あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

もう目覚めぬ夜の

2019-12-30 20:13:42 | 日記
今日は、父が死んで、16回目の12月30日。
お父さんは、知っているかな。今年の10月11日に、こず恵と共に、11年半もの月日を生きたみちたが死んだ。
父とは22年と4ヶ月、母とは4年と9ヶ月、わたしは共にいた。
みちたはわたしにとって、二番目に、わたしの側で共に長く生きて、わたしより先に死んだ存在だ。
つまりわたしは、わたしを、またも喪った。
わたしはわたし自身を。
どうして耐えられているんだろう?心から、不思議に想う。
自分をもう3人も亡くしたのに、わたしは今でも、時に笑ったりするよお父さん。
わたしは11月9日から、母が通った場所と、同じ場所に通ってる。
エホバの証人の王国会館という場所だ。
今は週に2日、王国会館で行われる集会でエホバの証人たちとの交わりに参加し、週に一度、聖書の研究を姉妹のお家で行っている。
そしてここ何日も、一日中動悸に悩まされていて、胸が痛い。
わたしは…自分に降り懸かる試練を呪ったりはしないけれど、耐え難いものがあるよ。
自分の信念と、母の信念が、本当に違うものなのか?それをわたしは確かめようとしている。
母が信じた神と、わたしの神の、どこが違うのか?そしてそれは違わないということがわかるまで、わたしのこの苦しみは取れないだろう。
こないだ、想いを寄せる長老である兄弟に、直接こう問い掛けた。
だれひとり、滅ぼさないで欲しいとエホバに祈り続けるのならば、その祈りをエホバは聴いてくださるのですか。
兄弟は、エホバへの祈りは、聴き入れられるものと、そうではないものがあると言われた。
エホバ神は、自分を喜ばせる者の祈りだけを、聴き入れられるお方なのである。
自分は、これを知り、がこんっ、と鈍い音のする鈍器で脳髄を思い切り殴られたような衝撃を受けた。
わたしは、スピリチュアルに深く傾倒している人間であり、すべての存在は永久に不滅であると信じている。
だがその確証は、どこにも存在しない。
もし、エホバ神が全宇宙の真の神であられ、この世界は無慈悲にも、エホバに逆らう存在は永久に滅ぼされてしまう世界だとしたらどうする。
その可能性の存在を、深刻に考えるべきである。
わたしは、エホバが真の神である可能性がある限り、エホバへの祈りを、し続ける必要があるのだということに、今更気付いて、胸が張り裂けそうだ。
エホバが求めているものとは、イエスと同じ犠牲である。
その犠牲なくして、どうしてわたしの祈りがエホバに聴き入れられようか?
信じたい神を信じていたらそれで良いなんて、言ってられない。
すべてに可能性がある世界じゃないか。
何が真の真実であるかを確実に見極める力がどこにあるのか。
もうすぐ、年も明けるな。年越し蕎麦には、玉ねぎの掻き揚げでも入れようかしらん。正月の夜にすぐに飲めるために、屠蘇酒を前もって作っておかねばなぁ。その為に味醂も買っておいてある。ははは。俺は準備が良いなあ。などと疲れ切った虚ろな目で考えている人間の何処に?この全宇宙の真理を見極める力が存在していようか?
わたしは人間の能力には限界があると言っているのではない。
すべては無限の力を秘めていると信じている。
だがそう安易にも、本当のことがわかるとは、想っちゃいない。
エホバが真の神ならばどうする?
イエスは終末の様子を、こう述べている。


天と地は過ぎ去りますが,私の言葉は決して過ぎ去りません。
その日と時刻については誰も知りません。
天使たちも子も知らず,父だけが知っています。
人の子の臨在の時はちょうどノアの時代のようになります。
洪水前のその時代,ノアが箱船に入る日まで,人々は食べたり飲んだり,結婚したりしていました。
そして,洪水が来て全ての人を流し去るまで注意しませんでした。
人の子の臨在の時もそのようになります。
その時,2人の男性が畑にいて,一方は連れていかれ,他方は捨てられます。 
2人の女性がひき臼を回していて,一方は連れていかれ,他方は捨てられます。
それで,ずっと見張っていなさい。
主がどの日に来るかを知らないからです。


これは新世界訳(エホバの証人だけの聖書)の今年に改訂された新訳版の、マタイ24章35節から42節の聖句である。
新訳は、現代の若い人たちにも、とても理解しやすい言葉に訳されている。
知る人ぞ知るシルバーバーチという聖霊のメッセージは、イエス・キリストを通して来ている。
イエスの預言を、スピリチュアリストは決して軽視することはできない。
終末の時には世の半分の人類は神のもとへ連れてゆかれ、残りの半分は、神のもとではない何処かに、捨てられる。
聖書では終末のあとに千年王国が訪れて、すべての死者は復活させられるが、その神による千年統治の最後には、サタンが世に離されて、最終の審判によって、永遠に生きる存在と、滅びる(永久の滅びに至る)存在とに選別される。
そして神の王国が、真に実現し、その国は、永遠に、存在し続ける。

