夕霧と落葉宮の贈答 (源氏物語)
馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」一部引用再編集
*******
柏木の亡きあと、親友だった夕霧は未亡人となった柏木の正室女二宮の傷心を慰めにゆき、好意をもつようになった。女二宮は母君(一条御息所)の病気を機に郊外の小野の里に移り住み都からは遠くなったが、仲秋のある日、夕霧はこの小野の山荘を訪れた。
夕暮れの空の気色は霧がかかりそめ、涼しげに蜩(ひぐらし)が鳴いて、垣根には撫子の花が咲き靡(なび)き、前栽の秋の花は思い思いに咲き乱れ、水の流れる音も涼しくひびいているという情景である。
侍女たちは母一条御息所の看護に侍っており、女二宮と夕霧はしめやかに秋の風情を眺めている。夕霧は二十九歳、女二宮は二十四、五歳で、すでに男女の間についても経験を積んできた年齢である。しかし思慕は一方的に夕霧の方にあって、女二宮は全くあり得ぬけしからぬことだと考えている。霧はしだいに深くなってきた。夕霧は今夜はここで女二宮と明かしたいと思う。
山里のあはれをそふる夕霧にたち出でむそらもなき心地して
「夕霧」 夕霧
返し
山がつのまがきをこめて立つ霧もこころそらなる人はとどめず
女二宮
ともに下句に真意を述べているが、もちろん女二宮の返事は泊めることはできないといっている。しかし、生真面目を通してきた夕霧だが、小野の里まで来たからには、さすがに押しつよく、女二宮のつれなさをなじる。「中空(なかぞら:中途半端)なるわざかな。家路は見えず、霧のまがきは、立ち止まるべうもあらず。やらはせ給ふ。月亡き人(恋に不似合いな人)は、かかることこそ」などと言って、帰る気配はなく、かえって積る思いをほのめかし口説くのだった。
夕霧とはこういう人だったのかとびっくりする執拗な口説きの一夜がこのあとにつづくが、夕霧はついに御簾の中に入り、隣室に逃げきれず半ば障子を抑えている女二宮を可憐にも哀れにも、なつかしく見るのだった。
女二宮のことを「落葉の宮」とも呼んでいる。それは生前の柏木が、女二宮の異母妹女三宮に執心したころ、ひそかに二人の宮を比較して、「もろかづら落葉を何に拾ひけむ名はむつましきかざしなれども」と詠んだことによる。葵祭の日にかざす二葉葵はむつまじく揃って葉二つなのだが、私はなぜその落葉となる方を拾ってしまったのかというのだが、落葉とうたわれた女二宮にはずいぶん気の毒な歌である。それはたぶん柏木の女三宮への恋の思い込みの激しさからだが、夕霧はいま、その落葉宮にこれほどまでに心を奪われているのである。
その夜、夕霧は落葉宮に触れることなくすごしたが、落葉宮と夕霧の行きちがう思いは歌にもみえている。
われのみやうき世を知れるためしにて濡れそふ袖の名をくたすべき
「夕霧」 落葉宮
返し
おほかたはわれぬれぎぬをきせずともくちにし袖の名やはかくるる
夕霧
これをみると、落葉の宮は柏木との結婚を経て、男女の道というものを心得た女人とされているのに、未亡人の立場で男を受け入れることがあったら、世間は自分のことを何というだろう。さらに涙で濡れまさる袖は朽ち、私の名も朽ち汚れるだろう、と悩んでいる。
しかし、夕霧の方は度胸が据わっていて、「私がたといあなたと事実何事もなかったとしても、こうして一夜を明かしたからには浮き名は漏れ、それは事実とは別にひとり歩きするもの。もう逃れられませんよ」と、脅しともなく、覚悟ともなくうたいかえしている。こんな図太い夕霧をみるのは読者にとってはじめてのことである。
参考 馬場あき子氏著作
「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます