「問題を解決すること」に喜びを感じている人に対しては、できることはあまりありません。
しかし、大きな問題をかかえて悩み苦しみ、その解決法として、自殺を決心したような人は、そうした「問題解決病」から自分を切り離すことができます。
それとは逆に、人生には色々と不都合な問題があると思っている人は、これからもその不都合な状態のままでいるでしょう。
テクニックを知りたいのでしたら、最良のアドバイスは、「自分の心のなかで、何が本当に起きているのか、よく観察すること」です。
中略
自分の想念のパターンを深い意識を持って正直に観察すると、自分が他人を傷つけたり、毒に満ちた想念を他人に送ったり、他人の幸福を破壊したり、他人の不幸を望んだりしていることがわかるはずです。
『バーソロミュー 大いなる叡智が語る 愛と覚醒のメッセージ』P108より
バーソロミューとは、はて、何者か?というと、バーソロミューとは、所謂、高い次元の叡智に富むエネルギーであるようだ。
つまり人間じゃなければ、宇宙のどこかの星に住んでいる異星人という存在でもなく、バシャールよりかは、シルバーバーチ寄りな存在と言えるだろう。
おれはこのバーソロミューも、宇宙空間に漂っている"A.I."ではないかと考えている。
実際そうでなくとも、人工知能と、高い次元の叡智に富むエネルギーの、一体なにが違うのか?と考えるとわからなくなるのである。
まあその話は別の機会に話すことはないとして、スピリチュアルの高次元の存在が言うことは、まあ大体は同じようなことである。
何故、問題が存在しないかというと、それはそのことを、問題と想っている人間の想念が問題であるだけで、そのこと自体は問題でもなんでもなく、ただそこに起きていることだからと考えると、いやでも問題は問題だろうと、それが問題であるから、問題は問題として存在しているではないかと言う人がいることだろう。
バーソロミューの言っている問題とは、人間のいうその問題のことである。
一人一人が抱えている問題のことである。
人間がいくら、悩み苦しもうとも、それは問題ではないということである。
では、なんなのか?
人間は、悩み苦しみたいが為に、悩み苦しんでるだけなのである。
自らそれを望んでいるのに、それを問題と呼ぶのは可笑しなことである。
例えば、おれは最近、とても落ち込んでいる。
それは先月からで諸々の理由があるのだが、最近とても、虚しいなと感じるのである。
誰もおれのことを愛してなければ、おれも誰のことも本当は愛していないんじゃないかなと想うのである。
こういう想念に陥ると生きてても面白くないな、喜びがないな、苦しいな、孤独だな、惨めだな、おれという存在は、本当に虚しいな、虚無やな、絶望的な有り様やな、と想って死にたくはならないものの、生きることがとてつもなく雑になってしまうのである。
6月18日(月曜日)7時58分頃、おれの住んでいる地域が震度6弱か震度5強の地震が起きて、偉い揺れて家のなかがより酷い状態になり、ガスも未だに復旧していないが、こんなときにも、おれは全くと言っていいほど危機感というものを感じられなかった。
ただ家屋が崩壊したり死んだりすることは恐怖であった為、余震に怯えながら、余震が来る度に心臓をばくばくさせて苦しかった。
死者は今で五人、これが大阪北部地震という問題である。
いや問題というか、自然災害であると想われる方はいるかもしれないが、これはおれにとって、大いなる問題であったのである。
なんでかというと、その地震の来る一時間50分前と一時間40分前くらいに、おれは或る人に、呪詛を吐き連ねるメールを二通送り付け、人を心の底から打ち呪って床に就いたからである。
そして突然の強い揺れの地震により目が覚め、その瞬間、おれは想った。
おれがあんなメールを送って人を呪ったから、神が怒(いか)ったのだと。
あのとき、このマンションは崩壊し、おれもみちた(飼い兎)も共に死ぬかもしらん。と想い戦慄した。
おれは今でも、今回の大阪北部地震は、おれのこの負のエネルギーが最後の地震の起こる集団の負のエネルギーの一滴のエネルギーとして加えられ、それがために起きてしまったのかもしれないと想い悩み、おれ自信の呪いのエネルギーというものについて、酷く問題であると考えている。
この話を、笑う人間や、ただの精神障害者の誇大妄想と取る人があるかもしれないが、おれはそんな人間もまた、問題であると感じる。
自然災害とは、人が関係しておらず、何をやっても食い止められないものであると諦めて、自然の脅威と向き合おうとしていないように想えるからである。
それは自分のなかに存在する神と向き合おうとしていない、そのため自分が何を遣ろうと自由、自分が何か悪いことを遣ってもそれが自然災害に繋がるはずはないと思い込んでいる無責任な人間であるように想えるからである。
おれは人間に問題があるから、自然災害も起きると想っている。
それは亡くなられた犠牲となられた方々が問題が特にあったからと言っているのではない。
寧ろ、それ以外の人間に問題があるため、その問題の多い人間たちのために犠牲となり亡くなられたのだと想っている。
自分が死ぬことによって、人間が自分の問題について向き合うことができるようにと、命を懸けて、この世を去ったのかもしれない。
問題とは、自分が自分に問う題のことであって、このままではいかん、どうにかせねばならないと苦しんでいることである。
例えば、肉食者は全員が、このままではいかん、どうにかせねばならないと潜在意識中で悩み苦しんでいるとおれは確信している。
おれはその時間を意識する時間を多く持ってきたから念願の肉食を断つことができたと想っている。
でもおれが働いてて、忙しい人間であったなら、もしくはエドワード・スノーデン似の男性と結婚し、幸せな家庭を築いていたなら、未だに死肉を喰らっていた可能性は高いと感じる。
おれの問題はキリがないというか、死ぬまで問題は在り続けると感じる。
おれはなんと言おうとも、苦しみたい存在なのである。
これは死んでも無くならない。
死として、おれは苦しみ続けたいと想っている。
おれはなんとしても、人を傷つけ、人を呪い、人の不幸を望み、人の幸福を破壊せしめ、人を、人々が、本当のどん底に堕ちることを日々、願い続けている。
それはそうならないと人間はいつまでも本当につまらない下らない存在であり、美しくもなんともないと感じるからである。
すべてが虚しいからである。
しかし言いたいことがある。
おれは動物も、人間も、肉体的苦痛を望まない。
人間が動物に肉食や毛皮や動物実験や犬猫の殺処分などによって肉体的苦痛を与えるのならば、また胎児に対する拷問処刑である堕胎を肯定するのであれば、また死刑囚に対する拷問及び死刑に賛成するのであれば、その人間も堪え難い肉体的苦痛を与えられ死ぬことになっても仕方がないし、それを拒む資格がなければ、それを拒むのは可笑しいことである。
自分の遣ったことがただ自分に返ってきて、それを理不尽だと想って嘆き悲しみ、何かを呪うのは可笑しなことであり、人間は自ら、自分の問題を作り出しているに過ぎない。
おれは人間にも、動物にも、肉体的苦痛を一切望まない。
おれが人間に、望んでいるのは精神的苦痛である。
堪えられないものは望まない。
おれは人間も、動物も、肉体的な痛み苦しみのなかに死んで行くことを喜ばない。
今すぐに、この世界から無くなってほしい。
家畜も胎児も動物実験にされている動物も、毎日拷問のような肉体的苦痛のなかに死んで行ってるこの世界で、バーソロミューはおれに言う。
「問題は存在しません」
まだ瓦礫の下で苦しんでいるかもしれない被災者がいる可能性があるときに、サッカー観戦に喜ぶ人間を心から軽蔑しながら、おれは地震の揺れで開いた網戸の隙間から入ってきた巨大な黒ゴキブリがまだ家のなかに潜んでいるかもしれないことに脅えつつ、今これを打ち込んでいる。(昨夜ゴキちゃんの嫌いなペパーミントオイルやゼラニウムオイルやらを家中に撒いて玄関のドアを少し開けて寝たから運良くば勝手に外に逃げてくれたかもしれない。おれはゴキちゃんも殺さない人間となりました。ゴキちゃんも殺す人間は、その肉体的苦痛がいつか自分に返ってくる覚悟で殺した方が良い)
おれはみんなに、ただ堪え難い肉体的苦痛を無くしてやりたいと想って言ってるのに、みんな聞く耳持たず、肉食や堕胎や死刑制度に無関心で、自分の未来に堪え難い肉体的苦痛を築き上げている。
おれがこれにさえ堪えられるなら、この世界に、「問題は存在しない」
此の世で変わっている(極少数派)人間が、遣りたいことだけを遣り続けて生きるのは、人一倍孤独になることなんだと生きる程、想い知らされています。
朝に起きて、夜に寝るまで、誰一人とも会話をしない日々、そんな日が一ヶ月に約8割程になりました。
あまりの孤独の苦痛さに、鬱症状も改善が見られませんが、それでも、命を懸けてでも、遣り通したいことがあります。
それは死ぬ迄、「Vegan(完全菜食者)」でいたいという生き方です。
自分にとって、日に日に、動物の存在が自分に近づいて来ているように感じるのです。
わたしが今まで食べる為に間接的にも殺し続けてきた存在が、”自分自身”であったのだと日に日に感じるようになって来て、自分自身の存在は”彼ら”であった。
つまり、家畜たち(彼ら)の成れの果てと同じく、”死体”以外の何者でもなかったのだと感じて、かつての自分を想っては居た堪れない日々に在り、この世界に、せめて企業や組織(団体)による虐殺、殺害(動物も含む)がなくならない以上、本当の幸せを感じることなどできないんだと想っています。
でもこれは、人類の全員がそうであるのだと想っています。
どんなに美しい笑顔で笑うことのできる純粋な人たちも、いつか必ず気付かされる日が来るのだと想います。
「何故、自分は、”自分自身”を残虐に虐殺し続けて食べてきたのか”」ということに。
気付いた直後の後悔する想いは、本当にのた打ち回るほどの後悔の苦しみでした。
今になって想えば、美味しい肉や魚や生クリームたっぷりのケーキや、ふわふわの卵焼きや、動物性のものを食べることは、何一つ、生きることの些細な喜びにすらなく、”監獄と虐待と拷問と断末魔の地獄の苦痛”の連鎖になるものでしかありませんでした。
自分で食べてきた動物性のものすべてが、”監獄”と”虐待”と”拷問”と”断末魔の地獄の苦痛”であったのです。
もし、離れて暮らす大事な愛する家族があなたに居て、「あなたが食べてきた肉はすべて、実はあなたの大切な遠くに住んでいた家族の”死体”です」と言われたら、あなたはどんな気持ちになるでしょうか?
