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6.紫式部の恋 続き1 喪失 宣孝の死 (紫式部ひとり語り)
山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集
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続き1 喪失 宣孝の死
そして冬に入った頃から、疫病が猛威を振るい始めた。流行は鎮西から始まり都へと襲いかかって、疫死者が後を絶たない事態となった(「日本記略」十一月是月(ぜげつ:このつき?)・今年冬)。そんな中、空に月を挟んで東西に二つの雲の筋がかかる。「不祥( 不吉であること)の雲」である。
月は后の象徴、この雲は后への凶兆である。まさにそれはあたって、十二月十五日夜半から翌十六日未明にかけて、かねてより東三条院様がご滞在の平惟仲宅が火災で全焼、女院様は道長殿の土御門殿に避難されたが、ご容態が急変、危急の事態となった。
それと全く時を同じくして、一条天皇の皇后定子様がご出産、女皇子はうまれたものの定子様は崩御されてしまう(以上「権記」十二月十五・十六日)。定子様といえば、私が越前に下向する直前の長徳二(996)年五月、ご実家の没落と共に出家されたにもかかわらず、翌年再び天皇に迎えられて、きさきに復帰された方だ(「小右記」長徳三年六月二十二日)。
前代未聞の復縁は、ひとえに帝のご愛情の深きによる。後ろ盾のないきさきへの御寵愛に貴族たちからの風当たりも強く、彰子様の入内と相前後して一の皇子をお産みになったものの、世は歓迎しなかった。やがて彰子様が中宮に立たれ、定子様は皇后の名を与えられながらもすっかり圧倒されていると拝察された。その挙句の非業の死だ。
世とはなんと騒がしく、また脆いものなのだろう。災禍、病、苦しみ、そして死。確かなものはどこにあるのか。定子様は享年二十四と聞く。帝もまだ二十二歳だ。私とて彼らと同世代だ、思うところが無いではなかった。だが私はこの頃には、未だそれを自分のこととして感じていなかった。
定子様の四十九日にあたる二月五日は、たまたま春日祭りの前日だった。勅使に支障ができ、宣孝は代理を打診されたが、「かねてから痔がよくないから」と断った(「権記」二月五日)。そうしたささいなことがずっと続くと、私は思っていた。
それが絶たれた。宣孝は疫病にかかり死んだ。私は正妻ではないので、夫と一緒に住んではいない。だから死に目に会うことはできなかった。私にとってその死に方は、不意に消えたも同然だった。
次回「続き2 喪失 宣孝の死」につづく
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