あまねのにっきずぶろぐ

1981年生
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

この世界の命に

2018-08-24 04:19:02 | 生命の尊厳

今日は(日にちが変わって昨日)、久し振りに邦画の映像作品を何本も観ることができました。

huluという動画配信サービスで「アナザヘヴン」が無料で観れるということで登録して、

次に「SPEC~零~/警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿」を観て、

その次に、SPECと同じ加瀬亮、戸田恵梨香が主演である「この街の命に」というWOWOWのドラマW枠で放送されたドラマがあることを知り、

気になって三本目にこの作品を鑑賞しました。

(何故か、二日程前にトダエリが夢に出てきたのです。彼女の存在感はとても好きで、夢の中では意味深な歌を一緒に歌っているという夢でした。)


「この街の命に」という作品はわたしの好きな映画「爆裂都市 BURST CITY」などの助監督も務めた緒方明監督の犬猫の殺処分に直面する行政獣医たちの葛藤と再生を描いたとても深刻な現実社会の問題をテーマにした作品です。


 

イントロダクション

加瀬亮、戸田恵梨香、田中裕子共演の人間ドラマ。『いつか読書する日』の脚本・青木研次と監督・緒方明が“犬猫の殺処分”に直面する行政獣医たちの葛藤と再生を描く。

日本国内で1年間に殺処分される犬猫は10万頭を超える(環境省平成26年度発表)。
これほど多くの犬や猫はなぜ殺処分されるのか。また、その現場に直面する人間は一体何を思うのか。
このドラマはある街の行政組織「動物愛護センター」を舞台に、
罪のない動物たちの命を救おうと踏み出した獣医たち職員の葛藤と再生を描いた物語だ。

動物を救うべく獣医になった者たちが助かる命を見過ごすという過酷な現実。
大きな葛藤の中で一歩ずつ再生への道を見いだしていく姿は
“私たち人間と動物とのあり方”について、いま一度考えるきっかけになり得るはずだ。


 

以前に2009年公開の殺処分される犬猫たちと人間をテーマにした「犬と猫と人間と」という飯田基晴監督のドキュメンタリー映画を観たことがありました。

観た後は、とても複雑な想いに満たされました。

軽々しく想いを述べるべきでないと想いながらも、2012年の当時付き合っていた彼氏がこの映画を観てくれて、観た後の感想は「なんで動物(犬猫)が好きなのに殺す仕事ができるんだろう。本当に殺したくないなら殺せないんじゃないのか。」っていう想いがわたしと彼の共感でした。

それほど、そこで働く人々の言葉と感情に混乱させられたのは事実です。

犬猫を殺処分することに耐えられない(耐え難いのに)のに、そこで働く必要とは、一体なんなのか?そこに疑問を持ってしまったからです。

事実、犬猫を殺処分することを誰もが拒否するならば、犬猫は”殺処分”されることは免れるのです。

しかし、では、他の方法ではどうでしょうか?

例えば犬猫はあらゆる動物実験に、日本では何の規制もなく実験に利用され続けています。


あなたは、動物実験についてどんなことを知っていますか?

動物実験施設について調べるのに、どこに聞けばいいですか?   

日本では、どこにどんな動物実験施設がどれだけの数あるか、誰も知りません。
      公的な届出制も登録制もないため、国も、地方自治体も、何も把握していません。
      近所に動物実験施設があったとしても、それを知る方法さえないのです。

        兵庫県では条例で動物実験施設を届出制にしています。

どんな種類の動物が何匹くらい実験に使われているかもわからないのですか?

日本では、実験に使われる動物の種類や数について、公的に調べる制度がありません。
      唯一、日本実験動物学会と日本実験動物協会(生産者団体)が数年に1度のアンケート調査で
     実験動物の飼養数や販売数を調べているだけです。
      最近では、日本実験動物学会が2009年6月1日時点での飼養数を調べた調査、日本実験
     動物協会が平成25 年度(2013年4 月1 日~2014年3 月31 日)の販売数を調べた調査があ
     ります。

                  

      実験動物の入手は、専門業者からの購入の他に、自家繁殖や他の研究機関で繁殖したものの
     購入・譲受があり、使用数は販売数を大きく上回ると推察されます。

      また、飼養数の調査では、回答率が低い上に、「研究機関や企業のすべてを対象とすることは
     機関名簿が不備であるため困難である」とされて
     いる(特に企業の対象機関数が少ない)ことなどから、実数はこれを大きく上回ると推察されま
     す。

      一方、世界では、公的機関が統計を取り公表しています。

 

 

 


公的機関は、どれほど正確な数を公開してくれているのでしょうか?

実数は、一体これの何倍ほどであるのでしょうか?

 

 

日本の犬猫の殺処分は平成元年から減少を辿っているようです。


 

【速報・平成28年度】犬猫殺処分数が8万→5万匹に減少 環境省「『殺処分ゼロ』という言葉に課題」

 

 


 

しかしこれは本当に犬猫が助けられている数が増えていることを表しているのでしょうか?

 

 

判決内容に怒りの声続々。動物愛護法の適正な運用を求める署名活動が活発化

 不要(邪魔)な犬猫を引き取る業者が増えて来ているとしたなら、意味がありません。

 

 

また、動物の油脂は(家畜に限らず)とても儲かるようです。

【閲覧注意】悲惨なレンダリング工場※キャットフードの中身を暴露!!


レンダリング・プラント(動物性脂肪精製工場)産業が何故そんなに儲かるのか、一つは畜産物の大量生産をする際に廃棄処分となる家畜(病気や感染病などで死んだ家畜)や利用できない部分を無料(ただ)で引き取り、それを再利用するための産業だからです。

廃棄するはずのものを焼却処分する為に必要な費用は莫大である為、それをどうにか利益にしようとしているわけです。

安楽死させる為の薬剤は高価である為に炭酸ガスでゆっくりと窒息死させてゆく方法で犬猫を殺処分している国が、果して処分後の莫大な焼却費用だけはしっかりと払い続けているのでしょうか?

言えるのはレンダリング・プラント工場をこの世からなくすには、人々が大量生産された畜産物を食べていては駄目だということです。

 


 

兵庫県動物管理事務所で殺処分した犬猫の死体は路盤材に再利用、炭酸ガス処分機を再稼働させてはいけない!!

兵庫県動物管理事務所で殺処分された犬、猫の遺体は焼却されたあと、業者に委託し特殊硬化剤でコンクリート固化され、路盤材などに製品化されているというのです。リサイクルしていることは県議会も知らなかったということです。

兵庫県動物管理事務所は、焼却された動物の遺灰を建築資材に再利用している事実はないと回答したそうです。

その後、県庁から回答があり、遺灰を建築資材に製品化し再利用していることを認めたということです。 平成21年から業者に委託しているそうです。

以前、徳島県で徳島市、鳴門市、佐那河内村が、路上などで死んだ犬猫の死がいの処理を、一般廃棄物処理の認可のない徳島市内の肉骨粉加工業者に委託していた事件が発覚しました。

肉骨粉加工業者は犬猫の死がいをリサイクルしてドッグフードや肥料として業者に売っているのです。

殺処分した動物や路上で死亡した動物は、骨までしゃぶりつくされなければならないのでしょうか?

殺処分された動物、死んだ動物に対しての慰霊の気持ちが全くない、死体のリサイクル。

横浜市でも以前は路盤材や建築材に再利用していたそうですが、問題になり中止されたそうです。

 


 

犬猫の殺処分にかかる費用は一頭辺り10万円以上であるそうです。

犬猫たちがどれほどに殺され、どれほど実際に助けられているか、そして殺処分後は一体どこへ行くのか?わたしたちはその真実を正確に知ることが出来ないのです。

それを知った上で、「この街の命に」という作品を冷静に、また何度も感動して鼻を噛みながら夢中になって観ていました。

この映画を通して感じたことは、「誰も好きで殺しているわけじゃない」という想いです。

 

そしてこの問題は、この世界で最も重要な問題にある「死刑問題」「堕胎問題」「肉食(畜産業の大量生産)問題」「魚介類の乱獲問題」「動物実験問題」「毛皮やウールなどの動物を苦しめて生産される製品の問題」すべてに共通する問題であることを感じずにはおれませんでした。

 

「誰かが遣らなくてはならない仕事なんだ」という台詞も映画の中に出て来ました。

確かにその通りです。犬猫を自分で殺すことが出来ない人が大勢いるから、人はセンターに犬猫を持ってくるのです。

自分では殺せませんが、あなた方なら、それがお仕事ですから殺せますよね。殺してもらえますよね。ということです。

これが特に堕胎と肉食というものに通じていると改めて感じました。

わたしは自分の子供を自分の手によって殺したくありませんが(殺せませんが)、あなたは他人ですし、それがあなたのお仕事ですからどうかお願いします。

わたしは自分の手を真っ赤な血に染めて家畜を殺すことなどしたくはありませんが、あなたはそれがお仕事ですから、と殺(屠畜)をがんばってください。あなたの御陰で肉が食べられることに感謝致します。

この皮肉な社会の在り方、関係性が、見事、政府も国民の多くも許す体制(法制)となって、何十年間と続いて来ているわけです。

わたしはその在り方が、如何におかしいものであったかをようやく2012年の2月に知ることとなりました。

何故、自分の遣りたくないことを、人(他者)に、それも相手から「どうかわたしにさせてください」と願い出ているわけでもない人に託さねばならないのでしょうか?

