これ〔この言語習得装置〕は、これらの問題を提起し、また考察するのに有用な、そして示唆に富む枠組みであるように思われる。理論研究者というのは、一次的言語資料の集積〔複〕とそのような資料に基づき、その装置によって形成される文法〔複〕とを、a
経験的に組み合わせたものを与えられているものと考えることができる。そのような装置の入力となる一次的言語資料に関しても、またその「出力」である文法に関しても、その多くの情報が入手可能であり、その理論研究者は、b
この入・出力関係の媒介的能力を持つ装置の内在的特質を決定するという問題をもっているものである。(チョムスキー『文法理論の諸相』p54§8言語理論と言語拾得)>><<
この考えは、彼の生成文法理論そのものを貫く考えであり、その点で言語資料の分析と記述に止まっていたそれ以前の構造主義言語学に卓越する所である点に意義はない。問題はその「言語習得装置」なるものの子供における所有が、生得(すなわち出生時においても早くも所有)であるものか、a
経験(生後において作られていくものなの)なのか、という点にあるのである。個々で、チョムスキー自身のコトバで、対立説である「経験説」が何を主張し、また自身の「生得説」が何を主張しているものであるかを述べている所を整理してみる。(大久保忠利著作選集第5巻(s130))