あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

神はKILL

2017-02-15 18:06:25 | コラム
神と人間の創造

の記事で「創」という漢字について考察いたしましたが
二度目の考察の記事を書きたいと思います。

「創」という漢字は

・傷つける、傷つく
・傷、切り傷
・はじめる、作る
・初め

という意味があります。

「刀」で「倉」を作る、という意味と
「刀」で傷つける、という意味がある漢字です。


そして「倉」という漢字は
・穀物を入れるくら
・ものを入れておく建物
という意味のほかに

・痛む、かなしむ
・うしなう(喪)(死に別れる)

という意味のある漢字です。


さらに「刀」という漢字は
・片側のみに刃がある人や物などを切る物
という意味のほかに

・小舟

という意味のある漢字でありました。

「カタ(片側)」の「ナ(刃)」で「刀」という漢字ができました。



以前の記事では、”もともと傷ついているものをさらに刀で切って傷つける”ことが「創る」という意味ではないかと考察してみましたが
それだと、もともと「倉」が「倉」としてそこに存在していて、それをさらに「倉」として創るという意味になるのかどうか、と悩みました。

なので、今回は、そうではない考察をしてみます。
もともとそこにあるのは、まっさらな「木」であり、それは勿論「倉」の状態ではありません。
そこへ、刀を当て、切ることによって、傷つけていき、「倉」を創りだします。
それが、「創」という漢字です。

そして、”小舟”という意味を「刀」が持っていることから、
”小舟”とは、いったい刀となんぞ関係がある?と思いまして調べてみると

「舟」とは中国の小舟の象形文字ですが、それにしてはごちゃごちゃした字です。
舟っていっときながら、舟のなかに、なんか既におるやん、という気がする字です。

「船」とは、
・水上で人や荷物を載せて航行する乗り物

水槽や大きな容器を表す古語「ふね(槽)」からするとする説が有力だが、
浴槽の「湯船」や魚介類などを盛る容器をいう「舟」は船の形からきたものであるため
古語の「「ふね(槽)」も同様のたとえから派生した語とも考えられる。

「ふね」の「ね」は接尾語で、「ふ」は水に浮かぶことから「浮」とする説や、
帆を張ることから「帆(ほ)とする説がある。

「船」は「沿(えん、そう)」と同系で、流れに沿って下るふねを表す。


という意味があります。

ここで面白いのは「槽」も「沿」も「倉」と「創」と同じに「そう」と読む字であることです。
すると「刀」にこの「小舟」の意味があるのは、「沿う」という意味が隠されているのかもしれません。

水に浮かぶ「浮子(ふね)」がまるで神の「創(沿う)」であり、「舟」というものがわたしたちすべてであるかのようなイメージが浮かびます。

そして「刃(やいば」には「刃(ジン)」という読み方があります。
「刃(ジン」には、”刃で切り殺す”という意味もあります。

「刃(ジン」と「人(ジン)」は深い関わりがあるのでしょうか。

「人(ジン)」

1 物事を「天・地・人」の三段階に分けたときの第三位。
評価する場合や、3冊の本の3番目に用いる。


神が、三位一体であらせられるのならば、「天・地・人」の三位で「神」であらせられるのでしょうか。
「人(ジン)」というものが、どれほどこの宇宙において必要で大切なものであるのかを考えさせられます。
「大切」という言葉にも「切」という字が入っていますね。

神は、「木(キ)」を「刃(ジン)」の片側についた「刀(トウ)」で「切り(キリ)」、「倉(ソウ、クラ)」を創られました。
「切る」は「キル」であり、「刃(ジン)」で「KILL(キル、殺す)」ということなのでしょうか。

「切り」は「セツリ(摂理)」とも読むことができます。
そして「木」の「キ」は、「生」と「気」と「器」と「基」であるのかもしれません。
「刀」の「トウ」は、「問う」であるのかもしれません。

「倉」には、
・はらわた、臟に通ず、五倉は五臟。

という意味もあるようです。
はらわたがなければ、われわれは生きてはゆけませんね。
この見た目グロテスクなはらわたを内部に宿していなくては我々は生きることが叶わないのです。



神は生を問うことで、なにかを殺し、われわれのはらわたを御創りになられたのでありましょうか。
つまり「倉」とは、内部に「臓(はらわた)」を蔵しているわれわれ生命のことではないでしょうか。

「臓/臟」という漢字

形声文字です(月(肉)+蔵(藏))。
「切った肉」の象形(「肉」の意味)と
「並び生えた草の象形と、矛(ほこ)の象形としっかり見開いた目の象形(「背の高い家来、良い」の意味だが、
ここでは「倉(ソウ)」に通じ(同じ読みを持つ「倉」と同じ意味を持つようになって)、
「隠してしまう」の意味)」(「隠してしまう場所、蔵(くら)」の意味)から
「身体の内部にかくされている器官(内臓)」
を意味する「臓」という漢字が成り立ちました。



大事なものなので、それは表面には出さず、内部に隠されなくてはなりませんね。
守るために、それは隠されるものとなりました。

「倉(蔵)」は、明かりをつけなくては中に何が入っているのかわからない暗い場所であります。
そこに本当に大事な「穀」を入れるのです。
暗闇は、倉闇でありましょう。
わたしたちの内部はいつでも暗(くら)で、私たち自身は倉(くら)なのです。



『倉(ソウ)』cāngは、倉(くら)を表す会意文字です。
漢字の足し算では、食(食物)+口(入れる)=倉(食物を入れてしまう所。倉。くら)です(藤堂)。
漢字の部首は『人・ひと』、漢字の意味は『倉(くら)』です。



『漢字語源辞典』では、倉
は「食の略体であり、食は△(あつめる)+良(粮=糧の原字)である。
従って、食の略体で穀物を表し、かこいを示す□印を加えて、穀物を収蔵することを示した」と記載


「倉」はなぜ「くら」の意味か?

『説文解字』では口を除いた部分は食の省略形で、口は倉の象形だとしている。
口を倉の象形と見るよりは囲いを示す符号とすべきであろう。
倉は「食の略体+口(囲い)」と解析する。
食糧(穀物)を囲いに入れる状況を暗示させる図形である。



《倉》


「倉」は“食”の省略形と“口”から成り立つものではなく、「亼(シュウ)」と「重ねることを意味する文字」と“口”から成り立っている。

最下部に描かれているのが“口”であり、「亼(シュウ)」や「重ねることを意味する文字」と合わせて「“食料”を保管すること」を意味するのである。



画像がわかりやすいので拝借いたしました。


「亼」とは、集まるという意味の漢字です。

「倉」は食物を口に入れる、という意味と、良いものを集め、それを囲いに入れるという意味と
そうではなく、あつめ、重ね、それが口に入る、よって食料を保管することを意味するという説があるわけですね。
その字の意味に
「痛む」、「悲しむ」
「うしなう(喪)(死に別れる)」
とあるのは、とても深く考えさせられます。

神は生を問うことで、なにを殺し、我々を創られ、創られし我々はなにゆえに痛み、悲しみ、何を喪ったのでありましょうか。

神は生を問うことで、自分を殺し、己れの分身を創られ、我々は神の分身であられるがために、痛み悲しみ、己れを喪ったのでありましょうか。

そしてそれらを創りし道具はいつでも、水に浮かんだちいさな浮子(ふね)であるのでしょうか。
神はいつでも我々に沿うのは、神が自らを切る(kill)してでも創造したのが我々であるからなのでしょうか。











神と人間の創造

2017-02-14 01:15:59 | コラム
ふと、聖書の言葉を思いだして、なぜ「つくる」という言葉には「作る」「造る」「創る」といくつも漢字があるのかと思い、
わたしは漢字の語源を調べるのが大好きなので、調べてみたところ。


まず、違いを調べよう。



「作る」と「造る」と「創る」の違い




作るは、「料理を作る」「棚を作る」など、比較的小さなものや、「行列を作る」「社会を作る」「記録を作る」など、無形のもの、抽象的なものに用いる。



造るは、「船を造る」「庭園を造る」など、有形の比較的大きなものに用いる。
また、酒・味噌・醤油などは、「製造」「醸造」というように「造る」を用いるが、家庭でつくる味噌などは規模が小さいため「作る」である。
ロボットは、「人造人間」と訳されるように「造る」だが、子供用玩具のロボットは、形も規模も小さいため「作る」である。



創るは、「芸術作品を創る」「新しい雑誌を創る」など、新しいものが対象で、新しいものであれば有形無形を問わず用いられる。
ただし、常用漢字表では「創」に「つくる」の訓がないため、公用文では「創る」と書かず、「作る」か「造る」と書く。




なるほど、「創」という漢字だけが何か特別さを感じるのは、それが「どこにも存在しない新しいもの」を創るときに使われる漢字だからなのでしょう。



つぎに語源であります。




「創」という漢字


「創」の意味

①「きずつける」、「きずつく」

②「きず(傷)」、「切り傷」

③「はじめる」、「作る」、「初めて作り出す」、「初めて事を起こす」

④「はじめ」

⑤「懲りる(失敗して、大変な目にあい、もう二度とやりたくないと思う)」





「刀」の象形と「穀物をしまう為のくら」

の象形(「くら、きずつく」の意味の意味)から、刀で倉を「作る」、刀で

「きずつける」を意味する「創」という漢字





「倉」という漢字



意味

①「くら」、「穀物を入れるくら」

②「物を入れておく建物」(例:倉庫)

③「にわか(突然)」

④「あわてる」、「あわただしい」

⑤「青い」(例:倉海)

⑥「痛む」、「悲しむ」

⑦「うしなう(喪)(死に別れる)」



「穀物をしまう為のくら」の象形から「くら」を

意味する「倉」という漢字が成り立ちました。






「刀」の意味

①「かたな」

 ア:「片側のみに刃がある人や物などを切る物。戦いに用いる。とう。」
   (例:刀で切る、刀剣)

 イ:「武士が差した大小2本の「ア」のうち、大きい方の「ア」。
    小さい物を脇差(わきざし)と言う。」

 ウ:「太刀(たち-大きくて長い剣や「ア」)に対して小さい物を言う」

 エ:「小さい刃のついた物。包丁等。とう。」(例:執刀、刀俎)

②「古代、中国で「①-ア」の形をした青銅製の貨幣」(例:刀銭)

③「小舟」









き‐る
【切る・斬る・伐る・截る・鑽る】
《五他》
2.
[切] 基準とする値に達しない状態にする。 「元値を―・って売る」
3.
[切] 物事にくぎりをつける。
4.
[切] 他から、または今までの状態から、きわだって、(勢いよく)する。
5.
[切・鑽] 硬い物(木と木、石と鉄など)を、強くもみ込むようにしたり、激しく打ちつけたりして、火を出す。






「切る」とは「壊す」の意味もあると思います。





喪うものを、切る
痛み、悲しみを、切る



そして「はじまり」の意味があるのが、「創」という漢字であります。

なにゆえに、すでに悲しみ、痛みに打ちのめされ果てたものを、切るのでしょう?