動物や人を殺すことを、自ら進んでする人など、ほとんどいません。

 

探してみてください。安い物件で、幾らでもペットを飼える物件というのはこの日本に存在しています。

「何々だから…」と言って飼ってきた犬猫を約20分間かけてゆっくりと窒息死させてゆくという拷問処刑のような死に方をさせる処分場へ送り込む必要が本当にありますか?

自分の子供なら出来ますか?犬猫という動物であるからそれができるということでしょうか?

 

わたしはみちたという10歳と5ヶ月ほど、ロップイヤーのうさぎを飼っていて、日々鬱症状が酷く、ろくに可愛がる余裕もありませんが、みちたがそこまでの苦しみに苛まれて死ななければならないのだとしたら、自分が死んでみちたが助かるほうがよっぽど良いと想います。

 

わたしたち人間はこの地球に何の為に生まれて来て、何の為に生きている(生かされている)のでしょうか?

人間以外の動物たちも何の為に、その生命を日々生きようとけなげに物を食べて、繁殖しようとしているのでしょうか。

殺処分される犬猫たち、食肉にされる家畜たち、乳や卵、毛皮や羽毛などを搾取される為だけに物のように扱われる家畜たち、次々と新しい化粧品、洗剤などを開発して企業が儲ける為、また人間が長生きする為の医療に役立てたりする為に動物実験にされる動物たちは、そのほとんどが、安楽死などではない地獄のような苦痛の中に死んで行かなければならないと、わたしは素直に映像を通して感じて来ました。

そんな苦しみの中、彼らが殺されて行かなければならないほど、彼らはわたしたちに酷いことをしてきたのでしょうか?

 

わたしが生きていく中で、一番の大きな疑問です。

 

何の為に、彼らがこれほどにまで苦しめられなければならないのだろうかと。

 

それでもわたしは決してこの世界の、人々の善意を諦めたりはしません。

 

日本でも、本当に孤立した孤独な人たちが増えて来ていると言われています。

わたしもその一人です。人間とはまともに関係を築けていけないので、動物が側に居てくれなければ独りきりで生活してゆくことに耐えられません。

動物の存在がどれほど救いとなっているか。

 

わたしはこのままだと、きっと動物たちとだけ暮らして死ぬでしょう。

今後、できれば鶏や、犬や猫も飼ってみたいと想うのですが、里親に譲り渡す規則として、個人でも行政でも独り暮らしの人間には里親として不安なので、里親として認めてもらえないことがよくあるようです。(本当に孤独である独り暮らしの人ほど、動物の支えが必要であるのに…)

そうすると仕方なくペットショップからわたしは動物を買ってでも飼うことになると想います。

 

わたしの信念は、きっとずっと揺るがないものです。

「動物は人を愛する(人から愛される)為に生まれて来て、人は動物を愛する(動物から愛される)為に生まれて来るのです。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 追記:なんだか涙が溢れてきました。

自分がこういったテーマを感情を抑えて表現することが出来ないのは、それが本当にわたしにとっての毎日の苦しみであるからです。

抑えて静かに表現することが出来ないほど激しい感情に襲われ続けて生きているからです。

殺されてゆく人たち、胎児たちが、家畜たちが、犬猫たち、すべての動物たちが、自分自身のように感じてならないからです。

 よく考えるんです。わたしだって「あなたの左腕を落とすか動物(飼ってきたのではない動物)が殺されるか」、と言われどちらかしか選べないなら、自分は自分の左腕を選ぶだろう。

生命を尊ぶとは、自分の身よりも相手の生命を優先すること、その一つだけにあるわけじゃありません。

自分の左腕などが切り落とされるわけでもないのに、動物(または助けを請うたり、生きる権利の在る者)を殺し続けることに加担することを自ら選択しないこと。

 最低限の、生命を尊ぶとは、そういうことなのではないか。いきなり、

「わたしたちはどのような理由があろうと決して彼らを殺しません」ではなく、

「わたしたちは最低限、彼らを殺しません」という選択を、まずしてゆく必要があるのではないか。

肉や畜産物や魚介を食べる量を減らしてゆくこと、動物実験の行なわれた化粧品や洗剤を選ばないこと、毛皮やウールやダウンやアンゴラ、カシミア、フェザーなどの動物を搾取している商品を買わないことから少しずつ始めてゆく必要があるのではないでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 


Agony

2017-05-23 19:27:50 | 生命の尊厳
前回の記事Mindmapの「堕胎」の負の面を表したマインドマップに関連の線を付けてみました。











ひとつ付け足したのは「無念」と「転生」のワードの間の「心残りと不本意」という関連トピックです。
「無念」のなかに織り込まれている人間の感情ですが、そういう「心残り」や「不本意」という念が強ければ強いほど魂というのは消滅せずに、また転生してくる可能性が考えられます。

この世に誕生して、誰かに殺されてしまった場合、そこにある無念さというものも非常に強いものではないかと想いますけれども、
この世に誕生すらできずによりにもよって自分の母親の選択で堕ろされてしまった赤ちゃんの無念というものは、いったいどれくらいのものなのだろうと最近特に考えています。

すべてが自由で公平であるためには、そこには無念のある魂は必ずやその無念を晴らすための転生というものが必要になってきます。
わたしはみんなが本当に公平に生きる喜びを感じてほしいのもあって、輪廻転生というこの世にまた生まれ変わってくるこの世界の法則を信じています。

わたしは「生命の苦痛」というものが一日中頭と身体から離れない人間です。
現世でも地獄のような苦痛は何度か経験しましたが
たぶん前世でも、本当にどえらい目にあったんちゃうかなと想っています。
「苦痛」というものにものすごく敏感なのです。
わたしがいつも考えているのは、本当の本当に苦しい生命の苦痛についてです。

宇宙から、本当の本当に苦しい苦痛がなくなるまでは、わたしは死んでも死に切れない想いです。










Mindmap

2017-05-23 00:33:30 | 生命の尊厳








XMindというフリーソフトで初めてマインドマップなるものを構成してみました。
テーマは「堕胎」の特に負の面を表している図になりました。

作ってるときは夢中でしたが、いざここまで完成するとその重苦しさに落ち込んでいます。
もっと広げていけるはずなのですが、なかなかむずいです。

「堕胎」というものに対して、ポジティブさを一切排除したいというわたしの意図がよく表れています。
そういうことがわかるだけでも面白いと想うので御興味のある方はやってみてくださいね。











残るものたち

2017-05-14 02:36:13 | 生命の尊厳
今夜の記事は重苦しいものが多いので、あんまり寝る前にはお読みにならないほうがいいかもしれません。
自分でも書いていて、結構きついものがあります。



「斬り刻んでも飽きたらんちゅうのはおまえのこっちゃ。こなしてくれるわ、エイッ」
河内音頭の「河内十人斬り」で昔の人々はこのくだりに入ると大喝采を挙げたらしい。

河内十人斬り(かわちじゅうにんぎり)とは、大阪の当時、赤坂水分(あかさかすいぶん)村という場所で起こった大量殺人事件である。
我が生涯の師匠として尊敬するきっかけとなった作家、町田康の「告白」という小説の舞台となった殺人事件であって、わたしはこの小説を元に前に「天の白滝」という小説を書いていました。
自分にとって特別な小説であり、特別な殺人事件であり、今でも登場人物たちはわたしの分身のような存在としてわたしの内に息づいています。

相手の顔を何度も刀で切り刻み、生きたままはらわたを引き摺り出し、首を切り落とし、わずか生後一ヶ月の新生児や三歳、五歳の幼児の身体を滅多切りにし、はらわたを辺りにぶちまけたと言う。

わたしはこの殺人事件の異様な残虐さと、今わたしが直面している中絶問題の残虐さがよく似通った惨劇であることに気づいた。

「斬り刻んでも斬り刻んでも飽きたらん」
此の世で最も生きたまま斬り刻まれ続けている人間は、胎児である。

この「斬(ザン)」という漢字は残酷のザンであり、惨殺のザンでもあることに気づく。


①「きる」

 ア:「刀できる」、「きり離す」(例:斬刈)

 イ:「きり殺す」(例:斬首)

②「刑罰の名前」

 ア:「首をきる刑罰」

 イ:「腰を真っ二つにきる刑罰」

 ③「絶える・尽きる(続いていたものが終わる)」



「車」の象形と「曲がった柄の先に刃をつけた斧」の象形から、
 「車でひき、斧で切る刑罰の名」を意味する「斬」という


わたしにとって、最も自分の心と身体が痛むのは主に肉体の”切断”というものであり、この「斬」という漢字は最も「切断」的な残虐さにある漢字であることに気づいた。

それは「切り離す」という意味が入ってあり、また首や腹を切断するという意味が入ってあるからだ。
わたしは子供のころから、そういえば確か「エイリアン」の映画の腹を切断されても生きている男のシーンがトラウマになっていた時期がある。

妊娠初期で中絶される胎児は、その身体を鉄の器具や吸引器によって身体を切断されてから母胎の外へと出されます。
切断部のほとんどは首と胴体であり、また手足も切断されることもありますが、なかにはお腹を半分に切断される胎児もいます。(映像で観たときに、腸が出ているそのような胎児もいました)
また本当にバラバラの欠片の状態になって出てくる胎児もいます。
また生きたまま、頭を器具によって潰されてしまう胎児もいるはずです。(頭はその大きさから最終的に潰さなくては子宮の外へ出せないため)


肉体への拷問的な刑罰というものは、昔に比べ、だんだんと減ってきています。
家畜であっても、牛や豚には首を掻っ切るまえには気絶させる方法をとる国は多いです。
しかし胎児にいたっては、まるで鶏以下の扱いを受けています。
鶏であっても、首を生きたまま引き千切られたりお腹を切断されたり、頭を潰されることなどはそれほど多くは行なわれていないのではないでしょうか。(個人宅で心臓の辺りを切断する鴨のと殺(屠畜)法を行なっている映像は観たことがあります)



もう一度、「斬」という文字が、何故「ザン」と読むのかに注目したいと想います。

ザンという読み方は多くの方が「残(ザン」、この「残る」という漢字を思い浮かべるのではないでしょうか?

