【虫の目の世界】
— 川上 善久 (@zen_kawakami) 2018年6月16日 - 20:48
今日、テレビで「虫の目の世界」の話を観ました。
それで、高校時代の「記憶」を想い出しました。
eye-media.jp/entertainment/…
5月20日の tweet で、私は中学生時代にデカルトの思想に関心をもった話を書いた。この話には「続き」があるので、忘れない内に書いておこう。
— 川上 善久 (@zen_kawakami) 2018年6月16日 - 13:39
出発点は、「我思う、故に我あり」と云う、かの名言に始まる。
この名言のおかげで『私』という「主体」の存在の確実性を『自覚』した私であったが、「主観」すなわち「自分の認識する世界」の正確性については、未だ懐疑的な立場の内にいた。
— 川上 善久 (@zen_kawakami) 2018年6月16日 - 13:40
本当に私が感じている「世界(客体)」は、私が知覚しているとおりの「世界(客体)」なのだろうか?
— 川上 善久 (@zen_kawakami) 2018年6月16日 - 13:41
私の感覚、つまり視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚は確かか?
いったい、どうすれば、この疑問を確かめられるのだろうか?
当時(中学生時代)私は子供の頃から「目が良い」(左右の視力は各々2.0と1.5)と言われて来たので、特に視覚について考えていた。
— 川上 善久 (@zen_kawakami) 2018年6月16日 - 13:43
「赤いリンゴが在る」
でも、私が見ている『赤』は、他人(または神様)が見ている「赤」と「同じ色」なのか?
本当は「黄色」ではないのか、それを私は生まれて以来『赤』と教えられて勘違いしているのでは。。。?
— 川上 善久 (@zen_kawakami) 2018年6月16日 - 13:43
いつしか、そんな「とりとめの無い思い」が、私に『絶対性』(神の視点)と『相対性』(主観的視点)と云う考えに思い至らせた。
— 川上 善久 (@zen_kawakami) 2018年6月16日 - 13:45
小学生の時、本で読んだ「ヘレン・ケラー物語」を思い出した。
— 川上 善久 (@zen_kawakami) 2018年6月16日 - 14:14
彼女は「三重苦」と云われるが、視覚と聴覚の重複障害者(盲ろう者)であった。しかし、生まれつき聴覚障害があると「発声」の習得が難しい。
サリヴァン先生は、「指文字」によって… twitter.com/i/web/status/1…
もうひとつ覚えているのは、『ジョニーは戦場へ行った』という映画を見たことである。主人公は戦場で敵の砲弾を避けようと塹壕に飛び込むが、目(視覚)、鼻(嗅覚)、口(言葉)、耳(聴覚)を失い、運び込まれた病院で、壊疽して機能しない両腕、両脚も切断されてしまう。
— 川上 善久 (@zen_kawakami) 2018年6月16日 - 14:22
首と頭をわずかにしか動かせない主人公は、今がいつで、どれだけ時間が経ち、自分はどこにいて、誰がそばにいるのかを皮膚感覚で察知しようとする。
— 川上 善久 (@zen_kawakami) 2018年6月16日 - 14:36
彼の意識は現在と過去の間をさまよう。実際には過去にも無かった数々の空想の出来事の世界に身を置き、そしてまた現実の「孤独と暗黒」の世界に戻る。
この話の主人公には『意識』があるのだが、外界とのコミュニケーション手段が無い。
— 川上 善久 (@zen_kawakami) 2018年6月16日 - 14:46
映画の後半で、自らの意思を伝える手段としてモールス信号を使い、優しい看護婦とのコミュニケーション手段を獲得するのだが、彼の望みを聞かれると、ただ「殺してくれ」とだけモールス信号で訴える。。。
実は、私はこの話のストーリーを、今まで忘れていた。
— 川上 善久 (@zen_kawakami) 2018年6月16日 - 15:05
深く心に刻まれた映画であったのだが、今まではっきりと覚えていたのは映画のタイトルだけである。中学生の私には「恐ろしすぎた」のだと思う。
youtube.com/watch?v=ivYr8t…
「我思う、故に我あり」
— 川上 善久 (@zen_kawakami) 2018年6月16日 - 15:18
しかし、「唯、思う」だけの「我」は、何と孤独な存在であることか!!
