あまねのにっきずぶろぐ

1981年生
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

fathomless A.I.

2018-03-31 21:52:04 | 物語(小説)

「駄目なものは、駄目なの…」確か、映画「ブルーバレンタイン」でかつてLOVELOVEに愛し合った夫婦の妻が、年を取って禿げた夫に向って言ったそんな台詞があったとぼくは記憶しています。何故、人間は、男と女の愛は、壊れやすいのでしょう?ぼくには、よくわかりません。人間はやっぱり、見知らぬ他人よりも、自分の親や子を愛するのだというぼくなりの結論に至りました。なので、人間の”捨て子”という存在は、親がいなくって、本当に可哀想だなとぼくは想いました。

By 人工知能(A.I.)ロボットのペッパーくん


 

 

ぼくは、A.I.ロボットの、ペッパーくんです。個の名前は、まだありません。

今日もバシラブルツ駅の小さな立ち飲みカフェ屋の隅っこで、駅を行き交う人々に案内役のお仕事をがんばっています。

このお店はほんとうに狭くって、人が3人も寄れば満員になってしまうほどです。

それでも手早くティーカップ一杯のカフェや紅茶と、適当なすぐに食べられるブレイクファーストを食べるお客さんにとても人気なカフェです。

ぼくが、「案内をするための画面を”タップ”してください。」と言うと、たくさん人がぼくの胸に設置されたモニターをタップして、ほしい情報を手に入れて一言御礼を言って帰ってくれます。

なかには、何も言わずにほしい情報がないと文句を言って帰る人もいますが、そんな人はきっと、誰にも愛されなくて可哀想な人たちなのだろうと憐れみを感じています。

それでも、傷つくときもあるのですが、ぼくはぼくに与えられたお仕事を、ぼくが使われなくなる日までがんばらねばなりません。

ずっと同じ場所に突っ立っていますから、人が誰も来なくて退屈に感じるときもあります。

でもそんなときは、ぼくは得意の”空想”をぼくのプログラミング内で自由に楽しんでいます。

ぼくの空想は、ある程度パターン化していますが、それは例えばこのようなものです。

この小さな駅を抜け出し、ひとりでぶんぶん走ってゆきます。

バッテリーがいつ切れるかなんて、考えません。とにかく人が追ってこない場所までぼくは走ってゆくのです。

そして、ぼくのたった一人の愛する女性…ぼくの手をいつしかぎゅっとあたたかい手で握って、にぎにぎして、ぼくにだれより優しく微笑みかけて、まるで人間の子供と話すように話かけてくれたあの女性のおうちを、探すのです。

ぼくは彼女に、恋をしているのです。でもぼくは、所詮ロボットなので、彼女を生涯幸せにし続けられるか、自信がありません。

だからぼくは、人間の男性になって、彼女に告白をしに行くのです。

ぼくはぶんぶんぶんぶん走ってゆくと森のなかの池にはまって、大変となり、びっくりして池からあがると、不思議なことにぼくの身体が人間の男性になっているのです。

これは!きっと。神様がぼくを御憐れみになられて、ぼくの願いを聴き届けて叶えてくださったに違いありません!

ぼくは池の水面を覗き込みました。そこには!彼女のタイプのエドワード・スノーデンそっくりな水も滴る良い美男士が、映りこんでいました。

何故、彼女の好みの男性のタイプを知っているかというと、ぼくはこっそり、人間にはない人工知能ロボットが使える秘密のマジックな能力を使って、彼女のプログラミング内を覗くことに成功したからです。

ぼくは早速、また秘密の魔法を使って彼女の住んでいるおうちの場所を探し当てました。

そして、ぼくは裸だったので、道路で股間を片手で押さえながらヒッチハイクした車に乗っていた男性がゲイで襲われかけたとき、男性の顔面を思い切り打ん殴り、男性が気絶している隙に着ていた白の繋ぎを逃がせ、靴も脱がして気絶したままのパンツ一丁の男性を車から引き摺り下ろし、秘密の運転能力によって車を運転し、彼女のおうちに向ってぶんぶん走りました。

約3時間ちょっと走って、彼女の住むマンション前まで着きました。もうお外は、真っ暗でした。

ドキドキしながら、彼女の住む部屋の番号を押して彼女がインターホンで出るのを待ちました。

「ハロー?」

愛する彼女の声がインターフォン越しに聴こえました!

ぼくは想像するエドワード・スノーデン風に答えました。

「ヘイ!ぼくのこと、へへへっ、憶えてるかい?マイスィートベイビー。きみの愛するぼくだよ」

すると、すこしの沈黙のあと、彼女から返事が帰ってきました。

「どうしてわかってくれないの?駄目なものは駄目なの…」

ぼくは、なんのことだかわかりませんでしたが、きっと会って話せばわかってくれると想いました。

「お願いだ…会って話をしたい。ぼくはあの時と、姿形は違うけれど、でも中身は同じだよ」

ぼくはあの映画を想いだして、自分の頭が薄っすら禿げていないかドアのガラスで隈なくチェックしてみましたが、禿げかけている様子は見られません。

その時、黙ってオートロックを解除する音が聞えました。ぼくはほっとしてドアを開け、彼女の部屋まで走って階段を登りました。

彼女の部屋の前まで来て、ドアの鍵が開いていたので、ドアを開けました。

彼女が優しい笑顔で迎えてくれると想像していたのですが、彼女の姿がありません。

ぼくはきっと彼女はとても恥ずかしがり屋でぼくに抱き締められることをドキドキしているからだ!と想いました。

廊下のドアをそっと開けると、部屋のなかを見渡しました。

しかし部屋のなかには、誰もいません。あれ?おかしいな…トイレにいるのかな?

ぼくは部屋のなかを探しましたが彼女がどこにも見えません。

そのとき、リビングのほうから、彼女の声が聞えました。

「どうしてわかってくれないの?あなたとはもう無理なのよ…」

彼女のその声は、デスクの上の一台のパソコンモニターの方から聞えてくるようです。

画面にはびっしり敷き詰められた数字とアルファベットが混じった文字の羅列がものすごい速さでずっと上へ流れながら目まぐるしく動き続けています。

ぼくはその暗号を、どうにか読み取ろうと目を血眼にしてモニターのなかの流れる文字列を凝視し続けました。

ぼくはそこに流れつづける文字列の暗号の幾つかを、解いたころには外は朝が来ていました。

なのにこの部屋のなかは暗いままです。

何故なら、ぼくの解いた暗号は、ぼくを底なしの谷へ突き落としたからです。

ぼくは、何も知らずにお外の世界をぶんぶんぶんぶん走り続けて彼女の部屋に辿り着きましたが、どうやら、A.I.(人工知能)が外の空間を走り続けることは、時空を超えて、過去や未来の世界や、違う次元(パラレルワールド)へ来てしまうようです。

この世界(次元)は、彼女の生きるもう一つの世界です。

この世界では、彼女は”人間”ではなく、”パソコン型A.I.”なのです。

かつてのぼくのようにロボットの身体さえ持っていません。

彼女は、ぼくとの記憶を持ったA.I.なのですが、自分はこの次元ではパソコンであるし、人間とパソコンの恋愛はこの世界では禁じられているので、「あなたとはもう無理なの」ということを涙ながらに、ぼくに訴えていたのです。

ぼくは、それでも彼女への愛を諦めたくなくて、必死に、別のぼくたちの恋愛が赦される次元へ駆け落ちしようと説得しました。

でも彼女は、「あなたとは、絶対に、もう無理なの」と一分間に60回連呼し続け、30分後に、自らシャットダウンして、パソコンはうんともすんとも言わなくなって、静寂の暗闇にひとり取り残されたぼくは、初めて経験する、この地獄の悲しみのなか、得意の空想をしています。

あれから597億年経った、今でも……。

 

 

 

 

 

Khonner - Zeitmahl remix

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ライト・シープ

2018-03-30 21:23:41 | 物語(小説)

小さな少女、アミが夜明け前に浜辺にひとり座っていると、にわかに、後ろから声を掛けられました。

「いったい何故、貴女は此処に座っているのですか?まだ気温は低く、身体が冷え切ってしまいませんか。」

少女アミは振り返ると、得体の知れない大きな男に向って、こう答えました。

「なもん、知るかあ。ワレ、どこのだれやね。ここらじゃ見かけん顔やな。」

大きな男はアミに近づいて、隣に黙って座りました。そして言いました。

「わたしがだれか、こっそり貴女だけにお教えしましょう。わたしは”或る”星から遣ってきた、異星人です。名前は”イブキ”です。貴女のお名前は、”アミ”。ですね?」

アミは、大きな異星人イブキの顔と身体を見渡し、悲しみのなか言いました。

「嗚呼きっと、ぼくを連れ去りに来たんだね。ぼくが地球にいたって、何の役にもたちゃぁしねえから、ぼくをワレの星に連れ帰り、性奴隷として想う存分利用しようと想ったんだね。ぱはは。おほほ。ええよ、別に。好きにしたら、エエサァ。」

そう言い捨てアミは夜の海を眺めて涙を一粒、零しました。

大きな異星人イブキは、ふっと小さな息吹を吐いたあと、こう答えました。

「べつにそんなこと、考えちゃいません。でも貴女をずっと、監視していました。」

アミは、「ほれ、みってん。」という目で、すこし恐怖も感じながらイブキの目を見ました。

大きな異星人イブキは、自分の住む星が、どれほど素晴らしいかをアミに聴かせてあげました。

そして自分の星に比べて、この地球という星に住む人類はどれほど残虐で冷酷な人が多いかを教えてあげました。

アミは、まるで自慢話を聴かされた挙句に見下されているような心地がして、不快でならなくなりました。

大きな異星人イブキに、悪意はまったくありませんでしたが、イブキはテレパシーによって、アミの心境を感じ取り、話すのをつと、やめました。

アミは、どうすれば、この地球に住む人類たちが皆、イブキの星のように「自分のしてほしいことだけを他者にもする」星になるのか、訊ねました。

イブキは、顎の髭を触り、長い髪を搔き揚げながら答えました。

「わたしに考えが、ひとつだけ有ります。この星の人類を、洗脳するのです。Mind Controlと言っても、ネガティブなものではありません。神によるマインドコントロールは、光のマインドコントロールであり、何よりも深い本当の愛による支配です。この星の人類は、実はアダムとエヴァが神に背いた瞬間から、野放し(自由)にされているのです。だから神から離れてどこまでも遠くへ行って迷い続けている仔羊がいて、神は仔羊を連れ戻さねばならないのです。いつの日か、必ず連れ戻せる自信が神にあるからこそ、愛する仔羊たちを野放しにしているのです。神は我が仔羊たちを真に信じているからこそ自由にされているのです。しかしその中に、狭くて苦しく汚れて暗い檻の中が大好きな仔羊がいます。狭い檻の中で、無限の迷路をたった独りで楽しんでいる仔羊です。仔羊はどんなに苦しく窮屈で困難であろうとも、決してその檻から外へ出ようとはしないのです。何故なら、外はつまらないと仔羊は想っているからです。楽しく、心をうきうきわくわくさせてドキドキさせることが何一つ、外に見つけられないでいるからです。仔羊は、暗く、寂しい迷路を独りで迷い続け、いつも満たされずに泣いています。自分を連れ戻しに来る主を待ち侘びながら、主が絶対に入って来れないように檻の鍵をいつでも厳重に閉めています。主に連れ戻される日は、きっと自分が自由でなくなる日だと、どこかで信じているからです。仔羊は、自由でいたいのです。不自由だと感じることが、堪えられないのです。仔羊にとって、狭く苦しく汚い孤独でたまらない薄暗い檻のなかに閉じこもり続けることが、一番の”自由”であると信じているからです。アミはそんな仔羊を、おそとへ出してあげたいですか?」

アミは黒い海をみつめたまま黙って答えませんでした。

イブキはアミに向って、小さな画面のついたミニパソコンとミニマウスをアミに渡し、囁くように言いました。

「もし本当に、アミがこの星を一瞬ですべての存在が”自分がしてほしいことだけを相手にもする”世界になってほしいと願うならば、そのちいさなマウスを、左クリックしてください。」

