこか精神が不安定な様子が垣間見えるオリヴィエです。
いったい彼は・・・何を想ってこの窓から外を眺めているのだろう・・・。
オリヴィエはフランシス少年のことを知りたくて知りたくて仕方がないのです。

何故、彼が自分の息子を殺すまでに至ったか?
彼の中にどのような闇があるのか。
それを知ることができないことがオリヴィエにとって苦しくてたまらないことなのです。

ベッド脇のエンドテーブル代わりにしている椅子の上には、睡眠薬が置かれています。
たった16歳の子供が睡眠薬に頼らねば夜も眠れないほどの不安の中に生きていることをオリヴィエは知ります。












オリヴィエがフランシスに木工を教えているところです。
これはたぶんみんなが持っている自分だけの大事な道具箱をフランシスにも作らせているところです。
オリヴィエのフランシスを見る眼差しは、どこか父親が息子を心配そうに見るような眼差しにも感じられます。
オリヴィエは、子供に教えることが好きな人なのです。
つまり、子供が好きな人なのです。
どれほどの複雑な感情がオリヴィエの中に渦巻いているだろうか?
観る者は緊張を一瞬たりともほぐせない時間を共にします。








元奥さんに事を話してしまったオリヴィエ。元奥さんの精神も危なくなってしまいます。
彼の精神状態は、もういっぱいいっぱいのところでようやく正常さを装おうと必死なようです。








本当に憎たらしいだけなら、フランシスが腹をすかしているかもしれないと心配し、「何か食うか?」などとは訊かないでしょう。
まぁ、満腹させてから殺す、という変態的なサディストならわかりませんが。
「何か食うか?」というのはとても親が息子によくいう台詞のように私は思うのです。
そんな彼を追いかけるフランシス。まるで父と息子の後ろ姿のようです。













このシーンはとっても難しい二人の心理状況が見えます。
まず、オリヴィエはたった一切れのアップルパイを注文するのです。
すると、フランシスが、「僕も」と言います。
そのとき、オリヴィエは3枚目からの写真の顔で「え、どうゆこと?どゆこと?ど、どゆこと?」という顔を順々にしていきます。
店主はもう一切れのアップルパイを出します。
店主が支払いは二人分一緒かと訊くと、オリヴィエは「別々に」と言うのです。
するとここで、写真はありませんが、今度はフランシスが「あれ・・・」という残念そうな顔をします。
つまり、フランシスはオリヴィエは自分の分もきっと払ってくれるだろうと予想していたわけです。
しかしオリヴィエは「何か食うか?」と彼に自分から訊いてる訳ですから、当然支払いは自分で彼の分を払うつもりでいたのは勿論でしょう。
でも自分は今は特に腹が減ってないので何も頼まず、フランシスの分だけを注文した。
なのにそこにフランシスが「僕も」と言って、自分の分を注文したって事は、オリヴィエからしたら「ああ、こいつは俺に払ってもらうのが嫌なんだな、自分で払いたがってるのか」と思ったので、支払いは一緒かと訊かれたら「別々に」と応えて別にしたわけです。
ところが、フランシスの複雑な心理はオリヴィエが推察したことと違いました。
私が思うに、フランシスは、アップルパイをたぶん一人でもくもくと食べるのがいやで、オリヴィエ先生と一緒に食べたかったのではないかと。
フランシスはいつも一人で狭いアパートで食べたりしているのでしょう。一人で食べることが苦痛になっていたのかもしれない?
それから、先生をフランシスは慕う気持ちが出てきて、同じ食べ物を先生と一緒に食べたかったのかもしれない。
だから先生がたった一切れだけアップルパイを注文したときに、一人で食べるのは嫌だと無意識にも感じ、とっさに「僕も(先生と一緒に食べるためにもう一切れ注文したい)」と言ったのではないか?
でもオリヴィエ先生はそこまで推し量ることがとてもできず、この子は何か変な遠慮をしているのか、それとも俺のことを嫌い俺に借りを微々たる量でも作るのを嫌がってるのか?と思い勘定を別々にしてしまった。
そのあと、フランシスは寂しげに自分の分の40フランを自分で払います。