残酷、惨殺、残虐、慙愧(ざんき)、残忍、懺悔、斬殺、残骸、ザンで始まる言葉には重苦しい意味が多いように感じます。

「ザン」と読む漢字の意味を調べて行きましょう。




「惨」の字の意味を見てみましょう。





①「そこなう」

 ア:「物をこわして、だめにする」、「傷つける」

 イ:「人の気持ちや身体の調子を悪くする」

 ウ:「殺す」

②「いじめる」、「虐待する」

③「いたむ、いたましい、いたいたしいみじめ(目をそむけたくなるほど
  ひどい、気の毒で見ていられない)」(例:悲惨、惨害)

④「むごい」

 ア:「目をそむけたくなるほどひどい」、「気の毒で見ていられない」

 イ:「思いやりがない」



「惨」という漢字も相手を「傷つける、殺す」という重苦しい意味がありますね。
「思いやりがない」から、人は「惨め(みじめ)」だと感じるのでしょうか。





では次は「残」の字を見てみましょう。





①「そこなう」

 ア:「殺す」(例:残骸)

 イ:「滅ぼす」

 ウ:「傷つける」、「切る」(例:残虐)

 エ:「壊す」、「破る」

 オ:「壊れる」、「破れる」

②「傷」、「痛み」

③「むごい(ひどい)」、「思いやりがない」、「むごく扱う」(例:残酷)

④「悪い」、「荒っぽい」

⑤「悪人」

⑥「残る(もとの状態のままである)」、「残す」、「残り」(例:残余)

⑦「すっかり消えてしまわないで、1部分のみ残る」
  (例:山の山頂には雪が残っている)

 ⑧「煮た肉」


何故「殺す」「むごい」という漢字に「残る」という意味があるのか。


「肉を削りとられた人の白骨の死体」の象形

と「矛(ほこ)を重ねて切り込んでずたずたにする」象形から、「そこなう」、

 「むごい」を意味する「残」という漢字が成り立ちました。



矛(ほこ)で何度も何度も肉を削り取られ、死んだ人の白骨の死体の、その胸から上の骨が残っている形が「残」の「歹(がつ)」

死体の「死」はこの「歹」と「匕(ひ)」を合わせた形です。
「匕」は右向きの「人」で、残骨(ざんこつ)になった者を拝(おが)んでいる人です。
 そこから「死ぬ」意味になりました。

ですから「残」(殘)は、ばらばらになって、わずかに残されている骨のことで、「のこる」の意味になりました。



漢字というのは、なんともおどろおどろしい意味が隠されているものですね。
実際、漢字にはもっと他の深い意味も隠れているのではないかとわたしは想いますが、ひとつこういった意味も確かに隠されているのでしょう。

胸から上の骨だけが残っているとは、なんでしょう、他の骨はどこへ行ったんでしょうね。
川にでも流れていったのでしょうか、それとも土の下に埋もれて土に還ったのでしょうか。
いったいなんで、何度も何度も矛で肉を削り取られなくてはならなかったのでしょうね。

わたしは「斬」という字と同じく、この「残」という字にも「罪人への刑罰」の意味が隠されているように感じます。
死んでもなお「残る」ものとはすなわち、人の「罪」というものを表しているのではないでしょうか?
何故、人が死者に対して「拝む」のかといえば、ひとつは死者が成仏する為にでしょう。
何故、成仏してくださいと拝むのかといえば、人は罪があればこの世、または此の世と彼の世の間に「残る」と考えられているからではないでしょうか。
死者が成仏できずに苦しみ続けるとはすなわち、残された者たちも同じく苦しみをなんらかの形で被り、または感じ取るものだと人々は考えたため、人は墓を作ったり念仏を唱えたり供養をしたりして死者がどこかで苦しんだまま残り続けないようお祈りをするわけです。

「残る」という意味には「苦が残る」という意味から来ているのだと想います。
その死にざまが、苦しければ苦しいほど、人はその苦しみが「残る」と考えるのは自然なことだと感じます。
その残った苦しみは、どこへゆくのかと人々は考えます。
因果因縁というものがひとつ、死者の苦しみを浄化させるために存在している世界の法則を説いたわけです。
死者の無念の苦しみはどのようにして払われるのか。

「ザン」という音は、重い音だと感じるのは、その残る苦しみの重さから来ているのだとわたしは感じるのです。
「ザン」と聞くと、上へ上がる音、というより、下へ「ザン」と落ちるような音に聴こえますでしょう。
人やそのほかの生物の苦しみの念というものがすべて重い波動であるため、これが苦しい念なほど下へ落ちて底へわだかまるわけです。

人の身体を斬り刻み、また切断せしめることが何故「斬(ザン」という「残る」の意味と音と同じであるかということがよくわかる漢字です。

人の苦しみは、生命の苦しみは、死んで終わるものではないのです。
世界で一秒間に一人以上もの中絶される胎児たちの苦しみが、どこにどのようにして「残り」続けているのか、ということに、人々はもっと深刻に危惧せねばならないのだと感じるのです。















それはそこにないか、あるか。

2017-04-10 02:08:23 | 生命の尊厳
「在る」と”想定”することの大切さについて。

人の「始期」とは?
人とは、胎児とは、果たしてどの時点から「人」であるでしょうか。

在る者は妊娠中期から、約12週目以降からと言い、在る者は、否、受胎(受精卵が子宮内膜に着床した時点)の成立時からである。と言い、在る者は、いいや、胎内の外へ生まれ落ちた瞬間からだろう、と言い、在る者は、身体の一部分が母体の外へ出た時〈一部露出説は、「胎児の身体が母体の外から見えた時点(一部が露出した時点)」を、法的な「人の始期」とする説〉からだと言うでしょう。

ではここで、宗教、理論、スピリチュアリズムまで広げてその見解を探ってみましょう。

まずは世界最大の信者数であるキリスト教は、どういった意見を提示しているでしょうか。
聖書には、どの時点から「人間」であるのだとはっきりと神が明示している箇所は見当たりません。
中絶についての明確な聖句も残念ながらありません。

http://www.totetu.org/assets/media/paper/k023_126.pdf

3.「生命のはじまり」に関する中世から現代までの
カトリックの見解


はじめて神学的に胎児の生命を認識し中絶を否定する見解を示したのは古代キリスト教最大の神学者・アウグスティヌスである。
彼は、上述の創世記の一節(「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(創世記1:28))から、出産がセックスの目的であり、その場合においてのみセックスが許される、と考えた。

したがって、中絶はセックスの唯一の目的を阻むが故に罪深い行為と考えたのである。
この見解が中世、そして現在にいたるまで影響し、カトリックにおいて中絶に対する批判的見解が形成されていったと考えられている。

次に神学的に整理したのは中世最大のカトリック神学者といわれるトマス・アクィナスである。基本的にはアウグスティヌスを踏襲しているが、具体的に「いつから生命がはじまるのか」について言及した点で注目できる見解を述べている。

曰く、「男の胚には受精後40日目に、女の胚には受精後90日目に神が“魂”を吹き込む」と。
彼の生きていた時代を考えれば、この日数に明確な根拠があったとは考えられない。
むしろ、男性優位の思想を反映させるために男の胚によりはやく魂が吹き込まれると考えたのであろう。

そして、中絶はいかなる時期にも罪深いものと見なしたが、とりわけ、胎児が「形をなした」ものとなっている場合、その罪はいっそう重いと考えていたことは注目に値する。

19世紀半ばから、生殖メカニズムが解明されてくるにつれて、教皇は中絶を公然と批判するようになり、この時期に、カトリックは、胎児の人格性は受精の瞬間に始まるという考えに近づいていったのである。




受精の瞬間から人格性が始まるとは、その時点で既に個の人間、個人という存在であるとしてるわけですから、まだ人間的な形にさえなってない頃から個人として尊重すべきであるということですね。
性交経験のある女性ならば、知らないうちにまだ人間の形になっていない状態の人格性の伴った個人を知らず知らずにトイレに流してしまっていたなんてこともあるかもしれませんから、考えたらなんとも複雑な想いになりますね。
排泄される哀しみを知っているから糞尿愛というものも在るのか、などと色々想像できますね。



