遊びをせんとや

人生総決算!のつもりで過去・現在のことなどを書きます
といっても肩肘はらずに 楽しく面白く書きたいと思います

ちょっと寄り道散歩道~永井荷風・断腸亭日乗その3~内田八重」

2024年02月09日 | 日記

永井荷風の断腸亭日乗~1936/S11年1月30日の日誌より
<余が帰朝以来馴染を重ねたる女を左記に列挙すべし
四 内田八重
新橋巴屋八重次明治四十三年十月より大正四年まで、一時手を切り大正九年頃半年ばかり燒棒杭、大正十一年頃より全く關係なし新潟すし屋の女>

他の15名の女性と同程度の記述だが 日誌での登場回数はNo.1である
「日乗」を書き始めたのが大正六年九月から この年に八重の名は無い
荷風は大正九年から燒棒杭・・・と書くが 大正七年から八重が再登場する

以下 原文のまま青空文庫から少し引用する ※は私の独り言
大正七年 荷風四十歳
二月廿四日。新福にて八重次唖々子と飲む
三月廿二日。八重次訪来る。少婢お房既に家に在らざるが故なり ※弁解?
四月十二日。八重次と新福亭に会す
~途中省略~
十二月七日。新橋巴家に八重次を訪ふ。其後風邪の由聞知りたれば見舞に行きしなり。八重次とは去年の春頃より情交全く打絶え、その後は唯懇意にて心置きなき友達といふありさまになれり。この方がお互にさつぱりとしていざござ起らず至極結搆なり。※何となく強がりを言っている気もする・・・
十二月十二日。八重次見舞にとて旅亭に来る。

大正八年 荷風四十一歳
五月四日。思起せば八重次四谷荒木町にかくれ住みし頃、絵本虫撰山復山など綴直し呉れたり。むかし思へば何事も夢なり。
五月十九日。巴家八重次藝者をやめ踊師匠となりし由文通あり。

十一月廿三日。八年前妓八重次わが書斎に出入りせし頃、児猫を貰来りしを、母上駒と名づけて愛で育てられけり。爾来家に鼠なく、駒はよく其務を尽して恩に報ひたりしに、妓は去つて還らず、徒に人をして人情の軽薄畜生よりも甚しき事を知らしめたるのみ。 ※やはり未練があるのか・・・

大正九~十年は八重次への言及は無し
因みに内田八重の生没年は1880/M13年-1966/S41年 荷風より1歳年少

青空文庫のリンクはこちら 大正六年 七年 八年 九年 十年

さて 八重次こと内田八重は、芸者をやめ踊りの師匠となった
芸妓になる前はどんな生活をしていたのだろうか

荷風の日誌には 新潟すし屋の女(むすめ) とだけある
新潟は芸者の町としても有名だから そこでも芸妓だったのだろうか
踊りの師匠としては 藤蔭静樹の名で藤蔭流派を興したことは既に紹介済み

 情報不足なので 明日迄には素性?を調べたい
 最後に 新潟の古町芸者のPR動画(Youtube)を埋め込む


それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

ちょっと寄り道散歩道~永井荷風・断腸亭日乗その2~忘れられない女たち!」

2024年02月08日 | 日記


【研究者はつらいよ】
今日は冒頭にある研究者の作成したグラフを掲げた
荷風の「断腸亭日乗」から 彼の房事(=棒時?)回数を推定したものだ
グラフ下に記号の注釈が書いてあったが 私は研究者ではないのでカット
人の房事回数を数えるなんて・・・私は研究者にならなくて良かった

【人間五十年?】 
それはさておき 50歳(1928/S3)12月31日の日乗を以下に超要約記述する

<持病の腹痛再発に続きひどい風邪に罹る 淫欲が無くなり自分でも驚く
世事にも関心なく公憤もせず 文壇の輩のとやかく言うのは煩い蚊のようだ
今思えば妻もなければ子孫も無い いつ死んでも心残りはない>

<世の文学者 カフェ以外に世間を知らず 手紙も書かず礼儀も知らない
風流を解さず 意志弱く 粗放で驕慢 最も劣等な人間である
一時期 慶應義塾の教師となったが 40歳の頃に辞めた
以来 文学者を友人に持つことは一切無く それこそ幸福の第一位である>

<争って人を傷つけたことなく 金で人に迷惑をかけたことはない
女好きだが処女を犯したことはなく 道ならぬ恋をしたこともない
50年の生涯を顧みて 夢見の悪い事が一つもないのは 極上の幸せ
東の窓が少し明るい 除夜の繰り言もこの位にして51年の春を迎えよう>

50歳 断腸亭にとっても一つの節目だったのだろうなぁ・・・
そう思いながら要約したが 口語体だと情緒に欠けるような気がする

【馴染みになった女性たち】
それから8年  58歳(1936/S11)1月30日の日乗
<帰朝以来 馴染みを重ねたる女を左に列挙すべし
鈴木かつ 蔵田よし 吉野こう 内田八重 中村ふさ 野中直 今村栄
関根うた 清元秀梅 白鳩銀子 黒沢きみ 渡辺美代 大竹とみ 古田ひさ
山路さん子>・・・総勢16名である