「創」



そもそも、この「創」という文字は刃物で傷をつけることを指す言葉でしたが、工作のいちばん最初の段階で、木に刃物を当てるということから、「創める(はじめる)」という意味に転じていったといわれています。
  木に刃物を当てて、工作がはじまる。それは木を傷つける行為です。
  無数に刃物を当て、無数に傷をつけ、削り取り、切り落としていかないと、ものづくりはできないのですが、とくに最初のひとつめの傷をつけることをとって「創(はじめ)」と呼ぶところに、木を傷つけることに対する痛みの念というか、敬意のようなものが感じられる気がします。






木は切り倒しても、生きたものとして人間が感じ取り、それに刃を当てて傷つけているのだという人間の感性の尊さを感じさせる愛の深いお言葉である。
じぶんは木に刃を当て、削るなんてことはもう二十年以上もしていないが、人参を生食にするためピーラーで剥くとき、すごく「嗚呼…」という想いに包まれる。
だんだんと剥かれて細くなっていく人参を目の当たりにすると、そこにある痛みを見て、まるでその様子が、痩せ細って死んでゆく人間の姿におもえて、なんとも哀しい想いを抱くのである。

神は、いったい何故我々を創られたであろう。
その痛みのなかに、傷つけながら。
なにを、神は傷つけ、わたしたちすべてを創っただろう。
それは、自分自身なのではないだろうか。
神は産みの苦しみのなかに、わたしたちを創られたのではないだろうか。
まるで自分の身を切り捌(さば)くかのような痛みのなかで。

それが神と人間の、想像の末の創造なのではないだろうか。










この曲をリピートしながら書いたん。悲しく美しい。

bibio - down to the sound












価値なき生命

2016-12-29 20:32:24 | コラム
今日は前回の記事映画「イディオッツ」感想 愚かでいることは素晴らしいに引き続きまして障害、差別のテーマでまた記事を書いてみたいと思います。


今日の朝に読んだ下記の記事を読んで障害、差別、そして優生思想についてまとめました。いくつかの箇所をまずは転載します。


障害者殺傷事件の背景に―― 「優生思想」と「隔離」の怖さ


優生思想に後押しされた虐行
事件後の8月5日、藤井さんは日本障害者協議会代表として声明を発表した。
そこで触れたのが、第二次世界大戦時のナチス・ドイツの「T4作戦」だった。

〈容疑者の衆院議長にあてた手紙文の「障害者は生きていても仕方がない」「安楽死させた方がいい」は、ナチス政権下でくり広げられた「価値なき生命の抹殺作戦」(T4作戦)と重なります〉

「価値なき生命」とは働けない者、兵隊になれない者という意味で、対象は知的障害者と精神障害者が中心だった。
藤井さんは2015年、NHKとともにドイツに向かい、20万人以上の障害者が殺されたこのT4作戦を取材した。
虐殺の背景には、社会の役に立たないものは殺してかまわないという考え方があった。
この考え方に近いものを植松容疑者がもっていたのではと藤井さんは懸念する。








「遺伝性障害は生涯にわたってお金がかかります。それはあなたのお金です」と訴え、障害者を安楽死させることを促したナチスの月刊誌の表紙。
「T4作戦」は1939年から始められ、約20万人の障害者がガス室などで虐殺された。この手法はその後ユダヤ人の虐殺(ホロコースト)へと受け継がれた





この事件には、彼個人の「異常さ」だけで片づけられない問題があります。
彼が抱いていた「優生思想」です。
彼は「障害者は不幸を作ることしかできません」と考えていた。
残念ながら、こうした考えはいま社会全体を覆っているようにも思います。
つまり、社会に根を下ろしている優生思想に後押しされた虐行とも言えるのです。





藤井さんは、WHOの統計資料をもとに「世界のすべての精神科病床の2割が日本に集中している」という。
建前としての理念は掲げるも、事実上、障害者は隔離された施設や病院にいつまででも入れておけ、というのが日本の障害者政策の実相だ。




転載終わり






私は当時のナチス政権下で生きていたなら、ナチスの強制収容所へ運ばれていたなら、間違いなくガス室で処刑されていた存在です。


自分はかなりの重度の引きこもりでもうここ一年以上くらいほぼ外に出ない状態で暮らしています。
引きこもりだしたのは2008年からで、親は二人とも既に他界しているので2010年から生活保護を受けて一人で暮らしています。
鬱症状と対人恐怖、社会不安性障害といったもので外に出ることが極度に億劫で、生活保護を受ける人間の規則である定期的な通院さえまともにできず、病院には一年以上くらい行けていない状態です。

けっこう重い状態なのですが、どんなに苦しいと人にネット上で話しても、大体の人が自分のことを見下したり、苦しさが伝わってこないと言われたり、本当は軽い病気なのに不正で生活保護を受けてるんだろうという目でよく見られます。

そういったことが続いて、人とまともに関わることがどんどん苦しくなってきているようで、自分は今年から自分の話し相手はこの自分が自由に書くことができるブログだけになっています。

たまに話しかけてくる人間が一人いますが、相手は働いている人間なので働いてないわたしを見下しているというか、まあ心配で言ってくるのかもしれませんが、働く気が起きないから働けないと言ってるのに、何で働かないんだと言われることはすごく苦しいことです。


しかしあからさまに差別してくる人間というのはわかりやすいもんで、傷つきはしますが、そういう人間は自分の汚さとか、自分に対する憎悪の激しい人間ばかりなのでわたしからしたら大事な大事な仲間です。
だから傷つけられても納得しやすいものがあります。

でも精神障害を持ちつづけること、働かない人間で生きつづけることでずっと続く苦しみの一つに、ほとんどの人間から、差別されつづけている状態であるという事実、これを感じながら生きつづけることは、簡単に納得できるものではなく、この苦しみは生きていく中で絶望感へと繋がりやすい深い苦しみであると感じています。






「働かざる者、食うべからず」という言葉はもともとは新約聖書のテサロニケ人への第二の手紙 3章10節の


わたしたちがあなたがたと共にいた時にも、「働きたくない者は、だれも食べてはならない」と、あなたがたに命じておいたはずです。


という聖句が元であるのですが、この聖書というもの自体が当時の権力者によって宗教で人を操りやすくするために、勝手に改訂された箇所が多いものであると言われています。
これを書いたイエスの弟子であるパウロが記した言葉とされていますが、本田哲郎神父はこの部分を著作からはずしており、これは偽書である可能性は高いと私も思います。
参考リンクそもそもこの書簡は偽書だと思います。パウロ直筆ではない。なぜならパウロの手紙の書き方は起承転結がしっかりしているのに、この手紙の結びはあっさりしすぎているからです。パウロだったらもっとしつこく書いたでしょう。


何故なら、イエス自身はこんな言葉を言う人だったからです。


それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。


空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
マタイによる福音書 6章25,26節


また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
28節

きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。
30節

この聖句から、イエスは着る物や食べるもので思い煩い、食べるため、衣服を着るために心を悩ませて働くことをよしとする人ではなかったことがわかります。

神は種を撒いて刈り取ったり倉に取りいれたりと働くこともしない空の鳥を養っておられ、働きもつむぎもしない野の花を養い、装ってくださるのに、なにゆえに、そのあとには「働きたくない者は、だれも食べてはならない」などということを言うことがあるでしょうか?









相模原障害者施設殺傷事件の容疑者である青年Aの持っていた優生思想は、強者が持つ思想では決してなく、これは弱者が持つ思想です。
強者と弱者の定義は、
自分が苦しいときに他者に手を差し伸べられる人が強者であり、
自分が苦しいときに他者を巻き添えにして苦しめてしまう人は弱者だと自分は感じています。

たぶんこの世界で三分の二以上は弱者である。

この国のありかたを見れば解ります。
先進国で珍しい死刑存置国であり、同時に世界一の中絶大国であり、ブラック企業ばかりがはびこる過労死と自殺大国です。

自分の愛するものが殺されたとき、相手に死刑を望む人は弱者です。
畸形児が生まれると解れば中絶する人は弱者です。

ほとんどの人が、自分が苦しいときに、他者を助けることができません。
他者の生命を生かそうとするのではなく、殺そうとします。

「優生思想」とは「価値なき生命」と判断した他者の生命を、奪う思想です。
「生きる価値のない生命」と独断的に判断し、生かそうとせず、殺すほうを選びます。

「生きる価値」があると思うのならば、どのような理由があっても堕胎しないはずです。
死刑を望まないはずです。

「働かざるもの、食うべからず」とだけ言い捨てはしないはずです。

「生きる価値」が、人間に平等にあると思うのならば。

しかし多くの人は、平等よりも、不平等の思想で「生きる価値」を認めないとして、生かさないことを望みます。



「障害者は生きていても仕方がない」「安楽死させた方がいい」
と手紙に書いた青年Aの優生思想と、中絶や死刑を肯定する人、そして自ら働こうとしない者は生きる価値がないといった思想はさほど変わりのない思想のように私は感じます。

独断によって、人間の生命の価値に優劣を置き、生かすより死なせるほうを選んでいるからです。
死刑になった人は生きたかったかもしれない、堕胎された胎児はそれでも生きたかったかもしれない、障害者は、生きたいのに殺されたかもしれません。
働いて生きることをやめた私は、それでも生きて行きたいのです。


日本では死刑も中絶も、安楽死というものがありません。
死刑囚も胎児も苦しみぬきながら死にます。
それは明らかに、拷問です。


彼は「障害者は不幸を作ることしかできません」と考えていた。

この青年Aの言った言葉の、「障害者」のところを書き換えてみましょう。

「死刑囚は不幸を作ることしかできません」
「奇形児は不幸を作ることしかできません」
「働かない者は不幸を作ることしかできません」

だから殺すのです。処刑するのです。堕おろすのです。「食べる価値もない、生きる価値もない」と言うのです。


不幸だけを作る存在など、わたしは存在しないと宣誓します。


最後にこの記事を書かれた全盲という障害を持ちながら障害者の問題に向き合い続けている藤井克徳さんの言葉をもう一度載せてこの記事を終えたいと思います。




残念ながら、こうした考えはいま社会全体を覆っているようにも思います。
つまり、社会に根を下ろしている優生思想に後押しされた虐行とも言えるのです。






I will work for you.

