臨時.枕草子-清少納言の創作作品と紫式部の批判
山本淳子氏著作「枕草子のたくらみ」から抜粋再編集
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序章 清少納言と紫式部の当時の状況
紫式部の「清少納言酷評」
寛弘七(1010)年、紫式部は執筆中の回顧録「紫式部日記」に、こう記した。
清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち、真名書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。
(清少納言こそは、得意顔でとんでもなかったとかいう人。あれほど利口ぶって、漢字を書いてばらまいていますけれど、その学識の程度も、よく見ればまだまだ足りない点だらけです)
(「紫式部日記」消息体)
「清少納言こそ」とは、書き出しからして実にいらだった口調の清少納言批評である。紫式部は清少納言を見知っていたのだろうか。そうではない。
史実として、清少納言は定子、紫式部は彰子と、時の一条天皇をめぐる二人の后にそれぞれ仕えた女房ではあった。が、紫式部が出仕したのは、長保二(1000)年の定子の崩御によって清少納言が職場を失ってから、五年が過ぎた後のことである。
二人が内裏にいた時期はすれ違っており、今まさに対抗し合う二勢力を代表する文芸の女房として角を突き合わせることはなかった。察するに面識もなかったのではないか。
というのも、冒頭文が言う「いみじう侍りける人」の「ける」という助動詞は、一般に自分が直接には知らない過去の出来事について用いるものだからだ。
では紫式部は、何によって清少納言の行状を知ったのだろう。もちろん、噂好きな女房社会のこと、清少納言の記憶は囁かれ続けていたに違いない。だが少なくとも、ここで紫式部が「利口ぶって漢字を書いてばらまいた清少納言」と言っている内容は、何か書かれた資料によるものだ。
なぜならば、その知識レベルを吟味するのに、紫式部が「よく見れば」という言葉を使っているからだ。「よく聞けば」などではない。「見る」ことで清少納言の学識程度を確認できる何かを、紫式部は手にしていたのだ。
ならばそれは、おそらくは当時出回っていた「枕草子」、あるいはその断片と推測されよう。実際「枕草子」の中には、紫式部が言うとおり、清少納言が漢詩文の素養を披露して賞賛される場面が、何度も記されている。
紫式部が「枕草子」を見ていたことは、「枕草子」の冒頭「春は、あけぼの」と「紫式部日記」の「秋のけはひ入り立つままに」の対照などから、かねて憶測されていた。
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