前半 和泉式部の偲び歌 偲び歌を五つのパートから構想し詠みわけ
馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」一部引用再編集
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和泉式部はまた、偲び歌を「ひるしのぶ」「夕のながめ」「よひのおもひ」「夜なかのねざめ」「あかつきの恋」という五つのパートから構想して読みわけることを思いついている。うたうことによって、喪失感をやわらげるとともに、ここには人を思う一日のうちの情緒の変化がみられて作品としても魅力がある。
ひるしのぶ
かぎるらむ命いつともしらずかし哀れいつまで君をしのばむ
(かぎりある命だから、私とていつ死が待っているとも知れないのです。ああ、しかしその命のかぎり、こうして苦しいまでに君を思いつづけることなのでしょう)
明るい陽の光の中で思うとき人の存在は淡くなりやすい。まして死者を偲ぶ心は陽光のあまねくゆきわたるま昼間の景に負けているにちがいない。「命いつともしらずかし」と念入りに思い入れ深く歌っている三句の切れ目のあとを、「哀れ」と強い感嘆詞でうたいおこしているのも巧み。「いつまで」は「かぎるらむ命」に対応して、「命あるかぎり」となるだろう。
夕のながめ
今のまの命にかへてけふのごとあすのゆふべをなげかずもがな
夕暮はいかなるときぞ目にみえぬ風の音さへあはれなるかな
たぐひなく悲しきものは今はとてまたぬ夕べのながめなりけり
忘れずはおもひおこせよ夕暮に見ゆればすごき遠(をち)の山かげ
さすが人待つ時刻の「夕のながめ」には秀歌が多い。「かぎりある命」ゆえ「今」のまにも終わるかもしれないその命は、君を思う思いで張り裂けそうだ。いっそこの思いのまま死んでもいい、今日のような苦しい思いを、明日の夕べはしないために、という第一首。来る人を待って高揚する胸のときめきを凝縮したような白熱感をもってうたっている。
第二首の「夕暮はいかなるときぞ」という自問には、人待つ夕暮れの切実を沢山体験した人の無限の思いがこもっていよう。
第三首も「今はとてまたぬ夕べ」に死の現実に対する自覚はあるものの、「もうあの方を待たない夕べなのだ」という自己説得には、説得しきれぬ未練な悔しさが漂うものだ。
第四首の「忘れずはおもひおこせよ」という死者への呼びかけは現(うつつ)の人への呼びかけと同じ呼気であるところがすごい。夕暮の「ながめ」は「物思い」の意味ではあるが、眼前にはさまざまな「景」もあったはずだ。人待つ思いをもって、ふと目を上げたとき、藍深く暮れかかる遠山が見える。ある終焉のかたちを思わせるようなその遠山の姿を、「ぞっと身にしむ」ような思いで見守る和泉式部である。「すごき」という和泉式部の感受には、再び会えない宮との距離を自覚させるものがあったのだろうか。
後半 につづく
参考 馬場あき子氏著作
「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」
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