遊びをせんとや

人生総決算!のつもりで過去・現在のことなどを書きます
といっても肩肘はらずに 楽しく面白く書きたいと思います

永井荷風#23『断腸亭日乗 再度の寄り道~西遊日誌抄』

2024年02月24日 | 日記
 荷風が留学したカラマズー・カレッジ(ミシガン州)~現在の画像

「摘録 断腸亭日乗(上)」には 「西遊日誌抄」が併禄されている
下巻に移る前に 寄り道して「西遊日誌抄」を覗いてみたい
これは既述した「あめりか物語」「ふらんす物語」の日誌形式版である
内容的には同じ話なので 摘録式に超要約記述する

1903/M36 荷風24歳
10/24 舎路(シアトル)港に着く

1904/M37 25歳 
01/05 雅致に富む古文を読みたくなり「平家物語」など読む
09/29 新聞に日露戦争開始の知らせ 旅順港外の露艦沈没の記事
10/08 聖路易(セントルイス)市万国博を見るためタコマを去る
10/10 列車は落機(ロッキー)山の懸崖を上っている
10/30 博覧会会場の喧騒に飽き 郊外で夕陽に映える樫の紅葉を見る
11/16 人に勧められミシガン州カラマズの学校に入ることに決める
11/22 カラマズに着く(学校はカラマズー・カレッジ)
12/16 氷点以下の寒気を始めて体験する 寒国の景色もまた素晴らしい

 カラマズー駅1909年頃


 荷風が1904~5年頃に下宿したと思われる建物

1905/M38 26歳
01/02 旅順口陥落の知らせがある
05/12 この地の素封家某氏の舞踏会に招かれ 夜更けて帰る
06/30 紐育(ニューヨーク)に着く
07/08 米国には更に詩情を感じず 仏蘭西に行きたいと思う
07/17 華盛頓(ワシントン)日本公使館で小使募集 友人に斡旋を依頼
07/19 公使館で寝起き 仕事は部屋の掃除・郵便物整理・電話取次等々
08/29 父からパリ行きは許さないと手紙 紐育で身を隠そうと考える
09/13 酒場で話しかけられた女に誘われ その家に泊まる
09/23 先夜馴染んだ女を訪ね 淫楽の限りを尽くして一身の破滅を願う
10/16 日露講和も終わり公使館事務も暇 来月からお払い箱となる
酒場に行く 彼女(イデス)が友達らといて 二人で夜の街を歩く
紐育へ発つ迄毎日来て・・・とイデス 荷風・・・死んでも悔いは無い

・・・もっと簡潔にゆく筈が 荷風の思い入れに感染したようだ
あるいは「日乗」の形式の魅力か 「あめりか物語」を読むよりも面白い
そういえば「あめりか…」には華盛頓も公使館もイデスも出て来なかった・・・

11/01 華盛頓も今日限り イデスの家で別離の杯を酌む
11/02 紐育東区(イーストエンド)の日本人宿に泊まる
米国人の家庭に住み込み どうしても渡欧の旅費を得たい
11/11 勤め口見つからず 止む無くミシガンの学校に戻る  
11/24 華盛頓から父の手紙が転送される 
~正金銀行紐育支店の見習い社員に雇って貰うよう依頼
これを読み次第 先方と連絡を取って頼め~
米国に3年居ても銀行の事務など未経験
人に迷惑かけるだけ と思い荷風は逡巡するばかり
11/30 紐育支店の配人から「来談乞う」の電報 両3日中に伺うと返信

・・とはいうものの荷風の腰は重たい
12/04 紐育に到着する
12/05 夜マンハッタン座に行き「モンナ・アンナ」を見る
12/06 メトロポリタン歌劇場にて「ヘンゼルとグレーテル」を聴く

・・・以下 2日間の日誌は原文のまま
12/07 余は遂に正金銀行に入りたり。余にしてもしこの度父の望める銀行に入らずば永久父と相和するの機会あらざるべしと素川子(友人)の忠告によりてさすがに我儘もいひ兼ねたるなり。美の夢より外には何物をも見ざりし多感の一青年は忽ち世界商業の中心点なるウォールストリイトの銀行員となる何らの滑稽ぞや。

