あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

父と横山やすしの想い出

2016-06-28 21:40:00 | 想いで
深刻な話題が続いてかなりストレスが限界値まで来ているようで、
目が覚めた瞬間心拍数が酷く心臓がヤバそうなので、ここでひとつ、ほがらかな話題を挟みたいと思います。

昭和16年生まれのうちの父親は62歳でこの世を去るまで
一度も酔っ払う姿を目にしたことのない人で、
私の覚えている父は毎日仕事から一目散に家に帰ってきて
晩酌にはビール小瓶1瓶と決めてそれ以上は決して飲まなかった人なのですが、
若い時分に一度だけお酒を飲んでヘマをやらかしかけたことがありました。

多分1975年前後くらいの頃のことだと思います。
父は34歳前後くらいの頃です。
その頃、父は大手会社の慣れない営業の仕事をしていて、
同僚に誘われたのでしょうかお酒を飲みに行くことなど好きではない父が
同僚たちと一緒に大阪の居酒屋を転々としたのちまたひとつの居酒屋へ寄りました。

居酒屋へ入った途端、父はよく知るある男の姿を目に留め、こう呼びかけたそうです。
「お〜やっさんやないかぁ〜」
題名で既にネタバレですが、そうです、そこにいたのはあの横山やすしだったのです。
全盛期の頃だと思うので父より三つ年下のやっさんは31歳前後くらいだったのでしょうか。
やっさんは父のその明らかに俺はお前の知人だというふうな馴れなれしい呼び声に、
お、とやっさんも酔った頭でかなり思い出そうとしながら、父の方へ近づいてきて、
やっさんは普段すごく腰の低い人やったそうで、あの照れ笑いをしながらへこへこした様子で
「いや~すんまへん、どこで…お会いしましたやろかいな…」と困った顔で
父を怒らせないように十分に気遣って話しかけてきました。
(父の見た目が頬のこけて一見ちょっと上品なヤクザ系のいかつい顔だったのもあるかもしれません笑)

するとお父さんは珍しく酔っ払ってたので、こう返したそうです。
「なにゆうてんねや、いつも見てんでェ、"テレビで"」
これにやっさんは当然、ブチ切れました笑
お父さんもやっさんにへこへこされたのだから、
「あっ、こらすんまへん、テレビでいつも見とるやっさんがおったもんやから
吃驚してつい嬉しくて話しかけてもおたんですわ」
などと返していればやっさんも切れなかっただろうに(たぶん)、
偉そうに謝りもしなかったのでやっさんは瞬時、憤怒の形相になり
、163センチのやっさんは173センチくらいの父を見上げるようにしてその胸ぐらを掴むと
「ワレええかげんにさらさんかいィ、あほんだらァ」という感じで
父もまたなんでそんなことで怒るんやという悲しい怒りで切れてしまい、
互いに殴り合いの喧嘩になりかけたところ、慌てて駆け寄った周りの人間たちに引き剥がされて、
宥められ、2人とも息を荒げながらも各々の席に無理矢理着かされたようです。

そして別々の席で飲んでいると、だいぶしてお父さんは何者かに後ろから肩をぽんと叩かれました。
振り返ると横山のやっさんが立っており、お父さんに向かってあのいつものにこやかな顔でこういったそうです。
「おぅっ機嫌よう呑んで帰ってや」
お父さんはその頃はもう酔いも冷めかけていて、ものすごく感激したそうですが、
礼や謝罪を言う間もなく、やっさんはそう言った後すぐに店を出てってしまったそうです。

それからは父はもともとやっさんのことは好きだったのがそれ以来さらに大ファンになり、
やっさんがかけていたのとそっくりな黒縁眼鏡を買って気に入っていつもかけていました。
黒縁眼鏡をかけた父の姿はやっさんによく似ていました笑
感情的になってすぐ怒る(短気)、だけども憎めない、子供のような純粋な部分を持っていて、
素直で不器用な人、人情深い。という性格もよく似ていたと思います。

そしてこの遺伝子をどうやら私も受け継いでいて、
さらにやっさんの「臆病で気が弱いのに威勢を張る」
笑いの質は違えども「人を笑わせるのが大好き」「勉強嫌いの負けず嫌い」
なところなんかもよく似てるようで、ネット仲間たちから○○○は横山やすしと似てるよね笑と言われました。

怒るでィしかしィっ笑

横山のやっさんはそんなこんなで特別な芸人なのです。

やっさんが亡くなってから今年で20周年だそうで、
お父さんより三つ下なのに8年も先に旅立ったんだなと思うと、
あの日の父と父の肩を優しく叩いたやっさんとの縁というものを想像してすごく切なくなります。





他では絶対見られない③ 爆笑王 横山やすし・西川きよし 幻の名コンビここに復活



これ初めて観た。久しぶりにすごく笑った(笑)ほとんどアドリブな感じに見えてしまう。







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私の犠牲になった者

2016-06-28 07:13:01 | 食と社会問題
自分がこれまでに食べてきた肉の量が、何頭分、何羽分になるかを計算しました。

自分は30歳の時に食肉産業のあまりの残酷さを映像で見てから一切畜肉(牛、豚、鶏などの肉)
を食べていないので、1歳から離乳食で肉を食べ始めたとして29年間の食べた肉の量を計算しました。


農林水産省発表の「国民1人・1年当たり供給純食料」を見ると、
平成24年では牛肉6.0kg、豚肉11.9kg、鶏肉11.4kgとなっています。



1歳~5歳は三分の一の量の計算で、5歳~10歳は半分の量の計算、10歳~30歳までは成人の平均の量で計算しました。


1歳~5歳 

牛 8kg
豚 15,8kg
鶏 15,2kg


5歳~10歳

牛 15kg
豚 29,8kg
鶏 28,5kg


10歳~30歳

牛 120kg
豚 238kg
鶏 228kg


29年間の合計で、

牛 143kg
豚 283kg
鶏 272kg


牛や豚の体重って?一頭からどれ位の肉がとれるの?

牛は、と体(と殺された家畜の体全体のこと)の60%弱が枝肉になります。
そしてとれる肉はそのうちの約45%です。
他の55%は骨、腎臓、脂肪です。
計算してみると、体重が800キログラムの牛からとれるお肉の量は、200キログラムちょっとでしょうか。

 豚では、と体の約70%が枝肉になり、枝肉の約70%が肉になる部分です。
体重90キログラムの豚からは、44キログラムくらいの肉がとれることになります。


鶏肉は1羽あたり約1kgくらいだそうです。

それで計算しまして、29年間私が食べた(自分が食べるために食肉にされた)のは

牛 1頭
豚 7頭(6,4頭分で7頭の犠牲となります)
鶏 272羽

これだけの命が私のために犠牲となったという計算が出ました。
しかし肝やホルモン(内臓類)などはめったに食べてこなかったし(とれる肉の量に内臓も入っているなら)、部位によって自分がどの部位をよく食べたかで計算できるならもっと多い犠牲となるはずです。

昔からガリガリの体質で少量ですぐに満腹するので平均より肉は食べてこなかったと思いますが、それでも牛肉一切れ食べただけで当然ですが牛一頭を犠牲にするのと同じことなのだと改めて感じました。
牛一頭を殺さないと牛肉一切れを人間は食べることができないんですね。

豚は七頭分、あんなに無邪気で懸命に生きようとするぶたさんを私は最低でも7頭自分の手で殺してしまいました。



こんな可愛いぶたさんを食肉のために育て上げ7頭も殺してしまったんですね。

鶏は272羽も……自分は一滴も血で手を汚さずして272羽もの鶏を苦しめ続けて最後は喉を掻き切って殺してしまいました。
肉は食べないほうが人間は健康に生きていけるというのに。

続いて、まだ牛や鶏を犠牲にしてきた食品があります。それは乳製品と卵です。

平成23年度の1人当たりの年間消費量(概算値)では、牛乳・乳製品が88.6キログラム
(うち飲用31.6キログラム、乳製品56.8キログラム)


牛乳・乳製品は日本で最も需要の多い食品です

米より牛乳生産のほうがはるかに多いなんて日本はいったい何をやっているんでしょう。

がんなどの病気は「間違った食生活が原因になって起きる食源病」であり、「食生活を改める」ことによって「病気を予防する」ことが重要であると主張しました。
この「間違った食生活」とは、肉や乳製品、卵を中心とする高カロリー・高脂肪の食事のことです。
また、「たんぱく質の摂取量が増えると、乳がん、子宮内膜がん、前立腺がん、結腸・直腸がん、すい臓がん、胃がんなどの発生率が高まる」ことも、補足レポートにおいて指摘されています。

そして、ここで理想的な食事として評価されたのが「元禄時代の日本人の食事」でした。玄米を主食とし、旬の野菜や海草、小魚を食べるという食生活こそが人類の理想だということです。



日本人を病気にさせるために給食で毎日無理して牛乳を飲まされていたのでしょうか。
なんで油を使ったおかずにさらに高脂肪の牛乳を毎日200mlも飲まされ続けなくてはならなかったのでしょう。

牛乳の生産には牛を犠牲にしなくてはなりません。
酪農産業のために生まれた子牛は雄なら食肉になり、雌はお乳が出なくなればすぐに食肉に回されます。
乳製品を摂ること=牛の命を犠牲にすること となります。
子供たちはなんで「まずい、飲みたくない」と思いながら無理やり飲むことを義務付けられそのために牛を犠牲にして、さらに自分の体に病気の源を作り出さなければならないのでしょう。

◆日本における畜産動物たちの置かれている状況・実態まとめ◆

●と殺されるまでの期間と自然の寿命 ※自然の寿命は()内の数字

ブロイラー(肉用鶏): 生後50日 (15~20年)

採卵用鶏(レイヤー): 生後数ヶ月~3年以内 (15~20年)

豚 肉用: 生後6~7ヶ月程度 (10~15年)

繁殖用メス豚: 生後4~5年程度  (10~15年)

肉牛: 生後2年程度 (20年~30年)

乳牛: 生後5~6年程度、乳の出が悪くなる頃 (20年~30年)



のびのびと暮らさせて、自然と死んでしまった子たちは食肉に回すというのなら、特に問題はないはずです。
乳牛も採卵用の鶏も自然に近い状態で育て余った分だけのお乳と無精卵だけもらうなら、人間も摂りすぎることでの病気になどならないはずです。




こんな小さなヒヨコが嘴を切られています。狭い場所でたくさんのヒヨコを育てるのでストレスでみんながつつき合いをしてしまうため、それを防ぐのに麻酔なしで口ばしを機械で切られます。
鳥のくちばしは、骨のまわりを角質が覆う構造になっています。まるで骨のように硬いためになかなか想像しにくいのですが、くちばしの角質の中には血管も神経も通っています。つまり触覚もあるのです。

血管も神経も通ってて触覚もある場所を切断されたら相当痛いのではないか。

【閲覧注意】若者の表情が一瞬にして凍る「食肉生産の現場」

このサイト自体には残酷な画像などはないので見ても大丈夫だと思います。
閲覧注意とされているのはそこに張り付けられている動画ですね。

Can You Face the Reality of Factory Farming?


