4.枕草子の原点 定子再びの入内と死
山本淳子氏著作「枕草子のたくらみ」から抜粋再編集
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4.定子再びの入内と死
このままならば定子の人生は、一度は后として栄華を極めたものの零落して内裏を去った尼僧ということで、静かに終わっていたかもしれない。しかし定子には、さらなる浮沈があった。
翌長徳三(997)年、天皇が再び定子を呼び戻したのである。厳密には定子の居所を中宮関係の施設に移しただけだったが、これを復縁の準備と見抜いた貴族たちは「天下、甘心(かんしん)せず(誰が甘くみるものか)」との批判を浴びせた(「小右記」同年六月二十二日)。
確かに、唐突に出家するキサキも稀だが、それを復縁する天皇は前代未聞だった。長徳の政変後、天皇には中宮に次ぐ位の妃として二人の女御が入内していたにもかかわらず、彼は定子その人への哀愁を断ち切れなかったのだ。
一条天皇の愛情の深さゆえ、しばらくは誰も手出しのできない状態が続いた。しかし天皇は、皇統の継続のため男子をつくる必要があった。定子にその兆しが現れたのは長保元(999)年春のことである。
それと相前後して、最高権力者・藤原道長の娘である彰子が十二歳で着裳(ちゃくも)した。女子の成人式である。彰子の入内が秒読みの状況となるなか、道長は定子への露骨ないじめを開始した。
十一月には、一日に彰子が入内。七日の夜には結婚披露の宴と初めての床入りが行われた。定子の出産は、まさにその当日の朝の事だった。生まれたのは皇子。一条天皇の後継第一候補・敦康(あつやす)親王の誕生である。
天皇の喜びをよそに、貴族たちの目は冷ややかだった(「小右記」長保元年十一月七日)。また、尼である定子は神域では忌み嫌われるため、中宮としてなすべき神事を行えなかった。それを理由に、長保二(1000)年にはついに彰子が新たなる中宮に立った。
ただ、天皇の強い意向があったのだろう、定子もかわることなくこの地位にとどまった。定子は中宮の正式名称である「皇后」、彰子は「中宮」と通称されるようになったが(「日本記略」同年二月二十五日)、このように一人の天皇のキサキが二人で最高位を分かつという事態もまた、前代未聞のことであった。
そうしたなか、定子は一条天皇の第三子を身ごもった。そして同年十二月十六日未明、女児を出産した床で崩御した。享年は二十四である(「権記」同日)。
この人生を、なんと形容すべきだろう。浮かぶのはおそらく、波瀾や苦悩という言葉ではないか。にもかかわらず、定子を描く「枕草子」は幸福感に満ちている。紫式部が違和感を唱えるのも、決して筋違いとは言えないのではないだろうか。
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