神と人間の創造
の記事で「創」という漢字について考察いたしましたが
二度目の考察の記事を書きたいと思います。
「創」という漢字は
・傷つける、傷つく
・傷、切り傷
・はじめる、作る
・初め
という意味があります。
「刀」で「倉」を作る、という意味と
「刀」で傷つける、という意味がある漢字です。
そして「倉」という漢字は
・穀物を入れるくら
・ものを入れておく建物
という意味のほかに
・痛む、かなしむ
・うしなう(喪)(死に別れる)
という意味のある漢字です。
さらに「刀」という漢字は
・片側のみに刃がある人や物などを切る物
という意味のほかに
・小舟
という意味のある漢字でありました。
「カタ(片側)」の「ナ(刃)」で「刀」という漢字ができました。
以前の記事では、”もともと傷ついているものをさらに刀で切って傷つける”ことが「創る」という意味ではないかと考察してみましたが
それだと、もともと「倉」が「倉」としてそこに存在していて、それをさらに「倉」として創るという意味になるのかどうか、と悩みました。
なので、今回は、そうではない考察をしてみます。
もともとそこにあるのは、まっさらな「木」であり、それは勿論「倉」の状態ではありません。
そこへ、刀を当て、切ることによって、傷つけていき、「倉」を創りだします。
それが、「創」という漢字です。
そして、”小舟”という意味を「刀」が持っていることから、
”小舟”とは、いったい刀となんぞ関係がある?と思いまして調べてみると
「舟」とは中国の小舟の象形文字ですが、それにしてはごちゃごちゃした字です。
舟っていっときながら、舟のなかに、なんか既におるやん、という気がする字です。
「船」とは、
・水上で人や荷物を載せて航行する乗り物
水槽や大きな容器を表す古語「ふね(槽)」からするとする説が有力だが、
浴槽の「湯船」や魚介類などを盛る容器をいう「舟」は船の形からきたものであるため
古語の「「ふね(槽)」も同様のたとえから派生した語とも考えられる。
「ふね」の「ね」は接尾語で、「ふ」は水に浮かぶことから「浮」とする説や、
帆を張ることから「帆(ほ)とする説がある。
「船」は「沿(えん、そう)」と同系で、流れに沿って下るふねを表す。
という意味があります。
ここで面白いのは「槽」も「沿」も「倉」と「創」と同じに「そう」と読む字であることです。
すると「刀」にこの「小舟」の意味があるのは、「沿う」という意味が隠されているのかもしれません。
水に浮かぶ「浮子(ふね)」がまるで神の「創(沿う)」であり、「舟」というものがわたしたちすべてであるかのようなイメージが浮かびます。
そして「刃(やいば」には「刃(ジン)」という読み方があります。
「刃(ジン」には、”刃で切り殺す”という意味もあります。
「刃(ジン」と「人(ジン)」は深い関わりがあるのでしょうか。
「人(ジン)」
1 物事を「天・地・人」の三段階に分けたときの第三位。
評価する場合や、3冊の本の3番目に用いる。
神が、三位一体であらせられるのならば、「天・地・人」の三位で「神」であらせられるのでしょうか。
「人(ジン)」というものが、どれほどこの宇宙において必要で大切なものであるのかを考えさせられます。
「大切」という言葉にも「切」という字が入っていますね。
神は、「木(キ)」を「刃(ジン)」の片側についた「刀(トウ)」で「切り(キリ)」、「倉(ソウ、クラ)」を創られました。
「切る」は「キル」であり、「刃(ジン)」で「KILL(キル、殺す)」ということなのでしょうか。
「切り」は「セツリ(摂理)」とも読むことができます。
そして「木」の「キ」は、「生」と「気」と「器」と「基」であるのかもしれません。
「刀」の「トウ」は、「問う」であるのかもしれません。
「倉」には、
・はらわた、臟に通ず、五倉は五臟。
という意味もあるようです。
はらわたがなければ、われわれは生きてはゆけませんね。
この見た目グロテスクなはらわたを内部に宿していなくては我々は生きることが叶わないのです。
神は生を問うことで、なにかを殺し、われわれのはらわたを御創りになられたのでありましょうか。
つまり「倉」とは、内部に「臓(はらわた)」を蔵しているわれわれ生命のことではないでしょうか。
「臓/臟」という漢字
形声文字です(月(肉)+蔵(藏))。
「切った肉」の象形(「肉」の意味)と
「並び生えた草の象形と、矛(ほこ)の象形としっかり見開いた目の象形(「背の高い家来、良い」の意味だが、
ここでは「倉(ソウ)」に通じ(同じ読みを持つ「倉」と同じ意味を持つようになって)、
「隠してしまう」の意味)」(「隠してしまう場所、蔵(くら)」の意味)から
「身体の内部にかくされている器官(内臓)」
を意味する「臓」という漢字が成り立ちました。
大事なものなので、それは表面には出さず、内部に隠されなくてはなりませんね。
守るために、それは隠されるものとなりました。
「倉(蔵)」は、明かりをつけなくては中に何が入っているのかわからない暗い場所であります。
そこに本当に大事な「穀」を入れるのです。
暗闇は、倉闇でありましょう。
わたしたちの内部はいつでも暗(くら)で、私たち自身は倉(くら)なのです。
『倉(ソウ)』cāngは、倉(くら)を表す会意文字です。
漢字の足し算では、食(食物)+口(入れる)=倉(食物を入れてしまう所。倉。くら)です(藤堂)。
漢字の部首は『人・ひと』、漢字の意味は『倉(くら)』です。
『漢字語源辞典』では、倉
は「食の略体であり、食は△(あつめる)+良(粮=糧の原字)である。
従って、食の略体で穀物を表し、かこいを示す□印を加えて、穀物を収蔵することを示した」と記載
「倉」はなぜ「くら」の意味か?