2016-11-28 16:04:46 | コラム



いまや世界的に有名となった最大にして重要な「世紀の告発者」と言われるエドワード・スノーデンの初めての自己紹介を記録した瞬間の写真である。
「世紀の告発者」らしいと言える独特な紹介の仕方である。


Edward Snowden is a hero not a traitor



エドワード・スノーデンの赦免(刑罰を与えないこと)をオバマ大統領にお願いする署名サイトです。
署名しました。
彼を罰することのできる人はただ一人、彼自身だからです。
私たちに本当の罪があるのならば、それは国家による刑罰がなくとも、我々は必ず罰される存在だと、我々は知るべきです。



署名したら「オバマ大統領にエドワード・スノーデンを赦免するように頼んでくれてありがとう。
あなたは世界中の懸念された市民のコミュニティに参加しています。
誰もがプライバシーを守るために起きた人権のヒーローであるエドワード・スノーデンを見ています。」
と言って貰えました。

「誰もがプライバシーを守るために起きた人権のヒーローであるエドワード・スノーデンを見ています。」
というのは
「誰もがプライバシーを守るために起きた人権のヒーローであるエドワード・スノーデンを監視しています。」ということの示唆か?

このサイトをGoogle日本語翻訳すると、こうなりました。


題名が「エドワード・スノーデンはヒーローではない裏切り者であります」

大切な署名の題名がまったく逆の意味に翻訳されています。
「Edward Snowden is a hero not a traitor」
これをコピペして別にGoogleサイトで翻訳すると
「エドワードスノーデンは裏切り者ではない英雄です」
と翻訳されました。

いったい、これはどうゆうことか?しかも上のほうに「巻き込まれる」と項目にあるが我々はいったい何にこの行動によって巻き込まれるというのか?
なんでここまで逆の意味に翻訳されてしまうのか?しかもサイトのほうだけが。
これじゃ偶然このサイトに行き着いた「俺はエドワード・スノーデンという男がすっごいヒーローぶっててむかつくから早く捕まって欲しい」と言う人間が間違って署名して、署名したあとにようやく気づいて「間違えたではないか」と激憤して後悔するということが起きかねない。


しかも、彼を監視するため、彼のTwitterを見てみたらこれである。






自己紹介のところが日本語翻訳すると
「私は政府のために働くために使用されます。
今、私は公共のために働きます。」


つまり、「ぼくは政府のために今も使用されてはいるけれども、同時に公共のためにも働くよ?」ということなのだろう。

まったく都合のいい人間である。

これも前記と同じにコピペしてGoogle翻訳してみると「私は以前は政府のために働いていました。」とちゃんと翻訳されているではないか。
GoogleもTwitterもNSAとCIA傘下にある企業だから仕方ないといえども

まったく笑かしてもらえるGoogle翻訳だ。
早く、コンピュータん翻訳が完璧に行える時代に来て欲しいものだ。

こんな未熟な文明のまま我々は滅びるわけには行かないだろう。
こんな文明のまま滅びたら、いったい未来の文明人からなんと言われ笑われることか。








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すべてのくるしみ

2016-07-14 05:14:55 | コラム



水道水で、野菜や米などの食品を洗うと、ビタミンの10~30%が損失することが明らかになりました。
 塩素が食品の細胞に入り込み、ビタミンを壊すことが原因です。


ああしまったなー今頃知ってしまった。
野菜を水につけておくと栄養が抜けていくのは知っていたが、洗うだけでも30%もなくなることがあるのか。




本来人類は植物だけで十分健康に生きていけると言われているのだが農薬、化学肥料、水道水などで栄養は半滅し
植物だけでは足りないと勘違いして、その分を肉や魚や卵などで補おうとするのではないか。





一日の量は約10g(小さじ2杯くらい)。
外食が多い人やファーストフードや加工食品が主な食事の人は年間約11kg 摂取してると言われています。

食品添加物も日本は得に使用量が多いです。他国と比べてみましょう。
日本・・・351品目
アメリカ・・・133品目
ドイツ・・・64品目
フランス・・・32品目
イギリス・・・21品目

 明らかに日本は使用量が多いです。食品添加物の中には発がん性があるものもあります。このことからも、日本だけがガンの発生率が上がっていることと関係がないとは言い切れません。



異常やな、病気になればそれだけ医療業界も儲かる、添加物の原価なんてめちゃくちゃ安いから安く売って食品業界も儲けられる。
添加物を作ってる人間はどれだけそれが人体に悪いか一番知ってるので自分は買わないし、自分の子供には絶対食べさせないと言っていた。めちゃくちゃだ。

儲けのためだけに、日々新しい添加物の開発に勤しみ動物実験で動物たちが犠牲になっている。
先進国で唯一日本だけが動物実験の規制がないのは何故か。





平成 25 年度は平成 22 年度(前回の調査)と同様に一部の動物種を除いて減少傾向が見
られる。
マウスにおいては前回の調査に比し、近交系と遺伝子改変は増えたものの、マウス全体
では前回の調査に比して約 24.8 万匹減少(5.9%減)して 396.2 万匹となった。

また、ラット全体では前回の調査に比し、42.7 万匹減(25.9%減)の 122.0 万匹となっている。

モルモットは約 6.1 万匹(37.6%減)、ハムスター類は約 3.8 千匹(22.8%減)、ウサギは約 3.0 万匹(33.6%減)
とそれぞれ減少し、それぞれ 10.1 万匹、1.3 万匹、6.0 万匹となっている。

イヌは約 1.9 千頭(22.7%)減少して 6.4 千頭となったが、ネコも数量は小さいものの
117 匹(17.4%)減少して 554 匹となった。

各種動物が減少傾向にある中でブタは 2,806頭で 74.0%(1,193 頭)の増加となった。

サル類はアンケート結果では平成 25 年度の販売数 2,966 頭で 2.2%(66 頭)減少したが、
動物種類別輸出入検疫状況に基づく輸入検疫実績の報告では、平成 25 年は 5,115 頭でアン
ケート調査の数量の約 1.7 倍程度であった。

これは使用者が直接又はアンケート先以外から輸入・仕入れして使用したサル類が相当数いることを示しているものと推察される。


霊長類であるサルを年間5,115 頭も実験に利用している。
豚は 2,806頭
犬は 6,400匹
猫は 554匹
モルモットは 101,000匹
ハムスター類は 13,000匹
ウサギは 60,000匹
ラットは 1,220,000匹
マウスは 3,962,000匹





単回投与毒性試験 

化学物質の毒性を調べる実験
(医薬品、食品添加物、農薬、塗料、化粧品、シャンプー、台所・洗濯用洗剤、 トイレタリー、抗菌スプレー、おもちゃ等)
1群5匹以上のラット(げっ歯類)とイヌ(うさぎ以外の非げっ歯類)を絶食させたうえで強制的に化学物質を投与し、 毒性の徴候や致死量を調べる。
 期間は通常14日間とし、終了後生き残ったものも全て解剖する 




皮膚刺激性試験

化学物質の皮膚への影響を調べる実験。
 ウサギ、モルモットの背中の毛を剃り皮膚に損傷を与えた後、その部分に2週間試験液を塗布し、皮膚の状態を経過観察する




眼刺激性試験(ドレイズテスト) 

眼に試験物質を点眼し、その刺激や腐食性を調べる。
ウサギは眼を手足でこすらないように、頭だけが出る拘束器に入れられ72時間経過観察される。
 あまりの痛みから暴れ、首の骨を折って死んでしまうものもいる 




医学研究

生体の機能や構造を知るために動物の体を切り刻んだり、人間の病気の原因や治療法を究明する目的で
 がん、高血圧、糖尿病、皮膚病など人の病気と同じ症状を持った動物(疾患モデル)を人為的に作り出す 




脳研究 

ネコやサルの脳に電極を差し込み電気刺激を与える。
または脳の一部を破壊し、その行動の変化を調べる実験など、近年では脳の働きに対する科学者の関心は高まり、
 脳機能と行動の関連性を調べるなど生理心理学を基盤とした脳研究が盛んに行われている 




心理学の実験

人間の精神(心)を解明するために動物の心理や行動を実験や観察によって研究する。
産まれて間もない子猿を母親から引き離し隔離する実験や繰り返し電気ショックを与え心理的影響を調べるストレス研究など、
 実験は無意味で残酷なものが多い



これらは人間の安全や健康のために行われているわけではない。
すべて企業の利益のために行われ続けている。
動物を苦しめ続けて人間が幸福になどなれるはずもない。






日本で行われる実験では、動物に対し麻酔などは一切施されておらず、一度行った実験もデータを取らずに何度も何度もまったく同じ実験を、無駄な犠牲と税金を使ってやり続けている。
また、動物実験は非常に儲かる業種らしく、しかも日本は実験する団体に許可などは必要ないため、いろんな企業や輩が群がってくる。
 そして何度も同じ実験をしては、その度に金儲けをする。その悪循環なのだ。





映画 Earthlings [アースリングス] 日本語字幕 12/13 科学 動物実験




思い出してください。どんな病気の原因でも
故意に引き起こされる病気は
 自然に起こるどんな病気とも異なっています






動物たちへの拷問を繰り返し続けることによって、人間にもたらされ続けるものがひとつ、あります。

それは、「人間の苦しみ」です。

人類の苦しみは人類が与えるすべての存在の苦しみによって生まれます。









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菜食の勝利

2016-07-13 18:48:47 | コラム
お肉を食べなくても最強になれる証拠!総合格闘技の王者がヴィーガンに大敗!



あんまり格闘技の世界は滅多に覗くこともないけれども、



Nate Diaz ● Highlights 2016 ● HD








このヴィーガンで王者を最後にぼっこぼこにしたネイト・ディアス、かっこいいな。

「ヴィーガンキック!」「ヴィーガンパンチ!」「草食人間のパワーを思い知れ!」と頭の中で声援しながら観てました。
「実兄のニック・ディアスとともに、UFC随一の悪童として知られるネイト」と言われてるそうです。
草食系悪童男子w ギャップがかっこいいです。




マクレガーは試合の前にディアスに何回も
「おまえは怪我をしてるガゼルのように遅いぞ。そしてライオンの俺はガゼルのお前を殺してやる‥」
と言ったり、脅かしたりしたが、結局ヴィーガンのディアスは裸絞めという技でタップを奪い勝利した。


マクレガー(笑)最初は責めてたのが最後はこてんぱんにやられてたのでちょっと恥ずかしいけど面白い人だな(笑)
肉食獣はスタミナが切れるのが早いですからね。



格闘技界がベジタリアンブームに!


元KOTCライト級王者マック・ダンジグ、元Strikeforce王者のジェイク・シールズは有名ですが、
最近ではレスリング全米選手権で2度優勝しているアーロン・シンプソン、
12連勝記録を持つジョン・フィッチ、
現Strikeforce王者ニック・ディアス、
その弟であり、The Ultimate Fighter 5ライト級トーナメント優勝者、ネイト・ディアスもベジタリアンに転向した





UFCファイターも草食系化【比喩的ではなく】


・発信源はジェイク・シールズで、子供の頃からベジタリアンだったのだという。
「(通常の食生活と)比べようがないんだけど、一ついえるのは、僕ほど長時間練習できる選手はいないし、それって何かを意味しているんだと思う」




ベジタリアン名簿 スポーツ界



肉を食べて力をつけるのは、もはや時代遅れですね。
肉を食べてムキムキの体とか、「やめてっ、見たくないっ、キモイw」って感じですけれど、ヴィーガンでムキムキとか
かっこいいと思いますね。
ヴィーガンは力をつけるためだけではなく、すべてにおいて優しい食生活ですから。
ヴィーガンが世界を救う、ヴィーガン王者がこれからどんどん増えていくことを願います。






この世はVeganの勝利!







