山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集
光源氏二十五歳の夏のこと。世情は光源氏にとって芳しくなく、すべてが厭わしいと思えてならない。そんなある日、光源氏は故桐壺院の女御麗景殿の邸へと出向いた。女御の妹の三の君・花散里(はなちるさと)とは、かつては宮中で、かりそめの想いを交わした間柄だった。もう表立った恋人と言う訳ではないが、その名残で今でも姉ともども光源氏が援助しており、思い立てばこうしてふらりと訪ねることのできる相手である。
途中、中川の辺りに、昔通った女の家があった。琴の音に引き寄せられ、光源氏は和歌をおくる。だが女は「人違いでは」ととぼける。さては新しい男でも通っているのか。心変わりももっともだが、男女の仲とは世知辛いものだと、光源氏は感じさせられる。
振られた光源氏の心は、もとよりの目当てだった花散里によって癒される。久しぶりの光源氏の来訪を、花散里は温かい情で迎えてくれた。橘の香りのなか、女たちそれぞれの、変わる心もあり変わらぬ心もあることを思い、光源氏は感慨にふけるのだった。
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「空蝉」「若紫」「花散里」・・。「源氏物語」の五十四帖の巻々には、どれもうっとりするほど美しい名前がついている。しかしこの巻名は、いったい誰がつけたのだろうか。作者の紫式部自身だろうか、それとも後の世の読者なのだろうか。
「更級日記」には、作者の菅原孝標(たかすえ)の女が「源氏物語」を読んで胸をときめかせたことが記されている。治安元(1021)年の記事だから、「源氏物語」の誕生からまだ二十年も離れない時期だ。ところがそこには、巻名が出てこない。「紫のゆかり」を見て続きを読みたくなったと言っているのは、紫の上が登場する一連の巻々のことだろうけれど、はっきり「若紫」の巻を読んだとは言っていない。
続きがなかなか手に入らず、仏様に「一の巻よりしてみな見せ給え」と祈ったとは書いているが、「桐壺の巻から」とは書いていない。そんなことから、物語が作られた当初は巻名がなかったとの説も、一部にはあった。だが考えてみれば、「紫の上関係の巻」とか「第一巻から」などという言い方は、巻名を知っている現代の私たちでも、することがある。「更級日記」のあいまいな表現を根拠にして、巻名がなかったと考えるのはせっかちすぎる。
では巻名は、いつ誰がつけたのか。この素朴で深い疑問に答えてくれるのが、清水婦久子氏の説(「源氏物語の真相」角川学芸出版)だ。巻名には、和歌の世界でよく使われる言葉、「歌ことば」であるものが多い。またその巻の内容も、その歌ことばが詠みこまれ人々が慣れ親しんできた古歌に深くかかわっている。そんなことから、紫式部は古歌から美しい歌ことばを取り出し、それをいわば「お題」としてそれぞれの巻を書いた、と考えるのである。つまり、巻名が最初にあって、それから物語が作られたというわけだ。
たとえば、光源氏が初めて恋の冒険を知る「帚木」の巻。この帚木という木は、平安時代にはよく知られていた伝説上の木だ。信濃国の「園原」という地にその木は生えている。遠くから見れば確かにあって、箒を立てたような形もわかる。だが近づくと、不思議なことに姿を消してしまうのだという。その伝説をもとにして、歌が詠まれ世に広まった。「源氏物語」の九十年ほど前のことだ。紫式部はこの伝説をヒントに、「帚木」をお題として、「帚木」巻を書いた。果たしてストーリーは、光源氏の前に一度だけ姿を現した人妻が、その後は決して会ってくれないというものだ。光源氏が追えば追うほど、女は光源氏を避けて姿をくらましてしまう。まさに伝説の「帚木」のように。
では、「花散里」はどうか。和歌の世界では、橘の花が散る家として詠まれる。そこにホトトギスが来て鳴くという歌も多い。また橘には、「その花の香りを嗅ぐと昔を思い出す」という歌もある。さて、この巻のストーリーは、ホトトギスならぬ光源氏が昔の思い出を語りに橘の香る花散里の館にやって来るというもの。そしてその後も彼女は、光源氏にとって「昔なじみの癒やし系」的な存在として、物語の中で静かな存在感を発揮し続ける。「源氏物語」と和歌の世界は、かくも深くつながっているのだ。