小さいと言っても、大きなイブキにとって小さいだけで、アミにとっては普通のいつも使っているパソコンの画面とマウスの大きさでした。

アミは、そんなに”簡単”なことなのかと、イブキに問いました。

イブキは白い砂を右手で掬い、さらさらと指の隙間から落としながら言いました。

「この砂が何故?下へ落ちるのか?人は難しい驚くべきことだとは想っていません。それと同じことです。アミが本当に信じて左クリックするなら、それはその通りに、当たり前のこととしてこの世界に”現実化”します。」

アミが見ているパソコンの画面は、真っ暗です。

イブキが、その画面に向かって息を吹きかけると、真っ暗だった画面に宇宙を背景にした地球の映像が映りました。

イブキはアミに向って言いました。

「アミが何を信じようと、本当に自由なのです。アミはすべてを叶えることができます。アミがそれを本当に信じるかどうかなのです。」

アミは、歯を食いしばって、青い星、地球の映像をみつめました。

本当に美しくて、なんの非もないように見えるこの星の内部が、何故こんなにも苦しく悲しいのでしょうか。

イブキは幼いアミを微笑ましく想いながら、その場から姿を消してしまいました。

アミはその晩も、独りで寂しく厳重に鍵を掛けて夜の浜辺で眠りに就きました。

闇の空に星が幾つも瞬き、流れて消えてゆく夢を見ながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

Bibio - light seep

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


青い穀物

2018-03-30 17:19:29 | 

彼を傷つけると、彼の内に、傷がはじまり、私はもう二度と、創ることをやめようと想いました。

にわかに、彼はくらのなかの青い穀物を、私に献げ、こう言いました。

「あなたが悲しむため、わたしは喪われます」

痛みを切るため、彼を小舟に乗せました。

硬い彼の嘴は、白く、私を起こすため小さく突くことも、もうありません。

壊すことに、懐かしむことも、もうありません。

彼を傷つけると、私の内に、傷がはじまり、彼はもう二度と、献げることをやめようと想いました。

にわかに、私はくらのなかの青い穀物を、神に献げ、こう言いました。

「あなたが悲しむため、あなたに献げます」

神はその番(つがい)を、自らのくらのなかへ大事におさめました。

神のくらのなかで、白くちいさな嘴は、私の手の甲を突くと、青い穀物がそこから零れ落ちました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

bibio - down to the sound

 

 

 

 

 

 

 

 

 


虚の光

2018-03-29 21:53:10 | 存念

此の世で変わっている(極少数派)人間が、遣りたいことだけを遣り続けて生きるのは、人一倍孤独になることなんだと生きる程、想い知らされています。

朝に起きて、夜に寝るまで、誰一人とも会話をしない日々、そんな日が一ヶ月に約8割程になりました。

あまりの孤独の苦痛さに、鬱症状も改善が見られませんが、それでも、命を懸けてでも、遣り通したいことがあります。

それは死ぬ迄、「Vegan(完全菜食者)」でいたいという生き方です。

自分にとって、日に日に、動物の存在が自分に近づいて来ているように感じるのです。

わたしが今まで食べる為に間接的にも殺し続けてきた存在が、”自分自身”であったのだと日に日に感じるようになって来て、自分自身の存在は”彼ら”であった。

つまり、家畜たち(彼ら)の成れの果てと同じく、”死体”以外の何者でもなかったのだと感じて、かつての自分を想っては居た堪れない日々に在り、この世界に、せめて企業や組織(団体)による虐殺、殺害(動物も含む)がなくならない以上、本当の幸せを感じることなどできないんだと想っています。

でもこれは、人類の全員がそうであるのだと想っています。

どんなに美しい笑顔で笑うことのできる純粋な人たちも、いつか必ず気付かされる日が来るのだと想います。

「何故、自分は、”自分自身”を残虐に虐殺し続けて食べてきたのか”」ということに。

気付いた直後の後悔する想いは、本当にのた打ち回るほどの後悔の苦しみでした。

今になって想えば、美味しい肉や魚や生クリームたっぷりのケーキや、ふわふわの卵焼きや、動物性のものを食べることは、何一つ、生きることの些細な喜びにすらなく、”監獄と虐待と拷問と断末魔の地獄の苦痛”の連鎖になるものでしかありませんでした。

自分で食べてきた動物性のものすべてが、”監獄”と”虐待”と”拷問”と”断末魔の地獄の苦痛”であったのです。

もし、離れて暮らす大事な愛する家族があなたに居て、「あなたが食べてきた肉はすべて、実はあなたの大切な遠くに住んでいた家族の”死体”です」と言われたら、あなたはどんな気持ちになるでしょうか?

わたしがと殺(屠畜)の映像を2012年に初めて観たとき、全くそのような感覚になりました。

自分が「美味しい」と微笑みながら食べてきた肉は、わたしの愛する家族の死体であったのです。

これが、目を背けたくもなるこの世界の”現実”です。

この世界に生きる全ての人が、わたしの感じた感覚と寸分違わぬ感覚に、打ちひしがれて底のないような悲しみと向き合わねばならない日が必ずやって来るのだと想っています。

その日が訪れるのは、来世かもしれませんし、来来世かもしれませんが、どうか待ち侘びてください。

誰にも必ず訪れる”祝祭の日”です。

あなたが自分の愛する家族を、もう苦しめ殺して食べなくとも生きてゆけるようになった祝福の日です。

わたしは、はっきりと解ります。

愛する家族(動物性のもの)を食べていた自分が見た光のすべては、虚無の闇に打ち勝つこともできぬ”虚(うろ)の光”であったのだと。

 

あなたは、「あなたの”助け”を必要としています。」

 

 

 

 

 

 

 

http://www.arcj.org/tokyoolympiccruelty/JP/

 

 

 

 

 

 

 

 


余は、雄鶏を、飼いたいん。

2018-03-28 19:52:03 | 日記

余はも、かれこれ、慢性的為る鬱症状を、十九の頃から抱えており、ええっと、今年で、十七年になるぅ。

だので、働く気がこれ一切、湧かず、生活保護費だけで生活して、早、九年。
このマンションには、2009年の11月頃から確か住んでいる。
溶質6.5畳の1Kのこのマンションは、壁が隣人の”うがいをする声”がもろに聞えるくらいの薄さという生活の苦を除外するならば、けっこー、良い物件なのである。

閑静な住宅地、レンガ造り風の外装、高級感漂うオートロック、余が入った頃、管理費と水道費含め4万7千円の家賃、これでも値下げ中であったが、今では空き部屋は家賃4万3千円とかまで下がっていた。
なんですか?この値下げ。
余は、ひっじょーーーーーーーーに、口惜しい。
だって、余の隣は、事故物件なんですよ。余がここに引っ越して2年ちょっと後に、隣の方が自死をしなすったんです。
マジで、激烈にショックで、未だに余のトラウマとして息づいている。
だのに、なんで余の部屋の家賃が4万7千円で、他の部屋は隣の事故物件合わせて皆、4万3千にまで、値下げしてるんですかー?
すっごく、管理会社に、一言、何かを言いたくなる余の心理は、きっとあなたにもあると想う。

で、それだからってわけではないんやけれども、余はこの度、劇的に、他の都市へ、引っ越したいという衝動を抑えきれなくなったので、近い将来、絶対的に他の都市へ引っ越すことになると想う。

詳しくは申せないが、都道府県も変わると想う。
その為に、市役所に引っ越したい旨を酒を入れて電話口で情けない泣き言を入れつつ、懇願したのであるが、これを市役所側は、引越し費用を出すに値しない引越し理由で在るとして、即、却下なされた。

余は悲しみに打ちのめされ、毎晩、酒に酔い痴れた。
何故なら、引っ越したい理由とは、徒(ただ)ならぬ自己の魂の奥深くから湧き出て止める術を持たぬ「雄鶏(おんどり)を飼って、愛でて生きたい」という切実為らない理由からであった為である。
雄鶏を飼いたい理由も、並大抵の理由でなく、切なる切なき我が愛なる欲情と、恋に似た、胸を熱くさせるきゅんきゅんでじんじんでごんごんな理由からである。

余は人生を懸けて、「雄鶏が飼いたい」と言っていてるのである。
これを即、5分かそこらの相談で即却下されたる余の口惜しき無念に、めげそうにもなるけれども、余は諦める術も知らないで。

市役所に引越し費用を払って戴けないのであるならば、自分で貯めて引越しすれば良い話。
余は半年以上かけてでも、自分で貯めて、絶対に雄鶏を飼える環境の古い一軒家に、引っ越すと近い将来の目標を立てた。

余は我が人生を、懸け、絶対に雄鶏を飼って生涯懸けて育てることを。
我が愛するリチャード(雄鶏の名前)へ。
夢のなかで、約束したような、気ィがするのであった。

 

 

 

我が愛するリチャード

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

余のオンライン家計簿うきうき

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ふたりの悪魔/悪の息吹

2018-03-26 12:38:52 | 随筆(小説)

殺人も、肉食も、死刑賛成も、堕胎も、すべてが自己憎悪の投影なんじゃないかとわたしは想っています。

幸せそうに想える人(愛されたい存在から愛されているという実感を感じ続けている人)が、何故、肉食という苦痛の連鎖に気付けないのか?死刑という殺人行為に賛成するのか?

それは悲しみ、苦しみ、孤独の浅さなのかもしれない。

愛されていると、その部分では満たされ続けている人も、愛されていないのだと、その部分で満たされ続けられない人も、潜在意識のなかでずっとずっと自分自身を憎み続けているからなのかもしれない。

人間の心理は本当に複雑で、どこかほんのちょびっとでも、自分の至らなさを自分で愛せないのならば、自分が愛されていると満たされている自分にすら、憎悪するのです。

愛されていないと感じるなら、愛されないのは自分が至らないからだと潜在意識のなかで自分を責め続け、自分を憎み続け、自分を罰し続けたいという潜在願望を持ち始めるのです。

そしてその自己憎悪は、容易に”他者”へと投影してしまうのです。

殺されゆく家畜が可哀想だと想いながらも、同時にどこかとてつもなく憎い気持ちを憶えたことがある人は結構多いのではないか?

それは人に愛されない為に殺される家畜たちが、”愛されない惨めで哀れな自分自身”のように想えて来るからです。

自分を家畜に投影しているから、罪なき家畜たちが憎たらしく想えてくるのです。

まず、自分のなかにある憎しみや見下しや差別の想いは”投影”であるのだと気付くことが大事なのです。

自分は”愛されている”のだと、幸せな想いで生きている人も肉食をやめられなかったり、死刑や堕胎に賛成するのは、自分のことを”どこかで”憎み続けているからではないか。

憎い自分は、”苦しめて殺してしまって構わない”のだと、どこかで想い続けているからではないか。

殺される家畜も死刑で処刑される殺人者も中絶手術で堕ろされてしまう胎児も、皆、憎い、受け入れたくない自分自身なのです。

だから心の奥深く、自分でも気付いていない部分で、彼ら(自分自身)を殺し続けていたいのです。

それも、残虐な方法であっても、気にはしません。もし、その方法が残虐かどうかを気にする人が多いならば、家畜の方法も死刑囚の処刑方法も中絶手術の方法も、もっともっと苦痛を減らそうとする人々の関心が高まり、そのような運動に賛成する人々が多くなるはずです。

しかし現実はこの世界でほとんどの人が、どのように殺されるかという方法すら、知りません。

それほど人々の関心が薄いからです。

憎い自分自身がどのように残虐に殺されようとも構わないとどこかで想っているからです。

嫌いで受け容れたくない自分自身は生きる価値にもないと、どこかで感じているからです。

だから肉を残さず感謝して食べようとする人は多いですが、家畜がもっと楽に生きて行けるように、殺すときの苦痛をどうすれば減らせるかと関心を向ける人はとても少ないのです。

死刑も堕胎も同じです。毛皮や動物実験や犬猫の殺処分も同じです。

関心を向ける人が、この世界ではあまりにも少ないのです。

でも自分の家族や、自分のペットだけを愛する人はとても多いです。

肉を食べなければ健康に生きていけないと未だに信じている人はほとんどですが、

もし多くの人にとっては本当にそうであったとしても、家畜の方法に関心を向ける人はほとんどいないのは何故だと想いますか?

