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8- 平安人の心 「花宴:朧月夜との顔を見ない恋」

山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  光源氏二十歳の春、内裏ではニ月二十日過ぎに紫宸殿の桜の宴が執り行われた。詩会や舞楽が行われ、光源氏はどちらも際立った才を見せ讃嘆される。藤壺中宮はその様子に「ただ傍で見ているだけだったならば、何のわだかまりもなくめでられるものを」と、心の内で和歌を詠むのだった。
  宴の終わった後、ほろ酔い加減の光源氏は藤壺の殿舎の辺りで様子を窺うが、戸締りが厳重で忍び込めない。心の火照りがおさまらず弘徽殿を見ると、戸が開いている。光源氏は忍び込み、暗がりのなか「朧月夜に似るものぞなき」と口ずさみながらやってきた女をとらえて、そのまま一夜の契りを交わす。
  女は弘徽殿の女御の家族と思しいが、はっきりしない。去り際に交換した扇だけが手がかりのまま一カ月が過ぎた頃、光源氏は弘徽殿の女御の父・右大臣の邸での藤の宴に招かれる。実は、あの朧月夜の女は右大臣の六女で、4月には東宮に入内と決まりつつも、光源氏に心を奪われ、思い乱れていた。藤の宴で、光源氏は酔ったふりをして女をさがす。そして「扇」という合言葉にため息で応えた女の手をとらえる。政敵の娘にして兄(東宮:異母兄)の婚約者でもある朧月夜との、激しくも危険な恋のはじまりだった。
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  「逢坂(あふさか)の関」という言葉がある。字義通り逢坂山にあった関所のことだが、平安時代、これは男女の一線を意味する言葉でもあった。男と女が「逢ふ」ことが、単に対面するだけではなく、契ること、つまり性的関係を持つことを意味したための洒落である。同じように「見る」という言葉も、一つには男女が契ることを意味した。「逢い見てののちの心に比ぶれば 昔はものを思はざりけり (男女の間柄になってからのせつなさに比べれば、こうなる前の気持ちなど、恋の悩みのうちにも入らなかったなあ)」。小倉百人一首に入る藤原敦忠のこの歌は、実はかなりセクシーな内容のものだったのだ。
  さて、敦忠の歌は「昔はものを思はざりけり」と言っている。「逢い見る」、つまり契りを交わすより前のことだ。その時にも、もちろん恋はしっかり始まっている。平安時代の和歌の聖典ともいえる「古今和歌集」は三百六十首もの恋を載せているが、うち百首以上は「逢わざる恋」、まだ契りを結ばない段階の恋歌だ。ときめく恋の予感、秘めた想い、胸きゅんの片思いなどは、昔と今とを問わない恋の王道だろう。だが平安時代が現代と大きく違うのは、こうした「逢わざる恋」が、文字通りほぼ「顔を見ていない」状態を意味したということである。

  平安の恋は噂話から始まる。どこぞに美人の姫君がいる、琴の上手な女君がいる。噂をばらまく役は、大方女房が務める。聞きつけて心をそそられた殿方はせっせと和歌を詠み女房に託す。これが「逢わざる恋」の歌だ。顔を見なくても想いはどんどん募る。やがて家族や女房からOKが出れば、縁に上がることが許され、御簾などを隔てた「物越し」の対面。かすかな衣擦れの音や、うまくいって声などが聞こえでもすれば、テンションはますます上がる。頃合いをみて、御簾の下から手を握る。御簾から半身だけ体を入れる。するりと中に入って、ようやく対面、つまり逢瀬である。

  だが、実はここに至っても、恋人たちが互いの顔をまじまじと見合ったかといえば、必ずしもそうでないことも多い。平安の夜は暗い。室内に灯りがなく月の光も届かなければ、ほぼ漆黒の闇。手探りの触覚、声や息遣いの聴覚、焚き染めた香を感じ取る嗅覚が頼りだ。もちろん顔の美醜は恋において大きなウェートを占めていたのだが、いかんせん照明
事情が今とは違いすぎること、また逢瀬が基本的に深夜のものであることが、密着しているのに顔が見えない。深い関係なのに顔を知らないという不思議な状況をつくってしまう。

  「源氏物語」には、こうした状況が幾度も描かれている。例えば「帚木」の巻。光源氏が忍び込んだ空蝉の寝所にはほの暗い灯りがともるだけで、空蝉について光源氏が認識できたのは、ただとても小柄だということだけだった。
  また、「末摘花」では、光源氏は「闇の中、おぼつかない手探りだったせいで、妙に納得しかねる様子を感じた」。そのせいでどうしても「顔を見たい」と思った。光源氏は後日、その驚きの容貌を見てしまった。

  ところで、月の光さえ差せば、平安の夜もそう暗くはなかった。当時は太陰暦なので、日付はそのまま月齢となり、月の出や月の入りの時刻、晴れていればどれだけの明るさが望めるかが、おおむね分かる。例えば光源氏と朧月夜の一夜の契りの巻「花宴」の舞台は二月の二十日余り。この日の夜は二人の出会いの場は、弘徽殿の細殿の西側のため、月光は明け方まで差し込まない。紫式部が設定した大胆な逢瀬は、このようにお膳立てされたのだ。
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