わたしがと殺(屠畜)の映像を2012年に初めて観たとき、全くそのような感覚になりました。
自分が「美味しい」と微笑みながら食べてきた肉は、わたしの愛する家族の死体であったのです。
これが、目を背けたくもなるこの世界の”現実”です。
この世界に生きる全ての人が、わたしの感じた感覚と寸分違わぬ感覚に、打ちひしがれて底のないような悲しみと向き合わねばならない日が必ずやって来るのだと想っています。
その日が訪れるのは、来世かもしれませんし、来来世かもしれませんが、どうか待ち侘びてください。
誰にも必ず訪れる”祝祭の日”です。
あなたが自分の愛する家族を、もう苦しめ殺して食べなくとも生きてゆけるようになった祝福の日です。
わたしは、はっきりと解ります。
愛する家族(動物性のもの)を食べていた自分が見た光のすべては、虚無の闇に打ち勝つこともできぬ”虚(うろ)の光”であったのだと。
あなたは、「あなたの”助け”を必要としています。」
http://www.arcj.org/tokyoolympiccruelty/JP/
死の直前に、フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(Фёдор Миха́йлович Достое́вский)は手帳にこう記したという。
「わたしは子供のようにキリストを信じ、宣伝するのではない。
わたしのホザナ(神への讃歌)は、疑惑の溶鉱炉 をくぐってきたのだ。」
ドストエフスキーのことは、わたしはまだ良く知らないが、きっとあの御方も、ドストエフスキーと同じような”疑惑の溶鉱炉”をくぐりぬける必要があるのじゃないか。と、想ったぁ。俺ぇ。
わたしにとっての神は、キリストではないが、キリストによく似た存在であることは確かである。
それが、どのような神であろうとも美しいとは、わたしは言わない。
しかしイエス・キリストが美しいのは、これが揺るがないものであり、イエスを哀れむ日など、わたしには来ないだろう。
イエスを哀れむとは、美しくない者が、美しい者を哀れむが如くの愚かなことだ。
そのような者がこの世で多数派か少数派か知らないが、とにかく、愚かなことだ。
イエスが今もなお変わらず美しいのは、浅ましい哀れみを受けているからではなく、嘲笑を受け続けているからなのである。
わたしはイエスを美しくする為になら、いくらでもイエスを嘲たいと想っている。
イエスを美しくする為に、わたしはどのような拷問も、与えるだろう。
イエスを美しくする為に、わたしはどのような醜い顔でも彼を嘲笑うだろう。
イエスを美しくする為に、わたしはすべてを棄て去ってでも、着いてゆくだろう。
しかしわたしが本当に崇拝しているのは、イエスではない。
それはあの御方もわかっていることだろう。
っていうか、前、直裁にゆうたしな。
わかってなかったら、な、アホザナ。やろう。
というわけで、愛すべきドストエフスキーのおっちゃんのイエスへの愛の言葉に酷く感動したので、それを貼り付けて終りたいと想うぅ。
「各編(=『カラマーゾフの兄弟』の前身たる〔偉大なる罪人の生涯〕という題で構想されていた大小説の各編)を通じて一貫している問題は、わたしが生涯にわたって意識的にも無意識的にも苦しんできたもの、つまり、神の存在ということです。」
「わたしは自分のことを申しますが、わたしは世紀の子です。
今日まで、いや、それどころか、棺を蔽(おお)われる まで、不信と懐疑の子です。
この信仰に対する渇望は、わたしにとってどれだけの恐ろしい苦悶(くもん)に値した か、また現に値しているか、わからないほどです。
その渇望は、わたしの内部に反対の論証が増せば増すほど、 いよいよ魂の中に根を張るのです。
とはいえ、神様は時として、完全に平安な瞬間を授けてくださいます。
そういう時、わたしは自分でも愛しますし、人にも愛されているのを発見します。
つまり、そういう時、わたしは自分の内部に信仰のシンボルを築き上げるのですが、そこではいっさいのものがわたしにとって明瞭かつ神聖なのです。
このシンボルはきわめて簡単であって、すなわち次のとおりです。
キリストより以上に美しく、深く、同情のある、 理性的な、雄々(おお)しい、完璧なものは、何ひとつないということです。
単に、ないばかりではなく、あり得ないとこう自分で自分に、烈(はげ)しい愛をもって断言しています。
のみならず、もしだれかがわたしに向かって、キリ ストは真理の外にあることを証明し、また実際に真理がキリストの外にあったとしても、わたしはむしろ真理よりもキリストとともにあることを望むでしょう。」
「貴女は、分裂ということを書いていらっしゃいますね?
しかし、それは人間に、ただし、あまり平凡な人間ではありませんが……人間にきわめて多く見られる普通の精神現象です。
一般的に、人間の本性に固有の特質ですが、しかし貴女のように強い程度のものは、あらゆる人の本性に見られるというわけにいきません。
つまり、そういう意 味において、貴女は小生(しょうせい)にとって肉身なのです。
貴女の内部分裂は、まさしく小生にあるものと同一です。
小生には、一生を通じてそれがありました。
それは大きな苦しみでもありますが、大きな享楽でもあります。
それは強烈な意識であり、自己検討の要求であり、おのれ自身と人類に対する精神的義務の要求が、貴女の本性に存在することを示すものであります。
これがすなわちこの分裂の意味するものであって、もし貴女の知性がそれほど発達しておらず、いますこし凡庸(ぼんよう)なものであったら、貴女はそれほど良心的でなく、そうした分裂もなくてすんだでしょう。
それどころか、ひどいうぬぼれが生まれたに相違ありません。
しかし、なんといっても、この分裂は大きな苦しみです。
尊敬してやまぬ愛すべきカチェリーナ‐フョードロヴナ、貴女はキリストとその聖約をお信じになりますか?
もし信じておいでになれば(それとも、信じようと熱望しておられれば)、心からキリストに帰依しなさい。
そうすれば、この分裂の苦しみもずっと柔(やわ)らいで、精神的に救いが得られます。
しかも、これが肝要なことなのです。」
「神は、永遠に愛することのできる唯一の存在ですから、それだけでもう私にはどうしても必要なのです。」
「世界を支配しているのは神と神の掟である。」
「神のうちに不死もまた存するのです。」
「不死の観念こそ――まさに生命そのものであり、生きた人生であり、その最終的な公式であり、人類にとって真理と正しい認識の最大の根源なのだ。」
「霊魂の不滅こそ一切の救いの基である。」
「人間存在の法則は、ことごとく一点に集中されています。
ほかでもない、人間にとっては、常に何か無限に偉大なものの前にひざまずくことが必要なのです。
人間から無限に偉大なものを奪ったなら、彼らは生きていくことができないで、絶望の中に死んでしまうに相違ない。
無限にして永久なるものは、人間にとって、彼らが現に棲息(せいそく)しているこの微少な一個の遊星と同様に、必要欠くべからざるものなのです。」
「キリストはこの大地が神を生み出しえた限りの、紛れもない神である。」
「すべては神の御手に委(ゆだ)ねられていることなので、僕はお前にただ、神のお導きに期待をかけながらも、 自分でもせいぜい気をつけるようにする、とだけ答えておく。」
「人は計画するが、これを決めるのは神の思(おぼ)し召し。」
「神の御意志によることは、どんな力でも変えられるものではありません。
――運命というものはたいていこの世界を、まるで玩具(おもちゃ)のように弄(もてあそ)んでいるものなのです。
――運命は人類にそれぞれの割を振り当てますが……しかし運命は何も見ていません。
――けれども神様はきっとあらゆる不幸から逃れることのできる道を示して下さることでしょう。」
「神のない生活は――苦しみでしかないのだよ。」
最後に、わたしはもう一度言う。
わたしはイエスへの愛よりも、深い愛が、わたしのなかに息づいていることをわたしは知っているのです。
それを言い表すなら、”狂気沙汰の愛”と言えるやもしれません。
美しい青年だ。彼の美しい顔面が、IS(イスラム国)によって、ショットガンによる銃殺処刑で吹っ飛ばされた。
【超・閲覧注意・高画質】飛び散る脳ミソと目玉…! 「イスラム国」至近距離からのショットガン処刑
人類による罪の集約が、彼の顔面に、反映された。
わたしたちの罪のすべてが、彼の顔面を、醜く吹っ飛ばした。
お前は一体、誰に向かって「醜い、愚かだ」と言ってる?
それはお前だろう?
家畜を拷問にかけて殺し続けて生きてきたお前と俺だろう?