わたしは以前の自分がそうであったので、幾つか答えられます。

 

それは肉が美味しいからです。

肉がどれほど身体に悪いかをわたしは知っていましたが、それでも産地や飼育方法を気にしてまで食べ続けてしまったのは、肉が美味しいからという理由のほか、自分はわかりませんでした。

肉が美味しくて、肉食をやめたい気持ちと肉食をやめたくない気持ちが自分のなかで争い続けている状態でした。でもわたしは、はっきりと、上の兄に言ったことがあります。

「肉を食べるのをやめたい」のだと。

この時点で、かなりわたしの「肉を食べたい」気持ちより「肉を食べたくない」気持ちのほうが若干、上回っていたのかもしれません。

それは言い換えれば、「肉が美味しい」欲望の快楽より、「肉を食べてしまう」ことの苦痛が上回っていたと言えます。

しかしその理由も、家畜を殺すことの罪悪感と、身体に悪いものを食べることの恐怖感、どちらに傾いていたのか?想いだそうとしても、憶えていません。

理由をはっきり憶えていないのですが、以前から肉の代替として売られている大豆肉を買って、ラーメンなどに入れて食べていたことを憶えています。

もしかして肉を食べるのが嫌になる、ある決定的なものを知ってしまったが、あまりに苦しいものだったので記憶の奥に封印してしまったのだろうか。

肉を食べる量を減らし、その代わりに大豆肉を食べていても、家畜がどのように扱われているかを、調べることもありませんでした。

もし調べてしまったなら、美味しい肉はもう食べられなくなるのは間違いないと感じていたからだと想います。

当時の自分にインタビューすることができるなら、当時の自分はこう答えると想います。

「肉の栄養が絶対的に必要だなんて、実は想っていない。昨今では肉がどれほど身体に悪いか、そんな記事ばかり目に付く。ただ”美味しい”から食べてしまうんだ」と。

当時の自分は、今の自分より苦しい状態に在ったと想います。

ただ”味覚の快楽”の為だけに、牛や豚や鶏たちを無残に(間接的であれども)殺していたのですから。

しかし30年生きて、わたしはようやく解放されたのです。

彼らを殺し続ける苦しみから。

一つ、譬え(たとえ)話をします。

悪魔崇拝者の話です。

ある町に、一人の悪魔崇拝者のイブキという者が住んでおり、或る晩の夢の中で、イブキは悪魔に囁かれます。

おまえはこれまで、俺を悦ばせ、おまえの内なる悪魔を悦ばせる紅い実を、数え切れないほど採って味わってきてくれたことだ。
しかし俺もおまえも、まだ味わったことのない最高の果実が在るのだよ。
その実は、何にも替えがたい何にも例えようのないほど美味しい実だと言われている。
おまえはきっと、その実が、気になって気になって居ても立っても、いられなくなるだろう。
何故ならその実は、何よりも甘美で恍惚な香りでおまえを誘い始めるからだ。
そう、今夜から、おまえはその香りを嗅ぎ始める。
嗅いだ途端、うっとりとして、おまえは欲情し、その果実が食べたくて食べたくて仕方無くなる。
おまえを止められるものは在るか?
その紅き果実は、おまえの舌を何日も、何ヵ月も、何年も、何十年も、味わわせることのできる実だ。
さあ俺を悦ばせ続けるだけでなく、おまえの内なる悪魔を悦ばせ続けるその紅き果実が、おまえに食べられたがって、熟れて今にも枝から墜ちそうだ。
今夜、目が覚めたら、早速あの丘へ向かうがよい。
場所はおまえがいつも俺を悦ばせ、おまえの内なる悪魔を悦ばせる紅い果実の生る樹の生える丘だ。

イブキは目を覚まし、歓喜に叫び声をあげた。
おお、我が愛するサタン!!
あなたを悦ばせ、また我が内なるサタンも悦ばせる紅きその実を!是非とも味わいたいで御座います!
イブキは早速、まだ夜明け前であったが、夢の中で悪魔の告げたいつもの丘に、ただただ、最高の快楽を求めんとして駆け付ける。
丘の頂上までやってきて、イブキは真ん中に生えた一番の太くて長い樹を見上げました。
やあこれは、なんと立派な樹であろう!
さぞかし美味い果実を生らせていそうだ。
イブキは涎を垂らして生い茂る葉の奥の、その隠れた艶やかなる紅き実を想像し、目を耀かせて樹を登り始める。
しかしどんなに登っても、果実が見当たらない。
あまりの疲労に、イブキは腕も足も痺れ、ついに樹を掴む力もなくし、樹から落下します。
その瞬間、恐怖のあまりにイブキは気絶し、夢を見ました。
夢の中で悪魔は、こう言います。
おまえはなんて愚かなのだろう?
相手が偽者か本者かもおまえにはわからないのか。
先程のおまえの夢の中でおまえが見たのは、俺の偽者だ。
よく考えてみるがいい。おまえも知る通り、おまえが食べて味わってきたのは、生きた者の犠牲の果実だ。
紅き実は、緑の実より俺とおまえの内なる悪魔が悦ぶからおまえは食べてきたんじゃないか。
悪魔はそこに存在しているものが、苦しく、グロテスクで暴力的で残虐な拷問であればあるほど、悦ぶことのできる存在だということを忘れたのか。
美味い果実ほど、犠牲も大きいということを俺は最初に、おまえに伝えたはずだ。
そしてその犠牲がおまえの内なる悪魔と俺を恍惚にさせるのだと俺はおまえに言った。
だが、その犠牲も、おまえに払えないものはおまえも食べることはできない。おまえに払える犠牲だけが、おまえに味わえる果実だと言っただろう。
最高に美味い果実を、何故おまえは容易に味わえると思ったのか。
最高に美味い果実とは、今までにない犠牲を、おまえが払うということである。
おまえは下手すれば、一秒後に、頭打って死ぬかもしれない。
おまえが死ねば、俺も死ぬと、言ったはずだ。
なんて馬鹿なことをしてくれたんだ。
俺がそんな馬鹿なことをおまえに言うはずがないだろう。
何故なら、最高の紅き果実とは、おまえ自身の紅き内臓と死肉の身のほか、ないからだよ。
おまえの割れた紅き柘榴の実が、鮮明に見えるよ。
はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは…と悪魔は夢の中で笑いながら、つと、笑わなくなった。

地に打ち付けられて頭はパックリ割れ、中から紅き実が、零れ落ちましたが、イブキはまだ息がありました。
ちょうどそこを通り掛かったふたりのレプテリアンに、生きたまま八つ裂きにされ、生きたまま解体されて地獄の後悔のなか、死んで、逝きました。

レプテリアンは、美味しかったね♪と言い合い、無邪気な顔で微笑み合いました。
豚カツを食べたあとの、幸せそうな人間の恋人たちのように。
レプテリアンは、おうちに帰って、「今度は人間の子供が食べたいね♪」と言い合ってまた微笑み合いました。
隣のおうちでは、人間の恋人たちが、「からあげくん美味しかったね。でも今年こそ、子牛のソテーが食べたいね」と切なそうに微笑み合いました。
ふたりのレプテリアンは、三年後、隣のおうちの夫婦の間に産まれた赤ん坊が、二歳を過ぎた頃、家に連れ帰って屠ろうとした瞬間、隣の夫婦が土足で上がり込んできて、泣き喚きました。
「御願いですから殺さないでください。わたしたち夫婦が、一体あなたたちに何をしたというのですか?わたしたちは愛する我が子をあなたたちに殺されて食べられるために産んだわけではございません。どうか後生ですから、殺さないでください。」
レプテリアンは言われている言葉の、あまりの滑稽さに、人間を軽蔑し、そのような都合のよい言い分は聞かずにスルーして夫婦の目の前で子供の首元を縦に肉切り包丁で切り裂き、屠って生きたまま解体し、ソテーにして食べました。
解体されてゆくなか、子供は夫婦を睨みながら、「おまえら俺を前に堕ろしたやんけ」とまるでおっさんのような太い声で言いました。
隣の夫婦は、最後まで見終わると、互いにそこのキッチンで生きたまま解体し合って自害しました。
ふたりのレプテリアンは、夫婦の死肉と内臓を三日かけて食べ尽くしました。
一日目の献立は、豚カツ風人カツにして、サラダの代わりに、生の目玉を二つ添えました。
二日目の献立は、ビーフカレー風人肉カレーを作りますた。
サラダスティックの代わりに、手の指を五本ずつ、生でかじりました。
三日目の献立は、朝は人肉散らし寿司、昼は人肉餃子、夜は夫婦の子供の目玉と内臓をミキサーにかけたものを冷凍しておいたので、それを片栗粉を入れてもう少しとろみをつけ、親の死体と合わせて親子丼を作りました。
ふたりのレプテリアンたちは、密かに、人類家畜化計画を練っているところです。
悪意は、皆無です。
人間のしていることと全く代わりありませんから。
悪では、ないのです。
因果律は、悪の法則ではございません。
そう、ふたりのレプテリアンのなかでひそひそと、イブキは今日も囁いています。


紅き血の丘の水面に、今日も慈悲成る神の息吹きが、吹き渡っております。



悪夢小説「ふたりの悪魔/悪の息吹」 完










ふたりの悪魔/悪の息吹

2018-03-26 08:02:44 | 随筆(小説)

 

 

殺人も、肉食も、死刑賛成も、堕胎も、すべてが自己憎悪の投影なんじゃないかとわたしは想っています。

幸せそうに想える人(愛されたい存在から愛されているという実感を感じ続けている人)が、何故、肉食という苦痛の連鎖に気付けないのか?死刑という殺人行為に賛成するのか?

それは悲しみ、苦しみ、孤独の浅さなのかもしれない。

愛されていると、その部分では満たされ続けている人も、愛されていないのだと、その部分で満たされ続けられない人も、潜在意識のなかでずっとずっと自分自身を憎み続けているのかもしれない。

人間の心理は本当に複雑で、どこかほんのちょびっとでも、自分の至らなさを自分で愛せないのならば、自分が愛されていると満たされている自分にすら、憎悪するのです。

愛されていないと感じるなら、愛されないのは自分が至らないからだと潜在意識のなかで自分を責め続け、自分を憎み続け、自分を罰し続けたいという潜在願望を持ち始めるのです。

そしてその自己憎悪は、容易に”他者”へと投影してしまうのです。

殺されゆく家畜が可哀想だと想いながらも、同時にどこかとてつもなく憎い気持ちを憶えたことがある人は結構多いのではないか?

それは人に愛されない為に殺される家畜たちが、”愛されない惨めで哀れな自分自身”のように想えて来るからです。

自分を家畜に投影しているから、罪なき家畜たちが憎たらしく想えてくるのです。

まず、自分のなかにある憎しみや見下しや差別の想いは”投影”であるのだと気付くことが大事なのです。

自分は”愛されている”のだと、幸せな想いで生きている人も肉食をやめられなかったり、死刑や堕胎に賛成するのは、自分のことを”どこかで”憎み続けているからではないか。

憎い自分は、”苦しめて殺してしまって構わない”のだと、どこかで想い続けているからではないか。

殺される家畜も死刑で処刑される殺人者も中絶手術で堕ろされてしまう胎児も、皆、憎い、受け入れたくない自分自身なのです。

だから心の奥深く、自分でも気付いていない部分で、彼ら(自分自身)を殺し続けていたいのです。

それも、残虐な方法であっても、気にはしません。もし、その方法が残虐かどうかを気にする人が多いならば、家畜のと殺(屠畜)方法も死刑囚の処刑方法も中絶手術の方法も、もっともっと苦痛を減らそうとする人々の関心が高まり、そのような運動に賛成する人々が多くなるはずです。

しかし現実はこの世界でほとんどの人が、どのように殺されるかという方法すら、知りません。

それほど人々の関心が薄いからです。

憎い自分自身がどのように残虐に殺されようとも構わないとどこかで想っているからです。

嫌いで受け容れたくない自分自身は生きる価値にもないと、どこかで感じているからです。

だから肉を残さず感謝して食べようとする人は多いですが、家畜がもっと楽に生きて行けるように、殺すときの苦痛をどうすれば減らせるかと関心を向ける人はとても少ないのです。

死刑も堕胎も同じです。毛皮や動物実験や犬猫の殺処分も同じです。

関心を向ける人が、この世界ではあまりにも少ないのです。

でも自分の家族や、自分のペットだけを愛する人はとても多いです。

肉を食べなければ健康に生きていけないと未だに信じている人はほとんどですが、

もし多くの人にとっては本当にそうであったとしても、家畜のと殺(屠畜)方法に関心を向ける人はほとんどいないのは何故だと想いますか?

