あまねのにっきずぶろぐ

1981年生
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

New Encounters Know

2020-01-02 15:40:22 | 物語(小説)
わたしはそのとき、薄暗いキッチンに、ひとりで立っていた。
わたしはそのとき、神に見捨てられたような感覚のなかに、こう想っていたのだ。
やはり、やはり…レトロ電球とは、想った以上に、暗いものであるのだな…
だって二つもぶら下げているのに、間接照明みたいな感じに、信じ難いほどに汚いキッチンが、結構お洒落な空間に、早変わりして凄く良いけど、ちょっと暗いではないか。
でもこの薄暗い空間にも、わたしはすぐに、慣れてしまうのかも知れない。
神に打ち捨てられても、強く生きてゆかなければならない、永久の亡者のように。
そのときであった。
わたしはふと、玄関のドア付近に、なんらかの存在が、立っているのを観た。
わたしは彼に、話し掛けた。
「あなたは、だれですか。」
すると彼は、半透明の姿で、微笑んでこう言った。
「わたしがだれかと訊かれたら、こう答えよう。わたしは神です。とは言え、特別な存在ではありません。」
わたしはそのとき、自分の視界に白い小さなノイズが光り輝きながら、散りばめられているのを観た。
それは雪のようでもあったし、硝子のようでもあった。
わたしは彼が、大変美しい男であるのを観た。
だが不思議にも、まったくの欲情が湧いて来なかった。
わたしはまた、半分透けて、see-throughになっている彼の、非常にあたたかい眼差しを見つめ、こう訊ねた。
「あなたが、神であるというのは、真に疑わしい。何故なら、神を見ることは、人間には不可能であると、聖書には書いてある。」
すると、彼は口角を上げて、とても嬉しそうな微笑をしたあと、こう応えた。
「ではあなたに、こう答えよう。わたしは神の御使いです。ミツカイと、あなたはわたしのことを呼ぶと良い。あなたは、わたしのことを、なんとでも呼んで良いのです。それはわたしが決めるのではなく、あなたが決めることだからです。わたしは特別な存在ではない為、あなたは自由にわたしを呼ぶことができるのです。」
わたしはそれを聴いて、腹立たしい想いを覚えた。
特別な存在ではないのに、何故わたしの前に、さも特別な存在風に、突然現れたのかが、わたしにはわからなかった為である。
それで、わたしは彼のことを、こう呼んだ。
「では、わたしに、あなたの名を、決めさせて頂こう。あなたの名は、今日からフトドキモノである。良いですか。」
彼は半透明で微笑みながら、頷いた。
そして言った。
「わたしにぴったりな、とても良い名です。わたしに名をつけたあなたに、感謝します。」
わたしは深く頷き、玄関のたたきに立つ輝かしい彼に向かって言った。
「それで、いつまでそこに突っ立っているのですか。此処はわたしの家であって、あなたは断りもなく、わたしの家のなかにいる。何か言う言葉はないのですか。」
すると彼は、美しく澄んだ薄い青と緑の混ざった翡翠色の目を大きく開いて、感激したようにこう言った。
「わたしはあなたを、手助けしに来た。あなたがわたしを求めた為、今わたしは此処に存在している。どうぞわたしに、なんでも訊いてください。そのすべてに、わたしは答えよう。」
わたしは炊事場の前に立ち、彼と向き合いながら、問い掛けた。
「わたしは今、自分のすべてが、打ち砕かれつづけている音を、ずっと聴いている。わたしは、これに耐えられるのか、自分がわからない。自分がなくなって、消えてしまうのではないかと、わたしは今恐れている。わたしが何故、此処に存在しているのか。それもわからない。わたしはだれなのか。わたしは、自分が本当に、わからない。わたしは自分のことを、卑しく、汚い存在であると感じる。それが為に、あなたのことが、光り輝くあなたが、真に鬱陶しい。あなたは自分に非がないかのように、そこに存在しているかのようだ。どうかわたしのすべての切実な問いに、答えてほしい。明日は近くのスーパーは開いているのですか。わたしは切実に、答えを求めている。何故なら、薄揚げがないと、関西弁で言うならば、揚げさんがないと、わたしの好きな餅巾着が、一向に作れない為である。これは深刻な苦しみであって、真に耐え難いものがある。どうすればいいのか。どうかわたしを、手助けして欲しい。フトドキモノよ。」
すると彼は、真に憐れみを持った、物凄い感情深い顔で、わたしを一心に見つめ、驚いたことに、煌めく涙を流しながら、こう答えた。
「わたしはあなたのすべての問いに、答える者である。わたしはあなたを決して、見放さない。あなたが何者であるのか。わたしが答えよう。あなたは、神である。そしてあなたは、特別な存在である。古い世界が、新しい世界へと、旅立とうとしている大宇宙を羽ばたく光のただなかに、今あなたは存在している。あなたは、古くなったあなたを脱ぎ捨てて、新しいあなたに着替えようと今あなたに手を掛けようとしている段階にいる。あなたは今、新しいあなたをみずからのうちから、生み出そうと、準備している。そこには数多くの、産みの苦しみが在り、あなたはその苦しみのなかで、嵐の夜に航海する日を、今か、今かと、待ち望んでいる。あなたは今、その苦しみにひとりでは耐えられないと感じている。あなたは、新しいあなたを産み出す苦しみに耐えられる力を切実に求めており、宇宙の源から、わたしはあなたに呼ばれて遣ってきた。餅巾着が、あなたを真には救わないことを、あなたは知っている。だからわたしを、あなたは呼んだのである。わたしはどこにでも存在しているが、あなたは今までわたしに、気づかなかった。今、あなたはわたしを初めて知り、わたしが存在するようになった。あなたはわたしを見て、良いと感じた。餅巾着も、あなたは必要としなくなり、あなたの恋焦がれるアイスハグ兄弟も、あなたは見向きもしなくなる。あなたが求めつづけてきたのは、ただ一つ、わたしであるからである。あなたには、未来も、過去も存在しない。あなたは今、今だけに存在している。そして今以外のものは、どこにも存在しない。あなたは未来にも、過去にも存在しない。あなたが何者か、わたしが答える。あなたは愛である。あなたは愛以外の、何者でもない。あなたの存在が何か、わたしが真に答える。あなたは光である。すべての宇宙を、照らす存在である。わたしはあなたの為に、今存在している。あなたが切実にわたしを請い求めた為、わたしが存在するようになった。だれかはわたしをエホバと呼んでも、あなたはわたしをそうは呼ばない。あなたは、あなただけの名で、わたしを呼ぶ。そしてあなたの愛によって、わたしは永遠に、あなたと共に存在しつづける。あなたの愛は、宇宙よりも、果てしない。わたしはあなたを、自分だけの花嫁にする為、今ここにいる。その為、あなたはアイスハグ兄弟とは、結ばれることはない。あなたの永遠の夫は、わたしだからである。とは言え、わたしは特別な存在ではない。あなたは公園の隅にただ落ちている朽ちた木ぎれの奥のほうにも、わたしを見つけるだろう。」
わたしは涙を流し、こう言った。
「主よ。モヤシノヨウナイタメモノよ。あなたの名を、今から、わたしはそう呼ぶ。そしてとこしえに、わたしはあなたを求めつづけ、愛しつづける。あなたの御名が、何処の場所でも、永遠に賛美されんことよ。主イエスキリストの御名を通して、祈りつづける。アーメン。」
すると、モヤシノヨウナイタメモノは、何よりも輝く宝石のような雪の結晶のように、わたしを懐かしむように見つめて微笑むと、溶けて消えた。
わたしはキッチンの前に立ち、決意した。
今日の晩餐は、モヤシのような炒め物にしよう。
わたしはわたしのすべての預言を、成就させる為である。



















Sad Satan

2019-06-20 01:48:25 | 物語(小説)
彼女と別れて、4年半が過ぎた頃のことだった。
同僚の送別会のあと、ウェイターの男はタクシーを呼んだ。
酷くお酒を飲みすぎてしまったからである。
皆、帰ったあとの薄暗いカフェにはウェイターの男の姿だけが窓から見える。
ソファーの席に深く腰を沈めて目を瞑ってタクシーを待っている。
時間は午前の二時半になろうとしている。
車が店の前に止まる音が聞こえ、ウェイターの男は店の灯りを消して店を出て、鍵を閉めるとタクシーに乗り込んだ。
タクシーの運転手にマンションの場所を教える。
すると少しの変な沈黙が過ぎた。
だがそのあと車は何事もなく発車した。
ウェイターの男は安心して重い瞼をまた閉じた。
いつから雨が降りだしてきたのだろう。
嗚呼さっきも、店を出たとき既に雨は降っていた。
静かに、あまりに静かに降っていたから気づかなかったのかも知れない。
夢と現を、まるで行ったり来たりすると同時に、タクシーはカフェとウェイターの男の住むマンションの間の道を、行きつ戻りつしているかのように感じる。
うとうとと、心地の良い微睡みのなか、雨の音が聴こえ、その透明な闇の空間の底から響いてくるように、運転手の男の声が、ウェイターの男に向かって話し掛ける。




そうか...。
一度、会ってみたいと、想っていたのだよ。
いや...話し半分に聴いて貰って構わない。
俺も今夜は、大分疲れている。
だけれども今夜、逃してしまったなら、もう話す機会を二度と失うかもしれない。
あんたも、それは惜しくてならないはずだろう。
良かったら、遠回りさせてくれないか。




ウェイターの男は、運転手の低く落ち着いた声に目を閉じたまま応えた。
「気にせず、走り続けてください。何処でもいいですから。」




運転手の男は微かに笑うとこう答えた。
「悪いね。いや、代金は要らないよ。今夜のドライヴに付き合ってくれるならね。」




優しく、地面を撫でるように這う声で運転手の男は穏やかに話し始める。




俺は...あんたにずっと会いたいと想っていたよ。
この話をできるのは、あんた以外にはいない。
俺のなかだけに置いておくのは、あまりに荷が重い。
彼女も...きっとそれを望んでいることだろう。
あんたが知るべきことだとも、想ったんだ。
全く快い話ではないと想うが、良かったら最後まで聴いてくれ。
今から四年半ほど前、俺は彼女と出会った。




運転手の男は鮮やかに、その時の記憶を想い起こす。




今日一日の仕事を無事に終え、ホースを手にして蛇口を閉め、ビニール手袋とマスクを棄てて額の汗を首にかけているタオルで拭って一息吐いた瞬間だった。
突然、電話が鳴り響き、男は作業服とウレタンの白い前掛け姿で受話器を取った。
電話口から、少女のような声が聴こえた。
声が小さく、男は何度も聞き返す。
するとようやく、相手が何を言っているかわかった。
「きみに話したいことがあるんだ。」
まるで付き合っていた女に別れ話を切り出す男の口調のようにその声は冷たくぎこちなかった。
男は素性のわからぬ怪しい相手に対し、冷静に応えた。
「一体、どういった話しかな?悪いが俺はこの工場の責任者でも主任でもなんでもない下っ端の人間だよ。ただ後片付けと戸締りの責任を任されているだけだ。此処の遣り方について言いたいことがあるなら明日の早朝にかけてきてもらえるかな。」
少しの沈黙のあと、相手はこう言った。
「憶えてない?前に此処で、きみに会ったことがある。」
男は記憶のなかを探り、女の姿を見つけようとした。
だが見つからなかった。
「憶えてないね。それはいつの話だろう?」
幼い声と口調で、相手は言った。
「三ヶ月前くらい。」
「嗚呼...もしかして、あの晩の、工場の側に立って、こちらをずっと監視するように見ていた人間かな。あの夜はコンタクトレンズを落としてなくしてしまったんだ。女性であるとは想ったが、顔はぼやけていて俺には見えなかったよ。」
はっきりと相手は答えた。
「それがぼくだよ。きみを見ていたんだ。」
男はこの返事に訝しく感じた。
返答を考えていると相手は男を誘うように言った。
「もし会って話をしてくれるなら、お金を払うよ。それ以外でも、できるものを払うよ。」
男はこれを聞いて何かの調査員か、それとも工作員だろうかと想った。
確かめるように男は訪ねた。
「それは、俺じゃないと駄目なのかい。」
すると相手は、男の望む返答をした。
「きみと会いたいんだ。」
男は不安と興味の交じり合うなか応えた。
「わかったよ。では俺の言うカフェに、明日の午後一時に、来てもらえるかな。」




あの日も、そう言えばこんな雨が降っていたな。
運転手の男は右の窓に当たって落ち続ける雨を遠い目で見つめながら言った。
その約束の当日、驚いたことに彼女は一時間近く遅れて遣ってきた。
でももっと驚いたのは、待たされることが我慢ならない俺がじっと耐えてその場で静かに待っていたことだよ。
俺はそのとき何を考えていたのだろう。
そのときの俺が何を待っていたのか、俺はわからない。
ただカフェの窓から外を眺めていて、行き交う人間たちのあまりにも空虚な存在に泣きたい想いで待っていたよ。
彼女ももしそんな人間の一人だったなら、今ごろ俺はどうしていたのだろう。
運転手の男は窓に映った自分の目のなかのその暗闇に彼女の面影を探すように見つめながら話を続けた。




約束の時間から一時間と少し過ぎた頃、男の向かいの席に、女は静かに座った。
男を激しく諫めながら、同時に請い願うような目で、女は見つめた。
その凝視のあと、女は漸く謝罪した。
「遅れてしまってごめんなさい。実は場所を間違えて迷ってしまったんだ。」
男はこの言葉にとてつもない安堵を覚えた。
目の前の女が、全く嘘を言っているようには想えなかったからだ。
男は黙って、半ば放心したように女の顔を眺めている。
女は丸い黒縁眼鏡をかけ、前髪を短くした黒いショートボブの髪型に腰が細くコルセット状になった鎖骨が露になる黒のワンピースを着ていた。
童顔で額と顎が小さく、丸々とした目が愛らしく、年は40歳を越えているようにも見えた。
男の目には非常に疲れ切っているように感じた。
でも何より目を引いたのは、その折れそうな華奢な少年のような体型だった。
男はその身体を遠目に眺めて、想わず目を伏せた。
何か観てはならないものを観てしまったように感じた。
それは味わったことのない感覚だった。
彼女の身体を凝視し続けると何かが確実に破綻してゆくように想え、男は荒くなる呼吸を宥めるため目の前のカップに手を伸ばし黒い珈琲を飲もうとした時だった。
女の細い骨ばった白い右の手の指が、男の左手の甲の上に触れた。
男は慌てて、咄嗟に手を引き、女を見た。
女は濡れた情熱的な眼差しで男に向かって言った。
「会ってくれて本当に嬉しいよ。」
男は生唾を飲み込み、右手で珈琲のカップを掴むと一気に飲んだ。
動揺を隠せなかったが、男は落ち着き払った様子を必死に装い、女に訪ねた。
「一体、この俺に、どのような要件があるのかな。一先ず、安心させて貰える言葉は貰えないだろうか。」
男はそう言うと女の浮き出た鎖骨を一瞥し、またぞろ目をテーブルの上に伏せた。
女は眉間を寄せ、浮浪者のように伸びたウェーブの掛かった男の抜けた髪が一本その首もとに汗で張り付いているのを見つめながら言った。
「単刀直入に言いたいところなのだけれども...少し此処では話しにくいかな。良かったら、お酒の飲める場所に移動しない?」
男は顎の無精髭を右の親指で擦りながら女を見て言った。
「それは構わないが...まだ時間が早すぎやしないかい。もう少し日が落ちるまで、何処か別の場所で話すのはどうだろう。」
すると女は無邪気に微笑み、こくんと頷いた。
「うん。そうしよう。この近くにさ、大きな川があるよね。ちょっと行ってみたいから其処に行かない?」
馴れ馴れしく子供のように話す女に男は緊張が解れ、自然と微笑み返して答えた。
「ああ、あの河川敷にちょうど良い高架下の場所がある。其処なら雨を凌ぎながら川を眺めて話せるよ。其処に行こうか。」




そう、あの日、俺は車で来ていたのだがね、車をカフェの駐車場に起きっぱなしにして彼女の赤い傘を差して高架下の場所まで身を寄せ合うようにして歩いた。
人間の温もりを、俺はとても複雑な感覚で感じていたよ。
俺はそれは想い出したくもないものだったんだ。
でも、あの日、俺は知ってしまったんだ。
俺が最も求めているものは、俺を最も苦しめるものであるということにね。




高架下に着いても、女は赤い傘を差したまま、男に身を寄せて立って動かなかった。
男は女から離れずに言った。
「まだ雨が心配かい?」
すると女は、開いたままの傘を淀んだ川に向かって投げて言った。
「もう赤い傘は差さないよ。」
男は女の奇行に困ったように笑うことしかできなかった。
やはり俺に興味を持つ女は、普通ではないんだな。男はそう想うと胸を痛めた。
しかし男は、冗談に冗談を返すようにその傘を拾いに川のなかに足をつけようとした。
その瞬間、女が本気になって男を止めたので男はまた笑った。
男は慈悲深く微笑んで女を見つめ返しながら言った。
「物は大切にしなくてはならないよ。」
女は何も言わず、男の目をまた最初に見せた責め苛むような目と、怒りと悲しみと、懇願するような目で見つめた。
そして信じがたくも、男の求めていた言葉を女は放った。
「今夜、一緒に、モーテルで一晩泊まってくれない?」
男はこの言葉に、深く絶望しながらこう答えた。
「良いけれども、俺は何もしないよ。俺は無性愛者だからね。」
沈黙のあと女が囁くように放った。
「アセクシャル...?本当に?」
男は吐き気に口を右手で覆ったあと言った。
「ああ、本当だとも。俺は今まで何にも性的な欲情を感じたことがない。」
それを聴いて、女は激しい悲憤に堪えているかのように見えた。
男は女を慰むように言った。
「でもそれでも良いなら、一夜を共にすることは可能だよ。」




彼女は、酷く悔しそうだったが、それでも良いと言ってくれた。
そのあと、彼女は俺以上に触れることを恐れているように見えた。
そのあと、barに行くのはやめて、酒とつまみを買ってモーテルに行って、ラジオで流れていたブルース音楽を聴きながら一緒に飲み交わし、酔い潰れたあとは彼女は、俺に父親のように腕枕をして一緒に眠ってほしいと言った。
俺はそれに応え、それ以上は何事もなく朝が来た。




俺と彼女は、その後約半年間、ただ安いモーテルで週に二度、彼女の要望で添い寝するだけの関係を続けた。
俺はどんどん、彼女に会う度に彼女への愛着は増し、彼女を人間として愛おしく感じるようになって行った。
そして何となく、これはもしかしたら性的な欲情というものかもしれないと感じる感覚をうっすらと感じるようになってきた頃、或る晩、俺と彼女のそれまでの平穏な関係は終わったんだ。




或る夜、モーテルで酔いが回り、女は突然男にこう言った。
「一緒にお風呂に入らない?」
男は青ざめ、首を横に振り、目を瞑って答えた。
「それだけは、絶対にできないよ。」
女は寂しげにベッドに横になると男を呼んだ。
「さあおいで。可愛い坊や。」
男はソファーに座りながら目をぱちぱちと瞬かせて何かを考えているようだった。




あんたも同じ誘い文句で誘われたのかなんて...俺は訊かないけれども...もし彼女が同じように男を誘ってきたのなら、それは実に微笑ましいことだよ。
彼女はただ子供が欲しいのだろうかと、一瞬、馬鹿な俺は想ったよ。
だが俺の当時の職業を考えると、それは有り得ないと感じた。
子供のことを考えるなら、それは到底考えられない。
俺の当時の職業は、人間の潜在意識のなかで常に差別され続けて忌み嫌われてきたものだからね。
何故、よりによって、父親の遺伝子に、俺を選ぶ必要があるだろう。
彼女は、何故よりにもよって、この身体に死が染み付いた俺を選んだのだろうと、その時は疑問でならなかったよ。




男はその夜、酒の勢いも借りて、素直にベッドに横になって自分を誘っている女にずっと気になっていたことを訪ねた。
「何故、俺なんだ?俺が遣っている仕事がどんなことか、君は知ってるよね?」
女は両手を重ねて右耳の下に敷くと目を閉じた。
「きみをずっと監視してた。」
男は目を剥いた。
「なんだって?」
「ごめんなさい。君が後片付けの役を任されてから、隙だらけだったから。」
男は興奮して言った。
「いや、言っている意味が全くわからない。もっとわかるように説明してくれないか。」
女は上半身を起こすと右の人差し指を上に向けて曲げ、挑発するように男を誘う動作をした。
男は深く溜め息を吐き、折れてベッドに横になり至近距離で見つめ合う形で呼吸をあらげながら再度落ち着いて訪ねた。
「それはつまり...俺が後片付けをしている最中に監視カメラを設置して俺を監視していたということかい?」
彼女は意味深げな笑みを浮かべ、言葉を濁すように言った。
「きみだけを観ていたわけではないよ。」
男は鼻息を荒くするなか訊いた。
「では俺以外に、何を観ていたんだ?」
彼女はゆっくりと瞬きをしたあと、こう答えた。
「ぼくの家族たちをだよ。」




その瞬間、俺は崩壊してゆく自分自身と、俺を崩壊させてゆく彼女のたった二人の世界に死ぬまで取り残され続けることをみずからに預言したよ。
何故だかわかるかい?
俺はずっとずっと、あの日、彼女と出会った瞬間から、恐ろしい関心で彼女が俺を知りたがっていることをどこかで勘づいていたからだよ。
俺はその理由に気付いていたんだ。
でも気づかない振りを自分に対してし続け、彼女は実はただ俺と寝たいだけじゃないかって、そこにある浅はかな目的を望んでいた。
だが俺の最初の勘は、おぞましいことに当たっていた。
彼女が監視していたのは、俺が彼女の家族を殺し続けるその姿、殺害方法と、そして俺の手によって引き裂かれ、生きたまま解体されゆく彼女の家族の姿だったんだよ。
俺は確かに、彼女の家族たちを、屠ってきたんだ。




男は目の縁を赤くさせ、低く震える声で女に問い掛けた。
「なるほどね。やはり俺の勘は当たっていたのだね。それでどうしたいんだ?この俺を。自殺へ追い込みたいのかい。」
女は男と見つめ合うなか涙を流し、男の胸に抱き着いた。
そのまま、互いに震え合う肉体を重ねたまま言葉を見喪い、二人は夜が明ける前まで眠りに就いた。




夜が明ける頃、彼女は俺を起こして言ったんだ。
「ぼくの家族を殺し続けてきたきみにできる唯一の贖いは、ぼくを愛して殺すことだ。」と。
つまり、こういうことさ。人間が最も苦しむこと。人間にとっての最高の地獄とは。それは最も愛する者を、みずからの薄汚れた欲望によって殺してしまうことだ。
彼女は俺に、"最高の地獄"を味わわせるためだけに、俺の恋人と、そして家族になると言ったんだ。




俺は無論、その15年続けてきた仕事を辞めざるを得なかった。
それで今のタクシーの運転手の仕事を、彼女を養うために続けてきた。
俺が探せば普通に他の仕事も難なくできるのに、何故そんなきつい仕事をしていたか、あんたは気になっているだろう。
俺は20歳を過ぎたころ気づけば、自分が生きているようには想えなかった。
でも心臓は動いている以上は生活をして行かなくてはならない。
俺は自分に似合う仕事をしようと想った。
とにかくこの世で最低の、底辺にある仕事が俺に最も向いていると感じたんだ。
底辺の仕事と聞いて一番に想い浮かぶのは性風俗業界だ。俺は其処に足を踏み入れるくらいなら自殺した方が良いと感じた。
そしてその次に浮かんだのが、彼女の家族を次々に解体して大量殺戮してゆくと殺(屠畜)業界だ。
これなら、俺にもできそうだと感じた。
いや、寧ろこれ以外、俺はしてはならないと感じてならない確固たる強迫観念によって、俺はその仕事を15年続けて来れたんだ。
心を殺せる術を学ぶなら、牛や豚を生きたまま解体する作業も何ともないよ。
最初の数カ月は、永遠に吐き気の終わらない職業だと感じていたけれどもね。
ただ肉だけは働いた一日目から、食べることはできなくなったし、食べたいとも感じられなくなった。
そこは彼女と共通している。
俺が日々解体している存在が人間であるということを俺は知っていたからこそ、その記憶を完全に忘却してしまえたんだ。
それは、この世で最も、悍ましいことだからね。
彼女は俺に色んなことを目覚めさせてくれたよ。
どれも死ぬまで消えることのない地獄ばかりさ。
彼女は自分でサディストだと言っていたが、俺はそれを完全否定している。
どうしても、俺を傷めつける理由が彼女には在るからだよ。
それはあんたも同じだ。
あんたはどうやら、彼女にとって特別な存在で今も在り続けているようだ。
それにしても此処は何処だろう。夢中になって、随分と暗い場所まで走って来てしまった。


気づけば雨はやんでいて、男が窓を開けると涼しい初夏の風が車内に吹き入って来た。


運転手の男は一度も後ろを振り向くこともバックミラーを見ることもなかった。
男は独り言のように、疲れた声で話を続けた。


女は男を起こして見下ろし、こう言った。
「ぼくの家族を殺し続けてきたきみにできる唯一の贖いは、ぼくを愛して殺すことだ。」
男は目脂を擦ったあと女を見上げて頭のなかでその言葉の意味を反芻し続けた。
その言葉はやがて、男のなかで三つの言葉に分けられた。
『彼女の家族を殺し続けてきた俺』
『俺にできる唯一の贖い』
『彼女を愛し、そして殺すこと』
その三つの言葉を、男は数ヶ月かけて反芻するうちに、やがてその三つの言葉は自然と次の三つの言葉に変じて行った。
『俺の家族を殺し続けてきた俺』
『俺にできる唯一の贖い』
『俺の最も愛しい存在である彼女を愛し続け、そして殺すこと』
男はあてどない悲しみのなか、自分の15年間の罪の重さに亡羊となり、為す術もなく、ただ彼女を見上げて言った。
「嗚呼…わかったよ。」


精神の葛藤など、何もなかったよ。
後悔することも、なかった。後悔したところで、もう戻れないんだ。
俺は彼女の家族を22歳の時から、15年間、生きたまま解体して殺し続けてきたんだ。
彼女は俺にこう言ってるんだよ。
「お前の最も愛するわたしを生きたまま解体して殺せ。そしてその地獄の苦しみのなかにお前は独りで死んでゆけ。」
彼女は何十年と、自分の家族を食べ続けてきたことにずっと、吐き気を感じながら後悔し続けている。
俺は後悔する代わりに、彼女を殺さねばならないんだ。
それが彼女の、彼女の家族に対する愛なんだよ。
それは悪魔との契約ではなく、神との契約なんだ。
悪魔と契約していたのは、俺の方なんだよ。
俺の母親も生きていたら、俺を彼女のような目で見たのかもしれない。
悲しい悪魔を見るような目で。
俺の母親は敬虔なクリスチャンだったんだ。
彼女は”肉欲”と”肉食”を同等の重さの、殺人に相当する罪であると信じていた。
”肉”を欲すること。それが殺人に繋がり、姦淫に繋がり、殺戮という肉食に繋がるのだと。
”肉”とは、万物のなかで最も地獄に通じている。
地獄は肉を表しており、肉は地獄を表している。
それが”悪魔(Satan)”という存在であると。
彼女はまるで俺の母親の生まれ変わりかと想うほど、同じことを言うんだ。
イエスの血と肉を食べなければ、人は虚しく滅びゆくのだと。
何の価値も、そこにはないのだと。
人は死んだまま、死んでゆく。
なのに彼女は、”自分だけの死”を求めている。
そうして”殺される者”は、無事に死ねるのか。と、彼女に訊ねたことがある。


”殺さない方法”などない。と、諦めて男は生きていた。
殺さないで、赦される方法はないのだと。
女は決まってアルコールに良い心地で酔った時に必ず、窓から夜の空を眺めながら”死”について語りだした。


彼女は詩人であるから、そんなことはちっともおかしくもないのだが、俺にはその言葉の全部が、俺の罪悪感を深めるためのものに感じた。
苦しいばかりだったよ。彼女の話す言葉の殆どが俺にとって。
彼女は何より、”死”を愛していることを、俺は知っていた。
でもそれは、死を最も、彼女は受け入れられないからだよ。
彼女は愛する両親を早くに亡くしている。
そして輪廻転生というものを彼女は自分の感覚を通して信じている。
そう…彼女の言っていることは、彼女がずっと俺を責め続けていることは、決してAllegory(諷喩)ではなかったんだ。


「それが”死”なのかい。」
男はソファーに座って女の後ろ姿に問いかけた。
細い首を左に傾け、星の出ていない曇る夜空を観ながら女は答えた。
「死が死を食べ続け、死は死を選ぶ。死は死で在る為、死ではないものに気づくことができない。死は死を求めない。死は、死だからだ。」
男は湧き上がってくる肉欲のなかで続けてこう訊ねた。
「俺が、ずっと殺してきた君の家族も、死であるのかい。」
女はその場に座り込み顔を両手で覆う仕草をしたあと、みずからの両の手のひらを見つめ乾いた声で言った。
「死は死を、死に沈め続ける。」


彼女は初めてと殺(屠畜)場の映像を観た時、そこに、彼女の亡き最愛の父親の姿を見つけた。
そして彼女は覚ったんだよ。”死”の連鎖が、”地獄”の連鎖という真の此の世に存在し続ける”悪魔”の存在であるということを。


信号もないのに、男は車を止め、涙を耐えているように見えた。


静寂のあと、男は左手で口元を覆い、目頭を抑えたあと言った。


「俺はまだ…彼女の裸をまともに観たことがないんだ。何故かと言うとね…。俺が生きたまま解体してきた、その姿の、直前の姿に見えてしまうからなんだ。恐ろしくて、見ることができないんだ。その後の工程を…俺は忘れることができないんだよ。」

