12/08 余の生命は文学なり。家庭の事情やむをえずして銀行に雇はるるといへども余は能ふかぎりの時間をその研究にゆだねざるをべからず。余は信ず他日かの「夢の女」を書きたる当時の如き幸福なる日の再来すべきを。余は絶望すべきにあらずと自ら諫めかつ励ましたり。然も余は一時文芸に遠ざからざるべからざる事を思ふ時は何らか罪悪を犯したるが如くまた深き堕落の淵に沈みたるが如き心地して心中全く一点の光明なし。銀行の帰途酒場の卓子に独り痛飲して夜半に至る。

・・やはり 原文どおり書くのも草臥れる 今日はここまで
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

永井荷風#22『断腸亭日乗 玉ノ井通いのワケ』

2024年02月23日 | 日記

 「濹東綺譚」挿絵の1枚

1936/S11年 荷風58歳
5/26 荷風は「玉ノ井」通いを始めた 地図まで作る凝りようである
その後 「日乗」に出て来る玉ノ井の記述を抜き出してみる

7/11 これは番外
<流行歌忘れちゃいやよの蓄音機円盤発売禁止 唄を歌うと巡査が注意する喫茶店の女から唄の歌詞を聞くと甚だ平凡>
そう書きながら荷風は1番から3番まで律儀に歌詞を書きとめている
ここでは書かずに Youtubeの歌詞付き動画を掲載


<7/20 電車にて浅草へ出て 円タクで玉ノ井を見歩き 銀座へ出る>
・・・暑いせいか暫く間が空く
<9/7 夜 言問橋を乗合自動車で渡り玉ノ井へ行く
今年3,4月からこの街の様子を観察しようと思い立ち 折々来るうちに
休むのに都合のよい家を見つけた 女一人いて抱え主もいない模様

女はもと須崎の某楼の娼妓だった 年は24,5 
上州あたりの訛りがあるが丸顔 眼は大きく口もと締まる容貌
こんな処で稼がなくても・・・と思うほど

あまり祝儀もねだらず万事鷹揚 大店のおいらんも虚言ではないだろう
この時 客が来て荷風は留守番を頼まれる>

荷風は退屈紛れに家の箪笥戸棚の中を調べ 下と2階の間取りや調度を書く
・・・文庫本には荷風が描いた間取り図も載っているが省略

<9/19>から<9/24>まで 毎日玉ノ井へ行く~要約と言うより1日1行
9/19 女が一人増えていて 荷風は二人から身の上話を聞く
9/20 この町を背景とする小説の腹案がようやく出来た と書く
9/21 髪結いに行く女と別れ 銀座で夕食し帰宅 「濹東綺譚」を起稿する
9/22 京成電車の元玉ノ井駅はすでに無い と書くが何故か分からない
9/23 荷風は「濹東綺譚」の発表をどうするか悩む
<私は菊池寛を始め文壇に敵が多い 
新聞に連載したら一斉に排撃され 掲載中止となるに違いない
民衆一般の趣味や社会情勢を思っても 公表すべき時代ではないと考える>
9/24 夜は東武電車で堀切へ 玉ノ井を歩き通って帰る
(欄外に墨書~増税政策に世論ごう然)

このあと玉ノ井行きは少し間遠 「濹東綺譚」執筆に時間を割いたのだろう  
9/30 10/1 10/4 10/5 10/6 10/15 10/17
記述も簡素になり 玉ノ井を訪ねる 濹東に行く・・・
荷風自身も気になったのか 10/20には こう書いている
<濹東の遊興はなお失っていない 夜また行って例の家を訪れる>

<10/25 「濹東綺譚」脱稿する>
<10/26 写真機を購入する 金104円也>
<10/28 「濹東綺譚」を「朝日新聞」夕刊に連載すると決まる
<11/2  玉ノ井に至り第一部のある家を訪れる>

