詩篇第百十二篇
主を誉めたたえよ。
何と幸いなことか、主を畏れる人は。
彼は主の戒めをまことに歓ぶ。
彼の子孫は地上の勇士となり、
正しい者たちの世代は祝福される。
彼の家は富と財産に満ち、
彼の正義は永遠に揺るがない。
正直な者たちは、暗闇の中に光輝き、
豊かに恵み、憐れみ深く、正しい。
良い人は、憐れみ深く、物惜しみしない。
彼の言葉は、裁きの場でも受け入れられる。
永遠に揺らぐことなく、義しい人は永遠に忘れらることもない。
彼は悪評を恐れず、
彼の心は堅く主に信頼している。
彼の心は堅く揺るがず恐れることもなく、
ついには敵どもの敗北を見る。
貧しい人々には豊かにふるまい、
彼の正義は永遠に揺らぐことなく、
彼の角は栄光のうちに高く掲げられる。
悪人はそれを見て怒り、
歯ぎしりして消え去る。
神に逆らう者たちの願いは滅びる。
詩篇第百十二篇註解 恐れず揺るがず
ハレル(誉めよ)ヤー(主を)ではじまる賛美の歌。また、各句の冒頭は暗記しやすいように、日本のイロハかるたのように、アルファベット順に並べられている。ユダヤ人たちはそうして詩篇を暗記して昼夜口ずさむのだろう。
ここでも幸福な人とは、主を畏れる人である。しかし、たんに主を畏れるという消極的なことではなく、主の教え、主の戒めは詩人にとっては深い歓びと慰めの源でさえある。(1節)
このように主の教えを愛する人の子々孫々は、勇敢で強く、主の教えに従う人たちの世代は祝福された幸福な世代である。そんな彼の家族には豊かな富がある。
旧約では、正義と富とは一致すると楽天的に信じられている。決して間違いではないとしても、往々にして成金的な富は正義に反して得られる場合が多い。しかし、そうした富は長続きしないのだろう。
それは市場原理主義の現代でも同じだと思う。
ユダヤ人にも貧しい人は少なくないが、世界的な長者も少なくない。人口比から言えば、もっとも大金持ちの多い民族だろう。おそらくそれは、この詩篇に歌われているように、ユダヤ人には、先祖代代にわたって主の教えを愛し、正義に生きる人々が多かったことによるのだろうと思われる。キリスト教徒の場合でも同じだと思う。古い家系のキリスト教徒に裕福な家族は少なくない。富や豊かさは、もともとは神からの贈り物なのだろう。
山上の教訓で、イエスが「心の貧しい人は幸いである」(マタイ書5:3)と言ったことから、従来のキリスト教は貧しさを尊ぶ傾向が強いけれども、経済的な貧困自体は不自由なものである。貧困自体は良いものではない。本来の趣旨は、「心の貧しさ」、「謙遜」の価値を語ったものだと思う。ここで良い人、正しい人とはどのような人であるか語られる。それは、憐れみ深く、物惜しみせず与える人だという。(4節5節)そして、彼は法に従って行動するから、裁判所でも彼の言葉は信頼される。そして、何よりも、死後に行なわれる神の前での審判においても、彼の証言は受け入れられる。
また、主に信頼する人は揺るがない。(6節)だから、人から悪評を立てられても恐れない。実際に人から悪口を言われなかった者はいないだろうし、また、人の悪口を言わない人も少ないのではないか。人の口から悪口を絶つことはできないし、人間とはそうした者である。主に信頼して支えられているから詩人は悪評も恐れず、信じる道を歩んでゆく。そしてついには、敵の敗北を目に見る。そうして彼の角は主によって高く掲げられる。角とは、勝どきを上げるラッパのようなもので、それは力と支配を表すシンボルである。
正しい人がそうして主に支えられるのを見て、悪人は憤り歯ぎしりして怒るが、やがては力を失い、彼らの野望も消えてなくなるという。この詩も主の教えに忠実であることの歓びと慰めを歌っている。