あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

Sad Satan

2019-06-20 01:48:25 | 物語(小説)
彼女と別れて、4年半が過ぎた頃のことだった。
同僚の送別会のあと、ウェイターの男はタクシーを呼んだ。
酷くお酒を飲みすぎてしまったからである。
皆、帰ったあとの薄暗いカフェにはウェイターの男の姿だけが窓から見える。
ソファーの席に深く腰を沈めて目を瞑ってタクシーを待っている。
時間は午前の二時半になろうとしている。
車が店の前に止まる音が聞こえ、ウェイターの男は店の灯りを消して店を出て、鍵を閉めるとタクシーに乗り込んだ。
タクシーの運転手にマンションの場所を教える。
すると少しの変な沈黙が過ぎた。
だがそのあと車は何事もなく発車した。
ウェイターの男は安心して重い瞼をまた閉じた。
いつから雨が降りだしてきたのだろう。
嗚呼さっきも、店を出たとき既に雨は降っていた。
静かに、あまりに静かに降っていたから気づかなかったのかも知れない。
夢と現を、まるで行ったり来たりすると同時に、タクシーはカフェとウェイターの男の住むマンションの間の道を、行きつ戻りつしているかのように感じる。
うとうとと、心地の良い微睡みのなか、雨の音が聴こえ、その透明な闇の空間の底から響いてくるように、運転手の男の声が、ウェイターの男に向かって話し掛ける。




そうか...。
一度、会ってみたいと、想っていたのだよ。
いや...話し半分に聴いて貰って構わない。
俺も今夜は、大分疲れている。
だけれども今夜、逃してしまったなら、もう話す機会を二度と失うかもしれない。
あんたも、それは惜しくてならないはずだろう。
良かったら、遠回りさせてくれないか。




ウェイターの男は、運転手の低く落ち着いた声に目を閉じたまま応えた。
「気にせず、走り続けてください。何処でもいいですから。」




運転手の男は微かに笑うとこう答えた。
「悪いね。いや、代金は要らないよ。今夜のドライヴに付き合ってくれるならね。」




優しく、地面を撫でるように這う声で運転手の男は穏やかに話し始める。




俺は...あんたにずっと会いたいと想っていたよ。
この話をできるのは、あんた以外にはいない。
俺のなかだけに置いておくのは、あまりに荷が重い。
彼女も...きっとそれを望んでいることだろう。
あんたが知るべきことだとも、想ったんだ。
全く快い話ではないと想うが、良かったら最後まで聴いてくれ。
今から四年半ほど前、俺は彼女と出会った。




運転手の男は鮮やかに、その時の記憶を想い起こす。




今日一日の仕事を無事に終え、ホースを手にして蛇口を閉め、ビニール手袋とマスクを棄てて額の汗を首にかけているタオルで拭って一息吐いた瞬間だった。
突然、電話が鳴り響き、男は作業服とウレタンの白い前掛け姿で受話器を取った。
電話口から、少女のような声が聴こえた。
声が小さく、男は何度も聞き返す。
するとようやく、相手が何を言っているかわかった。
「きみに話したいことがあるんだ。」
まるで付き合っていた女に別れ話を切り出す男の口調のようにその声は冷たくぎこちなかった。
男は素性のわからぬ怪しい相手に対し、冷静に応えた。
「一体、どういった話しかな?悪いが俺はこの工場の責任者でも主任でもなんでもない下っ端の人間だよ。ただ後片付けと戸締りの責任を任されているだけだ。此処の遣り方について言いたいことがあるなら明日の早朝にかけてきてもらえるかな。」
少しの沈黙のあと、相手はこう言った。
「憶えてない?前に此処で、きみに会ったことがある。」
男は記憶のなかを探り、女の姿を見つけようとした。
だが見つからなかった。
「憶えてないね。それはいつの話だろう?」
幼い声と口調で、相手は言った。
「三ヶ月前くらい。」
「嗚呼...もしかして、あの晩の、工場の側に立って、こちらをずっと監視するように見ていた人間かな。あの夜はコンタクトレンズを落としてなくしてしまったんだ。女性であるとは想ったが、顔はぼやけていて俺には見えなかったよ。」
はっきりと相手は答えた。
「それがぼくだよ。きみを見ていたんだ。」
男はこの返事に訝しく感じた。
返答を考えていると相手は男を誘うように言った。
「もし会って話をしてくれるなら、お金を払うよ。それ以外でも、できるものを払うよ。」
男はこれを聞いて何かの調査員か、それとも工作員だろうかと想った。
確かめるように男は訪ねた。
「それは、俺じゃないと駄目なのかい。」
すると相手は、男の望む返答をした。
「きみと会いたいんだ。」
男は不安と興味の交じり合うなか応えた。
「わかったよ。では俺の言うカフェに、明日の午後一時に、来てもらえるかな。」




あの日も、そう言えばこんな雨が降っていたな。
運転手の男は右の窓に当たって落ち続ける雨を遠い目で見つめながら言った。
その約束の当日、驚いたことに彼女は一時間近く遅れて遣ってきた。
でももっと驚いたのは、待たされることが我慢ならない俺がじっと耐えてその場で静かに待っていたことだよ。
俺はそのとき何を考えていたのだろう。
そのときの俺が何を待っていたのか、俺はわからない。
ただカフェの窓から外を眺めていて、行き交う人間たちのあまりにも空虚な存在に泣きたい想いで待っていたよ。
彼女ももしそんな人間の一人だったなら、今ごろ俺はどうしていたのだろう。
運転手の男は窓に映った自分の目のなかのその暗闇に彼女の面影を探すように見つめながら話を続けた。




約束の時間から一時間と少し過ぎた頃、男の向かいの席に、女は静かに座った。
男を激しく諫めながら、同時に請い願うような目で、女は見つめた。
その凝視のあと、女は漸く謝罪した。
「遅れてしまってごめんなさい。実は場所を間違えて迷ってしまったんだ。」
男はこの言葉にとてつもない安堵を覚えた。
目の前の女が、全く嘘を言っているようには想えなかったからだ。
男は黙って、半ば放心したように女の顔を眺めている。
女は丸い黒縁眼鏡をかけ、前髪を短くした黒いショートボブの髪型に腰が細くコルセット状になった鎖骨が露になる黒のワンピースを着ていた。
童顔で額と顎が小さく、丸々とした目が愛らしく、年は40歳を越えているようにも見えた。
男の目には非常に疲れ切っているように感じた。
でも何より目を引いたのは、その折れそうな華奢な少年のような体型だった。
男はその身体を遠目に眺めて、想わず目を伏せた。
何か観てはならないものを観てしまったように感じた。
それは味わったことのない感覚だった。
彼女の身体を凝視し続けると何かが確実に破綻してゆくように想え、男は荒くなる呼吸を宥めるため目の前のカップに手を伸ばし黒い珈琲を飲もうとした時だった。
女の細い骨ばった白い右の手の指が、男の左手の甲の上に触れた。
男は慌てて、咄嗟に手を引き、女を見た。
女は濡れた情熱的な眼差しで男に向かって言った。
「会ってくれて本当に嬉しいよ。」
男は生唾を飲み込み、右手で珈琲のカップを掴むと一気に飲んだ。
動揺を隠せなかったが、男は落ち着き払った様子を必死に装い、女に訪ねた。
「一体、この俺に、どのような要件があるのかな。一先ず、安心させて貰える言葉は貰えないだろうか。」
男はそう言うと女の浮き出た鎖骨を一瞥し、またぞろ目をテーブルの上に伏せた。
女は眉間を寄せ、浮浪者のように伸びたウェーブの掛かった男の抜けた髪が一本その首もとに汗で張り付いているのを見つめながら言った。
「単刀直入に言いたいところなのだけれども...少し此処では話しにくいかな。良かったら、お酒の飲める場所に移動しない?」
男は顎の無精髭を右の親指で擦りながら女を見て言った。
「それは構わないが...まだ時間が早すぎやしないかい。もう少し日が落ちるまで、何処か別の場所で話すのはどうだろう。」
すると女は無邪気に微笑み、こくんと頷いた。
「うん。そうしよう。この近くにさ、大きな川があるよね。ちょっと行ってみたいから其処に行かない?」
馴れ馴れしく子供のように話す女に男は緊張が解れ、自然と微笑み返して答えた。
「ああ、あの河川敷にちょうど良い高架下の場所がある。其処なら雨を凌ぎながら川を眺めて話せるよ。其処に行こうか。」