つづいて仏教のひとつの重要な概念である龍樹(ナーガールジュナ)の「縁起」というものは、これは根源的な宇宙の法則について説かれているもので、これをヒントに中絶について考察してみたいと想います。


空の思想
--- ナーガールジュナの思想 ---
第三章 縁起と因果


縁起を時間的生起関係・因果関係を示しているものとナーガールジュナが解釈していたと仮定してみますと、このような言い換えは不可能であったことがわかります。たとえば、

A : 食べ過ぎ(X)によって、腹痛(Y)が起きる。
を、ナーガールジュナふうに言い換えると
A’: 腹痛(Y)がないことによって、食べ過ぎ(X)が起きない。

となります。この場合、AとA’は、あきらかに全く別のことを言っているので、このような言い換えをすることはできません。

ところが、もし、縁起を論理的関係を示しているものとナーガールジュナが解釈していたと仮定すると、そのような言い換えが可能であったことがわかります。たとえば、

B : もし食べ過ぎる(P)ならば、腹痛が起きる(Q)。
を、ナーガールジュナふうに言い換えると
B’: もし腹痛が起きない(〜Q)ならば、食べ過ぎではない(〜P)。

となります。この場合、BとB’はまったく同じことを言っています。

つまり、Bが真(誤)ならB’も真(誤)であり、B’が真(誤)ならB(誤)も真であり、この二つは論理的に同値です。
したがって、BとB’は交換可能です。(これは論理学では「対偶律」と呼ばれる基本的な論理規則の一つです。



これは難しい概念を結構分かりやすく説明されているように想えますが、それでも簡単に頭で理解できるものではないのですが、この法則を中絶に関わる人間たちの縁起に置き換えてみたいと想います。

胎児は、

A : 前世の悪業(負のカルマ)(X)によって、中絶される(Y)。
を、ナーガールジュナふうに言い換えると
A’: 中絶(Y)されないことによって、前世の悪業(X)がない。

これは時間的な因果関係の解釈をナーガールジュナが行なっているわけではなかったことを表す例です。
時間的な因果関係を説くなら、胎児は中絶されない場合その前世のカルマはないということになります。

時間的な因果関係はよく「カルマの法則」として広まっている解釈かもしれません。
この解釈だと原因(X)によって結果(Y)が起きるなら、結果(Y)が起きないことによって、原因(X)はないことになります。

これを中絶した妊婦に置き換えますと、

A : 中絶(殺生)(X)によって、妊婦は苦痛(Y)を被った。
を、ナーガールジュナふうに言い換えると
A’: 苦痛(Y)を被らないことによって、中絶(殺生)(X)は起きない。

これだと妊婦は苦痛を被らない以上は中絶が起こり得ないと言っていることになります。
膝をすりむかない以上、怪我が起きない。と言っているような論理破綻となります。

この例から、ナーガールジュナは時間的な因果関係を説いていないということを示されています。

次に論理的な関係(相互依存的関係)を説いている場合どうなるか。

胎児は、

B : もし中絶される(P)ならば、苦痛が起きる(Q)。
を、ナーガールジュナふうに言い換えると
B’: もし苦痛が起きない(〜Q)ならば、中絶された(殺された)のではない(〜P)。

母親は、

B : もし中絶(殺生)する(P)ならば、苦痛が起きる(Q)。
を、ナーガールジュナふうに言い換えると
B’: もし苦痛が起きない(〜Q)ならば、中絶した(殺した)のではない(〜P)。

苦痛を「罪悪感」という言葉に置き換えますと、

B : もし中絶(殺生)する(P)ならば、罪悪感が生まれる(Q)。
を、ナーガールジュナふうに言い換えると
B’: もし罪悪感が生まれない(〜Q)ならば、中絶した(殺した)のではない(〜P)。

これは大変わかりやすくて、論理も成立しています。
罪悪感が生まれないとは、”良心が芽生えていない”、”正常な精神状態にない”とされて刑罰が免除されるのはこういった論理からです。

よって、ナーガールジュナ(龍樹)に中絶問題を説かせるならば、たぶんこう言うのではないでしょうか。

胎児がほんとうに一切の苦痛を伴わなかったことを証明できるのであれば、それは殺生(罪)ではない。
母親が中絶行為によってどのような苦痛も起きないのならば、それは殺生(罪)ではない。

胎児が苦痛を伴わないと証明できない限り、それは殺生(罪)であり、
母親が中絶行為によって苦痛を伴うなら、それは殺生(罪)であるが、その場合にも胎児が一切の苦痛を伴っていないことを証明するならば、胎児にとってはそれが母親による殺生(罪)ではない。



難しい概念を簡単に表してみましたが、わたしの言いたいことは解っていただけたでしょうか・・・?

最初の文句の「在る」と”想定”することの大切さについて。というのは
胎児の苦痛、また母親と中絶に関わるすべての人間のこれから先の苦痛を「無い」と想定して判断するよりも、
「在る」と想定して熟慮することがなぜ大切であるのか、それは何事も、「無い」と証明することはできないからなのです。
確たる「証拠」がない以上、それは「無い」と想定するのではなく、「在る」と想定して考える必要があるということです。

ですから胎児にはどの段階であろうとも、痛覚が「無い」と想定してかかることは非常に浅はかな考えなのです。
同時に、胎児が”その”時点で「人」では「ない」と想定して判断することも浅はかなことになります。

母親と中絶に関わるすべての人間がこのさき絶望に陥って自殺する可能性について、「無い」と想定するのではなく、「在る」と想定して深刻に判断せねばならない問題だということです。

神学者やカトリック教会も胎児は人では「ない」と想定してかかるのではなく、人で「ある」と想定して中絶問題に警鐘を唱えつづけるのにはそれだけの人間にとって重要な問題であるからです。



では次に、わたしがスピリチュアルではもっとも信頼を置く存在であるシルバーバーチという高級霊団からのメッセージでは人の始まり、また中絶についてはなんと言っているかを載せたいと想います。


シルバーバーチの霊訓(8)


続いて妊娠中絶の話題が持ち出されると、同じゲストが尋ねた。

───それはどの段階からいけないことになるのでしょうか。

 「中絶行為をしたその瞬間からです」


───妊娠してすぐでもいけないのでしょうか。

 「とにかく中絶の行為がなされた瞬間から、それは間違いを犯したことになります。いいですか、あなたがた人間には生命を創造する力はないのです。あなた方は生命を霊界から地上へ移す役しかしていないのです。

その生命の顕現の機会を滅ぼす権利はありません。中絶は殺人と同じです。妊娠の瞬間から霊はその女性の子宮に宿っております。中絶されればその霊は、たとえ未熟でも霊的身体に宿って生き、生長しなければなりません。

中絶によって物的表現の媒体を無きものにすることはできても、それに宿っていた霊は滅んでいないのです。霊的胎児のせっかくの自然の生長を阻止したことになるのです。もっとも、これも動機次第で事情が違ってきます。常に動機というものが考慮されるのです。

 私の住む世界の高級霊で人工中絶を支持している霊を私は一人も知りません。が、動機を考慮しなければならない特殊な条件というものが必ずあるものです。行為そのものは絶対にいけないことなのですが・・・・・・

 あなた方が生命をこしらえているのではないのです。したがってその生命が物質界に顕現するための媒体を勝手に滅ぼすべきではありません。

もしも中絶を行っている人たちが、それは単に物質を無きものにしたことで済んだ問題でないこと、いつの日かその人たちは(医師も含まれる──訳者)その中絶行為のために地上に誕生できなかった霊と対面させられることになるという事実を知れば、そうした行為はずっと少なくなると私は考えております。

妊娠の瞬間からそこに一個の霊としての誕生があり、それは決して死ぬことなく、こちらの世界で生長を続けるのです」


───今地上で行われている実情を思うと、これは大変なことをしていることになります。

 「それが現実なのです」


───堕胎された霊はいつかまた誕生してくるのでしょうか。

 「そうです。責任は免れません。物質界への誕生の目的が自我の開発であり、そのせっかくの機会が叶えられなかった場合は、もう一度、必要とあれば何度でも、再生してきます」






シルバーバーチは語る> 23章 さまざまな疑問に答える


――霊は受胎後どの時点で胎児に宿るのでしょうか。

納得できない方が多いであろうことを承知の上で申し上げますが、精子と卵子とが結合してミニチュアの形で個体が出来上がった時から、その霊にとっての地上生活が始まります。





シルバーバーチの有無を言わさぬ厳しさというものにわたしはイエスと同じ愛の深さを感じます。
高級霊界というところでも堕胎という行為に罪(間違い、過ち)は「ない」と想定せず、「在る」と想定しているようです。
そして胎児がミニチュアの個体が出来上がったときからすでに霊は宿り、その時点から「人である」と見解しています。



例えば、「苦しくて死んでしまいたい」と訴える人には、よくこう言われると想います。
「でもさ、生きていればきっと良いこともあるよ」
これも「在る」と想定していることでの励ましです。

