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7.紫式部の恋 続き2 喪失 宣孝の死 (紫式部ひとり語り)
山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集
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続き2 喪失 宣孝の死
宣孝の死後しばらくの間、私は時間の感覚を無くしていたように思う。妻が夫の喪に服する期間は一年。宣孝は夏に亡くなったので、決まりにより私は一年間を夏の喪服のままで過ごした(「小右記」長和三年十月四日)。
ある時、知人から手紙が来て「この春は帝も喪に服していらっしゃる、悲しい春だ」という。春というのだから、もう翌年になっていたのだ。そう言えば年末に、長く病でお苦しみになっていた東三条院様がとうとう亡くなられて、帝が喪に入られた(「日本記略」長保三年閏十二月二十二日)。
女院の崩御なので、子である帝だけではなく天下が喪に服する。だからその春は、世の中の誰もがみな喪服を着ていたのだ。前からずっと喪服姿でいた私は気がつかなかった。だが、私の衣と皆の衣は違う。私の喪服は夏衣。女院が亡くなられたのは冬だから、皆の喪服は冬衣だ。
何かこの ほどなき袖を 濡らすらむ 霞の衣 なべて着る世に
[どうして私ときたら、この取るに足らぬ分際の、薄い夏衣の袖を涙で濡らしているのでしょうね。天下がなべて女院様のために喪服を着ている世の中で、私一人が違う喪服を着て、私一人が違う涙を流しているのですね。] (「紫式部集」41番)
女院様の大規模な喪を思うと、それに比べて宣孝がどれほどちっぽけな存在だったかが痛感される。たかが正五位下の下級貴族どまりで死んだ宣孝と、帝の母で女として初めて院の称号まで受けられた東三条院様とでは、生きていた時も違うが、死んでからも扱いが違いすぎる。世の中とはそういうものだと、私は初めて知った。
いや、これまでもよく知っているとは思っていたのだけれども、それは形ばかり知った気になっていただけだったと分かったのだ。人ひとりの死に、こんなにも思い軽いの差があるのだ。本当に侘しい、哀しい。
次回「続き3 喪失 宣孝の死」につづく
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