・・・これまでと書き方が違う
この日天皇陛下の行幸が都内某所で行われ 玉ノ井の路地裏には刑事が入り 随時女の家に来る客を取り調べている ことと関係しているか・・・
<11/8  夜 墨東を歩く>  
<11/27  (欄外)日本 独逸と連名を結ぶ>
<11/28  玉ノ井を歩く>
<12/30  乗合バスで小名木川へ 中川大橋を渡り辺りの風景を撮影する>
     
ここで「摘録 断腸亭日乗(上)」は終わり
なお このあと文庫本には「西遊日誌抄」が併禄されている

今日は殆ど文字だけになってしまった
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

永井荷風#21『断腸亭日乗 ラビリンス玉ノ井』

2024年02月22日 | 日記
 昭和の玉ノ井

1936/S11年 荷風58歳
2/24 色慾を消磨し尽くした荷風は遺書を書いた その翌々日2/26事件
それからほぼ3か月後
5/26 荷風は「玉ノ井見物の記」と地図を書いている 以下<>内に超要約
<初めて玉ノ井の路地を歩いたのは
昭和7年の正月 堀切四つ木の放水路堤防を散歩した帰り道だった 
その時は道に不案内で どの辺が1部やら2部やら方角もわからなかったが
先月来度々散歩し忘備のため地図を作った~本に次の手書き地図掲載>


荷風作 玉ノ井の地図~拡大可能(左右ページがずれている 解像度低い・・・スミマセン)

 堀切四つ木の放水路堤防を散歩・・・で思い出したのが今昔マップ
 たしか「曳舟川」の話の時に 放水路からマップを辿った記憶がある
 だとすれば玉ノ井も通っていたのではないか?



 その当時は曳舟川だけで 玉ノ井のことなど気にしていなかったけれど・・・
 ともかく「玉ノ井見物の記」の続きを読もう

 <路地内の小家は中に入ると意外と清潔 場末の小待合と同程度
ベッドを置く家も多い 2階へ水道を引く家や浴室を設ける家もある
1時間5円を出せば女は客と入浴する ただしこれは最も高価な女
並は1時間3円 一寸(ちょん)の間は1~2円 路地口におでん屋が多い
そこで聞くと どの家の女がサービスがよいとか 知るに便利である・・・>

荷風の見物記 というより案内記はまだまだ続くが以下は省略

 今日の最後に 当時の雰囲気がわかる動画を探したが無かった
 戦後 玉ノ井はカフェー街に衣替え(実質は私娼街)して生き残ったという
 そのカフェの名残を探すYoutube動画があったので埋め込む


それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

永井荷風#20『断腸亭日乗 遺書&二・二六事件』

2024年02月21日 | 日記
 二・二六事件

1928/S03年 50歳 の大晦日から 話は数年飛んで
1936/S11年 58歳 今日はいつもの要約記述で荷風翁の遺志を伝える
<2/24  
色慾を消磨し尽くすと人の最後は遠くないので 終焉の時の事を書く
一 葬式は無用
一 死体は普通の自動車に乗せ直に火葬場に送り骨は拾わなくてよい
一 墓石建立も不要 新聞紙に死亡広告など出す事も無用(なぜか文字が小さい)
 葬式をしないわけは 御神輿のような霊柩車を好きじゃないから
  紙製の造花、殊に鳩などつけたる花環も嫌いだ
一 財産は仏蘭西アカデミイゴンクウルに寄附する 手続きは今は不明
  家は日本の法律にて廃家にしてほしくない
  家督相続人指定の遺書無ければ法律上最親の血族者にする
  最親の血族者が遺産の全てを仏蘭西アカデミイに寄附する事を望む
一 日本の文学者を蛇蝎のように嫌っている
一 死後の著作・著書に関することは親友(姓名の部分切取り)に一任する
一 全集他を中央公論社のようなバカな広告を出す書店からは出すな
一 某銀行の定期預金で全集を印刷し 同好の士に配りたい>

