日々の聖書(10)―――富と貧しさ
富貴の人に気に入られようとする者は多く、贈り物をくれる者には誰しもが友だちになる。だが貧しい者は、兄弟にすら憎まれる。まして友人たちはいっそう彼から遠ざかる。貧しい者の言葉には誰も耳を傾けない。
(箴言第十九章第六~七節)
富は多くの友人を作るが、没落して貧して窮した者には、兄弟や信じていた親友すら離れ去る。このような事実を体験するのは、バブル経済に天国と地獄を体験した平成の世の日本人のみに限らないらしい。
紀元前200年、300年もの昔に作られた聖書の『箴言』のなかにもこのように語られているからである。砂漠に生きたアラブ人、ユダヤ人、エジプト人たちもそうだったらしい。人間の本性というのは、古今東西そんなに変わらないことがわかる。
豊かになるにしても貧乏になるにしても、実際の世の中は、往々にしてままにならないものである。人は誰しも好むと好まざると、運命の巡り合わせから、不本意な境遇に陥ることはある。人間の生はもともと不安である。だから誰しもそれなりの覚悟はしておけということなのだろう。
私たちは、この聖書の言葉から、何を学ぶことができるだろうか。それは第一に人間のもって生まれた弱さだろう。そうした行為は弱さから来るからだ。もちろん、人間にはもって生まれた強さというものもある。しかし、弱い人間の限界の一面として、この箴言が記しているような態度をとる人間は多い。それを恨んでも仕方のないことである。
それは人間の弱さのせいであって誰も非難はできない。だから、人は逆境に立ち至ったときのために、ふだんから人間関係にそれなりの覚悟をしておくことだろう。また一方で、そうした事態を招かないように人事を尽くすことだろう。
さらに望ましいことは、イエスを私たちの共通の絆として、同じ主と仰ぐことのできる友を得ることだろう。なぜなら、彼はその堅き信仰によって、不確かな富に望みをおかず(テモテ前6:17)、主の貧しさによって豊かであるから(コリント後8:9)。彼は、富める時も貧しいときも支えてくれるにちがいないから。
イエスを友として授かれば、ましてなおさらである。彼ならこのような態度をとることはありえない。しかし、この世ではこれが大方の人間の真実なのだろう。
富貴の人に気に入られようとする者は多く、贈り物をくれる者には誰しもが友だちになる。だが貧しい者は、兄弟にすら憎まれる。まして友人たちはいっそう彼から遠ざかる。貧しい者の言葉には誰も耳を傾けない。
(箴言第十九章第六~七節)