今朝起きてすぐに畑に行った。
用事を済ませて畑の傍を流れる川の淵を歩いているときに、
娘はもう起きてるかな・・・という思いが浮かんだ。
浮かんだ途端に、そうだ、もう居ないんだ、と気が付いた。
畑に来て家に帰ると、
眠そうな顔をして階段を降りてくる娘の姿を何度も見た。
一緒に過ごした時間が長いと、その記憶が生活の場の中にたくさん刻まれていて、
折に触れ、それがよみがえるんだ。
そして、今はもう居ないと確認することになる。
その喪失感が寂しさなんだな。
もし、東京の娘の家に長く居て、こっちに帰って来たとしても、
生活の場に刻まれた記憶はないからそれほど寂しさなんて感じない気がする。
今も数日で思いは浮かばなくなるんじゃないかと踏んでいる。
私が石垣に居る間、夫が石垣に来て一週間で帰ったとき、
狭いアパートに夫の痕跡がたくさんあって、当日と翌日はその喪失感で泣けたけど、
多分三日目くらいからはそんな思いは出て来なくなったからね。
今回は涙が出ることはなかったなぁ。
結構なことじゃないか。
用事を済ませて畑の傍を流れる川の淵を歩いているときに、
娘はもう起きてるかな・・・という思いが浮かんだ。
浮かんだ途端に、そうだ、もう居ないんだ、と気が付いた。
畑に来て家に帰ると、
眠そうな顔をして階段を降りてくる娘の姿を何度も見た。
一緒に過ごした時間が長いと、その記憶が生活の場の中にたくさん刻まれていて、
折に触れ、それがよみがえるんだ。
そして、今はもう居ないと確認することになる。
その喪失感が寂しさなんだな。
もし、東京の娘の家に長く居て、こっちに帰って来たとしても、
生活の場に刻まれた記憶はないからそれほど寂しさなんて感じない気がする。
今も数日で思いは浮かばなくなるんじゃないかと踏んでいる。
私が石垣に居る間、夫が石垣に来て一週間で帰ったとき、
狭いアパートに夫の痕跡がたくさんあって、当日と翌日はその喪失感で泣けたけど、
多分三日目くらいからはそんな思いは出て来なくなったからね。
今回は涙が出ることはなかったなぁ。
結構なことじゃないか。