そう、あの日、俺は車で来ていたのだがね、車をカフェの駐車場に起きっぱなしにして彼女の赤い傘を差して高架下の場所まで身を寄せ合うようにして歩いた。
人間の温もりを、俺はとても複雑な感覚で感じていたよ。
俺はそれは想い出したくもないものだったんだ。
でも、あの日、俺は知ってしまったんだ。
俺が最も求めているものは、俺を最も苦しめるものであるということにね。




高架下に着いても、女は赤い傘を差したまま、男に身を寄せて立って動かなかった。
男は女から離れずに言った。
「まだ雨が心配かい?」
すると女は、開いたままの傘を淀んだ川に向かって投げて言った。
「もう赤い傘は差さないよ。」
男は女の奇行に困ったように笑うことしかできなかった。
やはり俺に興味を持つ女は、普通ではないんだな。男はそう想うと胸を痛めた。
しかし男は、冗談に冗談を返すようにその傘を拾いに川のなかに足をつけようとした。
その瞬間、女が本気になって男を止めたので男はまた笑った。
男は慈悲深く微笑んで女を見つめ返しながら言った。
「物は大切にしなくてはならないよ。」
女は何も言わず、男の目をまた最初に見せた責め苛むような目と、怒りと悲しみと、懇願するような目で見つめた。
そして信じがたくも、男の求めていた言葉を女は放った。
「今夜、一緒に、モーテルで一晩泊まってくれない?」
男はこの言葉に、深く絶望しながらこう答えた。
「良いけれども、俺は何もしないよ。俺は無性愛者だからね。」
沈黙のあと女が囁くように放った。
「アセクシャル...?本当に?」
男は吐き気に口を右手で覆ったあと言った。
「ああ、本当だとも。俺は今まで何にも性的な欲情を感じたことがない。」
それを聴いて、女は激しい悲憤に堪えているかのように見えた。
男は女を慰むように言った。
「でもそれでも良いなら、一夜を共にすることは可能だよ。」




彼女は、酷く悔しそうだったが、それでも良いと言ってくれた。
そのあと、彼女は俺以上に触れることを恐れているように見えた。
そのあと、barに行くのはやめて、酒とつまみを買ってモーテルに行って、ラジオで流れていたブルース音楽を聴きながら一緒に飲み交わし、酔い潰れたあとは彼女は、俺に父親のように腕枕をして一緒に眠ってほしいと言った。
俺はそれに応え、それ以上は何事もなく朝が来た。




俺と彼女は、その後約半年間、ただ安いモーテルで週に二度、彼女の要望で添い寝するだけの関係を続けた。
俺はどんどん、彼女に会う度に彼女への愛着は増し、彼女を人間として愛おしく感じるようになって行った。
そして何となく、これはもしかしたら性的な欲情というものかもしれないと感じる感覚をうっすらと感じるようになってきた頃、或る晩、俺と彼女のそれまでの平穏な関係は終わったんだ。




或る夜、モーテルで酔いが回り、女は突然男にこう言った。
「一緒にお風呂に入らない?」
男は青ざめ、首を横に振り、目を瞑って答えた。
「それだけは、絶対にできないよ。」
女は寂しげにベッドに横になると男を呼んだ。
「さあおいで。可愛い坊や。」
男はソファーに座りながら目をぱちぱちと瞬かせて何かを考えているようだった。




あんたも同じ誘い文句で誘われたのかなんて...俺は訊かないけれども...もし彼女が同じように男を誘ってきたのなら、それは実に微笑ましいことだよ。
彼女はただ子供が欲しいのだろうかと、一瞬、馬鹿な俺は想ったよ。
だが俺の当時の職業を考えると、それは有り得ないと感じた。
子供のことを考えるなら、それは到底考えられない。
俺の当時の職業は、人間の潜在意識のなかで常に差別され続けて忌み嫌われてきたものだからね。
何故、よりによって、父親の遺伝子に、俺を選ぶ必要があるだろう。
彼女は、何故よりにもよって、この身体に死が染み付いた俺を選んだのだろうと、その時は疑問でならなかったよ。




男はその夜、酒の勢いも借りて、素直にベッドに横になって自分を誘っている女にずっと気になっていたことを訪ねた。
「何故、俺なんだ?俺が遣っている仕事がどんなことか、君は知ってるよね?」
女は両手を重ねて右耳の下に敷くと目を閉じた。
「きみをずっと監視してた。」
男は目を剥いた。
「なんだって?」
「ごめんなさい。君が後片付けの役を任されてから、隙だらけだったから。」
男は興奮して言った。
「いや、言っている意味が全くわからない。もっとわかるように説明してくれないか。」
女は上半身を起こすと右の人差し指を上に向けて曲げ、挑発するように男を誘う動作をした。
男は深く溜め息を吐き、折れてベッドに横になり至近距離で見つめ合う形で呼吸をあらげながら再度落ち着いて訪ねた。
「それはつまり...俺が後片付けをしている最中に監視カメラを設置して俺を監視していたということかい?」
彼女は意味深げな笑みを浮かべ、言葉を濁すように言った。
「きみだけを観ていたわけではないよ。」
男は鼻息を荒くするなか訊いた。
「では俺以外に、何を観ていたんだ?」
彼女はゆっくりと瞬きをしたあと、こう答えた。
「ぼくの家族たちをだよ。」




その瞬間、俺は崩壊してゆく自分自身と、俺を崩壊させてゆく彼女のたった二人の世界に死ぬまで取り残され続けることをみずからに預言したよ。
何故だかわかるかい?
俺はずっとずっと、あの日、彼女と出会った瞬間から、恐ろしい関心で彼女が俺を知りたがっていることをどこかで勘づいていたからだよ。
俺はその理由に気付いていたんだ。
でも気づかない振りを自分に対してし続け、彼女は実はただ俺と寝たいだけじゃないかって、そこにある浅はかな目的を望んでいた。
だが俺の最初の勘は、おぞましいことに当たっていた。
彼女が監視していたのは、俺が彼女の家族を殺し続けるその姿、殺害方法と、そして俺の手によって引き裂かれ、生きたまま解体されゆく彼女の家族の姿だったんだよ。
俺は確かに、彼女の家族たちを、屠ってきたんだ。