かなり心拍数が上がる映像です。
しかし肉食をやめたいけどもやめられない人はこれだけを見ても一発でやめられるかもしれませんので私は見ることを薦めます。

まだこの記事で書きたいことがいくつもありましたが、心拍数が落ち着くまで休んで、次の記事にまた書こうと思います。





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バーチャルウォーター~水を死肉に与え日本は滅亡へ向かうか~

2016-06-27 21:32:10 | 人類への警告

米国産牛肉、「成長ホルモン」の衝撃的な実態

米国産牛肉、「成長ホルモン」の衝撃的な実態
日本人は「安い牛肉の現実」を知らなすぎる


yahooニュースはすぐに消されてしまうことが多いので同じニュースを二つ貼り付けます。
二つ張り付けたのはyahooニュースはコメントが多いので、人々のコメントを読みながら様々なことを考えていけたらいいと思うからです。

コメントを読むと「米国産は怖いからこれからは国内産牛肉を買うようにする」といったコメントが多い。

牛肉だけにかかわらず、豚肉も鶏肉も成長ホルモン剤、また抗生物質などは多量に使用されています。

牛肉、豚肉には発がん性があり、国産の霜降り肉は栄養の偏った餌を食べ続けた病気の牛の肉で人間が食べ続ければあらゆる病気を引き寄せます。


食卓に米国産「危なすぎる食材」

狭いスペースに牛を押し込めることで運動を制限して太らせる。
「フィードロット方式」と呼ばれる飼育法だそうだが、「牛が押し込められたスペースはきちんと清掃がされておらず、至るところが糞尿まみれになっていた。
充満する悪臭で、息もできないほどでした」


日本におけるホルモン依存性ガンの発生率は1960年代と比べて5倍になっている。

それと比例するように、牛肉の消費量も同じく60年代比で5倍に増えており、そのうち約25%が米国産牛肉と見られている。
「つまり、米国産牛肉の消費増大とホルモン依存性ガン発生率増加の間には相関関係があると推測できる。これが我々の導いた結論です」(同)

 ちなみにアメリカでは肉牛だけではなく乳牛にも成長ホルモン剤が使用される。

日本には米国産のチーズやバターといった乳製品が輸入されており、そのことも「ホルモン依存性ガンの増加」と関係しているのでは、と指摘する声もある。


養殖サーモンは天然サーモンよりも、ダイオキシンなど有害物質の濃度がはるかに高い。
また、養殖サーモンを食べ続けると、幼児にIQ低下や発育障害をもたらす恐れがあり、食べない場合より300倍近くも死の危険性を高める。



肉や卵、牛乳などは、その飼料のほとんどを輸入に頼っています。

アメリカで栽培される大豆の60%が遺伝子組み換え品種です。海外から日本に輸入される大豆の73%がアメリ カ産です。食用油や飼料、醤油、コーンフレーク、ビールなどはトウモロコシや大豆が使用されています。

遺伝子組み換え作物に抗生物質を添加して飼料 として使われるようになった96年頃から耐性菌が急増しているそうです。その原因として考えられているのが 遺伝子組み換えの際使われる抗生物質耐性遺伝子だといわれています。


自然食品店などで売っ ている醤油や食用油などに比べ一般のスーパーなどで売っている醤油や食用油は安いからと買って食べていると、 いざという時に抗生物質が効かないということが起こり何でもない病気で死ななければならないということが 起こる可能性があります。


日本でもエサに抗生物質を混ぜて牛などに与えています。
そのことが2001年3月24日の日経 流通新聞に「狂牛病、口蹄疫など家畜伝染病の発生で食肉の安全性が改めて問い直されている。
家畜の飼育 方法としてエサに抗生物質を使わない、有機栽培の飼料を使う、広い土地で放し飼いにするといった具合に 有機農法産物の手法を導入する試みも続いているが、完全な有機飼育は困難なのが実情。」と紹介されていました。

『学校給食と子どもの健康』(梶山公勇著・秀英書房・P.188)に「まず、乳牛の飼育には農薬や抗生物質・成長促進 剤・防腐剤・精神安定剤などの薬剤が含まれております。
これらの化学物質を毎日食べて育った牛がその影 響を受けないわけはありません。
薬学博士の鍋谷将氏は牛乳に含まれている農薬につき、次のように書いて おります。
『最も恐ろしいのが牛乳です。牛乳には残留農薬が必ず含有されており、厚生省が定める基準内 におさめることが難しい場合があります。』」と書いてあります。

「牛乳には白血病ビールスがあり、牛乳に白砂糖がプラスされた場合、白血病が圧倒的に多くなることを診療 活動を通して確認している(森下医博)とされています。」

「牛乳は現在9割が超高温殺菌されておりますが、このように超高温で処理された牛乳はカタラ ーゼが失活し、発ガン性を持つ過酸化水素が残ってしまうという指摘がなされております。(西岡一教授)。」

(『学校給食と子どもの健康』梶山公勇著・秀英 書房・P.188)


「1860年当時、人はエネルギーの約四分の一を脂肪からとっていた。
1910年には三分の一に増え、1975年には 45%に到達、その大部分が家畜の飽和脂肪であった。(中略)近代の食用家畜は肥えるよう飼育されている。
屠畜される家畜は30%以上の脂肪を含んでいる。
原始人が捕らえていた動物は野生であり含まれている脂肪は たった3.9%しかなかった。
したがって、今日我々が肉の消費を大幅に減らし、原始人と同程度にしても食べ る脂肪の量はまだ7倍以上になる!
しかしこれで物語は終わらない。
脂肪の質が異なる。大昔の肉は今日より 多不飽和脂肪酸が5倍もあった。」
(『新版 ぼくが肉を食べないわけ』ピーター・コックス著・築地書館・P.42)




産業生産された畜産物を摂り続けることは、もうそれだけで十分身体に悪いということが言われています。
それでも米国の食肉産業などの実態がこうしてニュースになっていくたび、日本人は「国内産は安全だから」と国内産を買う人は増えてくると思います。
食料自給率の著しく低い日本はこのままでは世界的な食料危機がやってくると非常に恐ろしい事態に陥ります。
国内産の畜産物の飼料がほぼ輸入であるということは、国内産の畜産物を買う人が増えればそれだけ輸入する飼料の量も上がるということです。

11kgの輸入穀物で1kgの牛肉を作る
7kgの輸入穀物で1kgの豚肉を作る
4kgの輸入穀物で1kgの鶏肉を作る
3kgの輸入穀物で1kgの鶏卵を作る




2020年に自給率50%を達成するため、本来小麦は4年間で31万トン増加しなければならないのに、逆に2万トン減少していますし、大豆も11万トンの増加の予定が2万トンのマイナスとなっている。

現在39%の食料自給率を50%にすることがそんなに難しいことなのか?は日本人の肉食の増加に大きく関係しています。

肉食が増加すると大量の穀物が消費される。欧米や日本では、直接消費する穀物よりも、こういった間接消費する穀物の方が分量が多くなる。また、中国はかつて穀物輸出国であったのが、今では肉食の増大、農業の衰退に伴って、穀物輸入国となっている。

世界の主な食料輸出国は、「先進国」と「中進国」と呼ばれる国々に限られており、「後発開発途上国」と呼ばれる経済力の弱い国々のほとんどは食料輸入国である。
したがって、日本のような経済大国が今以上に食料を輸入すると、こういった輸入食料に頼っている「後発開発途上国」で食料が逼迫し、飢餓人口が増大する恐れが強い。
1994年に前年の米の不作を受けて日本が米を緊急輸入した際に、フィリピンなどの米輸入国で米不足による騒動が勃発し、段々に経済力の弱い国にしわ寄せが行き、その影響がセネガルにまで及んだ、という経験を過去にしている。

海外の食料に大きく依存している日本社会は、一方では世界の飢餓に対して大きな責任を負いながら、他方では自国の農業を崩壊へと導き、農業を基盤とした地域社会を大きく変容させてしまっている。


国内産の畜産物の消費が増えれば今以上に輸入穀物量は増え、日本の自給率は下がりさらに深刻になってくることになります。
日本のような狭い土地で国内産の畜産物の飼料となる穀物を育てていくことは不可能です。
それこそ人間が食べる穀物よりも肉が食べる穀物を必死に育てなくてはならなくなるでしょう。
しかしそれをやっていこうとするならば、次にさらなる深刻な状況がやってくるはずです。

国内産の飼料で育てた畜産物が増えればどのような問題が起きてくるか。
それは深刻な水不足に日本が陥るということです。




バーチャルウォーター

農産物を輸入するということは、輸入農産物が海外で生産される際に使用されている水資源も一緒に輸入しているともいえます。
このように間接的な形で輸入している水資源を把握する方法として、仮想水(バーチャルウォーター)という考え方があります。
これは、ある国が輸入している品目を自国で生産すると仮定した場合に必要な水資源量です。
主な輸入農産物(穀物5品目、畜産物4目)の生産を我が国で行った場合に必要な仮想水は627億m3(2000年)と試算されており、国内の農業用水使用量の552億m3(2004年)を上回っています。品目別には、牛肉1kgに20.6t、豚肉1kgに5.9t、大豆1kgに2.5tの水が必要です。

一方、食事メニューごとにみると、例えば、牛丼(並)やカレーライスに必要な水の7 割は輸入されている計算になります。

我が国が輸入農産物の多くを依存する米国や中国等で水不足が懸念されており、世界の水資源の問題が私たちの食生活に密接に結び付いていることにもっと目を向ける必要があります。






我が国は、食料の6割を輸入に頼っていますが、仮に、輸入が完全に途絶する事態に陥ったとき、肉類や野菜から、いも類等の熱量効率の高い作物に生産転換することで、国内生産のみで国民1人1日当たり2,020kcalの熱量供給が可能であると試算されています。
この熱量で最低限必要な熱量は確保されますが、食事内容は、現在とかけ離れたものになります。






人間が生きるに必要な熱量がどれだけ質素な食事で足りるか。
食肉は9日にたった一食で足りるんですね。


食肉のすべてがわかるQ&A教えて!


生産額1000億円超の6道県で全体の約60%を占める
わが国の農業の中での畜産の位置
づけを見てみると、平成24年度の農
林水産省調査では、図に示すように、
農業総産出額 8兆5251億円のうち、
畜産が約30%を占めており、米の24
%、野菜の26%、果物の9%を抜い
て主要な位置にあります。





国内の食料自給率39%の中のその30%は畜産で野菜の自給率を抜いている。
9日にたった一切れほどの肉で十分健康に暮らしていけるというのに、39%しか自給できていない国が正常な考えでこれを続けているとは
とても考えがたいほど明らかにおかしいことをやっています。


牛肉では約60%
を、豚肉では約半分を輸入に頼って
いるということになります。飼料の
輸入を考慮した自給率は、さらに低
下してほとんどの畜産物が10%程度
(カロリーベース自給率)ということに
なってしまいます。

また、近年の地球規模の人口増加
による穀物不足や異常気象による穀
物不作なども指摘されており、こう
した穀物価格(飼料価格)の不安定
性から脱却するには、国内での耕畜
連携による飼料穀物や飼料作物の増
産が急務となっています。





バーチャルウォーター量自動計算

食物を作るのにどれくらいの水の量が必要になるか、という計算をしてくれる環境省が作った計算機でさっそく計算してみましたです。





鶏卵100個で計算してしまいましたが、一個だと179.2L必要という計算結果が出ました。
お風呂浴槽一杯分の水で約200L、ハンバーガーのパテ二枚分ほどの牛肉で2060Lの水が必要、お風呂十日分の水ですね。





バター大匙一杯作るのに171.6Lでオリーブオイル大匙一杯で274.378L、異常な数値です。
二か月に1本ほどオーガニックオリーブオイルを使ってましたが、オリーブオイルでないとダメな理由はないし、もうオリーブオイルは買うのやめようと思います。


試しにハンバーガーで計算してみましょう。牛肉のパテは1枚・約55gですから1133リットル。バンズがパン2枚分として192リットル。これだけで1325リットルになります。
もしダブルバーガーを頼むとしたら、牛肉で倍の2266リットルが必要となって、バンズの分を足すと2458リットル。


中高生の食べ盛りの子ども2人と家族4人で焼き肉を食べにいったら牛肉1kgくらいはペロリと平らげてしまうだろう。
となると、それに必要な水の量は何と2万600リットル。お風呂に換算すると103日分か。
牛肉にこれだけ水が必要なのは、飼料であるトウモロコシの栽培に大量の水を使うからなのだそうだが、いままで想像もしてこなかった。



日本が国内産の飼料の畜産を増やしていくと水不足に陥り、また穀物飼料を栽培するために今以上に森林を伐採していった場合は環境問題に拍車をかけ、異常気象をさらに悪化させることは目に見えているようです。


「石油」争奪の時代から「水」争奪の時代へ!?  地球規模の難題を克服する道を示す一冊。 『水危機を乗り越える!』

食糧自給率が40%を切る(カロリーベース)という日本が輸入する大量の食糧(農畜産物)の生産には、大量の水が必要です。バーチャルウォーター(仮想水)と呼ばれるこの水を換算すると、日本は世界有数の水輸入国だというのが現実です。世界の水危機はけっして対岸の火事ではないのです。


2025年には地球はこうなる。衝撃的な1枚の画像にあなたは何を考えさせられる?