ここでの記述量が最も多いのが「中村ふさ」 以下 原文通りに記述
「初神樂坂照武の抱、藝名失念せり、大正五年十二月晦日三百圓にて親元身受をなす、一時新富町龜大黒方へあづけ置き大正六年中大久保の家にて召使ひたり、大正七年中四谷花武藏へあづけ置く、大正八年中築地二丁目三十番地の家にて女中代りに召使ひたり、大正九年以後実姉と共に四谷にて中花武藏といふ藝者家をいとなみ居りしがいつの頃にや發狂し松澤病院にて死亡せりと云ふ、余之を聞きしは昭和六年頃なり、實父洋服仕立師」

「中村ふさ」に関する記述はこれ以外にも多く 以下に原文のまま記述する(年月日は省略)

「夜少婢お房を伴ひ物買ひにと四谷に徃く」

「雨晴れしが風歇まず。お房四谷より君花と名乗りて再び左褄取ることになりしとて菓子折に手紙を添へ使の者に持たせ越したり。
お房もと牛込照武蔵の賤妓なりしが余病来独居甚不便なれば女中代りに召使はむとて、一昨年の暮いさゝかの借金支払ひやりて、家につれ来りしなり。
然る処いろ/\面倒なる事のみ起来りて煩しければ暇をやり、良き縁もあらば片づきて身を全うせよと言聞かせ置きしが、矢張浮きたる家業の外さしあたり身の振方つかざりしと見ゆ。

「婢お房病あり。暇を乞ひて四谷の家に帰る。」

「お房この日また帰り来りしかば伴ひて宮川亭に一酌す。新富座を立見して家に帰る。」

「雜誌女性の草藁をつくりし後、四谷の妓家に徃きお房と飲む。」

「午後四谷のお房來りて書齋寢室を掃除す。」 

「女給の語るところを聞くに其頃余が家に召使ひたりし阿房といふ女四谷の妓となりゐたりしが數年前鳥目となりつゞいて發狂し、目下駒澤村の瘋癲病院に幽閉せられつゝありと云ふ」

思へばその頃わが六兵衞の茶碗洗ひしお房も既に世になき人とはなれり」

・・・婢(はしため=女中)の割に記述も多く 荷風の格別の想いが伝わる
しかし ふさ子以上に 荷風の思い入れが強かったのは「内田八重」
彼女のことは次回に回し 今日はこれで終わり
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

ちょっと寄り道散歩道~永井荷風・断腸亭日乗その1~結婚・離婚」

2024年02月07日 | 日記


断腸亭日乗とは?
日乗: 「乗」とは記録を意味する だから日乗は日記・日誌・日録である
荷風は1917/T06年 39歳から1959/S34年 79歳の死の直前まで
42年間にわたって日記を書き続けた それがこの「断腸亭日乗」

全集本の約3,000頁を占めるというから膨大な量
日誌とはいえ随筆・詩歌・評論・天候・来客・外出・交遊・家計簿・・・内容は多岐
また 1日1行の時もあれば 1日1頁など 長短も様々
冒頭写真は私の手元にある文庫本上下 これは全集からの抜粋である
 ところどころに 荷風自筆の挿絵が描かれている(表紙の絵も)
今日から数回 テーマごとに超要約口語体で筆記する(原文は文語体)

【最初の結婚】
私はなぜか荷風は生まれながらの放蕩男だと思っていたが結婚歴があった
33歳(1912/T01)のとき 
慶応の教授職にあった荷風は親が決めた商家の娘ヨネと結婚
翌年に荷風の父親が死去し 荷風が家督を継ぐ
元々結婚そのものに疑問を抱いていた荷風は 半年足らずで離婚した

34歳 馴染みだった新橋の芸妓・八重次を入籍(どうやら別戸籍?)
これがもとで兄弟・親戚らと絶縁したが その八重次とも翌年離婚
その後 生涯妻帯することは無かった

この八重次という女性 別れた後舞踊家となり藤間静枝と名乗った
その後 別派藤蔭流を興して藤蔭静樹と名乗り 多くの弟子を育てたという

因みに 荷風が初めて吉原に遊んだのは18歳のとき
たぶん学業に身が入らなかったのか 一校試験に失敗 
その後 入った外国語学校も2年で除籍されている
また 同じ頃 落語家に入門したり 歌舞伎座の作者見習いなどもしている
かと思えば 新聞社の雑誌記者として入社し 半年足らずで首になる・・・

荷風の結婚話は「断腸亭日乗」を書く以前の話である
青空文庫辺りで ほかの作品を探してみれば あるいは詳細が分かるかも
なお 58歳の時の「日乗」には 情を交わした女性の名前が十数名ズラリ・・・
次回にでも載せたいと考えている

青空文庫では 次の年代の「日乗」を読むことが出来る

朗読のたいへん上手い人の朗読 「二人妻」 Yutube 2時間10分弱 

今日はここまで それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

ちょっと寄り道散歩道~永井荷風・濹東綺譚」

2024年02月06日 | 物語
【荷風の直筆】

 永井荷風直筆の画像 述文は「日和下駄」序の一部分

・・・というのは冗談 
知人が<面白い! 気分は清少納言>と書いていたので 私も作ってみた
私は永井荷風の気分で行ってみた!