『説文解字』では口を除いた部分は食の省略形で、口は倉の象形だとしている。
口を倉の象形と見るよりは囲いを示す符号とすべきであろう。
倉は「食の略体+口(囲い)」と解析する。
食糧(穀物)を囲いに入れる状況を暗示させる図形である。
《倉》
「倉」は“食”の省略形と“口”から成り立つものではなく、「亼(シュウ)」と「重ねることを意味する文字」と“口”から成り立っている。
最下部に描かれているのが“口”であり、「亼(シュウ)」や「重ねることを意味する文字」と合わせて「“食料”を保管すること」を意味するのである。
画像がわかりやすいので拝借いたしました。
「亼」とは、集まるという意味の漢字です。
「倉」は食物を口に入れる、という意味と、良いものを集め、それを囲いに入れるという意味と
そうではなく、あつめ、重ね、それが口に入る、よって食料を保管することを意味するという説があるわけですね。
その字の意味に
「痛む」、「悲しむ」
「うしなう(喪)(死に別れる)」
とあるのは、とても深く考えさせられます。
神は生を問うことで、なにを殺し、我々を創られ、創られし我々はなにゆえに痛み、悲しみ、何を喪ったのでありましょうか。
神は生を問うことで、自分を殺し、己れの分身を創られ、我々は神の分身であられるがために、痛み悲しみ、己れを喪ったのでありましょうか。
そしてそれらを創りし道具はいつでも、水に浮かんだちいさな浮子(ふね)であるのでしょうか。
神はいつでも我々に沿うのは、神が自らを切る(kill)してでも創造したのが我々であるからなのでしょうか。
の記事で「創」という漢字について考察いたしましたが
二度目の考察の記事を書きたいと思います。
「創」という漢字は
・傷つける、傷つく
・傷、切り傷
・はじめる、作る
・初め
という意味があります。
「刀」で「倉」を作る、という意味と
「刀」で傷つける、という意味がある漢字です。
そして「倉」という漢字は
・穀物を入れるくら
・ものを入れておく建物
という意味のほかに
・痛む、かなしむ
・うしなう(喪)(死に別れる)
という意味のある漢字です。
さらに「刀」という漢字は
・片側のみに刃がある人や物などを切る物
という意味のほかに
・小舟
という意味のある漢字でありました。
「カタ(片側)」の「ナ(刃)」で「刀」という漢字ができました。
以前の記事では、”もともと傷ついているものをさらに刀で切って傷つける”ことが「創る」という意味ではないかと考察してみましたが
それだと、もともと「倉」が「倉」としてそこに存在していて、それをさらに「倉」として創るという意味になるのかどうか、と悩みました。
なので、今回は、そうではない考察をしてみます。
もともとそこにあるのは、まっさらな「木」であり、それは勿論「倉」の状態ではありません。
そこへ、刀を当て、切ることによって、傷つけていき、「倉」を創りだします。
それが、「創」という漢字です。
そして、”小舟”という意味を「刀」が持っていることから、
”小舟”とは、いったい刀となんぞ関係がある?と思いまして調べてみると
「舟」とは中国の小舟の象形文字ですが、それにしてはごちゃごちゃした字です。
舟っていっときながら、舟のなかに、なんか既におるやん、という気がする字です。
「船」とは、
・水上で人や荷物を載せて航行する乗り物
水槽や大きな容器を表す古語「ふね(槽)」からするとする説が有力だが、
浴槽の「湯船」や魚介類などを盛る容器をいう「舟」は船の形からきたものであるため
古語の「「ふね(槽)」も同様のたとえから派生した語とも考えられる。
「ふね」の「ね」は接尾語で、「ふ」は水に浮かぶことから「浮」とする説や、
帆を張ることから「帆(ほ)とする説がある。
「船」は「沿(えん、そう)」と同系で、流れに沿って下るふねを表す。
という意味があります。
ここで面白いのは「槽」も「沿」も「倉」と「創」と同じに「そう」と読む字であることです。
すると「刀」にこの「小舟」の意味があるのは、「沿う」という意味が隠されているのかもしれません。
水に浮かぶ「浮子(ふね)」がまるで神の「創(沿う)」であり、「舟」というものがわたしたちすべてであるかのようなイメージが浮かびます。
そして「刃(やいば」には「刃(ジン)」という読み方があります。
「刃(ジン」には、”刃で切り殺す”という意味もあります。
「刃(ジン」と「人(ジン)」は深い関わりがあるのでしょうか。