世界人口の約1割、7億人というとんでもない人数が今現実に水不足問題にあっています。
飲用に適していない不衛生な水を飲み、命を落としている子供たちが毎日4,900人(年間で180万人)存在するという深刻な状況です。
もはや、地球全体が水不足になっているといっても過言ではない状況で、世界の人口は反比例し増加の一途をたどっています。
このままでは2025年には、世界人口の3分の2が深刻な水不足に悩まされると予想されています。



あと9年で世界的な深刻な水不足がやってくるというのは今まで見たどの情報より早い期間です。
あと9年と言われているものが、今年中にやってきてもおかしくはありません。
今から多くの人が輸入畜産物から国内畜産物の消費に変えても世界的な深刻な状況が待ち構えています。

この状態が続くと近いうちにやってくると叫ばれている日本の食料危機と水不足両方に畜産物の生産が大きく関係しているからです。

日本は、畜産物を育てている場合ではないのです。
野菜より多くの畜産物を生産している場合ではありません。
今すぐにでも穀物、野菜、海藻、豆類などの生産に変えて行かないと食料危機や水不足で日本は壊滅してしまうかもしれないのです。

魚をとりまく海の環境問題

肉を食べている人がみな肉の代わりに魚介類を食べるようになれば魚の乱獲はますます進んで生態系は狂い、未来に魚たちは消えてしまいます。
だからといって多くの人が肉を食べていたなら日本は深刻的な危機を逃れることができません。

自分の命と、大切な者の命が懸かっている問題です。
環境問題に興味を持つ人があまりに少ないのは、まだ遠い未来の話だと思っているからではないでしょうか?
でも遠い未来の話であるという保障など、どこにもないのです。

権力に対抗し、戦争反対を叫ぶ人は多いです。
しかし権力に支配されている畜産業に対抗する人は少ない。

戦争はやってこなくても、滅亡的な事態は近いうちにやってくるかもしれないのです。

ドキュメンタリー映画「カウスピラシー」を観るだけで、戦争反対や、原発反対と同じように
叫び続けなければならない緊急を要する切迫した問題の原因が畜産業であることがわかります。



「カウスピラシー」

 

(追記:残念ながら動画のカウスピラシーは削除されてしまいましたのでNetfilixのURLを貼り付けます。)

Cowspiracy: サステイナビリティ(持続可能性)の秘密







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おれぼくわたし、上から見るか?下から見るか?横から見るか?

2016-06-25 18:54:43 | 空想コラム
上から目線の心理は何?態度に潜むその人の感情
面白いな、この記事。
自分の心理については考えずに相手の心理だけ考察している。
相手の心理を考察していくうちにそれは自分の心理であった。という気づきもなく終わっている。
上から目線で見られているように感じる。相手は実際上から目線で見てるかどうかもわからないわけだ。
わからないのになぜ相手は上から目線で見ているのか?を考察している。
「上から目線で見てるよね?」と言われたならこう返せばいい。
「いや見てないよ、なんで下から目線で見てるんだ?」と。
相手から見下されているように感じる。という心理は一体なんなのか?
それはずばり、自分が自分を見下しているからだ。
自分で自分を馬鹿だと思っている人間が、相手に向かって「馬鹿にしないでくれよ」と言ってるわけだ。
相手は「馬鹿になんかしてないよ」と返してくる。
「いいや、してるね。してないならそんな言い方はしない。もっと違う言い方になるはずだ」
「勝手に言ってろ。被害妄想。それに馬鹿な相手に上から目線で言ったところでなんになる?馬鹿より上ってそれ別に賢くないよ。むしろ上から目線するのは賢い相手にするもんじゃないのか?」
「じゃあ僕のことは本当は賢いと思ってるんだね?」(プライドが高い)(優越感に浸りたい)
「思ってないよ」
「じゃあやっぱり馬鹿だと思ってるんだ!」(相手と比べることでしか自分を評価できない)
「普通だろ。賢くも馬鹿でもない。平均値」
「くぅっ、やっぱり馬鹿にされてる気がするっ」(ちょっと自分に自信がない)(見下されることを恐れている)(正論で責められ言葉で詰まってしまうことを恐れている)(納得させられてしまうことを恐れている)

()内はさっきのURL先の上から目線で見ている人の心理を当てはめています。
どうでしょう?これはそのまま下から目線で相手を見上げている人の心理にぴったしです。
人間というのは自分の心理を通してでしか相手の心理を考えることができないということなのです。

だから自分の心理を知りたいと思うならば自分が見てる相手の心理を考察していくうちに、自分の心理を発見していくことができるというわけです。
自分が自信のないこと、反論することのできないことを言われた場合、相手の意見は最もだと思えた場合は、自分のことが嫌になります。言い返せない自分、間抜けな自分、馬鹿な自分、自分が恥ずかしい、悔しい、どう転んでも自分が間違ってると思える、まさに下から相手を見上げるように見てしまうため、「上から目線で俺を見るのはやめろ」となるのです。

かなり面白い独り芝居で茶番劇ですが、人間は誰しもがそうなのです。
この世に実は自分しかいないと言えます。

「自分はダメだ、ああ自分は愚かだ、自分は下らない、自分はつまらない人間だ」
そう思い続けると自分に対する評価はそっくりそのまま相手からの評価として感じられてきます。
一方「自分はすごい、ああ自分はカッコイイ、自分は賢い、自分は聖者的だな、いや、俺は、ネ申だ」
そう思い続けると自分に対する評価はもちろん相手も同じ評価を自分に下していると妄想できて馬鹿になります。
上から見すぎても下から見すぎてもなんだか魅力に欠ける人間だなあと私は感じます。
しかしその二つがいい感じにミックスされていたならどうでしょう?
「ああ俺はほんと馬鹿だけど、でも俺って賢いと思う、うーんみんなが全員馬鹿に見えるなあ、でも一番愚かなのは俺かもしれまい」
いい感じで一人の脳内世界で存分に懊悩していて微笑ましい限りです。
上から見たり下から見たりと大忙しですが、ま、そやって人間って成長していくんだろから、いいんじゃね?という感じですね。

しかしここに「ず~ん」とやってきました。「横から自分」です。
まるでラスボスのように「え?もう?」って時に早くも現れてHPが心配です。
おいーこんなことならエリクサー買いだめしとくんだったーと後悔してももう遅い。
自分の中の勇者、自分の中の魔法使い、自分の中の僧侶は瞬時にションベン漏らして近くの森の中へスッコンデしまいました。
くぅ~ん、僕は誰?此処は何処?記憶喪失の振りをして「横から自分」に軽く挨拶と全財産を渡しその場を自然と
通り過ぎようとしたその時、横から(さすが横から自分)「横から自分」に呼び止められました。
横から自分「おい」
自分「えっ、はいはいはいはい、なんでしょう?」(手をきりもみしながら)
横から自分「思うんだけどさ、やっぱ自然っていいね」
自分「え、うん、あはい、自然、わかります、自然はいいなあ」
横から自分「思うんだけども、お酒って美味しいからやめられないんだね」
自分「そ、そうだね(なんか話がとびとびっ)」
横から自分「ワニってさ、怖いけど、可愛いね」
自分「わ、わに?あの?水の中で暮らす背中にとげとげの?あーはいはいはい、確かに、言えてる」
横から自分「いま、このときを、ぼくは、かんじてるよね」
自分「うん、感じてる、それがどうかしたの?」
横から自分「いや、別にどうもしない、ただ感じてるよなと思ったの」
自分「あのぉ……横から自分って何がどう横なの?」
横から自分「まあそのまま、真ん中ってことだよね上と下の真ん中、中間、空間でいう中心部分、水平線上的にやってくる自分という意味ではない」
自分「水平線上的にやってくる自分を想像してしまったじゃないか」
横から自分「やってくるという表現がたしかに可笑しかった、元からいるものだよ」
自分「元から存在している横から自分ってどういう心理なの?」
横から自分「いろいろ考えはするけど、特に何も決めないから、最高な解放がそこにあるという感じだね」
自分「考えることって解放において必要なの?考えるほど縛られそうだけどな」
横から自分「自分、だから、考えることは解放の自分であり、自分の解放だから」
自分「でも解放というのを意識すると解放ではない自分も生まれそうだけど?」
横から自分「解放でなくなると横から自分ではなくなるだけで、何も問題はないよ」
自分「ふむん、いま、ぼくは、横から自分?」
横から自分「横から自分だよ、この境地に入れば自然と鼓動は休まるから意識するといい」
自分「わかったよっ。ありがとう横から自分」
そう言った瞬間、横から自分はチャリンッと音を立てて一つのコインに変身して床に転がった。
やったっ、このコインでどの夢を買おうかな。
横から自分はそう言うと深い森の奥へとひとり進んでいったのであった。



「横から自分の冒険」続く……






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芸能界に幻想す歓声の残響を君は聞いたか?

2016-06-25 16:47:57 | コラム

最初のうちは記者に対して苛立ちを感じたが、最後まで読むと切実さを感じられた。
誰かを苦しめなくてはならない商売で真っ先に思いつくのはと殺(屠畜)業者である。
そしてコメントを読むとまたもや苛立ちを感じた。
これはまるで肉を食べながらと殺(屠畜)業者を嫌悪している人間の心理によく似ている。
霜降り肉はカロリーの高い穀物ばかりを与えて牛をメタボにし、病気にさせて苦しめさせて作られる。
メタボが進んで盲目になる牛もいる。
霜降り肉を買う人間が多いので業者は霜降り肉を作るが、ほかの牛肉は食べるが霜降り肉は食べない、残酷だからやめろと言って
批判されているのと同じような立場にこの記者はいる。

記事も同じで、それを求めない人ばかりならそんな記事を書くための記者もおのずと消えていく。
読む人間が多いためにそれが商売になるから、どんなに批判されても食っていくために書かねばならない。
牛に霜降りにされるのはあんまりつらいからやめてくれと目で訴えられようが、自分も商売がかかってるんだと言い聞かせたい気持ちはわかる。
相手の命を取るか、自分の命を取るか、という状況にこの記者が立たされていないとは言えない。
それくらい、何か尋常でない切実さを読むにつれて感じられたのである。
大恥をかいてでも自己弁護に尽きる記事を書かねばならなかったこの記者に自分は同情を覚える。

不祥事のゴシップと命がかかっている今回の取材を一緒にするなというコメントが多く見受けられた。
でもどれも自分は命がかかっていると思う。
不倫などのちょっとした過ちであってもそれをこぞって非難されたら精神を病んで自殺しかねない。
不祥事をしたのだから仕方ないとするならそれこそ恐ろしい考え方だ。
薬物で逮捕されたらもう二度と芸能界へは戻ってくるなというコメントも別の記事で多かったが
それは「死ね」と言ってるのと変わりない。
顔が知れているのだから、普通の仕事でやっていけるとは思えない。

芸能人に対して世間は必要以上に厳しい、これは昔からなのだろうか?