フランシスはオリヴィエに「後見人になってください」と言います。
どんな理由があってでしょうか。
私はここで、ひょっとするとフランシスは、自分が過去に殺してしまった子供は実は先生の子供なんじゃないかと、薄々気づいてき始めているのではないかと感じました。
フランシスはとても敏感で繊細で頭の良い子だと思いました。
それは媚や悪意のような単純な感情ではなく彼なりに必死に先生に赦しを請おうとしているように感じたのです。
それは意識下にもまだないフランシスの感情かもしれない。
彼のどうにか先生に認めてもらいたい、自分を受け入れてもらいたいというような心理が自然と彼がオリヴィエ先生を「後見人」にしたいと選んだ理由ではないだろうか。











フランシスはオリヴィエ先生にテーブルサッカーゲームを一緒にしようと誘い、先生のほうの得点が始めから入ったままになっていたのを見てか、先生に向かって「得点をゼロに」と言います。
そしてフランシスの大得意なサッカーゲームで先生に勝ち続け得点を手にしていきます。

私はこのシーンがものすごい深みのあるシーンだと思いました。
先生に始めから得点が入っている状態というのは、フランシスが先生に対してハンデを背負っている、つまり過去の業(カルマ)によって先生に「借りがある」状態であることを表しているように思ったのです。
でもそれをフランシスは「(先生の)得点をゼロにしてほしい(自分の罪を赦してほしい、自分を受け入れて欲しい、借りた分をまっさらにした状態から、これから自分と始めて欲しい)」と頼んだのです。

それはフランシスの先生に対する「僕を愛して欲しい」という想い以外には、何もないようなものなんじゃないかと感じたのでした。

ѦとСноw Wхите 第2話  〈食べ物〉 〈光と闇〉

2016-12-06 16:47:29 | 物語(小説)
Ѧ(ユス、ぼく)が夢の中で朝起きると、Сноw Wхите(スノーホワイト)はお庭の菜園でѦの食べる植物をせっせと収穫していた。

ѦはСноw Wхитеに「мум(マム)」と言って抱きつくとСноw Wхитеの身体は汗ばんでいた。

今日は風が冷たい。

Ѧは、毎日ѦのためにこうしてСноw Wхитеが作物を収穫し続けなくてはならないことを不毛に思った。

Сноw Wхитеは食べなくても生きていける存在なのに、なにゆえにѦの為にこのように額に汗して働き続けなくてはならぬというのであるのか。







Ѧ「Сноw Wхите。Ѧ、さいきん食べること自体に罪悪感を感じるようになったんだ。この世にも、不食の人がたくさんいる。食べれば食べるほど、誰かの食物を奪ってしまうんだ。Ѧが食べるほど、誰かを飢えさせてしまう。Ѧも食べないで生きていけるようになりたい。Ѧは食べることがほんとうに苦しい」



