ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
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負けず嫌い と 負け鈍感

2017-07-24 21:55:23 | 日々の暮らし・思い出

じゃんけんで負けた人が残ったお菓子をもらえることにしようということになり、

まぁ、年老いた人が子供のお菓子の取り分を減らすのもなんなんで、

この勝負、私は降りたんだけれども・・・

7才が勝った。すると、7才は泣き出した。

こういう場合、いつも7才は怒るけど、今日は泣いた。

真剣に泣く。涙をぽろぽろこぼして泣く。

いわゆる「負けず嫌い」という奴なんだろう。

今日の場合は勝った方がお菓子をもらえないというルールだったけど。

「負けず嫌い」を広辞苑で調べると、

強情で他人に負けることをとりわけいやがること。かちき。とあったよ。

負けず嫌いという傾向は持って生まれたものなんだろうなぁと思う。

育った状況でなってきたものだとは思えない。

 

何故か負けず嫌いなのだ。何故かそうなのだ。

おぎゃあと生まれた時から、何故かこうなのだ。

反対に、負けても悔しいと思わない負け鈍感人も何故かそうなのだ。

おぎゃあと生まれた時から、何故かそうなのだ。

努力して美人に生まれるわけではないのと同じで。

まぁ、負けず嫌いな自分を変えたいと、取り組んでそうなることもあると思うけれど。

負けず嫌いだと負け鈍感より悔しさというストレスは多いのかと思う。

負け鈍感も負け鈍感以外の面で又別のストレスがあると思うけど。

負けず嫌いの人は向上意欲が強いといえるんじゃないか。

その勝負に勝とうとして頑張る努力家になるともいえる。

仏教の言葉かな、「少欲知足」というのがある。

今、広辞苑を見たら「知足」というのは老子の言ったことのようだ。

その意味は現状を満ち足りたものと理解し、不満を持たないこと。とある。

欲が少ないと苦しみがないのは当たり前だ。

欲しくても得られないというストレスが元からないんだから。

 

私は子供の頃から体育も苦手で、走るのも遅く、

ボール投げも上手に投げられず、

ドッジボールの球が飛んで来るのが恐く、

バレーボールの球も打ち方がわからず、

跳び箱も飛べず、

逆上がりも出来ず、出来ない尽くめだった。

運動会は恥ずかしいことばかりで好きじゃなかった。

恥ずかしく思うのはそういう姿がみっともない、と思ったからだ。

そりゃ、多くの面前で美しく速く走れるのは格好がいい。

けれど、また跳び箱の授業だぁと、うんざりした覚えがない。

また、鉄棒やらなくちゃならないのかと嫌になった覚えがない。

幾らできなくても、跳べるようになりたい、逆上がりができるようになりたい、

という欲求が強くなかった。

そりゃ、出来たらいいなぁというのはあったけど、

すぐにあきらめる傾向も昔からあった。

出来なくたっていいや・・・これ。

出来ない自分に不満がない。

まさしく身体能力に対しては少欲知足だ。

だからのほほんと体育音痴でずっと来た。そのせいでだろう、

骨密度というのをこの前初めて測ってもらったら低かった。

若い頃運動をうんとしてきた人の骨密度は高いらしい。

骨は筋肉なんかと違って簡単にできないそうだからね。

でも、今更しょうがないし、まぁ、筋肉でも鍛えるかとは思ってる。

骨折して痛い思いをするのはいやだなぁと思うから。

う~んと、長ったらしく書いてるけど、

向上心がなく、足りない足りないともがかず、

出来なくたっていいもんで来た横着者が、

多くを望み、頑張る人よりそういうストレスが少ないというのは

公平じゃないという気がする。

まぁ、美人に生まれなかった私もそのへんは公平じゃないとはよく思うけど、

もうそれについてはあきらめの境地にいるからいいんだけどね。

だから、この世は本当に平等じゃない。

努力なんてちっぽけなもんだと思ってしまう。

何にもしない方が世のため人のため地球のため宇宙のため・・・

と、こんなふうに短絡的に思ってしまうのも悪い癖か・・・