俺はコメントで述べたとおり、おまえたった一人の為に、二年ちょっと続けてきたこのブログをやめることにする。
それがおまえの望みなんやろ。
俺がここで働かずに自由に俺のたった一つの喜びである表現をし続けていくことがおまえにとって鬱陶しかったんやろ。
俺の唯一の居場所を、おまえは奪いたかったんだよな。
だから今まで散々、匿名や、名前をとっかえひっかえして、俺を騙して影で嘲笑ってきたんやろ。
俺はブログというもんを、多分24歳ころからずっと遣ってきたが、こんなに、これほど悪質な嫌がらせをされたのは初めてだよ。
俺がおまえに出会っていなければ、姉の猫は死ななかったのかもしれないと今でも想っている。
こんなに虚しい気持ちになったのは久々な気がする。
俺は今日、俺の人生で幸福だったときって、最後がいつやろうと想いだしていた。
あの時も、あの時も、あの時も、俺は幸福ではなかった。
すべてを打ち消していって、俺が最後に「ああ、幸せやな」と感じたのは多分14歳かそこらの時だ。
でも俺はその頃ちょうど、兄が持っていたエロマンガ雑誌の、レイプシーンの描画が頭から離れず、幸せやなと想った瞬間に、そのレイプシーンの映像が脳内に浮かび上がるという強迫観念があった。
俺がたぶん最後に「幸せやな」と感じた瞬間は14歳くらいの時であり、お父さんと、お兄ちゃんと、三人で楽しく話していたときだったと想う。
ただお父さんとお兄ちゃんと三人で、楽しく話している、それだけで俺は幸せやなと感じた。
でも次の瞬間には、それは穢れた俺の欲望に、汚されて無くなった。
俺はもうその頃から、苦しみが喜びよりずっと上回る人生を生きてきた。
だからこんな人間になってしまったのだろうか。
絶望的な気持ちで居る。
このブログでしか繋がれない人たちがきっと何人も居る。
でもそのすべてを、おまえの為に喪わなければならない。
おまえが俺と真剣に向き合おうとはしてくれんかったから。
俺はおまえの為にすべてを喪ってやる。
明日からどう生きてゆくか。何も考えていない。
おまえは俺から表現を、俺のすべてを奪いたかったんだ。
俺が死んでも、おまえは悲しまない。
俺もおまえが死んだところで、たぶん特に悲しくは無い。
精々最期まで、生きていけたらそれでいいんじゃないか。
俺もおまえも、それでいいんじゃないか。
おまえが俺に齎したものとはなんなのか。
そんなことはわからない。人間に理解できるもんではないだろう。
でも今は絶望的であり、みんなと別れることがとてつもなく寂しく、本当に虚しいばかりだ。
ひとつのブログとは、ひとつの空間であり、ひとつの世界であると感じている。
俺はそのひとつひとつの世界と別れてきた。
俺の所為で、更新しなくなった大切な人たちのブログも幾つかある。
俺の為に、終った世界だ。
今、クロゴキブリちゃんとまた遭遇して、さっき作った手作り虫捕り網で捕まえようとしたんだが、隙間に入ってって無理やった。
捕まえて外へ逃がす、ただそれだけなのに、ゴキちゃんはものすごい恐怖して逃げる。
俺はゴキちゃんが気持ち悪いという理由からこれほど恐れているが、ゴキちゃんは俺に殺されると想って怖れて脅えて暮らしている。
人間とは、本当に愚かやな。
俺が死んでもおまえは知ることができないし、おまえが死んでも俺は知ることができない。
ネット上だけの関係は、俺は本当に寂しいと想っているよ。
でも今までネットで知り合って互いに信頼を築き、相手が住所を教えてくれて手紙の遣り取りをすることのできた人もいた。
おまえとはそうはなれなかったことが残念だ。
俺は本当はこのブログをやめたくはない。
今まで俺の書いた物語を賛美してくれた人はナオさんとおまえだけだった。
二年続けて、二人の人間に物語を書く事を応援してもらえたこと、俺は十分だと想っている。
新しく他でブログを遣るときは、二年続けて誰一人からも応援されないことを覚悟して遣る。
ブログを新しく遣り始めても、嫌がらせしてくる人間に教えることはない。
おまえとは此処で終わりだ。
俺がどんな想いで、今日一日おまえからの返事を待っていたか、わかるか。
俺はほとんど今日寝ていた。
すると初めて、俺に会ってすぐに片言で「孤独?」と尋ねてきた男性が夢に現れてね。
なんか親しく話して楽しい感じの夢やった。
彼とも何か他と違う縁を感じていたのだが、彼もおまえとよく似ていて俺のむかつく嫌がらせを何度と繰り返してくるような人やった為、仕方なく関係を断った。
でもこうして離れた後も、夢に出てくるっていうのはやっぱり縁が深い人なんやろなと想ったよ。
おまえの顔を知ることができたなら、おまえも俺の夢に出てくるのかもしれない。
いや顔を知らなくとも、その人だと感じる夢はあった。
俺もそのうち死ぬし、おまえもいつの日か死ぬ。
でも死んでも続くと俺は感覚的に確信している。