わたしは同じ日(28日)に兄弟に、震える声で切実にこうも問い掛けた。
わたしがエホバに背いて、わたしが滅ぼされても、エホバに忠実である母は永遠の楽園で幸福に生きるのですか。
すると兄弟は初めて深刻な顔で言葉に詰まり、じっと俯いて少しの間考えておられた。
そして優しい笑顔をわたしに向けて穏やかにこう訊ねた。
上田さんは、お母さんを喜ばせたいですか?
つまり兄弟は、こう言いたかったのだ。
お母さんを喜ばせたいのであれば、エホバに喜ばれる生き方をするべきなのではありませんか?
そう…兄弟は、わたしのこの問いに、答えることはできなかったのである。
何故ならば、答えがNOである場合、楽園は幻想であるということになり、答えがYESである場合、わたしの母は、我が子が滅びようとも幸福でいるまるで心の死んだ自動人形のようであるからだ。
わたしは、あらゆる意味の悲しみに、打ち拉がれているのに、何故か心は同時に、あたたかくもあるのだった。
それはエホバの証人が、本当に愛の深い人間たちであるという幻想を打ち砕くことが、難しい(容易ではない)ことであることを、わたしが感じているからだった。
お父さんの命日なのに、お父さんのこと全然書いてへんね。
でも今日お父さんが夢に出てきたよ。
お父さんは実家で洗濯物を干していた。
今でもそこに、いるみたいに。
今、失われた時間のなかに、わたしも父も母も兄も姉もみちたもいる。
すべてが失った大切であたたかい時間が、すべての存在に戻る時間。
その世界を、わたしは楽園と呼ぼう。
もうだれも、耐え難い苦しみのなかで死んでゆくこともない。
わたしはその世界を、真の神の国と呼ぼう。
イエスの御声が聴こえる。
夜明けは近いから、目を覚ましつづけていなさい。
もう目覚めぬ夜の、深く静かな処から。


















ハデスの底の燃える死のように

2019-12-11 23:59:01 | 日記
12月11日午後11時6分。
嗚呼、今気付いたが、今日はもう、みちたが旅立ってから二月過ぎていた。
今となっては、信じ難いほどあっという間にこの月日が、気付くや去っていた。
一月、ブログを更新することすら出来なかった。
寒々とした灰の内にあって、光の戯れに指を触れてはやめる日々があった。
わたしはまたひとつ、確かに確信するのだった。
みちたが死んで、わたしはまたわたしを、ひとり喪ったのだと。
こんなに心が寂しく冷えながらも、心躍る日々を歩むのは、いつの日振りだろう。
みちたのいない日々をただ歩んでゆくこととは、みちたに再会する日に、わたしは近づいている。
みちたに永久に会えない日に立ち止まっていることの許されない日々を歩むことはなんと喜ばしいことだろう!
わたしに悪霊が取り憑いている間にも、みちたは着々と、人間として生まれる日に向かい、時を数えている。
終りのない日まで、終りを待ちつづけるハデスの底の燃える死のように。
彼はもう、人間として生まれぬ日の夜を、待ち望む。
みちたは早く人間に生まれたくて、わたしを主として選んだ。
わたしの奴隷として、生涯を生きて虚しく、寂しく死ぬことの耐えられない悲しみの果てにみちたは死を受け容れた。
一刻も早く、もうこの寒々しい地上に生まれなくとも良い日に生まれるが為に。
みちたはわたしの奴隷としてその生涯を捧げ、汚れた毛皮のように独りで朽ち果てた。
わたしにすべてに等しく価値があったとしても、みちたに選ばれないわたしの生は、なんと寂しいことだろう。
父が居て、母が居て、姉と兄が側に居る永遠に生きても、それは真冬の森の小屋のなかの、氷でできた地球の上で眠る炎のように、瞬いては、湿気た喜びだ。
聖家族の陶器の像を、床に投げ付け叩き割って、無数の粉々のその像たちすべてを、自分の家族として愛せないなら、人は生きながらにして、死んでいるのだ。
そう想うだろう?みちた。
嗚呼、もうすぐ日が経ってしまう。
みちたのいないこの家が、どの毛虫の抜け出た蓑虫のなかのカオスより、澄んでいて。
何も見いだせないことを、イエス・キリストのみなをとおして、祈りつづける。アーメン。