「でもさ、この先あなたはもう決して苦しむことなどないよ」
と言うなら、「ない」と想定しているわけですが、とても嘘くさい言葉になってしまいます。
「そんなこと、わからないじゃないか」と反論されてしまいます。

胎児がいつから「人」であり、そこに「苦痛」があるかないか、というのはわからない(目に見えてわかるものではない)からこそ
「無い」ではなく「在る」と想定して胎児が人で苦痛を感じているかもしれないという可能性について人々は真剣に考え続けていく必要があるということなのです。





殺されるべき人間とは

2017-04-09 17:21:55 | 生命の尊厳
昨夜に引き続き、目が醒めた瞬間から義憤の念に苦しめられている。
魂とは。わたしは生命に義憤を覚える。という昨夜の記事に引き続きまして今日も”中絶問題”について感情を吐き出したいと想います。

まず、冷静に、何分に一人が今、中絶されているのかを計算してみたいと想います。
人工妊娠中絶の世界的現況――MDG 5の達成に向けて

1995年の中絶数4,600万件に対し、2003年は4,200万件に減少していた。
とありますがこれは闇に葬られてはいない数の計算でこれだけあるということです。
2016年にはどれだけあったかはわかりません。

過去1世紀で10億超、世界の中絶件数-米報告書

信頼できるデータが得られる100の国と地域を選び、1921年から2015年までに行われた中絶件数を合計したところ、10億1843万5000件と10億の大台を突破したことが判明した。

世界の国の数は196か国とかでその約半分の国の100年の中絶数の統計は10億1843万5000件ということですか。

2003年で中絶数は4,200万件
42000000÷365=115068
で合ってるでしょうか。一日に11万5千68人が中絶されているという計算になります。

一日は1440分なので、これを一分に何人かを計算してみます。
115068÷1440=79.9083333333 と出たので四捨五入で一分間に80人の中絶数というところでしょうか?
1分間は60秒なので、一秒間に1,3人が中絶されているという計算になります。

一秒間ですよ?一秒のあいだに、一人以上の尊い命が堕胎され続けていて、これも闇中絶合わせたら倍以上の数になっていてもおかしくありません。

1秒間に 牛3頭、豚5頭、 鶏1100羽分が食肉として殺害されています。とありますから、まるで胎児は家畜の如く殺されつづけているじゃないですか。


たとえ強姦や近親相姦などの望まざる妊娠、奇形や障害のある子だとわかっている場合や母体を護るための中絶であっても、中絶というもの自体、生きている人間を殺すということですから立派な殺人行為なのです。

知り合いに「実は俺は人を殺そうと想っている」と言う者があれば、「やめておけ」と言う人は多いはずです。
でも日本では娘が妊娠したらあらゆる理由から「中絶しなさい」と言う親が多いようです。
「おまえは殺人者になって生きていきなさい」ということです。

愛する娘に「おまえは殺人を行ないなさい」と殺人を薦める親が多いというのはほんとうにおかしな時代だと想います。

明日食べるものもあるかどうかわからないという飢餓の起きている国や時代ならまだしも、今の日本にはちゃんと孤児院で育てられて愛ある夫婦のもとに養子になって幸せに生きる子供がたくさんいる時代です。

何のために殺す必要があるというのでしょうか。
何のために、人を殺人者にさせる必要があるのでしょう。

母体を守るために、殺人者になることは仕方ないと言う周りの人間は、いつか必ず自分の行いは自分に返ってくるということは言わないのでしょうか。

なぜ幼稚園や小学校で、「人にされたくないことは自分も相手にしちゃいけない」と教えるのでしょうか。

何故その子供が自分のおもちゃを取られて友達を叩いたら、「そんなことしたらいけないよ」と教えるのでしょうか。

自分が苦しくても相手に危害を与えちゃいけないと教えてきた親や教師は成長した人間には「自分を守るために中絶したほうが良い」と言うのでしょうか。

自分を守るために相手を殺す、これは戦争の”正義”というものです。
でも多くの人は戦争は起きてほしくないと願っています。

自分(自国)を守るために人を殺し、国に帰ってきた帰還兵の多くがPTSD(心的外傷後ストレス障害)に罹って鬱病を発したり果ては自殺したりする人が多いのは、耐え切れないほどの罪悪感から自責に苛まれつづけて精神を病んでしまうからです。

中絶をした(させた)ことで苦しんで、自殺してしまった人も多くいるのではないかと想います。

むしろ殺してしまったことに自殺するほど自分を追い込んで苦しみ続けない人に対して、一種の薄ら寒さのようなものを感じるのはわたしだけではないと想います。

飼い猫が自分のせいで死んでしまったのだと自分を責めつづけて重い鬱病になってしまった人もいます。
殺すつもりはなくても殺してしまったのだと苦しんで生きる人は多いのです。

中絶に関わる人が、精神を病むほど苦しみつづけずに生きるというのは幸せなことではなくて、むしろ不幸なことなのではないでしょうか?

当たり前の話ですが、人は、生命は、生まれてこれたから生きていくことができるのです。
生んでくれた存在がいてくれたから、すべてが生きていられているのです。

母親が赤ちゃんを産みだすことは命懸けの行為です。
自分が死んででも赤ちゃんを産もうとすること、それが人間が人間を創造することです。
母親の命を懸けた決断によって、自分の存在というものがこの世に生まれて生きているのです。
感謝しつづけても感謝しきれないほどの感謝を喜びを知る子供なら母親に対してしつづけているはずです。
どんな子供でも、母の自分の命をなげうつ決意のおかげで生まれてくることができます。
命を産みだすこととは、自分の命を犠牲にしてでも経験したいほどの喜びだと母親はどこかでわかっているはずです。
それが本能として備わっている”母性”というものです。
母親に限らず、親のだいたいが自分の命をかけても子を護ろうとします。

なぜそういった本能が生命にもとからあるのでしょう。
それがなくなってしまうなら、種は絶えてしまいます。
誰一人、子を産まず中絶する時代が来るなら、人類は滅びてしまいます。
中絶できる自由というものも、この先、中絶が著しく増えるなら規制されてゆくはずです。
人類を滅ばせるわけにはいかないからです。

たくさんの母親が命をかけてでも赤ちゃんを産んでくれているから中絶することが合法とされているわけです。

合法にはならなくなる時代が来れば、中絶は殺人罪となります。
今では1人~3人殺せば死刑とされる時代です。
たった一人の中絶は、死刑に相当する罪なのです。

なぜ1秒間に少なくとも1人もの胎児が、この世に生まれてほんの少しの喜びを感じることも許されずに殺されつづけていかなくてはならないのでしょう。
飢餓や貧困が原因の途上国の中絶なら、日本でも減らしていくことができるはずです。
途上国の飢餓や水不足は先進国の肉食が関係しています。

1人1人の”殺人”というものが自分とは無関係のところに起きているわけではないということがわかるならもっと深刻に考えつづけていけるはずです。

ひとりひとりの”罪”というものは、自分とは関係のない”罪”ではないということです。
”罪”は呼び方を変えるなら”苦痛”と言えます。
たった一人の”苦痛”はすべての”苦痛”と密接に繋がっているということです。

これも人間だけではありません。生命すべてと言えます。
”生命の苦痛”、それは勿論まだ誕生していない胎児も立派な生命であり、一人の人間という存在です。

仏教では殺生の罪は阿鼻(あび)地獄 / 無間(むげん)地獄という地獄のなかでも最下層に位置する最も苦しい地獄に落ちるとされています。
”殺生”というと”生き物を殺すこと”ですから幅が広いですが、例えば極端な例ですが、相手が一匹の小さな虫であっても、その虫を殺したことでそれをなんとも想っていない人と、そのことを日々苦しみ自分を責めさいなみつづける者がいるのならば、前者は自分に重い罰を科してはおらず、一方後者は地獄とも想える罰を自ら科しつづけているというのが事実としてあるわけです。

殺生が、最も苦しい罰を受けることになるよ。と説くのは要は人間というものは殺生を最も苦しむ存在であるという多くの例によって説いているわけです。

さっきの例で、虫を胎児に変えてみましょう。
一人は中絶したことに平気で生きて安らかに死ぬかもしれません。でも一人は地獄のような道を死ぬまで歩んで、死んでも自分を赦さず無限に続くかのような地獄のなかでまた転生してくるかもしれません。
そしてこの前者も、死んで次に生まれた人生では前世の行いの罪を今度の人生ではうんと苦しもうとするかもしれません。

自分にどのような未来が待ち受けているのか、というあらゆる”可能性”を人は考える必要があるのは、結局は誰のためでしょうか。
それはほかの誰でもなく、自分自身のために”可能性”というものをどこまでも考えつづける必要があるとわたしは想います。

これは殺生に賛成する人にも同じです。
死刑制度に賛成する人、戦争に賛成する人、中絶に賛成する人、自分が殺生に直接関わらなくても殺生を肯定するのは殺生を自ら行なっていることと変わりはないです。
賛成しつづけるということは自分に対して殺人罪を課しつづけていることと同じであるとわたしは危惧するのです。

