遊びをせんとや

人生総決算!のつもりで過去・現在のことなどを書きます
といっても肩肘はらずに 楽しく面白く書きたいと思います

永井荷風#18『断腸亭日乗 恥ずかしいものを捨てる』

2024年02月19日 | 日記
 右より兄壮吉(荷風)、母恆、父久一郎、弟威三郎、弟貞二郎

1927/S02年 49歳
<10/21  壺中庵に行き 壺中庵記を書く
以後 頻繁に壺中庵へ行って泊まる>
<12/15 鷲津貞二郎(※)危篤の電報 自動車で下谷に着いた時には死亡
 ※荷風の弟 鷲津家(母の実家)の養子に入り牧師となった(行年45歳)
放蕩無頼の自分の実弟に温厚篤実の宗教者がいるとは不思議な事>

1928/S03年 50歳
<年が明けて お歌は頻繁に訪れ 荷風も壺中庵に足繫く通う
02/05 お歌夕食の惣菜を持って毎夜来る 芸者に似ず親切 歳は22,3
若いのに50で病弱の自分を頼って いつも機嫌よく笑って日を送る
自分は既に芸術上の野心も消え また現代婦人の文学政治に熱中する事
を慨嘆するこの頃 可憐な彼女に出会えたことは本当に幸せである>


 荷風とお歌

荷風の住まい偏奇館は麻布市兵衛町 一方壺中庵は西久保八幡宮の近く
昔の町名は馴染みが無いので 遠いのか近いのか見当がつかない
偏奇館は現在の六本木1丁目 アークヒルズの南側の地域
壺中庵は虎ノ門5丁目あたり それなら歩いても20分程度の距離だろう

<02/04 お歌銀座風月堂のサンドイッチ持参 ワイン・珈琲で夕食
 食後肩を揉ませ一睡 隣家に人の声がして今夜は節分 夜更けお歌帰る>
<02/17 至る所に候補者の姓名・写真の張り紙 我が家の塀にも2、3枚
 昨夜こっそりと剥がした(※)>
※この年の2月22日 初めての普通選挙(衆議院)が行われた

<03/17 三番町待合蔦の家が売り物に出る
 お歌が買って待合を営業したいと言う 荷風は株券を売り金を用意>
04/10 この頃 無産党員の輩が押しかけて来る 印税目当てのようだ
こうした世の動きから文筆を捨てようと決心している
幸いにもお歌が待合を始める そこが自分の隠れ家に最適の場所

<05/06 夕食後 毎晩のように三番町に行く
忠君愛国の名を借り略奪を専業とする輩が多くなってきた
裏で警察とも繋がり 新聞は沈黙している>

<07/25 街に巡査・刑事多く 夜に在留志那人が南京新政府成立の祝いで
歩くという(※) 夜三番町に行き泊まる>
 ※蔣介石が南京新政府主席となった

08/24 精力日増しに衰える 借りた書物は返した
机の上に堆積した草稿なども庭で焼却する
キナ臭いにおいが立ち込め 近所から巡査呼ばれる
草案を風呂敷に包み持ち 病院の帰りに 新大橋の傍らに出る
乗合船の切符を買い桟橋へ 人に見られないよう川へ投落した


 新大橋

しかし 包みは浮かんで桟橋に付着したまま 傘の先で押すがダメ
そのうち乗合船が着き その船頭が竹竿で拾いあげ桟橋の番人へ渡す
どうにもできず乗合船で永代橋へ 再び乗船して元の新大橋の桟橋へ
風呂敷を見つけ 自分が落としたと言うと 名前も訊かず返してくれた
前より2倍程に重くなって持ち運べず 車で三番町へ持ち帰った


 永代橋

翌日 風呂敷持ってお歌と永代橋へ行く
紐で束ねた草案を風呂敷から出して投げ落とす
ピシャン 手のひらで尻を打つような音がした
水に浮かんで流れ やがて闇に消えた ほっと一安心
捨てた草案 人に見られて恥ずかしいものばかり>

・・・この話 1頁以上の文章が連なり とぼけた味があって面白い
しかし 要約し過ぎて面白さが消えてしまった 
朗読を探してみたが無かったので 今日はここで終わり
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

永井荷風#17『またまた寄り道 荷風と安吾』

2024年02月18日 | 日記

荷風には珍しくちょっとミステリアスな雰囲気で面白い・・・
原作は青空文庫にある ドラマはかなり短縮されている

ドラマの雰囲気から なぜか坂口安吾の探偵ものが思い浮かんだ
二人の写真を並べてみた


左:永井荷風 1879/M12生-1959/S34没(享年79歳)
右:坂口安吾 1906/M39生-1955/S30没(享年50歳)~何れもNDL「近代日本人の肖像」より

何となく同世代の作家の気がしていたが 私の思い違いだった
生まれ歳で1/4世紀 享年で30歳の差がある
二人の交友関係を調べてみたが どうやら無いようだ

ただ 安吾は次の作品で荷風のことをボロクソに書いている
(安吾は「問はず語り」以外に「つゆのあとさき」「墨東奇譚」にも触れている)

荷風の「問はず語り」は青空文庫化されていないので 朗読を!