【荷風似の知人】
作りながら 20年ほど昔に知り合った知人の事を思い出した この人



・・・これも冗談 写真は永井荷風翁ご本人である
知人は キの言葉が付くくらいの永井荷風ファン 
NPOのイベントでは この写真と同じいでたちをすることが多かった
他にフロックコート? 蝶ネクタイ カンカン帽なども揃えて・・・

知人は荷風文学マニアかつコスプレ・マニアであったというわけだ
荷風のオペラ「葛飾情話」も彼から教わったのかもしれない
私の書棚に荷風本が増えたのも 知人の影響である
その知人 今思えば 衣装だけでなく 風貌も荷風に似ていた気もする
今は交友が途絶えてしまったが どうしているだろうか・・・

 6歳の永井壮吉くん

荷風の筆名由来
本名永井宗吉がなぜ筆名を荷風にしたのか?
「荷」の漢字には蓮(れん・はす)という意味があるらしい
ネットで漢和辞典を引いてみると確かにその通りだった

{名詞}はす。水草の名。はちす。
▽茎の上にT型に乗った形で花や葉がつく。
 実を蓮(レン)、根を藕(ク゛ウ)といい、ともに食用とす 

壮吉少年16歳の時 
入院した病院で世話してくれた看護師の名が「お蓮(れん)」さん
少年は彼女に恋をした 恋は叶わなかったが思い出して筆名に使った
蓮になびく風で「荷風」誕生というわけだ 荷風の純情な一面が窺える逸話

濹東綺譚
荷風作品を一つだけ教えて と訊かれたらたぶんこれを挙げる
昭和12年4月~6月 東京大阪朝日新聞夕刊に連載した作品

青空文庫 リンクはこちら

▶朗読(Youtube) 「シャボン 朗読横丁」というチャネル 
上手いと思う朗読は殆ど無いが これは抜群に上手い!(朗読は女性)  

全文の朗読はこちら 3時間20分弱 最終の「作後贅言」 のみ叙述文あり
チャプター毎にも聴ける

■作品中に出て来る井上啞啞(いのうえああ)は荷風の友人・俳人

▶青空文庫を表示し 別タブで朗読を聴く手もある 視聴覚駆使派向け

▶映画
 1992年版(カラー)はAmazon primeビデオで見られる→愚作だった

今日はここまで それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

ちょっと寄り道散歩道~永井荷風・日和下駄(ひよりげた)」

2024年02月05日 | 物語

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」ほか

<わたしはいつも日和下駄をはき蝙蝠傘こうもりがさを持って歩く>
荷風の随筆「日和下駄~東京散策記」に何度も出て来るフレーズである
その日和下駄を履いている写真が無い!

何とか探して見つけた

 サイトにはおまけに知らなかった情報や写真も載っている
「日和下駄」の冒頭には <人並はずれて丈(せい)が高い上に>ともある
身長約180cm・日和下駄・蝶ネクタイ・背広・買い物籠・・・さぞ目立っただろう

「日和下駄~東京散策記」 青空文庫にリンク
全章とも面白かったが とりわけ第4 地図が私には興味深かった
荷風は いつも嘉永板の江戸切絵図を携帯して日和下駄散歩するという

江戸の切絵図ね~面白いけどネット社会でもそこまではねぇ・・・
探してみたらそれがあったのだ! 荷風と同じ嘉永版の江戸の切絵図

トップぺージを下に行くと様々なデートセットが見られることが分かる
中に「江戸マップβ版」があるので その画像または文字をクリック(以下C)
江戸マップβ版」のパージが表示される 直リンクはこちら

説明→検索ボックス→尾張屋説明(今の出版社)→江戸の地域一覧表がある
発行年の1849年は嘉永2年 荷風が持ち歩いた嘉永版の地図だろう
見方の例として 今は27番墨田川向島絵図の5列目全体図をC

地域全体の絵図が表示され 拡大・縮小したり移動(ドラッグ)できる
左方に移動すると葛飾とか四ツ木とかの文字もあるはず
いったん 戻るボタンで前頁へ戻り 27番の位置合わせ地図をC
そうすると現在地図に絵地図が重なって表示される
 透明度が変えられるが 重ねるより今昔のように左右並べが実用的

再び前ページに戻り 27番行の2列目の隅田川向島絵図をクリック
今度は地名一覧表が表示 特定の目的地・施設が分かるならこちらが便利
拡大図をC→絵地図の当該部分が拡大表示される

以上で江戸マップの説明は終わり

今日はここまで それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]