アジアはでっかい子宮だと思う。

~牧野佳奈子の人生日記~

今日も工場日和-5 + カテゴライズに対する論考

2015-01-10 | 日本の旅

2時間、4時間、6時間…と同じ環境・同じ姿勢で単一作業を続けていると、頭の中は思考停止に陥るか、もしくは徐々に思考が移ろいで意外なアイデアがひらめいたりする。

 

私はまず、「◯◯人」とカテゴライズしてしまうことについて考えを巡らせた。

 

例のフィリピン人女子2人のお陰で、私はすっかり「フィリピン人」が嫌いになりつつあった。

フィリピンは私にとって最も身近な国であり、日本人に次いで最も多く尊敬する友人がいるにも関わらず、である。

 

そんな風に嫌ってしまうのは、私に問題があるんだろうか。

 

とりあえず自己正当化するために、過去のいろいろな記憶をたどってみた。

まず旅先で必ず聞かれるのは「何人?」であり、「日本人」と答えると、「オーゥ!HONDA!」とか「トヨタ イズ ナンバーワン!」とかいう反応が(相手が陽気な人なら)返ってくる。もしくは、「日本人は英語が下手なのに、あなたは出来るのね」と言われることも頻繁にある。それは私の英語がどうこうではなく、日本人=英語が下手、という図式が蔓延っている表れであり、それより少しでもマシな英語を喋る日本人は「例外」ということになるってこと。

逆に「何人だと思う?」と聞き返すと、韓国ビジネスが盛んな地域なら「韓国人?」と言われるし、中国企業が多く進出している所なら「中国人?」と言われる。

そこで「違う、日本人」と答えると大抵の場合は好意的に受け止められ、「いいねぇ、日本人は礼儀が正しい」とか「日本人はいい人たちだ」などと言われることもある。

「だったら韓国人はどうなの?」とか「中国人と何が違うと思う?」と更に聞いてみると、うすらぼんやり、その国における韓国人や中国人の振る舞いの一部が垣間みれたりする。

 

たとえばこんなことを言われたことがある。

「韓国人は上から目線でエラそう」@フィリピン

「中国人は自分が欲しいものに突進してきて、根こそぎ持っていく」@インド

「中国人は口うるさくて、韓国人はすぐカッとなる」@確かイギリス

(その他諸々は忘れてしまいました…)

 

日本人に対しても、たとえば日本で10年以上働いているブラジル人Kは「日本人は怖い、厳しい、悪い(威圧的)」と基本的に思っていて、そうでない友人などは「例外」ということになっているらしい。

それは彼が出会ってきた日本人の総合評価として、決して間違いとはいえないと思う。

ただ、それが全てではないことも確かであり、こんな人もいるあんな人もいると考えていけば、そもそも◯人は~と一括りになどできないことも当たり前の話。それを分かった上で、それでも◯人は~と思ってしまうのが人間心理というものではないかと思うのだ。

 

私は再びフィリピン人について考えを巡らせた。

 

最も鮮やかに蘇る記憶は、フィリピン・ミンダナオ島のダバオという街で、日本語教師のボランティアをしている元校長のY先生に聞いたことだった。

「こっちの生徒は、日本では当たり前のことが本当にできないんですよ」とY先生は何度も私に言った。

「日本では当たり前のこと」というのは、たとえば授業中にお喋りしない、先生の話をちゃんと聞く、勝手にトイレに行かない、といった類いのことで、日本なら小学校1~2年生でしっかり教え込まれる学びの基本姿勢である。

それを、フィリピンでは先生が誰も教えないためにY先生が1人躍起になって注意しているというのだった。

 

また、「フィリピンの方の多くは情報伝達ということをあまりせず、学校でも突然そのときになって言われることがとても多いです」とのこと。

日本人の会議があまりに長いのも問題だとは思うけれど、逆に計画をほとんど立てずに思いつきで言ったり、変更したりするのも問題過ぎる。
 
けれどこれはタイでも同じらしく、「たとえばイベントをやった後に日本だったら必ず反省会をするけど、タイではやりっ放しで何も振り返らない」と、タイの保育園で2年間働いた日本人の友人が言っていた。
 
 
つまり日本の常識はその国の人たちの常識ではない、というだけでなく、そうした常識がない環境で生まれ育った人たちにとって、私たちが私たちの常識に則って考える理屈もまた、「ピント外れ」の可能性が高いのである。
 
たとえば「お喋りしていたら仕事(や勉強)に集中できないから静かにしましょう」と言っても、彼らは「え…なんで…?お喋りしててもちゃんと仕事はできるよ」と心の中で思っているかもしれず、もしそうであれば、いくらこちらが「合理的理由で注意した」と思っていても、相手には「日本人は厳しい」というあまりに漠然としたものしか受け取られずに「支配ー被支配」の構図ができてしまう結果になり兼ねない。
 
それは少なくとも私にとっては不本意だった。
 
何か注意を促す時は、その理由も含めきちんと納得してもらわなければ意味がない。
私がいなくなったらまた同じ問題が発生するというのでは、注意した甲斐がないのである。
 
 
 
だったらどんな理由を付けたらいいんだろう…。
 
仕事中にお喋りしたらいけない理由…。
 
 
 
次第に頭がボーッとしてきて、私はまた次の論考に吸い込まれていくのだった。
 
 
(つづく)

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