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4-3.伊勢は宇多院の寵幸があって皇子を生む
馬場あき子氏著作「日本の恋の歌」~貴公子たちの恋~ からの抜粋簡略改変版
伊勢がいったん仲平に捨てられた過去があることを知っている者たちは、この歌にこもる悲しみの心情を読み取って哀れに思った。
しかし、伊勢の運命は思わぬ展開をみた。多くの人々からの誘いには一切乗らないで、宮仕えに心を集中して励んでいるうち、「時のみかどめしつかひたまひけり」という。宇多院の寵幸があって、ついに皇子が生まれたのである。
これには、「平凡な男と結婚させたくない」と考えていた父もびっくりしたであろうが、伊勢自身は「よくも今まで男性関係をまじめに保ってきた」と評価し、父母も「いみじうよろこびけり」としている。だがじっさいには、なかなかむずかしい立場であったろう。仕えている女御温子の夫である宇多院の皇子を生んだのであるから。
伊勢は嬰児を桂の別邸に養育させつつ、相変わらず温子に仕えていた。温子は思いやり深く、ある雨の降る日、ぼんやりと物思いしていた伊勢に、「月のうちにかつらの人をおもふとやあめに涙のそひて降るらん」と詠みかけられ、伊勢は感謝のこころをこめて、「ひさかたの中においたる里なればひかりをのみぞ頼むべらなる」と返歌して、その庇護を依頼するような場面もあった。
宇多院の後宮は華やかで、温子の他にも女御胤子(いんし)、女御橘義子、菅原衍子(えんし)、橘房子、更衣源貞子、それに譲位後に、京極御息所などが数えられた。伊勢が生んだ皇子は数歳で夭折したと「伊勢集」はいう。伊勢の歎きはひととおりでなく、「よにあらじ」とまで思いつめ「夜ひる恋ふる」ありさまだった。
宇多院は寛平九年(897)に醍醐天皇(女御胤子所生)に譲位されたが、醍醐天皇の御生母の胤子はその前年に亡くなられており、天皇は温子を敬重して中宮とされた。伊勢の生んだ皇子の夭折はいつ頃のことであったのだろう。
温子が伊勢を身近につねに置きたく思ったのは、物語的な場の創出に、興味をもつ趣向性に共通の点があったからであろう。二人の間には、折ふしの和歌の贈答の中に、すでにそれを楽しむ雰囲気がある。
伊勢はそんな温子を、「きさきの御心かぎりなくなまめきて、よにたとへむかたなくおはしましける」とたたえているが、ある秋、里に下っていると、温子からお使いが来た。「などかいままではまい(ママ)らぬ。おそくまい(ママ)るめれば、ざうしの松虫もなきやみ、花さかりもすぎぬべし」という出仕の催促がきた。
つづく(「伊勢」と「小野小町」をランダムに選んでいきます。つぎも「伊勢」の予定)
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