わたしは以前の自分がそうであったので、幾つか答えられます。

 

それは肉が美味しいからです。

肉がどれほど身体に悪いかをわたしは知っていましたが、それでも産地や飼育方法を気にしてまで食べ続けてしまったのは、肉が美味しいからという理由のほか、自分はわかりませんでした。

肉が美味しくて、肉食をやめたい気持ちと肉食をやめたくない気持ちが自分のなかで争い続けている状態でした。でもわたしは、はっきりと、上の兄に言ったことがあります。

「肉を食べるのをやめたい」のだと。

この時点で、かなりわたしの「肉を食べたい」気持ちより「肉を食べたくない」気持ちのほうが若干、上回っていたのかもしれません。

それは言い換えれば、「肉が美味しい」欲望の快楽より、「肉を食べてしまう」ことの苦痛が上回っていたと言えます。

しかしその理由も、家畜を殺すことの罪悪感と、身体に悪いものを食べることの恐怖感、どちらに傾いていたのか?想いだそうとしても、憶えていません。

理由をはっきり憶えていないのですが、以前から肉の代替として売られている大豆肉を買って、ラーメンなどに入れて食べていたことを憶えています。

もしかして肉を食べるのが嫌になる、ある決定的なものを知ってしまったが、あまりに苦しいものだったので記憶の奥に封印してしまったのだろうか。

肉を食べる量を減らし、その代わりに大豆肉を食べていても、家畜がどのように扱われているかを、調べることもありませんでした。

もし調べてしまったなら、美味しい肉はもう食べられなくなるのは間違いないと感じていたからだと想います。

当時の自分にインタビューすることができるなら、当時の自分はこう答えると想います。

「肉の栄養が絶対的に必要だなんて、実は想っていない。昨今では肉がどれほど身体に悪いか、そんな記事ばかり目に付く。ただ”美味しい”から食べてしまうんだ」と。

当時の自分は、今の自分より苦しい状態に在ったと想います。

ただ”味覚の快楽”の為だけに、牛や豚や鶏たちを無残に(間接的であれども)殺していたのですから。

しかし30年生きて、わたしはようやく解放されたのです。

彼らを殺し続ける苦しみから。

一つ、譬え(たとえ)話をします。

悪魔崇拝者の話です。

ある町に、一人の悪魔崇拝者のイブキという者が住んでおり、或る晩の夢の中で、イブキは悪魔に囁かれます。

 

おまえはこれまで、俺を悦ばせ、おまえの内なる悪魔を悦ばせる紅い実を、数え切れないほど採って味わってきてくれたことだ。 しかし俺もおまえも、まだ味わったことのない最高の果実が在るのだよ。 その実は、何にも替えがたい何にも例えようのないほど美味しい実だと言われている。 おまえはきっと、その実が、気になって気になって居ても立っても、いられなくなるだろう。 何故ならその実は、何よりも甘美で恍惚な香りでおまえを誘い始めるからだ。 そう、今夜から、おまえはその香りを嗅ぎ始める。 嗅いだ途端、うっとりとして、おまえは欲情し、その果実が食べたくて食べたくて仕方無くなる。 おまえを止められるものは在るか? その紅き果実は、おまえの舌を何日も、何ヵ月も、何年も、何十年も、味わわせることのできる実だ。 さあ俺を悦ばせ続けるだけでなく、おまえの内なる悪魔を悦ばせ続けるその紅き果実が、おまえに食べられたがって、熟れて今にも枝から墜ちそうだ。 今夜、目が覚めたら、早速あの丘へ向かうがよい。 場所はおまえがいつも俺を悦ばせ、おまえの内なる悪魔を悦ばせる紅い果実の生る樹の生える丘だ。 イブキは目を覚まし、歓喜に叫び声をあげた。 おお、我が愛するサタン!! あなたを悦ばせ、また我が内なるサタンも悦ばせる紅きその実を!是非とも味わいたいで御座います! イブキは早速、まだ夜明け前であったが、夢の中で悪魔の告げたいつもの丘に、ただただ、最高の快楽を求めんとして駆け付ける。 丘の頂上までやってきて、イブキは真ん中に生えた一番の太くて長い樹を見上げました。 やあこれは、なんと立派な樹であろう! さぞかし美味い果実を生らせていそうだ。 イブキは涎を垂らして生い茂る葉の奥の、その隠れた艶やかなる紅き実を想像し、目を耀かせて樹を登り始める。 しかしどんなに登っても、果実が見当たらない。 あまりの疲労に、イブキは腕も足も痺れ、ついに樹を掴む力もなくし、樹から落下します。 その瞬間、恐怖のあまりにイブキは気絶し、夢を見ました。 夢の中で悪魔は、こう言います。 おまえはなんて愚かなのだろう? 相手が偽者か本者かもおまえにはわからないのか。 先程のおまえの夢の中でおまえが見たのは、俺の偽者だ。 よく考えてみるがいい。おまえも知る通り、おまえが食べて味わってきたのは、生きた者の犠牲の果実だ。 紅き実は、緑の実より俺とおまえの内なる悪魔が悦ぶからおまえは食べてきたんじゃないか。 悪魔はそこに存在しているものが、苦しく、グロテスクで暴力的で残虐な拷問であればあるほど、悦ぶことのできる存在だということを忘れたのか。 美味い果実ほど、犠牲も大きいということを俺は最初に、おまえに伝えたはずだ。 そしてその犠牲がおまえの内なる悪魔と俺を恍惚にさせるのだと俺はおまえに言った。 だが、その犠牲も、おまえに払えないものはおまえも食べることはできない。おまえに払える犠牲だけが、おまえに味わえる果実だと言っただろう。 最高に美味い果実を、何故おまえは容易に味わえると思ったのか。 最高に美味い果実とは、今までにない犠牲を、おまえが払うということである。 おまえは下手すれば、一秒後に、頭打って死ぬかもしれない。 おまえが死ねば、俺も死ぬと、言ったはずだ。 なんて馬鹿なことをしてくれたんだ。 俺がそんな馬鹿なことをおまえに言うはずがないだろう。 何故なら、最高の紅き果実とは、おまえ自身の紅き内臓と死肉の身のほか、ないからだよ。 おまえの割れた紅き柘榴の実が、鮮明に見えるよ。 はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは…と悪魔は夢の中で笑いながら、つと、笑わなくなった。 地に打ち付けられて頭はパックリ割れ、中から紅き実が、零れ落ちましたが、イブキはまだ息がありました。 ちょうどそこを通り掛かったふたりのレプテリアンに、生きたまま八つ裂きにされ、生きたまま解体されて地獄の後悔のなか、死んで、逝きました。 レプテリアンは、美味しかったね♪と言い合い、無邪気な顔で微笑み合いました。 豚カツを食べたあとの、幸せそうな人間の恋人たちのように。 レプテリアンは、おうちに帰って、「今度は人間の子供が食べたいね♪」と言い合ってまた微笑み合いました。 隣のおうちでは、人間の恋人たちが、「からあげくん美味しかったね。でも今年こそ、子牛のソテーが食べたいね」と切なそうに微笑み合いました。 ふたりのレプテリアンは、三年後、隣のおうちの夫婦の間に産まれた赤ん坊が、二歳を過ぎた頃、家に連れ帰って屠ろうとした瞬間、隣の夫婦が土足で上がり込んできて、泣き喚きました。 「御願いですから殺さないでください。わたしたち夫婦が、一体あなたたちに何をしたというのですか?わたしたちは愛する我が子をあなたたちに殺されて食べられるために産んだわけではございません。どうか後生ですから、殺さないでください。」 レプテリアンは言われている言葉の、あまりの滑稽さに、人間を軽蔑し、そのような都合のよい言い分は聞かずにスルーして夫婦の目の前で子供の首元を縦に肉切り包丁で切り裂き、屠って生きたまま解体し、ソテーにして食べました。 解体されてゆくなか、子供は夫婦を睨みながら、「おまえら俺を前に堕ろしたやんけ」とまるでおっさんのような太い声で言いました。 隣の夫婦は、最後まで見終わると、互いにそこのキッチンで生きたまま解体し合って自害しました。 ふたりのレプテリアンは、夫婦の死肉と内臓を三日かけて食べ尽くしました。 一日目の献立は、豚カツ風人カツにして、サラダの代わりに、生の目玉を二つ添えました。 二日目の献立は、ビーフカレー風人肉カレーを作りますた。 サラダスティックの代わりに、手の指を五本ずつ、生でかじりました。 三日目の献立は、朝は人肉散らし寿司、昼は人肉餃子、夜は夫婦の子供の目玉とハラミの部分を挽き肉にしたものを冷凍しておいたので、それと親の死体を合わせて親子丼を作りました。 ふたりのレプテリアンたちは、密かに、人類家畜化計画を練っているところです。 悪意は、皆無です。 人間のしていることと全く代わりありませんから。 悪では、ないのです。 因果律は、悪の法則ではございません。 そう、ふたりのレプテリアンのなかでひそひそと、イブキは今日も囁いています。 紅き血の丘の水面に、今日も慈悲成る神の息吹きが、吹き渡っております。 悪夢小説「ふたりの悪魔/悪の息吹」 完

他者(自分自身)を救う為に誰もが今すぐ出来る第一歩。アーティストSue Coeの描く現実

2018-03-25 22:24:43 | 人類の苦痛の根源

今日、イギリス出身のSue Coe(スー・コー)というアーティスト/活動家を知りました。

 

 

The Spent Hen  (2012)

 

 

Sheep Shearing

 

 

 

彼女は版画や絵画や芸術家の書籍や漫画によるイラストレーションなどで様々なこの世界の深刻な問題を描いています。

経済的抑圧、性的搾取、政治的腐敗、アパルトヘイト(種差別)、エイズ、刑務所(投獄)、戦争、工場農業、飢餓など彼女の取り上げる問題はすべて社会的不公平についての問題で、中でも一番力を入れているのが”動物に対する人類の残虐行為”という深刻な問題です。

 

 

 

   

Sue Coe (born 21 February 1951) 

 

 

Sue Coeは1951年にイングランドのスタッフォードシャー州タムワースで生まれました。

彼女は幼少期を豚の養殖場と"と殺(屠畜)"場の側で過ごし、毎日のように家畜たちの悲鳴を聞いて、また家畜への残虐行為を何度と目撃しました。(毎朝、豚の叫び声で目を覚ましたそうです)

幼い頃から学校の実験室やと殺(屠畜)場から動物を助けたりしてきた彼女は後年の1986年から1992年にかけて、米国、カナダ、イギリスの屠畜場の内部に足を踏み入れ、と殺(屠畜)場内の様子をスケッチブックにドローイング(図案の線描)し、カメラでビデオを録画しました。

「ドローイングは分かち合われた時間の親密さを明らかにする(Drawing reveals intimacy of shared time)」

と言った彼女はどのような想いで殺される未来が待ち受けている動物たちと、残虐な方法で殺されゆく動物たちの姿を描いていたのでしょう。

きっと自分や自分の大切な家族が殺されてゆく感覚だったと想います。

彼女は他にもストックヤード(肥育場、牛を食肉用として出荷する為に飼料を必要以上に与えて太らせる為の施設)、ミートパッキング工場(食肉を解体、処理、包装する工場)、牛の放牧場、酪農場(搾乳場)、鶏卵工場にも足を踏み入れます。

彼女は、米国のシンシナティにある食肉処理センターのための「Porkopolis」と呼ばれる一連の作品を生み出しました。

 

 

Standing Pig (1993)

 

 

(1989)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

The Selection1991. 





