遊びをせんとや

人生総決算!のつもりで過去・現在のことなどを書きます
といっても肩肘はらずに 楽しく面白く書きたいと思います

永井荷風#13『帰国後 明治41年から大正12年関東大震災まで』

2024年02月14日 | 日記

断腸亭にて

荷風が帰国したのは 1908/M41年29歳の時 
今日はその後 関東大震災までの荷風の足跡を追ってみる
既に述べた女性については言及せず 荷風の住家・飲食・趣味等を中心に

【なりわいのこと】
慶應義塾大学文学科教授を1910/M43年31歳から37歳まで勤める※
 ※森鷗外・上田敏の推薦による
教授を辞めた後は 雑誌「三田文学」主宰も降りて文筆一本で生活する

【住まいのこと】
1908/M41年29歳 帰朝し実家に住む
 牛込区大久保余丁町(現・新宿区余丁町)※
※「監獄の裏」に家があったらしい 青空文庫「監獄の裏」にリンク
他にも生家に触れた作品あり 幼少時を書いた青空文庫「狐」にリンク
1913/T02年34歳 父・他界し家督を継ぐ※
1915/T04年36歳 築地一丁目の借家に移転する(八重次と離婚後)
1916/T05年37歳 大久保余丁町の本邸に戻り一室を断腸亭と名づけ起居
1917/T06年38歳 木挽町九丁目(現銀座7丁目)に仮住居 無用庵と名づける
日記の執筆を再開する ※「断腸亭日乗」の始まり

1918/T07年39歳 大久保余丁町の邸宅を売却 京橋区(現中央区)築地に移転
八重次と焼棒杭に火 彼女の家(現銀座7丁目)に住む
下線部→こちらのサイト参照(無用庵と同じサイト)

1920/T09年41歳 麻布区(現港区)市兵衛町一丁目の偏奇館に移転

偏奇館



参考:青空文庫「断腸亭日乗」へのリンク

1923/T12年  44歳 帝国劇場で来日演奏したクライスラーのVnを聴く
 9月1日 関東大震災発生
当日の日乗の記録~原文の文語体を口語体かつ超要約記述
<雨やむが風がなお強い 昼時に天地鳴動する 
書棚の下で本を読んでいたが 頭上に本が落ちて驚き 立って窓を開ける
外は塵や埃で濛々として 女児や犬が泣き叫ぶ 
逃げ出す準備の間も余震が度々 庭に出たが 舟上のように体が揺れる
門に掴まり家を振り返る 屋根瓦が少し滑り落ちたが窓は無事でホッとする
昼食を食べに表通りのホテルに行く 食堂の壁が落ち食卓は外で客は僅か
食後家に戻ったが中に入れず庭で怯えるばかり 夕方に晴れて半月が出た
ホテルで夕食後 愛宕山に登って市中の灯りを見た
家に帰ろうとすると 赤坂溜池の火が既に葵橋まで来ていた
河原崎長一郎の一家が来て庭に泊まる
火は霊南坂を上り 家から一町ほどで止まった>

以上が震災当日の日記で 今日はここまで
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

永井荷風#12『荷風と音楽#3 フランス物語』

2024年02月13日 | 旅行
リヨン歌劇場(現在)~荷風が行ったのは旧歌劇場で今は存在しません

ちょっと寄り道のつもりが、永井荷風の話も10回を超えた
まだまだ続きそうなのでタイトルを変えて気分転換

荷風はアメリカで4年ほど過ごした
その結果 実業もアメリカ文化も自分の肌に合わないことを知った
もともと行きたかったのはフランス 語学校に通ってフランス語を習う
パリ行きを決意し父に頼み込んだ

1908(M41)年 31歳 
7月 父のコネでフランスの横浜正金銀行リヨン支店へ転勤
1909(M42)年 32歳
3月 銀行を辞め2か月ほどパリで遊ぶ
7月 帰国し神戸に到着 8月 「あめりか物語」刊行
1910(M43)年 33歳
3月 「ふらんす物語」 刊行 発売前に当局から発売禁止処分※される
※「放蕩」と「春の夜がたり」が風俗紊乱に当たるという理由らしい 

