山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集
時は飛び、匂宮二十五歳の春である。
その頃按察使(あぜち)大納言(幼名・紅梅、のちに弁少将)と呼ばれていたのは、光源氏の悪友にして好敵手であった故致仕大臣(かつての頭中将)の次男だった。兄の柏木亡き後、一族の柱として帝の覚えめでたく出世した彼もすでに五十四、五歳で、最初の北の方を亡くし、同じく夫の蛍兵部卿宮に死なれた真木柱(故髭黒の娘)と再婚していた。
亡き北の方との間の大君(おおいぎみ)と中の君、真木柱の連れ子の宮の御方と、三人の娘の行く末を大納言は思案し、先ず大君を東宮妃とした。東宮には右大臣・夕霧の長女が嫁いで寵愛を 受けていたが、藤原一族の本懐を遂げたいと負けん気を奮ったのである。
続いて大納言は、中の君は匂宮へと望む。一方、宮の御方は実母の真木柱にも顔を見せぬほど内気で、大納言が訪ねても打ち解けない。その庭先の紅梅の枝を匂宮のために折り取ろうとして、大納言はふと往年の光源氏を思い出す。匂宮や薫が今どんなによい世評を受けていようが、あの光源氏には比べものにもならない。だが大納言は、匂宮を光源氏の形見と拝しようと思い直す。
匂宮はどうも中の君より宮の御方がお目当てのようで、母の真木柱は対応に惑う。匂宮が女好きでお忍びの恋人も多く、宇治の八の宮(故桐壺帝の息子)の姫君のところへもしげしげと通っているからだ。信頼できないが高貴な匂宮を無下に拒むこともできず、真木柱は優柔不断な態度をとり続けざるを得ないのだった。
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左近の”梅”と右近の”橘”
内裏紫宸殿の前庭にあるのは、左近の桜と右近の橘。ひな祭りの飾りとしてもお馴染みの二つだが、実はこの左近の桜、もとは「左近の梅」だった。「続日本後記」には、仁明(にんみょう)天皇(810~850)の承和(じょうわ)十二(845)年、皇太子や臣下たちがこの梅の枝を髪に飾り、楽に興じたとある。
当時といえば、例えば在原業平が二十一歳の頃である。彼が殿上人となるのはもう少し先のことだが、あるいは地下(じげ)の官人として庭に立ち、左近の梅を見ていたかもしれない。梅が桜に植え替えられたのも同じ仁明天皇の世のことという(「古事談」巻六)から、業平は植え替えの様子をみていたかもしれない。
梅は中国が原産で、奈良時代に入って日本に渡った。なるほど日本神話に登場しないわけである。「万葉集」には梅を詠んだ歌が百二十首近くもあり、桜の四十首余りを大きく引き離す。
縄文時代から日本にあった桜に対し、先進国中国の香りを文字通り馥郁と伝える梅は、奈良朝の知識人たちの異国趣味をかき立てたのだ。
紅梅は平安時代になってから渡来したらしい。