「“各々の立場で真実それに自己を生かす”」(19㌻)というのも、
他の獣性を引き出さず、
他の人間性を引き出すような心の在り方で居ること、
そしてそこからの行為をすることというのを、
ここでも云っているのかと思う。
人間は相対的なものだかから、
一つの言動がひとや場合によって、長所にも短所にも観える。
相手の言動、状態を“長”と観て、行為した時に相手はどう“なった”か、
“短”と観て、行為した時に相手はどう“なった”か、
一回一回、目を見開いて観ることだなぁと思う。
けど、その一つの言動だけを見ると、
どうしても“短”としか観えないことも多い。
でも、“よくないこと”だと観えて、
嫌だと感じた時にそれを我慢するのは大きな間違いだ。
我慢するということ自体、自分の嫌だという、その感覚を否定している証拠と思う。
良くないと捉えているからこそ、隠したくなるのだから。
(こういうのも人間の、善を希求してしまう本性があるゆえと思う)
馬鹿にされても仕方ない、あの人は賢い人だし・・とか、
あの人にそんな事言えないとか・・・
嫌だなぁと思うことはこの世にたくさんある。
殺人、暴行、恐喝、傷害、戦争、いじめ、虐待、とか、
相手を馬鹿にしたり、蔑んだり、ひとの意志を全く無視するような言動は嫌だ。
そんなふうな美しくないものは見たくない。
そういうことはなくなればいいと思う。
それが自動的に消える、無くなり方というものがあるはず。
それが相手も繁栄し、自分も豊かになる方法と思う。
自他のどんな言動でも生まれつきのものと、
環境との相互作用でそうなったものであると、
心底ガッテンすれば、その言動は否定できなくなるけれど、
否定できないということと、
それがイヤだと感じることは別次元のこと。
イヤだと感じるのは人間が相対的な在りようをしていることの大きな利点だ。
私たちには生まれつき、美しいものを美しく感じる心と、
美しくないものを美しいと感じない心がある。
ひとの意思を無視したり、蔑んだりする言動には“なるだけのプロセスが在った”ことにガッテンが行けば、
そういう言動が在ることを否定できなくなるし、
否定できない心になれば、相手を非難することも“出来なくなる”。
そういう心境で居ればこそ、
そのことはイヤだと非難無しに、はっきり言える(行為する)ものだ。
するとその相手は必ず繁栄の方向に行く。
非難が自分の中に在ることで、言いにくくなるという現象は、
見事に人間性が表われているものと思う。
非難することが美しいと感じられない人間の本性が自分のうちにあるからだ。
「真実、それに自己を生かすことによって、闘争等絶対起こるものでなく、
却って工場は繁栄し、自己を豊かにします。」・・・
“真実”に自己を生かすことが、自己も他も豊かにすること。
無評価・無批判の心境で居ること、
ひとは元々美しいものを希求してしまうものであること、
この二つが世界が美しいものになるためのもの。
世界は必ず美しいものになると思う。
他の獣性を引き出さず、
他の人間性を引き出すような心の在り方で居ること、
そしてそこからの行為をすることというのを、
ここでも云っているのかと思う。
人間は相対的なものだかから、
一つの言動がひとや場合によって、長所にも短所にも観える。
相手の言動、状態を“長”と観て、行為した時に相手はどう“なった”か、
“短”と観て、行為した時に相手はどう“なった”か、
一回一回、目を見開いて観ることだなぁと思う。
けど、その一つの言動だけを見ると、
どうしても“短”としか観えないことも多い。
でも、“よくないこと”だと観えて、
嫌だと感じた時にそれを我慢するのは大きな間違いだ。
我慢するということ自体、自分の嫌だという、その感覚を否定している証拠と思う。
良くないと捉えているからこそ、隠したくなるのだから。
(こういうのも人間の、善を希求してしまう本性があるゆえと思う)
馬鹿にされても仕方ない、あの人は賢い人だし・・とか、
あの人にそんな事言えないとか・・・
嫌だなぁと思うことはこの世にたくさんある。
殺人、暴行、恐喝、傷害、戦争、いじめ、虐待、とか、
相手を馬鹿にしたり、蔑んだり、ひとの意志を全く無視するような言動は嫌だ。
そんなふうな美しくないものは見たくない。
そういうことはなくなればいいと思う。
それが自動的に消える、無くなり方というものがあるはず。
それが相手も繁栄し、自分も豊かになる方法と思う。
自他のどんな言動でも生まれつきのものと、
環境との相互作用でそうなったものであると、
心底ガッテンすれば、その言動は否定できなくなるけれど、
否定できないということと、
それがイヤだと感じることは別次元のこと。
イヤだと感じるのは人間が相対的な在りようをしていることの大きな利点だ。
私たちには生まれつき、美しいものを美しく感じる心と、
美しくないものを美しいと感じない心がある。
ひとの意思を無視したり、蔑んだりする言動には“なるだけのプロセスが在った”ことにガッテンが行けば、
そういう言動が在ることを否定できなくなるし、
否定できない心になれば、相手を非難することも“出来なくなる”。
そういう心境で居ればこそ、
そのことはイヤだと非難無しに、はっきり言える(行為する)ものだ。
するとその相手は必ず繁栄の方向に行く。
非難が自分の中に在ることで、言いにくくなるという現象は、
見事に人間性が表われているものと思う。
非難することが美しいと感じられない人間の本性が自分のうちにあるからだ。
「真実、それに自己を生かすことによって、闘争等絶対起こるものでなく、
却って工場は繁栄し、自己を豊かにします。」・・・
“真実”に自己を生かすことが、自己も他も豊かにすること。
無評価・無批判の心境で居ること、
ひとは元々美しいものを希求してしまうものであること、
この二つが世界が美しいものになるためのもの。
世界は必ず美しいものになると思う。