 「ふらんす物語」 の章立ては以下のとおり
舟と車 ローン河のほとり 秋のちまた 蛇使い 晩餐 祭の夜がたり
霧の夜 おもかげ 再会 ひとり旅 雲 巴里のわかれ 黄昏の地中海
ポートセット 新嘉坡(シンガポール)の数時間 西班牙料理
橡(とち)の落葉:この章だけ小見出しがある
 橡の落葉の序 墓詣 休茶屋 裸美人 恋人 夜半の舞踏 美味
ひるすぎ 舞姫

以下 つまみ読みでいつもの超要約記述 <>で括る
 
「祭の夜がたり」は荷風がパリの売春婦にハマった話 発禁の原因と推定
<フランスの女には云うに云われぬ魔力がある
 何気なしに話をするー散歩するー手を握るー身体を摺寄せるー凭せ掛けるー
知らぬ間に引込まれる
そして翌日 家へ帰って莫迦な事をしたと気付く
気付きながら 悔いや怒りは起きず 馬鹿な事をまた繰返したくなる・・・
僕は3日間で1か月の生活費を消費したが まだ遊びたかった

荷風は決心する
フランスの女には手を出さない 詩人となってフランスの美しい山水に酔う
プロヴァンスを訪ね 古城を仰ぎ ギターの調べを聴きながら・・・
しかし想い浮かべるのは女の熱い胸と乳
やがて とある家の女性に呼び込まれる 他に男がいるのを知りながら
一日、二日と日を伸ばし、四日目の朝なお未練を残したまま汽車に乗った>

「巴里のわかれ」
<中学校の時以来 何となく仏蘭西が好き 英語よりも仏語に魅かれた
現実に見た仏蘭西は美しく優しかった 自分はそのために生きて来た>
その巴里を離れた荷風に ロンドンは陰鬱だった
<夕食の時刻 大柄な女中は口が「へ」の字に大きく 顎が突き出 頬骨高く
眼が深く窪み 日本の般若か ドイツの魔法使いの婆のようだ
Will you take dinner? 𠮟りつけられたようで返事ができなかった>
 
「黄昏の地中海」
船で葡萄牙(ポルトガル) 西班牙(スペイン)沿岸を南下
アルジェリアの陸を眺めながら 荷風は歌を唄いたいと思うが歌えない
※全曲は長いので最初の歌の部分だけでもどうぞ
(荷風はこんな歌を歌うつもりでいたのか・・・)
トリスタンの幕開きの歌などもメロディーが出て来ず つい慨嘆する
日本人に生まれたら自国の歌しか歌えないのか・・・>

ポートセット 知らない地名が出て来た Wikipediaにリンク

「ふらんす物語」は青空文庫化されていない
荷風がリヨンの歌劇場で聴いて ぞっこん惚れ込んだ歌
探したが 残念ながら見つけられなかった

それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]

ちょっと寄り道散歩道~永井荷風・断腸亭日乗その5~荷風と音楽」

2024年02月12日 | 音楽


一昨日 川上音二郎一座のことに触れた
忘れないうちに 彼と貞奴との興味深いYoutube動画があったので共有する


荷風の若い頃の年譜を見る
1896(M29) 17歳 荒木竹翁について尺八を稽古
1899(M32) 20歳 落語家六代目朝寝坊むらくの弟子となる
三遊亭夢之助の名で席亭に出入りする 父の反対で修行断念する
1900(M33) 21歳 歌舞伎座立作者福地桜痴に入門 拍子木入れの勉強を始める
1901(M34) 22最 日出国新聞に入社し雑誌記者となる
半年後に解雇され フランス語の初歩を学ぶ 
1903(M36) 24歳 9月 父に勧められ渡米する