一話完結的連続小説「ウェイターの男シリーズ」

ミルク先生とシスル

2019-06-09 17:35:22 | 物語(小説)
『わたしは以前、数ヵ月間だけ、シスルという生き物を飼っていたことがある。』

教室の窓から、肌寒い春の風がシスルの真っ直ぐな少し伸びた前髪を揺らし、ミルク先生は静かに目を瞑る。
シスルは今日も、大好きなミルク先生に自作の詩を放課後に読み聴かせている。
最後まで読み終わると、シスルはミルク先生の目をじっと見つめて静かに立っている。
そして彼は彼女に向かって言った。
「先生、終わったよ。」
すると彼女は目を開けて唸った。
「う~ん、今日の詩も難解だ。でもシスルという名前が出てきたのは初めてだね。」
ミルク先生はそう少しいつものように困った顔で薄く笑って言った。
十四歳の彼は、この時四十四歳の彼女に向かってこう答えた。
「これ、先生の為に書いた詩なんです。」
彼女はほんの一瞬、悲しげな表情をしたあと、こう返した。
「ということは..."わたし"という人物は、先生のこと?」
シスルは、いつものはにかむような笑顔のあと、こくりと大きく頷いた。
だがその瞬間、先生の顔が密やかに強張ると同時に彼は窓の向こうに目を逸らした。
そこには、退屈な春の午後の風景が広がっていた。
はなだ色の空の下で、鴉が鳴いていた。
彼の目に、ほんの少しでも見張る何かは、そこには、なかった。
何一つ、彼は見ようとして窓の外を見たのではなかった。
ただ一つのものを、彼は見たくなかった。
先生は、黙って彼の右の横顔を眺めている。
まだ充分にあどけない、丸みを帯びたその額や鼻先や唇と顎の形を眺め、それに全く相反する大人びた眼差しと長くて黒い睫毛、凛々しく伸びた濃い眉尻、色白の頬に、小さく無数のピンク色のニキビたちを。
彼女は時が止まったように眺めている。
ふと、彼は彼女に向き直って言った。
誰もいない教室で、シスルは西日を背にし、逆光に影を床に落としながらこう言った。
「今度の連休、ぼく先生と一緒にディズニーランドへ行きたい。」
先生はまた困った笑顔で少し笑うと、「許してもらえるかしら。」と答えた。
シスルは寂しそうに笑う演技をした。
「大丈夫ですよ。あの人は、ぼくにも先生にも無関心だから。」
この言葉に、先生は笑ってくれなかった。
その代わり、深刻な顔でいつもの言葉を返す。
「実の父親を"あの人"と呼ぶのはやめないと。」
シスルは軽く吐き捨てるように言う。
「だってあの人のこと、ぼく何も知らないんです。」
先生は、初めて彼に会った日のことを想いだしていた。
冬休み前に珍しく、雪が降った日だった。
彼女は一人、誰もいない校長室で待たされた。
休み明けからこの学校の自分の担任のクラスに転入してくる転校生と、その父親が今日の午後の六時過ぎに、此処に挨拶に来るから待っているようにと言われたのだった。
電気ストーブの点いた校長室のソファーに座って、彼女は教育関連の本を読んで待った。
もう午後六時を、とっくに過ぎて六時半を回るとき、突然この部屋のドアを、誰かがノックした。
ゆっくりと、音もなくドアが開き、そしてそこから一人の大人しそうな少年がまるで震えるように立っていたのだった。
少年は明らかに、この対面に心底恐怖しているように見えた。
彼女は言伝てに聞いていた"自閉症の疑いのある生徒"という言葉を今想いだした。
彼女は少年に正面から見つめられた瞬間、自分の胸も締め付けられたまま硬直してしまったように苦しくなった。
少年はその潤んで大きく開いた両の目で、すべてを彼女に向かって訴えているように想えた。
彼女は圧倒されて少しのあいだ言葉を見失ってしまったが、役柄上このままいつまでも黙って此処に座り込んだままでいるわけには行かなかった。
彼女は唾をごくんと飲み込み、枯れたような声でこう少年に向かって言うと同時にソファーから立ち上がり御辞儀をした。
「はじめまして。わたしはあなたの担任となるエニシダミルクという者です。今日は転校前に挨拶に来てくださってどうもありがとう。どんな子が来るのか、とてもドキドキしていました。」
少年は顔を赤らめ、まだ同じ場所に緊張して突っ立っていたが、その顔は先程までとは違う喜びの表情が窺えた。
彼女は一先ず安心し、彼に少し近付くとこう続けた。
「今日は...御父様も御一緒になられると聞いたのですが...まだ来られてないですか?」
すると少年は別人のように落ち着いた表情でこう答えたのだった。
「はい。あの人、凄くいい加減な人ですから。今日も来ないかも知れません。」
彼女は冷や汗をかきながら早くもこの少年のミステリアスの深い二面性に畏れをなした。
またも口ごもってしまった彼女に、彼は低い声変わりした声で深刻な表情をして言った。
「貴女がぼくの担任で、ぼくは本当に嬉しいです。」
そんな言葉を言われたのは、彼女は初めてだった。
もう十五年、この教師の仕事を続けてきたが、彼女は特別に誰かから喜ばれることはなかったと感じてきた。
しかも初対面のこの数分間で、彼は彼女の何を知ったのだろうか?
シスルという少年は来年の一月から、彼女のクラスに転入してくる中学二年生である。
そして春を過ぎても、彼はまだ彼女のクラスに、中学二年生のクラスにいた。
詳しくはわからないが、彼自身がそれを強く熱望したからだという。
一応、障害のある生徒として、学校では観てもらいたいと父親から教師たちは頼まれていた。
つまり普通の生徒以上の待遇と対応を、父親が望んだのである。
学校側もそれを承知して、彼をこの学校に転入させた。
あとで彼自身の口から聞いてわかったことだが、この日父親は最初から来ることはなかった。
彼は父親を嫌っており、二人が一緒にいるところを彼女は見たことがなかった。
ある日、彼女は冗談まがいでこんなことをシスルに言ったことがある。
「シスル、あなたのお父さんって、本当にいるの?」
彼は半笑いで、だが苦し気な目でこう答えた。
「さあ...あの人って...本当にいるのかしらん。」
「滅多に、家でも会わないですからね。」
シスルには母親はいない。
父親からは母親はシスルを出産するその時に常位胎盤早期剥離で出血が止まらずそのまま呆気なく死んでしまったと聴かされていた。
母親の想いでが家にあることが苦しく、父親はそのすべての形見を棄ててしまった。
なので母親の写真一枚すら、残されてはいない。
シスルは母親の顔も知らない。
とても我儘で嫉妬深く、幼女のようで手に負えないことの多い人だったとシスルは父親から母親のことを聞いていた。
重い精神障害は勿論、知的障害も少しばかりあったのかもしれないと言う。
とにかく母親の良い話を、彼は一つも父親から聴かされることはなかった。
彼は父親を、その事で酷く恨み続けているとしても自然なことだと彼女は想った。
彼は毎晩のように、コンビニの弁当やスーパーの惣菜で済ましていると聞いて、彼女は心配になった。
何より、彼が一人でそれを部屋で食べている姿を想い浮かべると居たたまれない気持ちにさせられた。
彼女は学校には内緒で、彼の夕食を毎晩、作りに行くことにした。
シスルに料理の楽しさを覚えさせる必要もあった。
そして自分の作った料理を、一人以上で食べることの必要性も、彼女は知って貰いたかった。
彼女自身については、それは一つの強迫的観念だったかも知れない。
それは彼女も、長年一人で食事をし続けてきたからだ。
此処にある喜びは、何もなかった。
どれほどの御馳走が食卓にあったとしても、それらは色褪せ、味気無いものとして独りで無言で食べて、消化しなくてはならなかった。
その為、彼女は教師でありながら、毎夜の晩酌をやめることが叶わなかったのである。
シスルに、彼女は自分のようにはなってほしくはなかった。
アルコールがなくては生きては行けないような大人に教育することしかできないのなら、それは教師失格ではないだろうか。
シスルは、彼女と初めて一緒に作った手料理を彼女と食卓を囲んで食べた夜、涙を浮かべて喜んだ。
そして「他のもう何をも食べたくない。」と彼は彼女に言った。
それは彼女を束縛する、最も強力な言葉かも知れないと、彼は知っていた。
でもそれ以上に、彼女を縛り付けて離さない言葉があるとしたら、それはどんな言葉だろうか。
シスルは「シスルという少女を育てる夢」という詩を夜の公園で後ろ向きに歩きながら彼女の前で読み聴かせた日、最後に「彼女は大きな箱から産まれ落ちる」と言った後に立ち止まって、ノートから顔を上げてこう言った。
「先生の名前は、”苦を見る”と書いて”ミルク”だよね。」
彼女は彼に向かって「本当だ。」と言って苦笑した。
「ぼくの名前は、”死をする”と書いて”シスル”なんだ。」
「”シ”を行うという意味?」
「そうだよ。」
先生は微笑んで自分の前に立ちはだかる自分よりも少しばかし背の高いシスルに言った。
「あなたは永遠の孤高の詩人だものね。」
彼はその言葉に黙って、彼女の目を見つめたあとに言った。
「先生、ぼくの存在の理由をわかってないんだね。」
彼女は不安になって、「どういうこと?」と訊き返した。
彼は灰色の石の地面に目を落として小さな声で言った。
「ぼくが、生きている理由だよ。」
彼女が押し黙っていると彼は顔を上げて慈悲深い表情をして言った。
「もう帰ろう。今夜は寒いね。もう四月だと言うのに。」
その日の夜、シスルが彼女を家まで送り帰った後、彼女の携帯にこうメールを一通送った。
『ぼくは苦しみが足りないから、ぼくではまだだめなんだ。』
先生はなんと返したら良いか迷った挙げ句、こう打つのが精一杯だった。
『あなたの苦しみのすべてを先生に話してもらえないことは悲しいことだな。でもいつか話してもらえたら、先生は嬉しいです。』
彼からの返事は朝方にあった。
そこにはこう書かれてあった。
『ゴールデンウィークに、ディズニーランドに行ったときに、話そうかと想う。』

ディズニーランドに行くのは、実はミルク先生も初めてだった。
約束の当日の朝、ミルク先生はシスルを迎えに家のチャイムを鳴らした。
5分ほど経って、ドアが開いた。
そこには白い半袖シャツにブルーのサルエルデニムを履いて、黒いバックパックを背負ったシスルが頬を紅潮させた顔をのぞかせながらも不安気にミルク先生の顔を伺っている。
ミルク先生は笑顔で「おはよう。すこし遅れてしまってごめんなさい。」と言った。
シスルは、悲しげな顔を振り払うように首を横に振り、「さあ、行こう!ディズニーランドに!」と言って飛び出すようにドアの外に出た。
シスルはミルク先生の白い車の助手席の前で足踏みをし、「早く早く!」と急かし、ミルク先生が車の鍵のスイッチを押して開ける瞬間、シスルは車に乗り込んだ。
シスルの家から最短で6時間弱で着く。
今は朝の6時過ぎ。スムーズにゆくなら遅くても昼過ぎには着く予定だ。
でもミルク先生のことを想って、今日はそのままディズニーランドに行くのはやめて、ホテルでゆったりと休み、次の日にディズニーランドへ行こうとシスルは先生に言った。
だが実際、着いた時間は夕方の4時を過ぎていた。
ゴールデンウィークは真に恐るべし。誰もが享楽に耽るため、外に繰り出す必要性に駆られる一年で最悪な強迫的な期間。
ミルク先生は、約9時間近く、車を運転せねばならなかった。
シスルは車の中で持ってきた「Thom Yorke - Tomorrow's Modern Boxes」を何度と繰り返し再生させた。
渋滞を考えて飲み物と食料は二人でちゃんと用意しておいた。
車がぴくとも動こうとしない時、二人で先生の作ってきたお弁当をつついて食べた。
シスルは先生に教えてもらった米粉とココナッツバターとデーツとレーズンだけで作るクッキーを昨夜に作って冷凍しておいたものをたくさん持ってきた。
そしていくつものこの世に存在する童話を先生が運転するなかシスルは朗読した。
なかにはシスルの即興自作童話が、先生に内緒で混ぜ込められていた。
先生は気付いているかどうかわからないけれど、この童話はこの世には存在しない。
シスルが、先生に朗読する前までは。
ふくろうの森の奥の遊園地に、新しいアトラクションができたんだ。
アトラクションの名前は「ダークライト」。建物の内部に作られたレールのコース上をライド(乗り物)に乗って進み、その空間の周囲に作られた物語のセットを観て楽しむアトラクションだよ。
「楽しそうね。」先生はそう微笑んで車を運転しながら言った。
「このダークライトに、ぼくは先生と二人で乗りたい。」
先生は鼻歌を歌いながら「うんうん。」と応え、こう言う。
「楽しみだね。」
二人の乗った車はトンネルのなかに入る。
すごく長いトンネルだ。
シスルは道路の白線を通過する居眠り運転防止の音が一定の間隔に聴こえて心地良く、うとうととしている。
「先生…。」
シスルは目を瞑ったまま小さな掠れるような声で右の運転席に座るミルク先生を呼んだ。
先生は「ん?」と言ったあと、こう続けた。
「眠ければ眠っていいのよ。」
「先生…。」
シスルはまるで寝言のようにそう繰り返し、まだ目を閉じたまま話し始めた。
「先生…。此処は…。此処はダークライトだよ。ふくろうの森のなかを、ずっとずっとぼくと先生は奥に進んできて、この遊園地に辿り着いたんだ。でもこの遊園地は、夜にしか開かないんだ。真っ暗な夜にしか、扉が開かない。この重く、頑丈な扉はほんとうの真夜中にしか、開かれないんだ。それを先生とぼくは知っていて、知っていたから、この遊園地に辿り着いて、今、新しいアトラクションのダークライトのライドに、ぼくと先生は乗っている。」
ミルク先生は、優しい声で言った。
「一体どんな物語のセットが、この先にあるのかしら。」
シスルは目を瞑ったまま倒した椅子の背もたれに背を深く沈め、話を続けた。
「ぼくは…ずっと、ずっと…ひとりでふくろうの森のなかを、歩いてた。ふくろうの森のなかなのに、ふくろうなんて、どこにもいないんだ。真っ暗な森のなか、歩いていても、声も聴こえない。森のなかは、静かで、静かで、ぼくの足音さえ、聴こえない。まるでだれかが、ものすごい瞬間的な速さ、光速で、すべての音と光を、吸引しているようなんだ。だから此処は、なにも見えない。なにも聴こえない。そしてぼく以外、だれも、だれひとり、いないみたいなんだ。でもぼくは、ずっと歩いていた。ずっとずっとずっと歩いているのに、なぜかまったく疲れないんだ。先生…。ぼくは気づくとね、地面を歩いていないんだ。ぼくは宙を歩いていた。そう…だから疲れないんだね…。時間を…時間を忘れるほど歩いてきたはずなのに…。何故ぼくは、そんな気も遠くなるほど、ずっとずっとずっと歩きつづけてきたのかっていうとね。ぼくたったひとり、会いたい人が、どうしても会いたい人がいるってことだけ、忘れなかったからなんだ。ほかはぜえんぶ、忘れちゃったよ。ぼくの顔も…。ふくろうがどんな鳥かも、忘れちゃった。ぼくが、だれかも…。それなのに、ぼくは会いたい人の、そのたったひとりの存在だけ、忘れなかった。わすれ、られなかった。なぜ…なぜだろう、先生…。ずっとずっとずっとずっと…このふくろうの森を歩いてたら、なぜだか、会える気がした。会える…会える…会える…だって会いたいんだ…じぶんの存在を忘れるほどに真っ暗闇のなかを歩きつづけてでも…。そうだそれがぼくの存在なのかな。会いたい人がたったひとりだけいる存在。それがぼくという存在なんだ、きっと…。ぼくのことは、なんにもわからないけれど、会いたい人のことはぼくは知ってる気がした。ぼくが知ってるのはそれだけ。ぼくがこの森で知っているのは、会いたい人の、その存在だけ。だからぼくは、その存在に会うために、その人と、再会するために、ずっとひとりで、歩いてた。ほんのちいさなため息ひとつ、聴こえないしずかな闇のなか。宙を、歩き、ときに走って。疲れも知らず。その代りに、さびしくてさびしくてたまらない空間を。それで、ずっと、ずっと、ずっと歩いてたら、ぼくはほんとうにびっくりしたよ。だっていきなり、ずっと向こうに、ひとつの、光の漏れるちいさなドアを見つけたんだ。それは突然、そこに現れたかのように見えた。これは…ぼくは夢を観ているんだろうか。ぼくの求めているドア。ぼくの見つけたかった扉が、ほんとうにそこにあったんだ。ぼくは涙がこぼれて、ものすごい速さで、そのドアに向かって飛んで行った。どんな超音速機より、ぜったいに速かったよ。だって気づけば、ぼくの目のまえにその光が隙間から漏れたドアがあった。そして、ぼくがドアよ開け!って強く願った瞬間、そのドアがゆっくりと、ぼくの前に開かれた。するとその内部空間に在った光のすべてがぼくに向かって降り注がれるように、一気に流れ込んでくるように感じた。最初あまりに眩しくて、目を開けられなかった。目を閉じていると…貴女が…貴女がぼくに向かって…声をかけた。」
シスルは目を閉じながら、目の隙間から涙をこぼし、身体を小刻みに震わせ泣きながらそう最後に言った。
ふいに、シスルは右手をミルク先生の方へと目を閉じながら差し出していた。
するとミルク先生は、シスルの右手の上に、左手をそっと置いた。先生の手も、ちいさく震えていた。
車はまだ、長いトンネル内を走っている。
シスルは鼻を啜りながら話を続けた。
「ぼくは…このぬくもりを…何より求めていたんだ。でも、それが叶わなくて、喪われて、でもぼくは、諦めることができなかった。すごく、怖かったんだ。なぜ…最も会いたい人に会うことが叶わず…なぜ…最も愛する人に…。ぼくは怖くって、怖くって、諦めることができなかった…。貴女に、会いたいことだけが、ぼくのたった一つの、願いだったのに…ぼくは貴女の手によって、この世から、貴女のいる世界から、低く、重く、光の絶対届かない場所に堕ろされるその過程の、真っ暗なふくろうの森のなかの、その奥の、遊園地にあるダークライトの乗り物に今ぼくと貴女は乗っている。これからどんな物語がこの空間に展開されるのか、この長い長いトンネルの先にあるのか、先生、貴女と、ぼくだけが知っている。だって貴女は、十四年前、ぼくと貴女を、このふくろうの森のなかに閉じ込めた。真っ暗闇の貴女の深い深い子宮のなかに。まるで貴女がぼくを堕ろした夜に見た酷い悪夢のように。貴女はあの夜の夢のなかで、こう感じた。真っ黒な大きな袋のなかに、ちいさなちいさな赤ん坊の死んだぼくを入れ、それをじっと、貴女は上から見つめていた。そして貴女は想ったんだ。まるで”それ”は、黒い宇宙のなかでたったひとり、誰にも愛されずに誰にも悲しまれずに死んでゆく自分自身であると。貴女は望んで、今この世界に、ぼくと二人でいる。そして真夜中にしか開かないこの遊園地の扉を、ぼくと一緒に貴女は開けてくれた。このぼくと先生の乗っているダークライトという乗り物は、かならず、出口に辿り着く乗り物だよ。だからちゃんと、この決められたレール上を、真っ暗なトンネルのなかを、ぼくと先生は真っ直ぐに進んでいる。先生も、ぼくも、このダークライトがどこに着くのかを、知っている。ぼくの愛するたったひとりであるミルク先生…お母さん…ぼくは本当の想いを、貴女に言うよ。貴女が、ぼくを堕ろした六ヶ月後に母乳が出始め、一向に止まらなくなったことに苦しみ、みずから命を絶った瞬間、貴女はあの日の校長室のソファーに座って一人、ぼくを待っていたことを、心から嬉しく想う。貴女とぼくが、一つの存在であるということを、貴女が気付いた瞬間、ぼくに向かって初めて、貴女は優しく微笑みかけてくれたから。」




















Thom Yorke - Pink Section + Nose Grows Some


















秘密の階段

2019-06-08 22:44:59 | 物語(小説)
「着るものがないなら、屋根裏部屋に来ないか。」
婚約者がいるのに、そう会ったばかりの男から誘われ、着いていったことがあった。
この日のことを、わたしはまだ彼に話したことがない。
もっとも、”着るもの”とは、暗喩である。
それを知って、わたしは彼に恐れを抱きながら、着いていった。
その男の家はおそろしく古いが、居心地は良いと言う。
「必ず見つかるはずだ。あんたに合った服が。」
「でも、もし見つからなければ、そのときは考えようじゃないか。納得の行く代金を支払うよ。」
みんなは彼の名を、”シマク”と呼んでいた。
どこから遣ってきたのかも、いつからこの村に住んでいたのかもわからぬ素性の怪しい男だった。
”いばらの村”と、だれがいつから呼んだのだろう?
それほど遠くはないという。いつからかこの野いちごの村は、通称”いばらの村”と呼ばれるようになった。
ある説では、いばらの森で一人の惨殺された少年の亡骸が発見されたからだという。
そこに生えている黒いちごの種は、食べる者によっては麻薬的な効能を持つときがあった。
きっとそれを食べて気が狂ったうさぎが、少年のうさぎを殺してしまったのだろう。
だから一時期、この村は”黒苺の村”とも呼ばれていたという。
だが、まだ犯人うさぎは見つかってはいない。
ある目撃者によると、そこでその日見かけた少年を殺したそのうさぎと想われる者は銀色に輝く毛並みのたいへん美しいうさぎだったという。
でもそんなうさぎ、ほかにだれひとり見たことがなかった。
目撃者が90歳を超えた老うさぎであった為、なにかの見間違いだとされた。
 
「生贄だよ。」
シマクがカリンに向かって言った。
一階のキッチン兼ダイニングでシマクの作ったの黒苺のお酒を二人でちいさなランプ一つ置いただけの部屋で飲み交わしていたときだ。
カリンはお酒以外の飲み物はないかとたずねたが、シマクは平然と「ある。」と答え、そして陰に置くと真っ黒になる真っ赤なジュースをカリンが飲んだ後に、「それは黒苺の酒だ。」と言った。
「だがほとんどアルコール度数はないに等しい。それよりも、黒苺を発酵させていないフレッシュジュースのほうが何千倍と危険なことを知っているのか。」
カリンは黒苺など、一度も口にしたことはないと言った。
「何故だ。」シマクがそう不機嫌そうに訊ねた。
「それはまったく美味しくないと評判だから。」
カリンが呆れたようにそう答えると、シマクは「ははは。」とから笑いをしてにたと嗤った。
「そらそうやろう。ひっくり返るほど美味いことを知る人間たちはそう言うさ。独り占めするためにね。」
カリンは黒苺のお酒の二杯目に口をつけながら、今日なぜじぶんがここに来たのかを忘れかけるところだった。
もうすっかり、外は日が暮れていた。
置き手紙をテーブルの上に置いてきたけれど、婚約者の彼はいったい何を想っているだろう。
 
「大切な友人の家に、急遽泊まることになりました。
 
 あすの朝には必ず帰ります。
                    カリン」
 
鍋のなかはからっぽ。彼は仕事から疲れて帰ってきて手紙を呼んで不安の黒雲のしたで期待してその蓋をぱかっと開け、「おいいいいいぃ、ないやんか。」と独り言を呟いたであろう。
「なんも入ってへんではないか。なんも、残っておらないではないか。」
と、きっと同じ意味のことを何度と口に出して言ってしまったであろう。
「あああああ、腹が減ったなあ。いったいカリンはどこのだれとどこでなにをしているんだろう。不安だなあ。心配だなあ。友人ってだれなんだ。友人はいないってゆうてたやんか。ゆうてたやんかいさ。最近できて、僕に黙っていたのでしょうか。くはは。くるるるるるん。ぱぱぱぱぱ。笑う。笑えない。死ぬる。え?もしかして男ですかね。マジですか。死にましょう。死ぬますか。死にましょう。やめましょう。あしたはきっと、晴れると良いでしょう。おやすみなさい。では。」
と独りキッチンの壁を見つめて吐き出したるあと、ベッドに突っ伏して死ぬように眠りに就いたであろう。
おほほ、良い気味だ。なんてことはカリンは想っていない。
カリンはいま、何も考えていない。
といえば嘘になる。カリンは何故なら、いまとても心地好き気分でうっとりと、目の前に座っている男シマクの顔を眺めていたからであった。
シマクは両目とも完全な盲目であり、目は澱んだブルーのガラス球のようであった。
なのでカリンを見つめているようで、ちっともシマクはカリンの顔など見てはおらない。
カリンがまるで透明であるかのように、そこに何も見ていない。
その後ろの壁も見ていない。
シマクは、では一体なにを見ているのか?
それをただ想像すること、それがカリンをただうっとりと恍惚にさせるのであった。
カリンは自分の容姿に、異常に劣等感を持っていた。
自分の容姿は宇宙で一番醜いであろうし、また宇宙で一番醜いべきであると信じてやまなかった。
そして何より醜い自分の姿を、だれひとりにも本当は見られたくなかったのである。
婚約者の彼は、カリンの顔を、「マジでタイプです。」と言った。
カリンは、「ああそうか、なら結婚したってもええけど?」と返事をした。
愛でたくふたりは、その5年後に、結婚したのであった。
5年間、彼は、本当にカリンと結婚しても良いのか。後悔しないのか。と自分に問い続けてきた。
だが本当は、カリンの愛のほうが、彼の愛より遥かに深いものであることを、カリンは知っていた。
カリンは常日頃、「あ、今のおれ、かっこいいな。って絶対想ったよね。」という言葉を何度と彼に言った。
「そういう、おれってやっぱりかっこいいよな。いけてるよな。と想ってるあなたが嫌い。気持ち悪い。気色悪い。吐き気がする。」
カリンがいつもそう言うと、彼も決まってこうクールに反論した。
「別にそんなかっこいいとか自分のこと想ってないですけどね。まあかっこいいとか、何度か言われたことはありますが…」
「その言い方が腹立つんだよ。ムカつくんだよ。自分のことかっこいいって想ってるから言えるセリフと言い方だよね。うぜえんだよ。死ねや。」
彼はいつも涙を目尻に浮かべて苦笑いをして、爽やかで愛らしい刃を口の空き間から見せつけ、その場を丸く収めることが得意であった。
「いやあ、可愛いな。ほんとうにあなたって可愛い人ですよね。本当に愛しています。」
カリンがそう言って、彼は傷つけられたすべてを心のどぶへ流しに行っていた。
その証拠に、それをいつも入れている彼の胸のなかの洗面器はいつも、血濡れていた。
血痕と体液でガビガビであった。びるびるのぶるんぶるんであった。
ひとりでに、びふんびふんと鳴る夜もあった。
彼はそれを説明するのが至極面倒くさかったので、カリンに「ちょっとお腹の調子が悪いのかなあ。」と話していた。
「あなたのお腹って、びふんびふんと鳴くんですね。」
カリンがそう言うと、彼はすこし寂しげな顔で言った。
「そうですね。」
「病院行って精密検査してきてくださいね。」
「うーん、まあまだちょっと、様子を見たいかなあ。っていう。」
「死ねや。」
「いやあ、死にたくないですね。」
「じゃあアマゾン熱帯雨林に行ってきて、アマゾン川で顔洗って顔ピラニアに喰われて来いや。」
「うーん、それもちょっと…できるならばけ・い・け・んしたくないことですね、はい。」
「便所でコオロギ食べて来いや。」
「いやぁ…なんで食べなくてはならないのか、ちょっと…その意義が見えてこないので…」
「そしたらあなたの顔はもっと美しくだるだろう。」
「美しくだるんですか。今で美しいと言われているので、これ以上は望まないですね。」
「だれにゆわれてんねん。」
「いやカリンさんに…」
「そう…わたしはあなたに言い過ぎたんですね。ふんで調子乗ってんなよカス。」
「ううむ…調子に乗っているわけではないのですが、でも言われて嫌な気持ちにはなりませんし、まあ普通に嬉しいですよ。」
「あなたに負けました。わたしのことをこれから、ブサイクで負け犬の下呂女と呼んでください。」
「それは無理な御願いですね。そんなことをぼくに要求しないでください。」
カリンはいい加減、彼が微笑しながらキレかけているのを素早く認め、こう返事した。
「申し訳ございませんでした。もう二度と言いませんので、どうか離婚だけはしないでください。何卒、お願い申し上げます。」
 
カリンは、シマクの透明のプラスチックの球体に蒼い糊の塊のようなものを被せたその質感の、両の目にまだ見惚れていた。
だがカリンの魂の聖域を、どうしても邪魔する者がいた。
婚約者の彼である。
カリンの心を濁らせるもの、それが婚約者であった。
だが、シマクの黒苺酒が3杯目に来たとき、彼は消え失せたのである。
時を見計らうかのように、シマクが低く抑えた声で言った。
「そろそろ、上の階へ上がるか。」
「それとも、地下を先に覗いてみるかい。」
カリンは目を瞑り、顎を上げ、熱い眼(まなこ)の下で「あなたが決めて欲しい。」と伝えた。
「それはできない。」
シマクはカリンが言い終わると同時にそう答えた。
「何故なら、おれにも見えないからなんだ。」
「見えない?でもここはあなたの家でしょう?何があるのか知っているのでしょう?」
「本当にそう想うかい。あんたは自分の家にあるすべてを知っているのかい。」
「あんたの家に、あんたの知っているものだけがあるとでも想っているのかい。」
カリンは酔いが回り、普段は口にしない女の話す口調で言った。
「おほほ。あなたって本当に面白い人ね。あなたの言う言葉はとても抽象的で、何を言っているのかさっぱりだわ。」
「そう、今あんたの夫が、何を手にしているのか、目に見えるかい。」
カリンは目を開けた。
「あれは何かしら。丸いものを手にしているわね。」
「どんな質感のものだ。」
「泥団子にも見える。でも、焦げた丸い豆腐バーグかも知れない。」
「具はなんだ。」
「蓮根と、あと…あれはなんだろう。黄色いような、赤いような…」
「もっとちゃんとイメージしないと、何も見えてこないぞ。大事なものは。」
カリンは不安になり、シマクの薄く開いて視線を落としている目を見つめて言った。
「一体なんの話をしているの?」
シマクは視線をテーブルの上に落としたまま言った。
「秘密の階段の話さ。」
「階段を先に下りるか上がるかで、一体何が変わるの?」
「そんなことを、今のきみに話す訳にはいかない。」
「何故?」
シマクは、ふうと息を吐いて右の胸ポケットから煙草を一本取り出した。
「今きみは、自分が望んでいる方向と、そこにあるものをまるで見ていない。」
「わたしはそんな風に見えるの?」
「おれが今感じているだけだ。」
「失礼だと想わない?わたしはなにも考えずに、ここに来たわけじゃない。」
「わかってるさ。あんたはふらふらと、まるで酔いどれ詩人のように、ここに遣ってきた。」
「わたし、酔ってなんかいないわ。」
そのとき、ちょうど目のまえの壁に鏡がかかっていることにカリンは気付いた。
その鏡に映った自分の両目を、カリンはまじまじと見た。
「うわっ、めっさ斜視っとるやん。どこ見てんねん。」
酔い過ぎではないか。
「確かにわたしは直感だけで、ここに来た。でも直感が、すべてであると、わたしは想っているから。」
「もう戻れないことは、想像しなかったのか。」
「想像はしていない。」
「あんた、この家に何があるのか、本当にわかっていないのか。」
天井に蟠る、闇に向かってシマクの吐く煙はその身をくゆりながら昇ってゆく。
「この上に何があり、そしてこの下には何があると想う?」
「わたしは答えない。もし、それに答えるなら、それはその通りに、そこにあるの。」
「では、想っていたものと、それはまったく違うものだろう。あんたの欲しいものは何一つ、手には入らない。」
「これ以上のものを。」
「これ以上の虚しさ、これ以上の無感覚。これ以上の、薄っぺらいものを。」
「これ以下のものではなく。」
「これ以下のものばかり、あんたのもとに遣ってくるだろう。」
「何も、何も、比べないでほしいの。」
「比べているのはあんただ。おれじゃない。」
「秘密の階段は、エッシャーの騙し絵のようになっているんじゃなくて?」
「上っているつもりが実は下りている。下りているつもりが、実は上っている。」
「天国へ向かって上り続けているつもりが、実は地獄へ向かって、下り続けている。」
「でもそれをだれが決めるだろう?」
「決めるのはあんただ。」
「でもそれをだれが嘆くだろう?」
「嘆くのはあんただ。」
「でもそれを、だれが喜ぶだろうか?」
「それはおれだよ。」
シマクは、そう言って目に薄く碧い膜を張らせ、カリンの後ろ姿を映す鏡に向かって、右手を差し伸べた。
 
カリンの目のまえには、婚約者の彼が悲しげな顔をして立っている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 2019-04-30 12:42:48作

ピスエルとシマク

2019-04-30 07:09:57 | 物語(小説)
とてもあたたかい春の朝でした。
青い空はたかくたかく、目の覚めるような色をしていました。
でも、なぜでしょう。
今朝はとてもしずかです。
うさぎたちは今日も朝早くにおきて、列車に乗るため、駅へと向かいました。
そしていつもの列車に乗るのに間に合って、ほっと一息ついていたときです。
聴いたこともないような大きな音と共に列車のなかが激しく揺れ、身体が飛んでうさぎたちは椅子や壁やらにぶつかりました。
うさぎの男の子ピスエルはすこしのあいだ気を失っていましたが、ようやく目を覚ましました。
そのとき、いったいじぶんがどこにいるのか、いっしゅんわからなくなりました。
なぜなら、目のまえに広がる光景はいままで見たこともないものだったからです。
なにがどうなっているのか、よくわかりませんでした。
有機質なものと、無機質なものとが、混ざり合って何かあたらしいものを生み出しているかのように、それらはそこに蠢いてありました。
どれくらいのじかん、ピスエルはじっとそこで床に寝ていたでしょう。
ただただ、もうろうとして、何が起きているのかまだわかりませんでしたが、とりあえず立ち上がって、光の見えるほうへとすすんだのです。
するとそこに、ドアの見えないドアがあるように見えました。
それは入り口かもしれないし、出口であるようにも想えました。
でもそこだけが、ピスエルには光っているように見えたのです。
ほかは薄暗く、なにかおそろしいもののように感じました。
ピスエルはたったひとつの希望をいだいて、その光の門を通り抜け、外へ出ました。
彼は、そこになにを見たでしょうか。
 