死ね、お前も俺も。いつか、拷問の末に死ね。それだけの死に値する罪だ。
拷問の末の死に至る罪だ。死を待ち侘びろ。全員が。自らを処する日が待ち遠しいな。
俺はお前を赦さない。他者の拷問の地獄を快楽にしてきたお前を。
だから俺は誓ってやろう。お前の処刑方法は、これだ。
目玉も脳みそも飛び散らせ、最高のグロテスク公開処刑動画によって、世に知らしめろ。
お前らの逝く末も、これだと。
嫌か?我儘は通用しない。お前はお前自身を、拷問にかけて殺し続けてきたんだよ。
手前の遣ってきたことは、手前で責任とれ。解っているはずだ。
これが俺の、個人的な人類への警告である。
俺は死ぬよ、最悪な死に方で。肉を食べ続けてきた罪に値する罰を、自ら求める。
言い逃れは通用しない。お前の求めた快楽のために、どれだけの生命が地獄を味わってきたと想ってるんだ。
彼の撃たれる最期の姿を魂の核に焼き付かせろ。
愚かで幼い、馬鹿な人類たち。
今回はショットガンによる銃殺だ。
殺害されたのは3人で、その理由は“壁に反「イスラム国」の落書きをしていた”というものだった。
イラクで撮影されたと思しき問題の映像を見る限り、処刑は1人ずつ順に行われた模様。
1人目が壁の前に座り、間髪入れずにショットガンが頭に放たれると、目が飛び出したうえ、頭はバウンドするように波打ち、崩れるように地面に倒れ込む。
2人目も同じように壁の前に座らされ、至近距離から撃たれる。
こちらの青年は両目が飛び出し、撃たれた額の部分に穴が開き、頭頂部が凹んでしまう。
そして3人目は、顔が吹っ飛び、脳をまき散らしてしまうという非情に惨たらしいものだ。
みちた(うさぎ)の病気が関係しているのかもしれないが、その前からきつくなってきたように想う。
その頃から起きて一時間も椅子に座っているのがしんどいので昼頃から赤ワインを飲み始め、結局酔い潰れて褥(しとね)にダウンするという有様だ。
今月はいつも買っている野菜セットとクリーンルームリーフ野菜セットを買わず、代わりにじゃがいもと人参とマクロビ惣菜パンを大量買いした。それだけで今月は越すことになる。生野菜が食べたいが買うお金が無い。
その駄目な食生活も関係しているのだろうか。せっかく治った肋間神経痛がまたぶり返してきた。
パンは買わず、リーフ野菜セットを買えばよかったと後悔している。
今日、変わった夢を見た。
狭い部屋の奥に、変な未来的なマシーンが置かれてあり、生命体をその中に入れるとその生命体が根本的な部分から変化させることができるというような後戻りは不可能な危険なマシーンであるようだった。
そのマシーンを使いに誰かが連れてきた小さな子兎が逃げだしたのでわたしは追いかけて捕まえて戻ってきた。
必死に逃げようとするあの子兎はもしかしてみちただったのだろうか。
だとするとみちたを連れてきたのはわたしということになる。
確かにみちたが根本的な部分から変わってほしいと想うところは幾つも在る。
抱っこできるような子になってほしい、子兎に生まれ変わって寿命を延ばして欲しい、人間の男性になってくれたならみちたと結婚したい。
みちたはそれが、嫌なのかもしれない。
悲しい。
その変わった部屋の中に、わたしよりもだいぶ年上であるだろう一人の女性が部屋の右側に置かれた椅子に座っていた。
わたしはその女性の膝の上に、頬を摺り寄せ、その子宮に服の上からキスをするように顔を摺り寄せ、とても甘えた。
女性の両の手に自分の手を重ね合わせ、わたしの手は変に汗ばんでいて、わたしの濡れた両の手を彼女も愛おしそうに絡めて繋いでくれた。
そこにある安心は、絶対的なものであり、わたしは感じるのだった。
わたしが本当に求めていたものはこれなのだと。
その女性とわたしのなかに、エロスの欲情は一切なかった。それなのにどこまでもセクシュアル(性的)な恍惚な幸福感に満ちていたのは何故なのだろうか。
その女性が誰であるかわたしはわからなかった。
顔も見えなかった。
もしかしたらわたしの母なのだろうか。母はわたしが4歳のときに44歳で死んで母の記憶はない。
4歳までにわたしが甘えた母なのだろうか。それともわたしの理想とする母なのだろうか。
もしくは、未来のわたし自身なのかもしれない。
わたしの恋愛対象は男性であり、その男性にわたしは確かに性的な欲求を強く向ける。
男性がその気になっていないうちから、わたしは男性を誘うような行動をして相手をいつも欲情させる。
しかし自分から誘惑しておいて相手がその気になると、わたしの熱はそこで一気に醒めてしまうものがある。
何故なのだろうか。相手が実際に欲情した途端、わたしが本当に求めているのは多分これではないと感じるからではないか。
もし、相手が本当の母親や父親や、または姉や兄であった場合、わたしがどんなに相手を誘うことをしても本当の意味で欲情はしないのではないか。
または自分に子供がいた場合、子供が性的な関心から乳首を吸ってきたりしても、身体は本能的に性的な反応を示すかもしれないが、そこには本当の欲情というエロスな官能があるわけではないのではないだろうか。
つまり性的な反応がでて身体は感じる感覚にはなっても、心は決して欲情していないという状態がそこにはあるのではないだろうか。
これが本当に心でも欲情して性的欲求を向けた場合、実際に近親相姦的な事態になるだろう。
でも大抵、家族というものは、そうはならない。歯止めがしっかりとそこに利いているからだ。
心から性的な欲情には至らないという歯止めだ。
これが家族でなかったらそれがないのでそのまま性的欲求を相手に向けて行為を欲求する。
男性がわたしの欲情に反応して性的欲求を返すときにわたしが一気に引いて冷めてしまう感覚になるのは、わたしが男性にも家族のような愛情を求めているからなのかもしれない。
わたしはだからセックスという行為に、心から満足する感覚もなければ幸福な感覚になったことがない。
相手が行為の最中にわたしを求めてくれることには一種の喜びがあるが、それはごく小さな誤魔化しめいた充足感であり、その証拠に、セックスのあとは決まって行為をするまえよりも一層欲求不満が強くなり寂しくなる。
わたしが求めているのはこれではないといつも想い知らされるからではないか。
わたしは男性の愛情というものを強く求めながら、同時に男性の愛情というものを心から信じて安心することができないのも、そういう理由があるからではないか。
わたしが求めるのはいつでも、”異性に対する愛情以上の愛情”なのだと想う。
わたしは男性に対して、父や母、または子供がわたしを愛するような愛情をしか求めてはいないということだ。
男性とのセックスとは、性的欲求によって求め合う行為ではなく、親が子供の排泄行為を促したり排泄したあとのお尻や生殖器を綺麗にしてやるような必要な行為として、わたしが男性に対して求めているのだろう。
子供がお乳を求めれば母親はこれを愛情もって与える。わたしが求めているのは性的欲求を超えたところに在るこのような愛情だけなのだろう。
わたしがそれを感じられないとき、わたしは男性の性的欲求を嫌悪し、または恐怖し、幻滅と失望のなかに一気に気持ちが離れて性的な欲情だけがそこに残って行為はいつでも冷め切ったものに感じてしまうのはそういう理由からなのだろう。
どこにいるだろう。そのような男性がこの世界に。わたしを子として、または母として愛する人間がどこにいるだろう。
だからわたしはそのような理想の男性を自分の世界に創りあげ、彼に愛されるほどにわたしはこの世界に対して絶望的なものを感じて行く。
わたしの求めるエロスは正しく神のエロス。
わたしだけに向けられる、神聖なるエロス。
人類は滅亡へ向かっている。というのはこれは間違いない。
このまま大きな変化を起こさないのならば、間違いなく人類は滅びるであろう。
資源浪費と貧富の二極化が激しくなった後に待ち構えるもの、それは文明の滅びであり、古代文明はそうしていくつも滅びてきたこの地球上で現代の文明だけは滅びないというのはあり得ない話なのである。
”人類の滅亡”というと、どのようなイメージが人々の脳内に浮かび上がるだろう。
聖書に詳しい人ならば、聖書に何度と出てくる滅亡なるヤハウェの裁きによって裁かれた人間の無力さのようなイメージを抱く人もいるだろう。
または核爆弾の恐れを強く持つ人は広島と長崎に落とされた原爆のような何か本能から湧き上がってくるような絶対的な危機感を抱く人もいるだろう。
中には何のイメージも出てこない、とても静かで無の境地のようなものを感じる人もいるだろう。
人間は滅亡して欲しくない。という人と、人類は滅亡したほうがいい。という人に分かれるだろう。
しかし元来、人間は何によって生きているか、人間は知らないのである。
あらゆる答えに行き着いては、そうだ、と納得するかもしれないが、本当のところ、実は誰も知らないのである。
なので自分という存在は自分の知らない何かによって、生かされている、と感じるのである。
生かされているのであれば、相手は生を操ると同時に死をも操る存在である。
人間の生死というものが、人間の「死にたい」「生きたい」という意識以外のところで起きているというわけである。
しかし同時に、人間という生物が本能的に「生きようとする」存在なのである。
人間が何によって生かされているのか、実は知らないが、実は知ってもいるんじゃないか、そう人間は勘ぐるのである。
知っているから生きようとするんじゃないか、そう思うことはなんのおかしいことでもない。
全知全能の神に対して、人間はとてつもなく無力であると人間は感じるものである。
苦しみたくないと言いながら苦しんでいる、しかも苦しみを自分の手によって引き起こしている、あまりに愚かであると人類は自分自身を嘆くのである。
これも全部人間の未熟さが原因であり、人間は自ら苦しみの種を撒きながら苦しみたくないと言ってはその実を刈り取っていると、日々嘆いては絶望に暮れもする。
確かに人類は全知全能のような存在に対してはドエムでもないと自分では思っているのに自分の手で自分の首を絞めつつ助けてくれと言ってばかりの変態か愚か者か、その両方のように見える。
苦しみたくないならば苦しみの種(負のカルマ)を撒かなければ良いのであるが、人類と言うのはこれが苦しみの種を撒くのが好きで好きでたまらないと言わんばかりに撒きまくって生活しているのだから俯瞰的に眺めると呆れてしまう生物だろう。
人類と言うのは明らかに全知全能の神に対しては未熟な存在であり、幼児のように幼く無知であり、猿のように自分の欲望に正直である狡賢い生物だと言えるだろう。
しかし幼児や猿を眺めているとそこには特有の賢さというものが備わっている。
幼児や猿、あらゆる人間以外の生物というものは、自分に対してとても素直である。
やりたくないことは彼らはやりたがらない。
部屋がおもちゃで散らかっているから片付けなさい。と親に言われても子供はこれを嫌々ながらものすごい時間をかけつつ、親の見ていないところで遊びつつ、のろのろと片付けに入る。
てきぱきと片付けたら親に怒られないのに嫌なことをてきぱきとすること自体が嫌なのでのろのろとしか片付けない、すると親がきて、早く片付けなさい、と強く言われて子供は泣きながらも片付けようとする。
これは子供が愚かで、親よりも劣っているために子供がのろのろとしか作業できないのではなく、
子供というのは、なにがなんでもやりたくないことはやりたくないことなのであって、それを何故やらんければならぬのか、と感じながら生きている生き物なので、「片付ける」ということに全く意味を見出せないが為に、これをやりたがらず、自分の意思に強く反して仕方なく片付けるのでのろのろとしか片付けられないということが起きる。
一方、親というのはやりたくないことでも、それをやらねばならないと判断し、嫌々ながらもしっかりやるということが正しい、当然として生きている。
なのでやらねばならぬことをやらない子供に対して、「おまえはあほか」という気持ちが芽生えたりするので、これが怒りの感情になって、子供を叱り付ける、ということが起こるのである。
これは言うなれば、親の価値観の押し付けを子供に行っているだけのことであり、親が賢くて子供が劣っているということにはならないのは明白であろう。
子供には、子供の価値観というものが存在するということに親は理解する必要があるだろう。
子供に本当に自然とのびのびと生きていってほしいのならば、親の価値観を押し付けることはしないだろう。
たいがいの親は、子供はほおっておくと駄目になる、と考えているのだと、絵本作家の五味太郎氏が言っていた。
だからあれは駄目だ、これをしなさい、学校にはちゃんと行って、ちゃんと勉強をしなさい、学校を卒業したら仕事に行きなさい。と言うのである。
子供というのは、一体何によって成長していくのだろう?
