終活は甚だ難き太閤忌
(・・・・夢のまた夢と詠んだ辞世の句、抜け目なき策略家も死後のことは難しかったようです)
豐臣秀吉の1598(慶長3)年8月18日の忌日。
享年61。「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」の辞世を残した。
初め木下氏で、後に羽柴氏に改める。
皇胤説があり、諸系図に源氏や平氏を称したように書かれているが、近衛家の猶子となって藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓されて本姓とした。
尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされている。
当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、従来にはない斬新な奇策や政策で次第に頭角を現した。
信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、清州会議で信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。
大阪城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。
天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。
理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。
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太閤さんは生きている時は策略家だったけれど・・・。
人間、総括が大事かな?と思います。
高齢者の仲間入りをしている私、残念ながら考えていません!
息子や孫に迷惑をかけないように心がけていますが・・。
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