男は目の縁を赤くさせ、低く震える声で女に問い掛けた。
「なるほどね。やはり俺の勘は当たっていたのだね。それでどうしたいんだ?この俺を。自殺へ追い込みたいのかい。」
女は男と見つめ合うなか涙を流し、男の胸に抱き着いた。
そのまま、互いに震え合う肉体を重ねたまま言葉を見喪い、二人は夜が明ける前まで眠りに就いた。




夜が明ける頃、彼女は俺を起こして言ったんだ。
「ぼくの家族を殺し続けてきたきみにできる唯一の贖いは、ぼくを愛して殺すことだ。」と。
つまり、こういうことさ。人間が最も苦しむこと。人間にとっての最高の地獄とは。それは最も愛する者を、みずからの薄汚れた欲望によって殺してしまうことだ。
彼女は俺に、"最高の地獄"を味わわせるためだけに、俺の恋人と、そして家族になると言ったんだ。




俺は無論、その15年続けてきた仕事を辞めざるを得なかった。
それで今のタクシーの運転手の仕事を、彼女を養うために続けてきた。
俺が探せば普通に他の仕事も難なくできるのに、何故そんなきつい仕事をしていたか、あんたは気になっているだろう。
俺は20歳を過ぎたころ気づけば、自分が生きているようには想えなかった。
でも心臓は動いている以上は生活をして行かなくてはならない。
俺は自分に似合う仕事をしようと想った。
とにかくこの世で最低の、底辺にある仕事が俺に最も向いていると感じたんだ。
底辺の仕事と聞いて一番に想い浮かぶのは性風俗業界だ。俺は其処に足を踏み入れるくらいなら自殺した方が良いと感じた。
そしてその次に浮かんだのが、彼女の家族を次々に解体して大量殺戮してゆくと殺(屠畜)業界だ。
これなら、俺にもできそうだと感じた。
いや、寧ろこれ以外、俺はしてはならないと感じてならない確固たる強迫観念によって、俺はその仕事を15年続けて来れたんだ。
心を殺せる術を学ぶなら、牛や豚を生きたまま解体する作業も何ともないよ。
最初の数カ月は、永遠に吐き気の終わらない職業だと感じていたけれどもね。
ただ肉だけは働いた一日目から、食べることはできなくなったし、食べたいとも感じられなくなった。
そこは彼女と共通している。
俺が日々解体している存在が人間であるということを俺は知っていたからこそ、その記憶を完全に忘却してしまえたんだ。
それは、この世で最も、悍ましいことだからね。
彼女は俺に色んなことを目覚めさせてくれたよ。
どれも死ぬまで消えることのない地獄ばかりさ。
彼女は自分でサディストだと言っていたが、俺はそれを完全否定している。
どうしても、俺を傷めつける理由が彼女には在るからだよ。
それはあんたも同じだ。
あんたはどうやら、彼女にとって特別な存在で今も在り続けているようだ。
それにしても此処は何処だろう。夢中になって、随分と暗い場所まで走って来てしまった。


気づけば雨はやんでいて、男が窓を開けると涼しい初夏の風が車内に吹き入って来た。


運転手の男は一度も後ろを振り向くこともバックミラーを見ることもなかった。
男は独り言のように、疲れた声で話を続けた。


女は男を起こして見下ろし、こう言った。
「ぼくの家族を殺し続けてきたきみにできる唯一の贖いは、ぼくを愛して殺すことだ。」
男は目脂を擦ったあと女を見上げて頭のなかでその言葉の意味を反芻し続けた。
その言葉はやがて、男のなかで三つの言葉に分けられた。
『彼女の家族を殺し続けてきた俺』
『俺にできる唯一の贖い』
『彼女を愛し、そして殺すこと』
その三つの言葉を、男は数ヶ月かけて反芻するうちに、やがてその三つの言葉は自然と次の三つの言葉に変じて行った。
『俺の家族を殺し続けてきた俺』
『俺にできる唯一の贖い』
『俺の最も愛しい存在である彼女を愛し続け、そして殺すこと』
男はあてどない悲しみのなか、自分の15年間の罪の重さに亡羊となり、為す術もなく、ただ彼女を見上げて言った。
「嗚呼…わかったよ。」


精神の葛藤など、何もなかったよ。
後悔することも、なかった。後悔したところで、もう戻れないんだ。
俺は彼女の家族を22歳の時から、15年間、生きたまま解体して殺し続けてきたんだ。
彼女は俺にこう言ってるんだよ。
「お前の最も愛するわたしを生きたまま解体して殺せ。そしてその地獄の苦しみのなかにお前は独りで死んでゆけ。」
彼女は何十年と、自分の家族を食べ続けてきたことにずっと、吐き気を感じながら後悔し続けている。
俺は後悔する代わりに、彼女を殺さねばならないんだ。
それが彼女の、彼女の家族に対する愛なんだよ。
それは悪魔との契約ではなく、神との契約なんだ。
悪魔と契約していたのは、俺の方なんだよ。
俺の母親も生きていたら、俺を彼女のような目で見たのかもしれない。
悲しい悪魔を見るような目で。
俺の母親は敬虔なクリスチャンだったんだ。
彼女は”肉欲”と”肉食”を同等の重さの、殺人に相当する罪であると信じていた。
”肉”を欲すること。それが殺人に繋がり、姦淫に繋がり、殺戮という肉食に繋がるのだと。
”肉”とは、万物のなかで最も地獄に通じている。
地獄は肉を表しており、肉は地獄を表している。
それが”悪魔(Satan)”という存在であると。
彼女はまるで俺の母親の生まれ変わりかと想うほど、同じことを言うんだ。
イエスの血と肉を食べなければ、人は虚しく滅びゆくのだと。
何の価値も、そこにはないのだと。
人は死んだまま、死んでゆく。
なのに彼女は、”自分だけの死”を求めている。
そうして”殺される者”は、無事に死ねるのか。と、彼女に訊ねたことがある。


”殺さない方法”などない。と、諦めて男は生きていた。
殺さないで、赦される方法はないのだと。
女は決まってアルコールに良い心地で酔った時に必ず、窓から夜の空を眺めながら”死”について語りだした。


彼女は詩人であるから、そんなことはちっともおかしくもないのだが、俺にはその言葉の全部が、俺の罪悪感を深めるためのものに感じた。
苦しいばかりだったよ。彼女の話す言葉の殆どが俺にとって。
彼女は何より、”死”を愛していることを、俺は知っていた。
でもそれは、死を最も、彼女は受け入れられないからだよ。
彼女は愛する両親を早くに亡くしている。
そして輪廻転生というものを彼女は自分の感覚を通して信じている。
そう…彼女の言っていることは、彼女がずっと俺を責め続けていることは、決してAllegory(諷喩)ではなかったんだ。


「それが”死”なのかい。」
男はソファーに座って女の後ろ姿に問いかけた。
細い首を左に傾け、星の出ていない曇る夜空を観ながら女は答えた。
「死が死を食べ続け、死は死を選ぶ。死は死で在る為、死ではないものに気づくことができない。死は死を求めない。死は、死だからだ。」
男は湧き上がってくる肉欲のなかで続けてこう訊ねた。
「俺が、ずっと殺してきた君の家族も、死であるのかい。」
女はその場に座り込み顔を両手で覆う仕草をしたあと、みずからの両の手のひらを見つめ乾いた声で言った。
「死は死を、死に沈め続ける。」