それは「真実」であるかもしれない。
でも、ただ「それだけが真実である世界」は嫌だと強く想った。
でも、幸いなことに、私は若かった。
— 川上 善久 (@zen_kawakami) 2018年6月16日 - 15:35
家族もいれば、親友と呼べる友達も多かった。
人生は可能性に満ちていたし、今から想えば、それはバラ色に輝いていた!
「人間にとって、『客観性』とは何なのか、それはどの様にして可能か?」
— 川上 善久 (@zen_kawakami) 2018年6月16日 - 15:52
ますます、そんなことを考えてみる様になった。
また、小2の時に箒を抱えて「ザ・タイガース」のものまねをして遊んでいた私は、この頃本格的にクラシック・ギターを習い始めた。
確か中3の頃には、フォークギターも持っていたし、エレキベース(電ベ)も持っていた。今想うと、ヘタッピのくせに贅沢である。家はそれほど金持ちではなかったはずである。
— 川上 善久 (@zen_kawakami) 2018年6月16日 - 15:52
本屋で、アインシュタイン博士の『我が相対性理論』に出会ったのは、そんな頃の話である。
— 川上 善久 (@zen_kawakami) 2018年6月16日 - 15:57
⇒ blog.goo.ne.jp/ayakikki/e/753…
ついでながら、高校生になって、同じ本屋で『ゲーデルは何を証明したか―数学から超数学へ』も買った。
— 川上 善久 (@zen_kawakami) 2018年6月16日 - 16:26
⇒ amazon.co.jp/%E3%82%B2%E3%8…
先のアインシュタイン本と同じ棚に並んでいたから、「『超数学』って何や?」とい… twitter.com/i/web/status/1…
こちらは社会人になってコンピュータ・サイエンスに関心をもつまで「積ん読」状態であったが、少なくとも高校生時代には「ヒルベルトの公理論」の延長線上にある「重要な定理」ぐらいには理解していた。。。と思う。
— 川上 善久 (@zen_kawakami) 2018年6月16日 - 16:36
ちなみに『超数学』とは『メタ数学』の意味である。
いきなり「ヒルベルト」が登場して、話に脈絡が無くなったが、先のゲーデル本に挫折した私は、もう少し平易な、大学教養レベルの数学本が欲しくて、
— 川上 善久 (@zen_kawakami) 2018年6月16日 - 16:55
『数学序説』
amazon.co.jp/%E6%95%B0%E5%A…
『数学とは何か』… twitter.com/i/web/status/1…
これら4冊の専門書を高校時代に読んだのは、個人的にとても幸運な事であったと想う。誰かに薦められて読んだのではない。「いつも行く本屋」の片隅に並べてあったのである。どれも良書ばかりだ。けっして大書店では無く、「ただの田舎の小さな本屋」なのに主人の眼力に敬意と感謝の念でいっぱいだ。
— 川上 善久 (@zen_kawakami) 2018年6月16日 - 17:08
この様な経験はネット書店では、けっしてあり得ない。
— 川上 善久 (@zen_kawakami) 2018年6月16日 - 17:12
リアル書店ならでは価値である。眼力のある本屋の親父は社会的財産なのだ、と実感する。
これら4冊のおかげで、私はようやく「数学は言語である」事を理解した。
— 川上 善久 (@zen_kawakami) 2018年6月16日 - 17:28
そう、国語や英語と同じ「コミニュケーションの道具」である。
「現実の存在」というよりは、「人間の思考を伝える人工物」である。
しかし、この様にして私は数学への関心を急速に減じた。私の関心は「客観的な世界」なのだ。