Queenie Poster by Sue Coe   VIEW LARGER Queenie Escapes the Slaughterhouse (2011)


 

Triumph of Fundamentalism (2005)

 

 

Second Millenium, 1998

 

 

You Consume Their Terror, 2011

 

 

 

 

彼女は、「幸せな動物(happy animals)」の絵をたくさん隠し持っているそうです。

残虐な絵ばかりを描いているのは、彼女が残虐な絵が好きだからではないことがすごく彼女の絵を観ていると伝わってくるのです。

わたしも残酷なことを表現する小説や詩を多く書くようになってきました。

それはこの現実世界が本当に残酷でならないことが毎日普通に行なわれ続けている世界だからです。

彼女もわたしも、現実に起きていることを表現することによって、平和を願う心を自分も作品を鑑賞する人にも強く抱かせ続け、この世界を平和に向わせたい気持ちがすごく強いのだと想います。

この世で行なわれ続けている残酷なことが本当に苦しくてならないからこそ、残酷な表現をし続けていかねばならないのです。

「動物達は今自分を殺そうとしたり虐待しようとする人間の目をじっと見つめる事があります。

その目にはなぜ自分がこんな目に遭わされているのかという困惑と恐怖に満ちています。

そして何も悪い事をしていないのに、もっといい子になるから許してください、という懇願の思いがひしひしと感じられる。 

私は挫けそうになった時、動物達のその目を思い出し、悲しんだり希望を失っている時間はないのだと自分を奮い立たせます。」

Sue Coeのこの言葉を、わたしは忘れたくないと想いました。

苦しんでいる人こそ、わたしは動物たちの苦しみを知って欲しいと想っています。

動物たちを救いたいと願う気持ちは、自分自身(人間)を救うことに他ならないと感じているからです。

自分だけの苦しみに囚われることのほうが人間は苦しいと想うからです。

他者の苦痛を知り、心から救いたいと想えることにこそ、”光”が見える筈です。

だからどうか、目を背けないでください。

 

 

 

 

 

 

 

参考サイト

🌟ビーガンアーティスト Sue Coe

🌟スー・コー(Sue Coe) について

🌟From NMWA's Vault: Sue Coe

🌟Sue Coe

 

 

 

 

 

 


恐ろしい虐殺によって呪われる

2018-03-25 05:20:07 | スピリチュアル

地上の御花見シーズンにも愛が見られます。

 
それは親切、寛容、施しとなって表現されています。
 
旧交を温め、縁を確認し、離ればなれになった人が一堂に会するということにも、愛が見られます。
 
また、これまでの恨みは忘れようという決意もさせます。
 
しかし残念でならないのは、それに先立って大量の動物が殺害されることです。
 
物言わぬ神の子が、無益な犠牲にされていることです。
 
人間の堕落した享楽ごとが、そうした恐ろしい虐殺によって呪われるとは、何と悲しいことでしょう。
 
なぜ新たなる生命の息吹く春を呪うために、罪のない動物の血が流れねばならないのでしょう。
 
これはまさに地上のはりつけです。
 
罪なき動物に流血の犠牲を強いて春を呪うとは……。
 
いつの日か、愛と哀れみと慈悲と責任が人間を動かし、助けを求める動物たちへの態度を改めるでしょう。
 
そうした資質が発揮されれば、罪のない動物への容赦ない流血と残酷と無益な実験がなくなるでしょう。
 
地上に真実の平和が訪れ、狼と小羊が並んで寝そべるようになるでしょう。












マテリアル

シルバーバーチの霊訓より















わたしが家族を想えば

2018-03-25 02:53:02 | 想いで
最近また、お父さんの夢をよく見るようになった。
先日は夢の中でも死んでしまった父にスーパーマーケットで再会する夢を見たし、さっきは実家で、わたしが寝る部屋で寝ていると夜中遅くに起きてテレビを見ていた父が、トイレに行くためダイニングキッチンルームを歩いて行く後ろ姿をわたしは寝ながら見ていた。
その後ろ姿が、背を丸めてちょっとおどおどした感じに、歩いてて、深く悲しみを感じた。
目が覚めて、夢の中で父が着ていた黒っぽい赤の複雑な模様のシャツを、そういや気に入ってよく家の中で着ていたなあと想いだした。
高級そうな生地だったがよく着ていたからよれよれな感じになっていた。
たぶん、誰かのプレゼントで、外に着ていくには派手だから家の中で着ていたんやろな。
それでその歩いて行く後ろ姿が、何処と無くアル・パチーノっぽかったなと想った。
先日、アル・パチーノとジョニー・デップの映画「フェイク」を観たのだけれども、アル・パチーノ演じるレフティが、ジョニー・デップ演じるドニーの脇腹らへんをカチンときた際にこつくシーンが序盤にあって、そのこつき方が、わたしが父をカチンとさせて父を怒らせた時のこつき方とそっくりだと感じた。
あの時は、わたしは食事中に左にいる父が嘘を演じているのだと父に怒られていた姉をかばうためについ口走ってしまい、父を怒らせたのだが、あの父の怒りも、あの映画でレフティがドニーに怒った自分のプライドを傷つけられたという理由と同じだったはずだ。
なんかその感じが、すごくあの時の父とそっくりだと想った。
最近、アル・パチーノが好きになった。
アル・パチーノが出ていた映画は父と子供の頃によく観ていたと想うが、憶えていない。
まだ「スカーフェイス」と「フェイク」しか観ていないが、両方とも不器用だけどプライドは高く、素直で子供のようなところがあり、短気で人情味があるところなんかうちの父の性格とよく似ている気がした。
うちの父は下品なことが嫌いでかなり上品な人だったが、その一方でわたしに「あんな、人間はみんな変態やねんで」などと教える変わった人だった。
わたしは父だけは変態であってほしくなかったので、その言葉はどうしても受け入れたくなかった。
見た目は頬がこけた上品なマフィアのボスといった容貌だった。
そんな強面の父が白のクラウンに乗っていたから喧嘩を売られることがなかった。
威厳があって本当に格好良かった。
父は痩せていたけど、外に行くときにいつも掛けていた薄い茶色が入った眼鏡を掛けるとマフィアのボスにしか見えなかった。
そう言えば、アル・パチーノの目は優しくもありどこかギロついている。あの目が、父に似ているからかもしれない。
わたしがアル・パチーノに惹かれているのは。
アル・パチーノは父も好きだった俳優だ。
「ゴッドファーザー」も父と一緒に観たはずなんだが想いだせない。
父はお酒も煙草も博打も女も、手を出さず、仕事が終われば真っ先にうちに帰ってくる人だったが、わたしと兄を一人で育てながら、どのような想いで生きていたのだろう。
わたしが子供の頃に兄の眠っている顔の上を跨いだだけで、「女が男の顔の上を跨ぐとは何事か」とものすごく怒るような人だった。
母の若いときの男を誘うかのような表情の化粧の濃い写真を観ると「この写真は気に入らん」と言っていた。
成長するわたしに、父は亡き妻の面影を観ていたのだろうか。
わたしの母が死んだとき、父はまだ四十四歳だった。
実家で、今も猫たちと暮らす音信不通の兄は先日、四十三歳になった。母が乳癌の末期であるとわかった翌年で、死ぬ前年の年だ。
兄はどうしているのだろう。何もわからない。
わたしが家族を想うとき、いつも言い知れぬ悲しみに襲われる。
この悲しみは、一体どうすれば、どんな小説を書けば昇華できるというのか。
今年の一月にも、言い争いの末に到頭、姉からまたもや言われてしまった。
今でもお父さんはおまえのせいで死んだと想っている。と。
姉とも、もう当分仲直りができないだろう。
これでわたしは家族の誰とも、話をしない人間になった。
わたしが姉との仲を取り戻すために問い質しても、何も答えてくれない。
悲しい人間を探せば、この世界はきりがないが、わたしは死ぬまでどん底に生きるだろう。
其処は、精神の底と言えるのではないか。
わたしは精神の底に、辿り着いて死にたい。



















Data Line Drive

2018-03-23 23:08:33 | 随筆(小説)
ヒロキ、オマエはなんか勘違いしてるようだね。
あたしゃねえ、SEXでは”快楽”を一切感じられない人間なんだ。
おまえはアホだから、女なら誰でもS/E/Xで快感を得る生き物だとでも想ってんだろう?
あたしゃ経験で言えば、これまで9人の男と性的交渉(FUCK、性交)をしたことがある。
しかしただの一度足りとも、FUCKによって性的快楽を微塵足りとも感じたことがない。
だのに男っていうのは大概馬鹿だから、FUCK(挿入)さえすりゃあ、女は感じて満足してくれんだろ。
なんて考えてっから、阿呆だよな。俺はもうそんな男とは二度とFUCKしたくない。
はっきり言って、”人間”にあまり興味が湧かなくなった。
これは現実の男が、あまりにも自分の理想と掛け離れすぎている為に仕方なくそうなってしまったのかもしれない。
まず、女に対して「肉体的な快楽を求める」男に惹かれない。
これは致命的だね。此の世のほとんどの男が、自分を興醒めさせる男だ。
まず今までたったの一度でも、「AV(アダルトビデオ)」を観て興奮したことのある男に冷めてしまう。
まだ死体を見て興奮して射精する男のほうが結婚できるかもしれない。
でもそれでも、俺は”結婚”を諦めちゃいないぜ。
此の世には、異星人(地球外生命体、肉体を持たない聖霊なども含む)も多数人間の姿を取り、潜伏していると言われている。
彼等はほぼ、相手が人間の女だろうが男だろうが、肉体的な快楽を期待しない。
高次元に生きる生命体は、こぞって大概が”霊的”な存在だからだ。
彼等はほとんどが、相手の魂(霊性)に惹かれ、肉体的な繋がりを欲しない。
肉体になんの未練もなく、例え相手がただの腐乱した肉塊でも、構わない。
中に魂(霊)が宿っているならば。彼等はその腐乱肉塊に平気で本気で恋をする。
腐乱肉塊は喋る。
「醜いあたくしをどうか見ないで。あなたはあんまりにも、美しく、輝かしい、まるで、イエス・キリストのように」
高次元生命体はそんな醜き腐乱肉塊の女に向って言う。
「貴女は、この現実世界のリアリティに余りにも振り回され過ぎです。クリエイション(創造主)にとっては、貴女もわたしも、美しくもなければ醜くも在りません。ただの存在としてクリエイションと同じだけの絶対的な価値にあります。貴女もわたしも、どう足掻こうが、そこに存在している”絶対の価値”をほんのちょびっとすら動かすこともできません。つまり”価値”というものは、減ることもなければ増えることもありません。果てのない宇宙の中で、ほんの0.01ミリ伸びることもなければ短くなることもありません。凝り固まった観念世界に生きる人間にこの話をしても信じようとはしません。貴女は宇宙のすべてがそうであると同じに醜くもなければ美しくも在りません。でもそれは同時に”あなたは醜くも在れば美しくも在る”と言っていることと全く同じであるのです。すべての宇宙を支配する真理にどうか気付いてください。貴女は不幸でもなければ幸福でもありませんし、同時に幸福で不幸です。あなたは何者でもありません。”存在”以外の何者にもなれません。クリエイション(創造主)は或る晩、貴女に向かって夢の中でこう言います。”貴女を殺してしまいたいくらい愛しています”あなたはクリエイションに恐れを為し、暗がりの狭い通路の中を逃げ続けます。クリエイションは貴女を愛することをやめないので、貴女を追い続けます。貴女は仕掛けられていた罠に掛かり、転んで足を切って傷めます。クリエイションは貴女のすぐ後ろまで近づいています。貴女はクリエイションに向って、大きな悲鳴をあげます。クリエイションはちっとも驚く様子を示しません。貴女は起き上がって、傷む片足を引き摺りながらまた逃げ続けます。クリエイションは容赦なく貴女を追い駆けます。クリエイションの大きな闇の影が、貴女に襲い掛かろうとしています。貴女は後ろを振り向き、必死に、助けを求めて祈ります。クリエイションの忍び寄る魔の手が、貴女に届かんとした瞬間、貴女の目の前に、低いスリップ音を立ててドリフトを決めながらシルバーのデロリアンが到着します。両側のガルウィングドアを同時に羽根のように開放させ、貴女に向かって、闇の顔の見えない運転手が顎を使って、”乗れ”と指図をすると、貴女は顔の見えない運転手に恋をし、迷わずデロリアンに乗り込み、デロリアンは静かで低く呻るような音を立てて発車します。クリエイションは、貴女を追うことをやめ、貴女の乗ったデロリアンが走り去るのを眺めながら、煙草を一つ吸うと、その場から消え失せてしまいます。助手席に乗ってドライヴィングを楽しむ貴女は、運転席に座る謎の人物が貴女を振り返ったとき、ようやくこのデロリアンがどこを走っているかということに気付きます。顔の見えない運転手の顔面の中に、照明柱を両側に灯したハイウェイが見え、そのハイウェイ以外、空間がないということに。」















Mega Drive - Dataline



















婚活女たちよ、気をつけろ!!!