Сноw Wхите「Ѧは食べることが害であり、罪だと感じていますが、食べることは害でも、罪でもないのです。Ѧが食べることによって誰かの食物を奪っていると考えていますが、実際は奪っているわけではありません。本来、すべての生物は食べたいだけ食べて良い存在なのです。それによって誰かの食べ物がなくなるのは食料がうまく分配されない構造になっているからです。Ѧがその構造を変えるためにできることがあります。それはѦはѦに罪を着せて苦しまないことです。それはѦの罪ではないからです。誰も悪くありません。ただそういった構造がこの世界に存在しているのです。誰もが、必要な食べ物を必要なだけ食べる自由があります。不食の人にとって必要でない食べ物が同時にѦにとっても必要でないことにはなりません。人間はそれぞれ個性があるからです。食べなくては生きていけない人は、食べることの喜びと苦しみが必要だからです。それはとても価値のあるものです。Ѧは食べることがほんとうに苦しくてたまらなくなってきたら、自然と食べなくても生きていけるようになってきます。Ѧは今すこしだけその段階へと入ろうかとしているところです。でもまだまだ十分ではありません。今のѦにはまだ食物が必要です。Ѧを生かすために自らの生命を与え続けているものたちに謝罪ではなく、感謝してください。彼らはѦの中で生き続けています。彼らが感じとる意識はѦの中で生き続けます。彼らに申し訳ないという気持ちばかり持っていれば、彼らは自分の存在はѦを喜ばせることはできないのだろうかと悲しみます。Ѧは彼らを喜ばせたいのならば、感謝してください。食べることの喜びを、彼らの生を自分の中で生かすことに喜びを感じてください。彼らは人間を苦しませるためだけに自らの命を犠牲にしてはいないのです。彼らの苦しみを感じるのは、そのѦの苦しみによってѦと彼らが一つとなって何かを達成しようとしているからです。植物も動物も人間もすべて、離れた関係ではありません。すべての関係が繋がっているのです。Ѧが誰かの苦しみを通して苦しいのは、その苦しみによってできることが在るからです。誰かが誰かを苦しめるだけの存在では決してありません。苦しみがあるということは、同時に同じ深さの喜びが約束されているからです。すべてに感謝してください。Ѧの苦しみになるすべてに感謝してください。すべてに深く感謝し続けることができてくるようになれば、Ѧが救いたい存在をѦの力によって救うことができるようになってきます。苦しみの底にいる彼らを救いたいのならば、ѦはѦを赦し、Ѧはすべてを赦してください」































Ѧは今日とても悲しかった。

それはネットで「スティング、自身の楽曲やトランプ当選、難民問題について語る」

というニュースを読んで最後の「人を最初に楽しませない限り、人に何も教えることはできないよ」という言葉に痛く感動したたった5分後にѦを絶望が襲ったのだった。





ちょうど、傍にСноw Wхитеが来たのでѦはこんなことをぼそぼそと囁いた。

Ѧ「Ѧは自分が憎いから、みんなを苦しめることが得意なんだ。だから早く死んでしまえばいいと思う」

Сноw Wхите「ѦはѦの愛する存在を苦しめて愛せなかったと感じて自分を深く憎んでいますが、Ѧが深く愛することもなければ、深く苦しみ続けることもありません。Ѧはみんなを苦しめたいとは本当は思っていません。Ѧはすべてを愛しているからです。Ѧはみんなを喜ばせたいと本当は思っています。そして喜ばせることができていないと思っています。Ѧは、みんなを苦しめるだけの存在ではありません。同時に、みんなを喜ばせるだけの存在ではありません。それはѦだけではなく、すべてがそうです。Ѧの存在は、時に誰かを苦しめます。そして時に誰かを喜ばせています。どちらかに傾いているわけでもありません。この宇宙は光と闇が必ず同じだけ必要なのです。誰をどこで喜ばせているのか、誰に光を与えられているのか、見えづらくなっているのは、Ѧがずっと闇に焦点を合わし続けているためです。Ѧはいつも、誰をどこで、どのように苦しめているか、そこに焦点を合わし、観続けているのです。Ѧは闇を深く愛しています。でも同時に、光を深く愛しているのです。光がなければ闇が存在しないことを良くわかっているからです。Ѧが自分を深く憎しみ続けるのはѦがすべてを深く愛し続けていることの明証です。それは闇ではなく、光です。光であるѦは闇を愛するため、死を求めます。死を求め続けながらѦはすべてが永遠に在り続けることを深く、深く願い続けています。死は永遠の存在の中にだけ存在できることを知っているからです。Ѧはすべてが永遠で在る素晴らしさを知れば知るほどに死を求めるのです。私はそんなѦがほんとうに愛おしくてなりません。Ѧは私をほんとうに求め、愛しているのです。私はѦだけを愛しています。Ѧが私を愛し続ける限り、私は存在し続けます」