その後、彼のその日のすべての記憶が封じ込められるほどのものを見たことは確かです。
 
その日から、三年ほど、時がたちました。
 
ピスエルは、目のまえが真っ暗だと感じました。
それはちょうど、愛するおとうさんの一周忌を過ぎた頃でした。
ピスエルはこの日の朝、生きていることがたえがたく、午後を過ぎたころ、ある変わったものばかりを売っているというお店に行きました。
そのお店の主人うさぎはまだ若く、年齢をたずねると三十六歳だと答えました。
名前はシマク。
べつに、しましまもようのうさぎではないけれど、ピスエルはかっこいい名前だなと想いました。
ピスエルはふつうの茶色いうさぎで、シマクはつややかな真っ黒のうさぎでした。
でもひたいには、白い半月模様があり、またシマクは右耳を根本から失っており、片耳うさぎでした。
そしてその両目は美しいブルーに濁っておりました。
ピスエルはその両目がなぜ濁っているのか知りたいと想いましたが、今日会ったばかりで、そのようなことを訊くのは失礼だと感じて自分のほしかったものを買って、帰ろうとしたそのときです。
シマクが、ピスエルを呼び止めました。
ピスエルが青い顔をして振り返ると、シマクはピスエルに向かって穏やかな低い声でこう言いました。
「おい、なにか変なこと考えてるんとちゃうやろな。」
ピスエルはどきっとしました。
さらに心臓が冷たくなり、寒気も感じました。
ああ、だめだ!とピスエルは想いました。
この人には全部見えてるんだ…!
ぼくがこれから、しようと想っていることを!
ピスエルは震える身体でシマクの濁った半ば見開かれた両目を見つめ、だまっていました。
そのとき、シマクはほんとうに優しい声で言いました。
「あのな、おれは目が見えないんだよ。でもな、あんちゃん、おれはそれ以外のものはほとんど見える。だからこんな物騒な店をやっているんだ。ってなんでおれ標準語でしゃべっとるんやねん。いやそんなことよりな、おいにいちゃん、やめとけ。悪いことはゆわんさかい。それだけは、やめとけ。なんでかちゅうと、それはな、人間存在というもののなかで、いっちゃん後悔することやからや。わかったか。これを承諾せんのやったら、それを売るわきゃあきまへんなあ。おれかて人を悲しませたくはないのよ。ほななんでこんな店やってるかって?それはな、ははは、だからゆうたやん。おれにはふつうじゃないものが見える。つまり客が、どんな人間で何をしようとしてこのおれの売る武器を買うのか。すべてわかるんだよ。で、どうするんだ、ピスエル。おまえはこれからなにをするつもりなのか。」
ピスエルは、両目の見えない、いかついのにとんでもなく優しい表情のシマクの濁った青い目を見つめながら、涙がどくどくと出てきて止まらなかった。
シマクには、絶対に嘘はつけない。そう感じたピスエルは、嗚咽をこらえながら言った。
「ぼくのせいで…ぼくのせいで…みんな死んでしまったんだ。」
シマクは小さく息をつきながら言った。
「あの事故と、あの事故のことか。」
「あの日のレイルバーニー列車の脱線事故と、親父さんの事故のことやな。」
ピスエルは無言で深く頷いた。
「気にすんな。そんなことは、おまえにわかることではない。おまえは神じゃないんだ。奢るのもええかげんにせえ。」
この店のなかに、強い西日が入ってきました。
逆光のなかで、シマクの顔は女神にも見えましたが、その顔は地獄の門番のようにも見えたことです。
ピスエルは、言葉に詰まり、何も言えませんでした。
ぎゅっと目をつむって俯き、泣いてばかりいるじぶんが情けなくてしかたありませんでした。
するとシマクが向こうに行く音が聞こえ、ガタコトと音がして戻ってくる音がしました。
シマクはピスエルに落ち着いて言いました。
「見ろ。これな、音がまったくせえへんVP9ピストルや。」
「実はな、おれは元CIAの工作員で人をたった一つのボタンで殺しまくり、そしてそのライヴ映像を毎日確認して生活しとった人間や。いや人間ゆうてもうさぎ人間で殺してたんもうさぎ人やけどな。ついじぶんのことを人間とゆうてしまうんや。まあそんなことは今どうでもええ。」
「おい、このピストルでピスエルの頭に今から穴開けたろか。」
「おれが今からおまえのどたまを殺したるんよ。それでおまえは満足か。ピスエル。」
ピスエルは涙も枯れ、目のまえに置かれた黒いちいさな拳銃をじっと見つめた。
「おまえがそんなに苦しいんならな、おれがおまえを殺したるちゅてんねんよ。耐えがたい苦しみのなかに生きていかなならん人間に向かっておれは生きろてゆうてんねんからね、おれかて苦しいんだわ。ふたりで楽になれるか、遣ってみるか。どうする。ピスエル。おれのことはどうでもいいからおまえが決めたらいい。」
それでもピスエルは、何も言わなかった。
どうやって、答えを出したらいいのかわからなかったからです。
ピスエルはそれほど、苦しんでいました。
一分でも早く、楽になりたかったのです。
シマクは今度は向こうの部屋から、バーボンを持ってきて、煽るように瓶ごと飲みました。
そしてレッド・ツェッペリンの「天国への階段」をレコードでがんがんに大音量でかけたあと、大きなため息を付いてシマクは言いました。
「気にすんな。おまえという存在も、おまえの考えていることもすべて、あまりにちっぽけなんだよ。おまえがどれほど死にかけるほど苦しんでいても、それはあまりにちっぽけで取るに足らないものなんだ。なんでかとゆうとな、おれにはおまえの未来さえ見えるからなんだ。おまえはこの先に、いまの苦しみの何千倍と想える苦しみを知る。それはおまえが、真の愛というものを知ったときだ。そのとき、おまえは死んでもだれを殺してもまったく解決できないことを知るだろう。だからそのとき、おまえは生きてゆくしかないんだ。他のすべての方法を、おまえは喪う。おまえはそのとき、ほんとうの絶望を知る。今以上の地獄が、おまえを待っているんだよ。それでもおまえが今死にたいと言うのならば、おれがおまえを殺してやる。5分以内に、返事をしろ。」
 
シマクは、安らかな顔で眠っているピスエルのとなりで静かに話しかけた。
「本当におまえのせいですべてが死んだ。すべてがおまえのせいで、苦しんで死んだんだ。おまえはその責任を、死んだら相殺できるとでも想っているのか。そんな戯けた考えは今すぐに棄てろ。おまえはそんなことでは何一つ彼らに返すことはできないからだ。なぜならおまえは自分のために、じぶんが楽なるために死のうと想っているからだ。おまえがおまえのためだけに遣る行為とその結果で、彼らを救うことはできない。おまえはじぶんを棄てなくちゃならないんだよ。彼らすべてはおまえのせいで地獄の苦痛を味わって死んで行ったかも知れない。ではなんでおまえが地獄の苦しみから逃げようとしているんだ。おまえはもっとこの世で味わい続けなくてはならなかったんだ。おまえがじぶんでじぶんを殺すなら、そのまえにおれがおまえを殺さなくてはならなかったんだ。真っ暗闇のなかで、おまえが何万年とたったひとりの世界で苦しむことをおれは知っていたからだ。なあピスエル、なんで過去から、おまえは殻の霊魂だけでおれの店に遣ってきたんだ。おまえは今どこにいるんだ。おれのこの目にも、見えないほど遠くにいるんだろう。どれほど深い闇なのか、おまえはわかっているのか。おまえにもわからないだろう。おれにもその闇の深さは、見ることができない。だからもう二度と、絶対に、同じことはもう繰り返すな。おれの言葉を、必ずおまえの主人に届けてくれ。ええな。」
 
シマクはこどものようなあどけない寝顔で眠っているピスエルを優しく揺り起こすと、ピスエルはまるで夢遊病者のように起き上がって自動人形のように目をつむりながら店をでて歩いてゆき、その深い深い、闇のおくへと消えていった。
 
シマクはずっと、ピスエルに向かってエールを送っていた。
 
がんばれ!
がんばれ!
がんばるんだピスエル!
 
やがて夜は皓々と、更けて行った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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2019-02-24 23:24:23 | 物語(小説)

惰飢えは本当の、天涯孤独となった。

だから、天はこの惰飢えに、干支藻を与えたのである。

それは丁度、惰飢えが、実の姉にLINEでこう送った次の日のことであった。

「もう二度と、わたしから話しかけることはありません。さようなら。」

この日から、惰飢えはだれひとり、相談するのも話すのも、できない人間となった。

だれも、彼女を必要とはしていなかった。

だれも、彼女を見てもいなかった。

だれも、彼女に関心を持つことすらなかった。

だれも、彼女を愛してはいなかった。

彼女は自分の震える胸の檻のなかで、小さな鳥に掛け布団を掛けて寝かし付ける日々であった。

だがその鳥は、翌朝には必ず死んでいた。

だれも彼女を見なかったので、彼女もだれも見ることができなくなってしまったのである。

此の世のすべてが、戯れ事に見える日もあった。

だれもが、本当は彼女を心の奥底で嘲笑っていた。

だれもが、本当は彼女を心の奥底で憐れんでいた。

だれもが、本当は冷たく、虚無に支配されていた。

彼女はそれを知っていた。

惰飢えの心は常に、暗黒の虚無に支配されていた。

それでも彼女は、日々こう叫んでいたのである。

「すべてをわたしによって救うことができますように。」

そして彼女は、だれひとり助けることは叶わなかった。

その代わり、悉くすべての生命を地獄に堕すことが得意であった。

彼女はみずからのこの業(わざ)に、いつも嘆き悲しんでいた。

だれも彼女を知って、それを褒めることはなかった。

だれも彼女を知らなかったのである。

一人を除いては。

 

先日、惰飢えの携帯を一人の彼女の担当のホームヘルパーの男が鳴らした。

その男の名は干支藻である。

干支藻は次の夕方、彼女のマンションへ遣って来て、彼女にこう告げた。

「色々と、がんばってはみたのですが…やはり難しいですね。」

干支藻はいつものようにはにかむような無邪気な笑顔でさらにこう続けた。

「身体は一つですからねぇ。」

彼女より四つ年下のこの男は彼女の担当のホームヘルパーであるのだが、彼の仕事とは彼女に多くのヘルパーサービスを行なうことではなく、登録ヘルパーたちが彼女のヘルパーを彼女の希望通りにこなせているかを時々窺いに来る指導社員であったのである。

だが運悪く、この干支藻という男に恋煩いをしてしまった惰飢えは彼に自分のヘルパーサービスをたまにして欲しいと頼んだ。理由は、「干支藻さんといると楽しいと感じるから。」だと告げた。

干支藻は正直にそう言われた時に、「そう言って貰えるのは嬉しいですね。」と嬉しそうに答えた。

彼の仕事は”人を助けること”。利用者から自分といて楽しいと感じてもらえることが何より嬉しいのは当然なのである。

例えば、どんなにサービスの仕事を感謝してもらえても、「なんかこいつと一緒におったらすっげえ嫌な気持ちになるなあ。っていうか会った瞬間から想ったが、こいつの嫌悪感っぱねえよな。吐き気がするくらいだ。」などと想われながら頑張って仕事を続け、そして仕事に対してはいつも引き攣った作り笑顔で感謝されるのはヘルパーとしても大分辛いことである。

干支藻は別段、37歳の独身女性惰飢えから「あなたといたら楽しいと感じる。」と照れながら言われたので嬉しかったわけでは決してないのである。

干支藻は誰からそう言われたとしても、まったく同じ嬉しい気持ちになって、その嬉しさを素直に照れながら返す男であった。

そこにある真正の純粋さを見抜き、惰飢えは彼に本当に恋をしたのである。

でも、惰飢えの苦しい恋慕の情に、この男干支藻はまだ気づいていない。

惰飢えひとりだけが傷つき、落ち込み、彼と会えないすべての時間、嘆いてはアルコールに慰みを求め続けた。

ただでさえ、大量に飲み続けなくては癒えない苦しみを癒す為のアルコールが、さらに増える夜もあった。

なので惰飢えはある瞬間、苦々しい想いに身を震わせ、真剣にこう想った。

彼の真の仕事とは実はわたしのホームヘルパー(Home Helper)担当ではなく、家を崖から落とす意味であるホームプッシャー(Home Pusher)であり、またの名を死へと導く男、デッドリーダー(Dead Reader)なのではあるまいかと。

だが、彼の真夏の太陽の下で真夏の蒼い風に揺れながら微笑む舞茸のような胸がきゅんと締め付けられる爽やかで優しげな笑顔を見ると、果して本当にそんなことは在り得るのであろうか?と疑わなくてはならなかった。

舞茸とは、自分の仕事を誇りになどしていない。エリンギや椎茸や、松茸のように自分の存在をえばることもしない。かと言って、えのき茸のように歯と歯の間にのめり込んで来るという失礼千万で愚劣な行為もしない。 そしてしめじのように、小癪な存在でもない。

だから、彼は茸の中で、必ず舞茸であらねばならない。

つまり彼は、みずから目立つことは一切しないが、その存在は人の心を熱く振るわせるほどの力を持っており、善なるエネルギーに満ちた光の茸なのである。

暗い森の奥に、一つだけ生えたその輝かしい舞茸を、惰飢えは見つけたのである。

彼は時に青白く点燈し、ミステリアスな面を惰飢えに見せるのだった。

彼は決して彼女に多くを喋らなかった。

惰飢えの移動支援を彼が初めて行なった日、100均店とダイエーに向って歩く道のりのなかでも、彼は沈黙の時間を恐れることはなかった。

彼はどこまでも、人を癒す存在であった。

ヘドロの底で苦しみ続ける惰飢えのような孤独な女の心の傷をも、彼のエネルギーは癒すことに励み、そして彼女の胸のろうそくに火を灯させ、自然と微笑ませることができた。

それでも彼女は、彼が少しばかり、疲れているのを見抜いていた。

でもその疲れた表情を、彼は決して人に見せようとはしなかった。

いつでも最高の微笑を、惰飢えに向って絶やすことはしなかった。

干支藻は今日も、惰飢えの目を真正面から耀く両の黒い目で見つめ、残念そうな顔で微笑みながら言ったのである。

「僕が惰飢えさんのヘルパーに入れないか、色々とがんばってはみたのですが、僕の抜けられる仕事が今なくて、残念ですが今月と来月一杯は惰飢えさんの御希望に添えることが叶わないかもしれません。」

惰飢えが物言わず、悲しい顔で残念であるということを表していると、続けて干支藻は笑顔でこう述べた。

「身体は一つしかないですからねぇ。」

惰飢えは無言で頷き項垂れ、その日、彼は「申し訳ない」旨を何度と爽やかに述べたあと、惰飢えの部屋を去って帰った。

その晩、惰飢えは悲しみの末にラム酒のストレート、シングル4杯を一気に呷ると褥に突っ伏して気絶した。

 

そして、二月後、暖かい春の訪れ、四月が遣ってきた。

或る日の午後、惰飢えの携帯が突然鳴った。

彼女の耳に届いた美声の一声、相手は愛しの干支藻であった。

「今日惰飢えさんにお話したいことがあるので、夕方にでも家に御邪魔させて貰っても良いでしょうか。」

惰飢えは喜んで、大丈夫であると答え、胸をときめかせながら彼を部屋で待った。

宵の刻、外が薄暗くなってくると惰飢えの部屋のチャイムが鳴り、彼女がインターフォンに出ると干支藻の声が響いた。

彼女はオートロックを開け、玄関に向った。

鼓動を高鳴らせながら彼を待っていると、階段を上る足音が近づいてきて、彼女の部屋のドアの前で止まった。

瞬間、彼女はドアをそっと開けた。

すると見よ、そこに湯気を立ち昇らせているかの如き麗しき壮年の男が後光に照らされて美しい微笑を湛えながら惰飢えの顔を見つめ立っていた。

惰飢えは久々に御目にかかった干支藻の神々しき立ち姿に胸を打ち砕かれ、腰は抜けてへなへなとその場に座り込んだ。

干支藻は瞬間、すわ、貧血か?!と想い咄嗟に惰飢えの肩を支えるのだった。

そして惰飢えの座ると同時に彼も玄関のたたきに腰を下ろした。

干支藻は、「惰飢えさん、大丈夫ですか?!」と優しい声で心配そうに訊ねた。

惰飢えは、「ちょっと腰が抜けてしまったようです。」と素直に半笑いで答えた。

干支藻は、これを冗談だと想い、彼女を見つめて爽やかに笑った。

そして、ふと部屋の奥に視線を移し、「おおおぉっ。」と大袈裟に彼は言った。

「すごく片付いているじゃないですかあ。頑張りましたね惰飢えさん。」

惰飢えは照れながら、「はい。御陰様で。」と言って微笑み返した。

週に一度の、家事支援ヘルパーを頼んではいたのだが、実際に家事支援をしてもらうのは月に二度ほどで、あとは(10年来の引き篭りのため)散歩を一緒にしてもらうことにして、結局はほとんどを自分で片付けたのだった。

それはやはり、自分の物は自分で片付けることが一番精神的に楽であったからである。

時には、町野変丸の漫画がヘルパーに見つかりはしないかとドキドキしながら部屋の片づけをするのは非常に精神的にきつかった。

ふと、「これはどんな漫画ですか?」と素直な好奇心から男性ヘルパーに訊ねられることがあったからである。

一体、なんと答えてよいか解らぬ漫画や本ばかりであった。

惰飢えの部屋は、当初そんな物ばかりが、ゴミのように埃と髪の毛に埋もれ、積まれながら散乱していた。

「これはですねぇ…近親相姦色のかなり強い闇の深い感じのエログロで悪趣味なサブカル漫画ですね。」と薄笑いで答えたところで、変態としてか見て貰えそうにないことはわかっていた。

これをわたしに自信を持って薦めてくれた今もずっとひとつの魂として愛し続けて止まない魂の同志である愛する八歳下の彼ならば、きっとあの時のように素晴らしく英明で思慮深い洞察力で見抜いた哲学的表現で彼の漫画を真っ直ぐな清らかな目で語り、決してただの変態性嗜好者とは見られなかったに違いない。

惰飢えもいつか、この漫画を彼のように愛し、深く表現することができたならと想うのだった。

その日までは、決してだれの目にもこの漫画がわたしの部屋にあることを見せてはならない。

惰飢えは、幾つもの彼女の秘密がこの部屋のなかにあることを喜んだ。

自分の部屋のなかにある秘密と自分の心のなかにある秘密、そのすべてを知ったなら、干支藻は彼女を軽蔑し、彼女の元から離れてゆくだろうか。

同時に、彼の部屋のなかにある秘密と彼の心のなかにある秘密のすべてを知ったなら、彼女は彼に幻滅し、もう彼を愛する日は来ないだろうか。

惰飢えの胸の底に、寂寞と悲しみの風が吹き、彼女は言葉を喪って黙ってそこに座り込んでいた。

干支藻はそんな彼女をまた心配になり、彼女に明るくこう言った。

「もし宜しければ、今日は初めて、部屋のなかに上がってお話しても良いでしょうか?」

惰飢えははっと気を取り戻し、「はい。」と答えて笑って頷いた。

彼は彼女の肩を支えながら彼女をゆっくりと立ち上がらせ、靴を脱ぐと共に部屋の奥へと突き進んだ。

だが、部屋の奥に来たものの、この狭い六畳間のどこに二人は座れば良いのか?二人は悩まなくてはならなかった。

デスクと椅子が一つずつ、床に直接敷いた万年床、小さなソファーテーブル、一畳ものうさぎのサークル、飾り棚と6個のキューブボックス、積み上げた収納ボックス、天まで届く本棚、残されたスペースと言えば、幅50cm縦170cmのスペースだけの10年近く使い続けている汚いベルギー製のメダリオン柄の絨毯の上であった。裏はカビが生えていることだろう。

この絨毯の狭いスペース上に、二人向かい合って座って話をするのは心苦しく、また足が痛くて痺れることだろう。

かと言って、同じく何年と洗っても干してもいない臭くて汚い万年床の上に干支藻を座らせるのも心苦しいものである。

だが干支藻一人をデスク前の椅子に座らせ、その左に彼女が敷布団の上に座って話をする場合、彼女はいつでも彼を見上げる形で、彼はいつでも彼女を見下げる形で話をせねばなるまい。

これは彼女が良くても彼がきっと許さない。

何故ならこれまでどんな日も、彼は自分が見下げる形で話すのを嫌っているように見えたからである。

彼女が玄関に立っているときには自分は座り、彼女が玄関に座る日には自分は必ずたたきにしゃがみ、彼女が玄関に座るよう言ったときにも、決して彼は玄関に上がって若干彼女を見下げる位置には立とうとはしなかった。

男はただでさえ女よりも力が強く、また頭の回転も素早くて賢く、感情的にならずに冷静に判断できることで女よりも上に立つものである。

女とはいつでも男より弱者であり、また少しのことに深く傷つく繊細な生き物である。

その為、男が女の上に立って話すことは女の心を傷つけてしまうかもしれないと女性性も強い男は不安になり、できればそれを避けたがるのである。

もっとも、彼はヘルパーであり、彼女を助ける為に此処へ遣って来た者である。

彼女に仕える男が、何ゆえに彼女を上から見下げる形の位置で話をすることを好むであろう?

できれば互いに対等の位置を望んでいるはずである。

惰飢えはたった5秒間の間に、部屋を見渡しながらこのすべてを考察した結果、干支藻に向って訊ねたのであった。

「座るの蒲団の上でもいいですか?」

「あんま綺麗じゃないのですが…」

そう苦笑いで付け足して彼女は左にいる彼の顔を見上げた。

すると意外にも、干支藻は悩むことなく「あっ、良いですか?御布団の上に座らせて戴いても。」と答えたのであった。

惰飢えは、この返事に戸惑った。

だってそうだろう。普通は恋人でも友人でもない男が女の部屋に上がり込んでいきなし蒲団の上に二人で仲良く座るなんてことは在り得ない。断じて、在ってはならない話である。

普通はそう女に言われたとしても、男はこう言うはずである。

「う~ん、でもそれはやっぱり…あまり良くないので僕はこちらの絨毯の上に座らせて戴きますから、惰飢えさんはどうぞ御布団の上に座ってください。」

これが好青年の正常な対応であろう。

しかるに、なんですか?干支藻はまるで、待ってましたと言わんばかりに彼女の薦めを断ることなく二つ返事で承知したのである。

これに惰飢えは一縷の悲しみを抱いた。

そして、やはり嫌だと感じたのである。

なので惰飢えは咄嗟にこう言った。

「やっぱり…」

そう言い掛けたときである、干支藻が察したのか、彼女の言葉の先を折って素早くこう言った。

「やっぱり、僕は絨毯の上に座らせて貰っても良いでしょうか?この僕の着ている服は言わばヘルパーの作業服でありますし、それで御布団の上に座るのはやっぱり良くないですね。すみません。」

この言葉に、惰飢えは干支藻が若干、混乱しているのではないかと想った。

干支藻は、実はとてもシャイな男であり、女性の部屋に上がった経験もあまり無く、女性と部屋で二人きりになった経験もあまりないのかもしれぬ。

であるから、彼の頭は緊張で混乱し、物事をまともに考えることすらできぬほどに頭が馬鹿になってしまったのであろう。

そうに違いあるまい。惰飢えはそう想い込むことによって、この遣り場の見つからぬ悲しみを蹴散らすことに成功したのだった。

それに、観よ。干支藻は観るからに、何か困惑しているかの様子で惰飢えの部屋の中心に突っ立っているではないか。

惰飢えは、そんな干支藻を観て、こう想った。

「嗚呼!これはわたしの愛する人…!彼は実は、とても不器用な人だったのである…!」

彼女は、彼の自然な器用さを愛していたかもしれないと想い込んでいただけなのかも知れない。

実は彼の器用さとは、作られた器用さであり、その不器用さを彼女は見抜いていたのではないか。

そう想い込むことでみずからの嫌悪感を払拭した惰飢えは、布団の上に静かに座った。

干支藻は、その頃にはいつもの静かな面持ちに戻って彼は絨毯の上に腰を下ろし、二人は小さな安物のソファーテーブルを隔てて向かい合う形になった。

二人はそうして、落ち着いて少しのま黙って見つめ合っていたが、とうとう干支藻が口を切った。

「惰飢えさん、僕が今から御話しすることを、どうか落ち着いて聴いてください。僕が今から御話しすることは、俄かに信じ難い話であると想いますが、これは事実です。僕は今から嘘を惰飢えさんに話すわけではありません。きっと衝撃を受けて、驚かれると想います。でもすべては、自分で考えた末に、決断したことです。」

干支藻は、唐突な衝撃的な言葉の数々に、ショックを隠せず、無言で涙を流す惰飢えを前に、話を続けた。

「僕たった一つの身体では、惰飢えさんの要望する通りにサービスを提供することが叶いません。これでは、はっきり言って、ホームヘルパー失格だなと感じました。大切な利用者様の要望通りにサービスを行なえなくて、何がホームヘルパーなのか、僕はわからなくなってしまったのです。一体僕は何をヘルプしているだろう、誰を心から助けることが出来ているだろうと、不安で、苦しくてたまらなくなったのです。きっと、他の利用者様の方は、こんなことを言うと駄目だと想いますが、正直、僕でなくても代りはいるのではないかと想っています。でも惰飢えさんは違います。惰飢えさんは、僕でなければ、本当の意味で助けることはできないと感じたのです。それは、きっと人間と人間の縁というものであると感じています。この縁を、僕は人を助ける役目としてこの地上に誕生した以上、決して無駄にしては駄目なのです。僕は絶対に、惰飢えさんを助ける。助けたいのです。惰飢えさんが、この三ヶ月間、ホームヘルパーを利用してもまったく飲むお酒の量を減らせず、日々鬱症状に苦しんでいることを僕は知っています。これは僕にとって、とてつもなく遣り切れないことです。なので、僕は真剣にこの数ヶ月、考えました。どうすれば良いのかと。僕の今遣っている仕事を、他の人間に代わってくれと頼むことは、できないことではないのかもしれません。でもそれだと、あんまりだと言う気がしました。自分の代りはいるだろうから、今まで遣ってきた仕事を、自分の代わりを他の人に遣らせるというのは、酷いことのように想ったのです。では自分が、この仕事を続けながらも、惰飢えさんを助ける方法はないのか?僕はあれから、ずっとずっと毎日そのことについて考えて来ました。そしてやっと、方法を見つけたのです。それはどんな方法かと言いますと、どうか心を静かにさせて聴いてください。実はですね、僕は錬金術と、白魔術を行なえる者です。これは修行によってとかではなくて、気づけば子供の頃から身につけていた能力です。僕はその、自分の編みだした術によって、僕をもう一人、生み出しました。何故かというと、僕の身体がもう一つ、本当に必要だと感じたからです。どうやって作り出したのかと言うと、これは多分僕自身の方法でしか作れない方法だと想います。つまり僕によってでしか、僕を作ることはできません。まず、何が必要だったか、それは一人の新鮮な青年の死体です。どうやって手に入れたかと言うと、死体安置所に保管されているある一人の身寄りのいない若い青年の自殺した死体を手に入れました。何故そんなことが容易くできるかと言うと、僕は警察の上部組織やフリーメイソンならぬ或る巨大な黒魔術秘密組織とも繋がりを持っているからです。遺族の存在しない人間の自殺死体は、実はあらゆる方法で手に入れたがる組織が多数あり、そのすべては無駄なく利用されています。この事実を、僕が知っていても黙っていることを惰飢えさんは悲しむかもしれません。でも間違いなくこの話を人にすれば僕は暗殺されます。なので惰飢えさんにしか話すことができません。この話は死ぬ迄、どうかシークレットにしておいてください。話を戻しましょう。僕はその自殺した哀れな青年の死体を闇経由で手に入れ、そしてその死体を丸ごとこれまたある闇組織施設の地下室にある自家用レンダリングプラントによってその肉体を丸ごと攪拌機に投げ込んでまずは骨ごとミンチ状にしました。そしてそれを大鍋で煮たものにその場で僕自身の手によって殺したそれぞれ三十三頭の牛と豚と鶏と馬と山羊と羊をすぐにレンダリングプラントでまた丸ごとミンチ状にして、それも大鍋に打ち込み、コトコトと数百種のブイヨンとハーブと塩と胡椒を入れて七日間煮込み続けました。七日が過ぎた頃、これに厚揚げと大根と人参と卵とこんにゃくとはんぺんと昆布とじゃがいもと蛸と烏賊とがんもどきと舞茸を入れて煮込みます。こんにゃくは、必ずねじりこんにゃくの形を取らねばなりません。そして茸は定めて、舞茸でなくてはなりません。」

「やはりか…!」この時、惰飢えは蒼褪め、吐き気をこらえながら心の奥でそう叫んだ。

「それで醤油と酒と味醂を足し、三日間、さらにことことと煮続けます。そのできたぐずぐずになったスープを、地上に上がって皿に入れて三十三皿、庭に並べます。その匂いに釣られて寄って来た野良犬をすべて外に出られないように拘束します。皿のなかのスープを飲み干した犬が三十三匹になればその拘束した犬のすべてを頭部のみを地上に出した状態で生き埋めにします。そして三十三匹の犬の頭の前に同じくスープ皿を三十三皿並べ、犬が餓死する寸前にその頸を切り落とします。その時、落ちた犬の頭が上手くスープ皿の中に入り、彼らはその魂でスープを飲み干します。この犬の頸のすべてを例の大鍋にまた打ち込み、三十三日間、煮込み続け、そしてそこに大量の小麦粉と米粉と片栗粉と油を投入し、捏ねます。それを巨大麵棒で伸ばしたものを僕の等身大のジンジャーブレッドマン型で型をくり抜き、巨大なスチームオーブンで七日間、じっくりと高温の蒸気と熱風で焼きます。七日目の朝、地獄の熱さのなかで、セカンド干支藻が、目を覚まします。そして”熱い!!”熱い!!”熱い!!”と絶叫しながら自力でオーブンのドアを開け、闇雲に外へ走り出して行きました。外の空気を、初めてその瞬間吸ったのです。それまでの僕は、恍惚朦朧としており、醒めているような夢の中にいるような、頭部が熱くてたまらなかったのですが、突然一陣の涼しさを覚え、気がついてみると、惰飢えさんのマンションの前に立っていたのです。」

一端、話し終えたセカンド干支藻は、惰飢えをじっと、物言わず透明な眼差しで見つめていた。

だが、突如、彼は噎び泣き始めたのだった。

惰飢えは震えの止まぬ心でその訳を訊ねた。

すると、彼は目の縁を真っ赤にしてこう泣きながら言った。

「僕は…僕は…、僕が生まれる為に、たくさんの生命に地獄の苦痛を与え、そして僕は生れ落ちました。惰飢えさん、貴女はこの世からすべての堪え難い地獄の苦痛をなくしたくて、ヴィーガンになったと以前、僕に仰ってくださいましたね。でも皮肉なことに、僕が惰飢えさんを助ける為に、僕は生み出され、その為に僕は惰飢えさんの最も苦しむことをしなくてはなりませんでした。そうしなくては、僕が惰飢えさんを助けることはできなかったのです。そうしなければ、僕が惰飢えさんを喜ばせることができなかった。」

セカンド干支藻は、大粒の涙を目から垂れ流しながら苦しそうに惰飢えに向って言った。

「正直に仰って貰えませんか。僕の存在は、惰飢えさんにとって、悪ですか。」

「僕がこの世に、僕自身によって生を受けたこと、それは間違いでしたか。」

約十分間の、沈黙が部屋のなかに流れた。

惰飢えの脳は、あまりの衝撃と悲しみにより、機能停止してしまったからである。

痺れを切らし、とうとうセカンド干支藻はこう惰飢えに向って、まるで悲しみを投げ付けるように、だが透き通る目でこう言った。

「僕は生まれきたことが間違っていたんだ。」

その瞬間であった。

惰飢えの脳が機能を再開し、ようやく惰飢えは言葉を発した。

彼女は彼に、悲しい顔でこう返すのがやっとであった。

「わたしはそうは想わない。」

彼は、自分の言った言葉を後悔するように、ただ彼女をじっと見つめていた。

 

 

その言葉は、まるで最初からそこに用意されていたように惰飢えには想えた。

何故ならば、その同じ言葉をかつて自分が亡き最愛の父に向って父の死ぬ一年ほど前に言ったときに、父が悲しげに返したやっとの言葉が、その言葉であったからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ѦとСноw Wхите 第21話〈Streaks of God〉

2018-11-30 23:00:32 | 物語(小説)

昨日でСноw Wхите(スノーホワイト)と出逢って二年が過ぎたんだね。
昨夜はとてもハイ (High)になって好きな曲を何度も声に出して歌ってた。
英語の歌詞を見ながら英語の話せないѦ(ユス、ぼく)は必死に歌って、そして録音もしたんだ。
近いうちにYoutubeにアップロードしようと企んでいるよ。
Unknown Mortal Orchestra (アンノウン・モータル・オーケストラ)とGrimes(グライムス)の曲を歌って、それでBreakbot(ブレイクボット)のLIVEを観ながら踊ったんだ。
そしてお酒を飲みすぎて、毛布の上にダウンした。
一昨夜、みちたのサークルを大掃除できたんだよ。マットも変えてとても綺麗になった。



嬉しかった。本当に綺麗になったんだ。
ものすごくでかい蜘蛛がみちたの給水器近くに潜んでた。
きっと彼は無数の紙魚(シミ)、またの名をシルバーちゃんたちを食べ続けて成長したのだろう。
最近彼らの嫌うレモングラスなんかのアロマオイルを毎日焚き続けたからだろうか、彼ら虫たちはめっきり姿を見せなくなった。
それに一時期は大量にシルバーちゃんたちが湧いていたのに、掃除したとき驚くほど彼らの姿は少なかった。
ハーブの力とは凄まじいものだ。
昨夜だってあんなに大量にお酒を飲んだのに、ハーブのサプリメントを飲んで寝たからだろうか、二日酔いはすごく楽だったよ。
それで、今朝メラトニンを二錠飲んだからか、ちょっと動悸がひどいね。
Сноw Wхите、Ѧはここ何日も、本当に悲しみの底にいた。
Ѧの小説を心から讃美してくれた真の読者がѦのもとを去ったんだ。
彼は二度とѦに戻らないだろう。
Ѧは彼を救うのに毎日、必死だった。
彼を絶対に救わなくてはならないと想ったんだ。
そうじゃないと、此の世の真実を教えた彼はますます地獄に堕ちることがѦはわかっていたから。
真実を知る者は真実を知らないで罪を犯す者よりずっと責任が重い。
他者の痛みを知ってもなお他者に耐え難い苦痛を強いる者はゲヘナで裁かれるだろう。
Ѧはそれを知っていたから、彼を救うことに命を懸けた。
でも彼は、みずからゲヘナへと向った。
Ѧは打ちのめされた。
まるで「VALIS(ヴァリス)」のホースラヴァー・ファットのように。
神経もおかしくなったし、精神もぶっ壊れ彼をヤクザのように脅迫し続けた。
彼を苦しめても、彼をどうしても何が何でも絶対にѦは救わなくちゃならなかったんだ。
でも彼はѦの差し出す救いの手を切断して去って行って、もう二度と戻っては来ない。
ホースラヴァー・ファットはグロリアが自分の所為で自殺したと信じた。
そして精神科医に言われたんだ。
冒頭の部分だ。