彼女は初めてと殺(屠畜)場の映像を観た時、そこに、彼女の亡き最愛の父親の姿を見つけた。
そして彼女は覚ったんだよ。”死”の連鎖が、”地獄”の連鎖という真の此の世に存在し続ける”悪魔”の存在であるということを。


信号もないのに、男は車を止め、涙を耐えているように見えた。


静寂のあと、男は左手で口元を覆い、目頭を抑えたあと言った。


「俺はまだ…彼女の裸をまともに観たことがないんだ。何故かと言うとね…。俺が生きたまま解体してきた、その姿の、直前の姿に見えてしまうからなんだ。恐ろしくて、見ることができないんだ。その後の工程を…俺は忘れることができないんだよ。」

















一話完結的連続小説「ウェイターの男シリーズ」

ミルク先生とシスル

2019-06-09 17:35:22 | 物語(小説)
『わたしは以前、数ヵ月間だけ、シスルという生き物を飼っていたことがある。』

教室の窓から、肌寒い春の風がシスルの真っ直ぐな少し伸びた前髪を揺らし、ミルク先生は静かに目を瞑る。
シスルは今日も、大好きなミルク先生に自作の詩を放課後に読み聴かせている。
最後まで読み終わると、シスルはミルク先生の目をじっと見つめて静かに立っている。
そして彼は彼女に向かって言った。
「先生、終わったよ。」
すると彼女は目を開けて唸った。
「う~ん、今日の詩も難解だ。でもシスルという名前が出てきたのは初めてだね。」
ミルク先生はそう少しいつものように困った顔で薄く笑って言った。
十四歳の彼は、この時四十四歳の彼女に向かってこう答えた。
「これ、先生の為に書いた詩なんです。」
彼女はほんの一瞬、悲しげな表情をしたあと、こう返した。
「ということは..."わたし"という人物は、先生のこと?」
シスルは、いつものはにかむような笑顔のあと、こくりと大きく頷いた。
だがその瞬間、先生の顔が密やかに強張ると同時に彼は窓の向こうに目を逸らした。
そこには、退屈な春の午後の風景が広がっていた。
はなだ色の空の下で、鴉が鳴いていた。
彼の目に、ほんの少しでも見張る何かは、そこには、なかった。
何一つ、彼は見ようとして窓の外を見たのではなかった。
ただ一つのものを、彼は見たくなかった。
先生は、黙って彼の右の横顔を眺めている。
まだ充分にあどけない、丸みを帯びたその額や鼻先や唇と顎の形を眺め、それに全く相反する大人びた眼差しと長くて黒い睫毛、凛々しく伸びた濃い眉尻、色白の頬に、小さく無数のピンク色のニキビたちを。
彼女は時が止まったように眺めている。
ふと、彼は彼女に向き直って言った。
誰もいない教室で、シスルは西日を背にし、逆光に影を床に落としながらこう言った。
「今度の連休、ぼく先生と一緒にディズニーランドへ行きたい。」
先生はまた困った笑顔で少し笑うと、「許してもらえるかしら。」と答えた。
シスルは寂しそうに笑う演技をした。
「大丈夫ですよ。あの人は、ぼくにも先生にも無関心だから。」
この言葉に、先生は笑ってくれなかった。
その代わり、深刻な顔でいつもの言葉を返す。
「実の父親を"あの人"と呼ぶのはやめないと。」
シスルは軽く吐き捨てるように言う。
「だってあの人のこと、ぼく何も知らないんです。」
先生は、初めて彼に会った日のことを想いだしていた。
冬休み前に珍しく、雪が降った日だった。
彼女は一人、誰もいない校長室で待たされた。
休み明けからこの学校の自分の担任のクラスに転入してくる転校生と、その父親が今日の午後の六時過ぎに、此処に挨拶に来るから待っているようにと言われたのだった。
電気ストーブの点いた校長室のソファーに座って、彼女は教育関連の本を読んで待った。
もう午後六時を、とっくに過ぎて六時半を回るとき、突然この部屋のドアを、誰かがノックした。
ゆっくりと、音もなくドアが開き、そしてそこから一人の大人しそうな少年がまるで震えるように立っていたのだった。
少年は明らかに、この対面に心底恐怖しているように見えた。
彼女は言伝てに聞いていた"自閉症の疑いのある生徒"という言葉を今想いだした。
彼女は少年に正面から見つめられた瞬間、自分の胸も締め付けられたまま硬直してしまったように苦しくなった。
少年はその潤んで大きく開いた両の目で、すべてを彼女に向かって訴えているように想えた。
彼女は圧倒されて少しのあいだ言葉を見失ってしまったが、役柄上このままいつまでも黙って此処に座り込んだままでいるわけには行かなかった。
彼女は唾をごくんと飲み込み、枯れたような声でこう少年に向かって言うと同時にソファーから立ち上がり御辞儀をした。
「はじめまして。わたしはあなたの担任となるエニシダミルクという者です。今日は転校前に挨拶に来てくださってどうもありがとう。どんな子が来るのか、とてもドキドキしていました。」
少年は顔を赤らめ、まだ同じ場所に緊張して突っ立っていたが、その顔は先程までとは違う喜びの表情が窺えた。
彼女は一先ず安心し、彼に少し近付くとこう続けた。
「今日は...御父様も御一緒になられると聞いたのですが...まだ来られてないですか?」
すると少年は別人のように落ち着いた表情でこう答えたのだった。
「はい。あの人、凄くいい加減な人ですから。今日も来ないかも知れません。」
