何かをしているとき、しようとしてるとき、この後でしようと思っているとき、
それを声に出すというのを意識して(意識するのを忘れてる時以外)、
やっていると、
やはり効果が感じられる・・・ような感触を持っております。
(手の甲に「口」とか「言う」とか「声」とか書くのはやめました。
書いても書かなくてもあまり変わりがなかったから。)
その時の都合で定位置以外の場所に物をひょいと置いたときなんかに、
「ナンタラをカンタラに置いた」とつぶやくとか、
「ナンタラのために今コレをやっている」とかつぶやいてる。
「この作業の後にアレをする予定」とつぶやいたりするのも効果あって、
それを忘れないでやるよう。
まだ私たちが東京に住んでいた頃、夫が義父に
呆けないための計算ドリルのような本を送ったことがあったんだけど、
それがあったのを思い出して引っ張り出して見てみた。
その本は簡単な計算問題を素早く解くのと、
音読との二つの方法が呆けないためのトレーニングという主旨だった。
やはり、そうなのかも、と思った。
黙読しているときの脳の写真と、音読をしているときの脳の写真が載っていて、
音読の方がずっと脳が活発に動いているという説明があった。
明治時代までだったか、その時期は忘れてしまったけど、
日本人は黙読という習慣はなく、読むときは音読だった、
というのを何かの本で読んだことがあるんだけど、
そのせいもあって多くの人々は今の多くの人より賢かった・・のかもしれない。
勝手な推測よ。
音読が黙読よりなんらかの効果があるとその頃の日本人は知っていたんだろうか・・・
ただ単に黙読がある、というのを知らなかった・・?
そんなはずないね~
でも、自分が自分の思いや行為を口に出すというのは
自分をかなり客観視できる方法かと思ったよ。
ということは・・・
自分をそのときそのとき客観視出来ている間は呆けないということか・・・
けれど、これだよ・・・
それを声に出すというのを意識して(意識するのを忘れてる時以外)・・・
それを声に出すというのを意識して(意識するのを忘れてる時以外)、
やっていると、
やはり効果が感じられる・・・ような感触を持っております。
(手の甲に「口」とか「言う」とか「声」とか書くのはやめました。
書いても書かなくてもあまり変わりがなかったから。)
その時の都合で定位置以外の場所に物をひょいと置いたときなんかに、
「ナンタラをカンタラに置いた」とつぶやくとか、
「ナンタラのために今コレをやっている」とかつぶやいてる。
「この作業の後にアレをする予定」とつぶやいたりするのも効果あって、
それを忘れないでやるよう。
まだ私たちが東京に住んでいた頃、夫が義父に
呆けないための計算ドリルのような本を送ったことがあったんだけど、
それがあったのを思い出して引っ張り出して見てみた。
その本は簡単な計算問題を素早く解くのと、
音読との二つの方法が呆けないためのトレーニングという主旨だった。
やはり、そうなのかも、と思った。
黙読しているときの脳の写真と、音読をしているときの脳の写真が載っていて、
音読の方がずっと脳が活発に動いているという説明があった。
明治時代までだったか、その時期は忘れてしまったけど、
日本人は黙読という習慣はなく、読むときは音読だった、
というのを何かの本で読んだことがあるんだけど、
そのせいもあって多くの人々は今の多くの人より賢かった・・のかもしれない。
勝手な推測よ。
音読が黙読よりなんらかの効果があるとその頃の日本人は知っていたんだろうか・・・
ただ単に黙読がある、というのを知らなかった・・?
そんなはずないね~
でも、自分が自分の思いや行為を口に出すというのは
自分をかなり客観視できる方法かと思ったよ。
ということは・・・
自分をそのときそのとき客観視出来ている間は呆けないということか・・・
けれど、これだよ・・・
それを声に出すというのを意識して(意識するのを忘れてる時以外)・・・