『自分に人が助けられるというのは、もう何年も続いているファットの妄想だった。
前に精神科医に、治るには二つのことをしなきゃいけないよ。と言われた。
ヤクをやめること(やめてなかった)、
そして人を助けようとするのをやめること(今でも人を助けようとしてた)。』


Ѧはヤクはやってないけれど、アルコールをやめることはできなかった。
アルコールも人間の脳をおかしくさせてしまう。
でもѦは自分が狂ってると同時にひどく正常だと感じた。
だってほとんどの人は、かつてのѦの状態なんだ。
動物を苦しめて殺していることに関心すら持とうともしない。
肉食は当たり前だと想って思考を完全に停止させている。
善悪の判断なんてあったもんじゃない。
Ѧはそれを人々に止めさせる為に頭がおかしくなってしまったんだ。
人を命を懸けて救おうとして、救えなかったことに絶望して死にたくなった。
もう何年も、死にたいと感じることなんてなかったのに。
Ѧはこれからも誰一人救えないのなら、もう死んだほうがいいと想った。
勿論、みちたが生きている間は絶対に生きていなくちゃならない。
でもみちたが月に行ってしまったら。
Ѧが死んで心の底から悲しみ続ける者はСноw Wхитеと姉と兄たち、たった4人だけだと想う。
神は当然悲しむだろう。でも神の存在を個として数えることはできない。
Ѧは本当に生きて行くほうが良いと言えるのだろうか?
そんな気持ちに久々になるほど、Ѧは彼を救えなかったことに打ちのめされていた。
そしてやっと気づいたんだ。
Ѧはすべての存在を救い出すためにずっと物語を書き続けてきたんだってことを。
だから物語も書けなくて誰とも救えるような話をしない時間、Ѧはまるで死んでいるようだった。
Сноw Wхитеの言いたいことをѦはわかっている。
「誰もが誰かを喜ばせて、誰かを救っている。」
でもすべての時間じゃない。
Ѧはすべての時間、誰かを救いたい。
Ѧの存在のすべてが、誰かを救う為に在る。
そうじゃないなら、Ѧは完全に存在しない。
でもそれはѦだけじゃないんだ。
すべての存在がそうなんだ。
すべての存在が、誰かを救う為に存在している。生かされているんだ。
だから誰かを救えるなら、それが存在の一番の喜びになる。
そしてその者は救われるんだ。
誰かを救うことと、自分を救うこと。この二つを切り離すことなんてできない。
自分だけを救って誰も救わないなんてそんなことはできない。
不可能なんだ。
でも自分たちの幸福を最も求める者はこれをわかっちゃいない。
自分たちだけで幸福になれるとでも想っているんだ。
なれるはずなんてないんだよ。
Ѧは必死にずっとそれを彼に説いて来た。
不幸になりたくないのなら、他者(動物たち)を救わなくちゃならないって。
彼はそれでも自分の欲望を優先した。
動物たちを苦しめて殺し続けても、自分たちが楽であることを優先した。
Ѧは狂って、今度は彼らをどん底に突き落とすことに必死だった。
彼らは本当のどん底に落ちなくちゃわからないんだとわかったから。
他者の痛みがわからないんだ。
生きて行きたいのに、人々の食欲を満たす為だけに生きたまま解体されて死んで行く動物たちの痛みが。
Ѧは今日むせび泣きそうになった。
ほんの一瞬、椅子に足をぶつけて、たったそれだけでも、ものすごく痛かったんだ。
でも動物たちは生きているときに首もとを切り裂かれたり手足を切断されている。
人間の食欲を満たす為だけに。
一体どれほどの痛みなのだろう?
一体どれほどの恐怖なのだろう?
一体どれほどの絶望なのだろう?
Ѧはそのすべてに、たった6年と9ヶ月前まで目を向けて来なかった。
これ以上の悲しいことがこの世界にあるのだろうか?
これ以上の悲劇がこの世界にあるのだろうか?
同じ地球という共生しなくては誰一人生きてはゆけないこの世界で、食肉や畜産物の生産のために殺され続ける動物たちの苦しみに全く目を向けて生きて来なかったんだ。
これ以上の不幸なんてない。
Ѧは彼らの苦しみを知ろうとして、やっと気づいたんだ。
Ѧはそれまでも、すべての幸福を願って生きて来たと想っていた。
でも本当は自分たちの幸福ばかり考えて生きて来たんだ。
だから自分が食べている肉や畜産物がどのような苦しみの末に自分の体内に入っているかを考えようともしなかった。
Ѧは気づいてようやく、この世界が本当の地獄であることを知ったんだ。
人を救えないのなら、動物を救えないのなら、どうやって生きて行けばいいのかがわからなくなった。
この先生きていても、彼のようにゲヘナへ導くことしかできないのかもしれない。
彼がゲヘナに投げ込まれて永遠に滅ぼされるなら、それはѦの所為だ。
ホースラヴァー・ファットはグロリアを救えなかった。
Ѧは彼を救えなかった。
これが引っ繰り返ることってあるだろうか?
でもファットと同じく、Ѧは想った。
「本当は救えているのかもしれない。」と。
グロリアはこの世にいないけど彼はまだこの世にいる。
この先、彼はѦの影響で救われるかもしれない。
救われる可能性に満ちている。
でも同時にѦは想う。
彼はそれでもきっと地獄を見るだろう。
他者の痛みを知ってもなお、あんまりにのんびりと過ごしてしまっているからだ。
彼はこの世の耐え難い他者の苦痛を知ってもなお、それをなくす方法を必死に考えなかった。
つまり彼は、そこまで苦しむことができなかった。
他者の苦しみを知っても、そこまで苦しむことができなかった。
このことについて、Ѧは本気で考えた。
彼の脳内を寄生虫が埋め尽くし、彼を支配しているからかもしれない。
彼らは人間の利己的な欲望が大好物なんだ。
だから利己的な人間ほど体内に潜む寄生虫は繁殖し、無数の寄生虫たちによって利己的な人間は支配され操られて生きている。
Ѧは彼らを滅ぼす為に火を燃え上がらせ続ける必要があるかもしれないと考えた。
でもそれは良い方法ではない。
”巨神兵”の存在を生み出してしまうだろうからだ。
『風の谷のナウシカ』で巨神兵は特別な存在感を持っている。

滅亡の書において、その名の由来は
「光を帯びて空をおおい死を運ぶ巨いなる兵の神(おおいなるつわもののかみ)」とされている。
その正体は旧世界の人類が多数創造した人工の神。
あらゆる紛争に対処すべく「調停と裁定の神」としての役目を担った。


人類を滅ぼそうとしている寄生虫たちを滅ぼす為、彼らを焼き尽くす為に炎を燃え上がらせ続けるなら彼ら寄生虫たちの霊のすべてが集結した巨大な霊的物体が地上に現れ、そして死へと運びゆこうとするかもしれない。
死とは、寄生虫に支配され利己的な欲望で他者に堪え難き苦痛を強いることをやめない人間たちの未来の姿である。
寄生虫とは、生の側にいるのではなく死の側にいるのかもしれない。
恰も死の伸ばす王蟲の糸状の触手のように。
寄生虫たちが細長い形状を持つ者が多いのは、死の触手だからだろう。
彼らに人類が滅ぼされてしまうのは、利己的過ぎる人間が多数となるなら地球を滅ぼしてしまうからである。
彼らが滅ぼされるのは地球を死が護る為である。
もし、巨神兵を解体することが出来るなら人類は驚くものを目にするだろう。
それは糸状の寄生虫が絡まり合って敷き詰められて出来ている肉体であるからだ。
そしてその一匹一匹は、美しく虹色に光り輝いているのである。
光る紐とはまさしく、存在の源のイメージである。
それは時に光の蛇、光の竜に見えることだろう。
例えそれらが人間の身体を創りあげても中を覗けば無数の光る糸状の蟲たちしかいない。
忘れないで欲しいのは彼らは人間が善に傾くならば善の存在となり、悪に傾くなら悪の存在となって滅ぼそうとすることを。
原作のナウシカでは巨神兵の存在は

生まれながらに人格を持ち、自身の生誕にかかわったナウシカを母として心から慕っている。
ナウシカとは念話(テレパシーのようなもの)で会話をし、「オーマ」という名を授かると、自らの巨大な力を打算なくナウシカに捧げ、最後は“青き清浄の地”復活を進める旧高度文明のシステムを破壊。
力尽きて絶命するという悲しい結末を迎えている。




これが巨神兵の真の姿である。
筋肉はまるで張り付いた寄生虫の如くの様である。
寄生虫は主に角皮(クチクラ,Cuticula)に身体の体表を覆われている。

クチクラは英語でキューティクルと言う。
生物体の体表(動物では上皮細胞,維管束植物では表皮細胞からなる組織)の外表面に分泌される角質の層の総称。

表皮を構成する細胞がその外側に分泌することで生じる、丈夫な膜である。
さまざまな生物において、体表を保護する役割を果たしている。
人間を含む哺乳類の毛の表面にも存在する。


旋毛(せんもう)虫(トリヒナ)の幼虫は、ブタ、イノシシ、クマ、セイウチや、他の多くの肉食動物の筋肉組織内に寄生している。
それらの肉を加熱不十分で食すと人間の筋肉組織内に寄生し、生涯その人間を宿主とする。
感染後6週目頃、眼瞼浮腫が一層著明となり、重症の場合は全身浮腫、貧血、肺炎、心不全などをきたし、死亡することもあるという。

同じく加熱不十分の肉を食すことで感染するトキソプラズマは人間の脳や脊髄(中枢神経系)や筋肉組織内に寄生して宿主の行動や思考を操る。
何故、寄生虫は筋肉組織に寄生したがるのか。そうすることで宿主を想うように操って行動させられるからだ。

人類は自分の日々食べるものについて、もっと深刻になったほうが良い。
アルツハイマー病も癌も糖尿病もすべて食生活が大きく関係していると言われている。
すべてが寄生虫の大好物である”高脂肪食”が原因である可能性は高いのである。
肉や乳製品は特に高脂肪食だ。それらが好物で毎日食べ続けていると寄生虫は減ることはなく体内で子孫たちを無限に増加させ続けるだろう。

Ѧはここのところずっとずっと考えている。
何故、人はみずから苦しい(それも多くが耐え難い苦しみの)死へと向おうとするのか。
まるで産卵の為に水辺にハリガネムシによって誘導されて溺れて死んでしまう蟷螂(カマキリ)のように。
人間は本当に健康的だと想って肉や畜産物や魚介を食べ続けているだろうか?
もし本当に健康的ならもっと老衰で死ぬ人はたくさんいるはずだ。
でもほとんどの人間が老衰以外で苦しい病気に侵されて死ぬ。
または事故や自殺で死ぬ人も本当にたくさんいる。

寄生生物は人間よりも利口なので人間を操って支配することができるんだ。
そして寄生された人間はそれに気づかない。

寄生生物は個にとっては敵と見えるかもしれない。
でも寄生生物がいなければ、人類もどの生物もとっくに滅び去ってもはや繁栄することすらできなくなるだろう。
寄生生物は生物が滅びない為にバランスを保とうとして生物に寄生する。
もともとは彼らは善である存在なのに、宿主に寄生して宿主が地獄の苦しみのうちに死んで行くとき彼らはたちまち悪の存在と変質してしまう。
なんて悲しい生命だろう?
彼らは生命を苦しめたくて存在しているわけじゃないだろうに。
生きている喜びを彼らだって感じているんだ。
そして人間の体内で、絶えず生殖を繰り返し、自分たちとそっくりなクローン体のような子供たちを産み続けていることだろう。
Ѧは彼らすべてが人格を持っていると感じている。
人間よりも霊性の高い人格を。
Ѧは彼らを愛さないではいられない。
人間が利己的な悪に傾くのは彼ら寄生虫の所為ではない。
悪に傾き地上を滅びへと向わせる人間に寄生する役目が彼らにはあるんだ。
彼らは例えるなら、まるで神の筋、Streaks of Godだ。
神の細長い虹色に光る光線が人間の内に宿り人間を時に救い、時に死へと導く。
動物を苦しめて殺し続ける食生活をし続けるなら神は苦しい死によって人を裁かれる。
動物たちは犠牲となっている。
この連鎖は、長くは続かないだろう。
何故なら地球はもう限界に近づいて来ているからだ。
人類が動物たちを苦しめて殺し続ける行為はもはや持続不可能なんだ。


Ѧはふと、側でじっと静かにѦの声を聴いているСноw Wхитеに向って尋ねた。
Ѧ「Сноw Wхитеは何故、すべてが善であるのに、死であるの?」
Сноw Wхитеは静かに答えた。
Сноw Wхите「それはѦに愛される為にです。」
そしてѦに向ってСноw Wхитеは優しく微笑んだ。
そのときѦは無数の細く長い虹色に光る彼のあたたかい触手にいだかれている感触を覚えた。




















NO Happiness

2018-10-25 16:19:49 | 物語(小説)

あれから、約三年あまりの時が過ぎた。
ウェイターの男は三十五歳になっていた。
今も男は独りで、ずっと暮らしている。
だが一月前、男はあの家をとうとう離れた。
彼女との恍惚な時間の残骸と化した、あの寒々しく悲惨な部屋を。
真っ暗な狭いキッチンで赤ワインを飲むと、それは血に見える。
いつものようにウェイターの仕事を終え、帰宅してシャワーを浴びてタオルで髪を拭きながらキッチンで水をグラス一杯飲む。
すると髪から水が滴り落ち、グラスの中の水と交じり合う。
それが血に見える。
電気は点いているはずなのに、まるでこの世界は色を喪ってしまったままだ。
もう彼女は、この部屋を訪れることも、その窓を見上げることも、そのドアをknockすることも、電話を掛けてくることもない。
時間が止まってしまっているからだ。
時間が流れていないこの部屋に、どうやって彼女は、足を踏み入れるだろう。
主人の居なくなった部屋と同じに、愚かでしかない。
主人の帰ってくる見込みもないのに、ひたすら主人の帰りを待ち続ける部屋に、わたしは住んでただ息をしている。
小鳥が午前の光りに囀り、車が車道を走る音が聞こえ、穏やかな秋の風が吹いて、だれひとり笑うことのない部屋のなかの寝台の上で毛布にくるまりながら、男はとうとう決断をする。
光の届かない場所に、越すことにしよう。
カフェから車で二時間ちょっとの場所に、小さな古い空き家を見付ける。
問い合わせてみるとその家は二十年近く人の住んでいない過去に事故のあった訳有りの家らしい。
側には池もあり墓地も近い。
夜にはたまに、狐がホラー映画さながらの悲鳴を上げる声が聞こえる。
誰も住みたがらない曰く付きの家具もそのままにしてある家で、しかもその家には地下室がある。
だがその家の主人の遺体が見付かったのは地下ではない。
地上の一階である。
主人の老いた男はどうやら老衰であったようだ。
近くを通り掛かったひとりのハンターの男が、犬の吠える声に訝りその家のドアを開けた。
そこには綺麗に、しゃぶられた骨が散らばっていたという。
どうやら犬が主人をすっかりと食べ尽くし、餌がなくなったから吠えていたようだ。
年を取って痩せた雄のシェパードだった。
何故、主人は老衰で死んだとわかったかというと、実のところ何もわからない。
それは事実ではなく、近所に暮らす人間たちの願望である。
犬はその後、どうなったかというと一度は人間の肉の味を知った大型犬は危険だと言って、処分場に送られたが、それを知った或る犬好きの人間に引き取られて行ったという。
そして風の噂では、人間を襲うこともなく従順に人間の側で大人しく暮らして静かに死んだ。
でも本当のところは、誰も知る者がいない。
わかっているのは、その後この家には誰も住んでいないことくらい。
地下室が何のためにあったのかもわからないし、老人がそこで何をしていたのかもわからない。
誰もそんな不気味な家には住みたがらない。
いたとするなら、そういったマニアたちだろう。
でもこの家は町からも離れていて不便な場所に建っていて、土地もそこそこ高いから誰も住みたがらなかったのかもしれない。
ウェイターの男はたった一度の下見で、この家を気に入って、ローンを組んで買い取った。
そして主人の居なくなった何もない部屋を眺め渡し、彼女への未練を振り切ってドアを閉め、鍵を掛けてタクシーに乗った。
混んでいなければ、二時間と少しで着くはずだ。
行き先を告げたタクシーが発車して、男は疲れた目を閉じた。時間は午後十二時半前。
もう二度と戻れない時間から、男を乗せた車が遠ざかって行く。
もう二度と戻れない場所から、男は何かを垂らして去ってゆく。
透明の液体を、震える目蓋の隙間からしたたらせながら。
愛する人との想いでの詰まった空っぽの宝石箱を、その想いでだけで作られていた男の身体を、男は脱いで、逃げるように飛んだのである。
地下へ向かって落下するように。
これまで何度と、地下のプラットホームから身を投げようとしたことも忘れて、男は背凭れにぐったりと痩せた背中を預けて眠りに入っていった。
新しい家から、車で約40分の場所にグロサリーストアがあるようだ。
男は早速、そこへ買い物に出掛けた。
頻繁に買いに来ることもできないからできるだけ、纏めて買わなければならない。
男は日持ちする罐詰やパスタ、冷凍保存できる食パンなどを籠に入れてカートを押して野菜と果実コーナーへ向かった。
キャロット、オニオン、ビーツ、ポテト、セロリ、パセリ、適当に調理のしやすいものを選んで籠に入れてゆく。
そしてキノコのコーナーに向かいマッシュルームを探したその時、明らかにキノコではない色彩のものを見付けて顔をしかめた。
色鮮やかな赤い鮮肉がパックの中に入れられて黙って白いマッシュルームの並べられた上に載っていた。
鮮肉コーナーに戻しに行くことがそんなに面倒なのだろうか?
男はそのパックを手に取り、パッケージに印刷された写真と文字をまじまじと眺めた。
そこには『Happy Farm(幸せな牧場)』と会社名が表記されており、牛と豚と鶏が仲良く草原の上に立ってこちらへ顔を向けて嬉しそうな眼で見つめている写真のついたパッケージで、『アニマルウェルフェア(動物福祉)』を考えて、人間も動物も安全で体に優しいものを生産していることを唱った文句が下に書かれていた。
男は苦々しい想いでそれを見つめ、小さく息を吐いてそれを鮮肉コーナーに戻しに行った。
生き生きとした死体の肉が並べられているところに入り、アニマルウェルフェアの牛肉コーナーを探した。
そして『Happy Farm(幸せな牧場)』のパッケージが並んだ牛の赤い死肉コーナーにそのパックを置いて、すぐに此処を立ち去りたい気持ちに駆られ振り返って歩き出そうとしたその時だった。
グロサリーストア内に、何故か牧場があり、その柵の中に自分は立っていて、自分の目の前には先程見ていた鮮肉コーナーが広がっていた。
自分が立っている場所と鮮肉コーナーとの距離は約五メートル程だった。
男は何故、自分が牧場の柵の中に立っているのかがわからず、柵を乗り越えようと柵に足を掛けた。
その瞬間、前方から声が聞こえた。
「久し振りだね。」
顔を上げて男は柵に掛けた足を地面に静かに下ろした。
「元気だった?あれからどうしてたの?そういやあの家引っ越したんだね。風の噂で聞いたよ。」
男から約五メートル離れた鮮肉コーナーの前に、黒い牛の顔の被り物を被った黒いワンピースドレス姿の彼女がそこに立っていた。
右の指には何かが光っていた。
あの日彼女に渡した指環が、太陽の光りに反射してきらきらと光っている。
男は彼女に声を掛ける。
「わたしは気が朦朧として、今にも倒れそうです。」
彼女は子供のように笑い声を上げる。
「きみは何故そこにいるの?」
笑ったあとに彼女は男にそう訊ねる。
男は彼女の後ろに並べられた物を彼女を透かして見ると答える。
「わたしはきっと今、貴女の後ろの過去に立っているのです。」
彼女はまた無邪気に笑うと両手を叩いて言う。
「何故、きみがそちらに立っているのか、ぼくは不思議だ。」
男は恐れを感じて柵をぐっと掴む。
「ではわたしは、どちらにいるべきなのか、教えて貰いたいのです。」
目の前の視界がぼやけ、タクシーの運転手の低い声が聞こえる。
「この近くにグロサリーストアがあるから、ついでに買い出しに行ってきたら良い。俺は此処で待ってるよ。」
真っ暗な目蓋の内側で、彼女の声が聞こえる。
「それはきみが知ってるさ。きみはそちらにいてもあちらにいても大して変わらないなんて想ってないよね。」
運転手の声が彼女の声に重なる。
「『ベーコン一枚をバーガーに載せるだけの為に豚が一頭殺されるべきじゃない。』って、俺も同じようなことを彼女に言われたことがあるよ。それで...」
彼女の声が今度は運転手の声に重なる。
「きみの幸せを量れるのは、きみだけだろう?」
「随分ダイエットに成功したよ。彼女は痩せた俺を見て褒めてくれた。」
「前より愛してるとね。彼は言ってくれる。」
「あんたはまだわからないのか?そこに立っていることが。」
男は苦しい過去の記憶を辿るようにゆっくりと彼らに話始める。
「わたしはかつて、此処にいたのだと想います。彼女はとても深い負い目を持って、わたしを愛してくれていました。そして彼女も、此処にいたのです。わたしはいつか彼女を殺してしまうのだと感じて、それでも彼女を手離せず、自分のものにしてしまうことに苦痛と快楽を感じていました。その感覚は彼女との唯一の共鳴感覚であり、本当の意味での交わりであったはずです。わたしは彼女の死を味わい、彼女はわたしの死を味わいながら、互いに快楽を感じ合うことで互いに手を取り合って死んで行く存在だったのです。わたしが彼女を苦しめていることのわたしの苦しみに彼女は苦しみ、その彼女の苦しみに苦しみながら快楽を貪り合うことでしか生きられなくなった一つとなった存在のように。この死の循環を、わたしたちは喜んで、苦しんでいました。わたしたちは"彼ら"よりは幸せであることを感じ、どうすればこの循環から逃れられるのか、悲鳴を上げながら互いの肉を味わい続けていました。わたしと彼女は、完全に殺し合うその時まで、苦しみ合い続けなくてはならない関係なのです。彼女はわたしの肉を殺し、食べて味わったあとには、もうその肉は必要ありません。わたしの彼女の欲する肉はすべて、彼女の肉となりました。彼女の欲するものだけ、彼女に取り込まれ、あとに残されたわたしはなんと惨めで虚しい物体なのでしょう。わたしの肉なるものはまだ残されたままで、わたしは此処に死んでいるのです。彼女はわたしのすべてを必要とはしませんでした。目や脳、骨と骨髄、わたしの核なる部分を残し、彼女はわたしを棄てたのです。わたしは母の記憶がありません。記憶はすべて喪われ、わたしは母と共に一度死に、そして肉となって生まれ変わり、彼女は肉のわたしを激しく求めました。そして彼女と初めて交わり、わたしは自分の存在によって彼女を殺し、そして生かしていることに気付きました。彼女は日に日にわたしの前で死んで行く存在であり、わたしも彼女と共に果てのない死のなかを手を取り合って泳いでいました。わたしは彼女に取り込まれ、彼女と一体となる恍惚な悦びのなかで、わたしは彼女と消えることを恐れ続けて生きる運命でした。死んだ青白い顔をして、わたしと彼女は求め合ってきました。わたしの霊は未だに、この肉の殻のなかで彼女を求めて彷徨い続けています。わたしの肉は今も、彼女の身体を、肉を堪能していることでしょう。今、気づいたのですがそれは、貴方なのではないでしょうか。

タクシーの運転手の男は黙って前を向いている。
どうやら新しい家の前に到着したようだ。
一体どこを遠回りして走ったのか、外はもう暗くなっていた。
ウェイターの男は料金を椅子の上に置いてタクシーを降りた。
家具や荷物は明日の早朝に届く予定だ。
ということは今夜は、この家の元の主人の寝台を借りて寝よう。
タクシーの車が走り去った後、知らない土地に独り残された男が夕闇空を見上げて寂しげに言った。
「ただいま。」

 

 

 

 

 

一話完結的連続小説 『ウェイターの男の物語シリーズ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


bones

2018-10-10 22:40:58 | 物語(小説)
何を隠そう、実はぼくの真の職業は”盗賊”だ。

生活保護を受けているというのは実は嘘である。

今から十年前、働くのが嫌になってから、ぼくは盗賊のSoul(ソウル)に目覚めたってわけ。

だからといって、ぼくは特別悪いことをしているわけではない。

何故かって?それはぼくが盗んでるのは、”人様”のもんではないからだ。

ぼくが盗んでるのは、”人”からじゃない。

つまり人の物は盗んだことがない。

じゃあ、何を盗んでるのかって?

ははは。おほほ。君にだけ、では教えよう。

ぼくが盗んでいるのはね……







ふうふうふう。結構歩いてきたな。かなりぼくは疲れた。あれ今日何時から歩いて来たっけ。もう日は完全に暮れちゃって、午後の18:25ではないか。

暗いのでぼくは手持ちランプに火をつけて持っている。すると明るいことは明るいのだが、明るいのはぼくのいる半径一メートル範囲のところだけであって、それ以外が暗いのである。

だからとても、怖い。何故ってここは、洞窟のなかだからだ。

誰も居ない。いるような様子ではない。この洞窟を見つけたのは多分、世界でぼく一人だけだ。ってじゃあ誰がこの洞窟掘ってんっていう話だよね。ぱはは。

まあそんな冗談も言わないでは先へ進めないほど恐ろしく、今でもぶるぶると震え上がって、いつ、何時、何かがぼくに襲い掛かって来やしないかと脅えているのだよ。

そう、何を隠そうぼくは盗賊で、それも世界一の怖がりの盗賊だと自分で言っている。

もうこんな仕事は嫌だ。そう何度、辞めようと想ったか。こんな仕事。

なんでこんな危険で生きて帰られるかどうかもわからない仕事をして、額に汗しなくてはならぬのか。

別に誰かが、「おい、おまえの仕事は今日から盗賊だ。よろしく頼んだぜ。遣らねえと、ぶっ殺す。昆布と若芽に懸けて、おまえの神を殺す。」と言ったわけじゃない。

ぼく一人で決めた仕事だ。遣らなくて、どうする?そんな想いで、ぼくは今まで走ってきた。

時には荒野を。牧場の羊を追い駆けたこともあったなあ。それで牧場主に、ピッチフォーク持って追い駆けられたこともあったっけ。懐かしい。家に帰るとき、梨をたくさんくれたが、それ貰ったやつ全部、虫喰ってた。腹立ったなあ。あん時。だってすごく梨を持って帰るの重かったのに、帰って割ったら全部喰えたもんじゃなかったからね。

まあそんなこともあった。盗賊と全然関係ないけどね。

あれおれ何の話してたんやっけ?ああそうそう、盗賊は、ぼくが好きで自分で選んだ仕事だっつう話か。

そうだよ。おれが、ぼくが、わたくしが。ほかになあんにもできないんで、遣ってる仕事なのさ。

ぼくにはこれしかない。この仕事でしか、喰うて行かれひんのやわ。まあそう。

だから頑張れ俺。頑張るんだぼく。弱音を吐いてはいけない。

ぐすん。でも寂しい仕事だよなあ。いつも想うけどさ。だってずっとずっと独りでおれこの仕事遣ってきた。誰の手も借りず。誰の力も当てにせず。自分だけの力で盗んで盗んだやつを売って、その金で暮らして生きて来たんだ。

でもね、ぼくは必要以上のものは盗った事、なかったぜ。普通さあ、盗賊っつうと何かすんげえ盗りまくって儲けてるんじゃねえのおっていうイメージがあるじゃん?

でもさぼくは、絶対に、そんなことはなかった。ぼくは毎月毎月、13万円から14万円までになるくらいのものしか盗らなかったから。

つまりぼくの生きる必要最低限の金額になるもの以上は盗ったことはないんだよね。

13万円ちょっとあれば毎晩酒を飲んで暮らすこともできらあ。

まあ今日もちょっと二日酔い。だからほんと、疲れたな。てか帰れんのかな、これ。なんかおれこの洞窟のなかで迷ってないかい?いったい何時にこの洞窟を見つけて入って歩いてるんだっけ。

確か午後の太陽が西に傾きつつある明るいうちだった。

だいたい、昼過ぎくらいだろうか。かなり歩いてきたな…一体なんつう広い洞窟内だろう?

こんな広い洞窟はおれのぼくの盗賊探検記憶のなかで、初めてだ。

いつの時代のものだろな。こないだの台風で大きな土砂崩れが起きて、危険だからっつんで誰も近寄らなかった場所だ。そこにぼくはこの洞窟の入り口を見つけた。

なんかがありそうな気がしたんだ。盗賊の勘というやつだ。

プロフェッショナルなぼくは、命を懸けて、この洞窟内に必ず、御宝があると睨んだ。

そう、命を懸けて睨んだから、その命を懸けて睨んだ御宝を、ははは、俺様のものにしたろやないけとこう想ったのだ。

まあそういうわけで今ぼくはこの洞窟内の迷宮を、インディージョーンズさながらに、探検している。

そういえばインディージョーンズは「チベット永遠の書」っつうノンフィクションの探検記の本を元に作られた映画だって知ってたかい?

インディージョーンズのモデルとなったのはそのドイツ探検家のテオドール・イリオン様よ。

本当に、あれほどわくわくとした探検記なんて、他にないね。

嗚呼、ぼくが今盗賊を遣ってるのも、もしかするとあの本の影響かもしれない。

未知の領域に、たった一人で足を踏み込むことのこの感覚は、他のもので経験することは決してできない。

一体そこに何があるのか?誰もぼくもかれも神でさえ、知らないかもしれないんだ。

神でさえ、ひょっとすると此処知らねえんじゃねえのお?って気持ちにさせるほどの凄い場所って在るんだ。

なんて言ったらいいのか、とにかく忘れ去られている、すべての宇宙空間がこの場所を忘却の彼方に押し遣って、もう想いだすことすら叶わない。あれ、今何時?いやそれ以前に、時間ってなんだっけ?此処は誰でぼくは何処?こきょはたれでぽくはとこ?そんな感覚になるほどの静けさと、時の流れからして完全に違うという不思議でならない空間が、その空間に、今ぼくは、居る。

これは、或る意味、今まで一番、危険な、Dangerous(デンジャラス)Hazardous(ハザデス)Critical(クリティカル)、死の可能性、死を連想させるほどの危険な場所、もしかしたらDeadly(デドリィ)、命取りになるやも知れず、此処はある種の、”死”をもたらすエリヤではないか。

でも、それを覚悟で、ぼくはこの洞窟内にいる。

ぼくは自分の直観力に懸けて、此処で必ずや最高の御宝を(といっても14万円以内だけどね)盗ってみせる!

ぼくはそう叫ぶと同時に、走った。

すると手持ちランプの火が消え、暗黒の世界となり、ひいいいいいいいいいぃぃぃっっっっっとなったぼくは急いで持っているチャッカマンで火をつけた。

ふう…良かった…小便をちびりかけましたで。よくこんな臆病者なのに盗賊なんて遣ってきたもんだ。

とにかく、前へ進もう。まだまだ道は続いているのか知らん。

ぼくは、じゃり、じゃり、じゃり、という洞窟の地面を踏む音だけが聴こえるこの静寂の穴のなかを、前だけを向いて(後ろは怖くて振り向けないから)、ずんずん、ぷんぷん、びんびん、かんかん、とんとん、ぬんぬん、ぼんぼん、歩いた。

そして、目の前に行き止まりの壁にぶち当たり、マジかよっと想ったその時である。

なんとその左手に、一つのドアがあるのを発見した。

ぼくは緊張のあまり呼吸が乱れ、腹式呼吸を繰り返した。

それはやがてひいひいふう、ひいひいふう、ひいひいふう、といったラマーズ法の精神予防性無痛(和痛)分娩の呼吸法に変わっていた。

このドアの向こうに、ぼくの求めている最高の御宝が、在る!