彼女は冷や汗をかきながら早くもこの少年のミステリアスの深い二面性に畏れをなした。
またも口ごもってしまった彼女に、彼は低い声変わりした声で深刻な表情をして言った。
「貴女がぼくの担任で、ぼくは本当に嬉しいです。」
そんな言葉を言われたのは、彼女は初めてだった。
もう十五年、この教師の仕事を続けてきたが、彼女は特別に誰かから喜ばれることはなかったと感じてきた。
しかも初対面のこの数分間で、彼は彼女の何を知ったのだろうか?
シスルという少年は来年の一月から、彼女のクラスに転入してくる中学二年生である。
そして春を過ぎても、彼はまだ彼女のクラスに、中学二年生のクラスにいた。
詳しくはわからないが、彼自身がそれを強く熱望したからだという。
一応、障害のある生徒として、学校では観てもらいたいと父親から教師たちは頼まれていた。
つまり普通の生徒以上の待遇と対応を、父親が望んだのである。
学校側もそれを承知して、彼をこの学校に転入させた。
あとで彼自身の口から聞いてわかったことだが、この日父親は最初から来ることはなかった。
彼は父親を嫌っており、二人が一緒にいるところを彼女は見たことがなかった。
ある日、彼女は冗談まがいでこんなことをシスルに言ったことがある。
「シスル、あなたのお父さんって、本当にいるの?」
彼は半笑いで、だが苦し気な目でこう答えた。
「さあ...あの人って...本当にいるのかしらん。」
「滅多に、家でも会わないですからね。」
シスルには母親はいない。
父親からは母親はシスルを出産するその時に常位胎盤早期剥離で出血が止まらずそのまま呆気なく死んでしまったと聴かされていた。
母親の想いでが家にあることが苦しく、父親はそのすべての形見を棄ててしまった。
なので母親の写真一枚すら、残されてはいない。
シスルは母親の顔も知らない。
とても我儘で嫉妬深く、幼女のようで手に負えないことの多い人だったとシスルは父親から母親のことを聞いていた。
重い精神障害は勿論、知的障害も少しばかりあったのかもしれないと言う。
とにかく母親の良い話を、彼は一つも父親から聴かされることはなかった。
彼は父親を、その事で酷く恨み続けているとしても自然なことだと彼女は想った。
彼は毎晩のように、コンビニの弁当やスーパーの惣菜で済ましていると聞いて、彼女は心配になった。
何より、彼が一人でそれを部屋で食べている姿を想い浮かべると居たたまれない気持ちにさせられた。
彼女は学校には内緒で、彼の夕食を毎晩、作りに行くことにした。
シスルに料理の楽しさを覚えさせる必要もあった。
そして自分の作った料理を、一人以上で食べることの必要性も、彼女は知って貰いたかった。
彼女自身については、それは一つの強迫的観念だったかも知れない。
それは彼女も、長年一人で食事をし続けてきたからだ。
此処にある喜びは、何もなかった。
どれほどの御馳走が食卓にあったとしても、それらは色褪せ、味気無いものとして独りで無言で食べて、消化しなくてはならなかった。
その為、彼女は教師でありながら、毎夜の晩酌をやめることが叶わなかったのである。
シスルに、彼女は自分のようにはなってほしくはなかった。
アルコールがなくては生きては行けないような大人に教育することしかできないのなら、それは教師失格ではないだろうか。
シスルは、彼女と初めて一緒に作った手料理を彼女と食卓を囲んで食べた夜、涙を浮かべて喜んだ。
そして「他のもう何をも食べたくない。」と彼は彼女に言った。
それは彼女を束縛する、最も強力な言葉かも知れないと、彼は知っていた。
でもそれ以上に、彼女を縛り付けて離さない言葉があるとしたら、それはどんな言葉だろうか。
シスルは「シスルという少女を育てる夢」という詩を夜の公園で後ろ向きに歩きながら彼女の前で読み聴かせた日、最後に「彼女は大きな箱から産まれ落ちる」と言った後に立ち止まって、ノートから顔を上げてこう言った。
「先生の名前は、”苦を見る”と書いて”ミルク”だよね。」
彼女は彼に向かって「本当だ。」と言って苦笑した。
「ぼくの名前は、”死をする”と書いて”シスル”なんだ。」
「”シ”を行うという意味?」
「そうだよ。」
先生は微笑んで自分の前に立ちはだかる自分よりも少しばかし背の高いシスルに言った。
「あなたは永遠の孤高の詩人だものね。」
彼はその言葉に黙って、彼女の目を見つめたあとに言った。
「先生、ぼくの存在の理由をわかってないんだね。」
彼女は不安になって、「どういうこと?」と訊き返した。
彼は灰色の石の地面に目を落として小さな声で言った。
「ぼくが、生きている理由だよ。」
彼女が押し黙っていると彼は顔を上げて慈悲深い表情をして言った。
「もう帰ろう。今夜は寒いね。もう四月だと言うのに。」
その日の夜、シスルが彼女を家まで送り帰った後、彼女の携帯にこうメールを一通送った。
『ぼくは苦しみが足りないから、ぼくではまだだめなんだ。』
先生はなんと返したら良いか迷った挙げ句、こう打つのが精一杯だった。
『あなたの苦しみのすべてを先生に話してもらえないことは悲しいことだな。でもいつか話してもらえたら、先生は嬉しいです。』
彼からの返事は朝方にあった。
そこにはこう書かれてあった。
『ゴールデンウィークに、ディズニーランドに行ったときに、話そうかと想う。』

