7. 和泉式部と道綱 和泉式部の恋の歌
馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」一部引用再編集
*******終章
敦道親王なきのち、和泉式部は中宮彰子に出仕するようになる。その日常は貴族社会の華やかさに囲まれるものになったが、歌は新たな挑発者への応酬も含めて、遊戯的なはかない恋の場に向けてまで、人生の深いかげりがにじむようになる。式部の男女間の贈答の場は詞書からだけでも多彩で、当時の交流の場の実態がほのかに見られるものだが、その名を詞書に残している人物は帥宮のほかはほんの少数である。中で「傳(ふ)の殿」「大将殿」と呼ばれていた右大将兼東宮傳の道綱(道長(母は時姫)の異母兄::母は道綱母)との応酬をみてみよう。
同じころ (帥宮失せたまひての頃) 傳の殿に
さるめみてよにあらじとや思ふらむ哀れを知れる人の訪はぬは
傳の殿より
袖ぬれていづみという名は絶えにきと聞きしをあまた人の汲むなる
返し
影見たる人だにあらじ汲まねども泉てふ名の流ればかりぞ
帥宮の亡きのち、式部が頼りに思える男性として道綱があったのだろうか。この応答のすぐ前には、帥宮に亡くなられて不眠症に悩んでいる式部の歌が置かれている。しかし、頼みに思った道綱は好色の対象としてしか式部をみていなかった。式部の歌は、「宮に急逝されて、悲しみのあまり、この世のものとも思えぬわたしになっていると思っておいででしょう。こんな時こそ慰めていただきたいのに」と訴えているが、その返事はずいぶん侮辱的で、「帥宮に亡くなられて、泉は涸れてしまったと聞いていましたが、じつは沢山の人が汲みに行っているらしいですね」というものだった。
さすがに式部も言いわけをしないわけにはいかず、泉に掛けて、「その水に映る影さえ、誰一人見た人は居ないでしょう。人の好奇心からそんな噂が流れているだけですのに」と詠みかえした。ところが道綱はこの返歌を手にすると喜んで、「音にのみならしの岡の時鳥ことかたらむは聞くや聞かずや」と、愛人としての逢いを強いてきた。式部は失望してその手紙を返してやると、こんどは「人行かぬ道ならなくに何しかもいただの橋のふみかえすらん」とあくまで強引で図に乗っている。こんなことから式部はついに道綱と絶交してしまう。
こうした日常の一齣を取り上げてみても、かなり身分ある人までがうしろだてを失った式部に対し、悪い噂をささやき合って楽しんでいた様子がみえる。しかし、道綱はあの「蜻蛉日記」の著者、藤原倫康(ともやす)の娘を母とする関白兼家の二男である。政治的にはあまり重んじられていないが、母ゆずりの性状は本来やさしかったのであろう。式部は年があけて七夕が来ると、道綱からアピールの手紙が来たのをしおに仲直りをした。
道長は部下が拾った式部の扇を取り上げて「うかれ女の扇」と落書きしたが、式部はその傍らに、「超えもせむ越さずもあらん逢坂の関守ならぬ人なとがめそ(越えもしないし、かといって越さないともいえませんよ。逢坂の関の関守のような恋をしているわたくしを、どうか咎めないでくださいまし)」と書き付けている。屈折した重厚な調べの中に、式部の憂鬱がこもっているのがわかるだろう。
参考 馬場あき子氏著作
「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」