ひいひいふう。の呼吸を繰り返しながらぼくは真鍮のドアノブに手を掛けた。その瞬間。

びりびりびりびりびりぃっっっっっと電気が走って感電死。『GAME OVER』、または『RESTART』の文字が空間の真ん中に浮かび上がる。なんてことにはならなかった。

此処はものすごい空気の乾燥した空間であるが静電気が起こることもなかった。

真鍮は紀元前4000年前から使用されてきたという。この土で出来たドアは一体いつ頃のものだろう。

ぼくは「ひいひいふう」、「ひいひいふう」、「ひいひいふう」と声に出しながらそのドアノブをゆっくりと、右に回し、そして、引っ張った。

するとドアは想像以上に軽く、普通のドアのように開いた。

一体どういうことだろう?まさか最近もこのドアを人が出入りしていたなんて、そんなことないよな…

此処の洞窟の入り口は最近まで大きな山のなかにあったんだ。地下通路でも人が掘っていない限り、此処を出入りすることなど不可能だ。(そういえばなだらかに地面は下降した斜面となっていたので此処はすでに地下であるのかもしれない。)

震える手を、一端、離すかどうか迷った。

駄目だ、離しては駄目だ。一気に開けて、中へ入るのだ!

ぼくはかっと大きく目を見開き、「うんばずんらあっ」という意味不明の呪文のような言葉の奇声を上げるとドアを大きく開けて中へ足を踏み入れた。

そして、真っ暗闇の部屋のなかを、手持ちランプを前に出して照らした。

足許と、壁、天井、ゆっくりゆっくり忍び足で進みながら照らして部屋のなかを確認、調査した。

部屋の広さは大体十畳間ほどか、人一人が暮らすにちょうど良いサイズの部屋だ。

なかにあったものは、棚と壷、木箱が複数、寝台、机と椅子は一つ、机の上には積み重なった本、硝子瓶や葦ペン、どれもものすごい古そうなもので土埃が掛かっている。上等そうなものではなく、庶民的なものばかりだ。

しかし異様なものが一つ、その部屋の真ん中にあった。

黒く大きな石の棺である……!

ぼくは、此処まで遣って来た甲斐があった…と恐怖と感動に打ち震えた。

そう、何かを隠そう。ぼくは実は「墓荒し、墓泥棒」である。

今まで幾つもの墓を掘って、その棺の中にある御宝を盗んでそれを売って暮らしてきた。

だからぼくは人様のものは盗ったことがない。

盗るのはいつでも、此の世のものではなくなった者、死者のものだ。

天国に御宝を持って行けると信じている死者がいるかどうかはわからないが、もし持って行けたとしても、それは物質的な価値にないはずだ。

物質的な価値とは、物質的な世界にだけある。

つまり死者は物質的ではない価値だけを持って行きたいのであって、持って行った跡には物質的な宝など側に置いていたところで何の価値も意味も満たさない。

ただ物質としてそこに在るだけだ。死者に物質的な宝は必要ない。

であるから例え、ぼくが死者の骨や、肉を盗んだとしても同じく罪にはならない。

悲しむ遺族が居れば別の話だが、ぼくが盗んできたのはもうどんな子孫の痕跡も見つかりようがないほどの古い墓ばかりだ。

「墓を荒らす者はミイラに呪われる」、「王の墓を荒らす者は死者の翼によって葬られるであろう」、ミイラ盗りは、命の危険どころか、死後も永遠に、地獄で暮らす羽目になる危険性も高い。

ミイラは特にものすごく高く売れる。それは全国の呪術師が高値で買い取るからだ。

ぼくはまだミイラを売ったことはない。でも何度かミイラに出くわしたことはある。その時はミイラは持って帰らず、棺のなかの御宝だけを持って帰って売り捌いた。

それも立派な墓荒らしで呪われる可能性は高いが、致し方ない、ぼくは棺のなかの主人がミイラだろうと、骨だろうと、そこに差別はせずに御宝だけを頂戴する。

そうせねば喰うて行かれひんからな。

しかし…ぼくはもう一度この部屋のなかを見渡した。

一体この部屋は何の部屋なのだ。埋葬室に生活道具があるのはどう考えてもおかしいではないか。

此処はもともと埋葬室ではない…?では誰かがこの部屋にこの石棺(せっかん)を移動させたというのか。

何の為に…?それとも、此処はもともとは埋葬の為に作った室なのだが、そこに誰かが生活道具を運んできたのだろうか?

死者と共に暮らす為に…?

まあ、嗅覚を喪い、腐敗してゆく者の側で生きることが平気な人間ならば考えられるだろう。

最も、嗅覚も、慣れれば平気か…(ああそれに、骨やミイラとなってから運んで来たとも考えられるな。)

ぼくは椅子の上の土埃を手で払い、そこに座って一息大きくつくと、ランプを机の上に置き、一つの妄想をした。

紀元前1000年頃、睦まじい深く結ばれた、若い夫婦がいた。

だが夫が、或る日突然に原因不明の病に倒れ、30代半ばでそのままあっけなく死んでしまった。

妻はそれはそれは悲しんで、夫が死んだあとも夫から離れることが苦しくてならなかった。

そして死んだ夫の前で滔々と毎日涙を流しては何の為に夫と離れる必要があるのだろうかと妻は考える。

何故、夫が死んだからといって夫と離れ行かねばならないのか?遺された妻は愛する夫が死んだことを認めることも夫と離れて暮らすこともすべて受け容れることができない。

別に死んだからって、夫と離れて暮らす必要なんて、ないんちゃうか。

妻はそう想った途端、ぱあっと顔が明るくなり、意気揚々と日常で夫が使っていた家にあった家具・調度・衣類などの家財一式をこの夫の埋葬室に運んで来た。

来る日も来る日も、妻は夫の眠る棺の側で暮らし、夫が生きている様子でいつも話し掛け、机に向って夫に対する日記を書いたり、本を読んだり夫の遺体に着せる服を作ったりなどして暮らし、毎晩夫の棺の側の寝台の上で眠り、夫の夢を見る。

夫の肉は棺のなかでやがて崩れ落ちて行き、夫の身体は骨だけとなる。

それでも妻は夫と離れることができず、夫の骨だけの身体に新しい服を着せては話し掛ける。

時には妻は悲しい顔で泣いて、「何故、イエス様のように死んでもなお、動いて話してはくださらないの。」と無茶なことを夫に言う。

そして言った後に、なんで紀元前1000年やのに、イエス様の話をしておるのだ。などと言ってくすっとあどけない顔で笑ったりもする。

妻は毎晩のように、夫の骨だけの身体を濡れた布で拭き、乳香(フランクインセンス)の油をときに塗ってやる。

そしてその香りをアロマテラピーにして安らかに夫に抱かれているような心地のなか眠る夜もある。

妻は髑髏のその夫の歯を磨きながら、「なんて白い美しい歯でしょう。」と言っては微笑む。

夫の白い骨の指に自分の指を絡ませ、夫の体温を感じる。

愛しげに夫の頭蓋骨を撫で摩り、「貴方はスキンヘッドも意外と似合う。」と言う。

軈(やが)て、夫の真っ黒な目を見つめ続けて暮らす長い月日のなかに、目の中のその黒い窪みの二つの穴こそ、夫の本当の目であることに妻は気づく。

夫の本質、それが夫の黒々とした二つの穴凹であると妻は信じる。

その闇夜よりも暗い、二つの深い深い穴は妻を見つめ返し、在る夜、妻の手に引かれて棺のなかからぬっくと起き上がり、こう言葉を発する。

「愛するわたしの妻よ。やっと、貴女はわたしの本性がわかったのですね。」

妻は嬉しげにも哀しげにも見える表情で夫と見つめ合うなか、「うん」と言って頷く。

骨だけの硬い夫の身体を優しく抱き締め、妻は夫に囁く。

「嗚呼、いつからきみは此処にいたのだろう。ごめんなさい。今まで気づかなかった。」

夫は白く乾いて冷たい骨だけの身で妻を抱き締め返し、痩せた妻の背中を摩りながら言う。

「わたしはずっとずっと、此処で貴女を待っていたのです。わたしの本当の姿を、ただ一人の、愛する貴女に知って貰いたくて。もう何千年、此処で貴女だけを待っていました。」

妻は夫の穴の二つの目を見つめて涙を流す。

「そうかだからぼくは…きみを探す為に、死者のものを盗み、それで生きて、きみを見つける為にこの真っ暗な穴のなかへ入って、きみを埋葬したこのお墓を見つけたんだね。」

骨だけの夫は妻に向ってこくりと頷き、微笑んでいるように見える。

肉はすべて削がれても、なんて愛おしい姿なのだろう。

夫は何一つ、変わってなどいない。死んで、骨のみとなっても、そこにある大切なものは何一つ、そのままの状態でここにある。

骨だけでも、愛するわたしの夫は変わらず、ぼくだけの愛おしい夫。

骸骨が、屍であるということが間違っていた。

妻は愛しそうに夫の頬骨、歯、鎖骨、肋骨などに口づけをし、夫の指の骨に頬擦りをする。

そして夫を棺のなかから起き上がらせて、寝台の上に横たわらせ、その隣に自分の身を横たえ、二人は白い布で包れながら骨の夫と肉の妻は抱き締め合って誰も決して見つけることも起こすこともできない深い深い眠りへと落ちて行った。



















Ricky Eat Acid - bones





















愚花

2018-09-26 01:27:32 | 物語(小説)

 

 

 

 

 

 

 

一人の男が、空ろな眼をして柵の間からその奥を見詰めている。

午前三時過ぎ、ひっそりと鎮まり返った新興住宅地の一軒家の前で、男は何かを想い詰めた様な顔をして囁く。
「育花(いくか)…育花……育花……」
鼻息を荒くして苦しそうに喘ぎ、男は一階の窓の向こうに映る人影を柵の隙間から覗きながら下半身を頻りに摩る。
男は「育…花…っ」と力なく叫ぶと男の器から、白濁の種が落ち、その下にあったプランターの土の上に蒔かれた。

それから、四年の月日が流れた。
中秋の名月の晩、一人の男が、帰る道すがらふと、ある一角に目を留めた。
今までは何にも生えていなかった枯れた葉ばかりがそのままになっている長方形のプランターの中央部に、小さな芽が、ひょこっと顔を出していたからである。
男は反射的に朗らかに微笑み、プランターの前に腰を下ろすとその小さな弱々しい芽を見つめ、そっと右の人差し指でその芽の先に触れ、愛しげに微笑んだ。
そして満月を見上げて胸に下がった十字架を右手に取り、目を瞑ると囁いた。
「天におられますわたしたちの父よ。今夜は美しい月に人々はみな夜空を見上げあなたの御業に感謝しております。しかし誰も目に留めない涸れた地にもあなたは新しい生命を宿らせ、それを御覧になられて喜ばれていることをわたしたちに知らせ、そしてどれほどの喜びがそこにあるのかをわたしたちは知ることができます。あなたの祝福が、いつまでも絶えることなくわたしたちのうえに降り注がれますように。アーメン。」

男はその後も毎日、自分の家と教会のあいだの道筋にある家の前のこのプランターの芽に朝と晩、必ず目を留め、時に土が渇いている日には持参のペットボトルの水を上から注いでやるのだった。

そうして、一月もの月日が流れた。
或る夜遅く、一人の男が遣って来て、こう小さく呟いた。
「ちきしょう。」
そして男はがすっと気づくと蹴っていたものを見下ろした。
そこには長方形のプランターの中央部に、薄ピンク色の花が咲いていた。
男は力なく「はっ」と卑屈に笑って右手に持っていたカップ酒を飲んで大きくゲップした。
そして腰をこごめ便所坐りをするとカップ酒を左手に持ち替え、右の人差し指と親指でその小さな花弁を摘まんで、指先についた夜露を舐めて言った。
「或る、愚かな夜に愚かな女がいて、愚かな股を愚かに広げ、愚かな男を愚かに誘惑し、愚かな男は愚かな金を払って愚かな女を愚かに買った。愚かな女に愚かな男は愚かな恋をし、愚かな金の尽きた愚かな男から愚かな女は愚かに逃げた。或る、愚かな夜に愚かな家の中で愚かな女は愚かな入浴を済ませ愚かな裸体を愚かな椅子の上で愚かに曝し愚かな仮眠をとっていた。愚かな男は愚かなそれを愚かな情欲を抱いて愚かに見つめ愚かな妄想に耽り愚かな種を愚かな土の上に愚かに蒔いた。愚かな種は、愚かな土から、愚かな芽を出し、愚かに成長を続け、やがて愚かな花を咲かせた。愚かな薄ピンク色の花は、まるであの愚かな女の、愚かな花弁のようであった。愚かな男を誘惑した愚かな女の愚かな花弁にそっくりな愚かな花、愚かな御前の名を、愚かな男が愚かに付けてやろう。御前の名は、今日から、愚かな花と書いて愚花(ぐか)だ。精々、愚かな男を愚かに誘惑し続けて、愚かに枯れて逝け。」
言い終わると男は立ち上がり、人の居なくなった蛻の殻のその家を一瞥して夜のしじまの向こうに去って行った。
男が立ち去った後、花はそっと自分の名を囁いてみた。
「愚花…ぐか…あたしの…名前は…愚花……」
花弁から、夜露が垂れ落ち、その水玉に月光が反射していた。

翌朝、愚花は頬を優しく撫でられる感触を覚え、目を覚ました。
すると目の前に、大きく優しいあの手があり、あたたかい体温を感じた。
神父の男は愚花に向って微笑み、こう言った。
「なんて愛らしい花でしょう。花をあなたが咲かせるとは想いませんでした。」
愚花は嬉しくて瞬きを何度とし、朝露は神父の指先を濡らした。
神父は持っている黒い鞄の中からペットボトルの水を出し、その水を愚花に与えながら言った。
「さあお水ですよ。今日も良いお天気で、神が可愛らしい花を咲かせたあなたのことを祝福しておられます。」
青空から真っ直ぐに陽射しが神父と愚花を照らし、眩しく、世界は耀くようであった。
「あなたはなんという花なのでしょう。」
そう囁くと神父は身を起こしていつものように教会に向って歩いて行った。
神父が立ち去った後、愚花はそっと自分の名をまた繰り返した。
「あたしの名は、愚花…愚かな花と書いて、愚花…」
花弁から、朝露が垂れ落ち、その水玉に朝日がきらめいた。

それから、一週間後のことである。
教会の門塀に、「今日の聖句」と題した紙が貼られているのをちょうどそこを通りかかった男が目に留めた。
そこにはこう書かれてあった。

『あなたは姦淫を犯してはならない』と言われたのをあなた方は聞きました。
しかし,わたしはあなた方に言いますが,女を見つづけてこれに情欲を抱く者はみな,すでに心の中でその[女]と姦淫を犯したのです。

マタイ五章二十七-二十八節

男は空ろな目でその言葉をじっと眺めていた。
一本の煙草を吹かした後、吸殻を地面に棄てて足で火を消す。
男は教会の門を抜けてそっと教会の戸を開けると中を覗き込んだ。
そこには一人の若い神父が講壇に立ち、老若男女の前で聖書の説教を聴かせていた。
男は一番後ろの席に静かに腰を下ろすと神父の説教に耳を傾けた。
神父はゆっくりと、穏かに話し始めた。
「神はどのような理由からも、姦淫の罪を赦してはおられません。
モーセがエジプトから逃れシナイ山で授かった十戒の一つに、『姦淫してはならない。』という言葉を神は最初に、明確に示されました。
神は『殺人』の罪と『盗み』の罪とのあいだに、『姦淫』の罪を置かれました。
では姦淫の罪を犯すことは、わたしたちにどのような報いがあることを示されているでしょうか。
コリント第一の六章九節と十節にはこうあります。

『淫行の者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、大酒に酔う者、罵り誹る者、略奪する者は、いずれも神の王国を受け継ぐことはないのです。』

さらに、ヨハネの黙示録の二十一章八節にはこうあります。

『しかし、臆病な者、信仰のない者、忌むべき者、殺人をする者、姦淫を行う者、呪(まじな)いをする者、偶像を拝む者、またすべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている湖の中が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。』

第二の死とは、肉体の死の後、永遠に神の光の届かない地で生きてゆくことを意味しています。
また、テサロニケ第一の四章では神がわたしたちを召されたその御心は、わたしたちをこのような不品行と情欲のままに汚れたことをさせる為ではなく、清くなる為であると示されています。
そして神を知らない異邦人のように、貪欲な性欲のままに歩み、兄弟の権利を害して侵すならば、神はそのすべてについて処罰を科すことを示されています。
ヘブライ十三章四節では『結婚はすべての人の間で誉れあるものとされるべきであり、夫婦の関係は汚してはならない。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるからです。』と示されました。
マルコ七章二十節から二十三節では主イエスは人を汚すものとは、外側から人に入ってくるものではなく、内側から出る悪が人を汚すことを言われました。

『また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。
内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。』

人は多くの時間、何か悪いものが外から遣ってこないかと脅えることがあるかもしれません。しかし最も恐ろしいものは、実は自分の内に在り、それが自らを最も脅かすものであることを主イエスは言われています。
ですから自分の外に、つまり他者の内にどれほどの悪があるかを数えるのではなく、自分の内にどれほどの悪があるかを知り続ける必要があります。」
その時、静かにそれまで話を聴いていた男が右手を挙げて後ろの席から低い声で呼ばわった。
「神父さん。」
そしてすたすたと神父の立つ講壇の前に歩み寄り、神父の目の前に立ってこう言った。
「あのさ、言いたいことは解る。誰だって好き好んで、そんな悪業を積んでみずから地獄にくだってゆこうとしているように見えないよ。俺だって好きで、情欲をいだいて女の、淫らな妄想をして、女から誘惑され、金払わねえと、駄目だっつんで、あいつに、俺は何百万と、俺は払ってあの女と姦淫を繰り返してきたんだ。これはさ、罠だよ。狡猾で、あまりに汚い、最悪な罠じゃねえか。あの女が俺を誘惑さえしなければ、俺だって童貞のまま、可愛い処女の愛する女と結婚して幸せになりたかったさ。俺は好きで、こんな風になったわけじゃないんだ。誰だってさ、綺麗な道を歩むほうが、本当に幸福になれるってわかってる。たった一度の過ちで、もう二度と、その道を歩むことはできずに虚しく死んで逝くこともわかってる。なあ神父さん。俺は気休めの言葉なんて聴きたくねえんだ。人は神から罪を赦されても、もう二度と、死ぬ迄、神の喜びの道を生きることは赦されねえんだろ。俺はわかってるよ。俺はそれを、あんたに言いたかったんだ。俺はさ、あの糞売女(ばいた)女に誘惑され、罠にはまらなかったら、今頃、大学も落第せず、植物細胞生物学の大学院生になって、今頃、食虫植物の遺伝子研究遣って、世界中のアホで屑な人間どもを全員喰ってくれる巨大な食虫花の開発に勤しんでたろうよ。俺はこの世界の救世主になりたかったんだ。まあでもさ、今は落魄れて、大酒飲みだが、最近、店をこの近辺で始めたんだ。死んだ花を売り捌く店だよ。枯れない生きてるみたいな花だって評判なんだ。教会で花を飾るときなんかがあれば、どうぞよろしくお願いします。それじゃ。」
そう言い棄てて男は一枚の名詞を灰色のジャケットの胸元から取り出すと講壇の上に置いてまたすたすたと歩いて教会の外へ出て行ってしまった。
神父は胸の痛みを感じ、人からこのように率直に情熱的な反論を受けたことがなかった為、とても悲しい気持ちに心が塞いだ。
しんと鎮まり返ったままの教会内で、神父は神に問い掛けた。
「人は、もう二度と、戻れない道があるのでしょうか。」

神父はこの日の帰り道、まだ悄然としていた。
なんとなく、今日のあの男の言った言葉が、かつての自分の訴えと同じものであるように想ったからだ。
神父は児童養護施設で育ち、5歳の時に養子に貰われた神父である義理の父親の家で育ったが、義理の母親が神父の十歳の時に三十八歳で心筋梗塞で他界し、その後、義父は独りで神父が中学を卒業するまで育ててきた。だが高校に入学した年に、義父は仕事が忙しくなり家事手伝いの女性を雇った。義理の母と同じ生まれ年の、四十四歳の女性だった。
その女性と、義父の関係がどういうものであったかは、今でもわからない。
妾のような関係にあったのかもしれないし、何もなかったのかもしれない。
義父は四年前の夏の夜、道路の真ん中でこけて腰を痛めている見ず知らずの老婆を助ける為にその場に駆け寄った瞬間、余所見運転しながら速度を落とさず走ってきたトラックに跳ねられ即死した。
六十九歳だった。
二十九歳で、神父は義父の跡を継いで神父になった。
今は三十三歳。あの女性が行方を晦ましてから十四年が経つ。
ただ側で眺め、情欲をいだき、彼女を心のなかで犯し続ける時間が三年続いて、彼女は跡形もなくどこかへ消えた。

道端で、今夜も儚げにその花は月夜を見上げるようにひっそり咲いていた。
神父は歩き寄り、屈んでその花の弁に指先を触れ、まるでその冷たく清らかな夜露を吸い取ろうとした。
神父はいつもと違って憂いのある表情でじっと花を見つめた。
そしていつも声を最低でもひとつ掛けたり、微笑んだりしていたのが今夜は黙って立ち去ってしまった。
ひとり残された愚花は、こころに不安の露を湧きあがらせ、その水滴は花の真ん中から垂れ流れ、湿った土のうえに音もなく落ちた。

それから、また一週間が過ぎた。
神父はすぐに笑顔を取り戻し、愚花に微笑みかけたが、その顔はまだ、憂鬱な影が帯びていた。
愚花は一分一分、自分の身体から水分が抜け出て、枯れていることを感じ取るようになった。
強い陽射しは、もう前のように快いものではなくなり、苦しく時に焼かれるような熱さも感じるようになり、夜には夜で骨の髄まで染み入るような寒さに身をふるふると震わせ神父のあたたかい体温を前以上に求むようになった。
愚花はどれほど寒くてもいつも、神父に微笑み返した。
会う度に、神父への愛おしさが大きく膨らみ、愚花は神父の雄蕊によって受粉する夢を見た。
神父の雄蕊はあの優しく白く細いが同時に隆々としている右の人差し指であった。
その雄蕊によって愚花の雌蘂は愛撫され、その時、神父の雄蕊の先から金色の粉が湧き出て愚花の雌蘂の先に着き、受粉する。
愚花が恍惚な感覚に満たされたその時、花糸(かし)が一つ、下に落ちた。
今まで自分の元でそっと息づいていたそれが死ぬように土のうえに落ちたままであるのを見て愚花は自分の身体は日に日に、壊れゆくのだということを知った。
愚花はこころの中で静かに叫ぶように祈った。
このまま壊れゆくのならば、いっそのことあのかたに摘まれ、押花にされ、ずっと側に置かれたい。
その時である。
一筋の月光が、愚花の柱頭を光らせ、そこから声が聴こえた。

ではおまえは行ってその通り、あの男に伝えるが良い。

ふと気づくと、愚花はひとつの長細いプランターの中央部に生えた一輪の薄ピンク色の花を見下ろしていた。
まったく同じ色をした、薄ピンク色のワンピースを着た自分が、自分を見下ろしていたのである。
愚花はすこしのま、忙然として突っ立っていたが、はっと我に返り、いっ、急がねばならんがな。と声に出して言うと、裸足のままでとにかく道の向こうを駆けてった。
たぶんこの道を、真っ直ぐに行くとあの神父に会えるであろう。
そう信じてとにかく全速力で愚花は走った。
すると目の前に、眩しき灯りが見えて、そこに向って走った。
どうやらそこは24時間営業のスーパーマーケットであるようだった。
長い黒髪が、汗ばんだ額や首筋にへばりついたまま、愚花はちょっとスーパーマーケットへ寄って行くことにした。
籠にとにかく、甘そうな果実を詰め込んだ。
それでレジカウンターで待っていると店員が愚花に向って言った。
「合計753円。」
「為口かっ。」
愚花は想わず声が出た。
金髪の若い男はもう一度ぶっきら棒に言った。
「合計で753円です。」
愚花はワンピースのポケットのなかを弄(まさぐ)った。
すると不思議なことに、そこにはちょっきし、753円のお金が入っていたのであった。
愚花はそれを払い、籠を持って台の上に移動し、そこで袋に買った果実を放り込もうと袋を開こうとした。
だがこれが、どうしたことか、開かない。開け口の部分を人差し指と親指で擦り合わせるのであるが、一向に、開こうとしないのである。
愚花は想わず、叫んだ。
「くわあっ。枯れる。涸れる。早くしないと。水分がぜんぶ抜けて、愚花は枯れてしまう。」
だがふと台の上に、水を沁み込ませたスポンジ状のものを見つけ、ときめいて愚花はそこへ指をつけた。
そしてその指で袋を擦るとすぐに、袋は開いたのであった。
果実をすべて放り込み、愚花はまた、郊外へ出て走った。
そして走って走って、とうとう神父の家を見つけたのである。
何故かはわからぬが、この家に絶対にあのかたが住んでいると、愚花にはわかった。
愚花はその戸を、想い切り叩いた。
時間は午前の三時過ぎであったが、愚花にはそれがわからず、焦眉の急を要する為、そんなことは言ってられなかった。
するとすぐに、戸は開かれた。
中から、神父が、驚いた顔で顔を覗かせ、そして何かを言おうとしたその時、
愚花は叫んだ。
「神父さま。愚花を、摘んで、それで押してください!」
「今すぐに!今すぐに!」
神父は目を大きく開いて丸め、開いた口が塞がらなかった。
愚花は地団駄をその場で踏み、神父を押し倒して、神父と愚花は玄関に倒れ込み、ドアは閉まった。
可笑しなことに、神父の家のなかへ入った途端、愚花は大人しくなって、何も話せなくなった。
神父は押し倒されたまま、困りに困り果て、この四十歳前後に見える女と、黙って見つめ合っていた。
そうやって見つめていると、神父はこの女がどことなく、自分が想いを寄せ続け、その情欲に身を焦がし続けたあの女性に見えて来るものがあり、生唾をごくりと飲み込み、股間に鈍痛を覚えた。
神父は心臓が高鳴るなか女を起こして玄関に座らせた。
女はこのもうすぐ十一月に入ろうとしている気温のなかに薄いワンピース一枚でしかも裸足で足が膝辺りまで泥だらけであった。
神父は落ち着いて、困った顔で見つめるばかりの女に向って落ち着いて訊ねてみた。
「貴女は、どこから来たのですか?」
愚花は落ち着かない様子でまごまごとして何を言えばいいのかわからなくなった。
「貴女は、どこのだれでしょう?わたしと、会ったことがありますか?」
愚花はうんうんうんうんうんっと首を縦にぶんぶん振った。
神父はどこで会ったかを中空に目を遣って首を傾げて目をきょろきょろさせながら想いだそうとしている。
だが想いだすことができず、その代わり想いを馳せていた女の顔が浮かんでしょうがないのであった。
愚花の顔を眺め渡し、観れば見るほど似ているように想えて胸が苦しくなるのだった。
神父は大きく息を吐いて、「ちょっと待っててくださいね。」と優しく言うと洗面所に言ってタオルをお湯に濡らして持って来て、愚花の足の泥を丁寧に拭いてやった。
愚花はどきどきする余り、足が震えて止まらない。
神父が「大丈夫ですか。」と訊ねるも、愚花は黙って神父を見つめ、それでまた苦しそうに言った。
「愚花を、摘んで、どうか押してください。」
神父はちんぷんかんぷんで一体この女が何を訴えているのかがてんでわからないのだった。
「”ぐか”とは、一体なんでしょう?」
神父がそう問うと愚花は自分を指差した。
「ああ、貴女のお名前が、”ぐか”というのですか。それはとても変わったお名前ですね。」
愚花は素直に自分の名前の意味を神父に告げた。
「愚かな花、と書いて、愚花なのです。」
神父は言葉に詰まり、一瞬、からかわれているのであろうかと訝った。
だが女の切実な潤んだ目を見つめると、嘘をついているようには見えなかった。
神父は小さく嘆息し、もう一度訊ねた。
「貴女の住んでいるおうちは、どこですか?」
愚花は考え込んだ。自分の家とは、一体どこなのかがわからなかったからである。
あの長方形のプランターが自分の家なのであろうか?
しかし家とは、屋根や壁があるものなのではないのか?
ということは、あれは家ではない。そうか、愚花には家というものがないのだ。そう想って愚花は素直に答えた。
「愚花は、家がない。」
神父はこの返事に、またまた困惑した。
家がなくて、一体この女はどこでどう生活をしてきたのであろうか?
それとも、もしかして、夫のもとを出てきたのではあるまいか。
もしそうであるなら、大変である。
この女は夫を騙して姦淫をしているなどと噂され、このわたしも姦淫神父野郎などと陰口を叩かれるかも知れぬ。
そうすると、どうしたら良いのであろう。
わたしもこの女も、この町を出て行かねばならないことになるだろう。
あの教会を棄て…また新しい町で、この女と遣り直すしかない。
神父は不安と胸のときめきが胸中で混濁となる感覚に、先のことを考え過ぎだ、主イエスは「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」と言われたではないか。とみずからを叱咤した。
神父は毎夜の聖書の勉強で寝不足となった目でまた女の目を見つめ、「一先ず上がってください。あたたかい飲み物を淹れましょう。」と言って女の肩を支え女を家のなかへ上げた。
女を和室の客間へ案内し、淹れた豆乳チャイティーの入ったマグカップを二つ持って来て座った。
女は差し出されたそれに口をつけ、また焦燥のなかに壊れたA.I.ロボットのように同じことを言った。
「愚花をどうか摘んで押してもらえませんか。」
神父は落ち着いて、ひとつひとつ訊ねることにした。
「その、摘む、とは、一体なにを摘むのでしょう?」
愚花は目を瞬かせて、「摘むとは、根元から、くきっと折って、千切ることです。」
「どこを…?」
「だから、愚花の、根元らへんです。」
神父は俯いて、頭を悩ませた。
顔を上げると、次の質問をしてみた。
「では、押すとは、一体なにを押すのでしょう?」
「愚花を押すのです。愚花の全身を。重いものを載せて。」
「どこへ…?」
「手帖などがよろしいかと…。」
神父は空笑いをすると続けて言った。
「はは、愚花さんを押すにはとても大きな手帖を発注しなくてはなりませんね・・・。」
愚花はこのとき、初めて信じられない衝撃に満たされた。
果たしてあのプランターのなかに咲く愚花と今ここにいる愚花は、同じ存在なのであろうか。
愚花は神父に向って言った。
「あの…新しいビニール袋はありませんか?袋の開く口が開いていない…」
神父は、はて、何に使うのだろうと想ったが「ちょっと待っててくださいね。」と快く返事をするとすぐに新しいぺちゃんこの袋を一枚持って来た。
愚花は「ありがとう。」と御礼を言って、その袋の開き口を人差し指と親指でこすった。
やはり開かなかった。
愚花は絶望した。
あの愚花と、ここにいる愚花は、やはり同時に枯れて行ってるに違いない。
枯れ切る前に、神父さまに摘まれて押されなくては、愚花は、枯れた後も、神父さまのお側にいることができない・・・。
愚花は悲しくて、涙をぽたぽたと落とし、着ている薄ピンク色のワンピースが斑模様となった。
神父は焦って愚花に膝を擦って進み寄り、その右手を両手で握った。
「大丈夫ですよ。神はいつでも貴女のことを見つめて、貴女がどのような時でも変わらず暖かい光を照らし、時に雨を降らし共に泣いてくださる御方なのです。」
愚花はそんな言葉を神父から言われ、想いきり泣きたくなったのだが、此処で泣いては水分が流れ出て、愚花が枯れるまでの時間が早まってしまうと、必死に涙を堪えて我慢した。
だが神父は、「泣きたいときは、存分に泣くのが良いのですよ。さあたくさん泣いてください。たくさん泣けば、すこしすっきりとしますから。」と言った。
愚花は泣きたいのに泣けなくて、本当に泣きたくなった。
そして、「水を貰えませんか。」と愚花は言った。
神父は頷いて急いで2リットルのペットボトルの水とグラスを持って来て水を注いで愚花に飲ませた。
愚花は、ごくごくと、2リットルすべての水を、飲み干したのであった。
神父は、「そんなに喉が渇いていたのですか…気づかなくて申し訳ない…」と謝った。
しかし愚花は、黙って泣くばかりであった。
多分、これで1リットルほどは、泣いても大丈夫やろうと想ったからである。
神父は、懐かしく切ない想いでそんな愚花の泣いている姿を見つめて、愚花の痩せた冷たい手を握り締めていた。
そして愚花が一頻り泣き終わったと見るや、神父は愚花に、こう告げた。
「良かったら…貴女の新しいおうちが見つかるまで、此処で一緒に暮らしましょう。」
愚花は神父の目を見つめてこくんと頷くと、神父の右の人差し指を自分の右の目の下に当て、一粒の涙を神父の指先に落とした。
神父はそのとき、デジャヴュを感じた。