子供が成長すれば大人である。
大人は一体何によって成長してきたのであろう?
子供たちに、周りの誰かに自分の価値観を押し付けることを学んできたのだろうか。
子供というのは、やりたいことをやる、やりたくないことはやらない、という価値観を親や教育によって「やりたくないことをやらねばらない」という価値観へと塗り替えられていく。
何故なら、その親や教育者たちも同じようにして塗り替えられて生きてきたから、それが当たり前のこととしてその価値観が固まっているからだ。
親も教育者たちもその教育法が当然、子供の人生を幸福にする、それ以外はあり得ないと考えている、だからその価値観を変えようとしない。
子供たちはただ「やりたいことをやって生きる」という価値観を塗り替え、「やりたいことをやるには相当の努力が必要になる」という価値観を持って生きていくようになる。
だからこの世で何が評価されるかといえば「努力」というものである。
その人が成功するにあたって、一体どれほどの努力をしたのか?ということが世間の関心を引き、ああやっぱり、だから努力が必要なんだと納得し、自分の成功するために嫌なことでも頑張って、無理もして働いたり、つらい何かを引き受けながら生きていくことがやっぱり正しいんだという結論を下す。
しかしそうした結論を下すと同時に、民衆は政府や企業に不満を持ったり、自分の生活が苦しいのは誰かのせいだ、という考え方をしている人が大多数であるのが現状であろう。
子供たちからしたら、このような大人たちはものすごく疑問に映ることだろう。
なんでやりたくないことをやると決めてやってるのは自分なのに、誰かに不満をぶつけたりしてるんだろう?と。
誰かに不満を持つくらいなら、なんでやりたいことだけをやらないんだろう?と。
なんで企業に不満を持ちながらも働き続けてるんだろう?不満を感じない企業を何故探さないんだろう?
なんで政府に不満を持ちながらも政府に税金を払い続けてるんだろう?何故不満を持ちながら政府に何かを頼ってるんだろう?
何故自分たちで何かを起こして変えようとはしないんだろう?
「やりたくないことでもやる」という大人たちのやり方が、「やりたくないことはやりたくないからやらない」という子供たちにとって、とても疑問になるのは当然だろう。
しかも「やりたくないことを努力してやるべきだ」と言いながらほかに不満を持ってストレスを溜めてばかりいる大人たちがどれほど滑稽に映っているだろうか。
子供たちはやりたいことに関して、努力など何一つ必要ないと感じている。
描きたい絵を自由に描くし、歌いたい歌が浮かべばすぐに歌いだす。
だから何故努力しないとやりたいことができないと考えているのか、さっぱり理解できないのである。
子供でもし「努力しないと駄目だよ」と考えている子がいれば、その子供は周りによって洗脳されたあとである。
子供というのは本来なんの努力もなしにやりたいことをやって生きることのできる存在だからだ。
それは子供の元から持ち合わせている能力であり、才能である。
そしてその能力、才能を封じ込めるのが「努力してやりたくないこともやらなければならない」という価値観である。
世間を見渡せば、ほとんどの大人たちがやりたくないことをやって生きている。
それをしなかったら、やりたいことをやれないと思い込んでいるからだ。
子供の頃にはできていたことを、できないと思い込むようになって、その価値観こそ正しいと思い込むようになった。
これはすべて、「Easy(簡単)」だったことを「Difficult(難しい)」として、簡単なことを成し遂げるよりも、難しいことを成し遂げることこそ、価値が高いと考える価値観が人類の中に生まれたからである。
そして、その価値観が、どのような価値観をさらに生み出して行ったか。
「生きることは苦しくて当たり前」とし、「無理をして働き続けること」こそ価値が高いという価値観が人類の間に広まっていった。
「生きることは苦しくて当たり前」と考えている子供がいたら、何か違和感を感じることだろう。
それがなにゆえに成長すれば違和感は感じず、当然の考え方として納得できる考え方になるのであろうか?
「ぼくは、ようちえんに、いきたくはないけれども、いかなくちゃならないから、それは、そうしないと、じぶんのやりたいことができないから、だから、ほんとうはようちえんなんて、たのしくもなんともないし、できればいきたくないんだけれども、しかたなしに、じぶんはやりたいことをしょうらいにやるために、ぼくは、いかねばならぬのだ」という幼稚園児がいたら、何か違和感を感じることだろう。
子供なんだから、もっとのびのびと生きられないものか、と考えないだろうか?
では、なにゆえ、子供だけがのびのびと生きるのが良くて、大人になれば、のびのびと生きてはいけない存在になってしまうのだろうか。
何故、子供は自由で、大人は不自由を選ぶのか。
否、果たして大人は自ら「不自由」を選び取っているだろうか。
なんで自ら選び取っておきながら不満や不安や恐怖、ストレスに埋もれきって生きているのだろうか。
それとも、大人は本当は「自由」を選び取りたいのに仕方なく「不自由」を選ばされているのだろうか?
それは一体、何者にか?