ディズニーランドに行くのは、実はミルク先生も初めてだった。
約束の当日の朝、ミルク先生はシスルを迎えに家のチャイムを鳴らした。
5分ほど経って、ドアが開いた。
そこには白い半袖シャツにブルーのサルエルデニムを履いて、黒いバックパックを背負ったシスルが頬を紅潮させた顔をのぞかせながらも不安気にミルク先生の顔を伺っている。
ミルク先生は笑顔で「おはよう。すこし遅れてしまってごめんなさい。」と言った。
シスルは、悲しげな顔を振り払うように首を横に振り、「さあ、行こう!ディズニーランドに!」と言って飛び出すようにドアの外に出た。
シスルはミルク先生の白い車の助手席の前で足踏みをし、「早く早く!」と急かし、ミルク先生が車の鍵のスイッチを押して開ける瞬間、シスルは車に乗り込んだ。
シスルの家から最短で6時間弱で着く。
今は朝の6時過ぎ。スムーズにゆくなら遅くても昼過ぎには着く予定だ。
でもミルク先生のことを想って、今日はそのままディズニーランドに行くのはやめて、ホテルでゆったりと休み、次の日にディズニーランドへ行こうとシスルは先生に言った。
だが実際、着いた時間は夕方の4時を過ぎていた。
ゴールデンウィークは真に恐るべし。誰もが享楽に耽るため、外に繰り出す必要性に駆られる一年で最悪な強迫的な期間。
ミルク先生は、約9時間近く、車を運転せねばならなかった。
シスルは車の中で持ってきた「Thom Yorke - Tomorrow's Modern Boxes」を何度と繰り返し再生させた。
渋滞を考えて飲み物と食料は二人でちゃんと用意しておいた。
車がぴくとも動こうとしない時、二人で先生の作ってきたお弁当をつついて食べた。
シスルは先生に教えてもらった米粉とココナッツバターとデーツとレーズンだけで作るクッキーを昨夜に作って冷凍しておいたものをたくさん持ってきた。
そしていくつものこの世に存在する童話を先生が運転するなかシスルは朗読した。
なかにはシスルの即興自作童話が、先生に内緒で混ぜ込められていた。
先生は気付いているかどうかわからないけれど、この童話はこの世には存在しない。
シスルが、先生に朗読する前までは。
ふくろうの森の奥の遊園地に、新しいアトラクションができたんだ。
アトラクションの名前は「ダークライト」。建物の内部に作られたレールのコース上をライド(乗り物)に乗って進み、その空間の周囲に作られた物語のセットを観て楽しむアトラクションだよ。
「楽しそうね。」先生はそう微笑んで車を運転しながら言った。
「このダークライトに、ぼくは先生と二人で乗りたい。」
先生は鼻歌を歌いながら「うんうん。」と応え、こう言う。
「楽しみだね。」
二人の乗った車はトンネルのなかに入る。
すごく長いトンネルだ。
シスルは道路の白線を通過する居眠り運転防止の音が一定の間隔に聴こえて心地良く、うとうととしている。
「先生…。」
シスルは目を瞑ったまま小さな掠れるような声で右の運転席に座るミルク先生を呼んだ。
先生は「ん?」と言ったあと、こう続けた。
「眠ければ眠っていいのよ。」
「先生…。」
シスルはまるで寝言のようにそう繰り返し、まだ目を閉じたまま話し始めた。
「先生…。此処は…。此処はダークライトだよ。ふくろうの森のなかを、ずっとずっとぼくと先生は奥に進んできて、この遊園地に辿り着いたんだ。でもこの遊園地は、夜にしか開かないんだ。真っ暗な夜にしか、扉が開かない。この重く、頑丈な扉はほんとうの真夜中にしか、開かれないんだ。それを先生とぼくは知っていて、知っていたから、この遊園地に辿り着いて、今、新しいアトラクションのダークライトのライドに、ぼくと先生は乗っている。」
ミルク先生は、優しい声で言った。
「一体どんな物語のセットが、この先にあるのかしら。」
シスルは目を瞑ったまま倒した椅子の背もたれに背を深く沈め、話を続けた。
「ぼくは…ずっと、ずっと…ひとりでふくろうの森のなかを、歩いてた。ふくろうの森のなかなのに、ふくろうなんて、どこにもいないんだ。真っ暗な森のなか、歩いていても、声も聴こえない。森のなかは、静かで、静かで、ぼくの足音さえ、聴こえない。まるでだれかが、ものすごい瞬間的な速さ、光速で、すべての音と光を、吸引しているようなんだ。だから此処は、なにも見えない。なにも聴こえない。そしてぼく以外、だれも、だれひとり、いないみたいなんだ。でもぼくは、ずっと歩いていた。ずっとずっとずっと歩いているのに、なぜかまったく疲れないんだ。先生…。ぼくは気づくとね、地面を歩いていないんだ。ぼくは宙を歩いていた。そう…だから疲れないんだね…。時間を…時間を忘れるほど歩いてきたはずなのに…。何故ぼくは、そんな気も遠くなるほど、ずっとずっとずっと歩きつづけてきたのかっていうとね。ぼくたったひとり、会いたい人が、どうしても会いたい人がいるってことだけ、忘れなかったからなんだ。ほかはぜえんぶ、忘れちゃったよ。ぼくの顔も…。ふくろうがどんな鳥かも、忘れちゃった。ぼくが、だれかも…。それなのに、ぼくは会いたい人の、そのたったひとりの存在だけ、忘れなかった。わすれ、られなかった。なぜ…なぜだろう、先生…。ずっとずっとずっとずっと…このふくろうの森を歩いてたら、なぜだか、会える気がした。会える…会える…会える…だって会いたいんだ…じぶんの存在を忘れるほどに真っ暗闇のなかを歩きつづけてでも…。そうだそれがぼくの存在なのかな。会いたい人がたったひとりだけいる存在。それがぼくという存在なんだ、きっと…。ぼくのことは、なんにもわからないけれど、会いたい人のことはぼくは知ってる気がした。ぼくが知ってるのはそれだけ。ぼくがこの森で知っているのは、会いたい人の、その存在だけ。だからぼくは、その存在に会うために、その人と、再会するために、ずっとひとりで、歩いてた。ほんのちいさなため息ひとつ、聴こえないしずかな闇のなか。宙を、歩き、ときに走って。疲れも知らず。その代りに、さびしくてさびしくてたまらない空間を。それで、ずっと、ずっと、ずっと歩いてたら、ぼくはほんとうにびっくりしたよ。だっていきなり、ずっと向こうに、ひとつの、光の漏れるちいさなドアを見つけたんだ。それは突然、そこに現れたかのように見えた。これは…ぼくは夢を観ているんだろうか。ぼくの求めているドア。ぼくの見つけたかった扉が、ほんとうにそこにあったんだ。ぼくは涙がこぼれて、ものすごい速さで、そのドアに向かって飛んで行った。どんな超音速機より、ぜったいに速かったよ。だって気づけば、ぼくの目のまえにその光が隙間から漏れたドアがあった。そして、ぼくがドアよ開け!って強く願った瞬間、そのドアがゆっくりと、ぼくの前に開かれた。するとその内部空間に在った光のすべてがぼくに向かって降り注がれるように、一気に流れ込んでくるように感じた。最初あまりに眩しくて、目を開けられなかった。目を閉じていると…貴女が…貴女がぼくに向かって…声をかけた。」
シスルは目を閉じながら、目の隙間から涙をこぼし、身体を小刻みに震わせ泣きながらそう最後に言った。
ふいに、シスルは右手をミルク先生の方へと目を閉じながら差し出していた。
するとミルク先生は、シスルの右手の上に、左手をそっと置いた。先生の手も、ちいさく震えていた。
車はまだ、長いトンネル内を走っている。
シスルは鼻を啜りながら話を続けた。
「ぼくは…このぬくもりを…何より求めていたんだ。でも、それが叶わなくて、喪われて、でもぼくは、諦めることができなかった。すごく、怖かったんだ。なぜ…最も会いたい人に会うことが叶わず…なぜ…最も愛する人に…。ぼくは怖くって、怖くって、諦めることができなかった…。貴女に、会いたいことだけが、ぼくのたった一つの、願いだったのに…ぼくは貴女の手によって、この世から、貴女のいる世界から、低く、重く、光の絶対届かない場所に堕ろされるその過程の、真っ暗なふくろうの森のなかの、その奥の、遊園地にあるダークライトの乗り物に今ぼくと貴女は乗っている。これからどんな物語がこの空間に展開されるのか、この長い長いトンネルの先にあるのか、先生、貴女と、ぼくだけが知っている。だって貴女は、十四年前、ぼくと貴女を、このふくろうの森のなかに閉じ込めた。真っ暗闇の貴女の深い深い子宮のなかに。まるで貴女がぼくを堕ろした夜に見た酷い悪夢のように。貴女はあの夜の夢のなかで、こう感じた。真っ黒な大きな袋のなかに、ちいさなちいさな赤ん坊の死んだぼくを入れ、それをじっと、貴女は上から見つめていた。そして貴女は想ったんだ。まるで”それ”は、黒い宇宙のなかでたったひとり、誰にも愛されずに誰にも悲しまれずに死んでゆく自分自身であると。貴女は望んで、今この世界に、ぼくと二人でいる。そして真夜中にしか開かないこの遊園地の扉を、ぼくと一緒に貴女は開けてくれた。このぼくと先生の乗っているダークライトという乗り物は、かならず、出口に辿り着く乗り物だよ。だからちゃんと、この決められたレール上を、真っ暗なトンネルのなかを、ぼくと先生は真っ直ぐに進んでいる。先生も、ぼくも、このダークライトがどこに着くのかを、知っている。ぼくの愛するたったひとりであるミルク先生…お母さん…ぼくは本当の想いを、貴女に言うよ。貴女が、ぼくを堕ろした六ヶ月後に母乳が出始め、一向に止まらなくなったことに苦しみ、みずから命を絶った瞬間、貴女はあの日の校長室のソファーに座って一人、ぼくを待っていたことを、心から嬉しく想う。貴女とぼくが、一つの存在であるということを、貴女が気付いた瞬間、ぼくに向かって初めて、貴女は優しく微笑みかけてくれたから。」




