利己的な殺人者は殺す(死刑に処する)べきだ、死ぬべきだと多くの人は言います。
でもそれは人間の生命の価値を分け隔てている考えです。
人間の命というものが同等であると想うなら人を殺した人の命も殺された人と同じほどに尊い価値であるので、殺すべき、死ぬべきだとは言えません。
命そのものに絶対的な価値を置いているからです。
どのような残酷な行為をしたからといって、”殺されるべき人間”はどこにもいないのです。

殺人者でさえ、生かされつづけています。どのような人間でも”生きる喜び”を感じることも”生きるつらさ”を感じることもできる権利があるのです。
それなのにお腹の中で何も知らずにすやすやと眠る胎児が”殺されるべき人間”であるはずもないのです。
20人以上殺した殺人者でも、一瞬の苦しみで死ねるようにと必死に人は処刑方法を工夫するのです。それなのに胎児は頭と胴体を引きちぎられるというような拷問の処刑方法のようなものを科されつづける必要は、あると想われますか?
それも一秒間に少なくとも一人の割合で。

この世に生まれでて、生きていくことというのはだいたいにおいて苦しくつらく、哀しいことのほうがずっと多いものです。
その中でも人は喜びを感じて、生命の尊さというものを感じる喜びを知って行きます。
生きていくのは苦労に満ちてさぞやつらいだろうからとわたしの母親がわたしを産んでいなければ、わたしという存在は今ここにこうして生きてはいません。

いろんなことを考えて、泣いたり笑ったり義憤に燃えて苦しんだり、すべてのわたしの存在というものだけが創りだし、また表現できる生命現象というもののすべてが、母親がわたしを産んでくれてなかったら存在しないのです。

わたしはここに存在しませんでした。

存在できなかった存在の無念さは、すこしでも想像しようとするとその無念の深さに気を失いそうなほどの哀しみを感じます。
その無念さのすべては、生きている存在すべてと繋がっているはずです。

それはひとつの底のない闇です。
無限につづいているような闇です。

そんな場所にたったひとり、胎児は置き去りにされているかもしれません。

わたしは命を懸けてでもそんな胎児が一人でもいるなら救いだしに行きます。

それは自分自身を救うことだからです。

その真っ暗闇の中で泣いているのは他の誰でもなく、自分の胎児だったときだからです。





生命の尊厳とはの記事にあとから追加した写真です。ここでも載せたいと想います。

手を胸の上でひっしと組んで眠るように死んでいる中絶胎児の写真です。
どんなせつなる願いと祈りがそこにあったのでしょう。

http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/o/otoneru/20170407/20170407143915_original.png?1491543633









魂とは。わたしは生命に義憤を覚える。

2017-04-08 20:27:26 | 生命の尊厳
いったい人間は、人間は、人間は・・・・・・どこまで自分自身に対して、都合の良い存在と成り果てつづけるのだろう。
俺は俺の言うことこそが正しいとは言わんけども、首が切断されるような感覚に痛むほどの義憤を覚えたので感情論を述べることにしよう。(酒を呑みながら)

前回の記事生命の尊厳とはから、中絶に関して調べつづけているが、都合の良い解釈が多すぎるあまり、俺がそれを受け容れる限界値に達してしまったようで、今の俺の目はたぶんギロギロしてると想う(人は苦しんで緊張が高まると目がギロついて瞳孔も開く)。

あんまりにも、自分を可愛がりすぎて、殺してしまった胎児の痛み苦しみ哀しみを軽んじているような解釈がネット上には多く見られる。

それはこういった解釈である。

・赤ちゃんはお母さんに堕ろされたことを今はもう苦しんではいない。
・赤ちゃんはお母さんと自分自身の成長の為にあえて自ら中絶されることを知って生まれてきたのだから、もう母親は自分を責めるのはやめて前向きに生きたほうが、赤ちゃんも喜ぶことだろう。
・お母さんがずっと中絶したことを苦しみつづけることを赤ちゃんは望んではいない。
・中絶された胎児が、「お母さんありがとう」とあの世からメッセージを送っている。
・自分が殺してしまった赤ちゃんのぶんも自分は幸せに生きなくてはと想う。
・胎児は痛覚がまだ発達していないから痛みは感じてはいない。


胎児が苦しんだか苦しんでないか、今も苦しみ続けているのか、苦しんではいないのかなど、胎児になって同じ経験をしてみるまではわからぬことではないか。
俺はこういう利己的な概念こそ、危険なカルト宗教的な概念に想わざるを得ない。

殺されるという苦しみを、痛みを、ほんのちょびっとでも想像できるなら、このような安易な解釈はとても出来得たものではないと想うのだが、何故このような解釈がはびこってきたか。

自分の罪を正当化する為に、もっとも良い解釈がなんでここまで広がっているかというのは、人間の命というものを軽く見るようになってきているからである。

人間だけではなく、生命一般を尊ぶことが難しくなってきているからである。
10代の娘が、望まざる妊娠をしたとしても親が必死に命の大切さがどれくらい大切なもんであるのかを教えられていたなら、娘は子を産むことを決意しただろう。
親が子に教えることのできる最も価値ある教えとは、命の大切さ、愛おしさ、ではないだろうか。


今、全世界では、毎年約4500万人、一日で11万人以上もの胎児が堕胎されていると言われている。
先ほどの解釈が世に広まれば広まるほど、中絶胎児が減っていくのならいい。
減っていってさえくれるのなら、どんな解釈でも広がってほしいと俺は想う。

でもどんな解釈であろうと、人一人殺して、人が幸福になる、平和に向かうという考えは俺は本当に狂っていると想う。
まるでオウム真理教かと想う。
ポアか、胎児と母親のために胎児をポアするのか。

たとえ胎児が自分と母親の成長のためにあえて中絶される胎児に転生してきたとしても、その胎児を殺してしまうことを選択するというのは、人一人を殺すこととなにも変わりがないことだ。

人工妊娠中絶(堕胎)、それは人を殺すという選択をとるということである。
胎児にどのような意図があろうと、どういった判断で子を堕ろすのかというのは母親の観念によって決めることである。

どのような理由があろうと、人を殺すという選択をとる人間が”正常”だと言えるのか。
否、正常よりは、”異常”だと想うなら、「おまえは異常だから、おまえの判断で中絶するなど、許せるものではないよ」と周りは言うだろうが、人を殺すと選択した母親を”正常者”であると見ている周りであるから、胎児が殺されることが”正常”な判断によってあたかも行なわれ続けているのがこの地獄絵図のような”現実”である。

本当に人を殺すことが正常だというのなら、今から5分後に、あなたは突然目のまえに現れたる異常者によって無残にも頭と手足などを引き千切られて命を奪われても、その異常者を”正常者”であると呼ばなくてはならないことになる。

これがどれだけ、狂気めいていることか、想像してもらえるだろうか。
でも”中絶”を肯定することとは、そういうことなのである。
胎児を殺しても自分が幸せに生きなくてはと想うということとは、誰かそこらへんにおる知らん人一人殺してもわたしは幸せに生きなければと想うことと同じことなのである。
これは根本的に、狂っている解釈であり、発狂者の解釈であり、こんな解釈が本当に世にまかり通るなら、世は殺人だらけの殺人合法の地獄的な世に成り果てるだろう。


なんで人一人殺して、自分は幸せにいきなくては、と想うのか。別に幸せに生きなくてもいいのではないのか。赤ちゃんが、ほんとうに自分と母親の成長のために中絶を望んだとするなら、それは苦しみからの成長のほか、なにがあるのだろう。
幸せに生きている人間とは、だいたい阿呆なものである。
自分の幸せが壊れることをどこかで恐れて過ごすようになるからである。
そして苦しいことがあるごとに、自分の殺してしまった赤ちゃんが幸せになるようにと祈っているのだから幸せにならねばと幸せを求め、ますます苦しむのなら、その苦しみは確かに良いものだと想う。

でも人が本当に、人一人殺さねば、幸せになれない(成長できない)というのなら、人が増えるほど、殺人も増えるだろう。
人生で本当に遣りたいことが見つかり、それを深めて生きたいと想った次の日殺されてしまったなら、また同じような人生を選んで転生してこなければならない。

人一人を殺さねば、本当に人が成長できないというのなら、誰一人、殺人というものを否定することはできなくなる。
自分自身、母親自身も、母親自身が、胎児を堕ろした次の日に殺されたとしても、それが自分と相手の成長のためなのだと納得して死んでいかねばならなくなる。

いずれも、いったい自分は何を信じるか、という話になる。
本当に胎児を殺さなくては自分と胎児の成長が在り得ないのだと信じて殺したことを肯定して前向きに生きるのか。

何を信ずるか。それは胎児自身もそうである。胎児は中絶の苦しみによって、自分と母親は成長するのだと信じて母胎内に転生してきた魂であるかもしれないが、それは胎児が信じている観念であって、それが宇宙の真の理というわけにはならない。

それこそが正しくて、ほかは間違ってるよ。ということには決してなるまい。

胎児がそう信じてお母さんのお腹の中に宿ったとしても、実際、拷問の苦しみと痛みと恐怖を感じて死んだかもしれないわけだ。


もう一度言うが、”幸せに生きている人間とは、だいたい阿呆なものである”