だから遣り残したことがない限り、死を恐れることはない。
寧ろ大きな羽ばたきであって、この世界には存在しない希望を死後にいだいている。
俺は死後、今よりずっと苦しむだろうと想っている。
でもそれはずっと続かない。
いつかには解放され、そしてまた新たに深い苦しみを自ら求め始めるだろう。
それが俺の希望であり、この世界に、希望は無い。
俺の愛する家族は、今でもこの世界に生きているが、希望がないんだ。
兄も姉も、俺に言った。「お兄ちゃんも(お姉ちゃんも)希望なんてないよ」と。
俺の家族は、お父さんが死んだその日から、希望を喪ってしまったんだ。
苦しみや悲しみよりも、喜びが勝るということはない。
お父さんやお母さんに会えるその日まで、この世界に希望はなくていいんだ。
俺がどういう顔をして毎日を生きているか、おまえに想像できるだろうか。
本当に毎日、亡霊のような顔で生きている。
いつ見ても、生きていないような顔をしている。
表現の世界は、此方側にあるものではなく、彼方側に在るものなんだ。
俺の魂も此方側には居場所が無くて、彼方側に居場所が在るから、表現しか喜びがなくなったのだと想う。
此方側から彼方側を覗くと、彼方側は幻想の世界だが、彼方側から此方側を覗くと、此方側が幻想の世界であるんだ。
俺の魂は、もうとっくに、彼方側へ往っちまっている。
だから俺の表現に、何か反感を持たれることが、俺にとって不本意で仕方ない。
幻想の世界とは、存在しない世界ということだ。
俺は存在しない世界に生きている。
おまえが真剣に表現を遣ったとき、俺がおまえの表現に真剣に反感を覚えることはないと想う。
それは表現とはそれを遣った瞬間に、それがフィクション(架空のもの、仮の構造物、虚構、創作物)として存在していることを俺はわかっていて、フィクションに反感を覚える自分自身がフィクションであると感じている為、俺は反感を覚えたとしても、最終的におまえの表現のすべてを受け容れることができるだろうと想う。
でもそんなことをいちいち表現の前に説明してたらおもんないやろ。
みんなそれを現実だと感じるから面白いんだ。
俺が表現する全ては嘘なんだと言って表現しても、面白くない。
俺にとってはこの世界でフィクション(表現)だけが、現実なんだ。
現実に感じられているからこそ、表現にだけ喜びを感じる。
でも表現はすべて、架空のものであり、仮の構造物であり、虚構であり、創作物であることを俺はわかっている。
俺の表現において、そこにある面白さ、喜びにも度合いがある。
俺が最も面白くて喜びを深く感じるのは「物語」だ。
でもそれ以外でも、俺は「嘘」である自分を自由に表現することが面白い。
俺の嘘を表現しているのではなく、嘘である俺という存在の全てを表現しようとしている。
最近知り合った深く縁の感じる男性から、ブログを読んで様々なキャラがそこに存在していることから、一体どれが”本当のこず恵ちゃん”なのか。と訊かれたとき、俺は本当にわからなかった。
どれも本当の俺ではないと感じた。
俺は”本当のわたし”を、表現できたと感じられたときは一度も無い。
俺が町田康の「告白」を生涯のバイブルとするのも、読んでもらえればわかってもらえるかと想う。
本当に悲しい話で、悲しくてならないから何より美しくて、読んだ後もずっと、俺を感動させ続け、心髄を何より震わせ続けている小説だ。
俺はこのブログをやめたあとも、他で表現を死ぬ迄遣っていくつもりだが、おまえに俺の表現を読ませられないことは、本当に残念だ。
でもおまえの嫌がらせは、本当に悪質な為、俺はおまえに構っていると命が幾つあっても足りないと感じる。
だからといって、おまえという存在をブロックしてまで、このブログを遣り続けたいとは想っていない。
誰もが自由にコメントを書き込めるから、ブログという世界は素晴らしいんだ。
例え嫌がらせのコメントであっても、俺を騙そうとするものではなくて、真剣な嫌がらせであって、相手の苦しみが伝わってくるものであるなら、俺はむしろ嬉しかったのかもしれない。
でもおまえのコメントは、おまえの苦しみが伝わって来ず、その為、俺はずっと虚しかった。
おまえは俺を苦しめて笑っていて、俺一人だけが空回りし続けているような気分だ。
堪え難いものがあった。
おまえの嫌がらせは。
俺はこのブログをやめることが、まるで愛する我が子たちと離れ離れになるような気持ちで悲しくてたまらない。
おまえの俺と真剣に向き合う返事が来ることを俺は待っていた。
でもその返事は、とうとう来なかった。
俺が此処から完全にいなくなることを、おまえは望んでるんだよな。
おまえの望みを、俺は叶えてやろう。
俺は此処から、この世界から、今日を最期に、消えるよ。
今まで俺のブログを真剣に読んでくださった方々、ありがとうございました。
御元気で。
さようなら。