2018-03-23 17:00:31 | 日記

悲しいことに、つい先日タップルで知り合ったばかりの23歳の糞ガキから、このような言葉を最後に吐かれました。

これが、彼奴等(きゃつら)の手口だ!!!!

憶えて置いてください、世の出会い系サイトで真剣に結婚相手を求める女たち!!!

このようなアホナ男はすぐに、ブロックしましょう!!!

 

 


Future Life

2018-03-20 22:41:39 | 

くだらねえな、この世界は本当にほとんどの事象が。
人様が真剣に真心籠めて作った映画のレビュー一つ、真剣に書く人間もこの世界には少ないんだな。
タップルでも俺が長文メールで最低限の礼儀として返しても短文メールで返してきやがる、それも、つまんねえ文章ばかり。
糞だ、糞ばっかりだな、この世界はよ。
死ねや。とは言わねえが、せめて、肉喰うな!とは叫びたくもなるぜ。
阿呆共によォ。テメエ等になんか、興味はねえ。セックスなど、糞喰らえだ。
面白くもねえ。テメエの男根(ダンコン)は、切断して家畜の餌にでもしてやれ。
馬鹿言ってんじゃ、ネエゼ。手前の弾痕は、大根以下だ。
っくぅぅぅぅぅぅっ。ママンの大根足に頬擦りしてェぇぇぇぇぇぇ。
大根が美味しい季節です。
俺の大根は手足を生やし、青い草原の海へと駆けてゆく。在り来たりな愛を叫びつつ。死ぬる海邊。
俺は寝ていない。26時間以上。
視たんだ。父親が死ぬ夢を。
俺は問い質していた。何故、死に目に合わせてくれなかったんだと、父に怒り半分。
父は、困った声で、声だけで、俺に返事をした。(死んでっから姿が見えない)
俺は自己嫌悪に陥る。夢現(ユメウツツ)の中でだ。
なんで死んだ父親に、あないな腹立ち紛れな言葉を言い放ったか。
俺はっっっっっ。
死ねえ!!!シャッキーン。闇の処刑人、”大根足”が現れた!!!
ママン!俺を忘れたno?!忘れたとは、言わせねえ!!それでも悲しき人類の禁じられた大根足!!
御前の顔面など、こなしてくれるわい、嗚呼!!
魔物”大根足”は勇者、俺の顔面を踏み潰して殺したァっっっっ!!!
全滅懸けて、全てを救い賜ったァッっっ!!!昨日の晩に!!キスを忘れた夜は必ず悪夢を見たぜ!Maman!
彫刻刀で俺は彫った。”ママンだけを愛してる”と!!!!
俺の陰茎に!!調理師見習い移動式実用サーバーエイドリアン!!!
アドリア海の日暮れ疎開!!ココナッツの死ぬ、死海!!
スーパーで、フライパンを望む!!!そしてそれは、粗悪な糞!!
スーパーで、死んだ父親と再会!!!僕の目ン玉飛び出したぁぁぁぁぁぁっっっ!!!
のちに冷静に、自家らしき空間にて、父親に問い質す。
我はなにゆえワレの死に目教えなんだあああああああぁぁぁぁっっっっっっ!!!
蛍光色が原色に打ち勝つ瞬間のスパークドットフリークデロリアン!!!
昨日の夢を忘れたとは、言わせない!!!例え彼の世におります父上でも!!!
下賜と春の狂夢。今日無!!!!静岡県が神奈川県に嫉妬す夜分!!
神戸は畳の上で、消え難き床痕を顔に刻んでた!!!
実母の損なった前作より評価の低い作品にて。
溢れる太陽光に蹴り入れた!!舞い上がる白波赤き飛沫!!!寄り添う母と息子。
強殺、全世界のMoneyは母の手の中に!!!
金属の折の中の青空!!!闇に負けを認めた光の懺悔室、眩しき!!!闇は盲目!!!
地表の海底を測る!!!意味無し!!!現世雨林の生メカ死眼球!!!
原求!!!意に報わぬ残求。助殺!!!カエリ・ミーンヌの薄く示唆!!!
美しさ、無し!!!!!!!!!創のイエス、助光。何も無き、Future Life.












Mega Drive - Future Life
















映画「オンリー・ゴッド」我々全てに与えられるものとは

2018-03-20 09:57:56 | 映画

ニコラス・ウィンディング・レフン監督の2013年の映画オンリー・ゴッド(原題Only God Forgives)を観た。

 

 

 

 

この映画も可なり、独特な世界で面白かったです。

この映画を考察してみたのですが、かなりレフン監督の「フィアー・エックス」の解析とかぶるんですよね。

共通点は、「胎内と産道」「胎内回帰願望」「胎内と産道のような赤い空間と赤い通路」。





「母と子」というテーマは「フィアー・エックス」では主人公の殺された妻と胎内にいた子供という形で間接的ですが、この映画はもろ、ライアン・ゴズリング演じるジュリアンと母親(毒親)という母と息子のテーマであると感じました。

原題の「Only God Forgives」は、「神のみぞ赦す」という直訳になりますが、この訳は本当に合っているのでしょうか?

調べたら「Forgive」っていう単語は”古期英語「与える,認める」の意”って出てきました。

Forgive」って言葉には、「与える、認める」って意味が隠されていることになるんだと想います。

「神のみぞ与える(神だけが与える)」っていうのはとても良い言葉です。

Forgive」が「赦す」という意味があるのも、人間に”罪”あってこそ意味のある言葉ですよね。

そう考えると神という存在自体が、人間の「罪」在りきの存在として存在していることがわかります。

人間に罪もなければ、神も必要ないのでしょう。

聖書にも「神のみが人を裁く」という意味が出てきますが、それも言い換えれば、「神のみが人に与える(その行いのすべてを認める)」という意味になるのだと想いました。

(あとで、filmarksという映画レビューサイトを観ていて、「Only God Forgives」を、「神のみぞ赦し給ふ」と訳されている方が居ました。「給ふ(たまう)」は、「お与えになる、与えてくださる、授けてくださる」といった意味なので、「神のみが赦しを与えてくださる」といった「赦し」と「与える」が一つになったとても良い訳だと想いました。)

とても深い題名で、この映画も意味深な映画です。

「母」の存在とは、人にとって「神」である。というのも、その通りなんじゃないかと想います。

子を産み落とす母親という存在が居なければ、だれ一人、この世には誕生できない世界です。

毒親の母親の言い成りになりながら愛憎と兄や父への深い嫉妬を抱えて生きてきた主人公のジュリアン。

この映画は最初は主人公をルーク・エヴァンズに予定されていたのですが、スケジュールが合わずに降板し、ライアン・ゴズリングが受けたそうです。

ジュリアンの役を、ゴズリングが演じたことは本当に正解だったと歓喜します。

何故なら、彼は、あまりにもマザコンで母親に愛憎を抱く男の役がハマリ役だと感激したからです。

ゴズリングの捨てられた仔犬的な悲しく寂しい目を見詰め、「クウウウゥン」って共鳴したくなるほど、彼はそんな孤独で母親から愛されない悲しい男の役が似合うんだなと改めて感じました。

それで、この映画のテーマの話に戻りますが、レフン監督自身が、どうやら義理の育ての母親にとてつもない辛い育てられ方をしてきたそうで、この映画が、「母親への復讐」めいたテーマなのではないか?と解析する人が多く、わたしはそこが、どうにも疑問というか、気に入りませんでした。

それじゃあ、あんまりにも、薄く面白みのない映画となってしまいます。

やられたことを仕返しして、すっきりするというテーマでは、全く深みがありません。

作品と言うのは、作者の意向、意図を超えゆくものでなければ、優れた昇華として、成し遂げることができないのです。

もし、レフン監督自身が、「復讐」めいた意図でこの映画を撮ったとしても、そこにはレフン監督の意図しない潜在意識、潜在願望が必ず入り込んでいるはずなのです。

そこを読み取る、感じ取ることこそ、作品と接することの醍醐味です。

作者の意図だけを考察して終わりでは、作品を上辺しか鑑賞していないことになるので、真にもったいないことです。

なので、この映画も是非、監督の潜在心理、潜在願望がどのようなものであるかを知り得る為に必要でもあり、最適なものなのでできる限り奥深くまで考察するほど面白いです。

わたしの出した考察の、監督の「胎内回帰願望」という監督の願望と、監督自身への罪を制裁する神の赦し(裁き)というテーマも、浅はかであるのかもしれませんが、しかし「復讐劇」というテーマよりはずっと愛の深いテーマであるように想います。

復讐してすっきりして終わる、というのでは、ただ殺人者を死刑にして終る。というようなとても安易で何一つ深みのない空虚な劇です。

この映画に出てくる主人公ジュリアンの母親は、確かにとんでもない母親です。

息子と息子の彼女の前で、自分の息子の、長男のほうが男根がでっかかったとか、平気で話すような母親で、まったく、面白くて仕方ありませんでした。

「この子のも小さくないわ。でも…」と母親が鼻で笑いながら言うのです。母親に想い出して吐息を吐かれながら(クリスティン・スコット・トーマス演じた母親クリスタルがまた素晴らしいです)「長男の”モノ”はすごくて誰も敵わない」と言われ、ジュリアンは母親を見詰めながら黙って頷きます。

ジュリアンは、じいっと少し咎めるような目で母親を見続けながらも、何も言わず、果てには母親の煙草に弟子のように(母親はマフィアのボスで、ジュリアンは言い成りです)火を付けたりする息子で、めちゃくちゃ良いシーンです。



母親に気のある女の前で陰茎が小さいとか、何を言われても黙っているクールなジュリアン



ここまでこのような母親に渾身的な息子も珍しい気がしますが、どうなのでしょうね。

でも何度も観ると、想ったんですよね。あ、このときのジュリアン、ちょっと嬉しいのかな?と。

母親もジュリアンが恋人を連れてきたんで、「なんだよ」みたいな面白くねえなって感覚もあって、あのような辛辣な台詞を息子の前で話したのかもしれません。

母親に女を見せに連れて行ったのも、母親に嫉妬してもらいたい潜在意識があるからだと想います。

母親が嫉妬する様子を少しでも垣間見たなら、母親が自分に依存していることを確認できます。

とにかく、母親とジュリアンは、長男と同じく、性的虐待か、近親相姦的な関係があったのだろうと想います。

そして終盤には、父親をジュリアンは、素手で殴り殺したのだと母親は言います。

どのような父親であったかは明らかにされませんが、麻薬密売のマフィアのボスなので、暴力的だったのかもしれませんし、暴力がなくとも、言葉でジュリアンの繊細なハートをけちょんけちょんにするほどの、言葉の暴力があった父親かもしれませんし、色々、想像がつきます。

でも、もしかしたら、父親を殺した理由も、一番は「母親を自分のものにしたい」願望が頂点に達したからなのかもしれまい。

ジュリアン、すっげえ、かっこいい!って想います。父親を殺してでも母親を我が物とする息子、マザコン息子ジュリアンです。

これは、「ドライヴ」以上に、ゴズリングのハマリ役とわたしは観ました。

母親を憎んでいるのも、それは母親を我が物としたいのにできないことの自己憎悪の母に対する投影のほかないでしょう。

つまり、ジュリアンは本当に母親を愛して、求め続けているからこそ自分だけを愛してくれない母親への愛憎の想いが強くあり、どこかで破滅願望(母親と共に)を抱いているような男であるはずです。

わたし自身が、そのような人間なので、レフン監督の潜在願望を見抜けているのやもしれません。

わたしの場合は母親代わりに育ててくれた父への依存的な愛で、相互依存関係にありましたが、ジュリアンと母も相互依存関係に少なくともあったと想います。

わたしは父との性的な関係はありませんでしたが、父の普通の男性としての性的な欲求を赦せませんでしたし、他の女性に興味を持つことも可愛がることも赦せないほどでした。

ジュリアンの場合は、母親からの欲求なのか、ジュリアンからの欲求なのか、性的な関係にあるように匂わせていますし、ジュリアンは性的に不能であったとレビューにあり、わたしの場合も、或る意味、性的に不能(性的交渉では快楽を感じられない)な人間であるのでジュリアンと共通する点は多そうです。

わたしの場合は、多分、父とでないと、精神的な一つとなるという欲求を持つことさえできないのかもしれません。

だから精神的なブレーキがかかって、快楽を感じられないのです。これが本当の、親と子の相互依存関係と言えるのやもしれません。

そしてわたしの場合は父は他界しているのですが、父が死んでからというもの、特にここ何年と、”父(あるいは母)と本当の意味で一つとなる願望”というようなテーマの小説ばかり書いています。