芸能とは元々は神と交わるための行いで「原初的な共同体の祈り(祭祀)や感謝(祭礼)における呪術的儀式が芸能の原点」であった。
しかしそこに権力者が現れ社会に身分が生まれ「神と交わる役割は、独特の人格と能力のある人が果たしていた人間」は
「神や仏の前で歌い、踊り、舞い、演技する」ことで権力者を楽しませる一つの職業となった。
一方で民間の祈祷師は村落のなかで祈祷や占いをやっていて
「こうして芸能は、権力に抱えられて洗練されていくものと、庶民の生活に密着した土俗的なものとに分かれて」いったという。

朝廷貴族にそうやって利用されながら「室町時代に観阿弥・世阿弥の親子が能を舞台芸術として完成」させた。
「世阿弥が書いた『風姿花伝』という芸術論には、神や仏に捧げるものでありながら、
大衆的な娯楽としても人々を楽しませなければならないと苦悩する有様が書かれて」いる。

貴族に愛される一方で賤民出身の芸能者たちは「当時の貴族から『乞食所行』と呼ばれて」いた。
社会的分業が進んでいくと「室町時代には、かつてのような宗教的な役割は否定され、
物を生産しないで各地を流浪する芸人で、社会的にも卑しいとされてしまった」。
大衆にもてはやされるために『生まれた芸能で代表的なものが「歌舞伎」や「人形浄瑠璃」「説教芝居」』だという。

「日本の三大芸能はすべて低い身分におとしめられた人々のなかから、自主的かつ創造的に生まれた」
歌舞伎は「原点は底辺に生きる人たちが最先端のファッションに身を包んで反体制を表現した芸能だった」。
「三大芸能のほかにも、大道芸や門付芸、見せ物芸など数多くの芸能があり、人通りの多い道端や寺社の境内、お祭りなどで演じられていました。
人々はそうした芸能を楽しみつつも、各地を転々としながら暮らす遊芸民たちを『その日暮らしの漂白民』として差別的に見ていました」。

元々あった神を乗り移らせるという特殊な才能に合わせて、差別され続け苦労してきたことで
他にはない芸に秀でた素晴らしい才能が生まれていったのであろう。
人々から差別されながらも人々を喜ばせて稼ぐという商売は見世物小屋などが海外でもあるから日本に限ったことではない。


芸能は芸術という表現の一つであって世間の考え方や非難に負けていては到底やっていけない仕事というか、役目のようなものであるわけだ。
権力と世間に負けるなら芸能は向いていないということになる。
これは世間の求める執拗な取材もまた世間であるから、それを拒んでいては芸能はやっていけないだろう。
それこそ何をされても言われてもパンク精神のように自らの価値観すらぶっ壊しながらやっていかなければ続けられないだろう。
芸能界というのは昔も今もとてつもなく過酷な世界だ。

そして芸能に生きる人間は差別されながらも尊敬され、その才能を差別する人間たちから高く評価されて生き残ってきた。
つまり差別しながらもどこか人間離れした才能に人々は憧憬を抱いて不祥事などは起こしはしない
今でいう世俗の人とは違う「意識の高い人たち」というイメージと願望のようなものを抱いていた。
言わば、都合のいい幻想である。
普段から理解するに難しい奇妙な絵を描く画家や、よくはわからないがすごいと思える詩を書いている詩人が不倫、薬物などの不祥事を起こそうが
「ああ違う世界に生きている芸術家だから、まあいろいろあるやろ」で済ませて特に気にしないが
芸能人が不祥事を起こすとむきになって非難する人が多い、または嫌悪を感じる人が多くないか?
これは芸能人というのが、昔から民衆の一番近くで芸をやり続けてきた人間たちだからではないだろうか?
大衆芸能、大衆芸術として人々の共感を呼ぶ芸をずっとやってきて
それに共感し続ける大衆の人情ありきで続いてきた世界である。

劇の中ではいかに観客の理解できる感情をもって物語を展開させていくかが重要であった。
その役者の中に人々はあらゆる自分を映しこんで引き込まれていく。
役者の演じる役は人間離れしすぎていては面白くない、
殺人者を演じても亡霊を演じても狐を演じてもそこには人間が大いに共感する人情があるから面白い。
人間の汚い部分、純粋な部分、人間の誰もが持つ潜在的な悲しみや恐怖など、それらを
異形の役でも表現して見事に演じ切る。
あらゆる存在を演じる役者は神々しい反面とても人間らしい存在なのである。
観るものはその役者を通して醜い自分や自分の純粋さに気づかされたりする。
「どんな自分をも演じてくれる存在」としていつも期待して次の素晴らしい演技を待ち望んでいる。

しかしそんな役者が劇の最中ではなく実生活で何か不祥事を起こすと
とたんに「どんな自分をも演じてくれる存在」として神々しい幻想を抱いていたその幻想がもろくもぶち壊されてしまう。
すると人々は不祥事を起こした醜い自分の姿をその演じていない役者に見る。
その役者がそれを演じているのではなく演じていないことによって、その姿を目の当たりにする自分の本質であるかのように見せつけられてしまう。
今までずっと自分を映しこんできた役者の不祥事は、まるで自分の冒した恥ずかしい不祥事であるかのように錯覚してしまう。
それは観客が都合のいい幻想を役者に見続けてきたからである。
「自分のどんな姿をも演じてくれていた存在」の本当の姿とは神々しい世俗離れした存在であるのだと。
「自分の本当の姿」に対する幻想を観客は役者を通して無意識にも抱き続けていた。
これは役者に限らずともテレビに映るような人たちすべてに言える、日々目にする人たちへの幻想を視聴者は気づかぬうちに胸に温めているのではないか。
よく目にする人ほど、自分をよく映しこんで見ていることだろう。
「ああ、あの人のあの部分って嫌だなあ」「あの人は誠実そうだな」あらゆる自分を投影しながら人々は芸能人たちを目で追っている。

人々はいい幻想を見たいのである。心地の良い幻想を。
そのための芸能であると常に無意識に思っている。
そして誰かが不祥事を起こした、となれば「自分とは関係のない存在」として都合よく自分と切り離したい願望を持っている。
それは相手に映しこんだ自分自身の「負の部分」を自分のものではないと思い込みたいため切り離そうとする心理である。
だから必要以上に不祥事を起こした芸能人をこぞって叩く。
そしてもう二度と自分の目の前に現れて自分に「嫌な自分」を見せないでくれと頼むのである。
不快だからと、嫌な自分を目にするのは。
もう幻想は壊れて、戻せなくなったから、もう戻ってこなくていいよ、と言うのである。

芸能人とは幻想を抱かれてなんぼの商売である。アイドルなんかも薄っぺらい幻想しか抱かれていない。
幻想を抱くために、幻想以外は見せるな。というのが多くの観客の本心なのだろう。

それがゆえにスルーされただけで刺殺そうと考える人間もでてきてしまうのである。
薄っぺらい幻想しか抱かせないアイドル業界は直ちにアイドルの命が大切なのならば在り方を変えなくてはならない。
普段からアイドルの汚い本音などを見せなくてはならない。アイドルも普通の人間なんだと。
普段から「ハゲたおっさんほんまキモイよな」などの本音をTwitterやらで呟かせていれば観客は都合のいい幻想はやめて
人間対人間としてアイドルと関わっていくことができるだろう。

商業に人間を利用しているのが芸能界であれば、人間の心理を利用しているのがマスコミであり
芸能人を利用して都合のいい幻想を抱きたいのが視聴者である。

自分がこの「芸能人を利用して都合のいい幻想を抱きたいのが視聴者」たちの
「肉を食べながら屠畜業者を嫌悪する心理」なるコメントに対してイラッと来たのは
その発言が「かつて肉を食べていながら完全には消え失せない屠畜業者の人たちへの無意識の嫌悪」
と同じものとして自分の中に同じくある「自分の心理に対しての嫌悪の投影」であるからだ。
で、ああまた投影心理で自分はイラッとしてるぞと気づいた瞬間苛立ちは消えた。
苛立ちから恥ずかしさに変わった。

ゴシップにほんの少しでも興味を持ってしまう人間はマスコミの行いを非難する資格はないし
またマスコミに嫌悪を抱くということが自分の中にある醜さをマスコミに映して嫌悪や苛立ちを感じる投影心理であるということに
気づかない人は多いが、気づけばそんなことでいちいち苛立ってストレスを抱えて病気を招くこともなくなるわけである。

また、「人の不幸は蜜の味」とはよく言ったもので、「人間は本当のところで人間の幸福よりかは不幸を望んでいる」
というテーマはこの記事の前の記事のテーマと繋がっており、そこで説いた通り、「人間は幸福よりも苦痛が必要である」という一つの結論と繋がる。

幸福ばっかりでは人間はアホのままであって大した喜びも感じられないから、成長するに不可欠な不幸(苦悩)が人に訪れることを人は密やかに望んでいる。
幸福の次に訪れるであろう不幸を見越して人間の幸福を大いに人は喜ぶことができるのである。
これは何もひねくれた考えではなく、人間とは不幸があって、ようやく幸福を感じられるようにできておるので致し方あるまい。
イエスも
  今飢えている人々は、幸いである、
  あなたがたは満たされる。
  今泣いている人々は、幸いである、
  あなたがたは笑うようになる。



  今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
  あなたがたは飢えるようになる。
  今笑っている人々は、不幸である、
   あなたがたは悲しみ泣くようになる。


ルカによる福音書6章21,25節
と言っているこれは人間の生きる自然法則なのです。

だから本当に人の幸福を願うならば、安易に幸福を喜ぶのではなく、どんな苦難にも耐えうる強さが与えられますように。
と祈るのが私はいいと思うのである。


海老蔵を見ているとまるでうちの父を見ているような気持ちになる。
母が乳がんで闘病した二年もの期間、幼い私と兄を抱え父がどのような想いで生きていたか。
大きな試練に耐えながら演じた海老蔵の渾身の演技を観たかったなと思う。







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苦痛を自ら求めよ

2016-06-25 02:57:06 | コラム
残虐映像に慣れきってしまった我々の課題 ―映画『シリア・モナムール』にみる残虐映像の受け取り方―

素直でとても良い記事だ。
なんでこういう記事をコメント付きにしないでどうでもいい記事をコメント付きにしてるんだ。

これは結局、人間が幸せでいるとどのような深刻な問題が起きてくるかを言っている。
幸せでいる人間は本当のところで、感情の奥底から悲劇を悲劇として感じることができないのではないか。
例えばかつて鬱病だった人間は鬱病の苦しみに心から共感することはできない。
それは過去の苦しみであって、今の苦しみではないからだ。
過去の苦しみを思い出そうとしても今が楽な時ならその苦しみを呼び戻すことさえできない。

今、苦しくない人間は知らない他者の苦しみを自分の苦しみとして感じることが難しい。
それは他者の痛みも自分の鏡でしかないからだ。
いくら過去が苦しみの連続にあったとしても過去の鏡を今見ることはできない。
今幸せにある人間、今楽である人間は他者の悲劇は遠いところの悲劇としてでしか感じ取れないのは無理もないだろう。
遠い場所の悲劇に心の深い部分で共感するには、普段からの消えることのないような苦しみや悲しみや痛みといった感情や感覚がどうしても必要になってくる。

しかし日本は平和な国と言うのはおかしいのではないか。戦争や紛争やテロがなくとも1日に70人自殺している世界でも異様な不幸な国だからだ。
日本といえば真っ先に過労死、自殺大国と言われる国は平和な国では決してない。
日本が平和な国と言えること自体が、日本にある苦しみですら見えていない幸せで楽な生活を送り続けることによって平和ボケしてしまった状態にあると言える。
それも一つの悲劇的な状況だ。

この記者のように他者の苦しみを遠いところに感じてそれに嘆くというのは正常な感覚だと思う。
楽なところにいる苦しみ、幸せでいることの苦しみを感じられたらあとは自分の求めるまま苦しみを求めてそれを人は手にするようになるだろう。
毎日のように逃げ場のない苦しみの中にいたら遠い場所の苦しみも現実的に感じられるようになってくる。
自分の苦しみに間違いなく蓄積されて消えることのない苦しみとして受け入れられるようになってくる。
日本はまだ精神障害や精神病を負のものでしかないと思いたがる人は多いかもしれないが、苦しみの中に居続けることでしか感じ取れない、見えてこない大事な面、また喜びがあるということが解るなら、価値観、人生観というものは大きく変化して苦痛に耐えやすくなる。

幸せ、快さ、楽なものを欲求するのは生物の本能だが、同時に生きていく苦痛に耐えるための苦痛を自ら求めるのも生物の本能ではないかと感じている。
生物がほとんど過酷な状況に生きていることからもよく理解できる。
人間の問題とは苦痛に生き続けることよりもむしろ苦痛から離れ過ぎて生きることにあるように私は思う。

現にこの地球は人間たちの快楽ばかりを貪る考え方から滅びへと今向かっている。
地球を持続させるには、人間が喜びと同じだけの苦痛を自ら求めようとしだすことが必要となってくる。
楽で生き続けたいという考えがあらゆる問題を生み出す。
なんでもバランスが大事で、バランスの取れた世界が平和な世界と言える。
楽ばかりが在り続ける世界、それは平和ではなく、狂った世界である。
一方、耐え切れない苦痛を他者に与え続けている世界もまた狂った世界だ。

その肉を口に入れる前にどのような耐え難い苦痛がその肉の元であった生物に与えられていたか、罪悪感に打ちのめされ肉を口にするのに苦痛でならないほどの自分の苦痛が人間は必要なのである。
自分が何かに耐え難い苦痛を間接的にも与えているのに誰かの苦痛に嘆くことがどれほど滑稽であるか。
どれほど悲劇的な有様であるか。
日本にも悲劇は起こり続けている。
バランスの取れた平和など、まだどこにもない。
どこもかしこも、まだ狂い続けている。