これを荷風が読んだのかどうかは分からない
安吾作品の初出は1946/S21ー9/1発行:日本読書新聞」
その頃の文庫本「日乗」を読んでみたが 反応らしいものは無し
荷風は「文学者」嫌いだから そんなものは無視か?・・・

安吾は「文学者」に納まる作家ではないと思うが・・・
その安吾にこんな作品もある 安吾下田外史(Youtube朗読)
「つゆのあとさき」ならぬ「酒のあとさき」という作品も(Youtube朗読)   
これも面白い

今日は荷風と安吾の朗読散歩になった 明日は「日乗」に戻れるかどうか
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

永井荷風#16『大正から昭和へ 劇場通い・壺中庵』

2024年02月17日 | 日記

季節外れの秋海棠~荷風が譲り受けて自ら植えた・・・と日乗に記載があった筈

時は過ぎて時代は昭和に入る
1927/S02年 48歳 3月 昭和の金融恐慌起きる
<7月24日 歌舞伎座帰りの電車中 隣席客の夕刊に芥川龍之介自殺の記事
神経衰弱で服毒 行年36歳 彼と交わりは無かった
ただ一度 震災前 新富座の桟敷席で偶々隣り合わせたことがあるだけ
同じ年頃の自分を思い返し 今日までよく生き延びて来た と思う>

歌舞伎座第3期~T12の大震災で焼失後 1925/T14年1月に開場


新富座~1872/M05年開場の守田屋が現・中央区新富町移転後に新富座改名 大震災で焼失・廃座

<9月17日 夜お歌(※)と神田を歩き お歌の家に泊まる
お歌21歳 容貌は10人並み とは言い難いが 世話上手 
自分も老い 囲う必要もなく お歌も芸者から足を洗いたく 身請けする>
 (※)数回前の荷風の交情16人の女性中の1人 #13「関根うた」 

<10月8日 昼 女給お久(※)来て5百円入用と居座る 説得するが暴言吐く
切られお富のよう 同席者が警察を呼ぶと言うとようやく去る 毒婦だ
これまで侮ってきたが女給恐るべし 慎まなくては・・・>
(※)16女人中 欄外#10「古田ひさ」
銀座タイガ女給 の他に記述無し 荷風もよほど不愉快だったか

<10月13日 市ヶ谷見附内一口坂に間借りのお歌 昨日西ノ久保八幡町
壷屋という菓子屋の裏に引っ越したというので 早起きして訪ねる
震災の火事は近くで止まり 古家だが新築の貸家よりも落着きがあってよい
偶然このような小家を借り ここに20歳を越したるばかりの女を囲う
これまた老後の愉しみである>

<10月14日 午後から来客を避けるため八幡町に行く
壺屋の裏にある貸家なので「壺中庵」(こちゅうあん)と名付ける>
<10月15日 終日書く 近年になく興が乗る 山形ホテルで夕食
壺中庵へ行き泊まる>

<10月16日 早朝帰宅する 昼友人来て話す
銀座のカフェ客を警視庁保安課が逮捕しているので 当分避ける事にする>
壺中庵へ行き泊まる>
<10月21日 早朝帰宅する 昼友人来て話す 夕刻友人来てホテルで夕食
虎ノ門で別れて壺中庵へ この夜壺中庵記を書く>

~省略するが 原文のままの末尾数行と句を以下に~
<・・・誰憚らぬこの隠れ家こそ、実に世上の人の窺ひ知らざる壺中の天地なれと、独り喜悦の笑みをもらす主人は、そもそも何人ぞや。昭和の卯のとしも秋の末つ方、ここに自らこの記をつくる荷風散人なりけらし。
 長らへてわれもこの世を冬の蠅 >

荷風散人なりけらし・・・荷風翁人を喰って生きているらしい

<11月9日 歌舞伎座の帰途友人と大牙(タイガ)へ (荷風翁も慎みが無い)
 女給お久は今月からカフェ「黒猫」に移ったという その情夫はならず者
これまでもお久を使って金銭をゆすり歩いていたという