遺書を要約しながら 不謹慎ではあるが 笑ってしまうことが多かった
文学者を・・・の件り 遺書に書くほど嫌っていたというわけ
文芸春秋の菊池寛嫌いは有名だが 中央公論とも揉めているらしい
そのうち題材としても取り上げたい

上記2/24の日誌を原文で聴きたい時はYoutube朗読で
(途中から開始する 2/24が終われば2/26分へ 途中で止めてもOK)


この遺書を書いた翌日の日誌
<2/26 朝方 電話で二・二六事件の発生を知る
軍人が警視庁・新聞社等を襲撃 大臣等に護衛つく ラジオ放送中止
市中の様子を知りたいと思うが 雪と寒さで家から出られず
夜9時頃号外が出る 岡田斉藤殺され高橋重傷 鈴木侍従長も同様  


今日はここまで それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

永井荷風#19『断腸亭日乗 昭和3年 大晦日』

2024年02月20日 | 日記


 荷風とお歌 毎日のように偏奇館と壺中庵を往き来している
 偏奇館は麻布市兵衛町 壺中庵は西ノ久保八幡町(何れも旧町名)
どの位の距離か気になっていたので 現地図上で場所をプロットしてみた
(地図は港区観光ガイドのものを拝借)

偏奇館はサントリーホールのほぼ南 すぐ近くである
偏奇館のことはこちらのPDF6頁を参照~ペンキ塗りの家だから偏奇館!?
家の外観や間取りのイラストも載っている

荷風がよく利用した山形ホテルもすぐそばにある こちらのPDF5頁左参照
(ここの息子が俳優の山形勲・・・とどこかのサイトに書いてあった)

壺中庵は偏奇館から南南東へ行って「神谷町」駅の近く
ここなら高台のホテル・オークラを挟んで 歩いて15分くらいだろう
思っていたより近かった

さて、断腸亭日乗に戻って1928/S03年も大晦日 荷風50歳   
<12/31  夜 壺中庵でお歌と除夜の鐘を聞き家に戻る
一昨年来の不景気で歳暮の町にも活気がない 自分も春から病みがち
葵山(※)は 顔を合わせるたび「眉が太く長く長命の相だ」と言うが
淫欲が湧かず ひと月経ってもその気が起きない
 ※生田葵山(きざん):荷風の友人 永井荷風といふ男」(青空文庫)

世の中の事にも関心が向かず 文壇の輩の言うことなど蚊が鳴くと同じ
人の噂にも耳を塞ぐ そんな自分を友人らは幸せ者だと言う
自分でもそう思う 決まった妻がいないのも幸せのひとつ
妻なければ子孫なし いつ死んでも気楽で心残りが無い
日頃文壇の者とは交遊なく 死後拙劣な銅像など建てられる心配も不要

文壇の者は人間の屑である 自分の事は棚に上げ ここでは言わない
文学者というもの 下宿屋とカフェ以外には世間を知らない
手紙を書くことを知らず 礼儀を知らず 風流を理解できない
薄志弱行 粗放驕慢 人間中の最も劣等のものである

私は慶應義塾の教師となったが 40歳で辞めて以来 文学に関係しない
文学者を友に持たないこと これは私の幸福中の第一番である 
本来 身体強健でないため 人と争い 人を傷つけた事はない
家に些少の財産があり 金銭で人に迷惑をかけた事もない
女好きではあるが 処女を犯した事なく 道ならぬ恋をした事もない
五十年の生涯を顧み 夢見の悪い事は一つもせず 幸いの身の上である
夜も明けて来た 除夜の繰り言もこの位にして51年の春を向かえよう>

今日は大晦日一日のことだけで随分と書いた
超要約しようと思いながら そう出来ないところが荷風の面白さか
安吾から痛罵された荷風だが 戯作の精神は両者にも共通する
荷風が自らを文学者視?しないこととも関係しているのか

次回は 1928/S03年以後の日乗の予定
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]