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環境保護団体が隠し通す一番の深刻な環境破壊原因を追ったドキュメンタリー映画「カウスピラシー」

2016-06-23 23:56:18 | 映画

環境問題はだんだんと深刻になってきて、もう地球は50年持つかどうかもわからない。などと言われているほどなのに
環境保護団体はどの団体も深刻な環境問題の一番の原因である一つの”巨大産業”について全くスルーして言及したがらない。

あまりに奇妙で、不気味である……キップ・アンダーソン青年は何故、その”一番の原因”を環境保護団体も政府もスルーしたがるのか?
調べていくうちに徐々に真実を知っていく。

真実を知っていくうちにキップ監督は自分の命の危険を感じて立ち止まりかけるが、
このまま無駄死にするか、それとも生命を守るために撮影を続けて死ぬかと自分に選択を迫った末に後者を選らんで撮影を続けることを決意する。


レオナルド・ディカプリオがエグゼクティブ・プロデューサー(プロデューサーのさらに上の職で、管理職・幹部に当たる)を務め宣伝にも力を入れました。
そうして出来上がったドキュメンタリー映画『カウスピラシー(Cowspiracy)』は2014年に公開され大きな話題を呼びました。

Cowspiracy: サステイナビリティ(持続可能性)の秘密


「カウ(牛)」にまつわる「コンスピラシー(陰謀)」はどれほどの脅威であるのか?
このドキュメンタリー映画は生命を大事にする人たち、この地球に最低はあと15年は生きていたい、
または子供や家族を最低15年以上は生かしておきたい人たち全員が観るべき、観なくてはならない映画だと思います。

何故ならこの地球はあと15年ほどでなんらかの壊滅的な状況に陥るかもしれないと唱えている学者もいるからです。

冗談を言ってられない状況なのですが、こんなに深刻な状況なのに
それを知っている人があまりに少ない、また深刻だとは感じていない人のあまりの多さに
自分は何をどうしたらいいかとテンパって、今日もこの映画を観ているときも観終った後も心がずっと震えっぱなしです。

とりあえず映像の持つ影響力というのはすごいものだと思ったので
一人でも多くの方に観ていただきたい。

すごく良くできていて引き込まれる映画です。

ここで早くもネタバレになりますが、その一番の環境問題の原因とは畜産業です。
何がどうどれくらい畜産業が深刻な環境問題に関わっているか、わかりやすく文字に起こしているサイトをリンクさせていただきます。


わたしがお肉をやめた理由 その3



『COWSPIRACY』(家畜がもたらす環境破壊の脅威)



そして畜産業、食肉産業がどれほど残酷かを知りたい方は私はドキュメンタリー映画「アースリングス」をお薦めいたします。




Earthlings(アースリングス)






「カウスピラシー」も「アースリングス」も闇の権力者のような存在によって暗殺されるかもしれない危険性の中で命を懸けて作られた非常に貴重なドキュメンタリー映画です。


ジョン・レノンもこんなことを言っていたようですが(ビートルズは全員ベジタリアンです)


ジョン・レノンのインタビュー―世界は狂人によって支配されている




闇の権力者のような存在たちが一体何をしたがっているのか?ということは
私はあまり想像だにできないですね。
人類削減にはこのまま畜産業を続けていくことはとてもいい方法ですが
このまま行くと人類はどんどんまともに暮らしていけない地球になります。
闇の権力者たちはもうその頃は死んでいるのでいいのでしょうか?
それとも既に脳を移植できる発明などを秘密裏で成功しているか
レプティリアンとかの異星人か地底人などから永遠の命と暮らせる場所をもらう権利を何かを引き換えに手に入れてるのでしょうか。
かなりオカルトな話になってきますが、闇の権力者といっても全く理解できない存在ではないはずです。

”欲望”というのは誰にでもあるものだからです。
自分の欲望を犠牲にして生きるには、何が必要なのでしょうか。
闇の権力者なる者たちには出来得る限り手を貸さないほうがいい。
加担すれば地球は滅亡します。
でも誰かを悪者扱いすれば正しくて住みやすい世界が訪れるわけではないです。
ジョン・レノンが自分の中にも潜んでいる狂気と切り離して「狂人」と言っていたかはわかりませんが
狂気というものはその人間の一番大事なもの、例えば家族なり一番の喜びなりを奪った瞬間に
目覚めてしまうくらい危ういところで息をひそめて住みついているものだと思います。

人間は病気になりたくない、長生きしたい、と思いながら体に悪いとわかっている肉を食べたり
煙草を吸ったり、酒を飲んだりしています。
それも一つの狂気ではないでしょうか。
動物は好きだけれども肉を食べる人は多いです。これもかなりの狂気です。
自分の中にもどこか狂っている部分は見つけようとすればいくつも見つかるかもしれません。
闇の権力者の極悪非道っぷりは度合いが違うと言って悪者扱いしていれば闇の権力者は心を改めていけるのだろうか。

私がいつも危惧するのは自分以外に敵を作り、自分は正しく、相手は間違っていると思い込むことです。
すべての争いがそこから生まれます。

本当に心から世界をよくしたいと思うなら一番いいのがすべての悪に手を貸さないということです。
自分以外に悪者を見つけること、これは心の中で争いを生み出す悪となります。
ジョン・レノンは世界の闇の陰謀を知った後にイマジンを作りますが
あの曲の歌詞には「想像してごらん 闇と戦いやっつけるんだって」というような歌詞はひとつもなく
その代わり、「想像してごらん 人はみな兄弟なんだと」と歌いました。
「想像してごらん 狂人以外はみな兄弟なんだと」とは歌っていないのでジョンはあの発言の後に
たぶん狂人たちを許し、自分と同じ人間であり兄弟であると感じたのではないでしょうか。

人は真実を、知らなくてはなりません。
この世で何が起きているか。
でもそれはこの世の酷い陰謀や洗脳を知れ、ということではなく
どこで誰が今泣いているか、誰が救いを求めているか、自分がそのために何をしたいと感じ、
何ができることであるか、その真実を知る権利があって、人間は本当に自分が生きたい生き方を選ぶ権利を持っているということを
人は知らなくてはならないのです。

肉食、畜産業、魚介類の乱獲、陰謀、闇の権力者、人間の欲望、それらは悪ではないです。
それは悪ではなく、今起きている悲劇なのです。
悲劇を終わらせるためには、あらゆる悲劇を見つめ続けること、自分の欲望という悲劇が
どのようなさらなる悲劇へ繋がっていくかを考え続けることが必要です。







死に様を記憶せよ

2016-06-23 00:26:24 | コラム

面白いなあ、森公美子のお父さんが息を引き取る間際の話。

森  うちの父が死ぬときは心筋梗塞だったんですけど、母が言うには死を全部言ってたんですって。
「あっ、右足が冷たくなってきた」
「それがジワジワ上がってくる」
「神経が動かなくなってきた」
「左側にきた」
「ジワジワ上がってくる」
「上がってくる、上がってくる」
「手にきた、手にきた」
「お父さん、いいから黙って」 
「ドキドキする!」
「初めて死ぬからドキドキする!」と言ったんですって。

(一同爆笑)

森  それで、パッと目を開いて、「これが死ってやつか」と言って死んでいったんですって。

 タモリ 見事ですね。


かなり爆笑してしまった。
心筋梗塞で死ぬ前だから相当苦しかったんじゃないかと思うが、実況できる元気はあったんだなと思うと人々の一つの理想の死にざまかもしれない。


さっき改めて意識したことだけれど、自分というのは「生き様」よりも「死に様」に興味があるようだ。
「生きざま」と「死にざま」とリンクがあれば迷わず「死にざま」のリンクをクリックしていた。
特に変わったことではないかもしれないが、何故生き様よりも死に様に関心があるのだろうか。

死に様とはつまり、生き様の最期である。
生物とは未完成なものだが死ぬと完成されるからであろうか。
死に様というのはその完成されたる瞬間の有り様であろう。
一つの芸術作品が完成される瞬間にドキドキワクワクとする。これは何もおかしいことではない。
人間すべてとその他の生き物の大体も作品だと思う。この世で一つしかない作品。
同じ生き様と死に様がほかにない。そう思うほどそれが大きな価値に思えるのではないか。
例えば大きな爆破事故などで何十人と瞬間的に死ぬようなものでも一人一人状況や感覚のようなものが違うのではないか。
一人は走馬灯のような記憶の中一種の心地良さの中で死んでいくかもしれないし、
一人は「ああ、嫌だ」という感覚の中死んでいくかもしれない。

自分がどういった死に様をするのだろう?それに関心を持たない人はあまりいないんじゃないか。
自分の死に様にだけ関心があって他者の死に様には関心がない、このほうがちょっとおかしいように思える。
死に様というのはほとんどが苦しいものであるというのはほとんどの人はわかっているだろう。
人が死んだというニュースが入るたび、私はどんな死に様であっただろうかと想像する。
想像するうえでできるだけの資料はあったほうがいい。
どんなトラウマになる写真や動画があっても、それを見たいと思う人がいるならそれは見せたほうがいいと思うように
私は変わってきた。
かつては、反対派だった。「興味本位でそのようなものは見るものではない」と言う人間だった。
しかしどうやってそれを見る者が興味本位かそうでないかを知ることができるのだろう。
人間の心理とはそう区別できるような単純なものでもない。

「メメント・モリ(死を想え)」
これが何故大事であるのか。「生を想え」ではなく、何故「死を想え」であるのか。
死というのは他者の死を通してでしか自分の死を想像しようもないだろう。
他者の「生」を通して人は大事なことを学んでいけるが、その完成された状態である他者の「死」からは
「生」以上に学ぶことがあるはずだ。

「死」とは、ほとんどにおいて生きてきた中での苦しみや悲しみの頂点に位置する最も大きな苦しみであると思う。
自分の母親は42歳で乳がんを発病し、約二年後に癌が脳にまで転移してモルヒネなどで朦朧とした中に息を引き取ったらしい。
自分はまだ4歳で母の記憶は何一つなく、母がどのような苦しみの中死んでいったかは聞いた話から想像するしかない。
父は若い時に罹った結核で少しダメージを負っていた肺に黴が生える肺炎で、緊急で病院に行けば「入院するほどではないが、入院しますか?」と言われ入院してから約一か月後くらいに症状が急変し、息もまともにできないくらいになったので麻酔を打たれて、そのまま昏睡状態で一週間後の人工の輸血をした次の日に息を引き取った。
享年62歳。私が22歳の時、今から12年半前である。
麻酔で眠っている間も一日に何度も肺に溜まった淡を取るために口の中にチューブを入れられ、そのたびに目を覚ましたかのようにすごく苦しんでいた。
姉と交代で無機質な窓のない集中治療室に父の隣で眠る日々。
父がすべてだった私にとって、その時間は地獄そのものだった。
父の死に様は本当にあっけなかった。死ぬ病気ではないと言われていた病気で簡単に死んでしまった。
父が死ぬ瞬間、私は涙一滴も出ず、ただ心臓が異常にバクバクしていたのを覚えている。
最愛の父にもう二度と会えなくなる瞬間、今までにないストレスの頂点だったのだろう。
父が死んだ時間を若い女医が非常に頭の悪そうな読み方をしたので、消えてほしい、と思った。
すべてが馬鹿げていると感じた。
自分たち家族だけが絶望の中にいて、それ以外の人間は間抜けでしかなく、それが滑稽でならなかった。
死に様を前にするというのは、感動的なものは一切なく、当人たちの周りに対する憎悪や殺意に塗り手繰られた空間であり、周りもそれを感知して居心地の悪さ、ばつの悪さを滲ませているのだということを知った。
死に何か理想を抱いた覚えはないけれど、直面する死というのは、一番の現実的なこと(不快なこと)であると知った。


詩人の中原中也は弟の死を前にして「死ぬが死ぬまで、死ぬだらうと思ひながらも死ぬのだとは思つてゐなかつたので、いよいよ死んでしまつた時には、悲しみよりもまづ、ホーラ、ホラ死んだと、ギヨツとして顔を見合せるといつた気持が湧起つたのだつた。」という心情を綴った。(何故か青空文庫の”死んだ”の箇所は文字化けしているようだが、確か自分の記憶ではその個所は”死んだ”である)