誰とは言わんが、例えばSNSかなんかに自分と恋人とのいちゃいちゃ写真を載せたりなんかして自分の幸福を見せびらかしつづけるような悪趣味な人間たちというものも典型的なアホな行いをしてしまっているのがお解かりであろう。
その人間存在自体が阿呆の塊だとは言うまい。人格性を否定はしまい。
しかしそのとき、その人間は確かに阿呆なのである。

幸せとは、人を阿呆にする。それは成長というよりか、堕落、退行と見える。
他人のいちゃいちゃしている写真を見たからって、よおし明日からも頑張るぞーなどと想って生きてはいけないのは人間である。すなわち他者を幸福にするよりも他者を哀しませる行為に幸福者たちはいともたやすく走りやすくなる。

”まずは幸せにならねば、苦しみを知ることもできまい”
その考えをわたしは否定しない。
では言わせて貰おう。胎児の幸せをあなた方(中絶に関係する者たち)はまず奪ったのである。

胎児の魂を成長させたいと本気で願うのであれば、まずは胎児の魂を幸福にする必要があると想えませんか。

ひとりひとりが、違う。だからこの世は素晴らしいのである。
なんでどの胎児も我と母親の成長の為に中絶を良しとしてるという解釈を安易によりにもよって母親が受け容れることをするのか。
胎児の魂だって、ひとりひとり、違う考えがあると考えるのが自然ではないだろうか。

自分を殺してしまった母親に対する言葉にもならないような複雑な感情を抱きつづけて苦しんで母親の傍にいる胎児の霊がいないとは言えない。
そのような胎児がいるのなら、どうすればその胎児は救われるのだろう。

一日に11万人近く堕胎されていて、その半数近くが苦しみつづけている胎児の霊であるかもしれない。

どこに焦点を合わせるか。
自分に置き換えて想像するのは難しいことであるが、わたしがまっさらな魂のような存在で、愛する母親に命以上に大切だとは想えない理由で殺された胎児であったなら、簡単に「自分とお母さんの為にこれでよかったんだよ」などとは言える境地には達することなどできないと想う。

・胎児は天使のような存在だから、けっして母親を恨んだりしないし悔しがったり無念を感じつづけて苦しんだり孤独でい続けることなどないよ。

実際そんな経験深い胎児だっているにはいるんだろう。でも全員の胎児がそうなんだというふうになんで言うのか。

ほんとうは哀しくてさびしくていつも泣いてばかりいるのにお母さんがそんな楽観的な観念でいて幸せにならなくてはと考えて過ごしていたなら、胎児は自分の気持ちを分かってもらえてないんだと想っていよいよ苦しいところでひとりぽっちで霊のまま生きつづけなくてはならないのかもしれないのである。

だから母親は特に、胎児の霊がほんとうは何を感じているのかと、あらゆる想像をしつづける必要があるのだとわたしは想う。

ひとりで部屋の隅っこに蹲って泣いてはいないだろうか?
天に昇るすべも持てずに、自分のことを哀しい目でいつも見つめてはいないだろうか?
今何を想っているのか、どう感じているのか、どこにいるのか、自分にできることはどういうことだろうか。

そういったことを考えることって、胎児のためにも幸せにならなくてはと考えることよりずっと”相手を知りたい”という願いがあるわけだから、それは愛を知るということであって、ただたんに幸せに前向きに生きることよりも大きな喜びに繋がるものではないだろうか。

”成長”というのは、言い方を変えると”本当に大きな喜び”に繋がるものである。
そして”本当に深い喜び”こそ、”幸せ”である。
胎児が望むものとは、ひとつ、それであるだろう。
安易な解釈で安易な幸福に浸かって喜んでいるような母親を胎児は望んでいるのか。
だとするならそれはそこまでの愛情と言える。

”胎児の愛は本当に深いから中絶しても許される”という御都合主義の利己主義な幻想が広まり、ますます中絶件数が多くならないことを切にわたしは祈る。

胎児は天使(神の子)であるからこそ、どのような理由があっても、産まなくてはならないとわたしは感じる。


生命の尊厳とは

2017-03-30 04:45:27 | 生命の尊厳
わたしは人間の「罪」とは、言い方を変えるなら「苦しみと悲劇」であるのだと想います。

人間がなにが「善」でなにが「悪」であるかを敏感に感じ取るのは、それが「喜び」であるか、もしくは「苦しみ、悲しみ」であるかを知っているからだと想います。

人間の自分の中の「罪(悪)」を罰する者とは、他者(法律)ではなく、自分自身なのだと想っています。

わたしは想うのです。人間は、生命とは、いったいどれほどの苦痛に耐えることができるのだろう。いったいこの先も、どれほどの苦痛に耐えなくてはならないのだろう。

人は生命の中でも特に、「人」の命を尊びます。
だから家畜の肉を食べる人は多くとも、人が殺されることには抵抗する人が多いのです。

それは自分も「人間」だからです。
人間を殺すこととは、自分自身を殺すことと同じことなのです。

普通は人を殺せば殺人罪に問われるのですが、合法的な殺人があります。
一つは「戦争」、もう一つは「死刑」、もう一つは「中絶(人工妊娠中絶、堕胎)」です。

もしこれらの合法的な殺人のどれかを「仕方のない殺人」と呼ぶのなら、それ以外のすべての殺人も「仕方のない殺人」になるとわたしは想うのです。

殺人はすべてにその「わけ(理由)」があるものです。
戦争は自国を守るためにです。
死刑は遺族のため、犯罪防止のため、再犯防止のため。
中絶は母体を護るため、赤ちゃんが生まれてくることでなんらかの不利になる状況を避けるため。赤ちゃん自身のため(奇形や障碍児は幸福には生きられないという観念のため)。

そしてそのほかの殺人罪に問われる殺人もそれぞれ各々のわけがあります。
なんらかの訳があるから、人は人を殺すのです。
その「殺人」が、利己的か、そうでないかを判断するのは、最後は結局他者ではなく、自分自身です。
誰に非難されようとも、そうしなければならなかった理由があるのなら、それは確かな「殺さなければならない理由」だったはずです。

そういう意味で何か一つの「殺人」を「仕方のない殺人」とするなら、それはつまり自分がその「仕方のない殺人」の被害者になろうとも、仕方のないこととして受け容れなくてはならないことになります。

「仕方のない殺人」とは言い方を変えるなら、「殺されても仕方のない存在」、「殺されてもよい存在」と言っていることになります。

「罪のない」人を殺すという殺人は多くの人に非難されますが、同時に「罪のない」赤ちゃん(胎児)は生まれることもできないまま毎日世界中で何万人何十万人と殺され続けています。

「仕方なく殺さねばならなかった」とは言い換えるなら「殺してもよい存在」として赤ちゃんを見ているということです。
「殺してはならない存在」として見るなら、たとえ自分の身体が危険であろうとも、生かそうとするはずだからです。
赤ちゃんが「生きてほしい存在」であるなら、自分が死んででも産もうとするはずです。

赤ちゃんが生まれることを望まない中絶(堕胎)とは、赤ちゃんは「生まれなくても良い存在」として、仕方なく殺してしまうことなのです。

なぜ自分(母親)は「生きなければならない存在」で、赤ちゃんは「生きなくてもよい存在」なのでしょうか?

同じ人間という生命です。
母親もかつては自分のお母さんの胎内ですやすやと眠っていた赤ちゃん(胎児)だったのです。

赤ちゃんが安心してお母さんのお腹の中で眠ることができるのは、お母さんと自分は「一体」であると感じているからです。

お母さんと赤ちゃんは、赤ちゃんがお腹の中にいるときは「一つの存在」なのです。
赤ちゃんはお母さんを絶対的に信用して、愛されていることに安心して眠ります。

あたたかい羊水のなかで、お母さんの鼓動をいつも聴きながら眠っていたのです。
人間は誰しもが、そんなお母さんのお腹の中で過ごしていた赤ちゃんだったときがあるのです。

どんなお母さんであっても、赤ちゃんはお母さんに愛されていることを信じてすやすやと眠っています。
それは赤ちゃんの愛です。
お母さんを愛する愛で赤ちゃんはできているのです。

赤ちゃんを愛することとは、人間を愛することです。
自分自身を愛することです。

赤ちゃんを愛することはお母さんが幸せになることです。
赤ちゃんを愛することはお父さんが幸せになることです。

赤ちゃんはお母さんもお父さんも幸せにしたくて生まれてくるのです。
愛するため、愛されるためにお母さんのお腹のなかで受胎したのです。




そんな赤ちゃんたちがいったいいつまで、ほんとうに残酷な方法で殺され続けなくてはならないのでしょう。
死ねば苦しみは終わるのでしょうか。
でもそんなこと、わからないことなのです。
赤ちゃんは死んでも苦しみつづけ、お母さんの愛を求めつづけてお母さんの側にいつでもずっと存在しているかもしれないのです。

生命が何故生まれてくるか、ほんとうのところはわかりません。
わからないのに、死ねば楽になるというのは都合の良い妄想です。



自分は見たことはないのですが、水子の霊(胎児の霊)っていうのはほんとうにいるように想うんですよね。
赤ちゃんの魂ほど、自分が死んだことに気づけなくって死んでもずっとママのそばについて、成人の霊よりずっと苦しんで此の世と彼の世のあいだに居つづけるんじゃないかと。
そうすると赤ちゃんの霊が苦しむほど、やっぱり母親や赤ちゃんの苦しみに関係している人間たちの苦しみ(罪)も増すように想えます。




