主観的意志は一つの現実としての実体的生命をも持っている。この現実の中では主観的意志は本質的なものの中で運動するすることになるとともに、また本質的なものを自分の存在の目的とすることにもなる。この意味で、この本質的なもの自身、主観的意志と理性的意志との統一である。
それは人倫的な全体であり、――まさに国家に他ならない。国家は個人がその中で自分の自由をもち、これを享受する現実である。ただしそれは、個人がこの普遍者の知識、信仰、意欲である限りにおいてである。むしろ、法、人倫、国家が、またそれのみが自由の積極的な現実であり、充足である。s70
主観的意志、情熱は活動するものであり、実現を行うものである。これに対して理念は内的なものである。そして国家は現存するところの、真に人倫的な生命である。というのは、国家は普遍的、本質的な意欲と主観的な意欲との統一であり、それはすなわち人倫だからである。この統一の中で生きている個人は
人倫的な生活をもつものであり、このような実体性のなかにのみあり得るような価値をもっている。・・人倫の法則は偶然的なものではなく、理性的なものそのものである。この実体的なものが人間の現実的な行為の中と人間の心情の中とで行われ、その中に現われ、その中に実体的なものそのものが
存続するようにすること、これが国家の目的である。この人倫的全体が現存するようにすることが理性の絶対的な関心である。またこの点に、たといそれがどんなに未完成な国家であったにせよ、それぞれの国家を建設した英雄たちの意義と功績があったのである。世界史において問題になりうるのは、
ただ国家を形成した民族だけである。というのは国家だけが自由、すなわち絶対的な究極目的の実現であるということ、国家はそれ自身のために存在するものだということを、我々は知らねばならないからである。人間はそれがもつすべての価値、すべての精神的な現実性をただ国家によってのみ
もつということを、我々は知らなければならない。なぜなら人間の精神的な現実性というものは、人間の本質である理性的なものが覚知者としての人間の対象となり、それが人間に対して客観的な直接的な存在を持つようになるという点にあるものだからである。この意味でのみ人間は意識であり、
この意味でのみ人間は風習の中に生き、法律的、人倫的な国家生活の中に生きるものである。というのは真なるものは普遍的意志と主観的意志との統一であり、したがって普遍的なものは国家の中では法律の中に、普遍的な、また理性的な諸々の施設、諸規定の中に存在するものだからである。
国家は地上に現存する神的理念である。この意味で、国家は世界史全般の一段と具体的になった対象なのである。だから、この国家の中においてはじめて自由はその客観性を獲得するのであり、またこの客観性を楽しむことになるのである。というのは法律は精神の客観性であり、真の意志だからである。
したがって法律に服従する意志だけが自由である。それは、その意志が自分自身に服従することであり、その点で意志は自分自身の許にあり、自由だからである。国家、祖国が生存の共同体を形成することになり、人間の主観的な意志が法律に服従することになると、自由と必然との対立は消える。
理性的なものは実体的なものとして必然的であるが、この理性的なものを法律として是認し、これを我々自身の存在の実体と見て、これに従う点で我々は自由である。ここに客観的意志と主観的な意志とは宥和し、ただ一個の曇りない全体となる。というのは、国家の人倫は、各人の主観的な信念が
幅を利かすような道徳的なそれ、反省的なものではないからである。この主観的な信念はむしろ近世世界のものである。これに反して真の、古代の人倫の根底は、各人が自分の義務を守るという点にある。アテナイの市民はほとんど本能的に、自分のやるべきことをやった。けれども、私が自分の行為の対象を
反省するすることになると、そこではどうしても私の意志が加わるべきものだという意識を持たざるをえないことになる。しかし、人倫は義務であり、実体的な権利(法)であり、人間の第二の天性(die zweite Natur)である。人間の第一の天性はその直接的な動物的な存在であるから、