実際死に様を目にすると、この中也の表現がものすごく共感できた。
「ホーラ、ホラ死んだ」という気持ちになるのである。
あまりの悲しみに非現実的な感覚になるのかというとそうではなく、ほうけた感覚にはなるもののあれほど現実を実感する感覚は私はない。

「人の死が見たくて見たくてしょうがない」と言ったのは酒鬼薔薇聖斗であるが
人の死が見たい人間は、現実を実感したいのかもしれない。
生きた感覚にない人間ほど、人の死に様を見て感覚を呼び起こしたいと思うのは自然な生理的反応で作用だろう。
自分は父が死んでからもうずっと生きた実感をほぼ感じられていないと感じる。
でもそれからも失恋などで薬に頼らねばきついくらいの苦しみにある時とかは生きているという感覚が
あった気がする。

生きている感覚を失った人間にとって、死に様を見るということは切実な欲求なのだと思う。
ネットなどで死体写真やグロ動画などを見てはネットに貼り付け共感を求め、人々を不快にさせる人の切実さは
相当なものだと感じて、規制されていくことに危惧を感じる。

死に様は確かに不快で苦しいものがほとんどだが、だからといって見たがらない、見せない、見ることを非難することは
人間が成長していくうえで大きな問題をはらんでいるように感じる。
そこには現実がある。不快の頂点を想像するものがある。
見ることに問題があって、見ないことに問題はないのだろうか。
毎日何十万と、悲惨なことが起きている。全世界で一日の死者は10万人~15万人ほどと言われているようだが
牛は一日に全世界で約26万頭と殺(屠畜)されていると言われている。
1秒間に、牛3頭、豚5頭、鶏1,100羽分ほどと殺(屠畜)されていると言われ
日本では一日にと殺(屠畜)される牛は約4,700頭で豚は一日に44,000頭くらいらしい。

世界中に溢れる地獄的な現状を日々目にしていたなら、自分が逃げようのない苦しみに立たされた時に「なぜ自分がこのような目に」という気持ちになることはあまりないように思う。
それはどこにでも起きている苦しみだからである。

自分は16,7歳の頃、いくつかマニアックな雑誌に載っていた死体写真を好奇心で目にしていたことがあったが
30歳で家畜の生々しいと殺(屠畜)映像を見てからは
だんだんと赤い色に拒絶反応を示すようにまでなってきた。
目にするすべての赤い色が恐ろしいのである。
できるなら目にしたくない。
赤=地獄的な苦しみの色 として目に焼き付いてしまったのだろう。
だからこそ自分は思う、耐性がある間に多くの現実を目にしておかねばならないのではないかと。
うっかりと見てしまった、というのでもいい、それがものすごく大事な経験ではないのかと。
一瞬しか見なかった死体写真を十年近く引きずってもいた。

自分にとって不快なもの、苦しいものを知ることで人が他者の痛みに対する共感を高めていけるのだとしたら
それらを避けていくことで、どのようなことが起きていくか。

「自分は生き様よりも死に様に興味があるんだ」と言えば一見人間の苦しみを快楽とするサディスト、または他者の痛みを自分の痛みとして想像するマゾヒストで異常性欲者かと思われるかもしれないが、自分は何よりも悲しみ、苦しみに価値を置いている人間で、その一方で苦しみや痛みに敏感なあまりにニュースを目にするたびに鬱になっているような人間なので単純に快楽に傾いているとも言えない。

しかし生きた実感のない自分にとって他者の苦しみであれ自己の苦しみであれ苦しいものであるほど
それが「生」であることは確かなのだろう。
生を求むため、死を求む、ゆえに生物は必ず死ぬのではないか。
すべての死がすべての生を育てている。
どんなに不快で苦しい死であっても、その死なくしては育たない生が我々であるのではないだろうか。






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災害という慈悲

2016-06-22 03:41:03 | 人類への警告
熊本で追い打ちをかけるように豪雨で人が死んでいる。
ニュースのコメント欄にはそれを多くの人が嘆いている。

環境問題がさらに深刻化していくともっと酷い災害が起きてくるが、環境問題に真剣に取り組む人はまだ少数だ。
神はいないと嘆くことは容易い、でもこうして豪雨や台風のおかげで食肉や農薬野菜の生産に水を使いまくっても私たちが水不足に陥らずに暮らすことができているのです。

これほどの慈悲はないです。
本当に無慈悲だというならもうとっくに地球は滅びゆき私たちは地球に暮らしてもいけないようなことを地球に対して行い続けているのです。

地球も命です。星は生きています。
限界が近づいています。この地球が。

人々の命、生物たちの命が本当に大事だというのなら、様々な環境問題について調べ、できることを今すぐにやらなくてはなりません。

このまま多くの人の肉食と農薬野菜の食生活が続くなら近いうちに世界的な食料危機と水不足が起こると言われています。

これが本当に起こるのならば、それは無慈悲ではなく私たちが環境をかえりみなかったことのツケがいよいよ回ってくるだけのことではないでしょうか。

地球は毎日悲鳴をあげています。でも多くの人がそれに気づかない。

災害の一つ一つが地球からの警告です。
そして犠牲になった方一人一人が自分を犠牲にして私たちに警告してくれています。

それらは慈悲そのものなんです。
慈悲がある為に災害は起きます。

増加する肉食の影で多くの人が飢餓に陥り犠牲になって耐え続け死んでいます。

そしてこのまま行くと世界で三分の一の人間が同じように犠牲になるかもしれないと言われています。

今から多くの人が変化すれば、まだ、間に合います。







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💩

2016-06-20 20:46:55 | 存念
今日も生きてくれてありがとう。と思える人がいてくれることは嬉しいことだなあ。
「私が好きな人は、別に私のことを好きじゃなくていい」
そういう人に私はなりたい。
いつかなれるだろう。なりたいなら。
全員を悲しませても生き抜きたい人生がある。
彼女は美しい。
どんなに彼女のTweet欄に頻繁にグロ画像やグロ動画や脱糞画像が埋め込まれようと
彼女のTweet欄に貼られた瞬間に美しくなる。
そこには深い人間愛がある。
人間を深く愛さなければ死体や人の死にざまや排泄物などにあれほど興味を持たないだろう。
倒錯した愛はなんと悲しいのだろう。
手に入らないものだとわかっているから人はそれを求める。
手に入れたいなら手に入るよ。
でも手に入れた瞬間もう欲しいものじゃなくなるからやっぱり手に入らない。
それは手に入れたんじゃなくって、消えたんだよ、欲しいものが。
僕は好きなものを消したくはないからこのままでいい。
どうして僕の手に触れた瞬間すべてが汚れていくように感じるのだろう。
例えば💩を触った手で何かを触ったらやっぱり触ったものも汚れるよな。
僕は💩を触ってしまったのか?
いつ、どこで、触れてしまったのだろう。
僕は、💩を探す旅に出た。
僕がいつの日か触れた💩が今もどこかに必ず、在る。
僕を呼んでいる、遠くから、呼んでいる声が聞こえる。
「おーい、此処だよ、さあ、おいで」
「見つけたぞ!」
「何を?」
「💩」
「夜の叢に当てた懐中電灯の光の中さァ」
こんなところにいたのか。
そうつぶやいて僕はそれを抱いて家に帰った。
それは確かに、汚い、汚れたものだ。
流したほうがいいよね、流せるのなら。
でも、流せない、流れないよ。
それはずっと僕を探していたんだ。
寂しく凍える声で僕を呼び続けていた。
やっと見つけることができたのだから、流すことなんて、できないよ。
ずっと一緒にいるよ。
だってこれは僕を必要としているんだから。
僕だって、必要だったんだ、必要なんだ。
かけがえのないものなんだ。
僕に向かって、それは微笑んだ。









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異文化同類交流♡

2016-06-19 23:54:10 | 日記
今日もお風呂に入る気力もないからブログ廃人日和ということで
お酒を入れながら一日で三つ目を書こうと思います。

自分は前にTwitterをやっていて、そこで知り合った女子高生の可愛い女の子のTweetを
Twitterやめたあともちょっと気になってチェックしているのですが
その子のTweetを読み返すと結構な頻度でグロ画像やグロ動画に当たるんですよね。
悲惨な事故映像もそれで見たんですが、それでその女の子はお菓子や甘いものばかり食べているというのが
気になってたんですが、そういう自分も食欲がないときに何故かお菓子だとパクパク食べれるよなあと
思いまして、ああその上グロ画像やグロ動画なんかを見た後にはやっぱりお菓子しか食べたくないんですよね。

なんでなのかわかりませんがお菓子、スナック系とか、甘いものなら食べられるんです。
気持ち悪いことなく……。
でもそれ以外が妙に食べるのが苦痛になる。
どういう作用かわからないけれど、受け付けなくなるんです、普通の食べ物が。
自分は普段菜食中心なんですが、ざるそばとかも食べづらくなる。
まだ野菜だけなら食べやすいかもしれない。

だから彼女はグロ画像やグロ動画が大好きで見ては貼り付けてるんですが
普段の食生活を見ていると、やっぱりそこは大きく関係してるのかな、と思いました。

自分は女でヘテロなんですが、自分が男だったら貢いじゃってるかもしれないなと
思うほど何か彼女には特別な感情を感じてしまうのです。
というか女でもお金があればいろいろ買ってあげたいなとさえ思ってしまいます。
あんまり女性に対してそういった気持になるのも滅多にないので
これも何かの縁なのかなと思いますが、私は繋がってくれていたみんなを切ってTwitterをやめた人間なんで
また繋がってほしいとも言えず、こうして最近ストーカーの如くに陰からチェックしてしまっています。

自分は中卒でリアルタイムでも女子高生と関わったこともない人間で
女子高生とか、自分とはかなり違う次元に生きているのかなぁと思ってたんですが
Twitterでリアル女子高生の子と関わってみると、それほど違いって見つけられなかったというか
彼女とは特別似てるところが多いのか、すごく親近感も湧くし
こんなに純粋で可愛らしい女子高生がいるのだなあと感激してしまいました。

自分の似てる部分以外は今どきの女子高生という感じで私の人生にはない
友達とはしゃいでキャピキャピっ♡とした世界が広がっていて、そのギャップがすごくいいなぁと思うんですね。

普通に女子高生をやっている生活の裏でTwitterでものすごいグロ画像を貼り付けているという。
すごく魅力的で、切実さを感じられるから心配にもなる。
いわゆるメンヘラっ子では全然ないんですが、何か起きたらどうしようという
心配を私のような17年くらい上の世代の人間は感じるわけです。

17歳くらいなんだけれど、本当に子供みたいに無邪気で素直な子で思ったことズバっと返してくれるし
すごく微笑ましい。「隣に座ってるおっさん禿げててキモっ」みたいなこととかTweetしてても
それが微笑ましい。
女子高生に対してそんな気持ちになるのも初めてのことだから
ああどうして切っちゃったんだろうとちょっと後悔もしています。

なんかまたTwitterやり始めても、また切っちゃったらと思うと
申し訳なくって、戻れない。

悲しくて、ごめんねって思うけど、こうして更新を見れることが
すごく嬉しくてホッとする。

彼女が今日も明日も生きているんだと思うとそれだけで本当に嬉しい。

どういうことが人間を護るということかは、それは様々ですが
「どうか御護りください」と神にお祈りしたほどです。

あんまりこういうことも滅多にないから自分で驚いている。

そんな可愛い彼女は「人肉を食べたい」と頻繁にTweetしていますが
私も鶏や豚や牛の肉食べるくらいなら、人肉食べたいかも、とか言って(笑)

まあ本気ではないですが、そういう彼女が「動物にはひどいことはしないでほしい」
と言ってるのが、本当に、泣ける……。

すごく、女子高生とは思えないほどの人情深さを感じる。
そして彼女はすごく賢い。
きゃぴきゃぴ💛は演じてるだけなのかなと思える。

そんな異文化交流か異文化同類交流か、それができるネット社会は素晴らしいと思います。

でも今は……ほぼこのブログで独り言を呟く毎日なのです。
ブログ廃人、目指します。(人肉が食べたい笑)







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Eyes died I

2016-06-19 18:37:11 | コラム
ストレスとは何か。知って頂きたいストレスの本当の意味

なるほどな、ストレスというのは不快な刺激によって起こる症状であり
ストレスの原因となる物事はストレスとは言わないんだな。

例えばうちの部屋は一日中窓を開け放ってるとテレビの音がかなりの音量で一日中聞こえてくるが
「まったくストレスなおっさんだぜ、おっさんの騒音がストレスだ」っていうのは間違ってるんだな。
「まったくどこのおっさんか知らんがおっさんのおかげでひっじょおに私はストレスだ」と言わなくてはならないわけだな。