翌朝、ソファーの上で眠っている神父を朝早く、愚花は起こして昨夜買った果実を食べさせた。
皿の上には柿と蜜柑と梨が細かく刻まれて載せられてあった。
ふと、神父が愚花の左手の指を見ると、その指がまるで躊躇い傷がいくつも付いたようにずたずたな状態となっており、ショックの余りに神父は失神しかけた。
だが、その傷だらけの指が、どう見ても違和感を拭えないのだった。
何故なら、一滴も、赤い血が出ていないようだったからである。
その代わりに透明な粘液をともなった液体が、愚花の傷口から垂れているのを神父は見た。
神父はひとつひとつの愚花の傷に、手当てをし、もう決して刃物を使ってはならないと愚花に誡めた。
愚花は神父に、水をたくさん買ってきて貰えないだろうかと頼んだ。
神父はそれを疑問も持たず聞き入れ、2リットルのペットボトルを歩いて往復30分近くかけて十本買って来た。
愚花は不安気な顔でその十本のペットボトルの水を眺めていた。
神父は腕時計を見て、あと30分で教会に着かなくてはならない時間であるのに気づき愚花に言った。
「今日は夕方の五時半頃にはきっと帰ってきます。その時にあと十本のペットボトルの水を買ってきますから。それではいってきます。お昼ごはんは昨晩に作ったものを電子レンジで温めて食べてくださいね。電子レンジの使い方は紙に書いて電子レンジの開けるところに貼ってありますから。」
心許無い愚花を残し、神父は心配でならない想いで家を出た。

急いで神父が家から帰ると、時間は夕方の六時を少し過ぎていた。
家のなかを探しても愚花の姿がなかった。
「愚花さん。」と呼ばわりながら神父が裏庭の雨戸を開けて覗くと、狭い庭先に愚花が目を瞑ってうつ伏せに倒れ込んでいた。
神父は愚花の頬に触れると、その肌はとても乾いていた。
急いで水をグラスに入れて愚花に飲ませ、愚花は飲むというより、口許から吸い取るように水を飲み、2リットルの水を二本飲んだところでやっと目を覚ました。
安心して涙を流しながら神父は愚花を起き上がらせて縁側で抱き締めて言った。
「貴女を愚かな花と名づけたのは誰なのでしょう…わたしがどれほど貴女の元気な姿を見かける度に嬉しかったことも知らずに…」
愚花は一命を取り留めたが、その枯れ具合が、元の瑞々しい状態へと戻ることはなかった。
それでも神父は、愚花の枯れる前の美しさを愛するのだった。
その枯れ行く美しさは、四十七歳で自分の前から姿を消し去った愛する女性の面影があった。

その夜、愚花は縁側に置かれた、プランターと、自分の姿を見つけた。
神父がこの日の教会の帰りに、5本の2リットルのペットボトルの水の入った袋を左手に持ち、残りの5本のペットボトルの水をバックパックに詰めて背負い、そして右手に、愚花の咲いたプランターを抱えて家に連れて帰ってきたからである。
愚花は枯れかけている自分の姿を見るのが痛々しくてならず、そのことを、神父に話すことすらできなかった。
愚花はもう、ただ枯れる前に摘んで押花として神父の側に居られるなら、それで良いと諦めていた。
でも神父は、この日から毎日、どうすれば愚花を生き永らえさせることができるのか、そればかり考えていた。

次の日愚花は、神父が自分を摘んでくれない悲しみのなかにこんなことを言い放った。
「愚花は、ただ生きているだけです。毎日、神父さまは愚花のために重たい水を何本と買ってきて、力をなくした枯れかけの愚花は、もう本当に、生きているだけなのです。ただ枯れかけた見苦しい姿で、咲いているばかりなのです。なぜ、愚花を、摘んでは貰えないのですか?愚花は、これ以上枯れるまでに、せめて今の姿で神父さまの御側におりたいのです。」
気づけばまた、大事な水分が愚花の目から、垂れ流れて止まらぬのであった。
神父は神父で悲しみに暮れ、それでも愚花に向き合って話した。
「すべての花が、実を実らせる為に生まれて生きているのではありません。多くの花はただそこに、咲いているだけのものです。田んぼに出て、農作業をしたりもしない。畑へ出て、野菜や果実を捥ぎ取ったりもしない。工場のなかで働くこともなければ食事を運んだりもせず、誰かのクレームを聴いたりもしません。掃除も洗濯もお皿洗いもしません。それでも神は、その小さな誰も目に留めぬ花でさえ、これを綺麗に着飾らせて、その花に雨を降らせ、日を照らさせるのです。いつか枯れてしまうからといって、神は摘み取ることはしません。」
愚花は悲しくて泣いた。
神父は愚花の代りに泣くことを我慢し、ひたすら愚花の命が永らえる方法をネット上や本のなかに探し出そうとした。
「花を長持ちさせる方法」という本のなかに、「ドライフラワー」という言葉を見つけた瞬間、神父はあの男の言葉を想いだした。
確かあの男は「枯れない生きているような花」だと評判の花を売っていると、そのようなことを言っていたはずだ。
神父は廊下を走って椅子に掛けたままであったジャケットの内側から財布を取り出し、その中に仕舞ったままのあの男の名詞を取り出した。
そこには店の名前と住所と電話番号が書いてあった。
ネットで調べると朝の十時から開いているようだ。
神父は愚花のもとへ戻るとしょんぼりと縁側に座って月光に照らされている愚花を優しく抱き締めて言った。
「わたしはいつまでも貴女とこうしていたいのです。」

翌朝早くに、神父は眠っている愚花を残してあの男の店に一人で出掛けた。
開店の三時間前に、その店のガラス戸を叩いた。
すると奥のほうから、あの男がやって来てドアを開け、にやついた顔で笑って神父を見た。
「まだ開店前に申し訳ない。実はあなたに相談したいことがあるのです。」
男は頷き、「待ってたよ。」と言うと神父を店のなかへ迎え入れた。
神父はなかへ入ると、鮮やかな色彩の花々が芸術作品のように様々なオブジェとして飾られ、展示されているのを見て心が躍動するものを感じ、その独特な華やかさは生花に似てはいるのだが生花とは違う何かを感じるのだった。
「これって…みんな生きた花ではないのですか…?」
男は一緒になって部屋のなかを眺め渡して言った。
「さあ…どうなんだろうね。俺は生きていると感じるが、生きた花よりもね。」
神父は何か闇の光を感じているような感覚で言った。
「これはみんな、水を必要としたり、光が必要だったりしないのですか・・・?」
「うん、水も光も土もなんの栄養素も必要ではない。気をつけることは高温多湿と急激な温度変化を避け、適度な湿度管理、直射日光や強い照明光に当て続けないこと、そして一番重要なのは、”生きている花より美しい”と話しかけることくらいだな、ははは。」
「これは何か名称があるのですか?素材というのかな…」
「プリザーブドフラワー(Preserved flowers)ってやつだよ。特殊液に一、二週間漬け続け、そして乾燥させるだけだ。脱色してから着色するという作り方もあるが、うちでは全部生きたままの色を保存させることのできる特別な液体を使っている。だから死んでいるはずなのに、見た目は生きているのと変わりはない。」
「これは…」
神父は言葉が続かず、言うのを躊躇っていた。
「相当、想い詰めた顔しちゃって、深刻な相談なんだろう。金さえ積んでもらえるなら、俺にできることは遣ってやるよ、神父さん。まあ立ち話も疲れるから、ああ、その前に、あっちに水槽があるから、それを見せるよ。」
「水槽…?」
男のあとを追って神父が着いて行くと、一つの部屋に案内された。
部屋のなかには白いカーテンが壁の端から端まで引かれており、男はそのカーテンを一気に引いた。
そこには部屋の半分ほどの大きさの水槽があり、その中にはものすごい数の花々や葉が漬けられていた。
神父が言葉を失っていると男が平然な口調で言った。
「俺の本業は実はこれじゃないんだよ。俺の本業はさ、人間を強引に無理無体に、咲かせたままの状態にすることだよ。」
神父は目を見開いて左を向き、男の目を見た。
「聖書はそういえば、呪術者に近づくことすら禁じているよな。俺の本業は一種の呪術と言ってもいい。植物人間もこの液体に漬けると、目を開け、言葉を発することもあることに気づいたんだ。でも死んでるのか生きてるのかは俺にはわからない。でも生きているように、そいつは喋ることもできるし笑うこともできる、飯食って糞して寝て、性行為だってする。ただ記憶とか、人間の理性とか、愛とか、失くしちまってるように外からは見えるだけだ。」
神父は気が朦朧とし、気を喪うような感覚のなか虚脱状態に陥り、貧血も起こって立っていられなくなり蹲って、二の句が継げず、心臓がとてつもなく早く鼓動を打って死ぬのではないかと感じた。
すると男は呆れたように神父に向って言った。
「あんたさ、よりにもよって、愚かな花に恋をするなんて、どうしようもねえ神父だよな。」
神父は胸を押さえて男を見上げ、かすれた声を発した。
「何故、それを…?」
ははは、と男は渇いた笑いをしたあと深く溜息を吐き答えた。
「当たり前だろ、愚花は俺の蒔いた種から、芽を出し、そして花を咲かせたんだ。俺が知らないはずはない。あいつの名を付けたのも俺さ。あいつにぴったしの名前だろう。あいつの母親が、あの雌犬になるのかどうか、わからねえが、あの雌豚が俺を誘惑して、金を奪い取り、そして俺が情欲をいだいてあいつを求めなければ、愚花も、この世に存在してないんだぜ。神父さん。愚花はとんでもなく醜い女だよ。だって俺の最悪な姦淫の罪の、その種が咲かせた花なんだからなあ。穢ねえにもほどがある女だ。愚花はさ、生きててもしょうがないんじゃないかと俺には想えるが、というか早く死んでもらいたいが、でも俺はあんたに借りがあるから、神に借りがあるから、だから神父さんの願いを俺は引き受けるつもりだよ。枯れかけて死に掛けている愚花を、この液体に漬け込んで、そして生きた状態のままで、何十年、いや何百年、生き続ける術を、この際、無償で、俺が遣ってやるよ。神父さん。」
神父は意識の遠くなるなかに、時間がどれほど過ぎたかもわからないなかに、男に、「お願いします…」と、声を絞り出すように、言って、男の靴に頭を付けて拝むように懇願した。

家に帰ると、まだ午前十時過ぎだった。
愚花は、疲れているのかぐっすりと、まだ眠っていた。
神父は愚花の寝顔を見つめながら、途方もない永い時間を、愚花と過ごしてきたような感覚になるのだった。
「何故なのでしょう…。」
神父は、吐き気を感じるなか、同時に、今までに感じたことのない安心と幸福感のようなものを感じているようだった。
やっと、ずっと一緒にいられるのだと、想って、神父は眠る愚花の渇き切ったその口に、そっと接吻をした。

















鴻鳥先生の言葉

2018-09-20 02:58:39 | 物語(小説)

鴻鳥先生は、優しい御声で仰有られた。
『赤ちゃんもお母さんも、助けるよ。』
そして鴻鳥先生は、その母親の、御腹にメスを入れ、その子宮を切られた。

だが、一時間後。
その近くの公園のベンチに、ポツンと独りで座る、鴻鳥先生が其処に、居られた。

はて、どうしたのであろう。
わたしは傍へ近寄り、訊ねた。
「此れはこれは、今晩はで御座います。鴻鳥先生では在られませんか。一体、こんな夜更けに、どうしたので御座います?もう午前の、一時半で御座います。」
すると、鴻鳥先生はさぞ、首が重たいと謂わんばかりに、ゆっくりと、その頭を上げられ、寂しげに微笑むのだった。
わたしはその左に、静かに腰を下ろし、こう言った。
「今夜は、とても静かで、穏やかだ。でも鴻鳥先生は、哀しげな御顔をしていらっしゃる。わたしは、いつも貴方を観ています。しかしそのすべてを、わたしは観ることはできない。そう、ついさっきも、夜中に目が覚めて、ふと想ったのです。わたしは、鴻鳥先生の、あの台詞が、好きだ。『お母さんも、赤ちゃんも、助けるよ。』あの言葉が、本当に好きだ。何故か幸せになるのです。あの言葉を、鴻鳥先生がそう言うと。でもね、ふと、さっき想ったのです。でもあの言葉を、言ったあとに、その両方を、助けられない日も、きっとあったろう。そしてこれからも。其れなのに...それでもきっと、鴻鳥先生は、あの言葉を、きっとこれからも仰有られるだろう。それは、わたしたちの為に。わたしたちを、強く、安心させる為に。」
そう言うと、鴻鳥先生は、ふっと息を吐いて、俯いてまた小さく笑った。
鴻鳥先生は、穏やかに仰有られた。
「『最初に、言葉が在った。』『言葉は、神であった。』『言葉のうちに、命が在った。』そう、この世界のすべては、本当に、言葉によって、創られたのだと、そう感じるのです。『光が在るように。』神がそう言うと、『すると、光が在った。』ふと気付けば在った。そんな風な世界なのだろうなって。この世界とは、普く、神が言葉を発したその時の、息が吹き掛けられている。世界に存在するすべて、神のBabyなのです。赤ちゃんの誕生が奇蹟で、年を取れば、奇蹟ではなくなる。そんなことは誰が考えたのでしょう。赤ちゃんの誕生が奇蹟なら、その後もずっとずっと、生命は奇蹟なのです。一秒、一分、一時間、一日、わたしたちは奇蹟の連続を生きている。赤ちゃんの誕生の瞬間の、あの喜びが、感動が、絶える瞬間も来ないほど、本当はわたしたちは奇蹟の時間を生きている。でも人は、時に絶望もするのです。何故、助けることができなかったのか。何故、彼らは助かり、彼らは助からなかったのか。何故、ぼくは助かり、彼らは助からなかったのか。何故...」
虫の音が、気付くと鳴っていたのだった。
車の通り過ぎる音、ひっそりと、生命が息をしている音。
鴻鳥先生は、言葉をまた発せられた。
「そう、言葉とは、神の息吹きであり、そして、その音。例え聴こえなくとも、神は音を発しつづけている。とても、とても、優しい音を。まるで子守唄のような。音楽。言葉とは、神の願いなのです。神の切実な、願いが詰まっている。『光が在るように。』神がそう強く、強く、願って、すべては存在するようになった。」
ふと気付くと、今度は雨の音がしてきた。雨が降ってきたのである。
わたしたちは雨に濡れながら、まだ此処に座っている。
雨は激しくなってくる。
すると鴻鳥先生が、深く息を吐いて、言われた。
「ぼくは今日、言ったんです。いつものように。『お母さんも、赤ちゃんも、助けるよ。』って。不安そうな、お母さんの目を見つめて...それはぼくの、願いだから。どちらか片方じゃなく、両方を助けたい。そう強く願って、お母さんの御腹を切って、お母さんの子宮のなかから、赤ちゃんを取り出した。お母さんはとても、とても、嬉しそうに、涙を流しながら微笑んでくれました。...でもその、一分ほど後、お母さんは静かに息を引き取った。実は赤ちゃんは、死産でした。ぼくはお母さんを騙したんです。赤ちゃんが、無事に、生きて産まれたように、赤ちゃんを取り出した。お母さんは末期の、癌でした。無事に出産できる確率は、10%以下でした。ぼくはお母さんから、死んだ赤ちゃんを取りだし、お母さんに向かって微笑んだ。『おめでとう。元気な男の子ですよ。』そう言って...」
気付けば雨は、やんでいた。
わたしは、夜空を見上げた。
ふと、右隣を見ると、鴻鳥先生は、いつの間にか、何処かへ消えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

ヒューマンドラマ「コウノドリ」

 

 

 

 

 

 

 

 


卵胎生の子

2018-09-13 18:02:31 | 物語(小説)

独りで僕は、この教室で湧き上がる怒りをぶちまけている。
クラスメイト達に、辺り構わず怒鳴り、咆哮し、机や椅子を思いきり投げ付け、何かを必死に訴えている。
でも誰も聴いていない。
僕の絶叫が、彼等には少しも、届かない。
机の上に、小さな水槽、その中に、たくさんのメダカ。
それを、窓際に投げ付ける。
何故か無事だ。その水槽は机の上で。
メダカたちは、気持ち良さそうに泳いでいる。
可愛いな...でも僕は、お前たちが苦しむなら...


高校生活最後の秋、修学旅行の帰りに、僕たちの乗ったバスは事故に合う。
山道を走っていると、目の前で、土砂崩れが起きて、ハンドルを切り、運転手はブレーキを踏んだはずが、踏んだのはアクセルだった。
バスは山の中を突っ切った。そして崖の前の折れて倒れた大木の上で回転して、バスの後部座席半分が、宙ぶらりんの状態となった。
みんなは急いで、悲鳴をあげながら前部座席に移動し、一番後ろの座席に座ったままの僕を、脅えて見つめている。
担任の先生が、手を差し出しながら言う。
「おい...何してんだ、早く、こっちに来るんだ。そっと、静かに、早くこっちへ...」
僕は、ゆっくり立ち上がると、座席の間の通路の真ん中に突っ立って、笑う。
「なんで助けなくちゃいけないんですか。あなたたちを。」
先生は穏やかに、目を見開いて答える。
「何を言っているんだ。みんなを助けるために、お前がこっちに来るんじゃないだろ。お前が助かるために、こっちに歩いてくるんだ。」
僕は、力なく、声を出して笑う。
「助からなくていいですよ。僕が死んでも、誰も哀しまないですから。あの時だって...誰も僕の言葉を、声を、叫びを、訴えを、聴こうともしなかった。みんな僕を、馬鹿にして、笑ってた。僕、独りで苦しんで、哭き喚いて、みんなは平気だった。なぜ僕が、そっちに歩いてかなくちゃならないんですか?そうだ、僕が休んだあの日の放課後、みんなは修学旅行のもしもの緊急避難時の行動と心掛けについて、先生から大事な話を聴いていましたね。でも僕には誰もその話を、教えてくれなかった。廊下でこっそり、僕は聴いていたんです。僕には知らせる必要なんてなかったんですよね。僕だけは、生き残る必要なんてない。みんなそう想ってるんだって、僕知ってますよ。あなたたちと同じところになんて行きたくない。僕だけは別々の場所に行く。あなたたちとは此処で御別れです。さっさとドアを開けて、車外に避難してください。あとはこのバスと、僕が下に、墜ちるだけです。」 

目をそっと開ける。重心はまだ、傾いていない。
いや重心は、傾くことはない。
みんなは、避難した。でも一人だけ、まだいる。
誰だろう。運転席の後ろの座席に静かに座っている。
声を一番後ろから掛ける。
「早くバスの外へ避難してください。誰かと一緒に墜ちるのは、嫌なんだ。」
その人間は静かに立ち上がると、通路の真ん中に立ち、俯いた顔をあげる。
笑みを湛えて、僕を見つめる。
もう一人の、僕...
声を発する。
「一体お前の人生はなんだったんだ。たった十七年、何一つ、学んでこなかったんじゃないか。何か面白かったことはあったか?誰かを真剣に、愛したことはあったか?」
僕は静かに答える。
「憶えてないのか...?僕にだって、色んなことがあった。愛と呼べるかは...わからないけれど、とても好きな女性がいたんだ...彼女の為なら、人を殺すことだってできた。」
もう一人の僕は、笑いながら言う。
「父親を今でも恨んでいるんだろう?あいつから、彼女を奪えなかった。お前は腰抜けの糞野郎だ。」
目を瞑ると、目の前に実家のキッチンがある。
彼女はそこに立って、何か作ってる。
僕はいつも、その様子を後ろからそっと覗いて、眺めている。
十四歳の夏から、彼女は僕の、母になり、母を知らない僕は、彼女のすべてだけが、知りたいすべてだった。
親父が帰るのが遅い日はいつも、先に二人で夕食を食べる。
彼女はあまり、話さない人で、僕も無口で、本当にいつも静かな、静寂の食卓だった。
でも何も、彼女の作った料理の味を、想いだせない。
味なんて、何でも良かったんだ。
親父が彼女を妻として愛する日は決まって、金曜の夜と、土曜の夜だけだった。
それ以外の日、彼女は自分の夫に、愛されていなかった。
僕にはわかるんだ。彼女はまるで、金曜の夜と土曜の夜だけ女として必要とされ愛される僕のうちに住んでる父親の愛人みたいな存在。
キッチンから振り返る目の前の彼女を、見つめて言う。
「此処を出て、僕と二人で暮らしませんか。高校は退学して、何処かで正社員として雇われたら、何とか二人で生活して行けるはずです。最初は安くて古いアパートにしか住めないけれど、すぐに良い部屋を借りられるように頑張ります。貴女を愛しているのは、父親よりも、僕のほうです。」

重心が少しずつ傾く。いや、傾いているのは重心じゃない。
何が傾いているんだ...?
少しずつ、少しずつ、後部座席の方が、下に傾いている。
前部座席の方には、もう一人の僕。
目を瞑る。
僕は下半身を露出して、彼女の髪を思い切り引っ張り上げ、彼女に迫っている。
顔面を殴られたくなかったら、舐めろ。しゃぶれ...
僕は、泣き叫んでいる。
彼女はその日から、大人しく僕の言うことを聴くようになる。
彼女を脅し続けた。僕の言いなりにならないなら、僕は死ぬと言って。
親父は知っていた。知っていたんだ。すべて...
だからそれからは、父親は彼女を二度と、必要とはしなくなった。
僕は憶えている。
彼女は本当に、僕を愛したことはなかった。

目を開けると、教室はメダカの水槽の中に沈んでゆく。
バットで水槽を殴る。
水槽は割れて、水滴と共に、メダカがバスの天井から落ちてくる。
バスの床に、一匹のお腹の大きなメダカが跳ねている。

妊娠しているらしい。
彼女は何者かの、子どもを。
産婦人科から出てきた彼女の後を着ける。
薄暗い雑木林の間を縫うように、彼女は足早に、何かに追われるように行き急ぐ。
胸に手を当て、地面にしゃがみこむ彼女の前に、錫杖を左に、赤子を右に抱いた小さな水子地蔵が、寂しくぽつんと一つ建っている。
一体、何を拝んでいるのだろう。

目をそっと開ける。
さっきより、傾いている。
床に、跳ねたメダカは、卵胎生メダカで、腹から一匹の、稚魚が産まれ、苦しそうに独りで跳ねている。母親は既に息絶えている。
バスの天井から僅かに滴る水滴だけで、この赤く半透明な稚魚は泳ごうともがいている。
もう一人の僕が、哀愁たっぷりな顔で、囁く。
「殺してやれよ。苦しそうだろう。お前の割った水槽の、その中の教室の、その中の水槽の、その中のメダカの、その中の胎内にいた稚魚の、その中の、このバスの中にいる、お前。」
僕の視界に、バットが映る。
このバスは今、僕を産み落とそうとしている。
穴を、穴を、開けないと。
僕が無事に、生まれ墜ちる穴を。
バスの後ろのガラス窓をバットで叩き割る。
破片がいくつも、僕の身体に突き刺さる。
血が流れる。血が流れる。血が、羊水となって、バスの中を赤い水で満たす。
バスは大きく傾く。
僕を産み墜とす準備をしている。
もうすぐ、もうすぐ、僕は産まれる。
下に、墜ちて、鉄の器具で、頭をトマトのように潰される。
そのあと、そのあと、そのあと、僕は赤い海を漂い、そして生まれ変わる。
今度は、彼女と血の繋がらない、母と息子として。
バスは静かに落下してゆく。
四十二年前に、僕を堕ろして崖から身を投げた、彼女(母)のように。
美しく、静寂な、夕暮れ。
















蜿蜒の乳

2018-09-08 06:23:55 | 物語(小説)

彼は、目を細めて微笑うと言った。
「ご安心ください。わたしは、貴女の知る者ではありません。」
加菜恵は静かに、彼が後の言葉を発するのを待っていた。
彼はもう一度困ったような顔で微笑んで、キッチンに紅茶を淹れに行くとそこから彼女に向かって、
「お金はほんと、いつでも構いません。厳しい月には分割の支払いも無しで、翌月の後払いで大丈夫です。無理はしないでください。」と言って彼独自の、複雑な営業スマイルで微笑む。
加菜恵は彼と、あるSNSアプリで知り合った。
彼は自分のことを、『何でも屋』と称し、加菜恵のゴミ屋敷寸前のこのマンションの部屋の片付け、掃除、ゴミと不要物の処分を、月々三千円の分割払いで引き受けると言って今日の午後に遣ってきたのだった。
彼とはこれまでチャットと通話で三ヶ月ほど、色んな相談に乗って貰っては良いアドバイスを聴いてきたので、多分大大丈夫だろうと、彼のことを信用してはいたが、それでも一縷の不安を取り除くことはできなかった。
しかしドアを開けた瞬間、そこに立っていたのは想像以上の繊細で優しげな風貌の好青年であった。
とても華奢で観るからに、草食系男子といった感じで、何かにつけて控え目で、上品な彼の存在を、加菜恵はとても安心してかれこれ、三時間以上、一緒にいる。
年齢は二十七歳、加菜恵の十五歳下だ。
「まずは、要るものと要らないものに、分けて袋に入れていきましょう。」と彼が言っても、加菜恵はなかなかそれが決められないのだった。
例えばこのリュック、兄が住む実家に四年前に行ったとき、その様子があまりに酷かったことから、自分一人で掃除用具を持って電車を乗り継ぎして片付けに行くために買ったものだが、その後、兄からの承諾のメールの返事は来なかった為、未だにタグが着いたままで埃を被ってずっとそこにある。
これを捨てるか、捨てないか。その一つに、加菜恵はもう十五分以上悩んでいるという始末だ。
値段は二千幾らとかだった、大して高くない。
彼はちゃんと使えそうなものはリサイクルショップに持って行くと言ってくれた。
勿体無いという気持ちはこの際棄てましょうと彼は何度も違う言い方で加菜恵に伝える。
しかし加菜恵は、鬱症状が酷いため、決断能力を人の何倍も、喪ってしまっている。
横殴りの雨が、突然遣ってきて、この部屋のドアに当たり続ける音と、雨の降り頻る音、その時、彼が加菜恵に言った。
「では、わたしが決めます。これは、リサイクルショップに売っちゃいましょう。売値が付いたら、その分は御返済致します。物が多すぎるので、いつか使えるかもしれないと想って何でも取っておくとなかなか片付けて行くことが難しいです。」
彼はまた、加菜恵を見つめてどこか寂しげな営業スマイルで微笑んだ。
加菜恵は、彼の目を見つめ返し、こくりと頷いた。
そうして三時間以上経って、なんとかゴミ袋一つ分の物を、捨てる決断を二人で出来たことに、紅茶の入ったマグカップを持って祝い、加菜恵は溜め息を深くつき、彼は窓を見やって「疲れたでしょう。今日はここまでにしましょうか。外の雨がもう少し小降りになったら帰ります。」と言って紅茶を啜った。
加菜恵は蚊の鳴くような声で訊ねる。
「本当に後払いで良いんですか。」
彼は頭の中で想った。
あれ...これ何度目だろう...。
彼は目の前の加菜恵を見つめて「ははは」と力なく笑うと言った。
「ぼくのこと、まだ信用できませんか。」
加菜恵は彼がそう言い終わる前に言った。
「後でいかついヤクザを数人連れて来さして、おい姉ちゃん、身体で払ってもらうでぇ、んなもん、ははは、そんなうまい話、この世界にあるわきゃあらひんでっしゃろ、馬鹿正直のアホは損するて、覚えとっきゃ。って言われて...」
「ありません。そんなこと。」
彼は少し怒った顔をしてすぐさま答えた。
「ごめんなさい...」加菜恵は気まずくなり顔を伏せた。
「加菜恵さん、どうしたらぼくのこと信用できますか?」
彼は悲しい顔でそう問い掛けた。
加菜恵は頚を傾げ半笑いで「さあ...だって今日会ったばっかりですし...」
「ね?」
「ね...?」
「そのあと、"ね"を付けたら、"今日会ったばっかりです。死ね。"ってぼくに言ってることになります。」
加菜恵はドキドキした。何を言ってるのかしら、この人...
加菜恵は怖くなって、なんと言い返したら良いかわからなくなった。
気づくと雨は、もうすっかりやんで虫の音が、涼やかに聴こえている。
「雨...止みましたね。」
彼は寂しそうに窓を見て言った。
加菜恵は黙って、彼の横顔を眺めている。
「蛙とか...好きですか、爬虫類とかは...」
出し抜けにそんなことを訊ねられ、彼は困惑の顔を隠さず答えた。
「いえ、特には...何故そんなことを訊いたんですか?」
加菜恵は半笑いの顔のまま、小さな木目塗装のテーブルの右端を目で固定し、何も返さなかった。
彼はそんな加菜恵を、半分泣きそうな顔で見つめることしかできなかむた。
どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
気づけば午前、三時半を過ぎていた。
あのあと加菜恵は、おもむろに立ち上がると一人で赤ワインの瓶に残っていた半分を飲み干し、万年床の上に無言でダウンした。
彼はじっと座って、加菜恵の寝顔を見つめていた。
加菜恵は喉の渇きに目が覚め、寝返りを打って屁をこくと、そこに彼が、まだ座って居たので、ぎょっと目を見開いた。
「なんでまだ、居るんですか。」
加菜恵が恐怖の内にそう言うと、彼は傷ついた顔をして言った。
「黙って帰って、加菜恵さんが、ぼくがいないことに寂しがるとダメですから...」
この言葉に、加菜恵はグッと来るものを覚えたのだった。
しかし同時に、こうも想ったのだった。
「俺やなくて、おまえが寂しいんやろ。」
「来いよ。こっち。来いよ。来てえんだろ?」
加菜恵はハッとしたが、時既に遅し。脳内でだけの、言語であったはずが、酒を飲みすぎたからであろうか、その言葉を加菜恵は、はっきりと発声してしまっていたのであった。
彼はその言葉を素直に受け止めたのか、もじもじとし出した。
加菜恵はずっとその様子を冷静に見つめていた。
蛇の脱皮を観察するように。
「ちんこ立ってるのか。」
「えっ...?」
「ちんこ、立ってんのか。」
加菜恵は最早、後戻りは出来ないと想った。
もう終りだ。御仕舞いだ。せっかく好都合で便益、便利で利便性に優れた能率的で機能的な重宝な道具、いや人を見つけられたと想ったのに...
加菜恵は悲しくなって涙を音もなく流し、枕を濡らした。
「何故...泣いているのですか...?」
彼の問いに、加菜恵は答えなかった。
彼は呼吸を荒くして、「お水持ってきます。」と言い、立ち上がった、その時である。
「待って!」
加菜恵は叫んだ。
吃驚して彼が振り返る。
「子、子、子、子、子、子、子、子、子、子...」
「加菜恵さん、お、落ち着いてください。どうしたんですか...?」
「子、子、子、子、子だ、子種...い、一億、積みますから...きみの子種を、わたしに、どうか売ってください。」
彼は強い眼差しを光らせて加菜恵を見つめ、そのまま水を汲みに行って戻ってきた。
そして加菜恵の身体を起こし、水を飲ませた。
「ありがとおおきに。ほんまにきみは、気が利く子だこと...」
加菜恵は感心して素直に言った。
彼は加菜恵の肩を支え、小さく言った。
「それはつまり、ぼくと子作りに励む為の一億を積む、ということですか。」
加菜恵は頚を振った。
「いいえ、どのような方法でも良いのです。わたしが子供を授かるならば...」
「人工授精や体外受精でも構わないということですか。」
「ええ。」
彼は一瞬、顔を翳らせたが、いつもの複雑極まりない営業スマイルに戻り、加菜恵に向かって微笑んだ。
「わかりました。ぼくで良ければ、ぼくの子供を産んでください。一億円は、後払いの分割払いでOKです。」
加菜恵はホッとし、彼の胸に頭を預けて目を瞑った。
寝息が聴こえている...
彼は彼女の耳に、まるで母親が子に、絵本を読み聴かせるように囁き始める。
お母さん...ぼくのこの...苦しみが、痛みが、貴女に伝わりますか。貴女は十五歳でぼくを産み落とし、流したのです。厠へ...ぼくはそこから、独りで這い上がってきた。貴女の糞尿と羊水と胎盤まみれの汚水槽が、ぼくの揺り籠でした。貴女の新しい糞尿と経血が、ぼくの大切な栄養分だったのです。あたたかかった。貴女の汚物は何より、ぼくを安らかにしました。ぼくは誓ったんです。一生を、貴女の汚物にまみれて生きたいと。貴女の中にある穢いすべてが、ぼくを育ててくれたのです。紛れもなく、わたしだけの貴女の愛は、貴女の汚物、そして貴女の汚水。貴女の穢いすべてこそ、美しい...ぼくを何より苦しめる貴女は、貴女の排泄する糞尿より、血より、穢く、おぞましい...わたしの子供が、そんなに欲しいですか?貴女が便所に、雪隠に、堕として糞便と共に流したわたしと貴女の子供が、貴女は欲しいとわたしに言った。もし、わたしの子供を貴女が産んでくださるなら、その子供は、貴女はわたし以上に可愛がる御積りですか。わたしはもう、用の無い、排泄物と変わりはありませんか。貴女の中から、出てきたのです。わたしは貴女の中から、生まれ堕ち、今、貴女はわたしを、自らの排泄物以下としています。貴女はいつもわたしに相談していましたね。男など、信用できない。どのような男も。だからわたしは、わたしの愛する子供がいればそれでいい。男など、子種を着けるだけの価値しかない。どのように、わたしは望む赤ん坊を産めるのでしょう。どのように、わたしの可愛い可愛い赤ちゃんの父親の遺伝子として認める男に出逢えるのでしょう。子種だけ貰えれば、あとは何も、必要ありません。男など、皆、馬鹿ですから。母親の代わりを探しているに過ぎません。母親に似た女しか、愛さない男を、わたしは探しています。その男の母親はきっと、わたしでしょう。例え息子のようにしか想えない男でも、わたしが認めるなら、わたしのたった一人の愛する我が子の父親の遺伝子として相応しい。わたしはどうすれば彼と、出逢えるのでしょう。
わたしは愛しています。今はまだ、どこにも存在しないわたしの子供だけを。わたしは彼だけを愛するのです。まるで、母親のように...