1929/S04年 50歳 ニューヨークでの株式大暴落し 世界恐慌始まる

 今日の終わりに1920年代の東京の映像を
(字幕アイコンクリック→設定で英語字幕表示→自動翻訳で日本語選択)


  それでは明日またお会いしましょう
 [Rosey]

永井荷風#15『大正から昭和へ カフェあれこれ』

2024年02月16日 | 日記

銀座カフェ・タイガー 荷風は「大牙」とも書いている

1926/T15年 47歳 8月 銀座カフェー・タイガーに通い始める
 年譜にこう書いてあったので 早速 「摘録・断腸亭日乗」を開く
<8月9日 夕方 尾張町(現在の銀座4丁目)タイガーでお茶を飲む>
<8月11日  夕方 タイガーで食事 ここの女給には新橋の元芸者が2,3人
 10年程前まで 芸妓が女給になるなど考えられなかった 人の心は変わる  
 文学者の気風も一変 菊池寛のような男が続々と現れるのも無理はない>
 注:荷風は菊池寛だけでなく 文学者ほとんどを蛇蝎のように嫌った

この頃から銀座ではカフェ・ライオン カフェ・プランタンなど続々開店
文壇バー「ルパン」も最初はカフェだった
この頃 カフェの女給を歌った「當世銀座ぶし」が流行ったという
3番の歌詞に タイガー(虎)とライオンが出て来る


 この頃の荷風の「日乗」にはカフェ・プランタンも登場する
カフェ・プランタンの店内

ほかに荷風が食事などに利用した店に銀座風月堂がある

銀座風月堂

荷風とは離れるが 40年程前 銀座のライオン・ビアホールによく行った
調べてないが これはカフェ・ライオンがビアホールに変わったのだろか
ビヤホール銀座ライオン

今日は軽めだったがこれでお終い
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

永井荷風#14『大正12年関東大震災その2』

2024年02月15日 | 日記

京橋の第一相互ビルヂング屋上より見た日本橋及神田方面の惨状 

1923/T12年 44歳 9月1日 関東大震災発生
 荷風の「断腸亭日乗」から昨日引用したが その後3日間ほども要約引用する

9月2日<昨夜は河原崎長十郎(※)と共に庭で月を眺めて夜を明かす
※劇団「前進座」の創立メンバーで後に座長 甥は権十郎 
彼は老いた母を扶け赤坂一ツ木の甥の家に行く 荷風も後刻赤坂へ
一家は無事で 夕食馳走になり帰宅 庭の樹下で眠る 余震が頻繁>

9月3日<白昼放火する者がいて 各家より人を出して交代で警備する>
9月4日<西大久保の母上を訪問 鷲津(※)一家は上野公園に避難とのこと
公園に行くが所在分からず 夜遅く家に戻った
 ※荷風の母恒(つね)の生家 荷風は幼稚園時代を鷲津家で過ごしている
この時の母は 西大久保で荷風の末弟威三郎一家と同居
荷風は 大正3年八重次との結婚の時 威三郎とは喧嘩別れしたまま
この日初めて威三郎の妻と会い その妻子と言葉を交わすことは不快
だが 非常時だから仕方がない>

公表されるとは思っていなかったのか 荷風の筆は時に辛辣なことを書く
例えば ひと月後10月3日の日誌から
<丸の内に行った帰り 街の至る所糞尿の臭気が激しく 支那街のようだ
愛宕下から坂を上れば 街は焦土と化し 荒廃の光景を愚かにも感じる
明治以降大正現代の帝都は 山師の玄関と違わず愚民を欺くイカサマ物
灰燼になっても惜しくはない
近年の世間の贅沢・貪欲を顧みると 今度の災禍は天罰と言ってよい
外面だけを飾り 百年の計がない国家の末路はこのとおりなのである>
と政治の無能さに筆誅を加える
(荷風は難読文字が多く要約もタイヘン!)
 
もう一つ 旧い地名が出て来ると 今のどの辺? と調べるのも一苦労
今昔地名対応表などないものか・・・と思って探したらこのサイトがあった
menuの地域一覧を選択
→例えば麻布を選択(この頃の荷風の住居は 麻布市兵衛町の偏奇館)
→麻布のページで 麻布①の005市兵衛町 を選択
→町名の読み方 由来 町名変更の歴史 現町名との対応などが分かる
→最下部の撮影地クリックでGoogle mapが表示される
個人でここまで作るのはタイヘンだと思う

昨年 関東大震災から100年が経つ Youtube動画を2編共有する

それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]