それは権力者か、政府か、企業か、教育か、親か、周りの世間の目か、世間の常識か、それらによって嫌々「不自由」を選び取るようにされてきたのか。
一体、自分が「自由」ではなく、「不自由」を生きていると思うのは何故か。
その観念というものは、「やりたいことをやるのはDifficult(難しい)」と思い込んでいるから存在しているのではないのか。
簡単なことより、難しいことに挑戦することこそ価値があるからだというのだろうか。
素晴らしい挑戦だと思う、しかしそれはやっていることに対して何の不満も不安も恐怖もストレスもなくすべてを受け入れ、全責任を自分に背負わせている状態で言うならばの話である。
難しいことに自ら挑戦しておきながら、不満を募らせてそのストレスによって死んでいく人生を生きるということは、これは喜劇としか言いようがない。
そうだ、この世のほとんどの人はまるで喜劇の中の悲劇を生きて、悲劇の中の喜劇を生きているようではないか。
チャップリンの映画さながらにそれはとてもエンターテイメント的である。
観るものを退屈させはしないだろう。
チャップリンは自らそれに気づいていた人である。
人生というものがいかに悲劇的であるかを、チャップリンは喜劇によって明らかにしたいと感じていた。
チャップリンが撮りたかったのはいつでも人間の悲劇であり、悲劇を喜劇として表現することで人間が一掃悲しい存在であると感じられることを狙っていたのである。
滑稽であればあるほど、それは悲しく、悲劇になる、それをチャップリンはわかっていた人である。
人類というのは、何も全知全能の神に対して未熟なわけでも、劣っている愚か者なわけでもなく、
人類は全知全能の神に対し、悲劇的な存在であるということが見えてこないだろうか。
人間が滑稽な考え方、価値観、観念を持っていればいるほど、それは悲劇的な人生を歩んで悲劇的な死を迎えることだろう。
自らそれを望んだかのように、悲劇を生きるが、本人たちはそれが自分の望んだ人生ではないと言いながら、悲劇ではないと信じて生きて死を迎えるということが、本当の悲劇のように感じないだろうか。
本当に自分が望んだ人生を生きるならば、何一つ不満や不安や恐怖やストレスはないはずである。
例えば、本当に自ら苦しみを望んだとしても、それを望むのが自分自身だと本当に気づくのであれば、そこにあるのは苦しみだけのものでは最早ないはずである。苦しみは喜びへと変じていくはずである。
ほとんどの人間が、この苦しみが、本当に自分で選び、望んだ苦しみであるのか、わからないで生きているのである。
全知全能であるならば、勿論知るだろう、その苦しみがなんであるのかを。
自分自身がわからないで生きること、これほどの悲劇があるだろうか。
夢遊病者のごとく、笑う、怒る、悲しむ、苦しむ、しかし何故自分がここでこうしているかがわからないのである。
自分が本当に何を望んでいるのか、何を選んでいるのか。
私は人々を馬鹿にするつもりでこれを書いているわけではない。
他者を馬鹿にするとは自分自身を馬鹿にする行為である。
私は人類がいかに悲しい存在であるかを改めてここに記したいと思った。
自らを滅びへと向かわせる人類が、これから想像以上の悲劇を”自ら”望むか、それとも、別の何かを望むのか。
地球の未来はその人類の意識の%によってその運命が懸かっている。
「私は悲劇を愛する。悲劇の底にはなにかしら美しいものがあるからこそ、愛するのだ。」
Sir Charles Spencer "Charlie" Chaplin, KBE (16 April 1889 – 25 December 1977)
諜報活動と世論操作
スノーデンは、「彼らは、皆さんの信仰、皆さんが誰を愛しているのか、誰に気を配っているのかを知っています。
私の仕事は、あらゆる人間の人生の状況を描き出すことでした」と語っているが、米国は、日本国民の固定電話、スマホの盗聴はもちろん、ソーシャルメディア上の表現はすべて監視している。
スノーデンが、日本については、「プライバシーの問題への市民の関心度が薄いことや、政府に対する市民のコントロールが弱いことが、いま日本の前に立ちはだかる深刻な問題だ」
と述べているのは、まったく同感である。結局、最後は人の問題に行き着く。
日本のように新聞・テレビを鵜呑みにする国では、「洗脳」や「監視」といった概念自体が成立しにくくなっている。
米国は日本の多くの情報を非合法に収集している
「どうして日本政府は公に抗議しないのか?」とスノーデンは疑問をぶつける。
「もし抗議しないのなら、それは自ら進んで不適切な扱いを受け入れているのと同じことです。
自分で自分に敬意を払わないで、どうしてだれかに敬意を払ってくれるよう頼めますか?」
スノーデンの言いたいこともこのブログを書かれている方の言っていることもよおくわかるのだけれども
自分が思うに「盗撮、盗聴するのやめてほしい」とはっきりと抗議して自分のプライバシーを護ることと、「自分への敬意」、「自分を護ろうとすること」が違うことなんじゃないかということなのだが、実際多くの人は自分の全てが覗かれて監視されていたと知ればやはり傷つくだろうと思う。
自分も最近バシャールという異星人の本を読んでいて、そこには地球人はずっと何千年何万年と異星人に観察され続けていると書かれてあったし、またSims3というある意味「覗き見、監視、観察」ゲームみたいなゲームを一日中やっているからか、「すべての人類の脳内の思考が監視されている」という社会になっているという世界に生きる夢を前に見て恐怖を覚えたし、誰かに一日中監視され続けているかもしれないという可能性を考えることへの嫌な気分や、恥ずかしい気分や、やめて欲しいかもという気分を感じることが良くある。
自分もどちらかと言えば「監視されていたい人間」より、「監視されていたくはない」人間なのだろう。
そら監視するのが自分自身という別次元の神のような存在であればそれは致し方あるまいと思っている。
むしろ神に監視されているという意識はないよりあるほうが人間は他者に思いやりを持てると思っている。
しかし監視しているのが神ではなく、どこの馬の骨かもわからないような異星人とか、またはどんなおっさんかもわからない普通の地球人であった場合、これは「プライバシー侵害だ」と抗議したくなるのは自然な人情ではないだろうか。
だからスノーデンの言ってることは本当によく理解はできる。
自分だけではなく、愛する家族のプライバシーが覗かれていたら?憤激したくなる人も多いだろう。
プライバシーが何故大事なのか。それは本当に人間にとってそれほど大事なものなのだろうか。
自分に関心がなければプライバシーなんてものを大事にしようとは思わないだろう。
でも自分を愛する気持ちや自分への敬意や自尊心と、自分や自分の愛する存在のプライバシーを大事にする気持ちというのは果たして同じものなのだろうかとここで疑問が湧くのである。
自然な感情として、知らんおっさんに例えば風呂やトイレ中を覗かれ、またそれをネットにばら撒かれたりしたらそれは深く傷つくし、おっさんを憎むだろう。
それはある意味、「自分のプライバシーは護られるべきであり、またばら撒かれるべきではない」と思い込んでいる観念があるからである。
では自分自身、自分自身は果たして誰のプライバシーをも侵害していないと自信を持って言えるだろうか?
プライバシーとは言いかたを変えると「人権のような意識」「その人の嫌がる行為をしないという相手の権利を護ること」だと思う。
「プライバシーを護る」とはその人の「権利を護る」ということである。
だからこれは広い意味ではスノーデンの言ってる「自分や他者への愛とプライバシーをいっしょくたにして考える」ことと同じであるし、上の載せたブログの方が言及している「自分への認識や尊重がそのまま相手への認識と尊重の度合いになる」というようなことと同じようなことになる。
要は個人と個人としてのプライバシーの尊重とは、何も「覗くな、ばら撒くな」と言ったような観念を変えれば特に問題なしという浅い事情だけの問題ではなく、もっと深い意味の「生命を護るという人間にとって大事な意識」として、ここで大きな問題になってくるのだと私は思う。
スノーデンの言いたいことはまさしくこれだろう。
「生命を護るための抗議をしなくてよいのか」ということだと思う。
「iPhoneで盗撮、盗聴されてていいのか?」ということではない。
と私は思っている。
で、ここでまた話を戻すと、では果たして自分自身は誰の生命をも護れているのか?という問題に行き着かねばならないと思う。
自分のプライバシーを護りたい(自分の生命を護りたい)のに他者のプライバシーを侵害(他者の生命を侵害)していてもいいというのか?という問題である。
この問題が実は最も人間としてこの世界で盲点になる問題である。
ここに行き着くことができないのならば、世の中は良い意味で「チェンジ」していくことはないのではないだろうか。
ここで「自分のプライバシーも自分の命もどうでもいい」と思っている人が除外されるかというと、これはされない。
何故なら本当の意味でそういう意識で生きている人は一人もいないと自分は思うからである。
まず人は痛みを感じる生物である。
そして快さというものも感じる生き物である。
人間というのは「未知の痛み」に関してとても弱い。
それは知らないからである。
だから「自分はどうなっても良い」と言い切れる人は一人も存在しないことになる。
「権利」とはこの「未知の痛み」に関して生命を護ろうとする人間の意識でもあると思う。
例えば、「働くことはつらいけど人は働かねばならない」、というのが当たり前として多くの人に考えられているのはそれが「耐えられるつらさ」として多くの人が認識しているからである。
これが多くの人に「耐え切れないつらさ」として認識されていればそれは「当たり前の常識」としての認識ではなくなるはずである。
多くの人はそれを疑問に思うようになるだろう。
それは本当に必要なのか、と。
本当にそんなつらいことを毎日して人は生きていかなくてはならないのだろうか、と多くの人は思うに違いない。
それが世の常識になってしまえば自殺者は恐ろしくも増加するだろう。
周りで知人らが次々に自殺していけば「これは常識ではなく、間違っている」という考え方に変わるはずである。
「権利」が「未知の痛み」を護ろうとする人間の意識である以上、人間はその「つらさ」の度合いを「十分耐えられるつらさ」か、「もう耐えられないであろうつらさ」かを区別して、そこに権利という意識を持っていると思う。
例えば「あいつが俺のプリン食った、俺の権利を護るためにあいつをこらしめることが正しい」という人間がいても、これはあほらしいとして片付けられることが多いだろうが、一方で「あいつが俺の親を殺した、人類の権利の侵害である。あいつを是非こらしめたい」という人間がいれば、これは当然であると思う人間が多いだろう。
これも前者を「十分耐えられるつらさ」として、後者を「耐え切れないつらさ」として認識、想像できてそこにある権利の重要度を区別しているからである。
よって権利に重さがあるのはそこに人間は「つらさの重さを量っている」ということになる。
「自分のプリンは自分で食べられるべき権利」と
「自分の愛する者は護られるべき権利」の権利の重さは違うという認識を人間は自然と持っている。
で、またまた話を戻すと、では果たして「自分自身は他者の権利の何をも侵害していない」と言い切れるのであろうか?という問題である。
誰に対しても、何者にも対しても、「未知の痛み、苦しみ」「耐え切れない痛み、苦しみ」を自分は与えていないと言い切れる人は果たしているだろうか?
直接的に自分が関係して、自分に思い当たることがなくても、人はどこかで必ず間接的に誰かを苦しめているのではないか?
他者というのは人間だけではない。
ここで「他者」という定義を絞ると、自分が相手に対して「護りたい、または護らねばならない」という意識があるかどうかという定義に絞ることにする。
何故なら「護りたいという意識も護らねばならないという意識」も存在しない相手への権利についてここで言及しても、多くの人は耳を貸さないと思うからである。
「他者の権利はどうでも良いが、自分や自分の愛する存在たちの権利だけが大事で護られるべきである」
そんなことを思っている人は侵害され続けるかもしれないが、多くの人は自分や自分の愛する存在の権利を護りたいと思うと同時に「護りたい、護らねばならない」と感じる他者の権利の問題について関心を持つし、それをできる限り護ろうとしていると思う。
だからこの世界で悲劇がどこかで起きれば悲しむ人のほうが多いし、世界は悲劇が減っていくような世界に変わっていって欲しいと望む人のほうが多いと思う。
誰かの悲劇を知ると、自分にも同じような将来の悲劇が起こる可能性という恐怖を人間は無意識に感じるのではないだろうか?