そしてこのストレスという症状は不快な刺激と闘うために起こる準備であって
不快な刺激に立ち向かうため血糖、血圧、脈拍を上げ瞳孔を開いて呼吸を早める。

その興奮状態、緊張状態によっていつもより脳に血液、糖分が届き頭は冴えて痛みを抑え
高い集中力を発揮してくれる。
なのでストレスは悪いものではないがこれが度を超すと常に血圧、血糖値が高まって
様々な病気を引き起こし、コルチゾールというストレスホルモンがどばどば出すぎてしまって
脳の神経細胞を傷つけ精神の病にかかるリスクが高まる。

だから過度なストレスは危険だと、なるほど。
これを読んでなるほど、それでか、と思ったのは
よく目が死んでる人っているじゃないですか。
かく言う自分も目が死んでいる人間なんですが
よく死んだ魚みたいな目だと死んだ目の人間は例えられる。
または光を失った目。

これがよく犯罪者の写真を見ても思うんですが
多くが死んだ目、またギョロついた眼をしている。
なんでかというと、これは過度なストレスによって瞳孔が普通以上に開いているために
黒い部分が大きいと人形のような目に近づいてくるから、それがまるで
瞳孔が開ききっている死んだ人の目のように感じられるからではないか。

で、なんで犯罪者にギョロついたギロギロした目が多いかというとこれも
緊張を常にしていて呼吸も早く脈拍も上がっている非常に苦しい状態で
生き続けているためにその瞳孔の開きかけた目がさらにギョロっとするのではないかと。
どういう目?っていうと、まあ犯罪者じゃないんですが、こういう目のことです。









パンクロッカーで作家の我が師匠の町田康の町蔵時代の時の写真です。
生涯の師匠をここで出すなよ、出すなら自分の写真出せよ、と師匠に思われるかも知れませんが、まあここはひとつ許してもらって、この目、この目はまさに瞳孔も開きかけていてぎょっろぎょろとしています。
師匠の苦労度が伺える目です。

で、こういうギョッロギョロしてる目をよく殺人者の写真を見ても見つけるのです。
だからその目を見ただけで私はその人がどれだけ緊張しているかを見分けることができます。
でも死んだ目にもいろいろありまして、自分の写真撮ってもいつもこんな風なギョロッとした目ではないんですね。
でその時の目も死んだ目に見える。

死んだ目には種類があって、一つはこういったギョロ目なんですが、もう一つに多いのが
虚無的な目です。
そのとき虚無期なんでしょうね、その人の目は。ギョロ目のピークを越して虚無目になるのか
それとも虚無目を超えたらギョロ目になるのか、それはわかりませんが
自分としてはギョロ目の時は明らかに自分でもああ今苦しんでるなと思える苦しみにあるときで、虚無目の時は別段特別な苦しみがいま襲ってないが、苦しみが例えるなら大波のようにやっては来ていないが静かで波もたたない海面全面に薄っすらと広がり続けているという状態の苦しみの時、これが虚無目期なわけです。

虚無目期(きょむめき)ってちょっと言いにくいですが、ちょむめき、のほうが言いやすいですけれども、虚無目期と、ギョロ目期、これを私は行ったり来たりしている。
ギョロ目期は死んだ目じゃないんじゃないかと思う人がいられるかもしれませんが
私としては、結構死んでるんじゃないかなと、思うというか、思いたいというか
その、目は死んでるけれど、心はこんなにも生きている、というギャップがあるほど
いいんじゃないかなと思いますんで、そういうことにしておけばいいんじゃないかな。
ま、とりあえず、人間っていいよね、って話なんです。

兎に角、私は人の目を見たらばその人の悲しみの度合い、孤独度の度合いがわかります。
目に出るんですね、んびんげんはね、んびんげんって何?
人間はね。突如妖怪について話してるみたいなことになっちゃいましたね。
レプティリアンみたいな人間の皮をかぶった異星人「んびんげん」について私はずっと話してたわけじゃありません。

ま、目に出るということにしとけばいいんじゃないかと、ってそんないい加減な結論で終わろうとしてないので、続きを今考えているところです。
目が死んでることで傷ついて落ち込んでいる方がいらっしゃいましたら、その人に
大丈夫だよ、と、死んでなんか、いないよ?それはね、過度なストレスが関係してるんだよー
と言っておけばいいんじゃないかと、って言ってます。
そう、胸を張って生きていこう、目が死んでても、いいじゃないか。
苦しみに耐え続けてきた証じゃないか、君の目が死んでいるのは。
そう、僕に向かって「んびんげん」はいろんなジェスチャーを加えながら言ってくれた。


「んびんげん」完







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人間と車

2016-06-19 16:21:19 | コラム
夜が明けて降り出した雨が起きてもまだ降っている。
1日に平均11人が事故で死んで、1日に平均70人が自殺しているこの国で今日もみんな頑張って生きている。
外に出れば、合法的な殺害兵器である鉄の塊がブンブン走っており、2時間置きに1人事故で死んでゆく。
20分置きに1人ずつ自らこの世を離れる。

昨夜見た二つの事故の映像、あれは二つとも自殺なのではないかと思い始めている。
認知症や飲酒やドラッグの可能性も考えられるが、大型トラックと大型トラックの間、
大型トラックの車輪の間に自ら入り込んでいくというのは、あれは計算尽くなんじゃないかと。
あれがもし乗用車だった場合、相手側も被害は大きくなる。
しかし車高のかなり高い大型トラックならあんなものは屁でもないんじゃないか。

相手に出来うる限り被害は与えたくないが、事故で死にたい人は
大型トラックの間か大型トラックに突っ込んでいくのが一番だろう。
事故で死ねたら保険金も降りるかも知れない。残していく家族のことを思ってどうしても事故死に見せたい人は多いのではないか。

そう考えると悲惨な事故の映像も感動的に思えてくる。
あんな悲惨な死に方を選んでまで家族のことを想ってたのかもしれないと思うと。
乗用車に突っ込んで行くより大型トラックに突っ込んでいくほうが何十倍と死ねる確率は高い。
もし失敗すれば半身付随などになって最悪なことになる。
どうしても成功させなければならない。
そうすると一番成功させやすいのが、昨日見た映像の事故の起き方、普通では考えられないような事故になる。

一つ目の映像は広い道路だから多分日本じゃないと思うが、
ものすごく大きな車輪の並ぶタンク型ではない平ボディの大型トラックのその車輪部分に
少し離れたところからおっちゃんみたいな人が乗った小さなバイクが横から
普通に走ってって車輪の下に入って動いた車輪に巻き込まれるという事故の映像。
見るからにまるで車輪部分に吸い込まれるような形で突っ込んでいってる。

正常な感覚を持った人間が起こすような事故ではない。
正常な脳の感覚を失っていないと起こりようがないと思えるような事故。
ただ認知症のような症状だったのかもしれない、アルコールやドラッグで脳がおかしくなっていたのかもしれない。でもなんであんな遠くの場所から車輪部分目掛けて突進していくのだろう?

北野武が94年にバイクで事故って顔面がえらいことになったあの事故はもしかしたら自殺をしようとしたのかもしれないと言っていた。

たけし、「バイク事故は自殺だったかもしれない」と語る。(26)「北野武 神出鬼没」北野武×蓮見重彦


もう一回同じ状態にいくんじゃないかとたけしは心配しているようだ。

酔っ払った頭でバイク乗りながら一瞬自殺念慮が起こってその瞬間かその一瞬のあとに事故が起こることってあるだろうなと思う。
酔っ払ってバイク乗っててふと自殺したいという思いが沸き起こった瞬間に
ちょうど目の前に大きな車輪が並ぶ光景が目に入るか、それとも酔っ払って
バイク乗ってて目の前に大きな車輪が並ぶ光景が視界に入った瞬間にふと、
あ、自殺したいな、という気持ちが沸き起こるのか、どっちもあり得ると思うが、
そうなってしまうと脳が正常な感覚ではないのでまるで吸い寄せられるかのように
車輪部分に突っ込んでいってしまう。というのは至極納得が行く。

恐ろしい話だが人間の脳とは脳内成分の働きによっていとも簡単に操作されるかのような行動をとってしまう。
普段死にたいとは思わない人であっても無意識に潜在意識の中に
潜んでいた自殺念慮がアルコールや薬やなんらかの脳内物質の異常によって意識下するか、
もしくは無意識下であっても行動に移ることがあるのではないか。
だからアルコールや精神系の薬を摂ったあとに自殺する人はかなり多い。

ストレスが休みなく続くようなこの国では特に、ふと脳が緩んだ瞬間に楽になりたいと思う人は多いんじゃないか。
ここで脳内物質の異常と言えば現代病の鬱があることも忘れてはならんだろう。
鬱は脳内物質が異常になる。
なんかおでんみたいな匂いが流れ込んできてお腹がすいてしまったが続けよう。
まだ起き上がってないので布団の上でずっとスマホで打ち込んでいる。

脳内物質が異常になっているのは確かなので、鬱状態にある人は正常な脳の状態にあるとは言えない。
私自身が鬱とははや15年以上は付き合っているので、鬱と事故の危険性について言いたいと思う。
鬱になると、感覚が普通とは変わって、ボーッとする。
脳がまともには働いてくれてないので何かを理解するにも普通の何十倍ほどの時間と労力を必要とする。

これは言葉だけでなく、空間にある物事の存在の理解にも同じように労力がかかる。
例えば鬱の状態で外を歩くと、道路の向こうから車が走ってくるのは見てわかる。
ああ車がだいぶ先のほうにいるからここで渡れば大丈夫だ、というのはわかる。
しかし終始ボーッとした感覚があるので、そのボーッとしたのは行動に勿論反映して、
自分では普通に早く歩いてるはずが実はものすごくゆっくりと歩いていたということが起きてしまう。

だから鬱が酷い時は歩道を渡っては行けない。
自分も何度か車が走ってくるスピード感覚を捉えられず渡ろうとしてぶつかりそうになったことがある。
実際のろのろと曲がってきた車に軽く当たったこともあった。
自分はその危険性を十分わかっているので外だけではなく家の中でもものすごく慎重にいちいち行動している。
無意識で行動することのないように一日中ほぼ意識的に生きている。

例えばお湯を沸かしてお茶パックを鍋に入れる時も自分は今からこのお湯にお茶パックを入れるのだ。
熱湯に気をつけねばなるまいぞ。と神経を張り巡らせながら沸いた湯にお茶パックを入れる。
そうしないとついボーッとしながら行動してしまい様々な危険が起こり得る。
しかしこれもあんまり鬱が酷いと通用しない。
そういう時はお酒をくっと飲んで料理したりするがこれはこれで危ない。

アルコールも精神医薬も脳内物質の異常を脳内物質の異常で誤魔化しているに過ぎないので、
それを続けることは脳内物質の異常をさらに引き起こすことになるとわかってはいるのだが、
これが苦しいものだからやめることができなくなるというわけである。

ちなみに私は薬の類いはもう一切飲んでいない。
よっぽど苦しくて寝れない時期は漢方薬の抑肝散を飲むことがあるくらいである。
自分は副作用もなくスッーと心地良く眠れる。
自殺念慮の起こる時も脳内物質の異常が起きている。
これも平常感覚とは違うボーッとした感覚にある。
現実感覚の欠如、夢の中を生きているような感覚、そんな状態の中、
車やバイクなんぞに乗ったら一体何が起こるか?