あめりか物語
 以下 帰国後に書いた「あめりか物語」~青空文庫は未掲載
 <>内に超要約記述する
 ・船室夜話 (・は章見出し 以下同様)
 <横浜から船に乗りシアトルへ 半月余り海また海 
  乗り合わせた柳田と岸本と知合い 無聊を慰め合いながら過ごす
  柳田は実業家で目的は米国での儲け仕事探し 岸本は妻子を残し勉学>

・野路のかえり
<荷風はタコマに滞在する (タコマを知らなかったのでWikipediaにリンク)
荷風は友人と二人で晩秋の広野に自転車を走らす
連山の上に 日本人がトコマ富士と呼ぶレーニア山が燦然と聳える

友人はこの地の癲狂院を案内 出稼ぎの日本人も収容されている
彼らは外国で働く3年の辛苦が 帰国後の裕福な10年を得る楽の種という
しかし この世は世界のいずこへ行こうとも皆な同じ苦役の場所である
わたしは寂寥を感じ 松の森林は暗澹として奥深いように思われた・・・>

ところで この調子で続けたら 私は超要約記述で残りの人生を終えそう
荷風はその後 シカゴ セントルイス ハイランドを巡る

年譜へ戻って
1905(M38) 26歳 6月 ニューヨーク到着 
7月からワシントンの日本公使館で働く(父の口利き?)
12月から父の配慮で東洋銀行(※)ニューヨーク支店に勤務 ※物語上の名

 物語に オペラという言葉が最初に出て来るのがこの頃
 <最初に聴いたのが会社の同僚の家族と一緒にミュージカル・コメディ見物
場所はブロードウェイ 主役はドイツ女性 容貌よりは好い喉だ>
<B博士とオペラを談じた時 
私は素人ながらワーグナーのタンホイザーが忘れ難いと思った>

今日のタイトルは荷風と音楽
しかし この「あめりか物語」には 伊仏独のオペラは殆ど出て来ない
といって シカゴでジャズの話が出て来るわけでもない
メトロポリタン歌劇場の誕生は1883年 荷風も知らなかったと思えない
もっとも「あめりか物語」の全章は すべて女性が主役の話である

<われは君を愛す ローザが腕よ ローザが胸よ ローザが腿よ
ローザが肩よ おおローザ・トリアニ 
リヨンのオペラ座 第一の舞姫 ローザ・トリアニ>
と荷風が絶叫(絶書か?)するのは 次の「ふらんす物語」を待たねばならない

それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

ちょっと寄り道散歩道~永井荷風・断腸亭日乗その4~荷風の子ども?」

2024年02月11日 | 日記

 藤蔭静樹の写真を探していたら 新聞記事の画像があった


内容を読んで へ~っ そうなんだ!
因みにウィキペディアには <妻・八重次、養子・永光>と書かれているが
略系図に八重次の名は無い・・・

記事にある論文を探して読んで見るか 
と思ったが 読んでどうなるものでもない 代わりに藤蔭流のサイトを見た
荷風と静枝の子は<兄弟の下に養子に出されています>とあった

ならばと再びウィキペディアで藤蔭静枝(静樹)・・・兄弟名無し・系図無し
BARDウォッチングと行くか・・・やめておこう!
そう言わずに 生成AIで芥川賞でも狙ってみたら?

冒頭記事は 静枝の生まれ故郷の地方紙(新潟日報)である
他の記事もアーカイブされてないか? 一応検索してみたが無し
図書館 歴史館 美術館 観光案内 新潟市・・・色々と検索

新潟劇場が満員になった とあるが 大正9年の旧い話
調べたら開館が大正9年 こけら落としの公演か?
新潟新聞なんてのもあった・・・調べると社長が坂口仁一郎(安吾の父)だった

またまた地図で遊んでしまった
上記新聞の歌人・山田花作の歌碑もあるようだ(F1-24)
静枝を詠んだ歌にすればよかったのに・・・
吉井勇の雪の歌は知らなかった 碑があることも(F3-42)
<雪降らばゆかむと君にちかひたるその新潟に雪降るといふ>

今日は新潟巡りになってしまった
最後に重要文化財の「萬代橋」の絵(1886/M19)




それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

ちょっと寄り道散歩道~永井荷風・断腸亭日乗その3~藤蔭静樹」

2024年02月10日 | 日記
 
1880/M13)ー1966(S41) 永井荷風は1879/M12)ー1959(S34)

妓楼巴家の八重次が藝者をやめ踊師匠となったのは大正8年40歳の時
彼女は何度も名を変えているが タイトルは藤蔭静樹とした
今日は彼女の人生を概観する

1880/M13)
新潟市の古町で寿司屋の次女として誕生(本名:内田ヤイ )
町内の置屋庄内屋の養女になり 女主人に可愛がられて育つ
※明治末期の新潟には置屋100余 芸妓・娼妓600ほど 古町には最大の花街
幼少時から三味線・踊りを仕込まれ 寺子屋に通って読み書きを習う
12歳で庄内屋の人気舞妓になる

1898(M32) 19歳の時に上京
翌年 女役者・市川九女八に弟子入り 佐々木信綱門下にもなり短歌を学ぶ
22歳の時 欧州帰りの川上音二郎一座の「オセロ」公演で明治座出演
同年 日舞を習うため藤間流家元勘右衛門に入門する

川上音二郎と妻・貞奴

1910(M43) 30歳で藤間流名取となり藤間静枝と名乗る(歌人でもこの名)
<浄らかに朝顔咲きぬ露の間の玉ゆらをだに命を舞はむ> 藤間静枝
帰郷しないため実家から仕送りを止められ 新橋から芸者に出る 
(芸妓名:元巴家八重次)
そして慶大教授にして稀代の放蕩男荷風と出会う 

1913(T02) 二人は結婚するが 翌年には別れる
・・・荷風の放蕩に愛想が尽きた静枝は「三行り半」を書いて家を出る
荷風は 三行り半については触れず 焼棒杭どうのこうのと日記に残す
静枝も 後年「別れるんじゃなかった」・・・と言ったと伝えられている

その静枝の男関係を 荷風は断腸亭日乗に書いているという
手元にある文庫本には その日付近辺はかなり飛ばされている 残念!
どうやら静枝の男性関係もまた かなり跳んでたらしい

1917(T06) 現・芸大教授和田英作(※)の後援で「藤蔭会」第1回公演を行う 
※以前このブログでも紹介した洋画家
  その後 新進の芸術家たちを次々とスタッフに加え 斬新な舞台を上演

1921(T10) 40歳 新舞踊団体として再出発 童謡舞踊・新民謡運動を始める
2年後 麹町に藤蔭会本部創立 中山晋平らと 童謡運動で全国を巡業
この頃 若い男性と浮名を流す 皆20歳代半ば 荷風で爺さんに懲りた?

1928(S03) 48歳 シベリア鉄道経由でパリへ行く 吉屋信子とロンドン旅行
 翌年パリ在住の画家らの企画により Théâtre Feminaで公演して帰国
 帰国後 舞踊はクラシック音楽など取り入れて先鋭化する

1931(S06) 藤間流家元から 藤間の名前を返上しろと抗議される 
「藤蔭流家元藤蔭静枝」を名乗り、日本舞踊協会から脱退する
しかし 戦火激しくなり 前衛舞踊の取締りも強化 前衛の火も消える

戦後を駆け足で
1953(S28) 第1回舞踊芸術賞受賞
1959(S34) 永井荷風他界
1960(S35) 紫綬褒章受章
1964(S39) 舞踊家として初めての文化功労者に選定
1965(S40) 勲四等宝冠章受章
1966(S41) 86歳で他界
 
日舞から出た前衛舞踊とはどんなもの?
Youtubeで探したが見つからなかった

新潟の古町も懐かしい 花街と縁があったのではないが・・・

今日の最後 
断腸亭日乗の何年だったか忘れたが 「私みたいな子孫を残したくない
だから避妊の措置をせず 事に及んだことは無い」旨の記述があった 
なるほど それで養子を貰ったのか・・・

ところが 静枝のことを調べていたら 彼女が荷風の子を産んだ話があった
ほんとかい?・・・その話を次回に載せたい
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]