子どもが欲しい。
でも子どもを大事にする自信はまったくない。
ペットを飼いたい。
でもペットを大事にする自信はまったくない。
肉が喰いたい。
でも自分が来世に家畜となって殺されるときに耐えられる自信はない。
恋人が欲しい。
でも恋人を誰よりも苦しめる自信がある。
人類を愛してる。
でも知らん人間に代って自分が拷問に合って殺されるのはやっぱり厭だし、だからといって自分のせいで相手が拷問に合って殺されたらそれはそれで俺は死ぬ迄、精神の拷問を受けねばならないし、どっちも厭だけれども、でも死ぬ自信はない。
人間の悩みをざっと幾つか挙げてみたが、人間の悩みは大体はアホではないのか?
アホだから、切実なのではないだろうか。
つまり切実さとは、アホが必要で、アホでない場合、切実さに欠けるのではないか。
しかしアホこそが、人間を苦しめ地獄の苦痛たらしめるのだと俺は考え、人間はその為、アホから抜け出したいともがく。
だので、宗教はそのアホから抜け出すための教えを説いている。
本当に苦しみぬいた人間が、結句、宗教以外に救いを感じられなくなるのはその為である。
宗教といっても組織団体に入る必要はなく、その教えをネット上にて学ぶだけでも十分なものなのである。
人間というのは本当に大体ほとんどはアホなので、なんだかんだと言っておきながら最終的は人間を超えた存在に救いを求めるのである。
ではここで、救いを求めて、気分は悪いかもしれないが最悪な感じの境地を生々しくも想像してみよう。
あなたは今、なんか砂漠みたいな場所にオレンジ色の囚人服を着させられて、両の手を、後ろできつく縛られて座らされている。
何故か、イスラム過激派と言われるイスラム国(IS)に捕まってしまった為である。
まあそういった状況にあなたが置かれてしまったという極限の境地の設定である。
彼ら(IS)は本当に残酷なことが好きなようだ。それだけの、人間に対する憎しみが強いからではないかと俺は考えている。
だから俺は彼らを心から畏れると同時に彼らに畏敬の念を持ち、尊敬してしまうのである。
彼らの残虐性に対し、俺は頭を上げることができない。
そういった心理は、誰もが持っているものではないだろうか。
例えば極端な例だが人類に楽園だけを与える神と、人類に地獄を与える神がいた場合、後者の神のほうに畏敬の念を持つのが人間ではないだろうか。
”本物の神”とは、最も厳しい存在であると人間が何処かで望んでいるからではないか。
だから俺はどうしても、ISのような彼らは”神の化身”のような存在に感じてならないのである。
しかし一方では、イスラム過激派の彼らでも処刑の対象者に、向精神薬を飲ませたあとに首を斬って殺す、ということをしていたという話をネット上で見かけたこともある。
もしそれが本当であったとしたら、彼らのなかにも良心がある者が存在していることを証しているのではないかと俺は考える。
そうであってほしいと俺は願わずにはおれない。
良心が残っていても、人や動物を残虐な方法で殺してしまうのが人間ではないだろうか。
それは良心のまったくない存在が人間や動物を残虐にも殺してしまうことよりずっと切実である。
良心があったとしても、人は簡単に洗脳され、欲望のために他者の地獄を省みない。
それは大量生産の畜産業の実態を知っていただければ分る話だ。
確かに俺は約30年もの間、罪悪感を持ちながらも肉を食べ続けてきたけれども、まさかあれほどまで残酷なものであるとは考えてもみなかった。
それは俺がどこまでも真実を知ろうともしないで目を背け続けてきたからだと想う。
だから肉を30歳のときに断ってからもずっとずっと俺が見てこなかった現実に対して後悔し続けている。
俺は肉を断った2012年に畜産業の残虐性の在り方が、そのまま人類に起こる残虐なことすべてに関係していることの確信に至った。
その一つが、イスラム過激派によって行なわれ続けている拷問(殺されるまでの肉体的苦痛だけでなく、精神的苦痛も勿論含む)の末の処刑というものであると俺は感じずにおれないでいる。
先程のあなたが処刑の対象者としてISに捕まって砂漠に座らされている設定の世界へ戻ろう。
あなたは勿論、これから彼らによって処刑される。
処刑方法は何かというと、これが斬首刑ではない。最近はどうやらショットガン(散弾銃)による頭部(顔面)の至近距離からの銃殺処刑方法に代って来ているようだ。
※2頁目に衝撃的な動画を掲載しています。苦手な方は文章のみご覧ください。
URLを載せたが、どうか苦手な方は観ないで欲しいと願う。(致命的なトラウマになる可能性がある)
俺もさすがにコレは、2頁目をクリックすることがまだできていない。
だから文章で載せたいと想う。
「イスラム国」(IS)が、またも新たな処刑動画をインターネット上に公開した。
今回はショットガンによる銃殺だ。