Thom Yorke - Pink Section + Nose Grows Some


















秘密の階段

2019-06-08 22:44:59 | 物語(小説)
「着るものがないなら、屋根裏部屋に来ないか。」
婚約者がいるのに、そう会ったばかりの男から誘われ、着いていったことがあった。
この日のことを、わたしはまだ彼に話したことがない。
もっとも、”着るもの”とは、暗喩である。
それを知って、わたしは彼に恐れを抱きながら、着いていった。
その男の家はおそろしく古いが、居心地は良いと言う。
「必ず見つかるはずだ。あんたに合った服が。」
「でも、もし見つからなければ、そのときは考えようじゃないか。納得の行く代金を支払うよ。」
みんなは彼の名を、”シマク”と呼んでいた。
どこから遣ってきたのかも、いつからこの村に住んでいたのかもわからぬ素性の怪しい男だった。
”いばらの村”と、だれがいつから呼んだのだろう?
それほど遠くはないという。いつからかこの野いちごの村は、通称”いばらの村”と呼ばれるようになった。
ある説では、いばらの森で一人の惨殺された少年の亡骸が発見されたからだという。
そこに生えている黒いちごの種は、食べる者によっては麻薬的な効能を持つときがあった。
きっとそれを食べて気が狂ったうさぎが、少年のうさぎを殺してしまったのだろう。
だから一時期、この村は”黒苺の村”とも呼ばれていたという。
だが、まだ犯人うさぎは見つかってはいない。
ある目撃者によると、そこでその日見かけた少年を殺したそのうさぎと想われる者は銀色に輝く毛並みのたいへん美しいうさぎだったという。
でもそんなうさぎ、ほかにだれひとり見たことがなかった。
目撃者が90歳を超えた老うさぎであった為、なにかの見間違いだとされた。
 
「生贄だよ。」
シマクがカリンに向かって言った。
一階のキッチン兼ダイニングでシマクの作ったの黒苺のお酒を二人でちいさなランプ一つ置いただけの部屋で飲み交わしていたときだ。
カリンはお酒以外の飲み物はないかとたずねたが、シマクは平然と「ある。」と答え、そして陰に置くと真っ黒になる真っ赤なジュースをカリンが飲んだ後に、「それは黒苺の酒だ。」と言った。
「だがほとんどアルコール度数はないに等しい。それよりも、黒苺を発酵させていないフレッシュジュースのほうが何千倍と危険なことを知っているのか。」
カリンは黒苺など、一度も口にしたことはないと言った。
「何故だ。」シマクがそう不機嫌そうに訊ねた。
「それはまったく美味しくないと評判だから。」
カリンが呆れたようにそう答えると、シマクは「ははは。」とから笑いをしてにたと嗤った。
「そらそうやろう。ひっくり返るほど美味いことを知る人間たちはそう言うさ。独り占めするためにね。」
カリンは黒苺のお酒の二杯目に口をつけながら、今日なぜじぶんがここに来たのかを忘れかけるところだった。
もうすっかり、外は日が暮れていた。
置き手紙をテーブルの上に置いてきたけれど、婚約者の彼はいったい何を想っているだろう。
 
「大切な友人の家に、急遽泊まることになりました。
 
 あすの朝には必ず帰ります。
                    カリン」
 
鍋のなかはからっぽ。彼は仕事から疲れて帰ってきて手紙を呼んで不安の黒雲のしたで期待してその蓋をぱかっと開け、「おいいいいいぃ、ないやんか。」と独り言を呟いたであろう。
「なんも入ってへんではないか。なんも、残っておらないではないか。」
と、きっと同じ意味のことを何度と口に出して言ってしまったであろう。
「あああああ、腹が減ったなあ。いったいカリンはどこのだれとどこでなにをしているんだろう。不安だなあ。心配だなあ。友人ってだれなんだ。友人はいないってゆうてたやんか。ゆうてたやんかいさ。最近できて、僕に黙っていたのでしょうか。くはは。くるるるるるん。ぱぱぱぱぱ。笑う。笑えない。死ぬる。え?もしかして男ですかね。マジですか。死にましょう。死ぬますか。死にましょう。やめましょう。あしたはきっと、晴れると良いでしょう。おやすみなさい。では。」
と独りキッチンの壁を見つめて吐き出したるあと、ベッドに突っ伏して死ぬように眠りに就いたであろう。
おほほ、良い気味だ。なんてことはカリンは想っていない。
カリンはいま、何も考えていない。
といえば嘘になる。カリンは何故なら、いまとても心地好き気分でうっとりと、目の前に座っている男シマクの顔を眺めていたからであった。
シマクは両目とも完全な盲目であり、目は澱んだブルーのガラス球のようであった。
なのでカリンを見つめているようで、ちっともシマクはカリンの顔など見てはおらない。
カリンがまるで透明であるかのように、そこに何も見ていない。
その後ろの壁も見ていない。
シマクは、では一体なにを見ているのか?
それをただ想像すること、それがカリンをただうっとりと恍惚にさせるのであった。
カリンは自分の容姿に、異常に劣等感を持っていた。
自分の容姿は宇宙で一番醜いであろうし、また宇宙で一番醜いべきであると信じてやまなかった。
そして何より醜い自分の姿を、だれひとりにも本当は見られたくなかったのである。
婚約者の彼は、カリンの顔を、「マジでタイプです。」と言った。
カリンは、「ああそうか、なら結婚したってもええけど?」と返事をした。
愛でたくふたりは、その5年後に、結婚したのであった。
5年間、彼は、本当にカリンと結婚しても良いのか。後悔しないのか。と自分に問い続けてきた。
だが本当は、カリンの愛のほうが、彼の愛より遥かに深いものであることを、カリンは知っていた。
カリンは常日頃、「あ、今のおれ、かっこいいな。って絶対想ったよね。」という言葉を何度と彼に言った。
「そういう、おれってやっぱりかっこいいよな。いけてるよな。と想ってるあなたが嫌い。気持ち悪い。気色悪い。吐き気がする。」
カリンがいつもそう言うと、彼も決まってこうクールに反論した。
「別にそんなかっこいいとか自分のこと想ってないですけどね。まあかっこいいとか、何度か言われたことはありますが…」
「その言い方が腹立つんだよ。ムカつくんだよ。自分のことかっこいいって想ってるから言えるセリフと言い方だよね。うぜえんだよ。死ねや。」
彼はいつも涙を目尻に浮かべて苦笑いをして、爽やかで愛らしい刃を口の空き間から見せつけ、その場を丸く収めることが得意であった。
「いやあ、可愛いな。ほんとうにあなたって可愛い人ですよね。本当に愛しています。」
カリンがそう言って、彼は傷つけられたすべてを心のどぶへ流しに行っていた。
その証拠に、それをいつも入れている彼の胸のなかの洗面器はいつも、血濡れていた。
血痕と体液でガビガビであった。びるびるのぶるんぶるんであった。
ひとりでに、びふんびふんと鳴る夜もあった。
彼はそれを説明するのが至極面倒くさかったので、カリンに「ちょっとお腹の調子が悪いのかなあ。」と話していた。
「あなたのお腹って、びふんびふんと鳴くんですね。」
カリンがそう言うと、彼はすこし寂しげな顔で言った。
「そうですね。」
「病院行って精密検査してきてくださいね。」
「うーん、まあまだちょっと、様子を見たいかなあ。っていう。」
「死ねや。」
「いやあ、死にたくないですね。」
「じゃあアマゾン熱帯雨林に行ってきて、アマゾン川で顔洗って顔ピラニアに喰われて来いや。」
「うーん、それもちょっと…できるならばけ・い・け・んしたくないことですね、はい。」
「便所でコオロギ食べて来いや。」
「いやぁ…なんで食べなくてはならないのか、ちょっと…その意義が見えてこないので…」
「そしたらあなたの顔はもっと美しくだるだろう。」
「美しくだるんですか。今で美しいと言われているので、これ以上は望まないですね。」
「だれにゆわれてんねん。」
「いやカリンさんに…」
「そう…わたしはあなたに言い過ぎたんですね。ふんで調子乗ってんなよカス。」
「ううむ…調子に乗っているわけではないのですが、でも言われて嫌な気持ちにはなりませんし、まあ普通に嬉しいですよ。」
「あなたに負けました。わたしのことをこれから、ブサイクで負け犬の下呂女と呼んでください。」
「それは無理な御願いですね。そんなことをぼくに要求しないでください。」
カリンはいい加減、彼が微笑しながらキレかけているのを素早く認め、こう返事した。
「申し訳ございませんでした。もう二度と言いませんので、どうか離婚だけはしないでください。何卒、お願い申し上げます。」
 