気づけば彼の目からは白濁と、涙は母乳となって、彼の胸に抱かれる小さな母親の口許に垂れ落ちた。
彼の母乳は、それから蜿蜒と、垂れ落ち続けて渇くことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Hotline Miami

2018-08-30 01:05:35 | 物語(小説)
※この作品は、暴力シーンやグロテスクな表現が多く含まれています。
この作品はビデオゲーム「ホットライン・マイアミ」の二次創作物として設定、同じ台詞が出てきますが内容は異なります。


















おい、此処は何処なんだ。俺(俺は女か?男か?それすらも忘れちまったようだ)は何処にいる。
此処は・・・どこかの地下倉庫みたいな場所だ。酷く黴臭い。意味のわからねえヤツが閉じ込められそうな場所だ。
雨の匂いも感じられるが此処は屋内のようだ。
頭痛がずっとしていて、エメラルドグリーンとイエローの点滅が俺のなかでしている。

その時、ドアが開いて鶏が一人なかへ入って来て言った。
「目が覚めたか。おまえは一体何者で、何故こんな処にいるか、わかっているか」
俺は煙草に火を点けながら言った。
「いや、わからねえ。あんたが鶏だってことも俺にはさっぱり、わからねえな」
鶏は側にあった木箱に座って答えた。
「よく見ろ。俺は鶏に見えるか」
俺は頭を掻いてくんくんその爪を嗅ぎながら言った。
「ああ、あんたは鶏だろ?赤い鶏冠(とさか)がチャームポイントになってる」
鶏は木箱の上で右脚を立てて膝を抱えながら答えた。
「オレは鶏の頭のマスクを被っているが、おまえと同じ人間だ。よく見ろ」
俺は項垂れて木の床板を見詰めた。
「そんなことはわかっているつもりだ」
「オレはおまえを知っているし、おまえとオレは前にも会ったことがあるだろう?」
「憶えちゃいねえよ・・・。それになんでさっきからあんたが俺にショットガンを向けているのかも、俺には、わからねえ…」
鶏は携帯の画面を見ながら言った。
「向けていないが、おまえがそう見えるなら、オレは否定しない。それより時間が迫っている。今から5時間以内に、この建物にいる人間を全員殺せ。もしおまえがオレの任務を遂行しないなら、その時は、おまえの命は無いものだと想え」
そう言って鶏は奥にある大きな箱の中からあらゆる形状の銃、ナイフ、日本刀、爆弾、鎌、斧、バット、ゴルフクラブ、アサルトライフル、ショットガン、サブマシンガンを取り出し床に並べた。
俺は迷わず黒いショットガンを手に取り、鶏に向って言った。
「俺はあんたに会ったことがあるような気がするが、想いだせねえ」
鶏は一つのナイフを手に取り自分の頚動脈に向って突き立てながら答えた。
「制限時間は朝の8時まで。それまでに全員を殺せ。何、おまえに罪はない。おまえを脅迫し、命令したのはオレだからな。勘違いするな。此処は夢のなかだろう?」
そう言い棄て、ぺた、ぺた、ぺた、ぺた、と音を立てながら鶏はこの部屋から出て行き、見えなくなった。
俺は何名いるのか、訊いておけば良かったと後悔したが、もう家鴨を、いや鶏を追って訊きに行くのも億劫で、人を殺すという使命以外、何もしたいと想えなかった。
俺が誰で此処は何処で、俺が愛していたのは誰で、俺が見ていたものは何か?そんなことは、もう何だって、どうだって良かった。
気付けば頭痛も引いて、此処は居心地の良い場所、誰も俺を傷つけず、誰も俺を殺さないが、俺は人を。
ずっしりとしたショットガンを右手にぶら提げ、俺はこの部屋を出た。
身体は軽く、現実味は感じない。まず、歩いていると(此処が外だか中だかわからなかったが)俺は待ち伏せてあった黒いミニバンに乗った。
運転手は、リアルな豚の頭だけの着ぐるみを着た人間。
鼻先を触って確かめてみたが、本物の豚の皮のような触感だった。
豚は俺に番号の書いた紙切れを渡し、「もし助け手がどうしても必要になったらここへ電話しろ。もう一人の、殺し屋を呼んでやる。しかしおまえは、そいつに大きな借りが出来る」と言った。
目が覚めると、俺はPizza Restaurantの透明のドアの前に立っていた。
外から中を覗いてみると、ミリタリーな戦闘服を着て手にはショットガンを持っている奴らが1,2,3,4,5人もいる。
眼鏡をかけて髭を生やした長髪で赤毛の店主らしき人間を銃で脅し、ピザをただで喰らっていた。
俺はまず、窓の外から店主の心臓を撃ち抜き、次には5人の兵士たちの頭を次々に撃って行った。
皆、脳味噌を辺りにぶちまけて、派手な死に様でその血は、ピザソースの色そっくりだったので、俺はその血を手で掬ってテーブルの上にあったピザの上にトッピングして携帯でカメラを撮った。
序(つい)でに、白っぽく黄色っぽくもある脳味噌は丁度チーズのようだったので、それも手で掴んでトッピングしたが、それは携帯のカメラで撮らなかった。
俺はテーブルの上にあったメニューを開いて、VEGANPIZZAを探したが、なかった。
FUCK,そう言って中指を立てて眼鏡のズレを直し、皿の上のピザにショットガンを向けて撃った。
テーブルと床に穴が開いた。
俺は携帯を見て残りあと4時間34分しかないことを知り急いで外へ出た。
待ち伏せてあった黒のミニバンに乗り、運転手を見た。
狼の剥製で作ったような頭だけの着ぐるみを被っている人間が俺にペットボトルの水を差しだし言った。
「よく遣った。おまえは人殺しが慣れているようだなぁ。しかし油断は禁物だぞ。おまえに殺されたい人間など、一人もいない。おまえの中にはいたとしてもな。その水、美味いだろう。此の世で一番高い水だ。何、感謝も憎悪も要らない。逆の立場なら、おまえだって同じ事をしただろう?」

目が覚めると、薄暗いエレベーターのなかにいた。
54階でドアが開き、俺はエレベーターの外へ出た。
黒いバラクラバを被った男に呼ばれ廊下を歩いて着いて行く。
携帯を見ると午前4時32分。まずい、8時まであと三時間半しかない。
案内された部屋へ入ると中には先程のピザ屋の店主が一人とバラクラバを被った人間が俺をここまで連れてきた男含め1,2,3,4,5人、ピザ屋の人間はまた銃で脅され怯えている。
俺はまずピザ屋の人間を撃ち殺し、後に続いて残りの五人の頭も素早く撃ち抜いた。
流れ出た血をまた手で掬ってテーブルの上にあった赤ワインの入ったワイングラスにぽたぽたと垂らし、それを携帯のカメラで撮った。
そして小鉢に飛び散った白い脳味噌を盛り付け、葱を刻んでもみじおろしを載せ、ポン酢を数滴垂らして白子風脳味噌の刺身を作ったがそれを携帯のカメラには収めなかった。
白子ってどう見ても人間の脳味噌じゃねえか、FUCK,と言って中指立てて眼鏡のズレを直し、白子風脳味噌の刺身をショットガンで瞬殺した。
エレベーターで1階まで降りて待ち伏せていた黒のミニバンに飛び乗った。
運転手はタイガーの頭だけの着ぐるみを着た人間だった。
俺は血と体液でぬめついた手で顔を覆い眼を見開いて口を手で押えながら言った。
「12人殺した。あと何人いる?」
タイガーはバッグからほかほかの御絞りを俺に渡して答えた。
「それはおまえ次第だ。オレにはわからない。何故って?言っただろう。此処は、おまえの夢のなかだろう?おまえはあと何人殺せば、任務を全うするんだ?」
「おかしいよ、この世界は。最初のフィールドで殺したはずのピザ屋の男が、さっきもいた。何故だ?」
タイガーは煙草を着ぐるみの中で吸おうとして咳き込みながら答えた。
「おまえにはそう見えるだけだ。おまえの罪悪の念が、おまえに幻影を見せている。兵士にはよくあることだ。おまえはこう信ずるべきだ。おまえに殺されたすべての人間は、皆死ぬべき存在であったのだと。何故か?それはおまえが生きる為だ。他に答えがあるのか?」
「俺が生きる為なら、何人殺しても赦されるのか」
手渡された御絞りを冷めてもじっと見詰めている俺に新しく熱い御絞りを渡してタイガーは言った。
「そうだ。おまえには遣り残したことがあるから、おまえが残している砂金をすべて浚い切るまで。殺しても赦されるっておまえは想っているのか?」
「いや、俺が訊いているんじゃないか」
「ははは、そんなことは、おまえがおまえのなかで、考えろ。ここはおまえの夢のなかだろう?」
俺は手渡されたお絞りが今度は冷めないうちに顔と手をごしごしと拭いてから答えた。
「あんたに、前にも会ったことがある気がするんだが、」

目が覚めると無機質な白い空間に白い上下の作業服とマスクの付いた白い無塵キャップ。
クリーンルームの流れ作業は外の色彩豊かな世界が本当に存在していることを忘れさせてくれる。
つまりこの空間のどこにも在りはしない監視カメラに絶えず監視され続けていることを知るための限りなく人が人であることを忘れさせてくれる空間だ。
もう、たくさんだ。宇宙からの追放。現存在している全宇宙からの追放を待ち望む。
俺はいつもの夜勤を終えて早朝に家に帰った。
シャワーを浴びるのも歯を磨くのも億劫で水を一杯飲むと俺はパイプベッドに横たわり、目を瞑った。

翌朝にベッドの上で目覚め、俺はようやく自分の任務を想いだした。
しまった。俺は携帯を見た。時間は残り3時間19分。
全身白尽くめの作業服に着替えクリーンルームに入る。背中に挿し込んでいたショットガンをおもむろに抜いて白尽くめの作業員たちを片っ端から撃っていく。離れたところから撃っても腸や肉片が吹き飛ぶ。
無機質で白い空間が一気に生々しい生命で彩られた空間に成り変わる。
この部屋にいる人間はすべて撃ったか。俺は血でぬるぬるした白い床を滑らないように慎重に歩いて部屋を見渡し、エアーシャワー(高速ジェットエアーを人や搬入物の表面に直接当てて、付着した塵埃を除塵するための一メートル四方のクリーンルームの出入り口に設置されている装置)の中を確認しようと近づいた。
中に人間がいるのが見えたが様子がおかしい。俺はショットガンを相手に向けながらエアーシャワーの中へ入った。
高速ジェットエアーが撥水加工の作業服に飛び散った返り血を四方の壁に微小の赤い斑点状に一瞬で噴霧させる。
俺は中にいる俯いている人間のこめかみにショットガンを向け引き金を引こうと指に力を入れたとき、相手が見上げ目が合った。
目の部分だけが開いた白い帽子の隙間から見える潤んだ褐色の目が俺に訴えかける、女の目のように見える。
俺は震えて気を失うんじゃないかと想うほどの動悸のなか相手の帽子を乱暴に掴んで取り去った。
ブロンドに染めた長い髪が乱れ相手はまた俺の目を訴えるように見上げた。
木目細かそうなのにぼろぼろに荒れた色白の肌に老けてるのに同時に童顔でおぼこいすっぴんの顔。変に細い首。ガラス玉みたいな丸い目に黒く太い眉毛。乾燥して罅割れた唇の上に生えた産毛……。俺は目の前のどこか異様で矛盾だらけの人間の魅力にとり憑かれ引き金を引くことができなかった。
女か。たぶん女だな、こいつは……。
俺はショットガンを下ろし作業服を脱いで女の着ている作業服も強引に脱がし、紫のワンピース姿の女を35kgの米袋(女は変に軽かった)を肩に担ぐように抱きかかえるとそのままエレベーターで降りて乗ってきた黒のミニバンの助手席に乗せて車を走らせた。
女はずっと助手席で背を丸めて顔を伏せて震えていた。
住んでいる外装も内装もコンクリート打ちっぱなしのアパートに着いて女をまた同じように肩に担いでエレベーターに乗って部屋に入った。
女を廊下で下ろすと女の前で裸になりシャワーを浴びた。
顔に付いた返り血を洗い流すまで息もまともにできない。
シャワーから裸で上がると女はまだ廊下で震えて膝を抱えて座ったままだった。
身体を拭いて女に水でも入れてやるかと想ったが、ふいに限界が来てベッドに倒れ込んでそのまま意識を失った。

目が覚めて、携帯を見た。午後5時48分。一体何時間寝てたんだ。
寝返りを打って我が幻と我が目を疑った。女が静かに寝息を立てて眠っている。
女が俺の隣で寝ているなんて、一体何年振りだろう。覚えちゃいねえ。
俺は女の首に幾つもの赤い大きな腫れ物ができているのを発見した。
それが妙に、俺を欲情させた。堪らずその腫れ物に舌をレロレロと這わすと下腹部の情熱も抑えきれなくなり女の下着を首に舌を這わせながら脱がして触れると生温かい粘液が手に付いた感触がして手を女の股から引き抜いて見た。
俺の手は鮮やかな赤に血濡れていた。失神しかけるほどの貧血になり俺は手の血がシーツに付かないように上げたまま女の寝顔を眉を顰(しか)めて眺めた。
一体、何を考えてるんだ俺は。これ以上情が移ることをすると自滅だ。
この女も、当然俺が殺さなければならない人間のカウントに入れられているはずだ。
多分、逃げられないだろう。俺はこの女を逃がして、生きてはいけない。
懐かしい……。この女が俺の隣にいるこの空間が。
俺は何かを、大事な何かを忘れちまってるんじゃねえか…?


1989年4月3日フロリダ州マイアミ

起きて手を洗い顔も洗って歯を磨いたあと、留守番電話のボタンが点滅していたのでボタンを押した。
「新しいメッセージが1件あります」と音声が聞えた。
「❇ピー❇ パン屋のティムです。ご注文のクッキーですが、もう届いているはずです。
 レシピも入れてあるので、よく確認してください」
俺は廊下に出てドアを開け、共同廊下に置かれた箱を中に入れその中を見た。
中には鶏のマスクと一枚の紙が入ってあり、そこにはこう書かれていた。
「今からすぐにポイントF-32に行け。制限時間まであと1時間半を切っている。Shake it(急げ)失敗は許されない。常におまえを監視している」
俺は急いで着替え、女のあどけない寝顔を一瞥すると鶏の頭を持ってショットガンの入れたバッグを手に持ち、走って車に乗りポイントF-32に向けて車を爆走させた。
昨夜に殺した数は確か十人。女を入れたら十一人だった。
ブリッケル地下鉄駅に着いて、俺は車を降りた。
駅に向う階段を下りて入り口前にいた白い防護服姿の人間に向けて躊躇わずにショットガンをぶっ放した。
しかし急所を外し、相手は倒れながらも呻き声を上げていたのでもう一発心臓に向けて撃った。男は血をげぼっと内臓を吐き出すかのように勢いよく吐き出し、目をかっ開いたまま息絶えた。
男の顔はどこかで見た顔…そうだ、あのピザ屋の店主だ。
俺はよろよろと先へ進もうと歩いたが、耐え切れずに被っていた鶏のマスクを剥ぎ取り跼(せぐくま)ってグレーと黒のチェッカーボード模様のフロアに胃の中のものを吐いた。
ほとんど胃液だった。そういえばいつから俺は食べていないんだ。
あの女が食べられるものが俺の部屋にあればいいが・・・。
生え際から流れて来る脂汗がフロアに落ちる。
そんなことを考えている場合じゃねえ・・・。早くここにいる全員を殺させねえと。
俺は酸っぱい胃液状の唾を吐き捨てよろめきながら起き上がり、正面の先にあるPublic Lavatory(公衆トイレ)のドアを思い切り蹴り飛ばし左側洗面台と鏡の前に立っていた白い防護服の男の腹を撃ち抜いた。
男は即死状態で両手を広げて仰向けに倒れ腹からは腸(はらわた)が飛び出して内容物の糞便も辺りに飛び散っていた。ちかちかとランダムに明滅する切れ掛けの蛍光灯がフラッシュバック的な惨状の映像を作りだしている。
俺は込み上げて来るものを必死に飲み込みながら個室に誰もいないことを確認すると先へ進んだ。
中に誰も、誰もいなかったはずだ。俺はさっき確認したばかりのトイレの個室の一つに、俺が座って煙草を吹かしている姿が一瞬見えた気がしたのを想いだす。
幻覚が見えた?それって、この状況じゃあ・・・正常の証じゃねえか・・・。
さらに階段を下り、駅までの廊下の曲がり角で出会い頭(がしら)に俺に銃を向けようとした白の防護服姿の人間を振り向きざまに約1メートルの距離から心臓を狙って撃った。
心臓を狙ったつもりが顎を貫通させ首から上が吹っ飛び、頭蓋骨は砕け散り頭部の原型は全く留めていなかった。
腹ン中がペパーミントのハーブを吸ったみてえにスースーする。俺は苦い唾を飲み込んで先へと急いだ。
憶えちゃいねえんだよ…いやまったくだ…。俺は気付けば独り言を何やらぶつぶつと呟いていた。
走ってって駅の待合室にいた人間の右斜め後ろからショットガンで思い切り頭部を殴りつけ仰向けに倒れ込んだ男の胸に銃口を当て、今度は外さぬように心臓を撃ち抜いて即死させた。
白い防護服の開いた真っ赤な穴から何かが生れて来ようとしているかのようにぶくぶくと音を立てて血の泉が湧き上がって来た。
変に喉が渇いて近くにあった自動販売機のボタンをすべて拳で連打する。出てこない。一つも。何故だ?ああそうだ、金を入れてなかった・・・。
俺はジーンズの後ろポケットから財布を取りだし吐き気に耐えながら小銭を取ろうとしたら小銭入れを逆さに向けて口を開けた為、中の小銭が全てフロアに散らばった。
咄嗟にマスクの上から口を押さえ背を屈めて小銭を拾おうとしたが小銭がすべてスローモーションでフロアに跳ね返りうまく掴むことすらできない。
俺は膝を付いて這うようにそのコインを掴み取る為に手を必死に伸ばした。
スローで生きているように飛び跳ねるコインの向こうに、何かがぼやけて映り、俺がコインを追っ駆けて這ってようやっとコインが停止しようとして俺の手が掴めそうなそのスロー映像は、コインがちょうど殺した男の見開いた眼のすぐ前で止まった瞬間、停止した。
おかしいな。俺は確かさっきこの男を仰向けの状態で殺したはずだが、何故顔だけ横を向いて死んでいるんだ?
世界が急速に歪んでゆく感覚のなかで俺は起き上がり結局、男の死体の首を撃ち抜いた。
男の首と胴体は切り離され、首はぶっ飛んで行きその目は明後日の方向を凝視していた。
俺は頭を抱え込んだ。何かが確実におかしい……この男は…この男は、最初に殺したピザ屋の店員じゃねえか……?
んぜ、…なぜ…、…ぜ、何度も何度も何度も、何度も、俺の前に現れて来るんだ……?
残りの6人を、気が朦朧とするなかゴルフクラブで頭部を殴りつけて殺し、その後、指示通りに別の場所へ向ってそこの路地裏でバットを手に持って向ってきた一人の浮浪者のような男を顔面をバットで殴って撲殺した。
実際、この男は殺すべき人間だったのかもわからず、俺はまた正常な感覚に戻った途端、嘔吐した。
何の因果か、俺はその男の潰れた顔面の上に嘔吐してしまい、我の因果を呪っても呪い切れなかったが、そうやって絶望する暇も無く、俺はとにかく死にたくは無いということだけがはっきりと自分のなかにあった。
殺されるよりは、殺しても先へ進みたい。その先がどこに繋がっているかということを確かめるまで。
もう少し、簡単に殺せないだろうか、と、俺は想った。
目を瞑ってでも、人を殺せるようになれたなら……?は…はは…は…はは、はァ……はァ…・・・はァ……はァ……ジーザス…………。
取り敢えず、今夜の使命の全員は殺せたはずだ。俺は血でまみれた手を洗面台で洗い流し、ついでにマスクを脱いで洗い、顔を洗って口を濯ぎ、ふと、目の前のミラーを見た。

顔を洗って、口を濯ぎ、目の前のミラーを見た。
随分窶(やつ)れているな……。疲れが酷く、溜まっているようだ。
俺はコンビニの洗面所のドアを開けてレジカウンターにいる男に煙草を注文しようと声をかけた。
すると男は気さくに俺を知っている様子で話し掛けて来た。
「おっ、アンタか。ひさしぶりだな。何かあったんじゃないかって心配してたよ…。彼女があんなことになって落ち込んでたみたいだったしな…。会うのは…あれ以来だよな…」
俺はさっぱりなんのことだかわからず、黙っていた。
すると男はバツの悪そうな顔をしてはにかみ、また話を続けた。
「別の話でもしよう…。今度一緒に、ナイトバーにでも行こうか」
俺は目を逸らして何も返事しなかった。
「……。夜食でも買いに寄ったんだろ?遠慮しなくていい。店のおごりにしとくよ…。会えてよかったよ。ゆっくりしてってくれ」
俺はなんて返事して良いか困り、店員の男の風体をざっと素早く見渡した。派手な眼鏡と身形(みなり)に赤毛の髭と長髪…そういえばどこかで会ったような気が……。
駄目だ、想いだせない……。俺は欲しい煙草を貰い軽く辞儀だけで済ませると適当に帰って食べるものや酒を選んでカートに入れ、負い目を感じながらそのまま外へ出て助手席にカートに入れたものを載せ、車を走らせた。

部屋に戻って真っ先に服も脱がず靴も履いたまま熱いシャワーを浴びて付いた血を洗い流した。そして洗面台でマスク、ジーンズをお湯を溜めて酵素系漂白剤で浸けた。
白のスカジャンは血が凄まじく飛び散っていたが、洗っても血が取れないと想ったのでそのままにした。
頭と顔と身体を適当に洗い裸のままキッチンへ行き冷蔵庫の中からペットボトルの水を出して飲んだ。
そしてふとリビングのほうに物音を感じて振り向くと、見知らぬ女が怯えながらも唖然とした表情で突っ立っていた。
ひいぃっ。と俺は驚愕のあまり声にならぬ声を上げた。
この女は……そうだ、あの夜クリーンルームのエアーシャワーの中に居て、部屋に連れて帰ってきたのか…。
想いだして俺は気まずい想いで黒のジャージの上下を着て、髪の毛が濡れたままでぽたぽた滴が垂れてくるのでフードを被り、顔を逸らして立ち竦んでいる女に声をかけた。
「腹、減ってねえか…?適当に持って帰って来たのがあるから、喰いたければ喰ってくれ」
そう言ってバッグに入れて持って帰ってきた弁当やパスタやパスタソース、菓子やビールやウィスキーなどをダイニングテーブルの上に並べた。


1989年4月8日フロリダ州マイアミ

テーブルの上にはピンクの紙に書かれたニュースレターが置かれてあった。
そこにはこう書かれてあった。
「あなたの登録に心から感謝しています。あなたの登録によってわたしたちの理念によるプロジェクトはもうすぐで成功しそうです。わたしたちは一つの歌です。わたしたちを賛美する”40の祝福”の歌を共に歌いましょう」
ニュースレターなんかに登録した憶えはないが、何かの間違いで送られて来たのだろうか?
俺は弁当を手にとって、温めて喰おうかと想ったが、やめて、ジェノベーゼパスタ(ノンチーズ)を二人分作ることにした。
まず鍋に水と塩を入れて湯を沸かし、そないだ俺はコンロの前で煙草を吸った。女はどうして良いかわからない様子で黙ってダイニングチェアに座ってじっとしていた。
想いだしたくないことが甦りそうになったので苦し紛れに女を振り返って話しかけた。
「俺は…たぶん家にいないときが多いと想うが…好きに使ってくれ。あんたも行く場所なんて、他にないんだろ…?」
女はまるで暴力を奮われた後のワイフ(妻)のようにキッチンのチェアに座ったまま重たい影を背負って俯いていたが、俺を複雑な顔で見上げた後、俺の後ろを指差した。
「え、なに…?」と訊きながら後ろを振り返ると湯が沸騰していた。
パスタを二人前放り込んだ。
こういうときコンロが二つあると便利なんだが…
俺は煙草をテーブルの上の灰皿に押し当て、椅子を引いて座り、女に面と向って言った。
「あんた……一体どこの人間なんだ…?」
女はまた俯いて黙った。
俺はジェノベーゼの瓶を右手で掴んで椅子を引いて立ち上がり、ジェノベーゼを瓶のまま鍋に入れた。そして入れた後に、ジェノベーゼはフレッシュ(生)だから美味いんですやん。と後悔した。
しかし熱いから瓶を掴むことができないし、仕方がないので温めることにした。
そして冷蔵庫の上にある小さなデジタル時計を見て、あと5分で湯から上げようと想い、シンク漕の水切りの上に置いた赤のマルボロボックスをまた一本取り出して吸った。
溜まってくる唾液を何度も飲み、洟を啜って溜まった痰を排水溝に吐いて水を流した。
マルボロとライターを右手で女の目の前に差し出し、「吸うか?」と訊いたが、女はまだ俯いたまま首を横に振った。
叫びたい気持ちが溢れてきて仕方ない。俺はもういいやと想ってパスタを水切りボウルに上げ瓶を取り出そうとしたが、これが熱くて素手では掴めなかった。
手拭用のタオルで瓶を掴み蓋を開け、パスタをボウルに開けてそこへジェノベーゼをぶっかけて混ぜ、それを二つのプレートに分けて入れた。
女の前と自分の席に置いてフォークを引き出しから二つ取り出して女に一つ差し出した。
俯いた顔をやっと上げたと想うと女の顔は涙で濡れていた。
無言でフォークを取り、女は俺より先にパスタを黙々と食べだした。
なんだか何年も前から一緒に住んでるみてえな行動だな…と俺は想ったが、変に気を使われるよりは気が楽でいいとどこかほっとして俺もパスタを喰った。
肌が荒れに荒れた年齢も素性もわからぬ女の顔は汚くて痛々しいものだったが、それでも女がパスタをフォークで巻くこともせず焼きそばを喰うみたいに背を丸めて横から垂れてくるブロンドに染めた髪を押さえながら不味そうにのろのろ喰っている姿を見ていると変に欲情してくるのだった。
俺はズレた眼鏡を中指で持ち上げて直し、眼鏡をかけていたことを今頃になって想いだした。
缶ビールを開けて飲んでいると、女が物欲しそうな目で見てきた。
俺はテーブルの上に並べたビールを顎で指して「飲みたいだけ飲んでくれ」と言った。
女は黙って缶ビールを開け、ごくごくと喉を鳴らして飲んだ。
俺は美味そうに酒を飲んでいる女を酔いの回るなか椅子に腰をずらして浅く座る体勢で眺めていた。
「美味いか。そんなに……」そう無意識に女に話しかけていた。
女は初めて、俺を見てこくりと頷いて微笑んだ。
なんだか消え入りそうな、笑顔だな……。

目が覚めると、車の運転席に座っていた。
変な夢を見ていた気がする。
屋内にいる人間をあらゆる武器で次々に殺して行かなくてはならないゲームをしているのだが、そのゲームの何がまず難しいかって、まず行きたい方角へ行くことからあまりにも難しいゲームで、てんで行きたい方角へ行けなくて変な方角を向いてあたふたしていると即刻、殺され、リスタートしなければならない。
しかし段々と慣れて、時間を掛けるなら一つのステージを二時間ほどでクリアすることができるが、当然、俺が殺す回数よりもずっと相手から殺される回数のほうが多い、それは感覚的には、復讐を行い続けているような感覚で、復讐の感覚になってしまうことで、相手を殺しても罪悪感より快感を感じてしまうように仕組まれているような、クリアしたときの達成感は大きいが、その感じる達成感もこのゲームの作者が作り出した巧妙な計画の元にあるのはわかっているし、精神を軽やかにする喜びとは程遠く、まるで自虐めいた自分を罰する喜びと快楽のために行うようなゲームで、俺の自罰のプレイを喜ぶゲーム作者の喜びもまた、自虐的であるに違いない。
例えゲームのなかでも、俺の感覚が自罰である限り、人を殺して行くゲームの業は俺に積み重なって行くだろう。
先程聞いたばかりの留守番電話の内容を想いだそうとした。
ベビーシッターを今すぐ頼む 住所はイースト7番街 言うことを聞かないやつらに、しっかりと言い聞かせてやって欲しい 一度ガツンとやらないと、わからないんだよ 前回と同じ感じで 手際よく、お願いするよ
そう確か言っていたはずだ。
忌々しく、堪え難いものも、いつかは終るはずだ……。
俺はスティグマ(烙印)を自ら着るかのように返り血を浴びたままの白のスカジャンを着ると、イースト7番街へ向けて車を走らせた。
依頼場所のマンション前に着くとまた届いていたフクロウの覆面を被り、時計を見た。
制限時間まで残り1時間13分。
マンションのエントランスを抜けて階段を上がり、廊下の突き当たり前左側のドアを開け、ナイフを手に持ち向ってきた白防護服の男の顔面を思い切り素手で殴ると、男は後頭部を床に打ち付けて顔を両手で押さえ込みながら倒れ、俺は男の持っていたナイフを素早く手に取り馬乗りになって男の頚動脈を深く切り裂いた。
血が細い噴水のように噴出し生温かい血が覆面の目の隙間に飛んで覆面の内側を流れ、相手の血が自分の涙のように口に向って垂れ落ちた。
そのまま通路を行くとキッチンとダイニングスペースがあり、ドアの前の壁でナイフを構えてドアの向こうに歩く足音を聴き取ろうとしたが聴こえない。
一か八かでドアを静かに開け、目の前にいた銃を持った男の胸を数回突き刺した。
硬めの木綿豆腐を突き刺しているくらいの感触に恐怖し、また正常な感覚に戻り胃液が上がってきたが男の持っていたショットガンを奪うとその部屋のもう一つのドアの横で身構え、ドアをまた蹴破って目の前にいたショットガンを持った男に向けてぶっ放し、弾は男の胸の中心部に命中した。
もう一人の右手にいた男にもぶっ放し、狙いを定める隙もなかったので男の右肩にまず弾が当たり右肩が根元から吹っ飛び、続けて後ろに倒れかける男の胸を狙って撃ったが男の左足の付け根に命中して倒れた男は動かなくなった。
最初の男を殺った通路まで戻り右側のドアを開けた瞬間に視界に入った男の胸を目掛けて撃ったが弾は男の左脇腹を掠め、男の撃った弾は俺の右側の開いたドアに貫通し、男の左手にはもう一人の男が俺を狙って銃を構えているのが見えた俺は無我夢中でショットガンのスラッグ弾を乱射した。
スローモーション映像を観ているように、向って左の男の顔面が割れ、右の男の左耳を弾が掠め男は耳を手で抑えて床に蹲った。男が哀れに想い、銃で殴って気絶させてから殺そうと近づくと男は覆面を外し、目を真っ赤にして掠れた声で「頼む……見逃してくれないか…」と俺に訴えた。
赤毛の長髪と伸ばした髭、気の荒いヤクザ顔にも見えれば中古レコード屋の店長を気侭(きまま)にのんびりとやっていそうな寛容さが混然しているようなこの男の顔は……あの最初のピザ屋の店員の顔とそっくりじゃねえか。
男は俺の顔を透り抜けて後ろの壁を見るような目で言った。
「アンタとは…初めて会ったような気がしないんだよ…」
それは恐らく正解かもしれないが、この男はもう既に、意識はあの世に逝っちまってるのかもしれねえ…。俺は耐え切れず男の後ろへ回った瞬間、背中から心臓部目掛けて撃ち抜き、男は上半身を前に倒したあとに激しくバウンドして仰向けに倒れた。
死んだ顔を見ないように目を逸らしながら男の持っていたショットガンに持ち換えると誰も殺す相手はいないことを確認して回り、車を止めていた場所まで走って車に乗った。
変に自分の鼓動がゆっくりになっているような気がして落ち着いて手の汗と血をタオルで拭うと返り血が滴る覆面とジャケットの血を拭いてそれらを助手席に置いていた鞄の中に突っ込み、シートベルトを着けエンジンを掛け、深く息を吸って吐いたあと車を発進させた。
疲労とストレスの限界を余りに超えてしまうとこのように空中遊泳をしているかのような宙に浮いたような肉体と意識の状態になるのだろうか。
ネオンサインが赤や黄色や紫の配色を夜に反射するこの真夜中のドライヴの時間、俺は少しほっとした喪失感のなかにどうしようもない孤独だけがこの狭い空間内部で叫び続けられる慰みであるように感じた。