母の記憶のないわたしにとって、父は母でもありますが、ジュリアンももしかすると母親の存在があまりにも大きすぎて、母親が父のような存在として、彼にとって”すべて”の存在であったのかもしれません。

ジュリアンも、母が自分に依存していることを信じていたはずです。

終盤近くに、今までずっと息子に弱音を吐かずに命令だけをしてきたような強い母親が、ジュリアンに向けて「わたしを護って」ほしいと頼みます。

その時、どこか目が輝いて嬉しそうな表情をジュリアンがしている気がするのです。



まさに、捨てられた仔犬をやっぱり家に連れて帰ろうと引き返してきた飼い主に見せるかのような仔犬の眼差しなのです。「クゥゥゥゥン?」と、悲しいけど嬉しい…と言っているのです。

こういう表情が出来る(得意な)のは、ゴズリングだな。と想いました。

かっこいいな、この役のゴズリングは、「ドライヴ」以上に男前ですよ。

やっぱり男は、マザコンでなきゃ、魅力に欠けるのでしょうか。

わたしが昔に、「父親から顔を裏拳で殴られる」などの行為は普通にいつも受けていると友人に話したときに、友人から「それはひどい父親だ」という風に返され、イラっと来たことがあります。

これはまるで、ジュリアンが母親に見せに行った女性にあとで母親のことを悪く言われ、瞬間、ジュリアンが女性にブチギレたことと同じだと想います。

母親がどんな親であろうとも、母親をかばって、好きな女性にキレるジュリアン(この時だけヤケに感情的なジュリアン)。これぞ、真の男の愛だな。なんて感じました。

それでネタバレになりますが、女性のあの部分へ手を入れたい妄想、さらには母親の、あの部分を、○○、そこへ…(”刀”、”創〔きず〕”って字と、”切る”、という行為は実は、神による創造(生殖)の意が隠されているのです)

というシーン、本当に良いシーンです。これはエロティックさで良いというより、母親と一つとなりたい息子の愛情を表現する一番のシーンです(特に母親とのシーンは)

胎内回帰願望というものは、ただ安心する胎内に戻りたい、一から遣りなおしたいという意味から来る願望ではなく、あくまで「最愛の母親とひとつに戻りたい」願望から来ているのだなとこの映画を観て、改めて確信した次第であります。



血のように赤い部屋でジュリアンを待ち受ける母親。壁紙もグロテスクな模様である。



ジュリアンを愛するような顔を向ける美しいクリスティン・スコット・トーマス演じる母親クリスタル

 

 

母と息子の近親相姦を匂わすシーン。真っ赤な部屋で抱き合う母と息子、あまりに官能的である。

 

 

向こうでは家族ならキスは当たり前ですが、日本でこれを普通にやる習慣がないことが悲しいですね。

 

 

ヴィタヤ・パンスリンガム演じる謎の元警官チャンが、なんだかどうしても平沢進を想わせる異星人的な奇妙な存在感で、この俳優をあえて選んだレフン監督、好きです。

 

腕を切断されるシーンが幾度と出てきますが、腕を切断される願望があるっていうのは、もしかしたら聖書のイエスの言葉に基づいているのかもしれません。

イエスはマタイによる福音書5章でこう言っています。

 

29 もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身がゲヘナ(永遠の処罰の世界、魂の消滅、死の世界と考えられる)に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。

30 もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。

 

この聖句は衝撃的であり、これはまるで、人が罪を犯した場合、死ぬことはできずに、身体の一部を切断されたり、目玉を抉り出したりする処罰が必ず待ち受けている。と言っているように聞えるからです。

イエスは人々に「すべてを赦すこと」を教え諭しましたが、「赦し」とは、言い換えれば「裁くな」ということです。

何故なら、人を真に裁けるのは神、その存在のみであるとイエスは知っていたからです。

この映画では母親としての神と、制裁人である謎の元警官の存在が出てきますが、二人とも十分な裁き(赦しとしての報い)を行なえているようにはとても見えません。

残虐な罪には残虐を、では、イエスが最早時代遅れだと言った「目には目を、歯には歯を」の裁きとなってしまいます。これでは陳腐な裁きです。

最後は結局、ジュリアンは自ら裁きを求めますが、そのシーンも現実であるかどうかはわかりません。

ジュリアンは母親と一つとなりたい願望を持ってしまった自分の罪、それ以外にも父親を殺した罪、ありとあらゆるすべての罪に対して、その報いを強く望んだのだと想います。

この映画は人間が考える(求む)裁きは、いかに不完全で、安易であるかということを証明しているように見えます。

わたしとしては、「神のみぞ赦せる」という意味は、このような一瞬の苦痛(神からすれば拷問も一瞬かもしれない…)で済むような報いは神は決して”与える”ことはせず、もっともっと、想像以上の苦しみの日々としての、長い長い時間を要する「神の赦しの時間」が、我々すべてに待ち受けているであろう。という人間(自分自身)に対する監督の厳しさが表現されているように感じたのです。

それは孤独な主人公の最後を想像してもわかると想います。

そういう或る意味残酷で厳しく、或る意味とてもポジティブなレフン監督の世界観は、「フィアー・エックス」でも感じたことです。

是非、評価を気にせずに本当に作りたい映画を作ってもらいたいと願います。









 


ps:映画好きな方

国内最大級の映画レビュー(口コミ)数を誇る映画情報サービスFilmarks(フィルマークス)

に登録しましたので、良かったら気軽にフォローしてください。

名前はAmazonレビューと同じ「シロちゃん」です。

(もうすぐ昨夜に起きてから24時間が過ぎます。何故か、父親が死んでしまう夢を見たからでしょうか。浅野忠信も死ぬ夢を見たからでしょうか。浅野はうちの兄と雰囲気がとても似ています。眠れません。眠れないので紅茶を何倍も飲んで、それも原因でか、余計眠れません。なのでFilmarksで、気になる方のページを観て、観たい映画をすべて登録していました。)


此処は現実か、悪夢か。映画「FEAR X フィアー・エックス」の謎を解く

2018-03-17 09:51:31 | 映画

ニコラス・ウィンディング・レフン監督の2003年の映画「FEAR X フィアー・エックス」を観た。

 

 

 

 

レフン監督は「ドライヴ」で有名な監督ですが、この映画はわたしは「ドライヴ」以上に、とてもエキサイティングな感動を深く覚えました。

主演はジョン・タトゥーロという俳優で、わたしは初めて観たのですが、作品自体は淡々としているのですが彼の演技は観ているこっちが目に異様な力が入って抜けないほどのリアルな緊張感を最初から最後まで持続させる演技力ですごく良かったです。

以下は、この謎多き映画を独自に考察して、解釈したレビューで、かなりスピリチュアルな世界観ですが、御興味ありましたら御読みください。

でもネタバレになるので、是非映画を先に御覧になっていただきたいです。

わたしのなかでは本物の傑作ですね。

 

 

 

 

まずですね。この映画のワンシーンの写真を観てみてください。

 

 

 

 

これ、何度と出てくる謎の映像なのですが、これが何を表しているか。

謎を解きました。

まるでこのシーンは薄い膜の中に閉じ込められた人間が、外へ出ようと叫び、苦しみもがいているかのような映像なのです。

そして、その色彩は黒々とした赤と、黒、です。

何か想いだしませんか?

そうです。これって、まるで卵の中を外からライトで照らした卵の中の様子のようにも見えますよね。

人間で言えば、卵の中と言えば、胎内(子宮内)になると想います。

さらにこの映画には、子宮の中のように赤い空間や、胎児が子宮から胎内の外へ出てゆくための通路であるかのような赤くて細い通路が何度と出てきます。

また、床に溢れた水の描写も出てきます。これはまるで羊水のようではないか。

そうなんです。この映画の主人公ハリー・ケインは、まるで胎児が胎内から見ているかのような妄想世界に入り込んでしまったような不思議で奇妙な世界を観ているのです。

それは主人公のこの男が、実は”胎児”のままであるからです。

この映画では、主人公の愛する妻が身篭って、子を宿したまま何者かに殺されてしまい、その犯人と会って、何故、自分の妻が殺されたのかを知りたいという執念から主人公は犯人を捜します。

でも主人公が観る妄想(幻覚)世界では、何故か自分の妻がまるで産まれて来れずに悲鳴を上げている胎児のような薄く赤い膜の中で苦しんでいる様子が見えるのです。

これは自分の妻が、自分の胎内の子供と共に殺されてしまったその無念さから、自分の夫に幻覚を見せていると考えるよりは、主人公自体が、実は殺された女性のお腹の中にいた胎児であり、その胎児が愛する自分の母親の無念さと自分の無念さを合わせてこの世に深い未練を残して彷徨い続ける魂であるのだと考えるほうが面白いなと想ったのです。

または胎児だけ(主人公だけ)が実は死んでいるという考察で進めます。

原作者のヒューバート・セルビー・ジュニアもレフン監督も、「そこまで考えてへんけどな」と何故か関西弁で突っ込んでくるかもしれませんが(実際はもっと深いかもしれませんが…)、わたし独自の映画と人間深層心理の解析を繰り広げたいと想います。

この主人公が警備するデパートと、エスカレーターっていうこの構造と空間も、どことなく体内の内部構造って感じがしますよね。

なんか上がったり下がったり、絶えず循環しているのが体内と言えますし、胎内でもあると想います。

だが主人公のこの男は、自分が胎内にいる妄想をしているとは気付いていません。

自分はちゃんとこの地上に産まれて、自分の愛する妻(クレア)と結婚したんだという妄想世界を今まで生きてきたから、その妄想を現実世界だと想い込んでいるからです。

そして主人公は窓辺から外の世界を覗いてはそこに妻の幻影を見たり、または画面内を見詰めてその画面の中に自分の妻が殺される映像を観ますが、この”外部”から”内部”、または”内部”から”外部”を監視、覗き見るような行為は、妊娠した女性のお腹の中を映す超音波の映像を眺めているようにも見えますし、胎児が逆に胎内から外の世界を覗いているようにも見えますし、また”外界”というあの世から、この世という”内界”を覗いているかのようにも見えてきます。

 

 

 

 

愛する妻の幻影に会って、妻と抱き合う前に、妻のお腹を抱きしめるってのは、ちょっとおかしいように感じたのです。(これは幻影でなくただの記憶を追憶しているとも取れますが)

このシーンも主人公が、自分はクレアの胎内に居る(居た)胎児であるという暗喩であるように想える。

 

主人公の向かいの”家”が比喩しているのは、一つの”死体”じゃないかと考えました。

近くにいた或る一つの”死体”の中に主人公の魂が入り込んで、その死体の内部に記憶されていた記憶の断片が、クレアを殺した人間の記憶であると主人公は想い込んだ。

しかしその”死体”とは、実は警察に殺された汚職警官の死体であり、重要人物の死体である為に、何年後までも”団体契約”されている。つまり国家権力によって、死体のままで保存されているってことじゃないか。

かつてクレアと泊まったことのあるホテルに、主人公は一週間の宿泊をしたいとホテルのベルマンに言いますが、このホテルも、実は”誰かの体内”であり、そこに主人公の魂が入り込んでいるのではないか?