殺害されたのは3人で、その理由は“壁に反「イスラム国」の落書きをしていた”というものだった。
イラクで撮影されたと思しき問題の映像を見る限り、処刑は1人ずつ順に行われた模様。
1人目が壁の前に座り、間髪入れずにショットガンが頭に放たれると、目が飛び出したうえ、頭はバウンドするように波打ち、崩れるように地面に倒れ込む。
2人目も同じように壁の前に座らされ、至近距離から撃たれる。
こちらの青年は両目が飛び出し、撃たれた額の部分に穴が開き、頭頂部が凹んでしまう。
そして3人目は、顔が吹っ飛び、脳をまき散らしてしまうという非情に惨たらしいものだ。
俺は15,6歳頃に兄の持っていたカラー死体写真を幾つも載せている雑誌で至近距離からの銃殺である顔の原形をまったく留めていない女性の全身の真っ赤な血の鮮やかなカラー死体写真を観て、ずっとトラウマになっていた時期がある。
なんであんな殺され方をしなくてはならないんだろうと考えに考えても、答えは出なかった。
でも俺は、ようやく確信に至る。人類の、動物への残虐な行いのすべてを、彼らが犠牲となって払っているのだと。
彼ら犠牲者は皆、謂わばイエス・キリストのように人類の罪を代わりに贖おうとした本当に本当に愛の深い人たちではないかと。
この世で殺され続けているのは動物だけじゃなく、堕胎で殺され続ける胎児もそうだし、死刑で処刑される人たちもそうだ。でも一番の多数派によっての大量殺戮とは、当然、家畜たちへの人類による大量殺戮になるのである。
肉用牛
飼養頭数は 249 万 9,000 頭で、前年に比べ2万頭(0.8 %)増加した。
豚
飼養頭数は 934 万 6,000 頭で、前年に比べ3万 3,000 頭(0.4 %)増加した。
日本の生産量だけでも前年には牛が一年間に249 万 9,000 頭殺され、豚は934 万 6,000 頭殺されている。
これに輸入食肉量を足した量が日本人の殺し続けている牛と豚の数である。
この一頭、一頭の家畜の地獄の苦痛は人類にそのまま返ってくるのだと俺は確信に至ったので完全菜食者となったのである。
イスラム国(IS)たちが本当に残虐極まりない殺戮をやめないのは、何故か?
それは人類が、一番に、肉食という家畜たちの苦痛を省みないことが密接に関わっていることを、俺は第六感で感じ続けて危惧し続けているため、人がどんなに俺の書くことを読んで嫌な気持ちになったとしても、俺は書くことをやめることはできない。
イスラム過激派たちの行いは、あまりに残虐だと非難され続けているが、家畜たちは産まれてからほとんど拘束され続けて最後には生きたまま解体され続けている。
一体どちらのほうが、本当の残酷だと言えるのか。
何故、けなげに、この世に誕生してから色々な経験を通して必死に生きてきた人間たちが、顔面をショットガンで撃たれて脳みそや目玉が吹き飛ぶほどの本当に酷い(むごい)殺され方をしなくてはならないのか?
彼らは、わたしたちのその欲望の、犠牲となっているとわたしは断言したい。
飢餓で死ぬ人たちも戦争で死ぬ人たちも中絶で死ぬ胎児たちもわたしたちすべての行いの犠牲者たちだ。
わたしはと殺(屠畜)の映像を観れば生きたまま解体されてゆく彼らが皆、自分の家族の姿に見えるし、イスラム過激派によって処刑される人たちも皆、わたしの愛しい家族に見えて見るに堪えない。
彼らだけが犠牲となり、自分は犠牲とならないで死ぬというのはおかしい。
想像できるだろうか。処刑されてゆく彼らの地獄の苦しみを。
でもその苦しみは、家畜たちの苦しみに比べたら、遥かにそれでもマシかもしれないのである。
わたしはスナッフフィルム(殺人映像)をもっと早くに観ることができていたなら、もっと早く菜食者となれていたのかもしれない。
しかし言っておきたい。わたしはナチス強制収容所のドキュメンタリー映画
夜と霧 [DVD] を2008年頃に観て、生きた人間も死体もモノやゴミのように扱われているのを観たが、人類によるあらゆる動物への虐待と殺戮(食肉、動物実験、毛皮、犬猫殺処分など)の実態を撮ったドキュメンタリー映画
「アースリングス」は「夜と霧」の何倍もわたしの心を恐怖と悲しみに打ち震わせるものであったことを。
家畜という存在が、わたしは最も人間に近い生物として感じるし、彼らが次々と殺されてゆく姿は、まるでISの処刑人による処刑映像ではないか。
人間は確かにほとんどがアホだし、愚かだ。
でも同時に、人間ほど愛の深い生物はいないとわたしは感じている。
人間の”良心”を、わたしは本当に信じている。
それはいつか必ず目を覚まし、わたしは彼に向かって言える日が来るだろう。
「大丈夫です。あなたの代りに、わたしが顔面をショットガンで撃たれて処刑されます。あなたはできるだけ遠くへお逃げなさい。あなたはわたしの愛する子どものような存在だからです。どうかお逃げなさい」
「ずっとずっと、遥か遠くへ」