二つ目に見た事故の映像、これは轢かれて血飛沫が飛ぶとかいったグロテスクなものは何もなかったが、
精神を病むような悲惨な事故の有り様だった。
乗用車の後ろからカメラを撮っていて、乗用車の前には大型トラックが止まっている。
乗用車は一体何を考えたのか後ろから車がそこまで来ているにも関わらず右へ
車線変更の為に右側の道路へ移動しようと乗りかける。
そしてまず右側の道路の後ろからやってきた乗用車とぶつかる。
そしてすぐ後に続いた大型トラックにもぶつかって、乗用車は自分の元いた車線の前に止まっていた大型トラックと後ろから突っ込まれた大型トラックに挟まれながら突っ込んできた大型トラックと一緒に前へ運ばれるにつれて車の幅が4分の1くらいになってしまう社会死状態は決定的な映像だった。

瞬間的な事故だから即死だと思うが、これは一つ目のグロテスクな映像よりも精神に来るものがあった。
私はその映像を何度目かに一時停止しながら見てみたが、ああこの時はまだこの車の中の人は生きてるんだなと思うと悲しくてならなかった。
一瞬の後にあんな悲惨なことになってしまうんだと思うとこの世の不条理に虚無を感じもした。
どんな子供時代を過ごしてどんな人生を歩んできたんだろうと思った。

なんで後ろから車来てるのに車線変更しようとしたんだろう?
大型トラックが前にいる、そして後ろの後ろに大型トラックが来た、
よし、今右へ車線変更すればこれは確実に死ねるだろう。そう計算して右へ寄ったのだろうか。
ボーッとした感覚状態の中に前に止まっている大型トラックとバックミラーに大型トラックを捉えた瞬間、死のうと思って右へハンドルを動かすのはおかしいことではない。
ただドン!と当たって頭を打って死ぬという事故ではなく、あんな原型を留めないような凄惨な死に方を何故しないといけないんだろう。
どうしてあんな凄惨な死に方をするかもしれないのに車は売れ続けているんだろう。

想像力の欠如?いや、違う、本当のことを誰も見せないからだ。
本当の恐ろしさを学校でも教えない、車がどれだけ悲惨な事故を生んでいるか、本当の現状を見せて警告する人があまりに少ないからだ。

乗らなくても別段いい人まで車に乗っている。便利だから。楽だからと。
車が多いほど事故は起きやすい。
多くの人がアメリカの銃を規制するべきだという考えを持っているようだが、日本で2時間に1人死んでいる事故の原因である車を規制したほうがいいという声は滅多に聞かない。
まるで交通事故は病気と並ぶような死因だとみんな思っているのだろうか。
病気はあんな血飛沫が飛び散って肉片や脳みそが道路に転がったり、原型を留めない死体などを子供が見てしまったりするようなことは起きない。

どうしたら車を減らしていくことができるんだろう。
この先何度人の手によってグロテスクな遺体を片付けていかなくてはならないのだろう。
ちょっとやそっとの事故が起きても大丈夫な頑丈なボディだと唱って新製品を売る。そんな頑丈な車体にぶつかった為死ぬ人のことは考えないのだろうか。

人間が便利で楽しい車というものの為にあんな悲惨な死に方をしてほしくない。
人間はそんな便利さや楽しさよりずっと大事なものなんだ。

















「キラーカーズ / 人を食べた車」と「Car Is Murder(車は殺人)」

2016-06-19 02:21:47 | コラム
大型トラックの酷い悲惨な事故の動画を見てすごく鬱になっている。吐き気もずっとおさまらない。


一年で4,113人の死亡者。一番多い日で一日に22人の死亡者。これでも減少してきてるらしい。
これこそ異常だと思う。
交通事故だから仕方ないと言えるような死者数ではないと思う。

車は本当に必要なのだろうか。大型トラックは?
大型トラックがあれば助かる企業はそれは多いだろう。
でも人の命より大事であるわけがない。

車は便利だし人々の楽しみになっているだろう。
でも2時間に一人殺してまで要るもののはずがない。
救急車や消防車やパトカー、そういった車だけが走ればいいんじゃないか。

排気ガスの増加で地球もだんだんおかしくなってきている。
車をなくせないのならもっと安全なあり方になってほしい。
歩行者、自転車、バイク、乗用車、トラック、これらを全部専用の道路に分けるとか
そうしたらバイクや乗用車がトラックに巻き込まれる悲惨な事故も防ぐことができる。

便利なものは作るけれど、そういった最適な安全策を考えようとしないのは
これではまるで合法的な殺人兵器を作ってるのとそう変わりがない。

レディオヘッドのトム・ヨークは車で事故ってから車に乗るのをやめたらしい。
私は車は死んでも運転はしないが、助手席に乗ってる時もいつも事故の可能性が頭を離れず
安心しきって車に乗ることができない。
あんな大きな鉄の塊がブンブン走ってるところを平気で走るなど信じられない。
私は事故に合ったことはないけれど想像するだけでものすごく恐ろしい。
車はとんでもなく恐ろしいものなんだということを感じずに車に乗る人は
めちゃな運転をしそうで余計危険に思う。
これは車だけに限らず自転車やバイクでも同じである。
スピードの出る乗り物に乗ってたらこけただけでも大怪我をする可能性がある。

自分は子供のころ父親の一時期仕事で乗ってたものすごくでかい大型トラックに乗せてもらったことがあるが
あの視界はマジでヤバイ。
人の一人や二人轢いてても気づかないんじゃないのかというくらい位置が高い。
あんな視界の悪さで車を運転したらそら事故も多いだろうと思う。
大型トラックと乗用車、バイク、自転車、歩行者の道路は絶対に別の場所に設けなければならない。

自分は運転はしないから後ろまでいちいち確認しないが前か横に大型トラックが付いたら
ドキドキする。
しかも今は兄が運ちゃんをやっているが、平均睡眠時間は4時間とか言ってて
信じられない運送会社のブラック企業が普通にわんさかある。

大型トラックが前か横か後ろに付いた瞬間死を予感するのが正常な感覚ではないか。
たぶん今日見たあの二つの動画を教習所で全員に見せてたら半数近くは免許を取るのをやめるだろうな思う。

車に乗る人が少数である未来であってほしいと切に願う。













それはレッテルが知ってる

2016-06-17 20:25:40 | コラム
未婚で無職の“大人ひきこもり”が増加! 話題の「女性SNEP」の原因と対策とは?

そうか、自分ももう再来月で35歳だし、引きNEETではなくなり、引きSNEPになるのか。
というかSNEP自体に引きこもりの症状が入ってるからSNEPだけでいいのか、いやぁ、言いやすくなるな。
ヒキニートと今までは5文字を打たねばならんかったが、これからはSNEPと4文字を打てばいいから1文字打つ時間を有効に使うことができる。(ちょっと待て、ヒキニートってHIKINI-TOって9文字打たねばならないぞ、なぜ二回推敲しないと気付かないんだ)
いやぁ、よかった、しかも言葉に発生するときもかなりスネップというのは言いやすい。
「いっやー自分はスネップなんでね、ま、いろいろ大変なんです」
「あっ、スネップなんですね、そりゃご苦労されていますね」
「はい、スネップなんで、苦労の連続なんです」

しかしSNEPになる原因に「離婚」とあるのに解決対策に「結婚」っておかしくないか。
離婚しなければいい話だが、結婚しなければ離婚することはないのに結婚すると離婚する可能性は出てくるではないか。
結婚せずに離婚もしない方法はないのか、ってそれが結婚しないという方法か。
しかしそれではSNEPを、スネツプを解決できないではないか。
ではこういうのはどうだろうか。
スネツプの女性は結婚するときに相手の男性に「もしも貴女と離婚するようなことがあった場合は、自分の全財産を毎月貴女に送り続けることをここに誓います。」という契約書を書かせて判を押してもらう。
そうするとこの相手の婿は離婚したくなっても離婚することができなくなる。
しかしそのような契約書を書いてくださいと言った瞬間に相手から「やっぱり結婚はやめます」と言われる可能性は大きいだろう。
では正直に直截にこう言うのはどうだろうか。
「プロポーズしてくれてどうもありがとう。私は大変嬉しい気持ちでいっぱいです。是非とも私は貴方と幸せな生活を死ぬまで続けたいなと思います。しかしここで一つ気懸りがあるのですが、私は御存知の通り、スネツプです。スネツプの解決策に一番有効的だと言われているのがそう、結婚です。どうやらスネツプは結婚すると解決するらしいじゃないですか。だから私はプロポーズされて本当に嬉しい。ところがこのスネツプというのが、原因には離婚というのが大きいと言うじゃありませんか。つまり離婚すると私はスネツプに戻らなくてはならないのです。そんなのははっきり言って、嫌なのです。だって考えてみてくださいよ。もし20年後に離婚した場合、再婚することが激烈に難しくなってしまうじゃないですか。すると自分はわたしはあたくしはスネツプのまま死ななければならなくなるかもしれない?そんなことは考えたくない。自分は絶対に考えたくはない。自分はスネツプから抜け出したまま死ぬのだ。かつての負け犬であった自分を嘲笑いながら死んでいきたいのだ。だから離婚とか決してあってはならない。それは神が許さない。離婚することなどはあるべきではない。だから貴方と死ぬまで添い遂げたいの。当然スネツプのあたくしにプロポーズしてきたのですから?そこのところお解りでいらっしゃいましょうねぇ。あれ、熱でもあるの?変に青褪めた顔をしているじゃあないですか。ちょっと横になったほうがいいんじゃあないのかしら。え?なに?もう少し考えたい?え?どうもさっきから高熱があったようで、ぼくさっき何か言いました?いっやー覚えてないなあ、まったく。だと?」
スネツプ女は非常に後悔した。あんなこと言わへなんだらよかったわ。
婚約者は「もう寝たい」と言って家に帰ってしまった。
スネツプ女は心の中で「どないしょ、どないしょ、どないしょ、どないしょ、どないしょ、どないしょ」と言いながら婚約者に電話を掛けた。
とるるるるるる。
ガチャ。「はい、もしもし」
「あ、○○さん?いやね、さっきなんか私色々言ったんですけどね?あれ全部ね?嘘だんねん。いやほんと。ちょっとね?驚かしちゃおっかな~って思っただけだすねん。マジです、はいはいマジですマジです。だからね?気にしないでちょーだいね。あんなこと米粒も、や、素粒子ほどにも思ってないんですから。本当なんです。だからプロポーズを取り消すとかマジやめてください」
すると婚約者は5分間の沈黙の後こう言った。
「○○○さん」
「はい」
「ではこうしましょう」
「なんだすか?」
「ぼくは絶対に貴女と離婚しないと誓う」
「(*´▽`*)わーい」
「そして貴女と絶対に結婚しないと誓う」
「(;'∀')」
「その代わりと言ってはなんですが、ぼくを死ぬまで幸せにしてください」
「え、どうゆうことですかい?」
「つまりこういうことですよ。ぼくが貴女を好きでいる限りはぼくのすぐ傍であなたは暮らしてください。わかりましたね。じゃ、もう寝る、おやすみ」
ガチャ。
スネツプ女は頭の中で婚約者の男の言葉を何度も反芻した。
そして、あ、これでええんちゃうか。というか、これがええんじゃないか。と思い、これ以上に何を求めてもスネツプは解決しようがないと思ったのだった。
つまりスネツプが結婚で解決していることがスネツプが離婚で陥る罠になっていることに気付いた。
スネツプは結婚では解決はしないとわかるなら離婚でスネツプが引き起こされることもない。
これはなんにでも言える話であるが、ある問題が何かによって解決するならば、その何かを失くせば問題は戻ってくるのは当然である。
だからスネツプが結婚によって解決するというのはこれはおかしい。
それは解決ではなくいわゆるある精神疾患の症状が長い期間起きていないという
かんかい【寛解・緩解】
《名・ス自》全治とまでは言えないが、病状が治まっておだやかであること。 「治癒または―」

の状態にあるということになる。
ですので、スナツプは安易に結婚などによって解決するだろうと期待して結婚をしようとするとかえってそれが破綻した時にそれまで以上の重篤な症状に変化する可能性があるので、私なども精神科医の担当の先生たちから「結婚したら治るよ」と言われたり思われたりしてるのは非常に解ってもらえていないと感じて落ち込むから精神科医とかはもっとスナツプを勉強してください。

スナツプじゃなくて、スネツプだった。
スナップえんどう美味しそう……ってなんで自分はスナップえんどう豆の画像を検索しておるのだ。

ここ三日ほど鬱が激しいがブログを書くことが本当に楽しい。
自分はこのまま恋人もできず小説家にもなれず結婚もしないなら一日中ブログを書いて更新するというブログ廃人になるという手も考えている。
今日なんかも昼頃からずっと考えてブログを書いているから7時間近く考えて書いていることになる。
これで月12万稼げたら全人類の約80%は全員ブログ廃人になるかもしれないな。
というか稼いでるのに廃人なんだな。

もう、これ以上何も、言いたくはない。





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