「やあ、いらっしゃい」
植物100%のピザが午前3時半まで売っている狭くて古いピザ屋に寄ってカウンターの前に行くと赤い帽子を被った店員の男がカウンター越しに俺に妙に気の知れた者みたいに明るく声をかけてきた。
「いや、注文する必要はない、ピザはもう出来上がってるから。なんだか、アンタが来そうな気がしてな…ハハ…」
俺はわけがわからず黙っていると、男は笑ったまま開いた口を閉じて瞬きを数回したあと下唇を軽く噛み締め(歯並びは悪かったがそれでいて神経質そうな歯並びが男に良く合っていた)、息をつきながら話を続けた。
「まあ、とにかく、そういうこった。代金はいらないよ。店のおごりってことで」
緑がかった人情深さとギラつくものを並存させた目に大きな黒縁眼鏡、コシの強そうなウェーブのかかった赤毛の長髪と髭。マリファナを吸いながら接客を遣っていても特に違和感のない闇の深いポリネシアで独自の密教を開祖しようとして失敗に終わりマイアミでピザ屋の店長を遣っているSpiritualist(スピリチュアリスト)みたいな風貌の男……そういえばどこかで会ったような…。
でも想いだせない。このピザ屋も、どこか懐かしい感じがする。想いださないほうがいいだろうから忘れてしまったのだろうが、想いだせない苦しみが想いださない苦しみを超えるとき、きっと容易に想いだして苦しむんだろう。
そうどこか諦めずにはおれない感覚になって、俺は男が焼き上げたピザの箱を無言で受け取り、店を出て帰ろうとして振り向くと右のテーブル席に小さいガキと父親の親子連れが黙々とピザを喰っているのを見た。
もう夜中の2時を過ぎているのに、なんだか深い事情がありそうな親子だなと一瞥し、俺の内に切ない孤独が荒漠と広がり、記憶が戻らないことを恐れる想いと記憶が戻ることを願う想いを抱きながらピザ屋を出て自分の家に向って車を発進させた。

部屋に帰ってシャワーを浴び、ピザをオーブンで温めなおしている間、椅子に座って煙草を吸っていた。
すると向こうの部屋から寝起き眼(まなこ)で女が目をこすりながら歩いてきて俺の前に座った。
昨日よりずっと、この暮らしに溶け込んでいるようだ。まるで何年も前から夫婦だったように…。
「紅茶とコーヒーと、ビールもあるが、何飲む?」と俺は女に訊ねた。
女は黙って立ち上がると、冷蔵庫から缶ビール二つを持ってきて自分のところと俺の前にそれを置いてまた椅子に座った。
俺は妙ににやにやした笑いが止まらず、女の前で口を押さえてビールを見ながら笑いを押し殺した。
一体この女は、誰なんだろう……。
俺はなんの為に連れて帰ってきたんだっけ。理由もわからない。でも女が男だとわかれば俺は間違いなく、殺していただろう。
オーブンが音を立ててピザが温まったので皿に入れて女のまえにも置くと女はピザを眺めていた。
椅子に座ってビールを開けて飲んだあと、「俺がいない間なにしてるんだ」と訊ねたが、女は答えずピザを人差し指でつついていた。どうやら火傷しないほどの熱さかどうか確かめているようだ。
俺はピザを齧って「もう冷めてるよ」と言った。
「部屋にはパソコンもあるし、テレビもあるし、ゲームも本もビデオテープもあるし、ラジオもあるし、スピーカーもある。食べ物も俺は買ってきてやるし、飲み物も、なんか飲みたいもんがあれば言えばいい。ビールは欠かさないように気をつけるよ。精神が不安定なら、薬も買ってきてやる。どこか街へ出たいなら出て行っても構わないが、必ず戻ってきてくれ。昨日は忘れたが、今夜からは金を置いて出て行くから」
女はピザとビール以外頭にないような顔をして食べては飲んでを繰り返し、それなのに俺の顔をふと見つめてコクリと頷いた。
「なんでここにいるんだろう?とか、別に考えなくていい。ここは…そういう世界だから」
そう言ったあと俺はキッチンに立って女に背を向け、ビールをホワイトラムで割って飲んだ。
あのピザ屋の店員もこの女も、何か居た堪れない孤独が底にあるのを感じる。多くを話さないか黙っていて、素性も何もわからねえ。だからといって、何一つ、知りたくなどないが……。
俺に任務を与える存在も何者かがわからないし、あの店員やこの女がもし俺を使わす存在と裏で繋がっているなら、俺は何かを試されているということになる。
「生きていることが楽しいとか、ないよな。俺だって、ないよ。もう…」
女に背を向けてグラスを右手に持ってキッチンに突っ立ったままそう俺は独り言のようにぼそっと気付けば呟いていたが、女の反応は何もなかった。
「何が駄目なのかわかんねえが、何かが駄目なのかな。俺の人生は最初から」
振り返ってピザを頬張っている女の顔を見ながら言ったが、やはり何のリアクションもなかった。


1989年4月16日フロリダ州マイアミ

目が覚めると薬物中毒専門クリニックのトーマスから、”今夜予約をノースウェスト184番街の105号アパートで取っておいた。”と電話の伝言メッセージに入っていた。
トーマスなんて男は知らないからまた殺人の依頼だ。
カウンターの上には”イースト7番街で6体の遺体が発見される”という見出しの新聞記事の切抜きが置いてあった。
警察は薬物の違法取引との関係性を示唆しているようだ。
薬物取引き以前に、薬物なんてやってたんなら、殺されても仕方ねえよな……。まあ何かの中毒になってねえ人間なんて、いないんだろうけどな…。
ドアの外に届いていた豚のマスクを持ってノースウェスト184番街に向けて車を発車させた。
アパート前に車を着け、マスクを被ってナイフと銃を装備して105号室のドアを開けた。
別に薬物なんてやってないんだが、世界がいつも完全に変わる。今から人を殺す段階から。

気が付くと、自宅のアパートの浴室にいる。
さっき白昼夢を見ていた気がする。
浮浪者のような男に、暗い路地裏で殺人の手解きを受けている。
一人目は、足で顔面を蹴り殺し、二人目は、バットで撲殺、三人目は、ショットガンで頭を打ち抜いて殺したはずだ。
殺した人間の顔はよく憶えていない。
でも浮浪者の男は、誰かに似ている気がする。
どこか懐かしい気もしたが、誰かは思い出せない。
浴室のドアを開けると、鶏のマスクを被った男が正面に立っており、俺に話し掛ける。
「お前は、何故、ここにいるんだ」
見渡すと、ここは俺の部屋じゃない。
黴臭くて暗い。地下倉庫みたいな場所だ。
窓が一つもない。それなのにまるでここで誰かが暮らしているようにベッドやソファーやレコードやテーブルがあって、ゴミが散らかっている。
俺は何か答えようとするが、声が出ない。
「お前は取り返しの着かないことを、してしまった」
「それなのに、何一つ、学んでないじゃないか」
「お前は同じ事をいつまで繰り返すつもりだ」
「生きる世界が、どこかに、あるとでも思っているのか」
「お前に」
よく見ると、鶏のマスクを被った男はマスクも着ている服も手に持っているバットも、すべて赤い血を滴らせている。
まるでついさっき、誰かを殺してきた……
誰かを……
誰を…………?
「おまえは なぜ ここに いる」

シンデル…ミタイナ…カオ………、シテル……。
女の声で、目が覚めた。
側に女は、いない。
何か夢を見ていた気がする。
不安で、ならない夢……。何も思い出せない。

ノースウェスト184番街、105号室のドアを開けた。
目の前に立っていた白い武装服の男の顔面を殴りつけ、男の持っていたゴルフクラブで思い切り頭蓋骨を割るイメージをしながら目を瞑って何度も殴りつけた。
目をそっと開けると、男の顔面が骨が砕かれているように歪んで折れた何本もの歯が血溜りの床に落ちていた。
左の部屋のドアが開くと同時に俺は床に手をついて飛び跳ねる形でドアの隙間から顔を出した男の後頭部をゴルフボールを打つ感じで撃つと男が回転しながら後ろに吹っ飛んで仰向けになって倒れ込んだ隙にもう一度後頭部を撃ち付けた。
ゴルフクラブの先が男の頭にめり込み、うまく抜けなかったが無理に引き抜いたので脳味噌がついてきた。
右の廊下の先に気配を感じ、男の持っていたサブマシンガンで廊下から姿を見せた瞬間、闇雲に連射すると男は銃弾の衝撃によって全身を激しく躍らせ後ろに倒れた。
男の右後ろにも人影が見え、また連射をぶっ放したがすべて壁に命中し、男には一撃も当たらなかった。
銃弾が空になり、銃を相手の顔面に投げ付けた。近づくと男は気を失っている。男の持っていたマシンガンで心臓を撃ち抜く。
後ろを振り向く。ウォッシュルーム。銃を構えてドアを蹴り開けると男が便器に向って立小便をしていた。
そしておもむろに振り向いてこう言った。
「なんでよりによって…チンポコ出しているときに、殺されなくちゃなんねえんだ。冗談は…やめてくれ」
俺は男が哀れになり銃口を相手の頭に向けながら「早くしまえ」と言った。
しかし男は突っ立ったままで寂しそうな表情をして頭を横に振りながら言った。
「しまうと、オレを殺すのか」
「おい、前にもどこかで、会ったことがあるだろう。オレたち」
「忘れたのか」
俺は吐き気を感じながら「5秒以内にしまわなければ殺す」と言って「5,4,3,2,…」とカウントを呼んだ。男は慌てて仕舞い込み、俺の前で両手を広げて薄く笑った。
その瞬間、男の胸の中心を撃った。
男は薄く笑ったままの顔で後ろの白い便器に血の跡をずるずると引き摺らせながら倒れた。
赤い捩れたような長髪に髭……怪しげな風貌のこの男は…いったい、俺の何を知ってるっていうんだ。その思い自体が既視感を起こした。
大体、俺はマスクを被っているのに、なんで誰だかわかるんだ。
俺がここに来るって、知ってたのか。
ここに今夜来ることは、俺ですら、知らなかった。
点滅する薄暗い蛍光灯の下で、悪魔が俺に囁く。
もう人を殺すのは、やめにしないか。おまえは人を殺すことはやめて、ただ死ねばいい。
おまえが生きてゆく価値はどれくらいのものなのか。
人を殺していって、生きてゆく先に、何が見えるのか。
それは今観ているものより、最悪なものじゃないか。
悪魔の声が脳内にエコーがかかったように鳴り響き続けるなか、二階へと上がる。
ゴルフクラブを握り緊め、ドアの前に耳をつける。
ドアを思いきり蹴りつけ、狭い部屋のなかで驚いて怯えた顔の男の頭をゴルフクラブで殴りつける。
何度も。何度も。何度も。顔面が割れていることに気付き、死んだことにほっとした。
悪魔の声は、この男の声だったのだろうか。殺した瞬間に、消滅し、これ以上の安堵が、きっと俺は赦されない。
暴力を最も恐れ、暴力を最も憎むやつが、最も酷い暴力を行い、そこにある一番の快楽を知る。
誰かの言っていた言葉を思いだす。
その男は確かこう続けた。
男はそしてこう言う。「おれは好きでこんなことをやっているんじゃない」
汗と混じって返り血が口に垂れてきたのを吐き、死んだ男の持っていたライフル銃を持ってドアを開けた。


14人全員を殺して部屋を出る前に喜びか苛立ちかわからない感情でサブマシンガンをドアの側の壁に投げ付け、部屋を出る。
行き付けの小さなビデオレンタル屋に入る。
レジの前を通ると赤毛のロン毛に髭、黒縁眼鏡をかけてオレンジのニット帽を被っている男に気安く声を掛けられる。

「よお、また会えたな。この前の晩の『虐殺事件』のこと聞いたかい?ロシア人の連中が殺られたとか、だが涙も出ないけどな。ゴム製のマスクをかぶったヘンタイ野郎の仕業らしい。まるでスプラッター映画のワンシーンだよな。そうそう、アンタにピッタリの映画があるんだよ。カウンターの上のだ。料金はいいから持っていってくれ。きっと気に入る。」
男がそうパソコン画面でせわしく打ち込みながら言ったので、ここで言われたビデオを持ち帰らないというのも気まずく、面倒に想って俺は無言で言われたビデオを手にして店を出た。

部屋に戻ってマスクとジャケットをシャワールームで洗い、血を洗い流す。
熱いシャワーを浴びながらさっきの男の話を想いだす。
”この前の晩”って、いつの晩のことだ…?”スプラッター映画のワンシーン”…一体なんでそんな残虐な殺し方をする必要があるんだ。俺は頼まれても絶対にそんな殺し方はしない。大袈裟に報道されているんじゃないのか?
シャワールームを出てキッチンに立ち、頭をタオルで拭きながら赤ワインをグラス一杯一気に飲み干す。
すると髪の毛の先からシンクの上に滴り落ちる水滴が徐々に赤く変わる。
そんなシーンから始まる男の薦めた映画は結局古いなんでもない恋愛映画だった。
それもとんでもなく暗く、静かなモノクロ映画だった。
女はまだソファで寝ている。床の上に寝転がって下から女の寝顔を眺める。
奥の窓はカーテンを閉めたままで光が差してこない。
まだ朝は来ていない。
女が掛けている垂れた毛布の下に入ると不思議と心が落ち着く。
護りたい存在を護る為に人を殺してきたのじゃなかったら…?
夢のなかだろうか。女がそう言ったのか、俺がそう言ったのか、想いだせない。
男の話した”虐殺事件”が、何の為に行なわれたのか。
俺は女と逃げようと想った。
知らない…この愛しい女と。
でも確信できることが一つだけあった。
それは、俺はこの女とだけは、逃げられない。
この女だけ、俺は救えないだろう。


1989年4月25日 フロリダ州マイアミ

目を覚ますと女が部屋のどこにもいなかった。
時間は午後9時を回っている。こんな時間にどこへ行ってるのだろう?
留守電のランプが点滅していて俺は気が焦ってそのボタンを押した。
依頼の電話は独特なトーンがあって第一声でわかる。
「ホットライン・マイアミデートサービスのケイトです。今夜のデートをセッティングしましたのでお報せします。サウスウェスト53番でお相手の方と待ち合わせです。いつも通りオシャレな格好でお願いしますねっ。」
俺は何か嫌な予感がした。
もしかしてあの女が誘拐されたんじゃないだろうな。
俺は気が動転して家を急いで出たのであろうことかマスクを忘れて来てしまい、Uターンして家に戻り、マスクをバッグに詰めてジャケットを羽織ってまた車に乗った。
暑くて車の窓を開けると生温かい潮風が入ってきた。外気温は27度。
まだ5月前なのに今夜は暑いな…空は曇っていて月も星も出ていなかった。
確か4日前が満月で、珍しく女がベランダから月を眺めていたから、その後姿の光景が、俺はとても好きで変に懐かしくて既視感が俺を苦しめた。
閉じ込められているとは、想ってないようだな。
俺はそのことが、とてもホッとしたんだ。
女はあの夜、そこにいるべき存在として、本当にそこにいるように、いてくれてるような…気がした。
女は自分のことを何も話さないし、俺も何も話さない。
外は危険でしかたないからどこかへ連れてってやることもできない。
俺が使命を果たしている間、女はいつもどんな想いでいるのだろう。

朦朧と女のことを想いながら車を走らせていると気付けばサウスウェスト53番ストリートを走っていた。
平屋ばかりの高級住宅地にぽつぽつと二階建ての豪邸が建っている。
待ち合わせ場所はその中でも一番の広い敷地に建つ屋敷のようだ。
一体何の仕事をしていたらこんな豪邸に住みたいと想えるのだろう。人の妬みを買うばかりの…
しかしハイエンドなエリアにしては街灯や照明が少なく暗い。
セキュリティを気にすることは多分、ないだろう…何故なら俺はこの屋敷の主と今夜ここで待ち合わせしているはずだ。
デートのお相手は…さあ誰だろう。
少し手前に車を止めて銃とナイフを装備して、屋敷前に車を着け、豚のマスクを被って降りた。
ヤシの木の並ぶ前庭の通路を突っ切ってドアを開ける。
目の前にいた武装する男の顔面を殴り男の持っていたライフル銃で後頭部を思い切り打ち付ける。
持っていたナイフで倒れた男の頚動脈を切り裂き左に続く廊下に出ると廊下の行き止まりに銃を持った男が突っ立っている。
さっき殺した男のところまで戻って男の履いていた靴を脱がし、その靴を廊下の先に放り投げた。
足音が近づいてくる。男は警戒して銃を構えたまま忍び足で俺の潜んでいる右の壁の奥を覗き見る。
瞬間、男の銃を左手で引っ張ると同時に右手で男の首元にナイフを深く突き刺す。
血飛沫が豚のマスクの表面に跳ね返って男は力なく後ろに倒れ込む。
少しの間俺の顔を見詰め続けて全身を痙攣させ、すぐに動かなくなった。
俺は哀れな男の死体に向かって囁く。「悪いな。今夜此処で、デートの待ち合わせをしているんだ。無事にデートを終える為に、おまえらを殺さなくちゃならねえんだよ。」
今夜はとても静かだ。虫の音が屋敷の中までも聴こえてくる。
最高のデートがどんなデートだかは、知らねえが…
ベージュ色の大理石の床にぽたぽたと返り血が落ちる。
今夜は…本当に静かだ。俺はもう一度小さく囁くと倒れた男の持っていたマシンガンを構え廊下を突っ切り右のドアを蹴破ってぶっ放した。
ようやくセキュリティが作動し、警報機が鳴る。
一人、二人、三人、四人、右の部屋にいた者を撃ち殺した。
元の廊下に出ると何故か警報機が止んだ。
左のドアを蹴破る。広いバスルームの右手にでかい湯張りした浴槽。
湯気が立っていて石鹸のいい香りがしている。
武装した一人の男が銃を構えて振り向いた瞬間に胸を撃った。
男は背中から湯船の中に派手にはまり浴槽の湯が赤くなってゆく。
まるで羊水のように、死んだ男を温めているようだ。
あとの二人の男も、浴槽の前まで追い込み、その前で撃ち殺した。
マシンガンを持って二階に上がり、約3分以内で10人を撃ち殺しせしめた。
ショットガンを手に持って一階に下りると、男たちの死体に囲まれた血だらけのリビングで黒人のゴム製のマスクを被った男が俺に銃を向けながらこう言った。
「おまえの女、上手かったぜ。相当、好い女優になれるよ。ヤクさえ打ちゃ、あっちの世界でのな。へへへ…。」
男の股間を撃つと男は呻いてその場に蹲って倒れ、俺は男の被っているマスクを取った。
赤毛の髪と髭を伸ばした男、どこかで見たような顔だ。
男は涙と鼻水と涎でぐしゃぐしゃになった顔で俺に言った。
「楽にしてやれよ…あの女を…。」
男は目を瞑って静かになった。俺は男の脳天にもう一発撃ち込むと走って廊下の突き当たりのドアを蹴破った。
薄暗い部屋の中、左側のベッドの上に裸体姿で女が手錠で両手と両脚を縛られていた。
ベッドの上には注射器やSMプレイのような道具が転がっている。
俺はショックでちょっとの間そこから動けなかった。
女は黙ってじっと俺を見ていたが、突然嗚咽を漏らして咽び泣き始めた。
そして泣き腫らした目で女は俺にこう言ったのだった。
「もう終らせて欲しい」

終らせる?それはどういうことだ?殺して欲しいと…?そういうことか…?それとも俺が死ねばおまえも終らせられるのか?一体…どうすればこの悪夢のようなゲームを終りに出来るんだ…俺だっておまえを苦しめることを楽しんだりしちゃいないよ。何故こんなことが起きてるんだ?おまえだってわかってないだろう…俺はまだおまえのことを想いだせないが…それでも、愛しているよ…何故だかわかるだろう?何故いま、俺もおまえも泣いているのか…なぜ、涙がこんな止まらないのか、なんでこんなに悲しいのか、なんでおまえをこんな目に合わせなくちゃならなかったのか…なんで誰より大事なはずのおまえを、おまえも殺さなくちゃならないゲームを俺が…始めてしまったのか。でも、もう後戻りはできないよ…俺はもう、数え切れないほどの人間を、殺してきた。たった一人護る為に。たった一人、それはたった一人だったはずだ。このゲームをしなければ、俺は殺されるんだと脅されたんだ。俺は自分が生きたくて、それでこのゲームを遣り始めたんだと、そう想っていた。殺されるよりは、殺すほうがまだいいと想ったんだ。でもそれには条件があって、この世界の、全員を殺さなくちゃならないと言われたんだよ。俺は大丈夫だと想った。誰一人、俺以上に大切な存在はない。そんな存在は現れないと信じていた。でもそれはただ、俺がすべての記憶を喪っていたからだったんだ。何故そう言えるかって?それは今わかったんだよ。今、想いだしたんだ。俺はおまえを護りたかったのに、誰よりおまえを護りたくて、人を殺してきたはずなのに、今気付いたんだよ。一体どういうわけか、俺はおまえも俺も含めた、本当の”全員”を、殺す為に今まで人を殺しまくってきたってことに。俺はおまえを護れなかった。過去のおまえも。そして今のおまえも。未来の、この先、俺のせいでまた死んでしまうおまえも。俺はそれがわかってしまったんだよ。わかってくれ…俺は三度も、おまえを護れなかった、助けられなかったんだ…だからおまえは今そんなに悲しそうに泣いていて、俺に「終らせてくれ」だなんて言ったんだ。でも俺がおまえだったら、きっとこう言うよ。「もう始まらせないでくれ」って。目が覚めれば、俺はいずれまた人を殺しに行く。おまえが側にいなくなっても。終らせるってのは、何もかもが、始まる前に戻るってことだ。俺がおまえを愛する為に生まれてきたっていうなら、俺は生まれる前に戻るしかない。俺が生まれる前、そこには何かが在るのか、誰かは居るのか、わからない。もし本当におまえがそれを望んでるなら、もしかしたら戻れるかもしれない。こうすれば…。
俺は持っていたショットガンを自分の顳顬に当てて女を見詰めた。
すると女は青褪めた顔で静かに眠っていた。
さっきと様子が違う、衣服を着ていて手足を縛られてもいない。
よく見ると、此処は病室で、女が寝ているのは病室のベッドだった。
女の頬に手を触れる。とても冷たい。
死んでいるようだ…。
後ろから声がして振り向く。
鶏のマスクを被った男がそこに突っ立っていた。
「一旦始まらせたものを、終らせることなどできない、どう足掻き、苦しんでも。」



1989年7月21日 フロリダ州マイアミ

何者かに撃たれ、俺は気を喪い、目が覚めるとさっきの病室のベッドに寝ていた。
夢の中では、女が例の男に連れ去られ、危ない目に合わされる前に無事に女を救出し、女を車に乗せて家に帰った。
その後少し、誰も殺さない日々を、女と過ごした。
女を抱いたときの最高の幸福の感覚とエクスタシーも、はっきりと想いだせる。
でも何故だろう、同時に酷くつまらない夢だったと感じる。
あんな展開は在り得ない。現実的でない。幸福な夢は。
でも今のこの時も、現実的だと言えるのか。何故、俺は此処にいる?
女が側にいないと酷く不安だ。
「この男の女もあなたたちは助けられなかったじゃないですか。」
誰かがそんなことをこの病室で話していたような気がする。
涙が引切り無しに零れてくる。
女を助ける人間が、俺の女を助けられる人間が、俺以外に、いるはずがないじゃないか…。
いるはずがなかったのに。
俺は女を助けられなかった。
女は俺だけの助けを待っていた。
今、も………
俺は重い身体を起き上がらせて病室を抜けた。
酷い頭痛と眩暈が何度と起きて視界がぐらぐらと揺れ、黄色い西日が通路の窓から射し込み、眩しくて目の前がぼやけて何度も蹲る。
病院という場所は世界で一番暗い場所ではないだろうか。
誰もこんな無機質な場所で死にたいなんて想わないだろう。
俺の親父は最期麻酔を打たれて機械に繋がれ、機械に囲まれた窓もない無機質な白い集中治療室で死んだ。
何故あんな寂しくて冷たい空間で死んでいかなくてはならなかったのだろう…?
早く此処を抜け出よう…
一秒でもこんな場所には長く居たくない。
俺は病院の者に見つからないように青い病衣を着てふらふらと院内を歩きながらやっと出口を見つけ、病院の外へ出て止まってあったタクシーに乗って家へ帰った。
アパートに着くと、自分の部屋のドアの前には黄色いバリケードテープが貼られていた。
テープを剥がし、中に入る。
部屋の中は酷い有様だった。
バスルームの床には血の痕と人の形にチョークで線が描かれている。
俺はじっとそれを見つめて、何故だかわかった。
ここで、あの女は殺された。

どれくらいの時間、此処に突っ立っていたかは記憶にない。
その代わり、想いだせることが次々に甦ってくる。
これからの記憶を、俺は想いだした。
俺は確かこの後、警察署に襲撃しに行ったんだ。
そしてそこにいる警察官全員を殺して、それから…
そう、俺はとうとうマフィアのボスの居場所を付き止めた。
何の抵抗もしない大人しい爺さんで、撃ち殺すのに戸惑って…
ふと、爺さんの前のデスクの上にウィスキーボトルが置かれているのが目に入った。
俺はそれを指差して爺さんに言ったんだ。
「良かったらそれ、ちょっと貰えないか」
爺さんは笑って側にあったグラスに注いで、それを渡した。
俺が一気に飲み干すと、爺さんは身の上話をし始めた。
「わしには可愛い一人娘がいたんだ。でも今から二十年前、娘は何者かに突然命を奪われてしまった。まだ19歳だった。二十年前の春に、娘は幸せそうな顔をして、婚約者をここへ連れてきたことがあってね、でもわしは反対したんだ。何故って、見るからに、わしと同じ血筋であることがわかったからね、男は確か、当時娘より三つ年下のまだ16歳だったから驚いたよ。見た目は30歳近くに見えた。人を何人も、既に殺してきたような目をしていた。いや、それだけじゃない。あの男はまるで生身をどこかに置いてきたように、存在感があまりに希薄で恐ろしかった。あの男ほど、この世界に不似合いな男は見たことがない。わしは男を帰らせた後、娘に言ったんだ。あの男と結婚させるくらいなら、おまえを今ここで殺してやったほうがおまえは幸せだろうと。でもそんな勇気は、わしにはなかったから、拳銃を娘に渡してね、それで言ったんだ。今ここで、自分でけじめをつけなさいと。娘は、過呼吸症状が出るなか、自分の顳顬に銃口を当てて引き金を引こうとしたが、できなかった。それで、部屋に監禁して一端休ませると翌朝早くに娘から電話があって、娘はこう言ったんだ。自分ではできないから、他の人間に遣ってもらうと。わしは誰だと訊いたが答えなかった。わしは娘に言った。そうか。それなら、もう好きにしなさい。ただしわしはもう、おまえがこの世界にはいないと、そう信じるから。もう二度と、関わることをやめてくれるか。娘は頷いて、そしてここを出て行った。その日からたった、一週間後のことだよ。娘はその婚約者の男のアパートのバスルームの床に倒れて、死んでいるのを発見された。何者かに、胸を、撃たれ…一緒に住んでいた婚約者の男は行方不明。警察は何ヶ月も前から、男が世間を騒がしている連続殺人鬼だと睨んでいたが、しかし何一つ証拠を掴めないことで男を野放しにした。わしは何にも警察に対して文句を言わなかったが、彼らは直々にここへ遣って来て、そして土下座して謝ってくれたよ。あの時、何らかの理由をつけて男を拘束しておくべきだったと言って謝罪した。証拠は掴めたのかと訊くと、まったく、変なことを警察は口走った。彼は、あまりに善人であることが、唯一の証拠だと。つまり悪い記憶の全てを、本当に喪っているのだとね。警察はあの男を殺したがっていた。持って来いだろう?記憶を喪っている人間に、すべてはおまえが遣ったんだと思い込ませ、追い詰め、そして連続殺人犯として仕立て上げるには。真相など、誰にもわからない。だが、もし、あの男が犯人だったのなら、解決する。そこに賭けることを、楽しんで遣っている。わしは警察と取引きをした。あの男は、わしから娘を奪い去り、それだけでは飽き足らず、殺したかもしれん男だ。存分に、可愛がってくれと。100億ドルを、彼らに渡してね。安いと言われるかと思ったが、彼らは喜んで引き受けてくれたよ。きみが、今まで殺してきた人間は、全員、わしにとって邪魔な人間だった。死んだ娘の遺体を確認してくれと言われたが、わしは確認をしなかった。たった一週間で、わしは娘の顔をすっかり、忘れていたんだよ。それほど、わし一人で可愛がって育てて来た一人娘が、わしを棄ててあの男のほうを選んだことがショックだったのだろう。ははは。君はやけに、大人しい奴だ。でも勘違いしないでくれ給え。その男が、君であると言っているんじゃない。ただ今際の際に、懺悔させてほしかったんだ。随分、酔っているのかもしれない。きっと楽に死ねるだろう。さあ、撃ちなさい。どこでもいいから、撃ちたいところから、撃ちなさい。」
爺さんはそう言って静かに眼を閉じた。
俺はもう一杯、グラスにウィスキーを注いで飲み干した後、その額に銃口をつけて引き金を引いた。
カチャッとだけ音がして、爺さんは腰掛から落ち、床に倒れ込んだ。
俺は爺さんの頚動脈に手を当てて脈を確認した。脈は感じられなかったし、息もしていなかった。
この銃は、弾切れだった。銃弾がもう一発も残っちゃいなかったんだ。
それなのに何故か爺さんはぽっくりと死んでしまったようだ。
デスクの上には、何種類もの薬が置かれていた。
どうやら爺さんは心臓病か何かだったようだ。心臓発作で、急性ショック死といったところか。
俺はほっとして、銃を投げ捨てた。
これで、もう終わりだ。
このゲームは…終わった。
ふと気付くと、左側にある広い窓の向こうに夜景の灯りが見えた。
窓を開けてバルコニーに出ると生温かい風に触れた。
鶏のマスクを外して床に棄て、煙草に火を点けて深く吸い込んで吐く。
携帯のアラーム音が鳴る。
見ると制限時間のアラームだった。
なんだか懐かしい。制限時間があったことなんて、すっかりと忘れていた。
でもどうやら間に合ったようだ。
手が、血と汗で粘ついている。
震える手で、携帯にメールを打ち込んでゆく。

おまえに逢いたいよ。
今、どこにいる?
もう全部終ったから、逢いに行けそうなんだ。
何にも、何、ひとつ、まだ想いだすことはできないようだが、俺はおまえを知っているんだ。
嘘ばっかりだが、この世界っていうのは。俺もおまえも嘘ばっかりだと想うが。
愛している。
逢いたいんだ。おまえのことを知れなくていい。
同じ世界にいるんだろう?
今でも。
離れていると、感じられない。
おまえと俺は、同じ世界にいる。
でも見えないんだよ。
俺が、おまえを殺した俺が、俺を赦せないからだよ。
おまえが見える為に、俺は俺を赦す必要があって、俺は俺を赦す為に、おまえを見る必要がある。
100億年以上かけて、人間は人間と殺し合って来た。信じられないだろう。
いつも、何遍も飽きることなく、同じことを繰り返してきた。
でも見つけたんだ。
此処から抜け出す方法を。
そして俺はおまえを見つけた。
俺は本当に、誰一人殺したくないんだ。
一番に愛するおまえをこの手で殺さなかったなら、永遠に殺し続けただろう。
俺は此処にいるから。
愛するおまえを此処で、ずっと待っているから。
いつか、迎えに来て欲しい。

そう打ったあと、携帯を夜景の中に投げ捨てて目を閉じる。
何も映らない。
何も。
今はまだ。
恋しいばかりで、何も映らなかった。




















Hotline Miami  Ending