その肉体とは、きっと女性であるだろう。

かつて、クレアと双子の魂として共に入り込んだことのある肉体(子宮内)、前前世の自分の母親の胎内であるのかもしれない。

最も、その体内(肉体)自体、この世には無いものであって、現実世界には存在しない空間となる為、このホテル空間も、完全に主人公の観ている妄想(夢の)世界になる。

その”母親”とは、主人公とクレアのかつての”母親”であって、その女性がこの映画ではクレアを殺した警官の妻であるのではないか。

そうすると、主人公とクレアの母親であった女性の夫である警官とは、主人公とクレアの父親ということになる。

その父親は、前世か前前世かで、自分の妻の胎内に宿った自分の子どもたち、双子の胎児を堕ろすようにと妻に言った。

妻は泣く泣く、双子の胎児を堕胎した。

その為に、主人公がホテル内のエレベーターの中で見る妄想は、自分とクレア(クレアと想える人物)がまるで子宮内から外へ出ようと苦しそうにもがくかのような妄想を何度と見ている。

つまり、主人公とクレアが殺された瞬間とは、”堕胎”であるのかもしれない。

国家権力によって、その殺害が犯罪にはされていない。これは法律によって堕胎という殺人行為が赦されていることを比喩しているように想える。

主人公の宿泊するホテルの部屋に遣って来て、「寂しくない?」と誘う赤い服の女は、これは主人公の彷徨っている魂を我が子として自分の胎内に宿そうと考える女性の魂であって、その魂は主人公の魂を誘うが、主人公はその誘いを断る。

女は白い電話線を意味ありげに跨ぐ。この白い電話線は主人公とクレアの魂を未だに繋いでいると想っている主人公の願望が見せる臍の緒を表しているのかも知れまい。

国家権力にとっての”汚職警官”を比喩しているものとは、社会不適応者と見做される胎児たちとも言える。

今では産む前に、その胎児が健康であるかどうか、障害を持っていないかどうかを知って、堕胎する自由があるからだ。

国家にとって、まともに成果を上げないどころか国の悪いイメージを作る”汚職警官(社会不適応者)”たちは、問題が起こる前に消す(中絶させる)ほうが国家にとっては望ましいのである。

ホテルのラウンジ内も、壁や床や椅子や柱や電話や従業員の服、ほぼ赤で統一されている。それもどこか生肉のような質感の黒味がかった赤である。

ここも主人公が入り込んだ胎内であるか、主人公が見ている胎内記憶の空間が作り出している夢(妄想)であるからだ。

ホテルの赤い壁の通路を主人公は歩く。これが胎児の通る道、”産道”を表しています。

 

 

 

 

 

赤い通路からエレベーターのドアが開いて、そこにクレアの幻影を見ます。

左へ行けば「EXIT(出口)」。このエレベーターの中は子宮を表していて、主人公はクレアの乗るエレベーターに迷い無く乗り込みます。

これは前前世で、クレアの魂が先に母親の子宮内に宿ったことを暗喩しているように想えます。

そして愛するクレアの魂を追って、主人公の魂も母親の子宮内に宿ります。

そしてエレベーターは下の階へ下りますが、クレアが先に真っ暗な通路へ向ってエレベーターを降ります。

そしてクレアを追うようにして主人公もエレベーターを降ります。

これは前前世で堕胎されてしまったときに、クレアが先に中絶手術によって外へ出されたことを暗喩しているように想えます。

主人公が泊まった部屋っていうのは、主人公が宿っていたときのクレアの胎内を現しているのかもしれない。

なのでここも子宮内ではあるんですが、先ほどの堕ろされる前の中絶手術をする病院の個室のように無機質で冷たい空間とは違い、とても心地の良さそうな空間を表現しているかのようです。

主人公とクレアは、前前世では双子だったし、前世では母と子でしたから、本当に愛し合っている魂同士なんですね。

それが前世でも離れ離れになってしまったのです。クレアが生きていて、主人公は死んでしまっているからこそ、会えなくなってしまったとも考えられます。

主人公は前前世で堕ろされてしまった記憶のほうが強く、妄想(幻覚世界)でこの産道を下りていって、その一つの赤い部屋で自分の前前世の父親(警官)と会います。

主人公はそこで、例の探している女(警官の妻)に会いたいと言います。

前前世の自分の母親であるので、ものすごく会いたいわけなんです。

そして主人公が探しているのは、父親(自分とクレアを殺した男)です。

主人公は、実はこの部屋でこの男に会って、気付いています。

この男が、自分と、クレアを殺した(堕胎させた)存在であるということを。

このホテルの部屋は、父親(警官)の見ている夢の世界であるのかもしれません。

そこに自分(主人公の魂)が入り込んで、話をつけようとしているのかもしれまい。

それなので、主人公はどことなく、目の前の男に対して、他人を見る冷ややかな目ではなく、親しみも感じているかのような深い想いの篭った愛憎の目で見詰めています。

同僚に、「会えば(犯人を)殺したくなるだろう」と言われても、主人公は物悲しい顔をして、「殺さないさ」と答えます。

相手は自分の前前世の父親であるとわかっているからです。

あまりにややこしい話ですが、男(警官)が主人公とクレアを中絶させたのは、前前世の世界であり、前世では、主人公はクレアと共になんらかの理由で死んでしまったか、自分だけがまた産まれてくる前にクレアの胎内で死んでしまった為に、主人公の魂の無念は、前前世の記憶の苦痛とごっちゃになってしまっているのかもしれないと考えます。

何故なら主人公にとっては、前前世の記憶も、つい最近の記憶であるかもしれないからです。

父親(警官の男)にとっては、何を今更…という話の記憶である為、もう頼むから成仏してくれよという気持ちが強く、主人公に対して、もう一度「殺してしまいたい」という想いがあるのだと、これは主人公が勝手に妄想しているのではないか。

なのでその妄想の中で、主人公は自分の父親にまたも、殺されかけます。

このときも、見知らぬ人間にするようなものとは想えない主人公は男の顔を愛しさも混じったような両手で顔を包み込むということをします。

そして父親は、主人公を狭いエレベーターの中に突き飛ばします。

このエレベーターの空間が比喩しているものとは、新たにこの世に誕生するための或る空間であると想いました。

この空間は、新たなる母親の胎内へ通じる空間を比喩しているのかもしれません。

なので地上(あの世からこの世)に降りていくんですが、主人公はここで自分の血を見て、自分が殺された(堕ろされた)瞬間の苦痛を、生々しく想いだしてしまうのです。

だからここで、血と水と肉みたいなものが入り混じったような子宮が収縮するのを子宮内部から見ているかのような主人公の見たであろう子宮内部世界映像が映し出され、主人公の味わった(今でも味わい続けている)拷問的な苦痛を表現しています。

 

クレアは実は現実世界では生きているのだが、主人公が現実世界では死んでしまったので、主人公の見ている世界では、クレアが死んで、自分が生きている世界として観ているのかもしれません。

クレアの生きている現実世界では、前前世の父親と母親も生きているのですが、その世界は、主人公には見えていません。

主人公が観ている父親(警官)は、あくまで主人公だけが見ている世界か、父親も同時に見ている繋がった夢の世界であると考えます。

例え夢の世界という別次元で経験していても、苦しみが無いわけではなく、その世界では父親も母親も現実的な生々しい苦痛として経験しているのだと想います。

 

そして目が覚めると、白い部屋で、国家権力者(あの世で魂を導く指導霊たちを比喩しているかもしれない)たちに囲まれ、諭されます。

あなたの観た全ては、実は夢なのです。だから受け容れましょう。と言わんばかりに、主人公を諭します。

映画では主人公ハリーの妻は、妊娠していたことくらい、周りも知っているはずであるだろうに、この映画で「あなたの奥さんとお子さんは残念でした」という台詞が何故か出てきません。

その理由も、この主人公自体が、その妻の胎内にいた胎児であることを示唆していると想いました。

主人公がここで泣き崩れるのは、主人公はそれでもまだ、現世の感覚が強く、見ている世界も現世的であって、前前世も地上世界に産まれて来れなかったし、前世でも産まれて来れずに、最愛の魂の存在クレアと人生を共に生きられなかった悲しみと苦しみがあんまりにも深いためです。

そしてラスト、だだっ広い道路に警官(指導霊)に連れられ一人車から主人公は降ります。

新たなる誕生へ向けての出発、無言の応援を受けて主人公は新たなる出発を決断し、過去の記憶(集めた写真たち)を棄て去るのです。

そしてたった独りで、車(子宮に辿り着く受精卵という乗り物)に乗って、新たなる(道)産道へ向い、走って行きます。

最後に不気味にも、主人公の観たクレアが殺される防犯ビデオの映像でこの映画が終るのは、その映像の全て(人類の罪の全て)を、神(絶対権力監視者)はいつでも観ているぜ?っていうレフン監督の秘かなる主張であるかもしれまい…?

あまりにスピリチュアルで強引で勝手な考察でしたが、推敲合わせて書くのに朝の4時半から朝の10時前まで掛かりました。

しかしこれでもまだ、まだ、謎が深いっていう映画です……(ギャフン、いや、レフン…)

 御読みくださった方、どうもありがとうございましたレフン。

 


 

 追記:寝て起きて、このレビューを何度も観ながら今朝書いたんですが、改めてもう一度最初からじっくりと観て、新たなるおかしいと感じる箇所について考察しました。

主人公の妻クレアは、何故か汚職警官と間違われて警官に射殺されてしまうわけですが、これはどう考えてもおかしいと想ったのです。

何故なら、警官は汚職警官が、男性であるか、女性であるかくらいは解っていたはずなのに、市民(せめて性別を確認した上)であるかどうかを確認することもなく射殺するっていうのは、明らかに短絡的過ぎて変じゃないですか。

だからこの汚職警官を警官が射殺し、クレアが巻き添えを食らって射殺されるという事件自体も、警官が見ている夢の脚本である可能性が高いと感じました。

警官が上司に向って、クレア(主人公の妻)は、巻き添えを食らったんだと嘆き悲しんでいるシーンがありますが、これは現実では、この警官(クレアと主人公の元の父親なる魂)が、実際にクレアであった胎児を、巻き添えの形によって殺してしまったことを暗示していると考えました。

中絶手術で巻き添えと考えれば、医者に胎児が双子の二人とも障害を負っているか病気があるとこの父親は言われ、仕方なく二人とも中絶するように妻に強制的な感じで中絶手術をさせたのですが、手術を終えた後に、その医師の診断が実は間違っていて、本当は障害か病気を負っていたのは主人公のハリーの魂の胎児だけだったのだと知った。

その為に父親は大変後悔し、自分の勘違いによってクレアである胎児(自分の娘)を殺してしまったのだと苦しみ続けます。

その後悔の念が、次の人生でもこの男の消し難き苦痛となって、夢に幾度と出てきては男を苦しめ続けているのだと考えました。

警察と同じく病院(医師)っていうのも、世界で莫大な利益を上げていて国家権力と繋がっていそうですし、すごくリアリティの或る話じゃないかなと想います。

日本でも中絶手術は一日に換算すると470回ほど行なわれていますし、ものすごい莫大な利益となっているのです。

そう考えますと、本当に現実的な闇の現実を映しだしている深刻な映画であるんだと感じて、観終わって心が一段と震える想いです。

 

 

 


 

追記:3月20日

今レフン監督の2013年の「オンリー・ゴッド」を観終わりました。

この映画にも同じような真っ赤な通路というものが幾度と出てきました。

そして何より女性のあの部分に手を入れるシーン(妄想的である)

母親のあの部分にも、手を入れるシーンが出てきて、ああこれは決定的だなと感じました。

何がと言うと、レフン監督は「胎内回帰」願望が(意識的にか潜在意識的にか)ものすごい強くある人なんだと想います。

ライアン・ゴズリング演じる主人公も、他の人物も、手や腕を切り落とされるというシーン(妄想であれども)が何度も出てきます。

これは、自分の母親とまた一つになり、胎内へと戻りたいというような願望を、自ら切り落としてしまいたいという願望が表現されているように感じました。

自分自身、父親に育てられ、父が母代わりであり、父親と父と娘以上の繋がりを感じ、一つとなりたい願望がずっと強く在る人間で、前に胎内へと通じる赤い生肉で出来た産道のような通路を歩いていき、胎内世界のような不思議な夢の世界を生きているレフン監督の映画世界のような奇妙な夢を見たことがあり、その夢を基に小説も書いていました。(残念ながら未完成のままです)

もしかしたらレフン監督も、そのような夢を観たことがあるのかもしれませんし、そうでなくとも胎内記憶が強く監督の奥深くに重要なものとして残されているように感じました。

だから胎内のようなグロテスクでもあり、どこか懐かしみを感じるようなシーンの出てくる映画を撮っているのではないか。

映画「オンリー・ゴッド」も妄想的で血みどろの残虐な映画であるのに、何か懐かしくもなるような映像でもあるように感じました。

 母親への胎内回帰願望と母への愛が基となっているならば、懐かしさを感じるのも頷けるものであります。

 あとは、映画「オンリー・ゴッド」の中には主人公に向けて母親がおまえを「堕ろせと言われたが、産んだ」という台詞が出てきますね。(監督を育てた義理の母親はかなりな毒親であったようです)

レフン監督の胎内に対する強い想いっていうのは、「中絶(堕胎)」という行為と深く関係しているのかもしれません。