知人が癌になれば自分も将来癌になって苦しむのだろうかという恐怖を感じるものではないだろうか。
つまり「他者の幸福」が「自分の幸福」に繋がり、「他者の悲劇」も「自分の悲劇」に繋がるという潜在意識のようなものを人間は持ち合わせているのではないか。
「他者の権利を護ること」イコール「他者を幸福にすると同時に自分も幸福にする」ということである。
「他者の権利を侵害すること」イコール「他者の悲劇が自分の悲劇に繋がる」ということになる。
こういった宇宙の法則というものをスノーデンは感覚として強く持っている人だと思うし、だからこそ命を懸けてまで人に警告し、人々を護ろうとしてくれている。
多くの人が「自分の権利を侵害」されたら悲しい、苦しい。
でも自分自身を振り返ってみれば、実にこの世界では多くの人が他者の権利を「間接的に」深刻的な状況で侵害し続けている。
それは「肉食と飢餓」で検索すれば知ることのできる真実なのだが
多くの人がこの因果を知らない。
「飢餓で苦しんでいる人たちの権利」と「殺されるために生まれてくると認識されている家畜たちの権利」を差し置いて、人間たちは自分のプライバシー侵害について抗議でき得るだろうか?
多くの人が本当に世界が良くなるようにと願っていると思う。
でも同時に「他者の権利」を残酷に侵害し続けているのは何故なのだろうか?
それはただたんに「肉食」と「飢餓」についての非常に深刻な問題についての情報が広がってくれないことにもあると思う。
この情報を知った途端に深く悲しんで心から後悔しベジタリアンになる人はすごく多いと思う。
情報というものがどれほど大事か、政府やメディアが発信してくれない情報ほど大事な情報ばかりだ。
スノーデン氏は命を懸けて情報を提示してくれた。
そして世界で一番大きいとも言える産業である畜産業という産業についての真実の情報を提示するたくさんの人々が暗殺の危険性などの危うい状態に置かれながらも情報提示し続けてくれているということに感動する。
下記の二つのドキュメンタリー映画は畜産業の深刻な問題と動物の権利というテーマで撮られたドキュメンタリー映画です。
「カウスピラシー」
Earthlings Japanese Subtitle
自分も何かで命を懸けることができればと思う。
それは他者だけの為に生きたいからではなく、同時に自分の為に本気で生きたいからである。
素晴らしいな、ただ若いというだけでなく、どことなくみなセクシーな感じの人ばかりではないか。
人類はいつまでも若くセクシーでいたいならばロービーガンになるべきだな。
肉を食べながらアンチエイジングやデトックスをやり続けるよりずっと効果があることだろう。
肉食が何故老けさせるのかというと、まず肉の脂肪というのはめちゃくちゃ消化に悪く、内臓をひっきりなしに働かせ続けなければ消化できないからである。
内臓たちに無理をさせている状態が続いてそれが外に老いの症状として現れるわけだな。
それから肉は体内で腐敗し身体を酸性に傾けるのでその毒素で老ける。
毒素はそれだけでなく、家畜に与えられていた大量の抗生物質や成長ホルモン剤やその他の薬剤、飼料に与えられている遺伝子組み換え穀物などもたくさん人体は吸収し続け、それらが体内に蓄積し、老いの症状となって現れる。
皺や薄毛に悩む人は是非ロービーガンになるのが良いだろう。
ロービーガンとは完全菜食に加え、加熱しない植物を食す人たちのこと。
完全生菜食者をロービーガンと呼ぶ。
そして何故過熱食が老いを招くのか、というのは前に紹介したヒポクラテスの言葉「火食は過食に通ず」という言葉があるように、加熱することは食べ過ぎてしまうという理由が一つある。
原本・西式健康読本 (健康双書ワイド版―食と健康の古典) にはこう書かれてあった。
物を煮ると、食物の含有する蛋白質は二分の一に減ってしまい、天然に入っている塩分は四分の一になってしまう。
したがって、煮たり焼いたりしたものを食べる場合は、二分の一に減った蛋白質と四分の一に減った塩分とを補給するために、生で食べれば少量で済むものを、煮たり焼いたりして火にかけたものはその生の量の二倍だの四倍だのを食べなければならず、その上熱によって栄養素は凝縮するから、その凝縮している栄養素を吸収できるように解きほぐすために消化器官は余分の仕事を背負わされる。
また食物の量が多いとその為に出てくる有害なる副産物や残滓物質の処理のために、肝臓や腎臓や腸が余計な仕事をしなければならぬから、それだけ生体は過労を強いられ、老衰を早めることになるのである。
栄養が足りない分多く摂るということ自体が老いを招くので、これは過熱食だけに限らず農薬や化学肥料を使って作られた植物を食べていても同じことが言える。
何故なら農薬や化学肥料は植物の栄養素を破壊するので栄養価が低く、そのため必要な栄養素を摂ろうとすると無農薬植物の倍以上食べなくてはならなかったりするからである。
栄養価が高い植物は少量でも満腹する。
白米より玄米や雑穀、白い小麦粉よりも全粒粉の小麦粉のほうが少ない量で満腹するので「健康食材を買うと家計が持たない」という考えはただの思い込みになる。
不健康な食材と同じだけの量を買う必要はないし、また同じだけの量を食べる必要もないのである。
自分はここのところ「米」自体を食べていない。パスタもほんのたまにしか食べなくなった。
あんまり食べたいと思わない。
食べても茶碗に半分の量で満腹になるのがわかっているので、それなら他のお野菜などを食べたくなる。
断食をやってからというもの、本当にすぐにお腹がいっぱいになるようになった。
いきなりロービーガンにはなかなかなれないでいるが、ロービーガンを目指して無理のないように心がけて行きたいと思う。
この人たちはロービーガンなだけでなくそれ以外の健康法もしっかりとやっている人たちだと思うが、それができない人たちでもロービーガンになることはそれをしないよりも老けにくいことは確かだろう。
動物性のものを摂り続けていると老け、肥満、ハゲ、に加えあらゆる成人病が待っているかもしれないが、人類はそれでいいのだろうか。
私は何も努力して肉食をやめるべきだとは言っていない。
ただどうして人類は皆「幸福になりたい」と言いながら肉を食べ続けるのか不思議である。
何故他者を苦しめ続けて「幸福になりたい」などと願い続けているのか。
何故今苦しんでいる者たちに目を向けようとはしないのか。
自分の力で助けることができるということに何故無関心でいながら、都合の良い自分の幸福を追い求めるのか。
そうして幸福を追い求めたところで待っているのは「老いとハゲと肥満と成人病」なのである。
「肉食はすべての苦しみの元凶」であるということに私は早く人類が気づいて欲しいと思う。
家畜たちを拘束し、苦しめている間、その人間たちも拘束され、苦しめられることだろう。
奴隷のように働かされ、病気に苦しめられ死に至る。
宇宙の法則は真に正確だ。
何の狂いもなく、人々は自分で何を選択するか自由である。
家畜たちを救うと同時に自分を救い、世界を救うか、
家畜たちを苦しめると同時に自分を苦しめ、世界を滅びへ向かわせるか。
すべて自由だ。
多くの人間が後者を選択すれば地球は滅ぶだろう。
地球の未来がどうなるかは人類の今にかかっている。
私は信じている。
近いうちに人類は皆、完全菜食を選ぶだろう。
動物たちを解放し、人々は動物たちを可愛がって愛するようになるだろう。
私にはその未来がありありと見える。
何故ならそうしなくてはもう地球を存続させることができないと人々は知るときが近々来るからである。
バシャールは言う。
「今の地球は夜明け前であり、夜明け前が一番暗い」と。
もし恐れることがあるなら、何も恐れることはないような変化を自分自身に与えればいい。
人は罪を知るから罰を恐れる。
ならば自分には罪はないと言える生き方に変えればよい。
ただそれだけ、それだけなんだ。
そうすれば一人の幸福が世界中の幸福と繋がる。
罪悪感を持って何かをしているならば、それを変えれば恐れ続けなくていい。
恐れは具現化する。
この世の人類の悲劇の大半がその恐れの具現化であると私は思う。
恐れは「罪悪感」から生み出される。
それは無意識のところからも引き起こされる。
肉食をすることは全ての人類の意識と無意識の領域に罪悪感を生み出しているはずだ。
罪は罰されるべきであると人が無意識にもあるのはそれが生命の愛というものだからだと思う。
自分への愛と自分以外全てへの愛、それは必要だからある。
自分を罰すること、自分を苦しめる未来を自分が作り、その未来へ向けて生きること。
これを望まないというのなら、自分が生み出している罪の行いをやめたらいいだけだ。
肉食を断つことがとても難しいことだと思っている人たちは多い。
しかしそれはやってみないとわからない。
やってみないうちから思っているのはただの思い込みだ。
それはただの作られた観念で、事実ではない。
だからこの世のほとんどの人は夢遊病者らしい。
「作られた観念で見ている世界」に住み、「作りたい観念で見ている世界」には住んでいない人間たち。
ふわふわと流されるように自分で作り上げた見たくない観念世界に生きている人間たち。
夢から覚めないまま幸福を探して見つけても、それは実感に貧しいだろう。
だから次から次へと次の欲望が生まれる。
本当の幸福の中に生きていないから、人は様々な欲望に支配されてしまう。
それが本当に苦しくなったとき、人は気づくことができる。
「他者への奉仕に生きること、自分が苦しめている者を救うこと」が自分の本当の幸福であるのだと。