カリンは、シマクの透明のプラスチックの球体に蒼い糊の塊のようなものを被せたその質感の、両の目にまだ見惚れていた。
だがカリンの魂の聖域を、どうしても邪魔する者がいた。
婚約者の彼である。
カリンの心を濁らせるもの、それが婚約者であった。
だが、シマクの黒苺酒が3杯目に来たとき、彼は消え失せたのである。
時を見計らうかのように、シマクが低く抑えた声で言った。
「そろそろ、上の階へ上がるか。」
「それとも、地下を先に覗いてみるかい。」
カリンは目を瞑り、顎を上げ、熱い眼(まなこ)の下で「あなたが決めて欲しい。」と伝えた。
「それはできない。」
シマクはカリンが言い終わると同時にそう答えた。
「何故なら、おれにも見えないからなんだ。」
「見えない?でもここはあなたの家でしょう?何があるのか知っているのでしょう?」
「本当にそう想うかい。あんたは自分の家にあるすべてを知っているのかい。」
「あんたの家に、あんたの知っているものだけがあるとでも想っているのかい。」
カリンは酔いが回り、普段は口にしない女の話す口調で言った。
「おほほ。あなたって本当に面白い人ね。あなたの言う言葉はとても抽象的で、何を言っているのかさっぱりだわ。」
「そう、今あんたの夫が、何を手にしているのか、目に見えるかい。」
カリンは目を開けた。
「あれは何かしら。丸いものを手にしているわね。」
「どんな質感のものだ。」
「泥団子にも見える。でも、焦げた丸い豆腐バーグかも知れない。」
「具はなんだ。」
「蓮根と、あと…あれはなんだろう。黄色いような、赤いような…」
「もっとちゃんとイメージしないと、何も見えてこないぞ。大事なものは。」
カリンは不安になり、シマクの薄く開いて視線を落としている目を見つめて言った。
「一体なんの話をしているの?」
シマクは視線をテーブルの上に落としたまま言った。
「秘密の階段の話さ。」
「階段を先に下りるか上がるかで、一体何が変わるの?」
「そんなことを、今のきみに話す訳にはいかない。」
「何故?」
シマクは、ふうと息を吐いて右の胸ポケットから煙草を一本取り出した。
「今きみは、自分が望んでいる方向と、そこにあるものをまるで見ていない。」
「わたしはそんな風に見えるの?」
「おれが今感じているだけだ。」
「失礼だと想わない?わたしはなにも考えずに、ここに来たわけじゃない。」
「わかってるさ。あんたはふらふらと、まるで酔いどれ詩人のように、ここに遣ってきた。」
「わたし、酔ってなんかいないわ。」
そのとき、ちょうど目のまえの壁に鏡がかかっていることにカリンは気付いた。
その鏡に映った自分の両目を、カリンはまじまじと見た。
「うわっ、めっさ斜視っとるやん。どこ見てんねん。」
酔い過ぎではないか。
「確かにわたしは直感だけで、ここに来た。でも直感が、すべてであると、わたしは想っているから。」
「もう戻れないことは、想像しなかったのか。」
「想像はしていない。」
「あんた、この家に何があるのか、本当にわかっていないのか。」
天井に蟠る、闇に向かってシマクの吐く煙はその身をくゆりながら昇ってゆく。
「この上に何があり、そしてこの下には何があると想う?」
「わたしは答えない。もし、それに答えるなら、それはその通りに、そこにあるの。」
「では、想っていたものと、それはまったく違うものだろう。あんたの欲しいものは何一つ、手には入らない。」
「これ以上のものを。」
「これ以上の虚しさ、これ以上の無感覚。これ以上の、薄っぺらいものを。」
「これ以下のものではなく。」
「これ以下のものばかり、あんたのもとに遣ってくるだろう。」
「何も、何も、比べないでほしいの。」
「比べているのはあんただ。おれじゃない。」
「秘密の階段は、エッシャーの騙し絵のようになっているんじゃなくて?」
「上っているつもりが実は下りている。下りているつもりが、実は上っている。」
「天国へ向かって上り続けているつもりが、実は地獄へ向かって、下り続けている。」
「でもそれをだれが決めるだろう?」
「決めるのはあんただ。」
「でもそれをだれが嘆くだろう?」
「嘆くのはあんただ。」
「でもそれを、だれが喜ぶだろうか?」
「それはおれだよ。」
シマクは、そう言って目に薄く碧い膜を張らせ、カリンの後ろ姿を映す鏡に向かって、右手を差し伸べた。
 
カリンの目のまえには、婚約者の彼が悲しげな顔をして立っている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 2019-04-30 12:42:48作

此岸

2019-06-07 02:09:13 | 
俺は人間を愛しているのかな。
俺は人間を、愛しているのかな。
俺は人間を。
そのゆくえを、ずっと追っている。
でも影のように、それが見えない。
此処は真っ暗だ。
僕は人間のゆくえが、見えない。
自殺志願者は、何も見ず、墜ちてゆく。
床を外した、家の中。
そこに、君の知らない闇が存在している。
手を伸ばしても、愛する者の手に、届くことはない。
彼らは、そこにいるのか。
形を喪った死体たちは今日も、歌っている。
美しく、悲しい歌を。
宛もない道を、誰も乗っていない車はずっと走ってゆく。
その車を、二度と、光は差さない。
生命という名の灯(ぬくもり)を、もう二度と、感じることはない。

















暗灯

2019-06-06 02:40:19 | 
今、きみを知るとき。
きみが生まれる。
宇宙の、見えない場所で。
きみには未来もなく。過去もなく。
今もない。きみは今も、いない。
きみには夢もなく。世界もなく。
星もない。きみは今も、観ない。
今、時が過ぎ去るとき。
きみが生まれる。
闇の底の、独りの宇宙で。
静かに一つの生命が、消滅してゆく。
その姿を、今きみは見ている。
安らかにきみの星が、滅びゆく。
神はきみを、ゆっくりと、忘れゆく。
神はもう、きみを作らない。
君はもう、作られない。
かつて在ったものだけを、きみと呼ぶ。
かつて在ったものは、きみのすべて。
神はもう、きみを観ない。
同じものは、作られない。
かつて在ったすべてを、神はきみと呼ぶ。
未来に在るすべてを、きみと、神は呼ぶ。
今ここにあるすべて、神は、きみと呼ぶ。
君は安らかに、静かに、眠るように、消えてゆく。
神は安らかに、静かに、眠るように、消えてゆく。
まだ作られていないものだけが。
息をせず、眠っている。
きみの眠る、その隣に。











Thom Yorke - Unmade