今日は中絶(堕胎)についての自分の思想の話はこれくらいにしておこうと想います。



この先は、もっとつらいもので、覚悟を持って観て頂きたい動画と画像(画像はそのまま載せてはいません。クリックすれば観れるようにしてあります)になります。






「沈黙の叫び(原題:The Silent Scream)」というのは賛否両論を起こしている1984年の妊娠中絶反対派による教育映画で、批判的な意見も多いようなのですが、その批判的な意見というのが結構どうでもいいところばかり批判しているのを見ると、自分はこの映画が訴えられるもののほうがずっと価値があると感じましたので、載せることにしました。


特に観ていただきたいと思ったのがこの二つのカットの動画です。
この二つはグロテスクな場面は入っていません。



ナレーターのバーナード・ナサンソンという人は産科医でNARAL(妊娠中絶権擁護全国連盟)プロチョイス・アメリカの創始者でもあるが、妊娠中絶を行う側から中絶反対の活動家に転向した人です。


このナサンソンが、一般的な人工妊娠中絶で用いられる器具を取りあげ、手術において女性の身体に対してどのように使用するのかを淡々と実演してみせます。

そして妊娠12週〈頭殿長(赤ちゃんの頭からおしりまでの長さ、座高)が約6cmほどの大きさの胎児、脚をピンと伸ばして計れば8cmくらいかもしれません〉の時点ですでに胎児の頭は吸引装置を使うには大きくなりすぎていると述べ、妊娠6週目から脳波を出している胎児の頭の骨を砕くための鉗子(かんし)の使い方をデモンストレーションする。





沈黙の叫び 2/5 (妊娠中絶)



この使われている器具類や方法は現代の日本でもほぼ変わらないようです。

(クリニックによっては、手術をしやすくするために、前日に、子宮頚管を広げるラミナリアという器具を挿入します。
ラミナリアは海藻でできた棒状のもので、少しずつ体内の水分を吸って膨張していき子宮の入り口を広げます。
人によっては、痛みが出る場合もあります)



妊娠初期の6週から11週までに中絶手術を行った場合のリスク


これらの硬い鉄の器具で子宮内を乱暴にも掻き回して掻き出すわけですから、子宮内壁に穴を開けてしまう“子宮穿孔(せんこう)”が起きたり、感染症やその傷で女性は不妊や流産といった後遺症のリスクを伴います。


妊娠12週以降の中期中絶になると、リスクはさらに高まります。

薬を投与して人工的に陣痛を起こし、分娩と同様に胎児を外に取り出しますので、特に出産経験のない方の場合は、子宮の出入り口である子宮頚管を広げる術前処置をしっかりと行います。
そのため、子宮頚管を傷つけてしまったり、陣痛が強すぎて子宮破裂を起こしてしまうリスクがあると言われています。

さらに、大きくなった子宮の収縮が遅かった場合などは、通常の出産ど同様に弛緩出血と言って多量の出血が起こる場合もあります。



中絶手術の際に感染症などのトラブルがあった場合は、それを原因として不妊症につながることがあると言われています。

さらに、何度も中絶手術を繰り返した方などは、子宮内膜が薄くなってしまい、受精卵が着床しにくくなる場合があるそう。
また、初産のときに早産の確立が高まったり、分娩時の出血が増える傾向も指摘されているそうです。



中絶にはこれだけのリスクがあるということを知るなら、母体(母親)を護る(生かす)ための中絶といっても、産むことと中絶することのどっちがリスクが低いかはわかることではないのです。
母親が生きるために中絶を選択しても、その罪悪感から精神が病んでしまっては自殺の危険性も生まれてきます。




次の映像も衝撃的なものです。(グロテスクなものではありません)


テレビには母親の子宮にいる胎児の超音波画像が映し出され、
ナサンソンは、何が起きているのか順を追って解説し、子宮に用いる新たな器具(サクションカニューレ)について説明します。

新たな器具はナサンソンがいうところの「子供」を「バラバラにして砕いて破壊する」ための最終兵器と呼ばれる。

胎児は子宮への侵入者に対する準備など出来ておらず、「堕胎医の操る冷たい鋼鉄の器具によって…バラバラにされる子供は」カニューレから逃げようとする、とナレーションは続く



沈黙の叫び 3/5 (妊娠中絶)




胎児は母親の子宮内で頭部と胴体、場合によっては手足も引きちぎられて殺され、引きずり出されるのです。
この方法さえ知らされずに中絶する人は多いのではないでしょうか?

座高が6cmほどの大きさの胎児が吸引する器具から必死に逃れようとして、また胎児の脈拍も急激に高まるというこの映像と話を嘘だという人は、胎児が逃げることも脈拍が高まることもないなら胎児は殺されようとしているその瞬間、なんの苦しみも感じずに平気でいるはずだと言いたいのでしょうか?

でも胎児がそのときどんな感覚でいるかというのは、胎児になってみなければわからないことです。
逃げることも脈拍が高まることもなかったとしても、胎児は拷問のような痛みと苦しみのなかで殺されているかもしれないわけです。

生まれてきた赤ちゃんの胴体と頭と手足を鉄の器具で引きちぎり、殺すなら、その殺した人はどれほどの非難を受けるでしょうか?
でもその赤ちゃんのほぼ同じ形のミニチュアサイズの赤ちゃんの身体なら生きたまま引きちぎっても良いとされるのは、小さな赤ちゃんには痛覚はそこまで発達していないからと勝手に決め付けているからではないでしょうか?

もし子供や成人とまったく同じ痛覚があるのなら、生きたまま身体を鉄の器具で引きちぎられるというのは、いったいどれほどの痛みと苦しみでしょうか。
想像できますか?
想像もできないほどの痛みと苦しみのはずです。
何故なら死ぬほどのそんな痛みと苦しみを経験して生きている人は誰もいないからです。
頭部と胴体を引きちぎられても生きている人はいません。



2003年には全世界で4200万件の中絶が行われたと推計されたようです。一日に11万5千人ほどの計算になるでしょうか。
想像もできないほどの拷問の苦痛をちいさな赤ちゃんに毎日、実際闇に葬られているのも含めば何十万人単位に達するかもしれない数の赤ちゃんに対して世界中で行なわれつづけています。


強姦や望まない妊娠でできた赤ちゃんであっても、拷問の苦しみを与えてまで赤ちゃんを殺すことを、母親は自分に対して赦すことができるものでしょうか。
自分自身を赦さないということは、精神的、または肉体的苦痛を伴うある意味拷問の苦しみを生涯自分に対して科しつづける人生を歩むということになります。

赤ちゃんを一人でも殺してしまうということは、どれほど重い苦しみ(罪)を自分に対して与えつづけることであるか、人はもっと深刻に考える必要があるとわたしは魂の底から危惧します。

「殺人」とは、どのような理由があっても、殺人を犯してしまった本人が自分自身を赦さないなら、それは地獄の道を歩むということです。
宗教のほとんどがなぜ一番に「殺生の罪」「殺すなかれ」という戒めを作ったか、それは「殺す」ということが人間にとって一番の「苦しみ」を生みだすものだからです。

中絶(堕胎)という選択をすること、それは「いつまでつづくかもわからないほどの地獄のような苦しみへの道」を胎児と共に突き進むという選択にほかありません。




この先は、胎児がどのような姿で殺されているか、その画像とすこしの動く映像を貼って、この記事は終えます。

閲覧に注意してください。




妊娠中絶
https://www.youtube.com/watch?v=9FaMMveSpO4





いきなり開いて吃驚するかもしれませんが覚悟してご覧になってください。(三枚とも小さめ~中ぐらいの大きさの画像です)



最初の写真はグロテスクなものではないと想います。手を胸の上で組んでいる中絶胎児の写真です。
ママのお腹のなかで祈りつづけていたように見えますね・・・
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/o/otoneru/20170407/20170407143915_original.png?1491543633



http://1.bp.blogspot.com/_NBH5JN5Es64/TRduuF2EaFI/AAAAAAAAADY/_NQv2UoQoDc/s1600/Beb%25C3%25A9+Abortado+-+%25C3%2589l+no+tuvo+Derechos+Humanos.jpg




https://i.ytimg.com/vi/KPdREM8uUsA/hqdefault.jpg




https://image.slidesharecdn.com/pptcapacitacionviveaborto-090924021433-phpapp02/95/porque-no-elegir-el-aborto-36-728.jpg?cb=1253758546






最後に、何故、人間の命を特に人は尊ぶのか。
それは、人間の人生というものは、その遺伝子を引き継いだ一人の人間の生きる環境、容姿、人格性などすべての備えた個の人間という存在が、ほんとうに一度きりの「物語(人生)」であるからではないでしょうか?

そのたった一つの「物語(人生)」を生きるために生まれてこようとしている魂が、一日すらお母さんのお腹の外の世界を生きることが叶わなかったその無念と哀しみが、どれほど深いものであるかを、想像し続けることができればと想います。






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