Adam Smith, 1723-1790年
> 今回は、
近代経済学の祖-アダム・スミスのお話ですか。
> 前回話した、
マクロ経済学の父はケインズでしたよね、Bro?
その通りですけどね、でもむしろ私は過去の偉大な経済学者達の思想を、一旦
忘れて欲しいのですよ。
「人は皆、経済学者である」と前回タイトルの副題に書きましたが、
偉大な思
想家達の主張を鵜呑みにする事は、反って現状理解の妨げにもなりますから。
前回は、
「需要と供給」と云う表現をなるべくしないで、
「資金量と資源量」と
云う概念を使って寓話を説明したのも、その様な意図からです。
▼◇なぜマクロ経済学が必要なのか?~人は皆、経済学者である
http://blog.goo.ne.jp/ayakikki/e/defbcdb96906391ac59cd13a14187434
> 成程、そう言えば
「持続可能な経済」などと云う言葉は、
ケインズの書物に
> は出てきませんね。
> 一方で、
「デフレ経済下の二重構造」の話などは、
マルクスの「階級分化」を
> 彷彿させるものがあります。
端的に言って、
ケインズの時代は未だ「金本位制」で貿易を行っていた時代な
のです。従って、世界全体の貿易額は
「金の保有量」と云う「資金量」の制約
を受けていました。勿論、金と通貨の交換レートである
「平価切上げ・切下げ」
の問題は、為替相場の変動問題に帰着します。
> 現代の
変動為替相場制の様に、日々乱高下するものではない訳ですね。
>
通貨供給量の問題を複雑にするのは、為替相場の変動があるからだし…。
>
マルクスの時代には、失業保険も生活保護も無いですしね。
ところが、驚くべき事に、最も古い
18世紀のアダム・スミスの経済思想は、
21世紀の現代でも大いに健在なのですよ。
米大統領選での
オバマ大統領とロムニー候補の論戦を見ても、
共和党のロムニ
ー候補はアダム・スミスの主張を繰り返しています。
>
レッセフェール(自由放任)と「小さな政府」論ですね。
>
「神の見えざる手」に導かれて、自由市場は自律的に均衡するとアダム・ス
> ミスは考えていましたね。
19世紀になって、アダム・スミスの経済思想を数学モデルを用いて集大成し
たのがワルラスです。彼の
一般均衡理論は、アダム・スミスの言う「神の導き」
を数学モデルを使ってより美しく表現したので、
信心深い学者は数学モデルの
中に「神の声」を聞くようになりました。
これ以降、
経済学者には「不況に喘ぐ失業者の声」は聞こえなくなったのです。
>
「神の見えざる手」は、あくまで比喩であって、自然の法則を表現したもの
> でしょう?
18~19世紀の西欧の人々にとって、「自然の法則」とは「神の意志」の事な
のです。だから、神が示す「普遍的な真実」なのだと考えられていました。
20世紀初頭のアインシュタインでさえ、「神はサイコロを振らず」と言って、
量子力学の不確定性を認めようとしませんでした。
確率的な要素と云うのは、あくまで人間の知識不足に由来すると信じていた。
> もしや、
「神の見えざる手」には確かな科学的根拠など無いの?
そもそも、
市場原理は「自然法則」ですらなく、むしろ「心理法則」とか「道
徳法則」に近いものです。
> そう言えば、
アダム・スミスには、有名な
『国富論』以前に、
『道徳情操論』
> と云う著作が在りますね。
『国富論』があまりに有名なので、忘れていますが。
そう、
『道徳情操論』で
アダム・スミスは、
「公平な観察者の視線」云わば「神
の眼」が、人間の行動に規律とモラルを与えると云う意味の事を書いています。
「理性的な人間」つまり「合理的な経済人」がレッセフェール(自由放任)の
思想の前提として在る訳です。
> では、
市場原理主義者の
ハイエクの「反理性主義」とは、前提が異質ですね?
そうですね、
『国富論』はアメリカ独立の年に出版されて大好評を得たらしいで
すが、おそらく
政府の経済干渉を嫌うレッセフェール(自由放任)の思想が、
イギリスから独立を勝ち取った、自由の国アメリカの人々の心情を掴んだので
しょうね。
アダム・スミスのレッセフェール(自由放任)はアメリカに渡って、
よりリバタリアン的に変質したのかもしれません。
> でも、
「市場原理」の根底にキリスト教的な合理的道徳価値観が在るのだとす
> れば、これを一般化して現代の日本経済に適用するなどは危険ですよね?