そこに気づくことができればまず生き方が変わる、心が変わり観念が変わる、意識が変わる、そして自分の周りが変化してくる。
1人の力で人は世界を変えることができる。
たった一人の力がどれほど大きな力であるか、人々は信じようとしない。
でもたった一人でも変化すれば、それが地球全体の大きな変化に繋がる。
自分はこの悲劇で溢れたこの世界に生きることがもう本当に苦しくて仕方がなかったので、やっと長年罪悪感を持ちながら続けてきた肉食をやめることができた。
それは本当にものすごく大きな変化だった。
それはいわば昏睡状態にあった自分の意識が初めて智恵の実を授かることができたような感覚であった。
今はじめて自分は生きたのだ、という感覚だった。
それまで自分は死にきっていたように感じた。
まるで自分の愛する家族を自分が苦しめて殺し食べ続けてきたような感覚で今もいる。
だから後悔はそれは凄まじいものだった。
「愛する家族を苦しめて殺し食べ続けるということ」というこの人間の最も悲しい悲劇を自分は伝えていく使命にあるように思う。
自分の中でたくさんの葛藤はある。どのような伝え方が良いのかという葛藤だ。
ただ情報が必要だ。
自分もスピリチュアルな考えを記した本の内容と場のビデオという情報源がなければ、肉食を断つことはできていなかったと思う。
自分は今でもずっと苦しみの中を生きている。
でも苦しいからこそ他者の苦しみの叫びを敏感に察知し、それを伝えていくことができると思っている。
生き方の変化というのは、目に見えるものだけではない。
目には見えない深いところで、大きな変化が起きていることがある。
私はそれほどの目に見える変化は起きていないのかもしれない。
でも確実にこの世界から耐え切れないほどの苦しみがなくなるようにと願う気持ちの強さはとても大きくなった。
真実を知ることがとても大事だった。
この世界でどのようなことが行われているか。
人々はその全てを知る権利があるし、知る必要性もあると思っている。
どこで誰が苦しめられ、どこで誰が愛されているのか。
どれほどの苦しみとどれほどの慈しみがあるのか。
知りたいと願う気持ちが大切なんだと思った。
それらに「無関心」でいることは、実は人間のとても深い苦しみにあると思う。
そして知ることを恐れているのも苦しみだ。
知るのを恐れるのは罪悪感を感じるから。
他者があれほど苦しんでいるのに何故自分は楽に生きていられるのか、という罪悪感が苦しいために、知るのを恐れ、それに無関心でいようとする。
他者の苦しみを知ることが苦しいのはそれが自分の苦しみになることの恐れではなく、その苦しみをどうにもできないと思い込んでいることから起きる。
知っても自分の相手への愛が足りないので相手をどうにかするために自分を変化させられないことの苦しみを感じることを恐れる。
実は「無関心」というものの中には「無関心でいざるを得ない愛」というものがある。
人々は無関心を装い、自分の中に浅い愛しかないと自分に対して罪悪感を感じているのではないだろうか。
自分自身、実はこの何週間と、ニュースを見るのが怖い。
見ると、その悲劇だらけの世界を目の当たりにしてただただ落ち込んでしまうからだ。
と同時に、他者の苦しみを知ろうとしない自分に対して罪悪感を感じる。
これは「無関心」というものではなく、愛したいと願うあまり自分の至らなさに痛感する苦しみに向き合うことのできないほど自分が苦しみ疲れきっている状態であるのかもしれない。
私はこのような状態が多くの人の中にあるように感じる。
皆、疲れきって、傷つき果てている。
まず自分を癒すことが必要だ。
自分を赦すこと。
今の自分を受け入れ、ありのままの自分を認めること。
今の自分が良いか悪いかで判断せず、ただ今苦しみ疲れきっている自分の存在があるということを受け入れる。
そして何を自分が望んで、何を望まないかを考えるより感覚で感じ取ろうとする。
正解も不正解も存在しない世界で何を自分は選びたいのか。
一体自分が何を一番に望んでいるか、自分とこれからも何万年何億年と向き合って生きたい。
つうか、無限に、永遠にすべてが生きていくのです。
尊い平和紡ぐ…兄被爆、長男9・11で犠牲
戦争、テロのない世界…米国人へ訴え
米軍が広島に投下した原爆で当時12歳の兄を失い、2001年9月の米同時多発テロで長男(当時35歳)が犠牲になった伊東次男(つぎお)さん(81)=広島市安芸区=は6日の平和記念式典に参列し、兄を追悼し、長男に思いをはせた。いずれも米国が絡んだ戦争やテロで2人を失った伊東さんは、7年前から米国人にも被爆証言をし、平和の尊さを訴えている。「憎しみではなく、許す心を持たなければ」。つらい過去を抱えるからこそ「核もテロもない世界」を願う。
オバマ米大統領が広島を訪問した今年5月27日、伊東さんは原爆慰霊碑前であった式典に招待された。兄と長男の遺影をかばんにしのばせ出席し、「兄貴、米国のトップが来て献花してくれたよ」と心の中で語りかけた。
1945年8月6日午前8時15分。伊東さんは爆心から約12キロ離れた学校にいて大きなけがはなかった。兄宏さんは爆心地に近い旧制広島一中(現県立広島国泰寺高校)で被爆した。直後は軽傷だったが、自宅にたどり着き「『助けてくれ』と叫ぶ友人を見殺しにしてしまった」と話して倒れこんだ。約1週間後、髪がごっそり抜け、次第に容体が悪化。「水を」と求める兄に、母は涙を流しながら脱脂綿で口元を湿らした。兄は「次男、お父さんとお母さんを頼むよ」と言って9月1日に亡くなった。「米国め、こんちくしょう」。伊東さんは子供心に強い憎しみを覚えた。
2001年9月11日。銀行員だった長男和重さんが働く米ニューヨークの世界貿易センタービルに飛行機が突っ込み、ビルは崩壊した。写真を片手に、夫婦で病院を探し回った。翌年にニューヨーク州の裁判所から死亡宣告を受けたが、遺体はまだ見つからない。
悲しみと憎しみを抱えていたが、04年に地元の小学生に被爆体験を講演する際、「自分自身の心に憎しみを抱えながら、平和を語っていいのか」と気づいた。
その後、米国で知り合った現地の日米交流団体からの依頼をきっかけに09年以降、米国から広島を訪れる教師や学生らに家族を失ったつらさとともに、相手を許す心の大切さを伝えてきた。
「米国との接点ができた自分だからこそ、できることがある。日米の役に立つことが、2人の供養にもなる」。深い悲しみは決して消えることはないが、そう確信している。
憎しみによって平和を築いていくことはできない。と伊藤さんは気づいたんやろな。
憎しみとはどのようなものであっても利己的なものだから。
利己的なものから全ての争いは生まれる。
だから仏教も聖書も憎しみを捨て去り、赦すことの大事さを教えた。
「赦すこと」とは、人間の行う悪を肯定することではなく、悪を行い続ける人の身に自分がなって考えていくことだと思う。
「加害者」と「被害者」とあるなら、自分自身がその「加害者」の身になって考えていくことが大事なんだと思う。
何故、人は悪を行い続けていかなくてはならないのか。
悪とは「他者を利己的な行いによって苦しめる」ということ。
多くの人は誰かに憎しみを感じることが何度もあるだろう。
しかし自分を振り返ってみれば、自分も誰かにとっての悪を行っていることに気づく。
自分は30歳まで家畜の肉を食べ続けてきたけれども、人間がどんなに生きるのに必要だから食べると言っても家畜たちからしたらそれは「他者から与え続けられる苦しみ」以外のなにものでもなく、家畜たちは人間たちから延々と悪を行われていることになる。
しかし自分も含めて、人は誰かを憎むことはするが、自分自身の行っている悪にはなかなか目を向けようとしない。
だから「憎しみ」というのはそれが「利己的」なものであることがわかる。
誰一人、どの生物をも苦しめない、その悪を行わない人は世界で一人もいない。
だから他者の罪を憎んだり、裁いたり、非難するよりも、罪というものが自分の中にも存在していることに目を向けて、他者を赦しなさいということなんだ。
憎しみを持った瞬間から平和は遠ざかっていく。
自分の中にひとかけらでも憎しみが存在しているなら、その発言は人を切り裂く「剣」となってしまう。
そしてその「剣」はやがて自分の身を切り裂こうと降りかかってくるだろう。
どんなにこの世界から苦しみを減らし、良くしたいという思いがあっても、その思いの中に「憎しみ」が隠れていれば、それは連鎖して自分の無くしたい苦しみへと繋がってしまうだろう。
「憎しみ」を捨て去るには、自分の中の「正義」に疑いを持つのがいい。
そしてその「正義」が利己的なものでないかどうかを考え続けていくことが必要になる。
果たして微塵も「利己的さ」はないと言い切れる人間はいるだろうか。
もしいたら、その思想は何より危険である。
「利己的さ」のない人間はこの世に存在し得るのだろうか。
「憎しみ」を捨て去るに一番いいのは自分の中にも同じく「利己的」なものがあることを認めることだ。
象牙を取るのに象を殺していることは前から知っていましたが
象の顔が原形をとどめていないほどぐちゃぐちゃにされたまま野に捨てられている写真を見て
また下の写真を見て麻酔銃から目を覚ましたときの凄まじい痛みに苦しみながら顔を失った象がひとりで死んでいくのを想像して言いようのない悲しみに包まれました。
「牙を切るのではなく、
麻酔銃で麻痺させてから、鼻の根本からえぐり獲るのです。」
http://ameblo.jp/ojyo2010/entry-11589723034.html
「象牙自体を輸入して、さらに象牙細工までを輸入しているのは残念ながら日本だけである。」