「人(ジン)」
1 物事を「天・地・人」の三段階に分けたときの第三位。
評価する場合や、3冊の本の3番目に用いる。
神が、三位一体であらせられるのならば、「天・地・人」の三位で「神」であらせられるのでしょうか。
「人(ジン)」というものが、どれほどこの宇宙において必要で大切なものであるのかを考えさせられます。
「大切」という言葉にも「切」という字が入っていますね。
神は、「木(キ)」を「刃(ジン)」の片側についた「刀(トウ)」で「切り(キリ)」、「倉(ソウ、クラ)」を創られました。
「切る」は「キル」であり、「刃(ジン)」で「KILL(キル、殺す)」ということなのでしょうか。
「切り」は「セツリ(摂理)」とも読むことができます。
そして「木」の「キ」は、「生」と「気」と「器」と「基」であるのかもしれません。
「刀」の「トウ」は、「問う」であるのかもしれません。
「倉」には、
・はらわた、臟に通ず、五倉は五臟。
という意味もあるようです。
はらわたがなければ、われわれは生きてはゆけませんね。
この見た目グロテスクなはらわたを内部に宿していなくては我々は生きることが叶わないのです。
神は生を問うことで、なにかを殺し、われわれのはらわたを御創りになられたのでありましょうか。
つまり「倉」とは、内部に「臓(はらわた)」を蔵しているわれわれ生命のことではないでしょうか。
「臓/臟」という漢字
形声文字です(月(肉)+蔵(藏))。
「切った肉」の象形(「肉」の意味)と
「並び生えた草の象形と、矛(ほこ)の象形としっかり見開いた目の象形(「背の高い家来、良い」の意味だが、
ここでは「倉(ソウ)」に通じ(同じ読みを持つ「倉」と同じ意味を持つようになって)、
「隠してしまう」の意味)」(「隠してしまう場所、蔵(くら)」の意味)から
「身体の内部にかくされている器官(内臓)」
を意味する「臓」という漢字が成り立ちました。
大事なものなので、それは表面には出さず、内部に隠されなくてはなりませんね。
守るために、それは隠されるものとなりました。
「倉(蔵)」は、明かりをつけなくては中に何が入っているのかわからない暗い場所であります。
そこに本当に大事な「穀」を入れるのです。
暗闇は、倉闇でありましょう。
わたしたちの内部はいつでも暗(くら)で、私たち自身は倉(くら)なのです。
『倉(ソウ)』cāngは、倉(くら)を表す会意文字です。
漢字の足し算では、食(食物)+口(入れる)=倉(食物を入れてしまう所。倉。くら)です(藤堂)。
漢字の部首は『人・ひと』、漢字の意味は『倉(くら)』です。
『漢字語源辞典』では、倉
は「食の略体であり、食は△(あつめる)+良(粮=糧の原字)である。
従って、食の略体で穀物を表し、かこいを示す□印を加えて、穀物を収蔵することを示した」と記載
「倉」はなぜ「くら」の意味か?
『説文解字』では口を除いた部分は食の省略形で、口は倉の象形だとしている。
口を倉の象形と見るよりは囲いを示す符号とすべきであろう。
倉は「食の略体+口(囲い)」と解析する。
食糧(穀物)を囲いに入れる状況を暗示させる図形である。
《倉》
「倉」は“食”の省略形と“口”から成り立つものではなく、「亼(シュウ)」と「重ねることを意味する文字」と“口”から成り立っている。
最下部に描かれているのが“口”であり、「亼(シュウ)」や「重ねることを意味する文字」と合わせて「“食料”を保管すること」を意味するのである。
画像がわかりやすいので拝借いたしました。
「亼」とは、集まるという意味の漢字です。
「倉」は食物を口に入れる、という意味と、良いものを集め、それを囲いに入れるという意味と
そうではなく、あつめ、重ね、それが口に入る、よって食料を保管することを意味するという説があるわけですね。
その字の意味に
「痛む」、「悲しむ」
「うしなう(喪)(死に別れる)」
とあるのは、とても深く考えさせられます。
神は生を問うことで、なにを殺し、我々を創られ、創られし我々はなにゆえに痛み、悲しみ、何を喪ったのでありましょうか。
神は生を問うことで、自分を殺し、己れの分身を創られ、我々は神の分身であられるがために、痛み悲しみ、己れを喪ったのでありましょうか。
そしてそれらを創りし道具はいつでも、水に浮かんだちいさな浮子(ふね)であるのでしょうか。
神はいつでも我々に沿うのは、神が自らを切る(kill)してでも創造したのが我々であるからなのでしょうか。