そもそもキリスト教国でもない日本では、貧しい人々の救済のために、自主的
に寄付をする様な慣習などは根付いていないでしょう?
この様な
道徳的価値観が無いまま、
「小さな政府」論だけ「好いとこ取り」して
も、弱者切捨ての殺伐とした社会にしかならないはずです。
それは、本来の
アダム・スミスの思想とは異なります。
> う~ん、そうですね…。
ここで再度、例え話を一つしましょう。
小さな島に
無一文の「失業者」と、
販売不振に悩む「たこ焼き屋」と、
大金を
蓄えて別荘暮らししている「資産家」が住んでいるとします。
小さな島の経済は
不景気です。
> 「資産家」は「たこ焼き」を食べないのですか?
彼は別荘で自炊していて、「たこ焼き」は嫌いなのだと仮定して下さい。
> では、この島の経済は成立しませんよね。
> あっ、そうだ、「資産家」がキリスト教信者で、
「失業者」に寄付を与えれば、
> 彼は、そのお金で「たこ焼き」を買って食べられます!
「失業者にお金を与える事は、彼の
労働意欲を損なう」と、「資産家」は考えて
います。
> じゃ、失業者は「たこ焼き屋」で雇ってもらうしかないですね。
> でも
販売不振では、「たこ焼き屋」も人は雇えないか...?
> これでは、全くのお手上げです!
では、この島に
「お役人」を派遣しましょう。
彼には、島の
経済活性化のために、政府の全権が与えられています。
> おっ、それでは早速、
失業給付金を支給しましょう。
> これで「たこ焼き屋」も、商品が売れますね!
でも、
「お役人」には政府の全権があっても、お金はありません。
> えっ、
お金は「資産家」の所にしか無いのなら、ここに
課税して取上げるし
> かないですよね、でも突然現れて乱暴だなぁ...!
まぁ、当面は
国債を発行して
「資産家」に引受けてもらう事にしましょう。
> でも、
いずれ課税しないと償還できませんね。
> そうだ、「たこ焼き屋」は
売上を得たので、税収があるはずですよ。
いずれにしても、
給付金から発生した税収では、国債の償還はできません。
仮に「たこ焼き屋」の売上の全額を納税させても、国債の金利は払えませんか
らね。
> やはり、
消費需要ではなく、
投資需要を発生させないと経済発展は無い!
> でも、
「資産家」が当初から投資していれば、「お役人」は要りませんね?
不景気で、それが無いから
「お役人」が派遣されたのですよ。
まず、島の
インフラ整備を
公共事業として行いましょう。
「たこ焼き屋」の便宜のために漁港を整備します。
再び国債を発行して、「資産家」に港湾整備事業を発注しましょう。
>
「資産家」に「失業者」を雇用させる訳ですね。
>
「失業者」は職を得て、これで安心して「たこ焼き」を食べられますね。
>
「たこ焼き屋」の販売不振も、これで解消します!
>
「資産家」は、事業利益が得られるはずだ。
漁港整備が完了すれば、「たこ焼き屋」の
生産性も向上するはずです。
「お役人」も、全員から所得税と消費税を徴収できます。
> でも、この島で流通している資金は、元々全てが
「資産家」の貯蓄していた
> お金ですから、結局、
国債の償還には足りませんよね?
> 償還期日が来たら
デフォルトしてしまいます。
「お役人」に
通貨発行権が有れば、
経済成長に応じて通貨供給を増やせば良い
のですが、無ければ、
再度国債を発行して借り換える事になるでしょうね。
> 何か、
経済成長と伴に、国債発行残高が増えて行きそうですね!
>
国債発行残高には、
制約条件が必要な気がしますけど?
名目GDPと通貨供給量と国債発行残高の間には、一定の関係が在ります。
これを管理するのが、
日銀の役割なのです。
あと、
国債を発行して漁港を整備した訳ですから、これらの
資産価値の評価が
大切でしょうね。
> そうか、
「円建て」で国債発行している限り、デフォルトは原則在り得ませんでし
> たね。
> 後は
「港湾整備村」とか、
「バラマキ」とか非難されなければ、
「お役人」の
> 任務は完了ですが...。
最大の問題は、「それ」なのです…実はね!
▼クルーグマン「財政出動と金融緩和が必要」(ノーベル賞学者) 2012/4/30