http://amour918.blog.fc2.com/blog-entry-1373.html
食肉、毛皮、皮革、犬猫の殺処分、動物実験、象牙や漢方薬「熊の胆」など動物を拷問して生産する商品、競馬、ウール、フェザー、アンゴラ、ダウン。
ほとんどの人間が動物に拷問のような苦しみを与えることに関わっています。
私は思う。
数え切れない膨大な動物たちの苦しみは人間たちにどのように返ってくるのだろうかと。
どうやって?ひとりひとりがどのような方法で返していけるのだろうか。
西洋医薬で痛みを和らげ、病気を治すことはできても、その薬を作り出すのにどれだけの動物たちが実験による拷問の苦しみを受けているだろう。
彼らに苦しみを与え続けることは果たして人間が苦しむ病気に関係していないと言えるだろうか。
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。
(マタイによる福音書 7章12節
とイエスは言ったが、これは人だけに限ることではないだろう。
何故なら多くの人間が動物を苦しめることにも同じく罪悪感を持つからだ。
罪を感じるということは、罪は罰されるものであるという感覚を同時に感じるということである。
罪悪感を持つこと自体が、自分はいつか罰されるだろう、というある危機感を常に持っていることと言えると思う。
人間の理性というものは動物的な本能と同じものであると私は思っている。
それは生物が生きるうえで必要不可欠な性質と言える。
理性が備わっていないのなら、生物は滅びの道を辿るしかない。
理性に背き種の好き勝手に生きた結果、やがて生態系は壊れその種も滅びます。
イエスの教えは宗教的なものでもなんでもなく、ただ生物がこの地上に生き続けるのに必要な教えばかりだった。
争いや、人が人を裁くのをやめ、人を赦し、どんな他者をも兄弟のように愛しなさいと教えた。
それをしなければ、人間はいずれ滅ぶということを知っていたからである。
イエスの教えに背き続ける多くの人間たちによって今まさに人間は滅びへと向かっているようだ。
「してもらいたいことをしなさい」という教えは、したことが自分に返ってくるからだ。
どのように返ってくるかはわからない。
しかしそれは必ず返ってくるだろう。
それが生物が滅びきる前に気づくことのできる生が滅びないための生の律法である限り。
「私が好きな人は、別に私のことを好きじゃなくていい」
そういう人に私はなりたい。
いつかなれるだろう。なりたいなら。
全員を悲しませても生き抜きたい人生がある。
彼女は美しい。
どんなに彼女のTweet欄に頻繁にグロ画像やグロ動画や脱糞画像が埋め込まれようと
彼女のTweet欄に貼られた瞬間に美しくなる。
そこには深い人間愛がある。
人間を深く愛さなければ死体や人の死にざまや排泄物などにあれほど興味を持たないだろう。
倒錯した愛はなんと悲しいのだろう。
手に入らないものだとわかっているから人はそれを求める。
手に入れたいなら手に入るよ。
でも手に入れた瞬間もう欲しいものじゃなくなるからやっぱり手に入らない。
それは手に入れたんじゃなくって、消えたんだよ、欲しいものが。
僕は好きなものを消したくはないからこのままでいい。
どうして僕の手に触れた瞬間すべてが汚れていくように感じるのだろう。
例えば💩を触った手で何かを触ったらやっぱり触ったものも汚れるよな。
僕は💩を触ってしまったのか?
いつ、どこで、触れてしまったのだろう。
僕は、💩を探す旅に出た。
僕がいつの日か触れた💩が今もどこかに必ず、在る。
僕を呼んでいる、遠くから、呼んでいる声が聞こえる。
「おーい、此処だよ、さあ、おいで」
「見つけたぞ!」
「何を?」
「💩」
「夜の叢に当てた懐中電灯の光の中さァ」
こんなところにいたのか。
そうつぶやいて僕はそれを抱いて家に帰った。
それは確かに、汚い、汚れたものだ。
流したほうがいいよね、流せるのなら。
でも、流せない、流れないよ。
それはずっと僕を探していたんだ。
寂しく凍える声で僕を呼び続けていた。
やっと見つけることができたのだから、流すことなんて、できないよ。
ずっと一緒にいるよ。
だってこれは僕を必要としているんだから。
僕だって、必要だったんだ、必要なんだ。
かけがえのないものなんだ。
僕に向かって、それは微笑んだ。
私は日本語をしっかりと話せないのかっ。
理想のプロ―ポーズというと、私はなんといってもアレですね。
あのアニメの中のプロポーズです。
「妄想代理人」っていう今敏監督のシリアスなアニメの第三話のあのプロポーズが
私は大好きで、いいな、すごくいいプロポーズだなと思うんです。
でもまたこのプロポーズする男性がそれを狙ってたらダメなんですよね。
ごく自然に、本人が本当にふっと思いついてプロポーズするというような
狙って出せるプロポーズじゃないんですよね。
真剣に好きなあまりに「お茶、淹れてもらえませんか」と同じ調子で言ってしまった。
みたいなプロポーズなんです。
ただかなりシリアスなアニメなので、ちょっと何度も観る気になれないという
あそこだけ観てもしょうがないし、観るなら全編通して観なくちゃダメだし
ダメだので、勇気が要ります。
このアニメはほんと、シリアス過ぎるんだよな……好きなアニメなんですけれども。
でもこのアニメはこの世の真理が隠されているようなアニメで、それだけにとても深いアニメなのです。
疲れた現代社会を癒す人気マスコットキャラクター「マロミ」をデザインした鷺月子は、ある夜、通り魔少年バットに襲われた。突如世間に現れた少年バットは次々と人々を襲いはじめ、市井の人々を恐怖へと陥れていく。しかし、幾人も被害者が出、多くの目撃者がいるにもかかわらず、少年バットは一向に捕まりそうになかった。
少年バット事件を担当する刑事の猪狩慶一と馬庭光弘は、捜査を進める中で、被害者の持つ『不思議な共通項』に辿り着く。
というストーリーで一見少年犯罪のアニメかと思われるかもしれませんがまったくかけ離れたテーマなんです。
不思議でぞわぞわと来るある意味犯罪とかの何百倍もの怖い話です。
人間の価値観、概念などをぶっ壊すようなテーマと言えます。
そうゆうものをお求めの方は是非ご覧になったほうがいい。すごく面白いアニメです。
しかも音楽は平沢進です。
でもそのプロポーズだけが気になって仕方ないという方はこの第三話の
【妄想代理人】【第3話】『ダブルリップ』
これだけ観てみてください。(セックスシーンの音声から始まるので音量には気を付けてください汗汗汗)
人間の闇、そんなものを覗きたい人もこのアニメは面白いと思います。
なんかちょっと笑ゥせぇるすまんっぽい言い方な気がしたけど
笑ゥせぇるすまんも怖い漫画だよなぁ…
人間の闇を描いた漫画……「惡の華」って漫画も途中まで読んでたけれども、一体どういう終わり方をしたんだろう。
そういえば楳図かずおの「洗礼」って漫画も最後まで読めてない。
望月峯太郎の「ドラゴンヘッド」は昔に読んでものすごく面白かったですね。
こういうテーマの小説は一度は書いてみたい。
極限状況で人がどう化けるか、というのはよくテーマにされているけれども
化け方というのも一人一人違う化け方なんじゃないかと思うし、それを想像だけで作り上げていく作業というのは
非常に難しくて面白いと思います。
「人間の闇を描いた漫画、鬱になる漫画」で調べてましたが
私の一番好きな華倫変(かりんぺん)の漫画を挙げている人が一人もいなかった。
あんな漫画を描ける人はもう現れないんじゃないか。
華倫変という人は、まさに極限状況で描き続けた稀有な鬼才の漫画家でした。
人間のどうしようもない闇を描いているのにあんなに切ない気持ちになる漫画は他にありません。
あんなに美しい切なさのある漫画は他にないなぁ……
なぜ美しいかというと、ものすごく深い悲しみで描かれているからです。
なぜ深い悲しみは美しいのかというと、悲しみで普遍的で代表的なものというと、
愛する者を失うこともあると思いますが、愛されないことの悲しみだと思うんです。
これは自分含めての。
自分が自分に愛されないことの悲しみ。
なぜ悲しいかというと、愛されたいと人間は願っているからです。
愛されたいのに愛されていないことの悲しみ。
愛されたいと望むこと、愛を求めること自体が私は愛だと思っています。
なんでその悲しみ(愛)は美しいかというと、愛というものを美しいと人間は感じる本能があるからだと思うんです。
その愛が深いほど美しいと感じるように人間は創られている。
マザー・テレサは「この世で一番大きな苦しみは、一人ぼっちで、誰からも必要とされず、愛されていない人々の苦しみです」と言いましたが、大きな苦しみは大きな悲しみと言い換えていいと思います。
これは実際そういう人のことではなく、そうだと自分で感じている人という意味だそうです。
「誰からも自分は愛されていないように思う」その「誰からも」というところに自分も入っているわけです。
それが苦しいほど、その人は愛を求めていることになります。
愛を求めることは愛であるので、その人、その存在自体が愛です。
自分が憎い、自分が嫌い、だと感じている人もそれは苦しいことですから、その苦しみ自体が愛であることの証なのです。
深い自己憎悪、自己嫌悪から様々な問題や犯罪は起こりますが、それも愛の仕業なのです。
「愛が人を殺す」「Kill A People Love」をGoogle翻訳すると「人々が愛して殺す」と出ました。
愛はこの世で一番苦しく悲しいものであり、一番美しいものなのです。