宣孝の死をうけて、紫式部の内面は大きく変化しました。
「世」という抵抗できぬ現実を痛感しながらも、寂しいことだし、つらさが癒えたわけでも全くないけれど、日常は次第に落ち着いてきていることに気づいたのです。そして、紫式部は自分は「身」であるだけではない。自分の中には「心」という部分もあったではないか。心こそが、自分を絶望させたり泣かせたりしていたのだ。その時はそれが「身」の現実を拒んでいたからだ。でも心には、現実と向き合い、それに寄り添うという在り方もあったのだ。
不本意な現実を認めるのは、つらいし悔しい。だが結局は、人は現実を認めざるを得ない。これを諦めというのだろうか。そうした境地もあったとは、心とはなんと寂しいものだろう、そして何と優しいものなのだろうか。
紫式部は宣孝が生前に口ずさんだ歌を思い出しました。正妻の継娘(ままむすめ)が病気になった時は、娘の回復と将来を祈った。それらは自分の心がしたことだ。あの時心ははっきりと、現実ではない所に飛び立っていた。死んだはずの宣孝の声が聞こえたし、幼い娘の成長する姿が浮かんだ。
そうだ心とは現実に縛られないものなのだ。紫式部は発見に気分が高揚するのを感じた。
心は現実にひれふさなくてよい。現実を我儘勝手に動かすことはできないが、心の中ではどんな我儘勝手をしようが自由だ。
紫式部は、身ではなく心で生きようと思いました。こうして紫式部は変わりました。現実を生きながら、もう一つそれとは違う世界、心の世界を生きる人間になったのです。
参考 山本淳子著 紫式部 ひとり語り