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芸能界に幻想す歓声の残響を君は聞いたか?

2016-06-25 16:47:57 | コラム

最初のうちは記者に対して苛立ちを感じたが、最後まで読むと切実さを感じられた。
誰かを苦しめなくてはならない商売で真っ先に思いつくのはと殺(屠畜)業者である。
そしてコメントを読むとまたもや苛立ちを感じた。
これはまるで肉を食べながらと殺(屠畜)業者を嫌悪している人間の心理によく似ている。
霜降り肉はカロリーの高い穀物ばかりを与えて牛をメタボにし、病気にさせて苦しめさせて作られる。
メタボが進んで盲目になる牛もいる。
霜降り肉を買う人間が多いので業者は霜降り肉を作るが、ほかの牛肉は食べるが霜降り肉は食べない、残酷だからやめろと言って
批判されているのと同じような立場にこの記者はいる。

記事も同じで、それを求めない人ばかりならそんな記事を書くための記者もおのずと消えていく。
読む人間が多いためにそれが商売になるから、どんなに批判されても食っていくために書かねばならない。
牛に霜降りにされるのはあんまりつらいからやめてくれと目で訴えられようが、自分も商売がかかってるんだと言い聞かせたい気持ちはわかる。
相手の命を取るか、自分の命を取るか、という状況にこの記者が立たされていないとは言えない。
それくらい、何か尋常でない切実さを読むにつれて感じられたのである。
大恥をかいてでも自己弁護に尽きる記事を書かねばならなかったこの記者に自分は同情を覚える。

不祥事のゴシップと命がかかっている今回の取材を一緒にするなというコメントが多く見受けられた。
でもどれも自分は命がかかっていると思う。
不倫などのちょっとした過ちであってもそれをこぞって非難されたら精神を病んで自殺しかねない。
不祥事をしたのだから仕方ないとするならそれこそ恐ろしい考え方だ。
薬物で逮捕されたらもう二度と芸能界へは戻ってくるなというコメントも別の記事で多かったが
それは「死ね」と言ってるのと変わりない。
顔が知れているのだから、普通の仕事でやっていけるとは思えない。

芸能人に対して世間は必要以上に厳しい、これは昔からなのだろうか?


芸能とは元々は神と交わるための行いで「原初的な共同体の祈り(祭祀)や感謝(祭礼)における呪術的儀式が芸能の原点」であった。
しかしそこに権力者が現れ社会に身分が生まれ「神と交わる役割は、独特の人格と能力のある人が果たしていた人間」は
「神や仏の前で歌い、踊り、舞い、演技する」ことで権力者を楽しませる一つの職業となった。
一方で民間の祈祷師は村落のなかで祈祷や占いをやっていて
「こうして芸能は、権力に抱えられて洗練されていくものと、庶民の生活に密着した土俗的なものとに分かれて」いったという。

朝廷貴族にそうやって利用されながら「室町時代に観阿弥・世阿弥の親子が能を舞台芸術として完成」させた。
「世阿弥が書いた『風姿花伝』という芸術論には、神や仏に捧げるものでありながら、
大衆的な娯楽としても人々を楽しませなければならないと苦悩する有様が書かれて」いる。

貴族に愛される一方で賤民出身の芸能者たちは「当時の貴族から『乞食所行』と呼ばれて」いた。
社会的分業が進んでいくと「室町時代には、かつてのような宗教的な役割は否定され、
物を生産しないで各地を流浪する芸人で、社会的にも卑しいとされてしまった」。
大衆にもてはやされるために『生まれた芸能で代表的なものが「歌舞伎」や「人形浄瑠璃」「説教芝居」』だという。

「日本の三大芸能はすべて低い身分におとしめられた人々のなかから、自主的かつ創造的に生まれた」
歌舞伎は「原点は底辺に生きる人たちが最先端のファッションに身を包んで反体制を表現した芸能だった」。
「三大芸能のほかにも、大道芸や門付芸、見せ物芸など数多くの芸能があり、人通りの多い道端や寺社の境内、お祭りなどで演じられていました。
人々はそうした芸能を楽しみつつも、各地を転々としながら暮らす遊芸民たちを『その日暮らしの漂白民』として差別的に見ていました」。

元々あった神を乗り移らせるという特殊な才能に合わせて、差別され続け苦労してきたことで
他にはない芸に秀でた素晴らしい才能が生まれていったのであろう。
人々から差別されながらも人々を喜ばせて稼ぐという商売は見世物小屋などが海外でもあるから日本に限ったことではない。


芸能は芸術という表現の一つであって世間の考え方や非難に負けていては到底やっていけない仕事というか、役目のようなものであるわけだ。
権力と世間に負けるなら芸能は向いていないということになる。
これは世間の求める執拗な取材もまた世間であるから、それを拒んでいては芸能はやっていけないだろう。
それこそ何をされても言われてもパンク精神のように自らの価値観すらぶっ壊しながらやっていかなければ続けられないだろう。
芸能界というのは昔も今もとてつもなく過酷な世界だ。

そして芸能に生きる人間は差別されながらも尊敬され、その才能を差別する人間たちから高く評価されて生き残ってきた。
つまり差別しながらもどこか人間離れした才能に人々は憧憬を抱いて不祥事などは起こしはしない
今でいう世俗の人とは違う「意識の高い人たち」というイメージと願望のようなものを抱いていた。
言わば、都合のいい幻想である。
普段から理解するに難しい奇妙な絵を描く画家や、よくはわからないがすごいと思える詩を書いている詩人が不倫、薬物などの不祥事を起こそうが
「ああ違う世界に生きている芸術家だから、まあいろいろあるやろ」で済ませて特に気にしないが
芸能人が不祥事を起こすとむきになって非難する人が多い、または嫌悪を感じる人が多くないか?
これは芸能人というのが、昔から民衆の一番近くで芸をやり続けてきた人間たちだからではないだろうか?
大衆芸能、大衆芸術として人々の共感を呼ぶ芸をずっとやってきて
それに共感し続ける大衆の人情ありきで続いてきた世界である。

劇の中ではいかに観客の理解できる感情をもって物語を展開させていくかが重要であった。
その役者の中に人々はあらゆる自分を映しこんで引き込まれていく。
役者の演じる役は人間離れしすぎていては面白くない、
殺人者を演じても亡霊を演じても狐を演じてもそこには人間が大いに共感する人情があるから面白い。
人間の汚い部分、純粋な部分、人間の誰もが持つ潜在的な悲しみや恐怖など、それらを
異形の役でも表現して見事に演じ切る。
あらゆる存在を演じる役者は神々しい反面とても人間らしい存在なのである。
観るものはその役者を通して醜い自分や自分の純粋さに気づかされたりする。
「どんな自分をも演じてくれる存在」としていつも期待して次の素晴らしい演技を待ち望んでいる。

しかしそんな役者が劇の最中ではなく実生活で何か不祥事を起こすと
とたんに「どんな自分をも演じてくれる存在」として神々しい幻想を抱いていたその幻想がもろくもぶち壊されてしまう。
すると人々は不祥事を起こした醜い自分の姿をその演じていない役者に見る。
その役者がそれを演じているのではなく演じていないことによって、その姿を目の当たりにする自分の本質であるかのように見せつけられてしまう。
今までずっと自分を映しこんできた役者の不祥事は、まるで自分の冒した恥ずかしい不祥事であるかのように錯覚してしまう。
それは観客が都合のいい幻想を役者に見続けてきたからである。
「自分のどんな姿をも演じてくれていた存在」の本当の姿とは神々しい世俗離れした存在であるのだと。
「自分の本当の姿」に対する幻想を観客は役者を通して無意識にも抱き続けていた。
これは役者に限らずともテレビに映るような人たちすべてに言える、日々目にする人たちへの幻想を視聴者は気づかぬうちに胸に温めているのではないか。
よく目にする人ほど、自分をよく映しこんで見ていることだろう。
「ああ、あの人のあの部分って嫌だなあ」「あの人は誠実そうだな」あらゆる自分を投影しながら人々は芸能人たちを目で追っている。

人々はいい幻想を見たいのである。心地の良い幻想を。
そのための芸能であると常に無意識に思っている。
そして誰かが不祥事を起こした、となれば「自分とは関係のない存在」として都合よく自分と切り離したい願望を持っている。
それは相手に映しこんだ自分自身の「負の部分」を自分のものではないと思い込みたいため切り離そうとする心理である。
だから必要以上に不祥事を起こした芸能人をこぞって叩く。
そしてもう二度と自分の目の前に現れて自分に「嫌な自分」を見せないでくれと頼むのである。
不快だからと、嫌な自分を目にするのは。
もう幻想は壊れて、戻せなくなったから、もう戻ってこなくていいよ、と言うのである。

芸能人とは幻想を抱かれてなんぼの商売である。アイドルなんかも薄っぺらい幻想しか抱かれていない。
幻想を抱くために、幻想以外は見せるな。というのが多くの観客の本心なのだろう。

それがゆえにスルーされただけで刺殺そうと考える人間もでてきてしまうのである。
薄っぺらい幻想しか抱かせないアイドル業界は直ちにアイドルの命が大切なのならば在り方を変えなくてはならない。
普段からアイドルの汚い本音などを見せなくてはならない。アイドルも普通の人間なんだと。
普段から「ハゲたおっさんほんまキモイよな」などの本音をTwitterやらで呟かせていれば観客は都合のいい幻想はやめて
人間対人間としてアイドルと関わっていくことができるだろう。

商業に人間を利用しているのが芸能界であれば、人間の心理を利用しているのがマスコミであり
芸能人を利用して都合のいい幻想を抱きたいのが視聴者である。

自分がこの「芸能人を利用して都合のいい幻想を抱きたいのが視聴者」たちの
「肉を食べながら屠畜業者を嫌悪する心理」なるコメントに対してイラッと来たのは
その発言が「かつて肉を食べていながら完全には消え失せない屠畜業者の人たちへの無意識の嫌悪」
と同じものとして自分の中に同じくある「自分の心理に対しての嫌悪の投影」であるからだ。
で、ああまた投影心理で自分はイラッとしてるぞと気づいた瞬間苛立ちは消えた。
苛立ちから恥ずかしさに変わった。

ゴシップにほんの少しでも興味を持ってしまう人間はマスコミの行いを非難する資格はないし
またマスコミに嫌悪を抱くということが自分の中にある醜さをマスコミに映して嫌悪や苛立ちを感じる投影心理であるということに
気づかない人は多いが、気づけばそんなことでいちいち苛立ってストレスを抱えて病気を招くこともなくなるわけである。

また、「人の不幸は蜜の味」とはよく言ったもので、「人間は本当のところで人間の幸福よりかは不幸を望んでいる」
というテーマはこの記事の前の記事のテーマと繋がっており、そこで説いた通り、「人間は幸福よりも苦痛が必要である」という一つの結論と繋がる。

幸福ばっかりでは人間はアホのままであって大した喜びも感じられないから、成長するに不可欠な不幸(苦悩)が人に訪れることを人は密やかに望んでいる。
幸福の次に訪れるであろう不幸を見越して人間の幸福を大いに人は喜ぶことができるのである。
これは何もひねくれた考えではなく、人間とは不幸があって、ようやく幸福を感じられるようにできておるので致し方あるまい。
イエスも
  今飢えている人々は、幸いである、
  あなたがたは満たされる。
  今泣いている人々は、幸いである、
  あなたがたは笑うようになる。



  今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
  あなたがたは飢えるようになる。
  今笑っている人々は、不幸である、
   あなたがたは悲しみ泣くようになる。


ルカによる福音書6章21,25節
と言っているこれは人間の生きる自然法則なのです。

だから本当に人の幸福を願うならば、安易に幸福を喜ぶのではなく、どんな苦難にも耐えうる強さが与えられますように。
と祈るのが私はいいと思うのである。


海老蔵を見ているとまるでうちの父を見ているような気持ちになる。
母が乳がんで闘病した二年もの期間、幼い私と兄を抱え父がどのような想いで生きていたか。
大きな試練に耐えながら演じた海老蔵の渾身の演技を観たかったなと思う。







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苦痛を自ら求めよ

2016-06-25 02:57:06 | コラム
残虐映像に慣れきってしまった我々の課題 ―映画『シリア・モナムール』にみる残虐映像の受け取り方―

素直でとても良い記事だ。
なんでこういう記事をコメント付きにしないでどうでもいい記事をコメント付きにしてるんだ。

これは結局、人間が幸せでいるとどのような深刻な問題が起きてくるかを言っている。
幸せでいる人間は本当のところで、感情の奥底から悲劇を悲劇として感じることができないのではないか。
例えばかつて鬱病だった人間は鬱病の苦しみに心から共感することはできない。
それは過去の苦しみであって、今の苦しみではないからだ。
過去の苦しみを思い出そうとしても今が楽な時ならその苦しみを呼び戻すことさえできない。

今、苦しくない人間は知らない他者の苦しみを自分の苦しみとして感じることが難しい。
それは他者の痛みも自分の鏡でしかないからだ。
いくら過去が苦しみの連続にあったとしても過去の鏡を今見ることはできない。
今幸せにある人間、今楽である人間は他者の悲劇は遠いところの悲劇としてでしか感じ取れないのは無理もないだろう。
遠い場所の悲劇に心の深い部分で共感するには、普段からの消えることのないような苦しみや悲しみや痛みといった感情や感覚がどうしても必要になってくる。

しかし日本は平和な国と言うのはおかしいのではないか。戦争や紛争やテロがなくとも1日に70人自殺している世界でも異様な不幸な国だからだ。
日本といえば真っ先に過労死、自殺大国と言われる国は平和な国では決してない。
日本が平和な国と言えること自体が、日本にある苦しみですら見えていない幸せで楽な生活を送り続けることによって平和ボケしてしまった状態にあると言える。
それも一つの悲劇的な状況だ。

この記者のように他者の苦しみを遠いところに感じてそれに嘆くというのは正常な感覚だと思う。
楽なところにいる苦しみ、幸せでいることの苦しみを感じられたらあとは自分の求めるまま苦しみを求めてそれを人は手にするようになるだろう。
毎日のように逃げ場のない苦しみの中にいたら遠い場所の苦しみも現実的に感じられるようになってくる。
自分の苦しみに間違いなく蓄積されて消えることのない苦しみとして受け入れられるようになってくる。
日本はまだ精神障害や精神病を負のものでしかないと思いたがる人は多いかもしれないが、苦しみの中に居続けることでしか感じ取れない、見えてこない大事な面、また喜びがあるということが解るなら、価値観、人生観というものは大きく変化して苦痛に耐えやすくなる。

幸せ、快さ、楽なものを欲求するのは生物の本能だが、同時に生きていく苦痛に耐えるための苦痛を自ら求めるのも生物の本能ではないかと感じている。
生物がほとんど過酷な状況に生きていることからもよく理解できる。
人間の問題とは苦痛に生き続けることよりもむしろ苦痛から離れ過ぎて生きることにあるように私は思う。

現にこの地球は人間たちの快楽ばかりを貪る考え方から滅びへと今向かっている。
地球を持続させるには、人間が喜びと同じだけの苦痛を自ら求めようとしだすことが必要となってくる。
楽で生き続けたいという考えがあらゆる問題を生み出す。
なんでもバランスが大事で、バランスの取れた世界が平和な世界と言える。
楽ばかりが在り続ける世界、それは平和ではなく、狂った世界である。
一方、耐え切れない苦痛を他者に与え続けている世界もまた狂った世界だ。

その肉を口に入れる前にどのような耐え難い苦痛がその肉の元であった生物に与えられていたか、罪悪感に打ちのめされ肉を口にするのに苦痛でならないほどの自分の苦痛が人間は必要なのである。
自分が何かに耐え難い苦痛を間接的にも与えているのに誰かの苦痛に嘆くことがどれほど滑稽であるか。
どれほど悲劇的な有様であるか。
日本にも悲劇は起こり続けている。
バランスの取れた平和など、まだどこにもない。
どこもかしこも、まだ狂い続けている。










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死に様を記憶せよ

2016-06-23 00:26:24 | コラム

面白いなあ、森公美子のお父さんが息を引き取る間際の話。

森  うちの父が死ぬときは心筋梗塞だったんですけど、母が言うには死を全部言ってたんですって。
「あっ、右足が冷たくなってきた」
「それがジワジワ上がってくる」
「神経が動かなくなってきた」
「左側にきた」
「ジワジワ上がってくる」
「上がってくる、上がってくる」
「手にきた、手にきた」
「お父さん、いいから黙って」 
「ドキドキする!」
「初めて死ぬからドキドキする!」と言ったんですって。

(一同爆笑)

森  それで、パッと目を開いて、「これが死ってやつか」と言って死んでいったんですって。

 タモリ 見事ですね。


かなり爆笑してしまった。
心筋梗塞で死ぬ前だから相当苦しかったんじゃないかと思うが、実況できる元気はあったんだなと思うと人々の一つの理想の死にざまかもしれない。


さっき改めて意識したことだけれど、自分というのは「生き様」よりも「死に様」に興味があるようだ。
「生きざま」と「死にざま」とリンクがあれば迷わず「死にざま」のリンクをクリックしていた。
特に変わったことではないかもしれないが、何故生き様よりも死に様に関心があるのだろうか。

死に様とはつまり、生き様の最期である。
生物とは未完成なものだが死ぬと完成されるからであろうか。
死に様というのはその完成されたる瞬間の有り様であろう。
一つの芸術作品が完成される瞬間にドキドキワクワクとする。これは何もおかしいことではない。
人間すべてとその他の生き物の大体も作品だと思う。この世で一つしかない作品。
同じ生き様と死に様がほかにない。そう思うほどそれが大きな価値に思えるのではないか。
例えば大きな爆破事故などで何十人と瞬間的に死ぬようなものでも一人一人状況や感覚のようなものが違うのではないか。
一人は走馬灯のような記憶の中一種の心地良さの中で死んでいくかもしれないし、
一人は「ああ、嫌だ」という感覚の中死んでいくかもしれない。

自分がどういった死に様をするのだろう?それに関心を持たない人はあまりいないんじゃないか。
自分の死に様にだけ関心があって他者の死に様には関心がない、このほうがちょっとおかしいように思える。
死に様というのはほとんどが苦しいものであるというのはほとんどの人はわかっているだろう。
人が死んだというニュースが入るたび、私はどんな死に様であっただろうかと想像する。
想像するうえでできるだけの資料はあったほうがいい。
どんなトラウマになる写真や動画があっても、それを見たいと思う人がいるならそれは見せたほうがいいと思うように
私は変わってきた。
かつては、反対派だった。「興味本位でそのようなものは見るものではない」と言う人間だった。
しかしどうやってそれを見る者が興味本位かそうでないかを知ることができるのだろう。
人間の心理とはそう区別できるような単純なものでもない。

「メメント・モリ(死を想え)」
これが何故大事であるのか。「生を想え」ではなく、何故「死を想え」であるのか。
死というのは他者の死を通してでしか自分の死を想像しようもないだろう。
他者の「生」を通して人は大事なことを学んでいけるが、その完成された状態である他者の「死」からは
「生」以上に学ぶことがあるはずだ。

「死」とは、ほとんどにおいて生きてきた中での苦しみや悲しみの頂点に位置する最も大きな苦しみであると思う。
自分の母親は42歳で乳がんを発病し、約二年後に癌が脳にまで転移してモルヒネなどで朦朧とした中に息を引き取ったらしい。
自分はまだ4歳で母の記憶は何一つなく、母がどのような苦しみの中死んでいったかは聞いた話から想像するしかない。
父は若い時に罹った結核で少しダメージを負っていた肺に黴が生える肺炎で、緊急で病院に行けば「入院するほどではないが、入院しますか?」と言われ入院してから約一か月後くらいに症状が急変し、息もまともにできないくらいになったので麻酔を打たれて、そのまま昏睡状態で一週間後の人工の輸血をした次の日に息を引き取った。
享年62歳。私が22歳の時、今から12年半前である。
麻酔で眠っている間も一日に何度も肺に溜まった淡を取るために口の中にチューブを入れられ、そのたびに目を覚ましたかのようにすごく苦しんでいた。
姉と交代で無機質な窓のない集中治療室に父の隣で眠る日々。
父がすべてだった私にとって、その時間は地獄そのものだった。
父の死に様は本当にあっけなかった。死ぬ病気ではないと言われていた病気で簡単に死んでしまった。
父が死ぬ瞬間、私は涙一滴も出ず、ただ心臓が異常にバクバクしていたのを覚えている。
最愛の父にもう二度と会えなくなる瞬間、今までにないストレスの頂点だったのだろう。
父が死んだ時間を若い女医が非常に頭の悪そうな読み方をしたので、消えてほしい、と思った。
すべてが馬鹿げていると感じた。
自分たち家族だけが絶望の中にいて、それ以外の人間は間抜けでしかなく、それが滑稽でならなかった。
死に様を前にするというのは、感動的なものは一切なく、当人たちの周りに対する憎悪や殺意に塗り手繰られた空間であり、周りもそれを感知して居心地の悪さ、ばつの悪さを滲ませているのだということを知った。
死に何か理想を抱いた覚えはないけれど、直面する死というのは、一番の現実的なこと(不快なこと)であると知った。


詩人の中原中也は弟の死を前にして「死ぬが死ぬまで、死ぬだらうと思ひながらも死ぬのだとは思つてゐなかつたので、いよいよ死んでしまつた時には、悲しみよりもまづ、ホーラ、ホラ死んだと、ギヨツとして顔を見合せるといつた気持が湧起つたのだつた。」という心情を綴った。(何故か青空文庫の”死んだ”の箇所は文字化けしているようだが、確か自分の記憶ではその個所は”死んだ”である)

実際死に様を目にすると、この中也の表現がものすごく共感できた。
「ホーラ、ホラ死んだ」という気持ちになるのである。
あまりの悲しみに非現実的な感覚になるのかというとそうではなく、ほうけた感覚にはなるもののあれほど現実を実感する感覚は私はない。

「人の死が見たくて見たくてしょうがない」と言ったのは酒鬼薔薇聖斗であるが
人の死が見たい人間は、現実を実感したいのかもしれない。
生きた感覚にない人間ほど、人の死に様を見て感覚を呼び起こしたいと思うのは自然な生理的反応で作用だろう。
自分は父が死んでからもうずっと生きた実感をほぼ感じられていないと感じる。
でもそれからも失恋などで薬に頼らねばきついくらいの苦しみにある時とかは生きているという感覚が
あった気がする。

生きている感覚を失った人間にとって、死に様を見るということは切実な欲求なのだと思う。
ネットなどで死体写真やグロ動画などを見てはネットに貼り付け共感を求め、人々を不快にさせる人の切実さは
相当なものだと感じて、規制されていくことに危惧を感じる。

死に様は確かに不快で苦しいものがほとんどだが、だからといって見たがらない、見せない、見ることを非難することは
人間が成長していくうえで大きな問題をはらんでいるように感じる。
そこには現実がある。不快の頂点を想像するものがある。
見ることに問題があって、見ないことに問題はないのだろうか。
毎日何十万と、悲惨なことが起きている。全世界で一日の死者は10万人~15万人ほどと言われているようだが
牛は一日に全世界で約26万頭と殺(屠畜)されていると言われている。
1秒間に、牛3頭、豚5頭、鶏1,100羽分ほどと殺(屠畜)されていると言われ
日本では一日にと殺(屠畜)される牛は約4,700頭で豚は一日に44,000頭くらいらしい。

世界中に溢れる地獄的な現状を日々目にしていたなら、自分が逃げようのない苦しみに立たされた時に「なぜ自分がこのような目に」という気持ちになることはあまりないように思う。
それはどこにでも起きている苦しみだからである。

自分は16,7歳の頃、いくつかマニアックな雑誌に載っていた死体写真を好奇心で目にしていたことがあったが
30歳で家畜の生々しいと殺(屠畜)映像を見てからは
だんだんと赤い色に拒絶反応を示すようにまでなってきた。
目にするすべての赤い色が恐ろしいのである。
できるなら目にしたくない。
赤=地獄的な苦しみの色 として目に焼き付いてしまったのだろう。
だからこそ自分は思う、耐性がある間に多くの現実を目にしておかねばならないのではないかと。
うっかりと見てしまった、というのでもいい、それがものすごく大事な経験ではないのかと。
一瞬しか見なかった死体写真を十年近く引きずってもいた。

自分にとって不快なもの、苦しいものを知ることで人が他者の痛みに対する共感を高めていけるのだとしたら
それらを避けていくことで、どのようなことが起きていくか。

「自分は生き様よりも死に様に興味があるんだ」と言えば一見人間の苦しみを快楽とするサディスト、または他者の痛みを自分の痛みとして想像するマゾヒストで異常性欲者かと思われるかもしれないが、自分は何よりも悲しみ、苦しみに価値を置いている人間で、その一方で苦しみや痛みに敏感なあまりにニュースを目にするたびに鬱になっているような人間なので単純に快楽に傾いているとも言えない。

しかし生きた実感のない自分にとって他者の苦しみであれ自己の苦しみであれ苦しいものであるほど
それが「生」であることは確かなのだろう。
生を求むため、死を求む、ゆえに生物は必ず死ぬのではないか。
すべての死がすべての生を育てている。
どんなに不快で苦しい死であっても、その死なくしては育たない生が我々であるのではないだろうか。






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Eyes died I

2016-06-19 18:37:11 | コラム
ストレスとは何か。知って頂きたいストレスの本当の意味

なるほどな、ストレスというのは不快な刺激によって起こる症状であり
ストレスの原因となる物事はストレスとは言わないんだな。

例えばうちの部屋は一日中窓を開け放ってるとテレビの音がかなりの音量で一日中聞こえてくるが
「まったくストレスなおっさんだぜ、おっさんの騒音がストレスだ」っていうのは間違ってるんだな。
「まったくどこのおっさんか知らんがおっさんのおかげでひっじょおに私はストレスだ」と言わなくてはならないわけだな。

そしてこのストレスという症状は不快な刺激と闘うために起こる準備であって
不快な刺激に立ち向かうため血糖、血圧、脈拍を上げ瞳孔を開いて呼吸を早める。

その興奮状態、緊張状態によっていつもより脳に血液、糖分が届き頭は冴えて痛みを抑え
高い集中力を発揮してくれる。
なのでストレスは悪いものではないがこれが度を超すと常に血圧、血糖値が高まって
様々な病気を引き起こし、コルチゾールというストレスホルモンがどばどば出すぎてしまって
脳の神経細胞を傷つけ精神の病にかかるリスクが高まる。

だから過度なストレスは危険だと、なるほど。
これを読んでなるほど、それでか、と思ったのは
よく目が死んでる人っているじゃないですか。
かく言う自分も目が死んでいる人間なんですが
よく死んだ魚みたいな目だと死んだ目の人間は例えられる。
または光を失った目。

これがよく犯罪者の写真を見ても思うんですが
多くが死んだ目、またギョロついた眼をしている。
なんでかというと、これは過度なストレスによって瞳孔が普通以上に開いているために
黒い部分が大きいと人形のような目に近づいてくるから、それがまるで
瞳孔が開ききっている死んだ人の目のように感じられるからではないか。

で、なんで犯罪者にギョロついたギロギロした目が多いかというとこれも
緊張を常にしていて呼吸も早く脈拍も上がっている非常に苦しい状態で
生き続けているためにその瞳孔の開きかけた目がさらにギョロっとするのではないかと。
どういう目?っていうと、まあ犯罪者じゃないんですが、こういう目のことです。









パンクロッカーで作家の我が師匠の町田康の町蔵時代の時の写真です。
生涯の師匠をここで出すなよ、出すなら自分の写真出せよ、と師匠に思われるかも知れませんが、まあここはひとつ許してもらって、この目、この目はまさに瞳孔も開きかけていてぎょっろぎょろとしています。
師匠の苦労度が伺える目です。

で、こういうギョッロギョロしてる目をよく殺人者の写真を見ても見つけるのです。
だからその目を見ただけで私はその人がどれだけ緊張しているかを見分けることができます。
でも死んだ目にもいろいろありまして、自分の写真撮ってもいつもこんな風なギョロッとした目ではないんですね。
でその時の目も死んだ目に見える。

死んだ目には種類があって、一つはこういったギョロ目なんですが、もう一つに多いのが
虚無的な目です。
そのとき虚無期なんでしょうね、その人の目は。ギョロ目のピークを越して虚無目になるのか
それとも虚無目を超えたらギョロ目になるのか、それはわかりませんが
自分としてはギョロ目の時は明らかに自分でもああ今苦しんでるなと思える苦しみにあるときで、虚無目の時は別段特別な苦しみがいま襲ってないが、苦しみが例えるなら大波のようにやっては来ていないが静かで波もたたない海面全面に薄っすらと広がり続けているという状態の苦しみの時、これが虚無目期なわけです。

虚無目期(きょむめき)ってちょっと言いにくいですが、ちょむめき、のほうが言いやすいですけれども、虚無目期と、ギョロ目期、これを私は行ったり来たりしている。
ギョロ目期は死んだ目じゃないんじゃないかと思う人がいられるかもしれませんが
私としては、結構死んでるんじゃないかなと、思うというか、思いたいというか
その、目は死んでるけれど、心はこんなにも生きている、というギャップがあるほど
いいんじゃないかなと思いますんで、そういうことにしておけばいいんじゃないかな。
ま、とりあえず、人間っていいよね、って話なんです。

兎に角、私は人の目を見たらばその人の悲しみの度合い、孤独度の度合いがわかります。
目に出るんですね、んびんげんはね、んびんげんって何?
人間はね。突如妖怪について話してるみたいなことになっちゃいましたね。
レプティリアンみたいな人間の皮をかぶった異星人「んびんげん」について私はずっと話してたわけじゃありません。

ま、目に出るということにしとけばいいんじゃないかと、ってそんないい加減な結論で終わろうとしてないので、続きを今考えているところです。
目が死んでることで傷ついて落ち込んでいる方がいらっしゃいましたら、その人に
大丈夫だよ、と、死んでなんか、いないよ?それはね、過度なストレスが関係してるんだよー
と言っておけばいいんじゃないかと、って言ってます。
そう、胸を張って生きていこう、目が死んでても、いいじゃないか。
苦しみに耐え続けてきた証じゃないか、君の目が死んでいるのは。
そう、僕に向かって「んびんげん」はいろんなジェスチャーを加えながら言ってくれた。


「んびんげん」完







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人間と車

2016-06-19 16:21:19 | コラム
夜が明けて降り出した雨が起きてもまだ降っている。
1日に平均11人が事故で死んで、1日に平均70人が自殺しているこの国で今日もみんな頑張って生きている。
外に出れば、合法的な殺害兵器である鉄の塊がブンブン走っており、2時間置きに1人事故で死んでゆく。
20分置きに1人ずつ自らこの世を離れる。

昨夜見た二つの事故の映像、あれは二つとも自殺なのではないかと思い始めている。
認知症や飲酒やドラッグの可能性も考えられるが、大型トラックと大型トラックの間、
大型トラックの車輪の間に自ら入り込んでいくというのは、あれは計算尽くなんじゃないかと。
あれがもし乗用車だった場合、相手側も被害は大きくなる。
しかし車高のかなり高い大型トラックならあんなものは屁でもないんじゃないか。

相手に出来うる限り被害は与えたくないが、事故で死にたい人は
大型トラックの間か大型トラックに突っ込んでいくのが一番だろう。
事故で死ねたら保険金も降りるかも知れない。残していく家族のことを思ってどうしても事故死に見せたい人は多いのではないか。

そう考えると悲惨な事故の映像も感動的に思えてくる。
あんな悲惨な死に方を選んでまで家族のことを想ってたのかもしれないと思うと。
乗用車に突っ込んで行くより大型トラックに突っ込んでいくほうが何十倍と死ねる確率は高い。
もし失敗すれば半身付随などになって最悪なことになる。
どうしても成功させなければならない。
そうすると一番成功させやすいのが、昨日見た映像の事故の起き方、普通では考えられないような事故になる。

一つ目の映像は広い道路だから多分日本じゃないと思うが、
ものすごく大きな車輪の並ぶタンク型ではない平ボディの大型トラックのその車輪部分に
少し離れたところからおっちゃんみたいな人が乗った小さなバイクが横から
普通に走ってって車輪の下に入って動いた車輪に巻き込まれるという事故の映像。
見るからにまるで車輪部分に吸い込まれるような形で突っ込んでいってる。

正常な感覚を持った人間が起こすような事故ではない。
正常な脳の感覚を失っていないと起こりようがないと思えるような事故。
ただ認知症のような症状だったのかもしれない、アルコールやドラッグで脳がおかしくなっていたのかもしれない。でもなんであんな遠くの場所から車輪部分目掛けて突進していくのだろう?

北野武が94年にバイクで事故って顔面がえらいことになったあの事故はもしかしたら自殺をしようとしたのかもしれないと言っていた。

たけし、「バイク事故は自殺だったかもしれない」と語る。(26)「北野武 神出鬼没」北野武×蓮見重彦


もう一回同じ状態にいくんじゃないかとたけしは心配しているようだ。

酔っ払った頭でバイク乗りながら一瞬自殺念慮が起こってその瞬間かその一瞬のあとに事故が起こることってあるだろうなと思う。
酔っ払ってバイク乗っててふと自殺したいという思いが沸き起こった瞬間に
ちょうど目の前に大きな車輪が並ぶ光景が目に入るか、それとも酔っ払って
バイク乗ってて目の前に大きな車輪が並ぶ光景が視界に入った瞬間にふと、
あ、自殺したいな、という気持ちが沸き起こるのか、どっちもあり得ると思うが、
そうなってしまうと脳が正常な感覚ではないのでまるで吸い寄せられるかのように
車輪部分に突っ込んでいってしまう。というのは至極納得が行く。

恐ろしい話だが人間の脳とは脳内成分の働きによっていとも簡単に操作されるかのような行動をとってしまう。
普段死にたいとは思わない人であっても無意識に潜在意識の中に
潜んでいた自殺念慮がアルコールや薬やなんらかの脳内物質の異常によって意識下するか、
もしくは無意識下であっても行動に移ることがあるのではないか。
だからアルコールや精神系の薬を摂ったあとに自殺する人はかなり多い。

ストレスが休みなく続くようなこの国では特に、ふと脳が緩んだ瞬間に楽になりたいと思う人は多いんじゃないか。
ここで脳内物質の異常と言えば現代病の鬱があることも忘れてはならんだろう。
鬱は脳内物質が異常になる。
なんかおでんみたいな匂いが流れ込んできてお腹がすいてしまったが続けよう。
まだ起き上がってないので布団の上でずっとスマホで打ち込んでいる。

脳内物質が異常になっているのは確かなので、鬱状態にある人は正常な脳の状態にあるとは言えない。
私自身が鬱とははや15年以上は付き合っているので、鬱と事故の危険性について言いたいと思う。
鬱になると、感覚が普通とは変わって、ボーッとする。
脳がまともには働いてくれてないので何かを理解するにも普通の何十倍ほどの時間と労力を必要とする。

これは言葉だけでなく、空間にある物事の存在の理解にも同じように労力がかかる。
例えば鬱の状態で外を歩くと、道路の向こうから車が走ってくるのは見てわかる。
ああ車がだいぶ先のほうにいるからここで渡れば大丈夫だ、というのはわかる。
しかし終始ボーッとした感覚があるので、そのボーッとしたのは行動に勿論反映して、
自分では普通に早く歩いてるはずが実はものすごくゆっくりと歩いていたということが起きてしまう。

だから鬱が酷い時は歩道を渡っては行けない。
自分も何度か車が走ってくるスピード感覚を捉えられず渡ろうとしてぶつかりそうになったことがある。
実際のろのろと曲がってきた車に軽く当たったこともあった。
自分はその危険性を十分わかっているので外だけではなく家の中でもものすごく慎重にいちいち行動している。
無意識で行動することのないように一日中ほぼ意識的に生きている。

例えばお湯を沸かしてお茶パックを鍋に入れる時も自分は今からこのお湯にお茶パックを入れるのだ。
熱湯に気をつけねばなるまいぞ。と神経を張り巡らせながら沸いた湯にお茶パックを入れる。
そうしないとついボーッとしながら行動してしまい様々な危険が起こり得る。
しかしこれもあんまり鬱が酷いと通用しない。
そういう時はお酒をくっと飲んで料理したりするがこれはこれで危ない。

アルコールも精神医薬も脳内物質の異常を脳内物質の異常で誤魔化しているに過ぎないので、
それを続けることは脳内物質の異常をさらに引き起こすことになるとわかってはいるのだが、
これが苦しいものだからやめることができなくなるというわけである。

ちなみに私は薬の類いはもう一切飲んでいない。
よっぽど苦しくて寝れない時期は漢方薬の抑肝散を飲むことがあるくらいである。
自分は副作用もなくスッーと心地良く眠れる。
自殺念慮の起こる時も脳内物質の異常が起きている。
これも平常感覚とは違うボーッとした感覚にある。
現実感覚の欠如、夢の中を生きているような感覚、そんな状態の中、
車やバイクなんぞに乗ったら一体何が起こるか?

二つ目に見た事故の映像、これは轢かれて血飛沫が飛ぶとかいったグロテスクなものは何もなかったが、
精神を病むような悲惨な事故の有り様だった。
乗用車の後ろからカメラを撮っていて、乗用車の前には大型トラックが止まっている。
乗用車は一体何を考えたのか後ろから車がそこまで来ているにも関わらず右へ
車線変更の為に右側の道路へ移動しようと乗りかける。
そしてまず右側の道路の後ろからやってきた乗用車とぶつかる。
そしてすぐ後に続いた大型トラックにもぶつかって、乗用車は自分の元いた車線の前に止まっていた大型トラックと後ろから突っ込まれた大型トラックに挟まれながら突っ込んできた大型トラックと一緒に前へ運ばれるにつれて車の幅が4分の1くらいになってしまう社会死状態は決定的な映像だった。

瞬間的な事故だから即死だと思うが、これは一つ目のグロテスクな映像よりも精神に来るものがあった。
私はその映像を何度目かに一時停止しながら見てみたが、ああこの時はまだこの車の中の人は生きてるんだなと思うと悲しくてならなかった。
一瞬の後にあんな悲惨なことになってしまうんだと思うとこの世の不条理に虚無を感じもした。
どんな子供時代を過ごしてどんな人生を歩んできたんだろうと思った。

なんで後ろから車来てるのに車線変更しようとしたんだろう?
大型トラックが前にいる、そして後ろの後ろに大型トラックが来た、
よし、今右へ車線変更すればこれは確実に死ねるだろう。そう計算して右へ寄ったのだろうか。
ボーッとした感覚状態の中に前に止まっている大型トラックとバックミラーに大型トラックを捉えた瞬間、死のうと思って右へハンドルを動かすのはおかしいことではない。
ただドン!と当たって頭を打って死ぬという事故ではなく、あんな原型を留めないような凄惨な死に方を何故しないといけないんだろう。
どうしてあんな凄惨な死に方をするかもしれないのに車は売れ続けているんだろう。

想像力の欠如?いや、違う、本当のことを誰も見せないからだ。
本当の恐ろしさを学校でも教えない、車がどれだけ悲惨な事故を生んでいるか、本当の現状を見せて警告する人があまりに少ないからだ。

乗らなくても別段いい人まで車に乗っている。便利だから。楽だからと。
車が多いほど事故は起きやすい。
多くの人がアメリカの銃を規制するべきだという考えを持っているようだが、日本で2時間に1人死んでいる事故の原因である車を規制したほうがいいという声は滅多に聞かない。
まるで交通事故は病気と並ぶような死因だとみんな思っているのだろうか。
病気はあんな血飛沫が飛び散って肉片や脳みそが道路に転がったり、原型を留めない死体などを子供が見てしまったりするようなことは起きない。

どうしたら車を減らしていくことができるんだろう。
この先何度人の手によってグロテスクな遺体を片付けていかなくてはならないのだろう。
ちょっとやそっとの事故が起きても大丈夫な頑丈なボディだと唱って新製品を売る。そんな頑丈な車体にぶつかった為死ぬ人のことは考えないのだろうか。

人間が便利で楽しい車というものの為にあんな悲惨な死に方をしてほしくない。
人間はそんな便利さや楽しさよりずっと大事なものなんだ。

















「キラーカーズ / 人を食べた車」と「Car Is Murder(車は殺人)」

2016-06-19 02:21:47 | コラム
大型トラックの酷い悲惨な事故の動画を見てすごく鬱になっている。吐き気もずっとおさまらない。


一年で4,113人の死亡者。一番多い日で一日に22人の死亡者。これでも減少してきてるらしい。
これこそ異常だと思う。
交通事故だから仕方ないと言えるような死者数ではないと思う。

車は本当に必要なのだろうか。大型トラックは?
大型トラックがあれば助かる企業はそれは多いだろう。
でも人の命より大事であるわけがない。

車は便利だし人々の楽しみになっているだろう。
でも2時間に一人殺してまで要るもののはずがない。
救急車や消防車やパトカー、そういった車だけが走ればいいんじゃないか。

排気ガスの増加で地球もだんだんおかしくなってきている。
車をなくせないのならもっと安全なあり方になってほしい。
歩行者、自転車、バイク、乗用車、トラック、これらを全部専用の道路に分けるとか
そうしたらバイクや乗用車がトラックに巻き込まれる悲惨な事故も防ぐことができる。

便利なものは作るけれど、そういった最適な安全策を考えようとしないのは
これではまるで合法的な殺人兵器を作ってるのとそう変わりがない。

レディオヘッドのトム・ヨークは車で事故ってから車に乗るのをやめたらしい。
私は車は死んでも運転はしないが、助手席に乗ってる時もいつも事故の可能性が頭を離れず
安心しきって車に乗ることができない。
あんな大きな鉄の塊がブンブン走ってるところを平気で走るなど信じられない。
私は事故に合ったことはないけれど想像するだけでものすごく恐ろしい。
車はとんでもなく恐ろしいものなんだということを感じずに車に乗る人は
めちゃな運転をしそうで余計危険に思う。
これは車だけに限らず自転車やバイクでも同じである。
スピードの出る乗り物に乗ってたらこけただけでも大怪我をする可能性がある。

自分は子供のころ父親の一時期仕事で乗ってたものすごくでかい大型トラックに乗せてもらったことがあるが
あの視界はマジでヤバイ。
人の一人や二人轢いてても気づかないんじゃないのかというくらい位置が高い。
あんな視界の悪さで車を運転したらそら事故も多いだろうと思う。
大型トラックと乗用車、バイク、自転車、歩行者の道路は絶対に別の場所に設けなければならない。

自分は運転はしないから後ろまでいちいち確認しないが前か横に大型トラックが付いたら
ドキドキする。
しかも今は兄が運ちゃんをやっているが、平均睡眠時間は4時間とか言ってて
信じられない運送会社のブラック企業が普通にわんさかある。

大型トラックが前か横か後ろに付いた瞬間死を予感するのが正常な感覚ではないか。
たぶん今日見たあの二つの動画を教習所で全員に見せてたら半数近くは免許を取るのをやめるだろうな思う。

車に乗る人が少数である未来であってほしいと切に願う。













それはレッテルが知ってる

2016-06-17 20:25:40 | コラム
未婚で無職の“大人ひきこもり”が増加! 話題の「女性SNEP」の原因と対策とは?

そうか、自分ももう再来月で35歳だし、引きNEETではなくなり、引きSNEPになるのか。
というかSNEP自体に引きこもりの症状が入ってるからSNEPだけでいいのか、いやぁ、言いやすくなるな。
ヒキニートと今までは5文字を打たねばならんかったが、これからはSNEPと4文字を打てばいいから1文字打つ時間を有効に使うことができる。(ちょっと待て、ヒキニートってHIKINI-TOって9文字打たねばならないぞ、なぜ二回推敲しないと気付かないんだ)
いやぁ、よかった、しかも言葉に発生するときもかなりスネップというのは言いやすい。
「いっやー自分はスネップなんでね、ま、いろいろ大変なんです」
「あっ、スネップなんですね、そりゃご苦労されていますね」
「はい、スネップなんで、苦労の連続なんです」

しかしSNEPになる原因に「離婚」とあるのに解決対策に「結婚」っておかしくないか。
離婚しなければいい話だが、結婚しなければ離婚することはないのに結婚すると離婚する可能性は出てくるではないか。
結婚せずに離婚もしない方法はないのか、ってそれが結婚しないという方法か。
しかしそれではSNEPを、スネツプを解決できないではないか。
ではこういうのはどうだろうか。
スネツプの女性は結婚するときに相手の男性に「もしも貴女と離婚するようなことがあった場合は、自分の全財産を毎月貴女に送り続けることをここに誓います。」という契約書を書かせて判を押してもらう。
そうするとこの相手の婿は離婚したくなっても離婚することができなくなる。
しかしそのような契約書を書いてくださいと言った瞬間に相手から「やっぱり結婚はやめます」と言われる可能性は大きいだろう。
では正直に直截にこう言うのはどうだろうか。
「プロポーズしてくれてどうもありがとう。私は大変嬉しい気持ちでいっぱいです。是非とも私は貴方と幸せな生活を死ぬまで続けたいなと思います。しかしここで一つ気懸りがあるのですが、私は御存知の通り、スネツプです。スネツプの解決策に一番有効的だと言われているのがそう、結婚です。どうやらスネツプは結婚すると解決するらしいじゃないですか。だから私はプロポーズされて本当に嬉しい。ところがこのスネツプというのが、原因には離婚というのが大きいと言うじゃありませんか。つまり離婚すると私はスネツプに戻らなくてはならないのです。そんなのははっきり言って、嫌なのです。だって考えてみてくださいよ。もし20年後に離婚した場合、再婚することが激烈に難しくなってしまうじゃないですか。すると自分はわたしはあたくしはスネツプのまま死ななければならなくなるかもしれない?そんなことは考えたくない。自分は絶対に考えたくはない。自分はスネツプから抜け出したまま死ぬのだ。かつての負け犬であった自分を嘲笑いながら死んでいきたいのだ。だから離婚とか決してあってはならない。それは神が許さない。離婚することなどはあるべきではない。だから貴方と死ぬまで添い遂げたいの。当然スネツプのあたくしにプロポーズしてきたのですから?そこのところお解りでいらっしゃいましょうねぇ。あれ、熱でもあるの?変に青褪めた顔をしているじゃあないですか。ちょっと横になったほうがいいんじゃあないのかしら。え?なに?もう少し考えたい?え?どうもさっきから高熱があったようで、ぼくさっき何か言いました?いっやー覚えてないなあ、まったく。だと?」
スネツプ女は非常に後悔した。あんなこと言わへなんだらよかったわ。
婚約者は「もう寝たい」と言って家に帰ってしまった。
スネツプ女は心の中で「どないしょ、どないしょ、どないしょ、どないしょ、どないしょ、どないしょ」と言いながら婚約者に電話を掛けた。
とるるるるるる。
ガチャ。「はい、もしもし」
「あ、○○さん?いやね、さっきなんか私色々言ったんですけどね?あれ全部ね?嘘だんねん。いやほんと。ちょっとね?驚かしちゃおっかな~って思っただけだすねん。マジです、はいはいマジですマジです。だからね?気にしないでちょーだいね。あんなこと米粒も、や、素粒子ほどにも思ってないんですから。本当なんです。だからプロポーズを取り消すとかマジやめてください」
すると婚約者は5分間の沈黙の後こう言った。
「○○○さん」
「はい」
「ではこうしましょう」
「なんだすか?」
「ぼくは絶対に貴女と離婚しないと誓う」
「(*´▽`*)わーい」
「そして貴女と絶対に結婚しないと誓う」
「(;'∀')」
「その代わりと言ってはなんですが、ぼくを死ぬまで幸せにしてください」
「え、どうゆうことですかい?」
「つまりこういうことですよ。ぼくが貴女を好きでいる限りはぼくのすぐ傍であなたは暮らしてください。わかりましたね。じゃ、もう寝る、おやすみ」
ガチャ。
スネツプ女は頭の中で婚約者の男の言葉を何度も反芻した。
そして、あ、これでええんちゃうか。というか、これがええんじゃないか。と思い、これ以上に何を求めてもスネツプは解決しようがないと思ったのだった。
つまりスネツプが結婚で解決していることがスネツプが離婚で陥る罠になっていることに気付いた。
スネツプは結婚では解決はしないとわかるなら離婚でスネツプが引き起こされることもない。
これはなんにでも言える話であるが、ある問題が何かによって解決するならば、その何かを失くせば問題は戻ってくるのは当然である。
だからスネツプが結婚によって解決するというのはこれはおかしい。
それは解決ではなくいわゆるある精神疾患の症状が長い期間起きていないという
かんかい【寛解・緩解】
《名・ス自》全治とまでは言えないが、病状が治まっておだやかであること。 「治癒または―」

の状態にあるということになる。
ですので、スナツプは安易に結婚などによって解決するだろうと期待して結婚をしようとするとかえってそれが破綻した時にそれまで以上の重篤な症状に変化する可能性があるので、私なども精神科医の担当の先生たちから「結婚したら治るよ」と言われたり思われたりしてるのは非常に解ってもらえていないと感じて落ち込むから精神科医とかはもっとスナツプを勉強してください。

スナツプじゃなくて、スネツプだった。
スナップえんどう美味しそう……ってなんで自分はスナップえんどう豆の画像を検索しておるのだ。

ここ三日ほど鬱が激しいがブログを書くことが本当に楽しい。
自分はこのまま恋人もできず小説家にもなれず結婚もしないなら一日中ブログを書いて更新するというブログ廃人になるという手も考えている。
今日なんかも昼頃からずっと考えてブログを書いているから7時間近く考えて書いていることになる。
これで月12万稼げたら全人類の約80%は全員ブログ廃人になるかもしれないな。
というか稼いでるのに廃人なんだな。

もう、これ以上何も、言いたくはない。





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リヴァース・スピーチ

2016-06-12 15:48:21 | コラム
水不足解消へは今年未だに発生していない台風が鍵を握る!?

正直、肉を大量に消費している先進国であるこの日本が深刻な水不足に陥ればいいんじゃないかと思いました。
そんなことでも起きないと、人々は深刻な肉食問題の危機感を感じることができない。
ああもうほんとうにやばい。となってからじゃないと、気づくことができない人がほとんどだからです。

これは私の、本音です。

リヴァース・スピーチというのをご存知ですか?

リバース・スピーチ
学研「ムー」2001年4月号掲載


自分が発した音声を逆戻しで再生してみるとそこには自分の本音のメッセージが現れると言われています。
これは人間というものがまずは言葉を右脳で逆再生の言葉で作り上げて、それから左脳でそれをまた逆再生して言葉として発しているからだそうです。
赤ちゃんが言葉を発する前に「あーあーうーうー」などと訳の分からない言葉を発していますが、あれも逆再生してみると
ちゃんとした意味の分かる言葉を発しているようです。
赤ちゃんはそのまま逆再生の言葉で意味を理解しているためにそのようなことになるのでしょう。


「このまま雨が降らなければいいのになあ。台風がもうずっとこなければいいのになあ」と言った音声をiPhoneの「Reverse Vid」というアプリで逆再生して撮ったものがこれです。
https://streamable.com/jlqu

まるで赤ちゃんの発する言葉と同じように聞こえませんか?それは私の声がロリ声だからというわけではありません。
どこかお経のようにも聞こえます。
そしてこの私の本音のさらに本音の中に「何万もの」という日本語が聞き取れました。
いったい何のことを言ってるのでしょう……。

自分の本音が一体どこにあるのか?それが気になる人はこのアプリで逆再生を何度かしていると
聞き取れるメッセージが現れるかもしれませんね。

でも「苦しくてこの状況から抜け出したい」と言った人の逆再生の言葉に「もっと苦しみたい」という本音が現れることがよくあるようにその本音が自分にとってさらに悩みの種になる可能性もあります。

私の本音は一見残酷のように思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、このまま行くと、それ以上に多くの人や生き物たちが苦しんで死んでいくと思うからです。
最悪な事態を食い止めるために、早いうちに深刻な事態が起きて、多くの人が今から変化していくことが必要なのです。

このまま肉食産業や牛乳と鶏卵産業、農薬植物の産業を続けていくと世界は破滅していきます。
肉食(畜産)が影響を及ぼす「地球環境・食糧危機」と「動物虐待」と「生活習慣病」

もしかしたらさっきの自分のリヴァース・メッセージは「雨がこのまま降らなければ、何万もの人々が死ぬだろう」という潜在意識の言葉が表れていたのかもしれない。

でもこのまま深刻な問題を避けて通っていけば未来には何万どころか、何百万、何千万、何億、何十億、という人たちが被害に合い、地球はもう再生不可能の状態になるかもしれない。
一体どうしたら多くの人たちが気づくことができるのだろうか?

雨は恵みだ、それは間違いない。しかし雨がこうして降ってくる御陰で地獄に通じた道を人々が歩まねばならないのだとしたら、この雨はまるで、未来の水不足、食糧危機で起こる紛争、戦争、殺人のために流れる多くの人の血の雨のようではないか。